それには旧習に捕らわれている京都から、都を大阪(浪速)に移すことがイメージを一新することが出来ると考えていたのである。

大久保は見えない天皇から、庶民から見える天皇にすることで、「天皇親政を進めることが大事である」と信念をもっていた。彼は宮廷革命を意図していたのである。

 もちろん遷都があるらしいとの噂があったが、大久保のような新政府の参与の言葉である、単なる進言ではなく実行の可能性があると捉えられ、大騒ぎとなった。

特に京都の人々は大変な驚きであった、戦火に耐えやっと首都になると思ったのに「大阪に遷都する」などとんでもないことであった。

蛤御門で焼け野原になったのは京都ではないか、戦火の中を逃げ回ったのは我々ではないか。これが大坂人の心境であった。大久保は旧弊たる公家達から政権を離し、新しい天皇政治を目指して都を移すことを考えたのである。

 大久保の「大坂遷都建白書」が提出されると公家を中心とした猛烈な反対運動がわき起こった。

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