【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 ★4 [樽悶★]
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考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)
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江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半〜248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2〜3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4〜23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19〜26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625984486/ >>83
いつの縄文をさしているのか時代が長い故にどうとでもとれるが
縄文初期には確かに九州には遺跡があり初期の縄文文化があった
しかしその後鬼界カルデラの噴火により九州はまるっと噴火に巻き込まれ集落は壊滅した
その後しばらくの間九州の縄文文化は空だよ
落ち着いた後期に伸びてくるものの大分そこで遅れをとっていたので東北等の方が集落がでかかった
なお近畿まで火山灰が届いていたので中央も集落が育っていない >>102
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない
土の虚塔である 空中楼閣である いつかはかならず崩壊する
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃 ← 鐵鏃のでてこない畿内はありえない >>99
奈良はないな。避難地スタートだよ。
宗教入り込みやすいな いやいや高地性集落は統一後の内乱ではなくて、どう考えても侵略や遠征のあとでしょ?
倭国大乱というのは、漢の時代に100国近くあった国が内乱で分裂したんだから、文化や技術の共通性や、交流の出土品が出ないとおかしいんだわ。 >>104
あとの時代 古墳時代だな
なぜ、奈良にみやこが??
金剛山地が大きい
あれで、外敵から逃れられる、シャットアウトできて内政に専念できる
と思ったんだよ >>103
何もピンポイントで邪馬壹国のことは
書いていないけど。魏の使者が九州から出ていないだけだよ。 魏志倭人伝も 唐の時代に 遣唐使が!盛んに改竄していたって聞いた。 >>101
初期はそんなに人口に差ないね。
まあ鬼界カルデラの噴火がデカいだろね。
あれで近畿辺りまで火山灰が積もって住めなかったろうし。
九州の南部は一瞬で縄文人が死滅したらしいね。
その時代でかなり進んだ文化があったようだけど。
生き残った縄文人が各地に散った。もちろん関東にもいったんだろうけど
多分、半島とか大陸側にも行ったでしょ。
今のアカデミックは絶対に否定するだろうけど。 >>108
魏志倭人伝、読んでいないぼは畿内説!!
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、「棺あって槨なし。」
と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。
「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。
畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。
邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。 九州説だと思うけどね
鉄器の出土状況や神武東征から推察すると、九州に存在した何らかの勢力が畿内に入植したのだろう
各地にある同じ地名が、九州から畿内に移転した名残りと思う
問題は、神武にあたる方がどの勢力圏の人間か?
九州の邪馬台国に所属して東征後に大和朝廷になったか?
九州の邪馬台国は一地方勢力で神武と大和朝廷とは無関係か?
神功皇后が討伐した山門の田油津媛が邪馬台国の末裔か?
磐井筑紫が邪馬台国と関係があったか?
回答は永久に出ないだろうな
>>98
>>99
それで浦嶋伝説、鰐河神社に繋がるのか 畿内説だとめっちゃ広域になる
俺はそんなわけねぇと思うけどなぁ
現実味がなさすぎる >>113 各地にある同じ地名が、九州から畿内に移転した名残りと思う
その通り!! 地名遷移な 畿内におびただしくあるそれはみんな九州からのもの
倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の@@@@@@@@@@@@@@
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。 >>113
馬どころか古墳のあの石を運んでた
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか
おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?
九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)
〈1〉岡山市・造山古墳 〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳 〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か? @@@@@@@@@
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。
ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。 >>112
阿保過ぎ
「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なしは、事実なんだから、
行っていない、見ていない、聞いていない証拠だろー。水銀等は聞いているだろ。 >>117
それは、現在の「邪馬台国論争」の「構造」のことである
「邪馬台国畿内説」の証明はない
あるのは、ただ「はじめに邪馬台国畿内説ありき」なのである
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか
それはそのように教育されたからである
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で
そのような教育システムができあがっているからである
その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある
「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの
問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない
土の虚塔である 空中楼閣である いつかはかならず崩壊する
「兵用 矛 楯 木弓 矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃 鐵鏃のでてこない畿内はありえない >>117
魏志倭人伝に帰れと言いたい ばか考古学者
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない
矛はシナにあったんじゃない? シナ人がみて、それは矛だったんだよ
矛は当時のシナに存在していたのだから、見間違うわけがない 大きな集落があったなら河川の付近だよ
必ず糞尿の問題で病が発生するから下水問題は深刻だっただろう
後の頻繁に宮を使い捨てしてたのは糞尿の処理が原因 >>118
当然出るわけがない。
九州並みに出てきたら、近畿説が成り立たない。
古墳時代初期に増える。 >>122
古田武彦
↑このひと今更ながらすごい 全集読み返してつくづく感動
いろいろあるが稲荷山古墳出土鉄剣 当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、
これちがうと 純粋に関東の王であると 栃木県に「シキの宮」あると 大前神社のこと
あと、誰も無視してるが「室見川の銘板」のこととか ←これもすごい >>118
教育に関して言えば、明治大正昭和と外敵との争いに打ち勝つため、天皇を中心とした愛国教育の名残じゃなかろうか?
そういう人でないと学閥で出世するのも難しかったろう。 >>124
へ?まゆつばもん。
「ノストラダムスの大予言」
みたいなもん 参考にならないだろうが、魏志烏丸鮮卑東夷伝倭人条を研究している中国の学者達は、邪馬台国は九州に存在したとの意見が多い
陳寿が意図的に編纂したか、その死後に編纂されたせいか不明だが、内容が同一時代のものではないとの研究結果があったな 倭人は鉄の鏃を使う、卑弥呼は楼観・城柵に囲まれた居城に暮らして兵士が厳重に
守っていた。魏への貢ぎ物で絹織物がある。畿内説では説明出来んし
九州説でも符合するのは吉野ヶ里遺跡のみ >>126
その通り 松本清張の象徴の設計がこの分野で良かった >>129
卑弥呼が九州にいるから当然だけどな。
邪馬壹国にいる記はない。 >>127
日本こそ、世界覇者・ヘレンフォークにふさわしい
この人も似たようなこと言ってる
ノストラダムス 1章の48「予言の終わり」
月の支配が20年経過する
7000年、他のものが君主制を敷くだろう
太陽が引き継いでその時代をまかされるとき
そのとき私の予言は成就し終わりを告げるだろう
↑月は中国 太陽は日本
ノストラダムスの聖予言―私はついに1999年以後の人類の運命を解読した!1983/9
中村 恵一
↑この人の本を読むべき とにかく、すごすぎる!!! ノストラダムスが!
↑ぜんぜん注目されてないけど、この元・一橋の先生 冴えわたってる
ヒトラーとか真珠湾攻撃とかマルクス主義とか
とにかくこの人の予言能力は尋常ではない
1999の詩の解釈にこだわるべきではない
オーストラリアの発見とか原爆投下の時間の読み方等々 すごすぎる!!!
予言の番号が年号になってると >>128
内容確認できない以上参考にならないかも? 棺有り槨無しとは棺は棺桶、郭は石室のことなので
卑弥呼の墓は棺桶に直接土を被せただけの簡素で小規模なお墓
だったと言う事。方形周溝墓がピッタリ当てはまる
卑弥呼の墓は糸島市の平原古墳と断定されている >>126
その頃から閥はあったろうけど、方向性は全然違うでしょ。
ほぼ全部、左になったのは異常。
それも占領政策の一環だけど。 機内説はこじつけのオンパレードで元々破綻してるからな アホかこいつwww邪馬台国は無いですよwww馬鹿じゃねえのwww何処にあるんだよwww韓国と一緒だなwww 当時生きてた人から語り継がれてこないのは何故?
