大学の頂点・東京大学の安田講堂に昭和44年1月、火炎ビンなどで武装した学生らが立てこもった。大学の自治確立や医学部の民主化といった要求を掲げた一大学の闘争に始まった学園紛争は火炎ビンやゲバ棒で武装する過激派の介入を受け、次第に「暴力による革命」の根拠地となった。大義が薄れ、世論に見放される中、先鋭化した活動家は闘争の軸足を凄惨な暴力に移行。安田講堂の攻防は、学生運動が過激派の暴力に飲み込まれていく分岐点の事件として歴史に残る。

 大学での団体要求運動は、ベトナム戦争を契機に反戦、反体制ムードを背景に学生運動が盛り上がっていた昭和40年、慶応大で始まった。その後、授業料値上げ反対といった個別の要求を掲げ、学園闘争は各大学にも広がっていった。

 当時の学生運動は学内に、「セクト」と呼ばれる既存の活動家の派閥や学生自治会の枠を超えた「全学共闘会議(全共闘)」が形成されたことが特徴だった。またセクトに属さない「ノンセクトラジカル」なども出現し、誰でも自由に参加できるスタイルが共感を集めたのも、学園闘争が広がる背景となった。

 東大では無報酬のインターン制度を問題視した医学部学生が43年1月にストライキを始めていた。これに大学側が下した処分をめぐり、学生側が反発して応酬が激化。こうした中、7月に東大全共闘が結成され東大闘争に発展していく。

 当時、東大全共闘として安田講堂事件にかかわった元活動家の男性は「あらゆる権力、権威に対する批判を出発点として、一般の学生が主体的に動いた唯一の大衆運動だった。学生があれほどの『層』になって動いたことはなかった」と振り返る。

 男性は「新左翼といったイデオロギー集団が核となって生まれた運動ではなかった」と断言するが、東大闘争は次第に中核派などの過激派による組織活動の色彩を帯びて行く。

 当時、45年に迫った日米安全保障条約延長に反対する「70年安保闘争」の一環として学園闘争を位置付けていた過激派各派にとって、全共闘運動への浸透は必須だった。

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 過激派の介入で運動が各地で組織化された結果、44年には全国379大学中173校に学園闘争が拡散、バリケード封鎖や施設占拠も常態化し、活動は大学当局との団体交渉から物理的な対立に変質していった。

 安田講堂事件は、日本の学府の象徴が廃墟となる様子がテレビで報じられ、44.6%の視聴率を記録するなど注目を集めたが、世間の共感は得られず沈静化。過激派は構成員が減少、デモなどを中心とする街頭闘争に陰りが見え始めたこともあり、武装闘争に走る。

 警察の取り締まりなどで国内の赤軍派が追い詰められる中、重信幹部は国際テロ組織「日本赤軍」を創設。日本赤軍は「ハーグ事件」でオランダ・ハーグの仏大使館を武装占拠するなど世界に衝撃を与えた。

 ところが、ソ連崩壊で“革命宗主国”が消失。冷戦の終結で、過激派を保護してきた国々が政策を転換し、日本赤軍のメンバーも世界各地で次々と拘束される。日本では平成12年、潜伏中の大阪府高槻市内で重信幹部を逮捕。重信幹部は13年4月、支援者集会に声明を寄せ「日本社会の中に根付いた歴史を担えなかった」と日本赤軍の解散を宣言した。

 安田講堂事件に象徴される学園闘争は、最終的に多くの死傷者を生じた過激派のテロの温床となった。それを利用して社会に混乱をもたらした過激派は、沖縄の米軍基地反対闘争などの大衆運動にも介入する形で、いまも活動している。

2019.1.17 21:06|
産経ニュース
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