公明党委員長を務めた竹入義勝(たけいり・よしかつ)氏が23日午前5時、肺炎のため福岡市内の病院で死去した。97歳だった。長野県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男正彦(まさひこ)氏。

 東京都議などを経て、1967年1月の衆院選に旧東京10区で初当選。連続当選8回。同年2月に41歳で党委員長に就任し、矢野絢也書記長と約20年間にわたる「竹入―矢野」時代を築いた。
 野党の立場で旧社会党、旧民社党と連携する「社公民路線」を推進。その一方で、自民党とも気脈を通じてきた。
 72年の日中国交正常化を巡る交渉では、7月に田中角栄首相の事実上の特使として中国を訪問し、周恩来首相と会談。日中両国間の橋渡し役を務めた。この際の会談記録は「竹入メモ」と呼ばれ、9月の田中氏訪中、日中共同声明の調印につながった。
 84年の自民党総裁選では、旧民社党の佐々木良作委員長と共に、二階堂進副総裁の擁立劇に関与した。86年に委員長を退任。90年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。
 98年に公明党と支持母体の創価学会との「政教一致」などを指摘した回顧録を全国紙に掲載。党や学会から厳しい批判を受けた。

時事通信 2023年12月26日18時23分
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