【滋賀】長浜にあった宮川藩知って 藩主の絵画など展示
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
江戸時代、坂田郡宮川村(現・長浜市宮司町)に陣屋(藩庁)を置いていた宮川藩と、歴代藩主の堀田家に関する資料の展覧会「近江宮川藩と歴代藩主たち」が十九日、同市公園町の市長浜城歴史博物館で始まった。二月二十四日まで。
展覧会は会期中、古文書や絵図、書画などの一部を入れ替えながら展示する。総展示数は約六十点。絵が得意だった六代藩主・堀田正民の「孤鷹撃雀(こようげきじゃく)図」は、草花の茂みに集うスズメをタカが急襲する様子を細かな筆遣いと鮮やかな配色で描いた。小さな城下町だったことが読み取れる江戸中期の宮川村の絵図や、藩士の氏名が分かる書き付けなども展示する。
展覧会は、堀田家の中屋敷と墓所があった東京都台東区と、長浜市が結んだ「都市連携協定」の締結二周年に合わせて企画した。藩政が分かる文書群「垣見家文書(もんじょ)」を寄付されたことも契機になった。
同館によると、宮川藩をテーマにした企画展は初めて。堀田家は若年寄や大番頭などの要職を務めたが、一万三千石と小藩で、参勤交代のない「定府大名」だったことから、関連資料をまとめて公開する機会がなかったという。担当者は「長浜はすべてが彦根藩の領地だったと思われがちだが、宮川藩などの小藩も存在していた。古里の歴史・文化を振り返る機会にしてほしい」とPRする。
入館料は大人四百円、小中学生二百円。長浜・米原両市の小中学生は無料。(相馬敬)
2019年1月20日
中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190120/CK2019012002000020.html
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190120/images/PK2019011902100241_size0.jpg 正直、国主・准国主クラス以下は特殊な藩以外はさっぱりわからん。 何て藩がどこにあったかって地図ってそういえばあんまり見ないな >>1
朝鮮人の卑劣さは、チョンポップの人気偽装の手口にあらわれている。
サクラの在日朝鮮人を観客役として大量動員した人気偽装コンサート、
日本人になりすました人気偽装カキコミ、
パンストを被ったような朝鮮顔の過剰整形・厚化粧、
ユーチューブの再生連打、「いいね!」連打は、
朝鮮人がいつもやっている汚い手口だからな。
韓流アピールしてる人のほとんどが在日朝鮮人だってことはバレているから。
だいぶ以前から在日企業や在日学生、在日系メディアを総動員した人気偽装をやっている
【韓流】やはり、K−POPチケットを買っていたのは日本人ではなくて在日朝鮮人たちだった[2012/7/6]
http://●
. >>4
幕末300藩主とかって書籍は見るけど地図はないねぇ。
あちこちの飛び地で帳尻合わせてるような藩がわけわかんないからかね。 彦根藩は分かるけどそのちょっと上に違う藩あったのか? あそこら辺って何も無いよね?行った事あるけど凄くさびしい田舎なのw
冬は特に田舎特有の寒さに打ちひしがれて自殺したくなるwww >>4
初期はコロコロ変わるからなぁ。
中期もなんだかんだで変わるし
後期くらいじゃねえかな、あんまり変わらなかったの 一万石の癖に城持ちの苗木藩のことも忘れないでください! 一万石ってもうマジで町長さん。
参勤交代大変だったろうなぁ。
長浜は秀吉が本拠地にしたくらいだし
なんか財源あんのかね? 申し訳ないが五だの柿ノ木だのの話題はNG(元町民並感) 昔滋賀名物揚げる会話になってねーちゃんが長浜ラーメン言うたのにはワラタ そういえば歴史読本に全部の藩と藩主を紹介するやつがあったけどその藩が現在のどこの街にあるのかっていうのはなかったな
デカイところや自治体の名前とかで残っているところならいいけどそれ以外だとさびしいよな だってあのあたり、桃山時代くらいから佐和山→彦根 に中心が行っちゃったし。その前は小谷だし。
長浜が中心だった時代はほんの少し。 近江宮川藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近江宮川藩(おうみみやがわはん)は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。
藩史
藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田正盛は、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。
正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。
しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。
正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。
正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。
第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。
第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。
この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。
幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。
そして第9代藩主・堀田正養の時代に明治維新、次いで版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で、宮川藩は宮川県となった。
その後、長浜県、犬上県を経て、明治5年(1872年)に滋賀県に編入された。
歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だ 近江宮川藩は、徳川幕府を守るために 頑張った藩だから!!!!!!
忠誠心はあった 堀田 正養(ほった まさやす、嘉永元年2月28日(1848年4月1日) - 明治44年(1911年)5月9日)は、近江宮川藩の第9代(最後)の藩主。堀田家宗家11代。筑豊興業鉄道社長[1]、逓信大臣
文久3年(1863年)7月4日、養父・正誠の死去により、末期養子として家督を相続した。同年7月21日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年11月26日、従五位下豊前守に叙任する。後に出羽守、豊前守に改める。元治元年(1864年)7月、大坂加番を命じられる。
慶応4年(1868年)2月16日、新政府から一時的に領地を没収される。領地は近江彦根藩の管理となる。同年3月2日、新政府から謹慎を命じられる。同年4月22日、上洛する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により宮川藩知事となる。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免官される。同年9月、東京に移住した。
明治11年(1878年)12月、東京府会議員選挙に際し、浅草区から出馬、当選する。明治12年(1879年)3月、府会副議長に就任する。明治13年(1880年)1月、東京府赤坂区長に就任した。明治14年(1881年)6月下谷区長、8月深川区長に転じた。
明治17年(1884年)7月8日、子爵になる。明治22年(1889年)2月27日、免職となる。
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれる。研究会に所属し、連続して3期にわたって議員に選ばれた。明治41年(1908年)3月25日、第一次西園寺公望内閣の逓信大臣に就任した。同年7月西園寺内閣総辞職にともなって退任する。
だが、堀田の入閣は研究会の事実上の指導者であった清浦奎吾の進める超然主義路線を否認するものであるとの非難を受け、明治42年(1909年)4月17日、所属していた研究会を除名される。明治44年(1911年)5月9日、64歳で死去した。 てか長浜藩っていうのもなかったっけか 内藤家が治めてたような? ∧ ∧ ┌────────
( ´ー`) < シラネーヨ
\ < └───/|────
\.\______//
\ /
∪∪ ̄∪∪ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています