終戦の日、米軍の捕虜5人が秘密裏に処刑された。昭和天皇が「玉音放送」で太平洋戦争の終わりを告げた後、大阪市で起きたことだ。ポツダム宣言による降伏を受け入れたにもかかわらず、実行された日本軍の戦争犯罪。なぜ、戦争が終わったのに捕虜を殺さなければいけなかったのか。実態を取材すると、現代の日本政治でも問題となっている権力者への「忖度(そんたく)」が背景に見えてきた。【高橋昌紀】

■陸軍の墓地が処刑場に

 「最初の2人は斬首。日本刀を振るった手がしびれたのか、残りの3人は銃殺にしたそうです」

 大阪城天守閣から南へ1・5キロの旧真田山(さなだやま)陸軍墓地(大阪市天王寺区)。墓地を研究するNPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の副理事長、吉岡武さん(83)がつぶやいた。墓地は1871(明治4)年に造られ、約1万5000平方メートルの敷地に5100基以上の将校や兵士らの墓碑が並ぶ。この場所で1945年8月15日、日本軍の軍事警察をつかさどる部署の一つ、中部憲兵隊(大阪市)の憲兵らによって米軍の捕虜5人が処刑されたことはあまり知られていない。

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https://mainichi.jp/articles/20210812/k00/00m/040/147000c
2021年8月13日 16時00分