一瞬にして絶滅しちゃったの? >>133
邪馬台国九州説とは別の話です
魏志烏丸鮮卑東夷伝倭人条の内容が、司馬懿への忖度と孫呉への牽制
陳寿は西晋の祖である司馬懿の公孫淵討伐だけではなく、邪馬台国という朝貢国をも曹魏にもたらしたと功績を大きく見せようと忖度
朝貢国である邪馬台国は巨大勢力のような記述となり、その国の位置は孫呉を曹魏(後の西晋もだが)と邪馬台国で挟める架空の場所になった
出土品からして古代日本人が刺青をしていたのは事実だが、孫呉への牽制で魏志烏丸鮮卑東夷伝倭人条の内容が南方に住む人々のような記述になった
つまり司馬懿の功績への忖度を兼ねて、曹魏(後の西晋も)が当時流していた邪馬台国のプロパガンダを陳寿がそのまま記載した可能性があるとの事です どっちでも良いけど、オマエラは日本が飛鳥以前は
基本石質遺跡・記録を作らない民族だったってのを忘れている。
例外である巨大ストーンサークルは25000年前のが北の端から南の端まで見つかってて
少数だが共通する記号文字も同様に日本各地から見つかっており
少なくとも紀元前5000年には糸魚川翡翠の流通網が存在していた。
あと、その頃には九州から縄文人が朝鮮半島に渡って、縄文素材の代替による
各種生活用品の土器が半島各地で見つかっている。
大体邪馬台国なんてのは、支那のなんちゃってラノベのテキトーな記述で
その時代には、九州・出雲・奈良はおろか、日本各地にデカい国はあったの。
それら国のどれを指していたのか?なんて魏書の成立過程を考えりゃ分かるだろ。
「海の向こうにはウリの味方が居るんだぜ!オマエら挟み撃ちニダw」って言いたかっただけ。 結局ヒミカは竜魔帝王に殺されたしな
九州は野蛮なやつが多い >>105
100の国が分裂していくつ国が出来たの? >>141
まあ、いろんな事考えられる
よくわからんのが
5世紀後半〜7世紀前半
ピンクの石あげて、神武東征とか?
BCという九州説もいる。
宮内庁管轄外の被葬者のDNAさえ
天皇にメスだの、阿保すぎる。 >>113
近畿に入植したとしても、そんなに新しくないな。
弥生中期に広大な水田ができてるからな。
畿内というか近畿は最近になって古い弥生時代の水田跡が
見つかるようになってきた。
京都市内でも。
京都なんかは、これまであまり掘り下げて来なかったんじゃないかな。
奈良にも同じことが言える。
せいぜい弥生までしか、明日香なら飛鳥時代までしか、
掘らないから見つからない。
秋津中西遺跡は、かなり深くまでほって縄文を見つけた。
まあ、奈良も京都も、意外と発掘してないからな。
なんせ、新幹線の工事も高速道路も最近はないからな。
大規模工業団地も作られないし。
新名神は山と川底だし。
まあ、「台地」が少ないから難しいわな。
鳥浜遺跡みたいなやつしかないだろうし。
地中深く埋まってるな。
河内湾のまわりにあったにせよ、はるか地中深い場所だな。 この人が主催したシンポジウムをまとめた本を読んだ人いないの? こういうスレが立つと、「九州説」論者さまが
古い説をいっぱい書き散らして、全くつまらんようになるな。 >>112
古代中国における「槨」とは何か?だな。
弥生の墳丘墓や初期の前方後円墳や前方後方墳の
石槨なんか、中国的価値観の「槨」とは認められんだろ。
横穴石室くらいにならんと。
死後に暮らす「家」「館」らしいからな。 >>134
『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死後、
「大いに冢(つか)を作る。径百余歩、殉葬(じゅんそう)
するもの、奴婢(ぬひ)百余人」。
九州の糸島・平原から良く出る甕棺墓は東北や近畿の
縄文時代の遺跡からも出土してるが、世界的には圧倒
的に地中海や東南アジアに多くて、歴史も古い。
韓国南部や中国南部にもあるが、乳幼児に限定されてて、
地中海、東南アジアや日本の大人の死体も甕棺に収納す
るのとは違う。
とにかく、卑弥呼の墓としては小さ過ぎだろ。 >>151
まあ、いいじゃないの?
描いた人の捉え方なんだから。
旧唐書参考かな?
邪馬壹国が日本になっている
古倭奴国が倭国。
小人国てどこだろうか?
幻だな。空想かな?
種子島で骨見つかったけど
サイズが合わない。 >>140
語り継がれて書として残してたものは7世紀に焚書されてるね。
その他、各地に風土記や民話として残ってるものは
現王朝の天皇家に都合が悪いので偽書として扱われる。 >>124
埼玉の稲荷山古墳と熊本の江田船古墳の両方から、ワカタケルの銘の刻まれた鉄剣が出てるんだがな。
熊本も埼玉も栃木の王に仕えていたんだ?
古田武彦は情報の取捨選択で、元々自分の決めたゴールにこじつけてるだけ。 大和 ダイワと書いてヤマトと読ませた
九州倭国が滅んでからだろ >>162
だけではないよ。
東海、吉備
大陸、半島といろいろだよ。 阿知使主は正しい読み方が
あるはずだ。
これでは、日本人が日本へ渡来した事になる。
アーチィーシートゥー?
いや…違うなw >>162
ヤマト政権あたりかだろうな。
倭奴国、奴国等を真似たんだろう。
それ以前は、土器の出土どうり。 >>161
九州倭国と言うのは、後漢の倭奴国とその後の邪馬台国が、九州平定の為に使った方便 邪馬台国の描写としてはぜんぜん違う遺構だし立派すぎるんだよね
どうみても別勢力のもの 奈良県民が近畿がヤマトと思うのは
自分の場所が中心地だと思う中国韓国に似てる
福岡県に住んで中心地に住んでたDNAくさい 入れ墨倭人の邪馬臺が多民族国家百済、新羅(帯方郡、楽浪郡)を征服して中国文明化する時代だね。 HLA遺伝子頻度%
****A2**A24**A26**B46**B54**DR9*DR14
青森*25.3*33.8*15.4**4.2**6.7*14.3**8.2 青森
東京*23.8*36.9*11.9**4.6**7.3*14.5**7.5 東京
奈良*24.5*38.8**9.7**4.4**8.0*14.9**5.8 奈良
大阪*24.2*37.0*11.2**4.8**7.8*14.8**6.6 大阪
和歌*26.2*37.5*10.4**5.2*10.2*14.3**6.7 和歌山
香川*25.6*34.3*13.5**5.7**9.3*14.5**7.9 香川
愛媛*25.8*37.5*12.4**4.9**9.1*15.4**6.2 愛媛
徳島*23.6*39.8*11.8**4.3*11.0*14.6**7.1 徳島
高知*25.3*34.3*12.6**4.5*10.5*14.7**6.3 高知
福岡*23.3*37.3*11.8**4.2**8.3*14.5**6.0 福岡
長崎*23.8*38.4*12.9**3.9**8.4*15.7**6.5 長崎
熊本*23.4*36.7*11.8**3.3**8.5*16.0**6.4 熊本
大分*24.4*37.6*12.1**4.5**8.4*16.5**6.4 大分
宮崎*22.6*38.3*11.4**5.2**8.8*17.2**5.7 宮崎
鹿児*26.1*37.2*12.6**4.2**9.2*14.9**7.5 鹿児島
沖縄*31.6*34.2*16.6**2.9**8.6*11.4*10.8 沖縄 邪馬台国の話じゃないけど
天皇家って天照大神の直系じゃないのね
最近知ってびっくりした >>158
中国の書の記述を適当に書いたものとみなし、
卑弥呼の「卑」を謙遜の意味と受け取れば、
小さな墓はまさしく意に適ってるが。
一応の権力者でありながら、「卑」を自分の
名称に用いるのは、ある意味で権力の表象と
いう点で、非常に特異だ。
現代の世界で流行しているanti-representati
onalism反表象主義にも通じるw
甕棺は中身の死体を含めて、おそらく重量が
最低でも200kgを超えたのではないか?
それを恐らく2人で甕が壊れないように丁寧に
運んだはず。そして、それは特別な動作モード
を必要とした。
それは、日本書紀の崇神記の箸墓を作るための
石運びの記述とも共通するのではないか?
「石を人民が手越に運んだ」の個所の従来の国
文学者達の解釈はおそらく間違っている。
彼等は殆ど無数に近い石を多人数の手渡しで運ん
だのだとするが、それほど人民を消耗させる作業
は無い。
真実は石は大量をまとめて運ばれたはずなんだ。 九州説てサッパリわからない。
87
みたいに10世紀のデータとか
その頃、近畿は首都圏である。
当然、農業生産が低い。 何にも出てこない場所を見て「やっぱり大和かなあ」と思うってある種頭の病気でしょう 九州説の最大の問題点は、不弥国−投馬国−邪馬台国の
位置関係を証明できないこと。時間、方角関係なく証明できない。
こんな致命的なものがまだ生き残っていること自体異常。 57年 倭の奴国王、後漢に入貢し印綬(金印)を受ける
中国の正史に初めて登場する奴国は現在の博多近辺
後は分かるな!w ちなみに、投馬国と邪馬台国は順にあるものではない、というのは
誤魔化しwwww >>178
倭奴国は倭国の南の端にあったとも書かれてる。
2つの解釈が成り立つ。
1.志賀島よりも北が倭国であって、日本は九州含め倭国ではなかった。
2.金印が後程移動した。 日本語が大きく変わったのは
白村江の戦い以降。←
それ以前は大した事おこってないのでは? >>153
糸島市は伊都国で、女王国の重要拠点だろ?そこが甕棺墓なら、卑弥呼の墓がどこだとしても、甕棺墓になりそうだが。 >>66
大和yamatoの発音は、雅馬図yamato(図はくにがまえの中は冬)
から来ている
雅馬図という地名は現在でもある
新興ウイグル自治区のイリ河のほとりだ
秦氏の故郷の1つな
信じるか信じないかは・・・ 白村江の戦い以前は、たいした王朝交代はおこってないだろ?
必ず言葉に残るよ。
どんな人達が戦争で敗れて大陸から逃げてきたのか…? 新羅を臣下にしたのは新羅本紀にも出てくる卑弥呼さまだよ。天照大神、斎王、伊勢神宮、八咫鏡は卑弥呼さまが祖型。 >>184
白村江の戦いよりももっと前の時代に、ワカタケルという大王が関東から九州までをカバーしていたことは鉄剣に刻まれた文字に残ってるよ。 >>27
奈良盆地の耕作面積で、吉野ヶ里のある筑後平野を超えられるか?
まあ、粟の国、黍の国、木の国が服属していたんだろうが。 >>177
それより、九州は火山が多く
災害も多い。農産物の被害考えると
近畿と中間に食料生産置いて融通し合う。
支配だの、武力だの、鉄鏃だの
そっち 方面しか考えないのかな? >>187
奈良盆地のみで考えていないよ。
滋賀に移したり、大阪に移したりだよ。 >>180
ある時期に奴族が勢力を拡大して北上したのでは? >>184
白村江の戦い以後、別に王朝交代してないぞ。 >>177
>九州説の最大の問題点は、不弥国−投馬国−邪馬台国の
>位置関係を証明できないこと。
できるのは、「阿波」だけだろ? @阿波 >>190
つまり、2.の金印が後ほど移動したという解釈でしょ。 吉野ヶ里は神崎郡相当の国だろうから
それよりは奈良盆地は大きいだろう。
筑紫平野自体は奈良盆地の4倍になるが。 白村江の戦い以降…
「っ」を多用するようになった。さらに時代が進むと「ん」を使うようになった。
やはり、あの魔女言葉に近いかw >>1樽悶
>考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん、、、
おいおい、宴会の盛り上げ役だったのかい。
ま、事実はその程度の役回りだったんだろうなww 近畿派を完全論破する
中国役人は九州北部に居た
目的は九州だろうが近畿だろうが
中国から見たら屁みたいな環濠集落を見るためじゃない
皇帝の病気を治すために
シャーマンたる卑弥呼に会うためだ
その目的で九州北部にいて、奈良に行ってないのだから
答えはもう出たも同然
邪馬台国は九州北部の近辺にある >>199
つか魏誌倭人伝の記載としては畿内と何の関係も見出だせない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています