【鉄道】所要時間は24時間越えも 昭和時代「長距離列車」にはどんなものがあったのか? [七波羅探題★]
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Yahoo!オリジナル/小林拓矢
https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashitakuya/20220627-00302379
1964(昭和39)年10月号の時刻表は、東海道新幹線が開業した際の時刻表である。これには、同新幹線とその接続列車が掲載されている。
東京を新幹線で朝出ても、その日のうちに特急や急行を乗り継いでたどりつけるのは熊本や大分までとなっており、西鹿児島(現在の鹿児島中央)や長崎、佐世保までその日のうちに到達することは不可能だった。
必然的に長距離列車は夜行が中心となっていく。その中でも長時間走行でいまとなっては考えられないものは、東京から鹿児島本線経由で鹿児島(当時は鹿児島も優等列車の発着駅だった)に向かう急行「霧島」や、日豊本線経由で西鹿児島へ向かう急行「高千穂」である。どちらも所要時間が24時間を越えるのだ。「霧島」は東京発11時00分、鹿児島着は13時35分、所要時間26時間35分となっている。「高千穂」は東京14時35分発、西鹿児島19時53分着、所要時間29時間18分となっている。どちらも客車列車であり、2等座席車・1等座席車・2等寝台車・食堂車が連結され、「高千穂」は区間によっては1等寝台車も連結している。2等座席車は自由席だった。
「霧島」「高千穂」に使用されていた客車は旧型客車で、4人向かい合わせの固定クロスシートである。新幹線と新大阪発の夜行急行を組み合わせれば午前中に東京に出て翌朝西鹿児島に着くことは可能だったものの、安さを求めてこうした急行列車を使用する人は多かった。
また西鹿児島には寝台特急「はやぶさ」が運行されていた。東京19時00分発、西鹿児島17時30分と、所要時間は22時間30分で、寝台車と1等座席車、食堂車が連結されていた。当然ながらこういった列車は高嶺の花だった。
「高千穂」「霧島」では、長時間座席に座り続け、大きな駅での長い停車時間を利用して駅弁を買ったり、顔を洗ったりしてなんとかしのいでいた。急行列車とはいえ、食堂車はちょっと値段が高い。
混雑している時期には、クロスシートでじっと座りながら、東京と鹿児島・西鹿児島を行き来していたのが当時の多くの鉄道利用者だった。
いまとなっては、新幹線「のぞみ」と「みずほ」「さくら」を乗り継げば、その日のうちにかんたんに到着できる。しかも快適なリクライニングシートだ。むかしは過酷だった、ということを感じてしまう。
大阪から青森まで、ぶっ通しで走る特急が1961(昭和36)年10月から運行された。特急「白鳥」である。1964年10月号の時刻表では、朝8時15分大阪発、深夜23時47分青森着というダイヤだった。15時間37分かかった。当然ながら当時は新津から新潟に寄ることはなく、一路青森をめざした。停車時間も比較的短めだった。なお、食堂車は連結されていた。
この列車が過酷だったのは、朝から晩まで乗り通すだけではなく、その後青函連絡船を介して北海道へ連絡することだった。0時15分青森発、4時35分青森着の1便に乗り、特急「おおぞら」で9時25分に札幌に着く。なおこの列車を使うと釧路には15時25分にたどりつく。
「白鳥」は長時間の運転もさることながら、その後の青函連絡船では睡眠時間も少なくゆったりとしていられないという状況となり、なかなか大変だったと考えられる。
1972(昭和47)年の運行区間全区間電化で「白鳥」は電車化、大阪発車時刻は10時18分にまで繰り下がっている。1978(昭和53)年10月の時刻表では青森着は23時50分。ただ、青函連絡船への連絡と特急「おおぞら」への接続は変わらなかった。青函連絡船廃止後は急行「はまなす」への連絡となる。
北海道には長距離の気動車特急が多い。札幌から釧路・網走・稚内と各方面に運行されている。その中で、稚内までの列車は本数が少ないこともあってか、最果てまで行くという印象を与えてくれる。
かつての北海道の鉄道輸送は、札幌が中心ではなかった。函館が中心となり、青函連絡船を受けて各方面に向かう列車が運行されていた。釧路・網走へは特急が運行されていたが、函館発稚内行きの特急はついにできなかった。札幌発稚内行の特急でさえ、2000(平成12)年3月ダイヤ改正でようやく登場したほどだった。
1964年10月には、「宗谷」がこれまでの多層建て列車から単独運転の急行となり、運行区間も函館から倶知安経由、札幌、稚内という列車になった。10時57分に函館を出て、16時05分に札幌着、22時43分に稚内に着く。11時間46分の長旅である。
気動車急行なので、食堂車はついていない。しかもこの列車は、主要駅での停車時間も5分以内と短い。駅弁を買うのがやっとである。
1981(昭和56)年10月に札幌~稚内と区間短縮されるまでこのスタイルの運行が続いた。
※一部略 隣り合わせた19歳女子をトイレに連れて行って強姦したいです ワイド・ミニ周遊券復活すればいいのにと思ったけど旧幹線まで第3セクター化で鉄道ネットワークがズタズタなってて草 >>7
韓国までトンネル掘る計画があるからそれまで待つニダ てつおには夢のような旅だけど
一般人は地獄のような旅だったw
でも一般人でも寝台列車はロマンがあるな
サンライズを最近知ってコロナ規制もなくなったし乗ってみたい 北斗星とトワイライトエクスプレスは乗ったことあるけど、あれは観光列車だな 新幹線東京博多間が直通開業した時で6時間40分が今や5時間を切った 警戒色を配色に上手くデザインしてたから国鉄型車輌は風景の中で映えたがJRなってからの塗色はコンセプトは映えてても実際の風景の中では薄汚れた印象にしか残らないのがほとんど。 東京~札幌の寝台列車は復活しないもんかね……
と思ってたら新函館~長万部は旅客輸送廃止が濃厚なのよね 滝川ー釧路で七時間かかる最長距離・時間の普通列車は水害による新得ー東鹿越の断線で葬鉄に見送られることなく消えた 寝台は快適で楽しかったけど座席の自由席はマジでスラムだった 急行八甲田に1回乗った。
その後、青函連絡船に乗ったら寝てしまって、ほとんど海峡を見なかった。 寝台個室はマジで楽しかったからな
もっと格安で寝台走らせてくれればいいのに 分煙されてなかった頃の新幹線はマジで苦痛だったわ
天井が煙で薄白いとか当たり前だったし 特急さくらなんてのが鹿児島から東京まで行ってたなあ、乗客は目が充血して疲れきった表情だったのが忘れられない。 松本清張の張込みという映画では実際の列車内でロケをやって
当時の長距離列車の様子がよく描かれてるよ ホームタウンまで切符をちょうだい!駅に別れが待ってるはずなの 40年ほど前は大阪発門司港行きの山陰周り各駅停車があったな。 以下、ここに突っ込むの禁止
>>1
>0時15分青森発、4時35分青森着の1便に乗り、 小学生の時大阪からおばあちゃんが住む九州へ
わざわざ山陰の方から大回り一人旅
車内が木製、窓を開けて夜風が気持ちよかった
博多までの夜行急行さんべ、座席だったけど若いし逆に楽しかった
相席のお兄さんが漫画の雑誌くれたり
おばあちゃんの家を拠点に九州の周遊券でぐるぐる回ってたな
知らないおっちゃんがお菓子くれたり、今じゃ考えられないなぁ
周遊券と宿泊はおばあちゃんの家
小学生ってのもあってめっちゃ安く回れたな 昭和は電車の床に空き缶が転がってたり、新聞や雑誌があっちこっちに置いてあったりしたな
ビール飲んで煙草吸ってたり、赤ちゃんにおっぱいあげてる人、弁当やお菓子とか食べてる人もよくいた 寝台特急富士
東京~西鹿児島(日豊本線経由)
これが最後の24時間超えだった気が 今の新幹線のグリーン席でも2時間あたりから辛くなるのによくそんなんでやってたなと思う
寝台車は興味あるがね
長時間かかるなら時間より快適さが欲しいね
個室のバスとかも興味あるわ >>53
飛行機もエコノミー乗れなく乗らなくなった 桜島・高千穂とか、同じ列車と途中で3回すれ違うんだっけ確か >>7
満洲行きが上野から出てたよ
残念途中は船上だが 最後は20代だったな
結婚したての嫁に目的地も何も言わず行くぞと連れだし
18きっぷを使って1日で近畿一周やったな
新大阪から新宮までまだ夜行があった時代
新宮ー名古屋ー米原ー敦賀ー東舞鶴ー福知山ー大阪
嫁はほとんど寝てたけど
伊勢神宮にもよったし駅弁とジュースを与えてれば大人しかったw 寝台は人生で2回乗ったかな 夜行は海外を含めて何回か 高校生の時に冬に旅行をしたのだけど正月帰省の時期で帰りの指定が取れなかったので、ずっと立っていたな 北斗星とトワイライトエクスプレスは乗った
カシオペアはイマイチ乗る気にならない シチリア一人旅でパスポート紛失した時にローマまで急遽寝台乗ったのいい思い出 東京ー西鹿児島は急行桜島もあったよな
乗りたいとは思ってたけど乗る機会はなかった >>61
ヨーロッパって寝台車があったの?俺もイタリアで乗ったけどコンパートメントの座席で人がいないので事実上寝台車になって寝ていたけど、それとは別だよね? >>65
あなた、ケツが割れてない病にかかってますよ!! 修学旅行がSLだったな。
停車駅待ち時間がハンパなかった。 特に黒磯。
どこの停車駅もボットン便所で懐かしい。 上野東京ラインで沼津〜黒磯ってあったが比べ物にならないな >>26
平成初期まで走ってた中央東線夜行普通列車セミクロスシート115系だった
夏場とか登山客で劇混みだったが閑散期はロングシートで横になってC寝台出来た
国鉄時代松本経由長野迄運行されてたが1985年3月上諏訪分断され最末期はダイヤ上甲府分断だったが1時間半程停車してそのまま松本行きになってた
あと東海道線でも平成8年3月まで東京~大垣間通称大垣夜行165系急行型電車で走ってた 当時は国鉄だから駅員も横柄というか、帰省の時期にのんびりと行って、指定席くださいと言ったら「アホか」と言われたな、まあ高校生というのもあっただろうが 薩摩藩の参勤交代が40日かかったとからしいから、それが24時間とか、いまじゃ18時間とか、とんでもねえな 北見から函館まで特急おおとりで9時間
函館から青森まで連絡船で4時間
青森から大阪まで白鳥で15時間
と言うのを昔やって飛行機のありがたさをしみじみ思うようになった 2月に新幹線使わないで
生まれて初めて大阪市行ったわ
新宿から愛知県の新城まで高速バス
そっから飯田線で豊橋
豊橋から東海道本線で大阪まで
徒歩脱がすと10時間弱くらいかかった
帰りは新幹線で2時間チョイか >>7
宗谷海峡トンネルができればサハリン経由で行けるようになる >>64
52cm幅寝台3段真ん中の指定でベッドセットされた後通路の簡易座席にすら座れなかったときの絶望感が懐かしい サンライズ瀬戸で高松まで行った事あるけど
騒音でほぼ寝られなかった
ムーンライトながらってまだ運行してるのかな? >>50
https://youtu.be/34vwg15erxM
東京18:20宮崎14:30言ってるな
宮崎から鹿児島まで何時間か分からんが4時間もかからんだろ
1989年平成元年だが昭和より高速化されてたか 急行の垂直の背もたれ
あれを見ただけで急行に乗る気がせず
高校生の時でさえさっさとグリーン車に乗り換えた
車掌が疑惑の目で検札に来た思い出
今ならあんな態度ですれば怒鳴り付ける JR相模線の茅ヶ崎⇔橋本は今でも片道3日かかるけどな 上野から青森まで急行津軽の二等車の固いボックスシートに座りとおしたことがあったが
ゴロ寝して過ごした青函連絡船おりて函館から各停に乗り換えてもケツがしびれていて
もう治らないのかと思った
実際は長万部あたりまで屈伸運動やラジオ体操、マッサージし通してやっとなおった 天王寺から名古屋ゆきの普通列車「はやたま」
小学生の時に乗って、多気駅停車中にうんこしていたら、反対側のホームから
同じ年齢ぐらいと思われる男の子の声で「うんこが落ちた! うわぁーーーーばばしとるぅ、
きったねぇぇぇぇぇ」と響いていた。便器の穴から砂利が丸見えだった。 >>50
24時間26分その後速くなって24時間3分だったっけ >>5
長距離列車といったらまず富士、東京→西鹿児島間を24時間26分だったかな。 >>82
当時は飛行機に正規運賃しかない時代
LCCだの早割りだのは存在しない
国鉄の方がずっと安かったから庶民は国鉄を利用するのが当然だった >>89
もう少しあとだと思うけど
俺の初北海道は海路
東京釧路で10800円
覚えてるもんだなぁ 名古屋でブラック勤務してた時
名古屋駅の東海道線で
夜の11時台だったと思うけど
ブルートレインが停まって
行き先どこか知らんけど
これ乗って遠くに逃げたいっていつも眺めてた >>88
日本一の走行距離、って雑誌なんかで盛んに取り上げられてたね
でも実は日豊本線経由はマイナールートで、鹿児島本線経由のはやぶさのほうがメインルートだったと知ったのは大人になってから >>92
1968年当時、829レは京都発下関行きだった。 別に時間はあるからブルートレインでのんびり旅がしたい。 飛行機だと遠くへ旅してる気がしない だから新幹線が必要
一度乗ってみたいなんてのじゃ需要は増えない >>75
北海道内の移動時間に驚いたわ
どんだけ広いんか 白鳥か・・・大阪~新潟で一度乗ったことあるわ。
新潟~青森が乗れなかった事は今でも悲しい。
鉄道ピクトリアルって雑誌の白鳥の記事を読みながら思いに耽った懐かしい思い出。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています