小谷賢(日本大学危機管理学部教授)

 現在のロシアでは、ウクライナへの侵攻を支持する国民の割合が半数を大きく上回っているという。しかし若年層になるほど、戦争に無関心、もしくは忌避感を示す傾向があり、今後、ロシア兵の戦死者がさらに増加し、本国に送還されると、ロシア国内で反戦の機運が高まっていくことも予想される。

 特にロシア側は、自軍の戦死者数を大幅に下方修正しているため、正確な戦死者数の情報がロシア国内に広まれば、戦争支持の趨勢に何らかの影響を与えよう。そのため欧米諸国はロシア国内に向けた情報発信に余念がない。

 このように戦争中の国家に揺さぶりをかけることは、インテリジェンスの重要な任務の一つであり、今から120年も前の日露戦争において、日本陸軍は莫大な予算を投じてそのような工作を行った。それを最前線で担ったのが、かの明石元二郎大佐である。

■日本陸軍の期待を背に情報工作に徹した軍人

 明石は英・仏・独・ロシア語が理解できた稀有な軍人であり、日露戦争の2年前からロシアにおいて情報収集の任務に就いていた。彼の前任者は後に首相となる田中義一である。

 日露戦争が勃発すると、日本陸軍は明石にオーストリアのウィーンへ退去するよう命じたが、明石は単身スウェーデンに向かう。その目的は、情報収集とストックホルムに集まっていた亡命ロシア人やフィンランド人、ポーランド人の利用にあった。明石はストックホルムを根拠地とし、「アバズレエフ」の仮名でベルリンやパリ、ロンドンなど欧州を訪問して各地で反露革命勢力に資金や武器を提供し、ロシアの対日戦争指導に揺さぶりをかけたのである。

 例えば、明石はスイスにおいて購入した1.6万丁もの小銃を、バルト海沿岸からロシアの社会革命党に引き渡している。この輸送のために蒸気船までが購入されており、折を見てはさまざまなルートを通じて、ロシア国内の反体制派に武器が供与され続けた。同党はこれらの武器の一部を使用して、ロシア国内で多くのテロ事件を引き起こしており、現役の内務大臣2人もテロの犠牲となっている。

 また、明石は鉄道の破壊工作やロシア皇帝の暗殺計画にも何らかの形で関与していたようだが、こちらは上手くいかなかったようである。

 他方、明石はロシア国民に厭戦気分が高まっている様子を参謀本部に通知しており、こうした情報は、攻勢限界点に近づいていた日本陸軍の士気を支えることになった。明石はある通信の中で、「前途有望なり。たとえ一気に政府を転覆するを得ざるにせよ、吾人は一歩一歩にその城郭を侵略しつつあり。皇帝政府は早晩墜落の時来るべきを信ず」と書き送っている。明石が明言した通り、1905年1月にはロシア第一革命が生じ、もはや戦争どころではなくなったロシア政府は、日本とのポーツマス講和会議に臨まざるを得なかったのである。

 ただし、明石の活動は各国の秘密警察や保安機関からも監視されており、ロシアでは明石の情報提供者3人が逮捕、もしくは行方不明となっていたため、明石自身も相当慎重に行動していた。明石はトラブルを避けるために、金銭についてはとにかく先方の言い値で先に渡し、そのまま連絡が取れなくなるようなこともあったようである。

 また、自分たちの郵便が開封されていることも承知の上で、手紙の文章の暗号化、筆跡の使い分け、あぶり出しの使用、封筒に別の書状を2通入れることで、いざという時の言い逃れをするためのアリバイ作りなどにも余念がなかった。

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■敵国から信頼を得て自ら情報収集も

 その中でも特筆すべきは、日本陸軍の石光真清少佐だ。石光も私益を無視して国益のために働き続けたことで知られ、家庭を置いて単身ウラジオストクに渡ったような人物であるが、インテリジェンス・オフィサーとしての能力は秀でており、満州のハルビンで写真店を開業しながらロシアの内情を写真に収め続けたのである。石光はロシアの東清鉄道会社やロシア軍から信頼を寄せられ、軍の依頼で東清鉄道の建設の様子を詳細に写真に収めている。

 明石の場合は監視されていたがゆえに、ロシア人を使っての情報工作だったのに対し、石光は、ロシア側から信頼を勝ち取り、ロシア国内で自ら情報活動を行っていたのである。石光もロシア通であった田中義一との接点があったが、その後、栄達を極めた田中と比べると、昇進や栄誉とは無縁の人生を送った。

 日露戦争後、石光は東京・世田谷の郵便局長を務め、17年に日本がシベリア出兵を行った際には再びシベリアに渡り、情報活動を行っている。(以下ソース)

6/24(土) 6:16配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f567a5a9c4bbbe4461f41e9bde4c49f40d46617f