【歴史】「諸説あり!」邪馬台国研究、全体像が分かる読みやすい入門書「やっぱり邪馬台国は筑紫平野だ」 ★3 [樽悶★]
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著書を手にする豊田滋通さん(福岡市の梓書院で)
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230801-00010013-rkbv-003-9-view.jpg
弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」(佐賀県)で見つかった石棺墓。「邪馬台国が九州にあった証拠が見つかるか」と地元では期待が高まったが、本来「地元びいき」「地域振興」と歴史は無縁。問題は、ファクトだ。今、邪馬台国研究はどの辺りまで分かっているのか。歴史好きのRKB神戸金史解説委員長がイチ押しの書籍がある。RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で著者にインタビューした。
■「ファクトが出てから盛り上がりませんか?」
1年ほど前に「吉野ヶ里で10年ぶりの本格発掘始まる」という話題を取り上げた時、僕はものすごく期待していて「楽しみ!」と話したんですが、いざ今年6月に石棺墓を開けるにあたって、地元の人たちや歴史ファンが盛り上がり過ぎていて、どこかで気持ちが引いてしまっていました。
「謎のエリア」というネーミングは別にいいと思うんですが、まだモノが何も出ていないのに、佐賀県知事が率先して記者会見を開いて「地域振興」みたいなにおいがしてきました。歴史学って、ジャーナリズムの仕事と同じで、ファクトが一番大事。「ファクトが出てから盛り上がりませんか?」と思っていました。
(省略)
「邪馬台国は近畿にあったんじゃないか」「いや、私たちのいる九州じゃないか」。自分のところに持ってきたい人が多いのも分かりますが、筆者の豊田滋通さん(福岡県春日市在住)は西日本新聞の記者だった方で、とても冷静に書いています。東京新聞・中日新聞に115回連載された記事の書籍化です。豊田さんにインタビューしてきました。
(省略)
■本の最後でやっと示された著者の見解
「邪馬台国は一体どこにあったんだろう?」
いろんな意見があっていいのですが、最終的にはモノが出てきて決まってきます。そのモノについて、豊田さんに考えを聞いてみました。
豊田:7万戸(魏志倭人伝の記述)の巨大な国が、どこにあるのか。それが出てくると、「やっぱり邪馬台国はここだ」となるでしょうね。「筑紫平野」は、広大な平野です。我々はどうしても、佐賀県とか福岡県とか考えるでしょう。でも、佐賀平野と筑後平野じゃなく、「筑紫平野」。要するに、筑後川の周辺。あの広さが、7万余戸の実態ではないかなあ、と。
神戸:僕らが生きているうちに、決定的な証拠が見つかってガラリと動くのかどうか。
豊田:「筑紫平野」はあまりまだ発掘されていないんです。農地が多いから。これからまだまだ可能性が出てくると思いますよ。
神戸:巨大環濠跡が見つかる、とか。
豊田:吉野ヶ里にあれだけのモノがあるわけですからね。
神戸:「あそこにしかないわけではないでしょう」ということですね。
豊田:と、思いますねー。
■邪馬台国の所在地と卑弥呼の墓
「邪馬台国は、いろいろな国の連合体だった」と言われています。共立された王は、当時の風習として、出身国で葬られている可能性もあるんです。実は、巫女がまつられていた平原遺跡(福岡県糸島市)こそが「卑弥呼の墓ではないか」と考える研究者もいるんです。
「7万戸が住んでいた」と言われている邪馬台国の「跡」は、どこにあるのか。まだまだ「筑紫平野」にも発掘できていない場所がいっぱいあります。近畿の纒向遺跡(奈良県桜井市)でも、発掘された部分は2%に過ぎないそうです。突然どこかから出てくる可能性は十分あります。
モノが、どこでどう出てくるか。土地の上には家屋などが建っているので、発掘はどうしても断片的です。でもそれを積み重ねていくと、どんな歴史像が結べるのか。こういったところが、歴史の非常に面白いところで、すごく僕は期待しています。また、吉野ヶ里遺跡で「謎のエリア」と言われるところは、遺跡の内で本当に重要な場所なんです。僕はまだ何かあると思いますね。
(省略)
神戸金史(かんべ・かねぶみ) 1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。
8/1(火) 17:52配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/85d443bc3cc656973b62b6d657f1b260f32ade75
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230801-00010013-rkbv-000-9-view.jpg
★1:2023/08/02(水) 23:19:16.27
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1691057188/ 東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 六四天安門事件 天安門事件
打倒共産党下台
小熊維尼下台
新疆虐殺 村興しネタだから、全国村興し邪馬台国サミットを開くと宜しい。
メインは卑弥呼コンテスト。美人の里以外は認めぬ。 >>1
邪馬台国論争も結局、徳川儒教反日主義者体制時代の産物だし、
当時から固定化したままの「奈良か筑紫か二者択一」論も彼らの意図的な仕掛け(嘘、罠、スピン)だよ
>被差別部落(同和地区)って、徳川体制の国策朝鮮移民だからね、徳川家康が李氏朝鮮スパイ役人末裔だったのが根源の問題
>> 明治終わり〜昭和初めまでに、旧徳川系スパイ/反日主義者(朝鮮+一部中華系)が日本の中枢を
>特に水戸光圀(朝鮮徳川儒教体制なのに水戸学「大日本史/古事記」=ウソ日本史=似非神道=偽天皇教)の流れが多いだろう
【熊本】部落差別から逃れたい…願い抱き満州へ、敗戦後帰れず集団自決 日系人ジャーナリスト「国策の犠牲」
(2023.7.30)newsplus/1690725488/ タイトルが
どこが入門書よ
邪馬台国九州説の入門書かな 卑しい巫女やぞ
こんな女、今で例えると トップAV女優みたいなもんやろ じゃま大国やぞ
こんなもん、ほんまいらんことばっかりするはずべき国やったんやろ 陳寿は邪馬台国に行っていないから
文献を見たか、誰かに聞いて
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 対海國
- 海を渡る1000余里 一大国
- 海を渡る1000余里 末廬国
- 東南に500里 伊都国
- 東南に100里 奴国
- 東に100里 不弥国
- 南に水行20日 投馬国
- 南に水行10日、陸行1月
- 邪馬壱國
と書いたわけだけど
三国志は魏の皇帝や晋の皇帝が編纂を命じたわけではないから
邪馬台国からの使者に会って話ができる身分でも無いし
邪馬台国に派遣されて帰国した建中校尉の梯儁等や塞曹掾史の張政等の魏の役人に会って、邪馬台国への行き方や邪馬台国の様子を聞くことが出来る身分でも無く、魏が保管する中国の文献を自由に見れる立場でもない
いったい、どんな文献を見て、誰から話を聞いて書いたんだろう 巫女のこと知らないんだね
男社会になってから
いろいろとおかしくなったんだけどさ
戦いに明け暮れるようになるまでは
女が治めてたらしいね
戦いなんて最終的には強いか狡い方が勝つもんな
価値観がおかしくなって文明が行き詰まる 57年 九州の倭奴国(筑紫城)が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り「漢委奴国王」だから
九州に中国との交流を示すものはいくらでもあるのは当然だ
なので九州で弥生時代後期の遺跡や出土品が出たらそれが
57年から238までの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
切り分ける必要がある
九州で弥生時代後期の遺跡や出土品が出たからといって、それが238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノとはならないんだよね ちなみに畿内には
238年からの親魏倭王(邪馬台国)以前に
中国と交流した史実は無いから
畿内から弥生時代後期の遺跡や出土品が出たら自動的に、すべて、238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノになる >>1
中国役人のカラ出張説を唱える
適当に書いたので、具体的な場所が確定しない 邪馬台国畿内論者は
ちょっとファンタジーすぎ
ムー大陸信じるレベル 九州の人間の卑屈さと本州に対する嫉妬がよく表れてるな醜いねぇ 【著者】豊田 滋通(とよた ・しげみち)
1953年、福岡市生まれ。九州大学文学部卒業。
1975年、九州のブロック紙・西日本新聞社(本社・福岡市)
に入社。本社、東京支社などで主に行政・政治分野を担当。
編集企画委員長、東京支社編集長、論説委員長、監査役などを歴任。
2018年から雑誌「季刊邪馬台国」を発行する福岡市の出版社・㈱梓書院のエグゼクティブアドバイザー/ ライター。
福岡市博物館協議会委員、日本メディア学会(旧・日本マス・コミュニケーション学会)会員。
ビックリするくらい門外漢で笑ったw
ただの素人の小説じゃん >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 ケーケケケ
そろそろ山の上に帰ったら如何?
井の中の蛙の多氏くん(笑) >>27
大阪湾に行くのと同じ距離を不弥国から左回り回りに水行すると有明海に到着するhttps://i.imgur.com/ViDc62W.jpeg >>27
3.秦・漢時代(紀元前 221 年~紀元 220 年)
この時代になると測量が盛んとなり,それを基礎に
大々的な土木工事,都江堰や秦王陵墓,山岳越えの運
河・霊渠などの建設などが行われた(図 3)。
この時代には次のような多くの兵書が作られ,それ
らには付図(地図)がついていたことが史書には記さ
れているが,残存していない。
1)『湖呉孫子兵法』 孫武 付図 9 巻
2)『斉孫子兵法』孫臏(そんぴん) 付図 4 巻
孫子は 2 人いることが明らかとなったので,
仕えていた国名をつけて呼んでいる。古来
「孫子 13 篇」と言われているのは『呉孫子兵
法』の方で,『斉孫子兵法』も 2008 年に翻訳 邪馬台国が大和朝廷なら魏から貰った金印ある筈だよな
少なくとも貰ったという記録はある筈
それが無いということは邪馬台国は大和朝廷ではないということ >>27
>在會稽之東與儋耳相近
サルでもわかることは、台湾や琉球あたりも
倭人の領域だったってことだから
その指摘は当たらない 不弥国(福岡)から水行二十日で投馬国
投馬国から水行十日・陸行一月で邪馬台国
という時点で九州説なんてあり得ないってことぐらいわからんかね >>27
>しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
エーゲ海じゃあねーからさw
日本近海ってそんなに言うほど穏やかな海じゃねーだろw >>15
巫女は軍隊と密接に関係する
従軍する、鏡を掲げ櫛を挿した巫女の一群の埴輪が見つかっている .
http:
//www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif >>33
不弥国から難波津に水行する距離を九州で水行しても九州内に余裕で収まるのだがhttps://i.imgur.com/580wIue.jpeg こんなの、絶対に結論なんて出ないからw
文書もない、あるのは、他国の文書の記載だけなんて話、それはもう「歴史」じゃなくて考古学の世界だからw
もう少しロマンを楽しんでくれないかね?w 畿内説で丸く収まったのにさあ、いちいち蒸し返すのすきやのう笑 わざわざ引っ越してきて誘致活動をするやつらが多すぎるんよ .
https:
//kyureki.jp/wp-content/uploads/2022/04/27%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%B8%A6%E8%B2%AB%E9%81%93%E3%80%8027.pdf
. >>1
探しても出るわけないだろ
海の底wwwww そもそも当時の寿命からして卑弥呼さん長生き過ぎやしやせんか >>46
上海の方も新羅領だったんじゃないの?
西は海さらに西行くと長安 まずは論争にかかわる研究者の慰安婦問題などの認識テストして
歴史を学問として捉えられないやつらを排除しとかないと
将来的に邪馬台国は韓国が起源とされかねないので注意 タシさんの思い込みが激しすぎて逆に見直してまうわ(笑) こないだの近畿某学校教授の
どこだか定まりようが無いので
もう近畿でええやんけ、発言には爆笑したなw あれで学者なんだって
流石は大阪お笑いの町近畿。言ったもん勝ちな朝鮮人的言動だとオモタ >>47
当時の倭人は長生きって書いてある
其人壽考或百年或八九十年
人々は長寿で或いは百年、或いは八、九十年 >>52
つか、近畿にないと、大和朝廷との連続性が厳しいやねw
邪馬台国論争とは言うものの、邪馬台国が重要なのは、それが大和朝廷(今の皇室に連なる)となった、というのが大きなポイントでしょうw
極端な話、邪馬台国は九州にあったと確定されても、その後、台頭した大和朝廷に滅ぼされました、ってんじゃ面白くないでしょうw >>56
おっチャイニーズかい?
やっぱこの辺興味あるんだ? >>39
西回りは壱岐から北九州に行ってわざわざ逆戻りしているから話にならない
東回りは関門海峡と豊予海峡という難所を2か所通る時点で現実的ではない >>33
(帯方)郡から倭に至るには、
狗邪韓国までで七千余里である。
(狗邪韓国から)始めて一海を渡り、千余里で対海(対馬)国
対海国から)また、南に一海を渡る、千余里、名はカン海という。一大国に至る。
(一大国から)また、一海を渡ること千余里で、バツロ国に至る。
東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。
(伊都国から)東南、ドゥ国に至る。百里である。
(奴国から)東に行き、フウビ国に至る。百里。
(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日である。
(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。
帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。 あの川が”クルクル”してたから大洪水起こったんちゃうやろか
あのあたりで土地の奪いあいが起きていわゆる自滅ってやつ(笑) >>59
>極端な話、邪馬台国は九州にあったと確定されても、その後、台頭した大和朝廷に滅ぼされました、ってんじゃ面白くないでしょう
しかし魏志にも後漢書にも女王国の東に海を渡ると女王に属さない倭種の国があると書かれてて
宋書には倭王武一族が東西にたくさんの国々を征服したと書かれてて
隋書では筑紫以東はみな倭に属すと書かれてて
旧唐書には日本と倭国は別種で日本が倭国を併合したと書かれてて
記紀には崇神が東西に四道将軍を派遣して景行仲哀が九州征伐したことが書かれてる
これでは誤解する余地はほとんどないと思う 邪馬台国の「国民」の大多数は九州にいた
卑弥呼は大シャーマンなので当時の倭人世界を巡回しながら雨乞いや、豊作祈願、病気治癒などを行っていた
卑弥呼教団本部は当時としては人里離れた秘境である大和にあった 記述通りなら南のトンデモ位置になるんだろ?
で、それはあり得ないと各々がボクちゃんの考える解釈ルートで
九州だ畿内だと言ってるだけやん
そういう意味では畿内説信者は必死なんだなってことは分かる
どう考えてもそんな場所にはならんわw
まだ徳島とか言ってる連中のほうが遥かにマシ >>61
左回りは不弥国に行く必要があったと考えれば不思議では無いし和船に乗り換えた可能性もある、右回りは神武の東征の逆回りだから問題はない。 近畿ヤマト政権の連続性を保つために考古学的発見や年代測定を改竄しているのが畿内説 >>68
ちょっと厳しいんでは?w
特に記紀はかなり後に書かれたものだし、それも、壬申の乱以後となると、そこに資料価値を見出だせるのかって疑問もw >>69
「邪馬台国」は三国志の張角のような存在であった卑弥呼の信者たちの「心の帝国」だったのでキリスト教世界やイスラム世界のように漠然と広範囲に広がる「国」だった 占い師ごときが我が国の首長になれるわけないっしょ(笑)
卑弥呼ではなく、天照様の直系の天皇家が治める国なんやし 日本海を対馬海流に乗って丹後の久美浜湾に入れば、陸路一か月で邪馬台国に着く
邪馬台国を作ったのは出雲族で卑弥呼も出雲族であろう、との事 >>33
帯方郡から邪馬台国まで12000里
帯方郡から不弥国までで10700里
不弥国から邪馬台国までは1300里なのに
いきなり距離を書かなくなって
投馬国まで水行20日
邪馬台国まで水行10日陸行1ヶ月と違う単位で書いている
これはおかしい。
東京から名古屋まで315キロメートル
名古屋から京都まで147キロメートル
京都から大阪までは車で8時間、歩きで3日
みたいな書き方になってる。
これは何かある。 >>75
卑弥呼は天照大神の娘のイチキシマヒメだよ >>75
マザームーンみたいなもんだったんだよ
当時の政治家も卑弥呼の前でヨツンヴァイになって拝んだり「マザーサン(日御子だから)」と呼んでたのは想像に難くないw 何度も朝貢してるんだがら日本側が文字覚えてもおかしくないと思うけど
意図的に文字資料とか処分されてんのか? 所詮文字を持たない土人時代の話。 いつどこに何があったなんて未来永劫想像を越えない。 まあ、そもそも、占い師ってのは、古代においては、非常に地位が高いw
また、天皇においても、天智天皇以前は、政治的な力よりも、神事の長という雰囲気が強いw >>81
情けない話だわな
未だに中国の文献頼みで争ってるとか
当時の文明の程度が知れる >>78
むしろカルト教祖であった卑弥呼が死後神格化されたのがアマテラスオオミカミでその教団が神道になったのでは?
その影響があまりにも大きくこの国では卑弥呼の血筋を受け継いでることを主張しないと王として受け入れられなかった 男系の直系が重要だということやで
これでわかりましたか、湾の左翼に偏っているパヨクさん?(笑) >>75
大和朝廷は天皇家と関係の無い卑弥呼を認めたくないので歴史から消したかったが
中国の文書に卑弥呼の存在を明記してあったのでその存在がばれた
バレたのを繕うために神功皇后が卑弥呼であるとかでっちあげた あれれ
何か申し訳ない変なオープン化しちゃったかな… 帯方郡から邪馬台国までの総距離が12000里
帯方郡から末盧国までで10000里
残りは2000里
つまり邪馬台国は帯方郡から九州北部までの5分の1の距離の範囲にある。
当然畿内は問題外 邪馬台国がどこかは知らんが
ニニギの天孫降臨や神武東征の出発地点は宮崎県なんじゃなかったか。
少なくとも神話上の天皇家の地元は九州中部なんだろう。
となると、宮崎県と畿内の遺跡や出土物に類似性があるのかが気になってくるが >>80
古事記日本書紀編纂した時に焚書したよ
隠し持ってたら罰せられた >>84
だから、まだ、日本には文明がなかったんだよ、その当時はw
文明というには文字が必要なのwww 人間の歴史って1000年も経つとほとんど記録も無くなるんだな
5000年前に今より進んだ文化があったとしても不思議じゃない >>93
卑弥呼が神格化されたのが天照大御神だろうから少なくともそう主張してることになるな >>73
魏志 女王国の東に海を渡るとまた国がありみな倭種である
後漢書 女王国より東に海を渡るとみな倭種といえども女王に属さず
宋書 倭王武の先祖が東西にたくさんの国々を征服した
隋書 (東に海を渡ると)十余国を経て(難波津の)海岸に達する、筑紫以東はみな倭に属す
魏志後漢書に書かれた様子と隋書とでは記述が正反対のごとく変化していて
その間の時代について書かれた宋書には倭王武の先祖が東西侵攻したことが書かれてる
隋書までに限ってとりあげても誤解するのは難しい 邪馬台国の卑弥呼がアマテラスのモデルだとする説がある
つまり卑弥呼は天皇の先祖 >>98
でね、他国の文書となると、まず、それはもうその時点で「伝聞」でしょう?w
それらが同じ勢力を指してるかどうかすら怪しいwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています