【歴史】上杉謙信は自分の欲に忠実で、神仏に対しても上から目線の侵略者。「義」の人物像に異論★2
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武将・上杉謙信は、自分の欲に忠実で、神仏に対しても上から目線の侵略者だった――。
こんな説を投げかける特別展「謙信 越中出馬」が、富山市郷土博物館(富山市本丸)で
開かれている。越中(富山県)へ攻め込む際の書状や神仏への祈願文などから、
テレビドラマなどで描かれる謙信とは違った姿を浮かび上がらせようと企画したという。
謙信は生涯で10回、越中に進軍。1577(天正5)年には越中全域に加え能登や
加賀北部も制圧したが、78年に急逝した。
富山には攻め込まれた城跡のほか、謙信に焼き払われたと伝えられる寺や神社が
50カ所あるという。特別展を企画した同館の萩原大輔主任学芸員は「越中からみれば
上杉謙信は侵略者。義に厚いと言われるが、本当は現実主義者で領地を広げたいという
欲に忠実だったのでは」と話す。
71年の第6次越中出征に際して記した祈願文には「越中が思い通りになれば1年間読経する」
とある。一方で、他の武将の家臣に送った書状には「越中の武将に請われやむなく出征する」
と書かれていた。「人に対しては義を示したが、神仏には欲を見せている」と萩原さん。
「願いがかなっても1年しか読経しないなんて、神仏に対しても上から目線だ」と指摘する。
上杉謙信が越中の神社や寺から持ち去ったという経典も展示されている
=富山市本丸の市郷土博物館
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前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1510273174/
1が建った時刻:2017/11/10(金) 09:19:34.88 >>759
多分、30日分くらいだと思う
短期決戦狙って多くは善光寺に置いて行ったと思われ
まぁ信玄も当時最大限の動員をしてたので、兵糧不足だったようだが 海津城から煙がいつもより沢山上がっていたから、未明のうちに山を降りて八幡原に移動し、武田軍の裏をかいたそうだ。 税金を取らなかった甲斐があったと意気揚々で出陣したのか・・・ 足利尊氏は家康が生まれた城から直線距離で1.5キロのとこで生まれた
尊氏が生まれて250年後に、ご近所で家康は生まれたわけだな
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷(三河県岡崎市)で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 毎年略奪しに関東出兵してたリアルヒャッハーが義将(笑) いいがかりレベルの反論かよ・・・どんだけ謙信嫌いなんだよ >>1
> 71年の第6次越中出征に際して記した祈願文には「越中が思い通りになれば1年間読経する」とある。一方で、他の武将の家臣に送った書状には「越中の武将に請われやむなく出征する」と書かれていた。
人のために1年間読経するのでは? あたまおかしいんじゃないのか、この富山県のバカは。
義=物事の道理
戦国武将が道理を通すって意味は自国領地領民のための道理を通すって意味だろうが。
何もかもが矛盾してる。さすが富山県の自称文化人だな。 >>764
栃木県民だから毎年その時期に襲撃された祭りのポスター見るよ
当時はともかく今は客寄せパンダみたいなものだから特に気にしないな 大事なのは越後だよ。富山とか、群馬とか遠征地は外国の感覚でしょ
だから普通に人身売買するわけさw 信玄も同じだけど >>766
掠奪、売買されてるのは民だよ。農民だよ
知るかって話だよw >>760
兵糧に余裕あったら囲んで持久戦やって出てきたところ叩けばすんだんだろうな >>773
兵数の少ない方が囲むって、囲まれる信玄は間抜けか? 上杉謙信が義の人であり最強なのは揺るがない。
越後より南下し、たちどころに平定していき味方に取り入れ
十万の軍勢にて小田原城を囲み
鶴岡八幡宮に参拝したのは有名な話。
正に勇者の勇。
皆が越後から厩橋に城を変えれば良かったと言うが正にこの時が妥当だったか。
この頃の武蔵はあちこちに沼や池があり住むには妥当でなかった。
厩橋・箕輪・国峰をまとめ、
更には金山、鉢形、平井(復旧させる)
関東菅領を完全復帰させ北条に攻め込む。
武田や越後の国衆がどう動くかもあるが・・・里見・佐竹・最上とは同盟を組挟撃する。 上野に代官を置いて実効支配しようとしたんだけどさ
何だかんだで補給線の弱さと武田北条の圧力に押されて影響力が薄れていったのが実情さ 上からもなにも役に立たなかったら疫病神貧乏神言われるだろ
こいつは絶対正義の伴天連か? 信長はリアリストとして理解できるが謙信だけはその行動原理や戦略は人智を越えていると思う 地盤維持とメンツの保持って考えるとだいたい辻褄は合うけどね
むしろ信長の方が当時としては謎すぎる存在だったんじゃなかろうか >>776
結局、謙信が傲慢だったので関東の諸将が離反しちゃったからなあ
北条方の武士たちも従っていたのにもったいない >>783
傲慢と言うか政策が独りよがりだったのでは
仏道が根底にある謙信は潔癖過ぎたのではないかと俺は思ってる そりゃ、室町幕府以来の秩序は崩壊して自力で切り取り放題、出自がなんだろうが力あるものに従うのが新しい秩序なのに、関東管領の職分に拘ったり、
現実の勢力範囲を無視して、北条にたいし、武蔵下総相模から撤退しなきゃ同盟は結んでやんないと本気で書き送るなど、変人 武田にしても上杉にしても適度な田舎なおかげで神格保てた部分はあるだろ 侵略される側は武田か北条方についてたってだけ
越中は椎名を守ってやってたのに武田に篭絡されて謙信が激怒したんだっけか >>773
信玄の失敗は海津城に入った事だな
これによって善光寺・妻女山のラインが復活して、
本国からの兵糧補給が出来なくなってしまった
自分で自分を兵糧攻めw
しかも謙信は3日で春日山の留守部隊の援軍が呼べる状況で
上野からは長野氏に要請して信濃侵入という可能性もあった
実のところ、敵中に孤立してたのは信玄の方 実際、一撃離脱戦法で野戦で大敗したことが無いってのは戦術指揮官としてなら凄まじい性能よ 信仰心はあっただろうよ ただ、宗教に名を借りて為政・蓄財に励む寺社仏閣の存在を許さなかっただけだ
一向一揆でさんざん苦労してるんだからな ということは、状況次第では謙信が山門焼き討ちを断行してもおかしくない? 当時の寺社なんて敬う必要ないよ。既得権益は持ってるわ、僧兵は持ってるわ
ただの戦国僧大名だからw 戦の為に戦してた狂人。
目的を持ち手段として戦してた信長の方が余程常識人 我天に逆らえども天我に逆らう無かれ。
これぐらいじゃないと天下は狙えまへんww >>776
小田原包囲で領地全部占領されてるのに帰ったとたんスグに北条に帰参した関東
善政しいてたから農民レベルから支持されてた
侵入してきたヒャッハー馬賊あつかいの義将(笑) >>793
一向宗とは険悪だったから、北陸に早く進出していたら泥沼になった可能性はあるだろうなあ
一時期和解していた気がするけど経済関係だっけか? 一時期持ち回りでやってた最高神の時のノリで書いちゃったからねえ >>800
越中一向宗は、何度も謙信と和睦しているが、
野戦で大敗した後は織田に対抗する為に謙信に従属する事となった
以後、一向宗との関係は悪くない この舐め腐った態度のデカさは上杉謙信が女だった説を裏付ける重要な証拠だな 小田原で慢心してすごすご帰る政治下手の阿呆ってイメージ
いっつも武田か一向一揆と戯れてる 謙信と信玄はホモで川中島で密会してたという説があるが ホモというか武将は大概両刀
多くの時間を戦で出張する武将は職場に女性ずれとか現実問題として難しいから性処理とボディガードを両立できる小姓を重用した
家康は筋金入りの女オンリーで戦でもほんとうにギリギリまで女連れて来てたらしいけど 川中島そのものが面子と影響力保持のためのパフォーマンスに近くて
案外手紙で八百長のやり取りをしてた可能性は否定できないけどな
まともにやりあうと第四次みたいになるから双方たまったもんじゃない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています