0001樽悶 ★
2019/02/26(火) 16:48:23.37ID:blM2jYO493世紀前半、メソポタミア中部に誕生したマニ教。ヨーロッパから中央アジアまで布教した世界宗教であったにもかかわらず、その後跡形もなく消え去ったという。しかし、21世紀になって、中国の福建省にマニ教徒の村があることが報じられた。
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■孤立し、滅び去った宗教
日本では、マニ教は久しいあいだ、一部の好事家のあいだでだけ知られる幻の宗教だった。自ら「ザラスシュトラ(=ゾロアスター)とブッダとイエスを止揚する最終預言者」という途方もない称号を名乗ったマーニー・ハイイェー(216年〜277年)の教えは、現在通用しているキリスト教とはまったく別個に「真のキリスト教」を名乗ったが故に、キリスト教が反転したネガとして、つまりは「知られてはいけない何者か」として、近年まで故意に幻影化されていた。
この世を精神(光)と物質(闇)の闘争の場と観じ切り、人間精神は暗黒の肉体の中に捕囚された光の一片だと説くその教えは、当然の論理的帰結として、切羽詰った厭世主義を主張する。世に名高いグノーシス主義思想である。
しかし、イエスの受肉を否定し、十字架上の贖いを否定するが故に、それは(後世において正統とされた)当時のキリスト教徒から熾烈な迫害を受け、一時はヨーロッパから中央アジアまで布教した世界宗教だったにも拘らず、現在では跡形もなく消え去った……と考えられていた。
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■マニ教徒の村が発見された
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■マニ教徒の実際を調べに中国へ
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■人口700人の村
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■マニ教と儒教・道教の結合
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ともかく、このような手続きを踏んだ末に上機嫌になった長老が、林一族が持ち回りで開催している祭りで読み上げる『林氏族譜』を指して言うには、林一族は、元々は福建省南部の莆田に拠点を構える一族だったものの、唐末に戦乱を避けて上万村に移住したとのこと。
それから約100年後の11世紀初頭に、華北の戦乱を避けて上万村にやってきた孫綿という謎の人物が、村人たちにマニ教(土地の言葉では「明教」とされる)を教えたのだが、彼の弟子になった人物こそ、上万村に定住した林一族の第8世の5男である林瞪(1003〜59年)である。
彼は、1027年にマニ教に入信し、師から村のマニ教寺院である龍首寺を継承した。また、上万村に居ながらにして、福州の大火を消し止めて「興福真人」と讃えられ、ついに林一族中興の祖と敬仰されるに至った。彼の指導によって、林一族の祖先祭儀と華北伝来のマニ教が融合し、上万村独特の「福建マニ教」が成立したとされる……長江以南の中国では、『族譜』に依拠した宗族文化の発達が著しいとは聞いていたが、ほんとうにそのようであった。
また、マニ教研究者の視点からすると、マニ教が儒教的先祖崇拝や道教的超能力崇拝と結合していて、なかなか豪華に中国的現実を反映させている説明であった。ただ、この後で村人が延々と語る林瞠の事績は、法力を駆使して仏教法師との法術比べに勝ったなどの奇跡譚ばかりで、特にマニ教の教義的な部分は掘り起こせず、この点は無念であった。
■祀られた将軍
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ここでの収穫は、上万村の祠堂の解説文に明記されていた「上万村林一族は、福建省沿岸部や台湾西海岸にも移住しており、それに伴って林瞠に対する信仰も伝播した」との情報である。
ただ、この「林瞠に対する信仰」の定義が曲者で、儒教的先祖崇拝と道教的超能力崇拝と風水を、うっすらと「林瞠崇拝」でコーティングしているだけで、偶々その林瞠がマニ教に改宗していたが故に、村中が名目的に「マニ教徒」と呼ばれているような印象を受けざるをえなかった。
現在の知見からするかぎり、上万村の信仰形態は、むしろ「林瞠」要素ばかりが前面に出ている。一体、イラン・中央アジア的意味でのマニ教要素は、何処にいったのであろうか?
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■中国的現実と共産主義的現実
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また、肝心のマニ教経典400点は、すべて文化大革命の際に破壊したとのことであった。しかも、現存する若干の経典(これだけは、儀式の際に読み上げる為に文革期にも秘匿していた)は、現在、霞浦県城在住の陳法師という林一族とは無関係の人物が所有しているらしく、上万村には所蔵されていなかった。どうも、(イラン学者から見れば)厄介な中国的現実の上に、さらに厄介な共産主義的現実が上塗りされていたようである。
(続きはソース)
2019年2月23日 11時0分
http://news.livedoor.com/article/detail/16063648/