【歴史】鎌倉殿は稀代の “エロ将軍”…源頼朝の隠し子は、薩摩藩島津家の始祖だった [上級国民★]
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源頼朝・政子像(写真・アフロ)
鎌倉殿は稀代の “エロ将軍”…源頼朝の隠し子は、薩摩藩島津家の始祖だった
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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、平家打倒を立ち上げた源頼朝・義経など猛者たちの合戦ぶりが見ものだが、「女性たちの色恋にも目が離せない」と、坂東武者に詳しい郷土史家はこう評する。
「それは頼朝をめぐって、女性たちが激しいバトルを演じるからです。頼朝は石橋山の戦いでは平家に敗れるも、富士川の戦いで大勝してからは勝ち運に乗ります。一方、戦には強いが、敵方の娘をはらませてしまうほど女性にだらしがなく、しばしば妻の北条政子は嫉妬に怒り狂ったものです」
頼朝の父・義朝は平治の乱で平清盛に殺害され、頼朝ら3兄弟は追放。頼朝は伊豆の伊東祐親のもとに身柄を預けられる。伊東は平家の家臣で4人の娘がいたのだが、頼朝は敵方の娘にもかかわらず三女とデキてしまうのだ。実際、「曽我物語」にはこう書かれている。
《三の姫は美女の聞えありければ、兵衛佐殿(頼朝)忍びてこれを思し召しけるほどに、月日久しく積りて、若君一人出て来させ給ふ。(略)御名をば千鶴御前とぞ呼ばれける》
頼朝は、伊東が番役で京都に赴任中を狙って三女に手を出した。伊東が3年の役目を終えて伊豆に帰って来ると、見覚えのない幼子が目の前をウロチョロし、おまけに「おじいちゃま」などと甘えてきたという。うろたえた伊東は子守役に問いただすと、幼子は頼朝が娘に産ませた子とわかり、いよいよ激怒するのだ。
ここで再び「曽我物語」を開くと、こうある。
《伊東庄松川の奥、岩倉の滝山の蜘(くも)が淵に石を付けて沈めよ》
千鶴御前の体に重石をつけて滝つぼに放り投げ、溺死させてしまえと、伊東は言い放つのだ。そのうえ、三女は頼朝から引き離してよそに嫁がせてしまう。これを知った頼朝は、仇を打とうとするが祐親の弟に慰撫され、矛を収める。
しかし頼朝の情欲は、三女との断絶を契機に収まるどころか、かえって盛んとなるのだ。そのような彼の前に現われたのが、北条政子だった。
政子は北条時政の娘であるが、頼朝は政子の場合も、時政が京都に出張中を狙ってモノにしている。まるで泥棒猫の手口だが、どうもこと女性となると、コソコソした頼朝になるのはどうしたことか。
ともあれ、政子も気丈夫な女性。野心家の頼朝にたちまち魅了され、父親の反対を振り切り、伊豆の山道を越えて頼朝との愛を貫こうとするのだ。この一途さから、その後の頼朝のなんともしまりのない下半身の緩さに嫉妬心をたぎらすことになるのだ。
「次に頼朝の前に現われたのが亀の前です。このとき政子は頼家を身ごもっていました。政子は頼朝との間に二男二女をもうけるが、臨月で苦しんでいるとき、頼朝は亀の前を愛妾にし、あろうことか家来の家に囲っていたのです。政子が嫉妬するのも無理ないですよ」(前出・郷土史家)
亀の前は良橋太郎の娘で、頼朝とは流刑中から親しい仲だったといわれている。そんな亀の前を頼朝は家来の伏見広綱の屋敷に亀の前を囲い、政子の臨月中に密通を重ねていたのだ。
めでたく頼家を出産後、自邸に帰った政子に待っていたのは、亀の前のもとにいそいそと通う頼朝の姿。すぐさま家来に命じて伏見の屋敷を焼き討ちし、伏見を流罪にしてしまう。ただし亀の前は不問にし、そのまま愛妾に収まっていたというからさだめし頼朝、胸をなで下ろしたに違いない。
頼朝といえば猜疑心が強く、弟たちを容赦なく抹殺するほど冷淡とも言われている。ところが、女性となると途端にデレデレ。亀の前に見せた政子の仕打ちで、頼朝もさすがに懲りたかと思いきやさにあらず。なんと今度は、人妻に手を出したからいやはやなんともである。
「頼朝は兄の妻に恋文を書き送り、接近を試みたところすげなくされるんです。初めて屈辱を味わった頼朝は、報復措置を取るんです」(同前)
兄とは源義平のことで、異母兄弟。義平は源氏の名門、新田義重の娘を妻にする。頼朝にすれば義姉にあたる。しかも、人の妻。しかし、これぞと思う女性はことごとく口説く頼朝に限って、“片思い” という言葉は無縁だった。
ところが、今度ばかりはそうでなかったらしい。鼻であしらわれ、手痛いしっぺ返しに遭ったのだ。初めて味わった屈辱に逆上し、義重を源氏一党から破門し、追放するなどの報復に出たのだった。
このように、義姉に無視されながらもなお頼朝はあくまで貪欲。次なる愛を求めて咆哮ひときわ雄々しく、荒野を目指すからじつにあっぱれ。…
続きはソース参照 □□□□□□□■□□□□□□□□□
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□□□□□□□□□□□□□□□□□ 名前が歴史に残る女性が珍しいから相当な権力者か美人かじゃないと 子供を増やして新たな一族を作るため…なら腹違いとはいえ兄嫁に手を出す意味はないだろうな 千鶴御前が可哀想すぎなんだけど
ジジイ自分の孫によくそんなこと出来るな ってことは秀吉の九州停戦令に対し「俺に指図するな 農民風情が!」とブチ切れた島津はやっぱそれなりの家柄だったんだな 島津のはさすがに詐称だろ
島津が頼朝の末裔だと本気で信じてる人はあまりいないだろう >>13
家がなくなるかどうかの瀬戸際だからな。そこで頼朝についとけば北条以上の地位を得れたかもしれないけど、歴史とはわからんもんだ >>17
まあなー
頼朝の子供がいるのバレたら一族郎党皆殺しだったかもしれんしな
でも千鶴御前のジジイは鬼 上にもレスがあるが
九州では島津だけでなく大友も頼朝のご落胤が始祖だと称えていた 血筋なんて言ったモン勝ちだから。
なんでもアリなのよ。 >>14
一応頼朝落胤はともかく
鎌倉から続く名家なのはまちがいないからな
ある程度規模があり
秀吉の頃に健在なのは
毛利上杉大友島津伊達くらい
小規模ならそこそこいるが うちも頼朝のご落胤説ある家から嫁に来た人がいる
でもうちに来る前に血筋は途切れてるみたいなので残念! >>26
越後の北条や出羽の寒河江、それに安芸の毛利は
おそらく大江広元の子孫 戸塚 長尾氏、俣野氏
鎌倉 梶原景時、鎌倉悪源太義平
久里浜 三浦義澄・義村、和田義盛・朝比奈義秀、佐原義連
藤沢 大庭景親、渋谷重国、佐々木兄弟
茅ヶ崎 大庭景能
平塚 岡崎義実、佐奈田義忠
小田原 曽我兄弟、大友氏
早川 小早川遠平
湯河原 土肥実平
宇佐美 宇佐美祐茂
伊東 伊東祐親
河津 河津三郎 島津氏の祖の忠久が頼朝のご落胤って説は江戸時代になってから島津家が作った作り話だったはず。 将軍には4つの将軍しかいない
1.冬将軍
2.大将軍
3.エロ将軍 そんなの信じでる奴はまともな歴史学者にはいないだろう いやいや島津忠久は千鶴丸だろ。
鹿児島城の別名は鶴丸城なんだし。 鹿児島のきつい方言は源氏の言葉だったんか
んなわけないだろ歴史小説家の妄想癖は病気レベル >>34
日本の支配者は血を偽るからね。
松平氏が新田氏を名乗るのと同じ。 >>45
織田信長も平資盛の子孫(つまり清盛の子孫)を自称したし >>44
普通は鍋奉行で、将軍まで出世していないんだけどな 島津の作り話のせいで、頼朝公がエロ扱いされるとは…
( ;∀;) 島津って坂東武者だしな
よくあんな田舎で我慢したな 天皇の地を外に出すと担がれて碌なことにならない(歴史の事実 天皇の血を外に出すと担がれて碌なことにならない(歴史の事実
タイポ 前田利家が先祖を聞かれたら「いま頼んでるからいい系図ができます」と答えた >>4
自称皇族の筵売りヤクザ劉備玄徳から
農民上がりの木下秀吉までみんなご落胤だからね。
琉球王国の尚氏王家も末期は源氏の血筋を自称してたくらいで。 ホラ吹きだから何とも。忠長が100で数万倒したとか龍造寺が6万とか >>49
ところが織田家の本家筋にあたる越前織田剣神社の別当家は堂々と藤原の末裔を名乗ってるってのがね。 安達泰盛が霜月騒動で北条氏に滅ぼされた一因が泰盛の父の景盛(盛長の子)は頼朝のご落胤だと主張しだして
北条氏から野心を疑われたからだったような。 島津は惟宗氏だろ
頼朝の落胤なんて新田の末裔を自称した徳川と同レベルの話 今でも金持ちの家系は骨格がガッシリしていて、肌が綺麗で
農民階級は背が小さく肌が汚いんだから
鎌倉時代じゃ上級と下級じゃ別人種だろうな
昔の人が血筋を大事にしていたのも分かる >>64
鎌倉初期の武士は皇族の子孫が都で食えなくなって、地方に降って土着化したわけだけど。
後、鎌倉までは、家よりも一門の方が重要で、家や血筋が重視されたのは南北朝から戦国にかけてだよ。 資格や免許が無かった時代だと、家柄は人物を測る大事な要素だった訳だわな 鎌倉市内の伝統祭事に仮面行列なるものがあり
いろいろな仮面を付けた人々が市中を練り歩くしきたり
その中に腹を膨らませた妊婦に扮した役回りがあり由来は頼朝が非人の娘とできた表れだそうだ >>67
初期の武士は朝廷の命令で地方の代官として派遣された連中が自立したんであって
自分から地方に下ったわけではないぞ。
それどころか地侍(武装した庄屋)までちょっと勢力が大きくなると源だの平だの自称した時代だ。
鎌倉幕府執権北条家も平を名乗ってはいたが十中八九地侍だし。 日本史のしろうと?
まだましだろ
日本では
当時は側室は普通 >>70
京都に居場所がないから、受領官になって地方に降るんだよ。
二世の源氏なんて、誰を見ても悲惨だろ。 >>72
清和源氏の祖の六孫王源経基なんかはそうだな
武蔵守に任命されて坂東に下ってきたが、平将門の乱で京に逃げ帰った 富士川の戦いか
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状に
「昔も鳥の羽音ニおとろき越度取之由傳聞召候」(昔も鳥の羽音に驚いて不覚を取った話を聞いたことがある)
と富士川の戦いで平維盛が川のほとりから一斉に飛び立った水鳥の羽音を頼朝軍
の襲来と誤認し敗走した故事を秀吉が引用してるな >>75
元々は吾妻鏡が晋書の風声鶴唳に驚くの故事からインスピレーションされたものだけどね。秀吉はともかく、黒田なら元ネタ知ってるかもしれないけど。 新田冷遇は平氏と源氏のどちらが勝つか
天秤に計って日和ってたから
足利はすぐに馳せ参じたから厚遇 源平の時代も太平洋戦争でもヘタレ京都兵の逃げ足だけは早い >>4
保科正之は本当だろ
土井利勝も本当は家康の隠し子のような 今どき血統を詐称するなんてのは恥ずかしすぎるどころの話じゃない ちなみに貴子さまが降嫁されたのは薩摩じゃなくて佐土原だ どうせなら薩摩島津は8公2民と大河でやったらどうなんだ >>90
基本東国から西国の出来事にヤキモキしてるだけだからね >>56
朝廷と関係持つには姓が必要だから仕方ない 後白河法皇と男色だったら更に救いがない
八重姫の話は文献の信憑性が怪しいし
亀の前の話は吾妻鑑、北条氏を正当化する為にワザと源頼朝の失態を強調しているが
子孫は担いで挙兵する反対勢力がいるので根絶されてるのが怖いが因果応報 大した奴じゃなくても、取り合うと価値が付いて
高値になるという
資本主義みたいな色恋沙汰。 >>89
それは幕府に木津川の治水を命じられ、大変な借金をしながら成し遂げたからだぞ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています