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実在性と実態
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明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、
現在では実在説と非実在説が並存している。
津田左右吉は、倭国が一時新羅を圧服したのは事実だが、神功皇后は物語であって史実ではなく、
6世紀前半から中葉の継体から欽明朝にかけての成立と推定した。
[11]直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか?の説を唱えている。
井上光貞は神功皇后の物語が完成したのは、斉明天皇が660年に筑紫に遷幸し唐と新羅の戦いに備えた7世紀以降の事だと述べている(『日本国家の起源』)。
[12]大津透は神功皇后説話の成立時期は七世紀という説を載せている[13]。
実在すると仮定しても皇后となるには仲哀天皇と血縁が離れすぎており、
一方で香坂王、忍熊王の母である大中姫は皇后より下位の妃(みめ)と記述されているものの
天皇の従姉妹なので血縁の近さを重視する古代においてはより皇后にふさわしい。
大中姫が真の皇后だった場合、神功皇后と後に呼ばれた気長足姫は仲哀天皇とともに行った九州遠征で成果を出して、
武内宿禰や武振熊命の協力を得てクーデターを起こしたことになる。
また上記のように仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされるが、
その間は天皇不在の空位である。
神功皇后は摂政のまま崩御するまで息子を皇位につかせなかったことになるが、
仮に女帝として即位していたのならこの不自然さは和らぐ。