>>205
第三節 救世主の出現

・・・基督の生涯に於ける或種の事情に、全然秘密めいた所がなかったかと云ふに、
必ずしも然うではなく、現に古代の伝説に執着した人々にとっては、基督は遠い遠い昔から、
言ひ傳へられた予言を充たすもののやうに現はれ、斯くて賢人達も、ベツレヘムの此の嬰兒を崇めようとして遠方から來たり、
又斯くて彼等が東の空に、~の星を眺めた時には、非常に悦びもしたのであった。
がいよいよ現はれて、彼の誕生がイスラエルの偉い人々や、高僧や、学者達のためではなく
却って羊を番する貧しい牧者達のためであることが判って、彼等の失望は譬ふるにものなき有様であった。

殊に平素自らを以て、神の寵児であり、人類の王であると、自惚れてゐた一般猶太人や、律法博士達にとりては、
其の絕望尚ほ更らであって、折角自分達のみの願ひを満たす救主と思ひ込んだものが、
今や却って自分達に背いて、賤しいもの、貧しいものの總てに、神の御恵みを與へようとするに及んで、
絕望は軈がて一変して憎悪となったのも固より無理はない。
此の間n消息を解するに非ずんば主イエスに對する学者やバリサイ(猶太古代の一宗派にて極端に伝説と形式を重んずるもの)
の徒の反感や、並に彼等に對してイエスが漏して居る非難やを、正當に判断することは出來ないのである

>>1
やべぇ基督と同じ事言ってるわ
ハクジン・自称ユダヤは近代に於ても日本人に”叱られた”