新ブランド「匠紀の国屋」のスタートに、本家・紀の国屋は何を思うのか。

※2022年05月31日 19時0分 JST

「相国最中」(しょうこくもなか)などで知られる和菓子の「紀の国屋」が5月、倒産した。突然の廃業の知らせに惜しむ声が広がった。

それからわずか1週間余り。紀の国屋の元従業員たちを別会社が雇用し、新ブランド「匠紀の国屋」として復活することが発表された。「『伝統の味と安心安全な商品』は再現させます」と謳い、歓迎の声も聞こえる。

新たな出発の一方で気になるのは、これほど愛されてきた和菓子屋がなぜ、70年以上の営みに幕を下ろす決断をしたのかということだ。

そして、「味を再現する」と宣言する新ブランドの誕生を、本家はどう感じているのだろうか。

「私たちと同じような状況にある中小企業の経営者に、この経験を生かしてもらえたら」

紀の国屋幹部へのインタビューから、倒産に至った3つの要因が浮かび上がった。

戦後の甘味ブームが追い風に

紀の国屋の創業は1948年。元々は青果店を営んでいた現社長の父が、東京・立川に菓子店を構えた。当時は和菓子だけでなく洋菓子も販売しており、戦後の甘味ブームも追い風となって業績を順調に伸ばしていった。

しかし、その勢いも長くは続かなかった。巻き返しをはかり、現社長に代替わりした際に商品のラインナップを刷新。和菓子専門店に看板を変えた。

紀の国屋を代表する「相国最中」やトラ模様のどら焼き「おこじゅ」、「あわ大福」といった人気商品は、いずれも2代目の時代に生まれたものだ。

これらの商品が大当たりし、店舗数も伸びていった。

転機となったのはバブル崩壊と重なる1993年。点在していた複数の工場を集約し、武蔵村山に新工場を建てたことだった。

生産額を年20億円とする計画で、メーンバンクの信用金庫から10億円を借り入れた。

だが融資を受けた後から、売り上げは徐々に右肩下がりになった。

和菓子を好む顧客層は高齢化する一方で、「新しい年齢層の取り込みができなかった」(幹部)。

加えて商品開発が難航し、新たなヒット商品にも恵まれなかった。

「後からの評価で言えば、新工場の建設は判断ミスでした」

経費削減や新店舗の設置などで改善を試みたものの、営業利益は黒字でも3%の金利返済に充てるのがやっとで、経常利益では赤字に。10億円の借入金の返済は一向に進まなかった。

メーンバンクとの関係悪化、コロナが決定打に

メーンバンクとの関係悪化が、経営難に追い打ちをかける。

2017年ごろ、東京都の補助制度を利用して事業再生の計画を進めていた。そこでメーンバンクから金利引き下げなどの支援を前提として申請を取り下げるよう要請があり、制度利用は白紙に。だが結局、合意していた金利の引き下げも実行されず再生計画は頓挫した。

すがる思いで中小企業再生支援協議会(現在の中小企業活性化協議会)に相談するも、やはりメーンバンクとの話がまとまらず支援を受けられなかった。

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