慶應と沖縄戦 激戦地への命令は1500km離れた豪華なキャンパスから…なぜ? [七波羅探題★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ヤフーニュース6/23(水) 12:20
https://news.yahoo.co.jp/byline/yonahasatoko/20210623-00244357/
1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終わった。76年前、地上では住民を巻き込んだ熾烈(しれつ)な戦いがあり、海上でも沖縄戦は繰り広げられた。沖縄から疎開する学童を乗せた船や輸送船は攻撃され、多くの沖縄県民が犠牲になった。そして、日本軍は米軍の艦隊に体当たりする特攻隊を出撃させ、戦艦大和などの水上特攻も送り込んだ。その命令は、沖縄から約1500キロ離れた慶應義塾大学の日吉キャンパス(神奈川県)で下されていた。なぜ、日吉だったのか。
■日吉キャンパス
1937年にできた日吉キャンパスの寄宿舎は、当時「東洋一」と称されるほどの建築だったという。
設計は、戦後、東宮御所、帝国劇場をはじめ、国立沖縄戦没者墓苑も手がけたモダニズム建築家の谷口吉郎氏。寄宿舎は、北・中・南の3棟から成るコンクリート造りで、最新の床暖房、水洗式トイレを完備し、全面ガラス張りの「ローマ風呂」、食堂や談話室もあった。
学生たちが使ったのはわずか7年。連合艦隊司令部がこの豪華な寄宿舎を占拠した。
■連合艦隊、慶応日吉キャンパスへ
1944年7月サイパンが陥落した。サイパンから日本本土の距離は約2400キロ。B29が爆弾を積んで日本までの往復が可能な場所だった。米軍は日本本土を狙える距離にある基地を確保し、日本軍は本土決戦の準備を始めなければならなくなった。
戦況が悪化する中、連合艦隊は陸に上がることを余儀なくされた。
日本の海軍は、戦艦から指揮を執ってきた歴史がある。日露戦争で東郷平八郎が艦隊の先頭に立ち、バルチック艦隊を破ったことが影響している。しかし、工業化が進み、海軍でも航空母艦を主体とする艦隊が主流になったことで、戦況はじめ、空も海も把握した上での立体的な指揮が必要となった。さらに、司令部が戦艦の先頭にいるほうが危険にさらされる。戦艦の護衛も必要になる。ほかにもさまざまな理由から、陸に上がることになった。そして、選ばれたのは日吉キャンパスだった。
東京の霞ヶ関と横須賀軍港の中間にあって交通の便がよかったこと、慶應義塾の堅固な建物がほぼそのまま使えること、(地質が柔らかいため)地下壕が掘りやすいこと、無線の受信状況が良好だったことなどが理由だった。(「日吉・帝国海軍大地下壕」より)
1944年9月29日、連合艦隊司令部は日吉の寄宿舎に入り、キャンパスの多くの施設も海軍に接収された。
地下には、延長1200メートルにもわたる壕が掘られ、空襲などで危険なときには司令部は壕に下って指揮を執れるようにした。当時、壕には水洗トイレをはじめ、民間で使われていなかった蛍光灯もとりつけられ、真昼のような明るさだったという。
■米軍、沖縄本島に上陸
1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。沖縄本島に艦砲射撃が開始された。約20分間で12センチ以上の砲弾が4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾が2万2500発撃ち込まれ、午前8時半、ついに米軍が上陸した。
迎え撃つ日本陸軍第32軍は、水際で攻撃する作戦を取らず、海岸には守備隊をほとんど配備していなかった。本土決戦への時間をかせぐための持久戦を続けるために。米従軍記者のアーニー・パイルは、当時をこう記している。
「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。しかも1発の弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで」
「それは、まるでピクニックのようなものであった」
迫り来る米軍に、追い込まれた住民。上陸翌日の4月2日、米軍上陸地の読谷村のチビチリガマでは「集団自決」(強制集団死)で85人が亡くなった。親が子を刃物で刺し殺し、首を絞めるなどして殺し合った。
(以下リンク先で) https://heiwa-irei-okinawa.jp/wp-content/uploads/2021/02/iwate1.jpg
1 所 在 地 沖縄県糸満市字摩文仁
2 建立年月日 昭和41年10月20日
3 敷地面積 825 平方メートル
4 合祀者数 34,860柱 (沖縄戦戦没者 653柱、南方諸地域戦没者 20,697柱、その他 13,510柱)
5 管理団体 岩 手 県 >>2
https://heiwa-irei-okinawa.jp/wp-content/uploads/2021/02/fukushima1.jpg
1 所 在 地 沖縄県糸満市字摩文仁
2 建立年月日 昭和41年10月26日(昭和62年改修)
3 敷地面積 11,231 平方メートル
4 合祀者数 66,304柱 (沖縄戦戦没者 942柱、南方諸地域戦没者 23,947柱、その他地域戦没者 41,415柱)
5 管理団体 財団法人 福島県遺族会 別に海軍を擁護するわけでは無いんだが、上陸してから米軍も苦労するんだけどな。 この段階では司令部を陸上に置くのは合理的な判断。
連合艦隊司令長官が大和に乗っても、砲撃戦はなくて実際の戦場は遥か彼方で飛行機で行われるのだから陸上で無線で指揮をとった方がいいことは真珠湾の頃からわかっていた。
それでも連合艦隊司令長官のメンツのためにミッドウェイでは大和を操りだしてなんの役にも立たずに惨敗。
ソロモン航空戦では内地にいると叩かれるからトラックに大和を浮かべたが、なんの役にも立たず大和ホテルと煽られて山本長官は前線視察に行かざるを得なくなり戦死した。 というか
首都の制空権を失って
敵機にやりたい放題された段階で負けだろ >>10
米軍に必死に抵抗してロシアに北日本を奪われては世話もない >「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。しかも1発の弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで」
これじゃあ時間をかせぐもなにも、全く意味のない戦闘だろ
海から空から袋叩き 米軍記者「それは、まるでピクニックのようなものであった」
安倍ちゃん「日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。」
まさに安心安全な沖縄戦でしたね >>14
それどころか皇族までいたんだぜ?
ほんと歴史を知らないのって哀れだよな… 慶応高校の校舎だね。
建物は立派だけど、内部が宮殿のような作りではないし、当時の内装もゴージャスなどではなかったはず。
何か問題でも?
艦隊の司令部が遠くにあることがそれほど珍しいのか?
ちなみに、真珠湾の時、山本がどこにいたか知らんのか?
最近の軍備でも、「象の檻」は何のためかも知らんのか?
横浜根岸の競馬場跡の隣にあるのは何だ?
沖縄で多くの住民が死んだが、他県の人間も数多く死んでいる。
摩文仁の丘も知らんのか? (最近のインチキな平和主義者がすっとぼけたがる場所だよ。「摩文仁の丘 各県の慰霊碑」で検索してごらん)
もう少し世間常識をわきまえてから記事を書くべきだよ。 >>20
それを常識だと言えるのはあんたぐらいだよ >>11
この段階で戦争継続してる時点でもう非合理だよ 離島防衛の仮想敵国が中国に変わっただけで、有事となれば本土出兵は当たり前でしょ。 >>20
他県でも多く死んでるからみんな同じと言うのも違うだろ
民間人の集団自決なんて他県では聞いたことない
敵に殺されるのも悲惨だが
味方同士で殺し合うのはもっと悲惨
言い方は悪いが無駄死にだよ
そこまで追い詰めたのは明らかに日本軍 連合艦隊司令部があった慶応
陸軍登戸研究所があった明大 >>26
サイパン島ではあったね
県では無いが民間人の疎開が無かったからな 太平洋戦争はエグすぎるな
二度と戦争は起こしてはならないね そう共産党の絡みじゃなかったっけ?
琉球併合した時の燃料が沖縄だったとか >>20
接収されて使われた建物は寄宿舎。現塾高校舎じゃないよ。
地下壕への入り口はあったけど。 これは海軍の創始者の勝海舟と福沢諭吉に親交があったからキャンパス内に司令部を招いたそうだ 余裕で安全圏にいるやつらもいれば自決に追い込まれてるやつらもいる
ひどいっす >>20
本土日本人は祖国や家族を守るために闘う意義やよりどころを持てた、沖縄人は島を
破壊家族を死に導く本土人に加担しただけの犬死。日本部隊は多くの沖縄女性子供
老人を銃剣で虐殺、東京の陸軍中野学校卒スパイ兵達も沖縄各地で虐殺や残虐をやった
子供自爆兵や多くの少年招集でわが身を守った日本部隊、少年兵に放火赤子殺し命令は
日本人としてお国のため当然かもしれないが沖縄人からしたら鬼畜よりおぞましい >>25
沖縄の戦死率は、全人口の25%だ。
これを上回る戦死率を出した国は、独ソ戦の地上戦に巻き込まれたウクライナとか辺りだけ。
本土も同じ様に大変だというなら、人口7500万の本土人は、1900万人程度が戦死しないと沖縄の犠牲とは釣り合わない。
なお、広島市は、人口35万人のうち、15万人が死亡したとも言われるので、広島がいかに悲惨だったかは数字上も明らか。
何故なら、原爆投下は、事実上本土上陸戦のための最初の総攻撃だった。
ドイツの戦死者数と比較したら、日本の戦死者は大幅に少ない。
やはり、本土決戦を回避した事で、本土人は大幅に救われている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています