『洗脳広告代理店 電通』

戦後、電通の社長の座に座ったのは、(中略)電通の元常務取締役の上田碩三だった。戦後間もなく日本の統治に取りかかったGHQは、当時銀座にあった電通の本社ビルを接収しようと図った。これをなんとか阻止したいと考えた上田は、従軍通信記者時代から仲のよかったUP通信社の副社長兼極東支配人マイルス・ボーンに接収リストからはずしてもらえるように頼んだという。ボーンにはGHQに対するなんらかのコネクションがあったようで、彼の働きによって電通ビルは無事にGHQ接収リストからはずされることとなった。(中略)GHQはまず、公職追放という方法で上田を社会的に抹殺するという手段に出た。公職追放によって社長の座を追われた上田の後任には、常務取締役だった吉田秀雄が43歳という若さで社長となった。実は吉田自身もGHQから公職追放をほのめかされていたという。(中略)
目の前で上田の処遇を見ている吉田は、次は我が身と焦ったことだろう。そこで吉田は、ツテを頼って、GHQの民政局次長ネーピアに働きかけ、公職追放を撤回させている。つてがあったとはいえ、一度、内定していた公職追放を撤回させるというのは並大抵のことではなかったはずだ。いったい、どんな手を使ったのだろうか。あくまでも推測であることを先に断っておく。(中略)この頃はまだWGIPが進行中のはずである。GHQとしてはメディアを使った日本人の洗脳は、大きなテーマの一つだったはずだ。吉田が率いる電通は、当時は新聞が主だったと思われるが、広告を媒介としてメディアに対して、ある程度、力を発揮できる立場にあったはずだ。つまり、電通を意のままに動かすことができれば、新聞などのメディアもうまく動かせることになる。(中略)これによって、GHQはメディアを支配し、WGIPを当初の推測よりもかなり効率的に行うことができるようになったに違いない。(中略)

GHQはCIAを使って吉田に圧力をかけていたふしもある。これはあくまでも状況証拠に過ぎないが、1949年に世にも恐ろしい事件が起こっている。電通の上田前社長がUP通信のボーン副社長とともに浦安沖に鴨猟に出た船が転覆し、両名とも水死体で発見されるという事故(事件)が起こったのである。(中略)この死が事故ではなく、二人は殺されたのではないかと考えたくなる状況だ。(中略)しかも、上田前社長をめぐる事件はこれで終わりではなかった。1951年、上田前社長の妻が自宅で何者かに絞殺されたのである。(中略)
この時期、下山事件をはじめとした不可解な事件が頻発しており、未解決事件やその後に冤罪とわかった事件が集中して起こっている。その裏にGHQ(CIA)がからんでいるという噂は絶えない。(中略)GHQは上田前社長の家族まで標的にして、吉田に脅しをかけたのだ。義のために死を選ぶのもよしとしていた吉田も、自身ではなく、家族の命となれば話は別だ。これで勝負あり。以後、電通はGHQの、GHQが帰ったあとはCIAの意のままである。もちろん、吉田は見返りとしてCIAから莫大な工作資金を提供された。(中略)状況証拠のみで、確たる証拠はどこにもない。あとは、読者のみなさんが各自で判断してもらうほかはない。(中略)
例えば、前に紹介した『原発・正力・CIA』という本によれば、読売新聞、日本テレビはCIAの出先機関だったわけだ(正確には読売新聞、日本テレビのオーナー正力松太郎がCIAとつながっていて、うまくコントロールされて、利用されていたということ)。(中略)電通も結局はアメリカ政府のコントロール下に置かれた出先機関の可能性が高い。電通とGHQ、CIAとのつながりはすでに見たが、アメリカ政府の裏支援なしにはたしてここまで巨大化することが可能だっただろうか。しかも、数ある広告代理店の中で電通だけが異常に巨大化した。それには、巨大権力による裏からのサポートがあった可能性が高い。