■鎌倉仏教の宗祖・栄西、法然輩出

 今年は浄土宗の立教開宗850年に当たり、宗祖法然に関心が集まっている。法然が生まれた岡山は臨済宗の栄西も輩出した。近年、古代吉備国(きびのくに)に関する古墳の発掘などから古代史が見直され、岡山が注目されている。そこで、岡山歴史研究会事務局長で郷土史家の山田良三氏に、岡山の宗教風土について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

■幕末に黒住教と金光教 背景に稲荷信仰の秦氏

岡山の宗教史の特徴は。

 まず、鎌倉仏教の宗祖を代表する栄西と法然を輩出したことです。幕末には教派神道の黒住教と金光教が生まれています。私は岡山には特別な宗教風土があると感じ、調べていくうちに、その背景に秦氏の存在が見えてきたのです。

 稲荷社は秦氏の氏神とされていますが、岡山市北区にある最上稲荷は仏教寺院(日蓮宗)でありながら鳥居を備え、しめ縄が架けられた本殿(霊光殿)があり、神仏習合の形を残しています。伏見・豊川に並ぶ日本三大稲荷の一つで、初詣には県下最多の参拝客で賑(にぎ)わいます。

 かつて備前にも最上稲荷がありました。岡山市中区にある真言宗の恩徳寺は神仏習合の名残が濃く、今では神社の形はありませんが、最上正一位竪巌稲荷大権現(だいごんげん)と金祐稲荷大明神が祀(まつ)られています。倉敷市児島にある、元は神仏習合の瑜伽(ゆが)大権現の由加神社本宮には弥生時代からの磐座(いわくら)があり、稲荷が祀られています。そうしたことから、稲荷信仰の秦氏が日本宗教史の最重要ポイントにあることが分かってきました。

 山田繁夫著『法然と秦氏』(学研)では、比叡山から奈良に遊学した法然が、今の右京区を通る回り道をしたのは、そこに秦氏の基盤があったからだとあります。法然は母が美作(みまさか)の秦氏君で、父の漆間氏は半島から渡来して、宇佐神宮の社家の一つになったやはり秦氏の辛嶋氏の一族でした。

 大分の香春岳(かわらだけ)で銅を採掘していた辛嶋氏と宇佐氏、大神氏の氏神が融合したのが神仏習合の始まりとなった八幡神で、東大寺の大仏造立に協力することで中央に進出、さらに山背(京都)を開拓した秦氏は、長岡京・平安京遷都の陰の実力者となります。

 秦氏は蘇我氏のように権力を目指さず、地道な技術者として地域を支え、そうした生き方は、貴族から庶民へと日本仏教を大転換させた法然の姿勢と重なります。親鸞の悪人正機説も法然がオリジナルです。神仏習合の信仰や殖産の伝統を培った秦氏は、渡来人でしたが、日本人の精神とものづくりの文化形成に貢献してきました。

昨年11月、倉敷市で開かれた弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の双方中円形墳丘墓・楯築(たてつき)遺跡をめぐるフォーラムで、「ここに誕生した特殊器台祭祀(さいし)は2世紀後半の倭国大乱を鎮めたとされ、歴史が伝える女王卑弥呼の姿とも重なる」との発言がありました。

 楯築遺跡は弥生時代後期、列島最大規模の墳丘墓です。当時の吉備に、これだけの規模の墳丘墓を造る首長がいたことを物語っています。同時期の畿内は、遺跡などの出土は吉備などに比べて少なく、すべてを束ねるような首長や政治勢力はなかっただろうとの研究者の発言です。楯築遺跡は円丘部とその両側に長方形の突出部を持つ特異な形をしていて、その形状や出土品から前方後円墳の原型だとみられています。吉備の勢力が前方後円墳の成立のキャスチングボートを握っていたようです。

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 岡山市北区にある5世紀前半の造山(つくりやま)古墳は、日本で4番目の大きさの古代古墳ですが、築造当時は日本一でした。大和と吉備が対抗関係にあったという説がありますが、吉備から畿内に移ってできたのが大和王権との説が岡山の研究者の間で高まっています。

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 岡山の三大河川の一つである高梁(たかはし)川の右岸、総社(そうじゃ)市の秦にある秦原廃寺(はだはらはいじ)は、出土した瓦や伽藍(がらん)配置などから四天王寺や法隆寺と同時代に建てられた中四国最古の寺院とされています。同地区には全長70㍍の前方後方墳を含む一丁ぐろ古墳群や、新羅の王子天日矛(あめのひぼこ)の妻阿加流比売(あかるひめ)祀る製鉄の神である姫社(ひめこそ)神社があり、対岸のやはり渡来系の賀陽(かや)氏の遺跡の残る地域を含めて製鉄遺跡が多く遺(のこ)ります。高梁川対岸の湛井堰(たたいぜき)はその構造などが京都・嵐山の保津川にある堰に酷似し、やはり秦氏の仕事です。(以下ソース)

2024/3/30(土)
https://vpoint.jp/opnion/interview/228093.html
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