『菜の花の沖』

 この時代の日本社会の上下をつらぬいている精神は、意地悪というものであった。
 上のものが新入りの下の者を陰湿にいじめるという抜きがたい文化は、たとえば人種的に似た民族である中国にはあまりなさそうで、「意地悪・いじめる・いびる」といった漢字・漢語も存在しないようである。
 江戸期には、武士の社会では幕臣・藩士を問わず、同役仲間であらたに家督を継いで若い者がその役についた場合、古い者が痛烈にいじめつくすわけで、いじめ方に伝統の型があった。この点、お店の者や職人の世界から、あるいは牢屋の中にいたるまで、すこしも変わりがない。日本の精神文化のなかでもっとも重要なものの一つかもしれない。