わが国に在留する外国人約341万人のうち、中国人は約82万人で「最大勢力」だ。4人に1人の割合になる。かつては密航者ら不法滞在者による「中国人犯罪」が社会問題化したが、近年は農村出身の技能実習生からタワーマンションに暮らす富裕層まで多様化。永住者が増える「移民化」も進んでいる。

密航中バナナで窒息死
2001(平成13)年暮れ、大阪南港。貨物船から降ろされたコンテナの扉を警察官が開けると、中国人の男女22人が潜んでいた。「福建省からきた。金を稼ぎにきた」。内部は床一面に毛布が敷かれ、隅には排便用の大型バケツが2個。ジュースの空き缶などが散乱し、食べ物が腐ったような異臭がしていた。

集団密航は1990年ごろ始まり、摘発のピークは97年の73件1360人。大半は中国人で、密航請負組織「蛇頭」の悪名もとどろいた。

コンテナ内部は布団やバケツなどが散乱していた
入管OBは「件数でいえば偽造旅券を使って航空機で来る場合が大半で、漁船やコンテナの密航は少なかった。ただ、彼らは命がけで、気の毒と思えるケースもあった」と振り返る。

OBによると、コンテナ内が高温になり脱水症状で死亡したケースがあったほか、積み荷のバナナが発酵して炭酸ガスが発生、内部の酸素濃度が低下し窒息死した密航者もいたという。


改革開放で留学熱
中国人の来日ラッシュが始まったきっかけは80年代の日中両国の政策変更だった。日本政府は83年、「留学生10万人計画」を打ちだし、留学生や、日本語学校で学ぶ「就学生」の受け入れを本格化した。中国では改革開放政策が始まり、海外熱が高まった。

就学生や留学生には週20時間(現在は28時間)までのアルバイトが認められたため、「日本語学校へ入れば日本で働ける」と日本語学校ブームが訪れた。

一方で、バブル景気が最高潮を迎えた89年、わが国に突然、「ボートピープル」と呼ばれる難民船も漂着し始めた。当初はベトナム難民と考えられたが、就学生として来日していた中国人女性から「ボートピープルの中に夫がいる」との申し出があり、入管が調査。漂着した約2800人のほぼ全員がベトナム人ではなく「中国人難民」と判明した。

同じ89年、中国では民主化を求める学生らのデモ隊に軍が発砲、多数の死傷者を出した天安門事件が起きた。現在は日本国籍を取得した評論家の石平さん(62)はその前年、北京大学を卒業後に日本へ留学しており、事件に怒りを感じて祖国と決別した。

就学生の中には、成績不良で帰国を求められていたにもかかわらず「事件」を理由に残留を主張する者も少なからずいた。入管当局は人道的配慮から、本国の混乱が収まるまで「短期滞在」や「特定活動」の在留資格で特別に在留を認める場合もあった。

これはその後、難民認定申請者などに対し「本国の事情や情勢」を考慮して当面の間、特別に在留を認める運用の先駆けになったという。

以下ソース
https://www.sankei.com/article/20240511-LPSKXZEVARJQVKI2RLMP3KNNBU/