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2021/12/28(火) 19:35:44.33ID:5Wu+9hUg91980年に入庁し、91年に光が丘署で刑事としての第一歩を踏み出した。署長は後に捜査1課長として一連の「オウム事件」などを指揮した寺尾正大さん(故人)。「事件は起きた時点で、防ぐことができなかった警察の負け。負けからスタートするわけだから、最後はホシ(犯人)をあげて勝たなきゃだめなんだ」。寺尾さんの言葉が、刑事としての原点になった。
99年に本庁の捜査1課に異動し、殺人や強盗など凶悪事件の捜査に当たった。世田谷事件は発生時には関わらなかったが、05年春に係長として担当になった。子どもを含む4人が殺害されている重大事件の捜査を任され、「重責を感じた」。当時、すでに事件から4年以上が経過しており、成城署の捜査本部に残されていた膨大な資料を読み込むだけで3カ月かかったという。
関係者への聞き込みや証拠品の洗い直しを進める中、ある情報がもたらされた。「事件直後の正月明けのある日、手をけがした男性が病院に来ました」
東京都内の病院に勤務する女性看護師からの情報だった。女性は、手をけがした男性が来院したことを業務の引き継ぎ書で確認したが、その病院が世田谷区外で事件現場から離れていたことや、相談した同僚に事件との関係を否定されたことなどから、警察に伝えていなかった。事件関連の報道を見て記憶がよみがえり、警察に電話したという。
ところが、女性が記憶する時期の病院のカルテに、そのような治療記録は残っていなかった。女性の勘違いの可能性もあるとして、捜査を打ち切るべきだという意見が内部であった。だが、女性の説明は真に迫っており、係長として継続捜査を指示した。
捜査員は時期を広げて、カルテの確認作業を続けた。捜査を始めて約1カ月後、手をけがした男性が夜間に病院を訪れていたことを突き止めた。それは事件から3カ月以上が経過した01年春ごろのことだった。男性は病院の近くの神社関係者で、さい銭泥棒と格闘した際にけがをした手を治療していたという。
結果として「シロ」だったが、こうした地道な捜査が解決につながると野間警視は信じている。
続きはソースにて
https://news.yahoo.co.jp/articles/0a8ab7a7299d72810fa332d331cf71df20a329c9