鹿児島県の弥生時代の文化や社会を、近年の発掘調査成果を盛り込んで紹介する「弥生もスゴイ!かごしま」展が、上野原縄文の森(同県霧島市)で開かれている。稲作や青銅器、鉄器などを受け入れながら、火山性の地質や南方の海に面した位置を生かした独自性があったことを浮かび上がらせている。【大森顕浩】

 同県内ではこれまで、大規模集落跡の上野原遺跡(霧島市)をはじめとする縄文時代の遺跡が数多くある一方、弥生時代の遺跡は極めて少なかった。ところが東九州自動車道の建設に伴う調査などで発見が相次いだ。今回は、従来の出土品や、比較のための北部九州の出土品も併せ、計約200点を展示している。

 北部九州から始まった稲作伝来は、紀元前10世紀とする研究成果が近年発表されている。同県内でも稲荷迫(いなりざこ)遺跡(志布志市)で出土した前8世紀の土器は縁に刻み目がある点など、国内最古の稲作集落として知られる板付遺跡(福岡市)の土器と酷似しており、北部九州からの伝来がうかがえる。

 ところが北部九州の集落は水田と同じ低地なのに、同県内では弥生時代中期(前4世紀〜紀元前後)になっても、水田は低地でも集落は同県特有のシラス台地付近にとどまる傾向がみられる。標高の高い台地で、畑作や狩猟採集など、縄文時代の生業を続けたようだ。上野原縄文の森の関明恵・事業課長は「火山灰のシラス台地では水田を作りにくく、続けざるをえなかった」と推測する。畑作に使われた可能性があるのが、土掘り用とみられるラケット状の打製石斧(せきふ)で、同県内では縄文後期から急激に出土量が増える。

 弥生中期には大隅半島を中心とする文化圏が登場する。昭和30年代に調査された山ノ口遺跡(錦江町)で見つかった、細長い帯の文様を何重にも巡らす「山ノ口式土器」が、田原迫ノ上遺跡(鹿屋市)など、大隅半島一帯で確認され、大規模な集落遺跡もあった。

 山ノ口遺跡の祭祀(さいし)遺物は独特だ。北部九州は青銅器が中心だが、こちらはシラス台地で採集しやすい軽石。縄文時代から軽石の加工品が見つかっているが、これが弥生時代も続く。会場には軽石製の岩偶(石製の人形)が、男子と女子のペアで並ぶほか、家形の加工品や勾玉(まがたま)もある。同遺跡では軽石の加工品を、赤く塗った土器と共に砂浜にサークル状に配置した状態で見つかっており、縄文時代に似た祭祀が続いていたようだ。

 一方で、北部九州から金属器が確実に伝来していたことも近年の調査で分かってきた。下鶴遺跡(伊佐市)の銅戈(どうか)は全国最南端、永吉天神段遺跡(大崎町)の鉄製の矢じり「鉄鏃(てつぞく)」は、国内最古級の出土品だ。ガラス玉や銅鏡が出土した遺跡もある。

 対する薩摩半島で注目されるのは貝。高橋貝塚(南さつま市)では未完成品の貝輪が大量に出土した。貝輪は北部九州など各地に供給される当時の装飾品。材料は、貝塚では採集できず、奄美以南の海に生息するゴホウラ。南方の島々から高橋貝塚に運ばれて、そこで加工されていたのが分かる。

 貝塚付近の下小路遺跡(南さつま市)では、北部九州の須玖(すぐ)式土器を用いた甕棺(かめかん)墓が見つかり、被葬者も貝輪をしていた。葬送方法も当時の北部九州のもので、人々が貝輪を入手するためにわざわざやってきて、住み着いたと考えられる。尾ケ原遺跡(南さつま市)では北部九州と熊本の土器を組み合わせた甕棺墓もあった。

 弥生後期(1〜3世紀)になると、県内の遺跡が急速に減少する。開聞岳の厚い火山灰が覆う時期で、噴火が影響した可能性がある。減少しつつも今度は薩摩半島側の松木薗(まつきぞの)遺跡(南さつま市)の土器を中心とした文化圏が優勢になる。大隅半島から薩摩半島へと、文化圏の中心が移るところも興味深い。

 稲作や金属器を受け入れ、貝輪の供給で交流もありながら、シラス台地の特性から畑作も営み、軽石製岩偶を用いた祭祀を維持している。関課長は「水田一色になる北部九州は先進地の例だが、弥生文化の典型ではない。県内では稲作文化を受け入れつつ、自分たちの地域に合わせてアレンジしているのが分かる」と話す。

 日本本土の弥生時代に並行して、狩猟採集生活が続く北海道の続縄文時代、沖縄の貝塚時代という区分は知られている。東北ではいったん始めた水田稲作を途中でやめてしまう地域や、稲作を続けつつ縄文時代の要素も残す地域がある。「稲作文化」で一括されがちな弥生時代だが、地域によって多様性があることを、鹿児島県の例は改めて教えてくれる。

 3月21日まで、上野原縄文の森。

毎日新聞 2019年2月24日
https://mainichi.jp/articles/20190224/ddp/014/040/005000c?inb=ra