【奴国】王族の宝物を展示 須玖岡本遺跡で出土、4点が春日市指定文化財に /福岡 [ごまカンパチ★]
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https://mainichi.jp/articles/20210515/ddl/k40/040/346000c
春日市の須玖(すぐ)岡本遺跡岡本地区で出土した重要遺物4点が市指定文化財になったことを記念する
王族の宝物の展示会が市奴国の丘歴史資料館で開かれている。30日まで。
市北部の須玖遺跡群(弥生時代中期〜後期)は奴国の王都だったとされ、王や王族など有力者の墳墓、青銅器生産の工房などが確認されている。
会場には岡本地区20次調査(2014〜15年度)で出土し、市文化財に指定さ…
※無料部分ここまで
関連スレ
【考古学】海の倭人「海人(あま)」はどこからやって来たのか 幻の大陸スンダランドからやってきた海人たち [ごまカンパチ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1620946813/ >>6
やや内陸部
奴国の都付近の遺跡からは海洋系の遺物はあまり出土しない
農具や青銅製の武器とかが多くて内陸の農耕国家だった模様 当時大陸からもたらされた大豆の収穫が中心だった
豆を煮てすり潰して、にがりを加えて絹布か木綿布で濾したものを固めて作る
これを冷やして食べるものを奴国にちなんで「冷奴」という
削り節と醤油をかける習慣はまだずっと先、この頃はネギ塩だった
あ、ここ出るけど書くなよ、恥かくだけだから >>7
ワタツミ(海人)族は古代の博多湾沿岸が本拠地 >>1
福岡博多・宮城仙台■4K空撮360°パノラマ■街並み比較
https://youtu.be/BjJ-9xDbhPA
iohuy 阿曇族(あずみぞく)、海人津見(あまつみ)とも言い、大陸から稲作技術をもたらした海洋航海に優れた一族である。 >>9
海人族はどちらかというと隣の伊都国が本拠地だったらしいね
魏志倭人伝でも卑弥呼宛ての書状や下賜品は伊都国で一度検品してから転送していると書いてあるし
海運の国だったんだろう
弥生の準構造船の部材発見/九州初、福岡県前原市
http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20040824000074
> 福岡県前原市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で、弥生時代終末期(2世紀末から3世紀初め)の準構造船の大型部材が見つかり、
> 同市教育委員会が23日発表した。準構造船の出土は九州で初めて。市教委は
> 「魏志倭人伝に記された伊都国(いとこく)の朝鮮半島や国内各地との交流のあり方を探る上で貴重な資料」としている。 >>15
この前見た別スレによると、倭人伝に記されている位置関係から計算したら早良あたりまでは伊都国らしい
181 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/08(土) 07:06:35.29 ID:kb14TuV50
早良が独立した王国だったのではなくて、そこは海洋文化の伊都国の一部だった
魏志倭人伝の記述によると、伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、
奴国の都である春日市の春日丘陵からの距離を考えると西新町遺跡(福岡市早良区)あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない
当然早良も伊都国ということになる
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
奴国の王墓が見つかっている春日市の須玖岡本遺跡はやや内陸で農耕文化 たまには黄金のマスクとか
金で出来た天の浮き船とか出れば
観光収入も上がるのにな 奴国の領域ってどのあたりまでだったんだろう?
志賀島で漢委奴国王印が発見されてるから、少なくともその辺までは王国領土だよな。
当時の春日市が日本の地方国家を代表して漢と貿易してたとか胸熱だな、 奴国の領域は博多湾周辺で、
安曇族は西日本各地に既に進出しており、
大和には物部氏の祖先が降臨していた。 朝鮮半島南部の金官伽耶は拘邪韓国と呼ばれ、
倭の領国であった事が分かっており、
近年、両地域で同じ重さの分銅が出土した事で、
ソレが証明された。 奴国は銅矛銅剣の一大生産地であり、
銅剣銅矛文化圏と呼ばれていた範囲は、
奴国の住人の安曇族の進出を示して
いるものと考えられる。
このうちの河内を通じて大和に
進出していった部族が、
物部氏の祖先であった。
この物部氏と天皇家が同じ高天原出身
である事を確かめ合ったと言うので、
高天原は奴国であり、博多湾周辺と
言う事が確定する。 >>34
博多湾近辺で銅製品を作るって材料の銅はどこから持って来るんだ? 🌊🌊🌊高句麗
🌊🌜←斉?🌊新羅
🌊🌊
>>35
どうだろ 海面上昇下降に合わせて
北に西にズレてるんだろう
そりゃ >>38
そこは大陸(おそらく越と関係深い)からやってきた海人族(ワタツミ)の宮だろうね。
博多湾沿岸に 奴国=農耕民 伊都国=漁労民 このふたつの勢力に分け、役割分担をさせていたがやがて衝突し、志賀島は乗っとられる。
一部の海人族は東へ逃げ延びたと思われる(この人たちが畿内で都を開いた後の天孫族)
争いは一人の女性(卑弥呼)を立てることでようやく終結 この時に北部九州邪馬台国と南九州狗奴国の勢力が分かれたか。
ワタツミ族は日本列島に来たのはいいものの、金印の価値がわかる人がいなかったので最初から箱に入れて埋めていた。
奴国系が熊襲 伊都国系が隼人 つまり、博多湾沿岸で起きた古代の争いごときでいつまでも争うなよってこと。 後に熊襲や隼人と言われる人たちも元々は同じ縄文系の人たち。
海の近くに住んでいたか、山の中に住んでいたか。
その違いでしょう。
たまたま博多湾沿岸に大陸からの亡命者が流れ着いて住み着いただけのお話。
もちろん熊襲も隼人、天孫を分けたのはその人たちであり、みんな博多湾沿岸周辺にいた人たちじゃないのかな。 ただ、勾玉(翡翠)は後に蝦夷と言われる人たちが持っていた技術と文化。
全ての文化と技術が畿内で融合し、結実したのが日本と言う国全体としての文化の始まりだと思います そういうことだからこれ以上、日本列島内部で無意味な権力争いはやめたほうが良い。 >>16
魏使は呼子付近に上陸したものと考えられるから
1里80mとして500里では40km、100里が8km
呼子付近から48kmでは日向峠や糸島峠くらいだから
距離からして早良区は奴国だ
春日市を奴国とするには遠すぎる。 >>44
それは魏志倭人伝の読み方が間違ってる
魏志倭人伝を含む東夷伝の各国間の距離は基本的に「国境線から首都までの距離」が書いてある
末廬国〜伊都国だけは道に迷わないよう上陸地点から書いてあるようだがね
例えば高句麗伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/gisi_kokuri.htm
「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下 方可二千里」
高句麗の位置が遼東の東1000里と記されているが、この距離は遼東と高句麗の国境から高句麗首都の丸都までの距離が短里で記されている
遼東の都襄平から丸都までだと230kmほどなので短里でも長里でも一致しないし、方可二千里は短里でなければ遼東をも飲み込んでしまうのでそもそも長里ではあり得ない
襄平起点だと東に短里1000里の地点は丸都から短里2000里近く離れているので高句麗領方可二千里が成立しなくなるから「首都から国境までの距離」というのも違う
高句麗伝の記載と一致するのは「遼東と高句麗の国境線から高句麗首都・丸都までの距離」一択
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/kokuri.gif
丸都は現在の集安市であり鴨緑江のほとりなのでこの図の高句麗版図のほぼ中央
方二千里の国土の中央なので遼東郡との国境線から丸都までの距離が千里ということ
上記を当てはめると奴国への東行百里は「伊都国と奴国の国境から奴国首都の春日丘陵までの距離」ということになる
>>16の通りってことだ >>45
魏志倭人伝の場合は魏使が実際に通った順路を説明しているのであつて
位置関係を説明しているのではないよ。 >>46
その言い訳は苦しすぎる
東夷伝の中で書き方が異なるというのは無理筋 >>47
基にした資料が全然違うんだよ
高句麗方面と倭では書いた人が違うんだろうな
倭人伝では順路で説明している
帯方郡の海岸から狗邪韓国の海岸まで
狗邪韓国の海岸から対馬国の北の海岸まで
対馬国半周・・・
国の中心や首都とか関係ない書き方だよ。 >>49
陳寿はそんな丸写ししかできないような無能じゃないよ
お前は根拠の無い妄想で自分に都合よく解釈してるだけ >>52
陳寿は出来るだけ多くの資料を取集し、基資料に忠実に書いているから
倭人伝では順路で説明しているからその通りに書いただけ
短里もそのまま、魏書の中に短里と長里が存在しているのも陳寿が基資料を尊重した証
勝手な改変は行っていない。 >>53
同じ東夷伝の中で基準がコロコロ変われば場所がどこなのか分からなくなるのは必定
そんなヘマをしでかす陳寿ではない
君は単に自説に都合の悪い事実から逃げているだけ 水稲作は板付遺跡
青銅生産は吉武高木遺跡
製鉄は「今山遺跡」あたりが興味深いね >>55
陳寿は現地を知らないんだから基資料に忠実に書くしかないんだよ
書き方を合わせようがないんだ
陳寿個人の解釈で基資料と変えると、解釈が間違っていたら嘘になる
慎重に正確さを期してる
自説に都合の悪い事実から逃げているのは君の方だね。 >>59
報告様式とて統一してあるに決まっているだろう
報告者によってバラバラな基準で報告されたら報告の意味がないからな
自説に都合の悪い事実から逃げているのは君だけ >>20
まじか!
あそこは遺跡といいながら手付かずのまま放置されてるよ
大丈夫? >>60
陳寿は短里もそのままにしてるんだよ
長里に計算し直したりはしていない
そもそも短里と長里の比も知らなかったと思われる
統一仕様にも現地を陳寿は知らないんだから統一の仕様がない
基資料に書いてある様に書くしか出来なかったんだよ
三國志は膨大な数の資料を基に書いているから一々統一した書き方に換える何て作業は不可能だよ。 >>55
行程を説明しているのに途中でルールを変えた方が場所がどこなのか分からなくなるよ
君は自説に都合よく屁理屈を述べているだけ。 >>62
全く見当違い
東夷伝がすべて魏本国では使用されない短里で統一されていることこそ
報告書の形式が統一されていたことの何よりの証
帯方郡・楽浪郡の管轄では全て短里が使用されているのだからこの地域で報告形式は統一されていたわけだよ >>65
途中でルールを変えたというのはどこの妄想だね?
最初からルールは統一されている
他の東夷伝と同じ
君こそ倭人伝だけルールが違うと根拠なく言い張ってるだけ >>68
倭人伝の場合は順路だから帯方郡の端から出発して狗邪韓国の端に着けば到
このルールが不弥国まで続き、国の端に着けば到、至となっている
国の中心地とか出て来ない
資料をかき集めて書かれた三國志に統一されたルールとか存在しないよ。 ぐるっと一回り
真っ直ぐ進んでたはずなのにハテ?
あ! 土人手法を途中で採用したんでしょうなw 資料をかき集めて書かれた三國志に統一されたルールとか存在しないし
東夷伝にも統一されたルールとか存在しない
各個人が書いた文章内だけに統一されたルールはある
一人の人が書いた文章で途中からルールが変わる事はないな
陳寿は参考とした資料の原文を重視してるんだ
東夷伝だけには統一されたルールがあるとか妄想だな。 >>70
根拠が一つもないただの空想ですね
>>72
その元資料は魏国時代の公文書なわけでね
公文書なのだから当然書き方には統一性がある
>東夷伝だけには統一されたルールがあるとか妄想だな。
だとしたら魏本国では使われていない短里で記述が統一されていることの説明ができない
こちらはちゃんと根拠を示して話をしている
妄想しているのは君だけ >>75
倭人伝内だけでも里数や日数で書かれていて全く統一されてないのに
東夷伝での統一とかないよw
>その元資料は魏国時代の公文書なわけでね
公文書なのだから当然書き方には統一性がある
個々の資料内では統一性があっても三國志はそれらの寄せ集めですから
文章毎に書き方はバラバラなんですよ
色々な書き方をしてる方が見方が変わって多くの事柄伝わる
魏国時代の公文書はそれぞれの基となった資料(報告書)だよ。 自分が埋めたものをいかにも発掘したとか言ってたおっさんて今どうしてんの? >>76
つか魏志倭人伝は口頭言語をそのまま文字化したメモ帳程度のモノなんだよなw
ガチで真相知りたいなら旧唐書いう旧唐書倭国と日本伝読めばいい超詳しく記載されてる >>76
だから、君の妄想通りだとすると魏本国では使われていない短里で記述が統一されていることの説明ができないわけ
日数の部分は倭人からの聞き書きだからそれしか情報が無いだけ
倭人は里程という概念を知らないからな
>個々の資料内では統一性があっても三國志はそれらの寄せ集めですから文章毎に書き方はバラバラなんですよ
公文書なのにバラバラなわけがない
実際東夷伝つまり帯方郡・楽浪郡の管轄範囲は魏の本国では使われていない短里で統一されている
帯方郡・楽浪郡の太守は魏の本国から赴任してきているのにそうなっているのは
帯方郡・楽浪郡では距離を短里で記すべしという統一がなされていたことの証拠
いい加減君は現実と向き合いなさい >>79
君は頭悪ない
東夷伝の記述が短里で統一されているのは単に東夷では短里が使われていたから
実際に短里を用いていたのは東夷を支配していた公孫氏だな
魏が公孫氏を滅ぼした時に押収した資料を参考に陳寿がそのまま書いたんだ
陳寿自身が短里だと気付いていたかは不明だが、おかしいと思っても原文に忠実に書いたんだ。 邪馬台国は山門八女と
もう結論は出ている、
終わった話。 >>80
頭悪いのは君だよ
司馬懿が公孫氏を攻めたとき高句麗は魏に援軍出している
公孫氏が東夷を支配なんてしていない
>魏が公孫氏を滅ぼした時に押収した資料を参考に陳寿がそのまま書いたんだ
東夷伝の一部である魏志倭人伝には公孫氏滅亡後の記事もあるわけだが
君の妄想は成立しません
残念でした >>83
君は相当頭が悪いな
高句麗を公孫氏が直接支配していたのではないが、高句麗は公孫氏の勢力圏にあった
高句麗等を調査して記録を残していたのも公孫氏だ
魏志倭人伝の公孫氏滅亡後の記事は張政等の魏使の報告書によるもの
新旧の記事があるのは当然だよ。 >>84
君は本当に頭が悪いな
高句麗は遼東と敵対していて勢力圏ではなかっただけ
>魏志倭人伝の公孫氏滅亡後の記事は張政等の魏使の報告書によるもの
君の妄想が正しければそのときに魏使は当然公孫氏の記録にある里程の数字が魏で使われる里程と全く合わないことに気づかなければおかしい
長里と短里では約5倍の違いがあるのだからどんなバカでも気付く
帯方郡は魏の支配下になったのだから君の説のように短里が公孫氏の記録にある数字ならば魏の里程と著しく異なるため当然修正するはずだがしていない
これは帯方郡が魏の支配下のときに帯方郡では短里が用いられていたから以外の理由付けはできず、君の妄想は完全に破綻している
繰り返すが、帯方郡・楽浪郡の太守は魏の本国から赴任してきているのに短里になっているのは
魏の管轄下となった帯方郡・楽浪郡でも距離を短里で記すべしという統一がなされていたことの証拠
いい加減君は現実と向き合いなさい 色々と形骸化してるの見抜くと
明白な証拠も少ない古代に関しては
学者の妄想とか馬鹿チョンの都合で決定してるのかなって思うわ こうやって西日本の地の利を生かして
被差別民の東北人とは違う!って捏造やら歪曲してんだろ?w この前も縄文人とアイヌが近いとかトンデモ理論展開して失笑されてたでしょ?w >>85
魏の1里は400mくらいだよ
魏の支配下の帯方郡・楽浪郡で何故短里を用いたの?
君の主張は説明が付かない
公孫氏の滅亡時に押収した資料を陳寿が参考にしたんだ
陳寿は東夷に来たことがないんだから何となくおかしいと思っても現地を知らないのだから修正出来なかったんだよ
君の考えは無茶苦茶だ。 >>89
>公孫氏の滅亡時に押収した資料を陳寿が参考にしたんだ
だったら魏の使者が倭国に行ったときに距離が修正されていなければおかしいと言っているだろう
君の主張こそ全く説明がつかない
君の言ってることこそ無茶苦茶 糸島市の「クイーンズヒル」とかいうゴルフ場には何かがありそうw >>86
教科書で未だに朝鮮半島経由の水稲伝来を記述するのはどうかな
とは思う >>90
魏の使者が倭国に行ったときは距離の測量は行わなかったので
日数の報告だけを行った
魏の使者が測量を行ったら魏の1里400mくらいで報告する
使者は毎回測量までは行わない
張政等の魏の使者は距離の報告はしていない
たまたま別途、陳寿が距離の記載のある資料を入手したが
それが短里で書かれていた
魏の使者は公孫氏の短里で書かれた資料の存在を知らなかったので修正も行わなかった
全て説明が付くが、魏の支配下の帯方郡・楽浪郡で何故短里を用いたかの説明は付かない。 司馬懿の功績を大きく見せるために東夷世界を大きく偽った
魏略も同じスケールで書かれてるから陳寿の発想じゃない
制詔文の大袈裟な喜びかた、大袈裟な返礼品から見て、司馬懿現役の時からの政治運動だろう
のちに司馬懿を大祖とする晋に雇われてた陳寿はそれを訂正できない
この誇張説は実は短里説と矛盾しない
部分的に短里による古い資料が残存し、それを参考に司馬懿グループが東夷世界を拡張して報告したなんてこともあり得なくない
外国から朝貢に来たら鐘をならしながら、どこそこのだれそれが天子様の徳を慕って朝貢に来たと街中で宣伝するらしい
そこで述べる倭国の姿が立派であれば皇帝も、切っ掛けを作った司馬懿も鼻が高かったろう >>95
三國志は司馬懿の死後に書かれており本人が東夷世界を大きく偽る必要もないし
時系列的にその主張は成立しない
公孫氏を討った時点で司馬懿は魏の実力者であり重大な犯罪の偽りの報告をする必要もないよ
短里と司馬懿は無関係。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています