【福岡】「邪馬台国=甘木・朝倉説」提唱の元産能大教授・安本美典さんに朝倉市親善大使を委嘱
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朝倉市は3月30日、元産業能率大教授で邪馬台国は朝倉にあったとする説を提唱する安本美典(びてん)さん(85)に市親善大使を委嘱した。
市によると、安本さんは旧労働省などを経て産業能率大教授を務め、現在は「季刊邪馬台国」の編集顧問。多くの著書や講演で「邪馬台国=甘木・朝倉説」を唱え、市はこれを受けて祭りを開催し、市観光大使「女王卑弥呼」を選出するなどしている。
市民団体が主催した安本さんの講演会の前に林裕二市長が委嘱状を手渡し、「市の知名度向上に大きく貢献された。今後も市の発展のため、助言を頂けたら幸いです」とあいさつ。安本さんは「朝倉は今後も(豪雨災害からの復旧復興など)いろいろあるが、共に私も頑張っていきたい」と応えた。【桑原省爾】
毎日新聞 2019年4月5日
https://mainichi.jp/articles/20190405/ddl/k40/010/314000c?inb=ra
関連動画:
田川古代史フォーラム 邪馬台国は福岡にあった 通説への挑戦
https://www.youtube.com/watch?v=tsH88BHmgRo
https://www.youtube.com/watch?v=AgD10y30KRA >>1-1000
【拡散希望】反日ドイツの正体
https://ameblo.jp/nihonkaigi-yachiyo/entry-12343607675.html
■日韓慰安婦問題「処理」に関するドイツZDFでの報道
https://www.youtube.com/watch?v=0X●jNHfg_cK8
中国と韓国、またはその他の
東南アジア出身の女性約20万人が
日本軍の売春宿で働くことを強制された
元兵士であった男性が、いかに
日本軍の部隊が村を襲い
女性たちを連行していったか
自分の国の過去の清算を棚に上げて、よくも日本のこと貶めるフェイクニュースをたれ流してくれたものです。
多くのドイツ人は、自国がホロコーストに対して国家賠償をしていないという事実さえ知らないのにです。
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf) ドイツ「日本の方が酷い事をした。ウリたちはナチスに騙されてただけ。だから日本の方が極悪非道ニダ。」 >>3
ほんこれ。
伊都国人のはったり捏造だろうな。 >邪馬台国=甘木・朝倉説
そもそも甘木・朝倉が何県なのかも分からない >lwAXWbQd0
お前にはプライドがないのか?それとも反日工作が広げたデマを本気で信じているのか?
歴史にはさまざまな事実があるが、意図的なネタでストーリーを作っても、いずればれる。
韓国・朝鮮の政治家やメディア、そして知識人がやっていることは卑しい。
自己嫌悪なしにはできないだろう。
漢字の文献を読める研究者は韓国・朝鮮では消滅しつつある。
文字通りの文盲が作るゲスなファンタジーを言い張るのが誇らしいのか?
竹島みたいな岩礁を盗み取って民族の象徴にするのかい?
李承晩が何やったかも知らないんだろう。 奈良にも朝倉ってところあるよね。準急が折り返す駅。 魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から1万2000里で東側が海と書いてあるから甘木朝倉ではない。
嘘で歴史を塗り替えるのなら隣の国に出て行きなさい。 ないわー
白村江の戦いで築かれた防塁から余りにも近すぎる
今とは違う当時の距離感からしても近すぎる 本物の糞アキヒトはとっくに暗殺されてる。
311の時よ。
2011年3月12日に暗殺されてる。
糞アキヒトは、
一号機の爆発前にトンキンを離れて、
一号機の爆発でジャップが混乱した隙に
暗殺された。
ざまみろ糞ナチ野郎が。
だから「生前退位」みたいな茶番になったわけよ
311以降の糞アキヒトの映像とか見てみ、どれもニセモノ臭いから。
l >>16
斉明天皇が亡くなったのが朝倉宮だっけ。
臨時首都になるくらいだから、良い場所だったのは間違いない。 このように日本では邪馬台国は○○にあった町興しが全国各地で盛んに行われています。
ホントにあったのか?は二の次!
おらが村おらが街をこじつけてくれさえすればそれでいいんです。 九州北部にあったのは間違いないらしいね
もう詰めの段階か 地名が360度奈良と同じなのは面白いよね
邪馬台国はともかく、大和王朝となんらかの関係があった土地なのは
間違いないわ 朝倉の旧名は麻?(氏の下に一)良
マテラ国でしょ
アマテラスと関係が深い 甘木って、みやまとか大牟田の方なんじゃないの?
朝倉は当然邪馬台国の中には有るけど? 甘木朝倉は日田大分別府の豊与の国に抜ける要地でもあるんだよな
北に山を越えると遠賀川の源流で筑紫の国なら何処にでも行ける場所 >>28
大体、入植地に地元の地名を付けるから
どちらかが新しい入植地だわな
ニューヨークもそうだし >>25
箸墓が卑弥呼と同時代であり
3世紀の記年鏡13枚が畿内を中心に分布しているという現実から必死に目をそらす九州説は、
もはやアカデミズムから相手にされません。 邪馬台国は卑弥呼(福岡)→トヨ(大分)だろうな
本土は別の大きな国 八女津国で確定
邪馬台も八女津も当て字として当て嵌まるからね
台の字はタ行の何れかの当て字だから ウルトラCで我が埼玉ってことは万が一にもないんけ!? そもそも、魏志倭人伝の邪馬台国の記述がデタラメ過ぎる。
あれは大嘘で間違いないよ。
使者が来たと言うのも嘘。あんなでたらめな航海日誌で航海したら、
そんな船は確実に難破してるだろ。
いつの時代にも、カラ出張でウソ出張報告書書くヤツはいるんだよ。
あんなもん信じる価値無し。邪馬台国論争は意味なし。 >>48
魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から1万2000里と書いてあるのは無視ですか?
卑弥呼の墓は石室が無いと書いてあるのに箸墓は石室があることは無視ですか?
アカデミズムから相手にされていないのは箸墓ですが? >>48
で、古代ヤマト王権に、女王なんていなかったことに目はつぶってもいいのか? 邪馬台国九州説は「おらが村」根性でやっているから、候補地が九州各地に乱立する。 「産業能率」大って名前がもうなんか信用できない 産経みたいで >>38
普通に読んだらどこにもたどり着かない。
不弥国から南に水行二十日の投馬国
投馬国から南に水行十日、陸行一月の邪馬台国
例え単里77mを是としても、日程と方角だけしかわからんので、どこに落ち着くとも言えない。
おまけに放射読みだ、連続読みだと、単里だけでなく独自解釈を重ねなきゃいけないので
とてもではないが「普通」に読んで何処に着くとは言いようがない。
方角を90度ずらす長里読みも同じで、普通に読むと方角が合わない。
仮に単里もなく、一般的な長里で方角も合わせると、八丈島だったかが一番近いんじゃなかったかな? >>55
フットボールの故地イギリスは、4協会それぞれが予選に出場する権利を
FIFAに認められているのだ。邪馬台国九州説もそういう感じでご理解いただけると…w >>51
日本全国に候補地は分布してるから埼玉もあるんじゃないはず。邪馬台国ハワイ説てのもあったし >>9
まさかもクソも
ハゲ正義の2個目の通名が安本正義だからな >>57
バカか?
投馬国からとは魏志倭人伝には書かれていない。
帯方郡の役人だから帯方郡から南に水行10日で九州、そこから陸行一月だか当時は道も無く馬も無く橋も無い。九州の東側が正解。 >>51
頑張って魏志倭人伝の記述をこじつけられたら公開してよ。
邪馬台国に関しては、マジで言ったもん勝ちだから埼玉でも頑張れば立候補できるよ。 日本文明発祥の地である俺ら福岡県民からすれば、奈良や京都は子や孫のようなもの
邪馬台国論争なんて小さい話だよな >>62
という、オラが説がどんどん湧いてきて収拾が付かないのを楽しむのが日本の古代ロマンの醍醐味 >>66
邪馬台国自体が狗奴国からいじめられて魏に助けを求めてるようなヘタレ国だからな >>37
実際それが起きてたとしても卑弥呼以後の弥生時代や古墳時代に起きた可能性はまずない
地名の伝播はもっと古くないと 邪馬台国東遷説、卑弥呼=天照大御神説以外にあり得ない
何故なら、記紀にそう書いてあるからだ >>72
天照みたいに兄弟いないし子供もいないし多くの人前に出たり接したりしていない >>73
弟いるべさ。
いやまあ、俺も別人だとは思うけど。 女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。
また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、
あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
女王国があって東方にも国が続いててさらに侏儒国、裸国、黒歯国って国が名前だけ出てくる。
ここらへんで九州っぽさがなくなるんだよな。これかなり簡略的に日本列島全部伝えようとしてるよね 関西の人間は畿内説を支持し九州の人間は九州説を支持する
アカデミズムではなくナショナリズムだよな 割りと流されているが、これって大問題だろ。
藤村新一のような遺跡捏造に繋がる恐れがあるだろ。 >>73
そもそもこういう比定のときは卑弥呼だけじゃなく天岩戸以降は壹与だとされるし
天照の子の成し方も普通じゃないから、アレなら邪馬台国内の後継ぐらいで良いんじゃ
いや、俺としては全くの別勢力でも構わないんだが >>72
んな事は古事記にも日本書紀にも書いてないよ。
卑弥呼と天照大神の共通点は女性であるということだけ。 >>77
九州でいいんだけど、東征はない
魏志倭人伝に出てくる九州北部の文化を日本人は引き継いでないから、結局滅亡して続かなかったんだよ >>77
お互いに足引っ張っている限り
お互いの理論の欠点がバンバンあぶり出されるからもっと続けろ 騎馬民族説が流行っていた頃安本は欧州の考古学の知識を
用いて研究してたよ。カネも時間もかかる研究でちっとも報われない
一方奇抜な発想の騎馬民族はベストセラーとか嘆いていたな もうここは間を取って四国にあったということにしたらどうだろう >>80
そこはそれ、思わせぶりな点はある。
紀の神功皇后記に卑弥呼への言及があるのは有名だけど、
アマテラスと神功皇后の間にも武装男装という共通点がある。
記でも紀でも武装男装する女性は彼女たちだけで、明らかにモチーフの重複があるのだ。 全国に小京都と名乗るところあるので、
小邪馬台国でいい。 >>80
古事記はヤマト王家が作ったもので対立した連中のは
消されているからな。稗田阿礼の記憶がもと
不都合な現実は書かない >>76
女王国が宇佐あたりなら東の海を千里程度で四国。裸国以降は沖縄方面や小笠原諸島。 ・成人男性は全身に刺青をしている
・泣き女に似た風習がある
魏志倭人伝に記されている邪馬台国の風習の内、この2点は大和王権には見られない。
邪馬台国=大和王権と考えた場合、文化の断絶が起きている訳で・・・。
邪馬台国と大和王権は別の王朝と考えた方がしっくりくると思う。 心理学者であって、古代史に関しては素人であり、インチキばっかりやって
評判の悪い安本を親善大使って、これは市としては致命的な失態だろ
そもそも今の高校生は、邪馬台国は畿内説が有力になってると書かれている教科書で学んでる
学校で習ってることと正反対なことをド素人が主張してるが、高校生にとってはいい迷惑
市の教育委員会とかはどういうスタンスなんだろうか >>84
壹与は、イヨ、伊予とも読めるから愛媛に何らかの関わりの可能性は零じゃない 個々の風習なんてちょっとしたことで流行り廃りが出てくるだろ
「刺青とかダサくね?」とか「泣き女うざくね?」とトップが言えば風習なんて終了するだろ >>91
邪馬台国として書かれてる内容は全部伊都国の話だと思う。 稗田阿礼は司馬遷と同じく暗殺されてしまった
権力者による都合のよい歴史がでっち上げられたのは間違いないだろう >>95
高祖山と日向峠方向を指差して、
『そこが日巫女の山たい』
と言ったとか言わなかったとか 本当は「やまと」といって奈良の大和を指すんだけど
中国人は漢字で「邪馬台国」って表現したんだが
これを後の日本人が「やまたいこく」と読んだってこと
自分のことを我(わ)という日本人を「倭人」としたのと同じ また、短里説とか放射説とか意味不明な解釈ごっこしてんの?
記紀の天皇の寿命が長い事の意味は考えないし、認めないけど
魏志倭人伝の意味不明な解釈だけはするよって
こういうのをダブスタって言うんだろうな
歳とると深く考えないせいかもしれんが バカな老人の好きな事
パズル
漢字の語呂合わせ
罵倒 少なくとも宮内庁が管轄遺跡開放しない限り妄想は続く 古代倭国の首都はいま元号令和で注目されてる大宰府じゃないのかね?
大宰府は防人の府としては巨大すぎるよな
古代倭国は大宰府を首府として九州・朝鮮半島・瀬戸内・畿内・関東までの連合勢力だったと思える
倭国人と古代朝鮮(任那・百済・新羅)人との間に通訳が必要なかったという伝承があるくらいだからな
朝鮮半島は日本領だったんだよ・・・・だから半島に前方後円墳が残ってる
米作も通説とは逆で倭国から朝鮮半島へ伝えられたんだね
(遊牧民主体の夏・殷・秦・魏の中国北部や満州では米作はなかったんだよ・・米作は揚子江流域(呉・越)から九州へ伝わった
現在の朝鮮韓国人こそ古代倭国だった半島へ侵入侵略してきた高麗人や後の女真族系
だから骨相的にも言語的にもミトコンドリアDNA的にも全く日本人と半島人は無関係なんだよ >>86
卑弥呼は鬼道を使うシャーマンであり巫女ではあったかもしれないが、巫女と言うのは神に仕える存在。
高天原の主神でありヤマト王権の皇祖神である天照大神。
神の中の神と、神に仕える巫女を同一視するのも初歩的な矛盾。
>>88
つまり卑弥呼は排除された側であり、ヤマト王権の皇祖神である天照大神ではないということだよね?
その意見には全面的に同意だよ。 マジメな話として、現状は
巻向で決まりそう
畿内説の人も九州説の人も、どうなんなのと注目してるのが今の状態
九州説でも色物とバカにされてた人だけが、未だに九州だぁーとか言ってる
どの位の知能かと言うと、冬に野菜は出来ないと言う位の知能
バカな上に世間知らずで歳だけとってるアホ >>104
とはいうものの、記紀神話のアマテラスは機を織ったりして、
神々に仕える巫女の一面もあるのだ。絶対女王に祭り上げられるのは
中世の吉田神道あたりかと。 >>105
重要な古墳は殆ど掘ってないのに・・・・決まるわけないだろうに
邪馬台国(ヤマト国)は九州にあると思ってるよ
それが一番順当だよ 2世紀後半には九州の衰退は始まってる
九州だと前後のつながりがおかしい >>105
魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から12,000里で東側が海と書いてあるのにバカかお前は 邪馬台国は、村おこしになるから、グンマ−にあったことにしてくれないかな。
いま、役場も移民第一であるから、グンマ−の市民生活が壊れてきている・・・・ンだ。
邪馬台国は、グンマ−にあったとなれば有り難い。 >>104
少なくても4回くらいは王朝交代があったと思えるよ
畿内の大きな勢力が出てきてやがて九州から畿内へ王権が移行したと思う
それが何時ごろかは不明なだけだよ
こりゃ古墳を掘らなきゃわからない
幕末明治期だって京都から簡単に東京へ遷都してんだから・・・江戸には京都に変わる巨大な権力があったから出来ただけ
九州→畿内→東京と日本の首府は東に移動してきた >>111
衰退しつつあったからこそ、魏の後ろ盾を求めたのではあるまいか。 王朝交代の理由は
継体天皇の名前に「継」の字があるからか?
本当に気の毒にな
この名前を付けたのって200年以上後の人達だって知ってんの?
今で言えば江戸時代の天皇の名前を付けるようなもんだ
文字も無く、伝達も不十分な時代に
今の時代だって、江戸時代の天皇の業績なんて事細かに言える人なんて極めて少数だろうに >>115
邪馬台国が魏に助けを求めたのは南側にあった狗奴国から攻撃されてたからやでしかし 安本美典氏は、魏志倭人伝による、鉄鏃、鏡、絹製品、勾玉の出土は奈良県に比べて福岡県が圧倒的に多い。
ベイズ統計学の確率計算によれば、ベイズ統計学は1/100と1/100の2つがあれば、それは1/200でなく、1/10000になり、邪馬台国が福岡県にあった確率は99.8%、同佐賀県0.2%、奈良県0.0%というのである。
結論の一つとして、「奈良県は遺跡・遺物の出土状況においてなんら特別の優位性を示していない」という。
卑弥呼は誰かということでは、天皇の平均在位年数から卑弥呼が天照大御神の可能性がある。
そして卑弥呼の係累が東征して大和朝廷の基を開いた、とする。
魏志倭人伝による距離からすると、邪馬台国は末盧国から1500〜2500里の範囲であり、それは北九州になる、とする。
また、箱式石棺の分布からしても、邪馬台国は福岡県であろうと推論している。
そして、邪馬台国は当初遠賀川流域にあり、朝倉の地に移り、卑弥呼のあと、台与の時代に遠賀川流域に戻ったのではないか、という。 わかったわかった、じゃあもう俺が邪馬台国でいいから >>118
畿内説の人たちは「南は東」って言ってました! (><) >>103
そりゃ九州支配及び外交の拠点ではあったろ 九州内の勢力争いで魏に助けを求めるのはわかるけど
畿内の勢力争いで出雲や宗像やらの戦力がある地帯を越えて、さらに朝鮮半島を越えて魏まで助けを求めに行くわけがない。もしそんな力があれば狗奴国に負けるわけがない。 謎の150年と言われてる4世紀頃から九州王権と畿内実権と京都の公家政権と江戸幕府政権みたいに並列してたんじゃないかね
それが完全に纏まったのが7世紀から平城京あたりだと思えるね
九州北部に明らかに移転したと思える廃寺が多いのもこの時代だろう
それまでは九州と畿内で権力が分散集合を繰り返していたと思えるね >>125
その外交の拠点とはすなわち首府だろうに・・・・少なくても九州王権と畿内王権が均衡していたんじゃないの? 伊勢湾は当時は大垣まで海だった。すなわち、奈良の東に海を渡って倭種の国があるというのは
渥美半島や静岡の東国を指していた。 >>120
魏志倭人伝に東側が海と書いてあるから宇佐あたり。
ちなみに宇佐神宮の本殿の地下から箱式石棺が発掘されている。 甘木朝倉の有名人
坂本龍一 川原ひろし 吉瀬美智子 >>130
帯方郡から12.000里じゃないからアキラメロン 安本美典wwwもうちょっとマシな奴はいなかったのかよwww >>117
血のつながりのない継母(ママハハ)の継を使うこと自体異様です
すなわち知っていたという事だろう
血のつながりはないが国「体」を継ぐという意味が最も推測される >>136
居るわけないじゃん
多少なりともマトモな人は、今は巻向に注目してるし
まぁ、そんな状況だから朝倉市もこんなのしか捕まえられかったんだろうけど 日本書紀で10代崇神天皇の頃に卑弥呼というか百襲姫と
その甥の武埴安彦のクーデターを四道将軍が治めるけど
10代崇神天皇は政権内部の若返りしたかったけど
じいちゃんの妹とおじさんが抵抗したので排除した
これは神武から続く世襲政権が終わったわけではなく
崇神天皇が自らに権力を集めたくて
旧体制から残る百襲姫なんかを排除したかったんだと思うよ
そして台与を卑弥呼に代わる大物主の巫女としたのが岩戸伝説 >>137
付けたのは200年以上後の人達だって
今で言えば江戸時代な
文字も無ければ、伝達も不十分な時代の
キミ、江戸時代の天皇の業績言える?
多分、名前言えるだけで凄いというレベルになるわ この市長は学問の世界では邪馬台国論争は終結して、教科書も書き換わってることを知らないんだろうな
専門家からは相手にされず色物扱いのド素人の珍説に飛びついてしまったが、迷惑を被るのは一般市民だろ >>114
そんな複雑に考える必要は1つもない
別勢力って考えたら簡単に答えが出る >>117
伝承では仁徳天皇の5代曽孫が継体と言う事になってるがこれじゃ桓武天皇の5代曽孫の平将門が新皇と名乗ったのと何も変わらないね
仮に血族であったとしても・・・・これは継体の前王朝からの禅譲だと判断ずるのが順当 政権が変わった可能性があるのは15代応神天皇だろう
影の薄い14代仲哀天皇とその嫁神功皇后の活躍はできすぎてる
15代とのつじつまあわせで作ったんじゃないか
26代継体天皇は遠い親戚が地方を治めてたけど
宗家がいなくなったので呼ばれたもので政権交代ではないと考える >>104
アマテラスはヤマト王権の神ではないよ。だから奈良から伊勢へ追い出された。 >>140
だから後の人がママハハ(継母)の継を使ったことは禅譲を暗示してるんだよ
200年程度じゃ伝承くらい残ってただろうに・・・ >>144
もしかして、王朝の意味が理解出来ないか
理解したくない、サヨクなの? >>145
そこは色々妄想膨らませても
血的には繋がってるみたいだよ >>144
三国志演義の劉備も、前漢の景帝の5代孫(景帝の子の中山靖王の玄孫)という設定だよね。
「五代」というのは、そういう「友だちの知人」的な微妙な距離感を表す
記号だったんじゃなかろうか。 奈良県の神様は大国主だよ。奈良県の一ノ宮が大物主(大国主)の時点でバレバレだと思うけど
本当に奈良の神様がアマテラスならアマテラス系が一ノ宮だろう
大国主=出雲=島根っていうのは逆輸入じゃないかな >>147
伝承は知らないけど、暗示してるんだと力説します
笑い話にしかならんね
今日も令和スレであったよ
朝日記者が証拠は無いけどと前置きして記事にしてたよ
サヨクバカ過ぎ >>148
継体の時代は紛争続きで収まらなかったことでも王朝交代は理解可能
万世一系なんてインチキなのはサヨクでなくても子供でも理解できる
それが解らないのは単なるカルト >>154
仮に繋がってないとして、証明して何になるの?
一応、家系図もあって、それなりに纏めてんならそれていいじゃん
そんなに日本が嫌いなら、外国に移住する手もあるよ >>117
血筋は交代したとは思うが、別に戦争して奪ったわけじゃないしな
わかるのは天皇家の軽さだな 最近アメリカで面白い話があったわ
自分の血筋は完璧白人だってDNA検査した人達
所謂ウヨクなんだろうけど
日本ではサヨクが叫ぶ不思議
まぁ、対象は自分じゃない天皇なんだけどね
バカ過ぎ >>156
実権が幕府の江戸時代の公家みると解るだろうに・・・・・ タイトル読みながら安本さんが亡くなったのかとびっくりしたわ・・・ >>155
たとえば、三輪山の麓に本拠地を置いた崇神(ミマキイリビコ)から仲哀の母(フタジイリヒメ)までは
名前に「イリ」がついて、難波に本拠地を置いた応神(ホムタワケ)からは、名前に「ワケ」がつく。
てなことの理由を知りたいと思うじゃんか。
それは日本が嫌いということなんじゃろか? >>158
基本的には白人種は欧州系のキリスト教のギリシャ・ローマ文化圏をルーツにする人
トルコ人とかは人種的にはコーカソイド(白人系)だがルーツがチュルク族(ほんの一部)でイスラムだから欧米時な使いじゃない
同じチュルク系でもハンガリーやフィンランドはキリスト教徒で遺伝的にコーカソイドが多数派で欧米人扱い
元々、人種はアングロサクソンが白黒黄と分けたことから始まる
人間は視覚からの感覚や情報が80%占めるために感性に影響は強いので人種問題は舐めないほうが良い
人類が全てメクラならば人種問題はない・・・メクラの妄想が人種差別反対の脳内イデオロギーで極めて反自然的だ
盲目でないいじょうは人種差別はあることが前提で自然のことだよ >>161
漢字の語呂合わせかなとか考えんの?
たまたま違う場合もあるよね
名前にも流行り廃りはあるし
たったそれだけの理由で、この人は血筋が違うってあなたは言ってんだよ
理解してる?
凄い酷い事を言ってる訳 >>150
繋がってる保証もない
繋がってるなら6000年以上一体の島国の日本人すべてが繋がってるで・・・・
誰が天皇になっても不思議じゃないね? >>164
別にあなたの保証はいりません
話として纏まってればそれでいいです
あと、現在だと法的に、何処までが天皇家ってのは決まってます >>120
これなんか安本のインチキてんこ盛り
・倭国一般の記述を邪馬台国の記述だということにすり替え
・3世紀の史実を解明するために、弥生時代全期間の出土量を根拠にする
・畿内出土の3世紀の鏡を勝手に除外
・神話上の人物を実在の人物とみなす
・天皇の平均在位などは、記紀にある天皇に漏れはないが年代だけは間違ってると決めつけるダブスタ
・度量衡の捏造 >>163
「たったそれだけ」と言われると、他にもある。
奈良平野には地名由来の臣(おみ)姓(たとえば蘇我、葛城、平郡、春日など)が多く、
河内には職掌由来の連(むらじ)姓(たとえば物部、大伴、中臣、土師、弓削など)が多いのだ。
つまり、三輪政権から河内政権に移った時に家臣団の顔ぶれも制度も変わっているのだ。
繰り返して問うけど、こういうことを考えることは「日本が嫌い」なことなのか? 自分の印象は絶対ですか
印象
普通、代替りすれば自然と変わるよ
今で言えば、総理が替われば、大臣も替わるだろ
同じ人も居るだろうけど
江戸時代の例でも変わるな
将軍が替われば
印象の話しかしてないのに
それが絶対ですになる不思議
そして、血筋が違う事にまで発展する不思議 >>169
>>169が「天皇は万世一系であって欲しい」と強く思っていることは判るけど、
それを疑っている人を「日本が嫌い」と決めつける合理性はないと思う。
そこだけは、説明するなり撤回するなりして欲しい。 >>169
幕府だって鎌倉や足利さらに徳川と血筋が変化しても変わっても将軍職は変わらないだろう
王朝交代がなかった根拠にもならないでよ >>170
カルトは狂信宗教であって歴史とは何の関係もない >>1
8世紀以前はほとんど何も解らないんだよ・・・・
だから何でもありと言うわけではないが・・・・推論は自由だよネ
今はアカデミックと言っても経済と同じで殆どあてにならないからね
納得できるす推論なら有りだね >>170
願ってますという話しではなく、そうなってますという話
疑うのは別に勝手だけど、その根拠が極めて乏しい
200年以上後に付けた「継」の字からとか
引っ越したからとか
平城京が平安京になったのも血筋変更?
あと、京都から江戸時代に移った時も?
そういえばバカサヨクが明治天皇嫌いだったね >>99
やまたいこくと読んだのは本居宣長
それ以前はやまとこくと読んでた >>174
これで4回目の問いだけど、そういうことを疑うのは
「日本が嫌い」ということなのか?
はぐらかさずに答えて欲しい。 引っ越す度に血筋変更
藤原京も平城京も平安京も
その他にもあるだろうにな
何故かそこしか言わない不思議 古代中国も沢山の小国に別れていて、春秋戦国に7ヶ国になった
その過程で征服された国の神や宗教を戦勝国が受け継いで神社を建てたり
敗戦国の人民の信仰を尊重する慣習はあったので
大和王権も征服した国に対して似たような事をしたかもしれない 昔からヤマトは大和にある。邪馬壹、邪馬台は中国人のあて字。大和連合は大倭と呼んだ。 安本は
80-90年代の一時期流行っていた「万葉集を韓国語で読む」という主旨の
面妖なオカルトコリア本の数々を論破してくれてたときはありがたい人だった >>171
王朝交代があった事を示さないといけない
無い事は証明出来ない。悪魔の証明じゃないんだから
家康の時に権勢を振るった、本多正信父子は2代目になって
遠ざけるどころか改易されたでしょ
代が替われば側近が替わっても何も不思議ない
もちろん替わらない時もあるだろうけど
あと、家康と秀忠の血筋が違うという話は聞いた事はない
あるなら論文で証拠と共に提出すれば脚光を浴びるかも >>182
無い事は証明出来ないなら有ることも否定できない >>174
そんな事はサヨクでなくても人の頭があれば子供でも疑わしいと解る事
それに疑いを持たないのはカルト脳内だけです・・・歴史志向と関係ないぞ
解らないことは推論するしかないね 青谷上寺地遺跡の殺傷が倭国大乱によるものなら
倭国は九州北部から山陰にまたがっていたということになる 弥生時代の鉄鏃の出土は
九州と山陰、兵庫と京都が多いな。
つまり倭国はこの範囲 >>186
対馬海流文化圏だな
水行20日の投馬国は西都原とか鞆の浦と言われてるけど出雲なんだろう >>188
同じ時代にすでに近畿には人がいるし国がある この人、ひと昔前に何か事件があった時(さかきばらだったかな?)に心理学の専門家としてテレビにちょくちょく出てて時期があったね。
確か数カ国語を話せて、さらに単語レベルでは覚えてないけど文法はマスターしてるので辞書があればさらに数ヶ国語できるとか紹介されてたような >>188
2000年近い大昔に、国と呼べるレベルの人とモノが500キロ以上移動するってのがおれには理解し難い 例の魏志倭人伝での邪馬台国への行程、伊都国から続けて読むとも、放射状に読むとも言われる。
だけどこれらは邪馬台国本国からみて北の位置にある(他の連合構成国は詳細が分からない)との記述。
本国はソウル付近の帯方郡から12000里とあり、末盧国上陸の時点ですでに1万里。
放射状に読んだ方が良さそう。
となると海路20日の投馬国は長崎を西回りして有明海に入って柳川や大牟田、
海路10日オア陸路30日の邪馬台国本国は別府や大分なんだろうか?
倭人伝の方向は現実より45度は傾いているから大分平野から実際は北西の福岡平野や筑後平野は「北」との記述は間違ってないように思える。 正直、邪馬台国がどこであろうと現代の我々にはほんと関係ないわ。 この人の論法はキライじゃないが、さすがに邪馬台国→巻向への東遷説は無理筋。 >>156
都の移し方と武烈が悪行だけ記されて呆気なくすぐ死んでる辺り
実は死んでなくて段々と追い詰められて行った見る事は出来る
まぁまず桶兄弟が怪しいから精々簒奪されたのを遠戚が取り返した位だろうが 長崎の出島みたいなもんでいいし、魏でも呉でもどこでもいいからあっちの公式の出先機関があれば、記録の不備で2000年後までよやもやすることもなかったんだろうけどなぁ…。
倭国大乱といい、やっぱり実際のところどうだったんだ?てのは気になるよなぁ。
卑弥呼=火の国の巫女=熊本
台与=豊の国の巫女=大分 だから皇統の中で王朝は三回変わってるんだって。
崇神系
応神系
天武系
継体系
で、記紀を編纂したのは天武系の時。アマテラスの神話は応神(邪馬台国)系から採ったのかな。 邪馬台国東遷説、
根拠は地名相似。
甘木と奈良
日向灘と熊野灘
宇佐と伊勢(東に海)
付け加えるなら、
住吉神社(筑前)と住吉大社(摂津)
位置関係が完璧なんだよ。
西から東に移動したのか。
東からやって来て西を塗り替えたのか。
論理的に読み解くと、
征服者が神様として残るから応神、神功が東からやって来ている。
何故そのような塗り替えが行われたか?
その場所が選ばれたか?
学術的な理由付けは何に求めるかに係ってくる。
伊勢に関しては、
伊都国比定地の三雲井原遺跡を雛型にみる学説あり。
根拠は銅鏡、勾玉等。 毀誉褒貶の有る人のようだが
昔、『人麻呂の暗号』『もう一つの万葉集』『日本語の悲劇』
など古代日本語が朝鮮語で理解出来るとか言った妄説が流行った時期に反撃を加えて
この珍ブームを終わらせるのに一役買った功績は大きい。 >>190
>>192
別に国が一つまるごとってわけじゃなくて、ある程度の数の人が移住して
きただけと考えてもいいと思うよ。 王朝の意味が理解出来てないで
王朝交代の字面に憧れて騒いでるだけなんだろうな
応神くらい、たしかな人も居ないだろ
いろんな意味を含めて >>200
日本全国地名の類似性なんて何処にでもあるんだがね。
福岡の住吉神社は最古住吉神社ではあるが、日本全国に住吉神社は2000社程ある。
同じ名前の神社と言うのは、住吉に限らず全国各地にあり東遷の証拠にはならない。 漢字の語呂合わせが本当に好きだよな
歳よりって習慣に成ってんの?
水平リーベボクの船だっけか?
ここにも「ボク」がある
年寄りの「ボク」好きは異常 >>205
東遷?
逆に東から神様がやって来て地名を塗り替えてるよ、
といった流れだったけど、
わかりにくくてゴメンねー >>204
応神仁徳同一説なんてのもあるんで確かな人ではないと思うがね。 >>51
イエス・キリストの墓が青森にあるくらいだから、邪馬台国が埼玉にあっても驚かないわ。 >>188
日向国の高千穂に住む神倭伊波礼毘古命さん御一行が引っ越してきたらしいよ。
神倭伊波礼毘古命さん御一行の前にも饒速日命さん御一行ってのも引越してきてたけどね。
更にもっと前には大物主さん御一行も引っ越してきてたり、時々大国主さん御一行とか少彦名命さん御一行も遊びに来てた。
ここまでは日本書記にしっかり書いてある。
これだけ外部勢力の情報を書いてるのに、卑弥呼さん御一行について書いてないってのはそれが真実だということ。
卑弥呼さん御一行は北九州の連合国ではあったが、神倭伊波礼毘古命さん御一行にはなんの影響もなく、いつの間にか滅んだ集団だということ。 >>212
その日向というのが今の宮崎ではなく、ここでいう甘木地方に
あって、「日向」という地名自体が「ヒムカ」すなわち「卑弥呼」
のいた場所を示している……という説もある。 >>51
天平時代の夕胡羊太夫は上野の人だっけ?
キリスト教信者とかなんとか 邪馬台国か知らんが福岡の田舎は遺跡ゴロゴロあるし何よりほとんど発掘調査なんてされてないからいくらでも巨大な遺跡出てくるんじゃないか?
そこいらの山だって掘りゃ古代の石器やらゴロゴロ出てくると思うわ
個人的には大宰府辺りじゃないかと思うけどなあ邪馬台国
福岡にあったと俺は確信してるけどな
だって全く発掘調査なんてされてないじゃんw まぁ、少なくとも巻向が決着付くまで無理やね
今は趨勢的に巻向になってる
一部のアレな老人が騒いでるだけ >>215
不美国の南が邪馬台国で
宇美町の南は大宰府天満宮なんだよな >>192
俺たちの祖先はアフリカでっせ?日本人は世界でもっとも移動し続けてきた民族の末裔
その移動距離は10万kmレベル 歴史学者でも考古学者でもない学者が「邪馬台国」を「独自研究」し、
素人をだまくらかして自身の小説を売りつけて金を得る
古田しかり
安本しかり >>219
大切なのは移動したことを証明しうる根拠だよ
文化を持たない時代なら人類学だけで解決せざるを得ないが、既に文化のある時代ゆえに
考古学的な根拠も要求される 魏志倭人伝にいっぱい国の名前出る
当時すでに日本国中に国があったんだよ
九州北部が強かったのは漢倭奴国王がいた昔の話 >>221
だからその根拠が海を挟んだ大陸の文献しかないわけで。 また九州の朝鮮人がわめいてるのか
邪馬台国は畿内で結論出ている >>212
その説に付け足して、邪馬台国畿内説の場合、日本書記の何処に邪馬台国や卑弥呼、倭国大乱、狗奴国との戦を置くんだ?という話になる。
神功皇后が卑弥呼なら、三韓討伐で朝鮮半島に渡って甲冑着込んでドンパチやってることになるが
魏志倭人伝の卑弥呼像では、外には一切出ないし、鬼道を操る高齢の婆さんとあり、余りにも一致しない。
日本書記の流れには邪馬台国も卑弥呼も置きようがない。
邪馬台国は北九州の連合国で、地の利を活かして帯方郡を通じて朝貢していたが、南の狗奴国との争いに敗れた勢力だったというのが
一番無難であり、史書の記述を無理なく汲み取った考え方でもある。 >>224
九州説の人は学会の5%ぐらいの変わり者学者で、
学会ではほぼ結論でてるけど民間の議論の盛り上げの為にあえて九州説に付いてるらしいからねえ
まあ盛り上がってるということは楽しんでる人が多くいるということ
多くの人を楽しませてるならお金がその人に入っていってもいいんじゃないかな >市観光大使「女王卑弥呼」
そこは卑弥呼じゃなくて斉明天皇だろ
朝倉宮で盛り上げればいいのに >>91
>>94
と言うか、先進文明を矢鱈真似したがるのが日本人の習性じゃね。
中国では刺青なんかしてる奴はいねえよ?という情報が伝われば簡単に捨てる。
大和朝廷ではどんどん中国の政治制度や文化を真似していってるし。
近いところでは、戦後はアメリカナイズされてればされてるほどマウンティング上優位に立てたし。
自分では価値判断出来ない人間が多いんだよ、日本人は。 >>91
使者は邪馬台国まで行ってないって何回言わないと分からないんだタコ >>219
最も移動したのは南米の原住民やイースター島の住民 >>213
日本書記では日向の高千穂という地名で表現されているので、日向国であってる。
これを日向という土地に充てるのは屁理屈 >>233
日向は福岡市(奴国)と糸島市(伊都国)の境
古代から先進地域だった北部九州から未開の地関西へ神武が東征へ出発したんだ。 >>233
邪馬台国時代の日向国は邪馬台国連合、狗奴国どちらの勢力圏なんだろうね? >>226
卑弥呼は伊都国に居たと魏志倭人伝には書かれてる
3世紀には北部九州に邪馬台国があり
その後に北部九州の一豪族の神武が東征し先住の関西の豪族を破り入植
701年にその子孫が大和朝廷を成立させた。 >>230
使者は卑弥呼と対面してますから邪馬台国まで行ってますよ。 >>228
そうですね、卑弥呼とは関係ないですね
朝倉宮でいった方がいいですね。 >>237
でもなぁ。伊都国までしか行っておらず、その先の行程は倭人から聞いた話とされるよね。
明らかに魏の使節団の関係者じゃない人が書いてる。
陳寿は魏の公的資料を入手できなかったため、
倭国に渡航したことのある地方役人か商人かの見聞録を参考にしたのかな? >>240
だから伊都国で卑弥呼と会ってるんだよ
伊都国が邪馬台国の都なんだよ。 >>234
日本書記には日向の高千穂に天孫降臨したとある。
これを捻じ曲げて福岡に天孫降臨させるから、北九州論者は信用されない。
卑弥呼が伊都国に居たというのも、伊都国の王の存在と卑弥呼を=と考える説だが、じゃあ魏志倭人伝の邪馬台国の記述はなんなんだということになる。
伊都国論者は、魏志倭人伝の一部だけを切り取ってるだけで当てにならない。 当時の硯は伊都国でしか発掘されて無いからな。
で伊都国から日向峠がばっちり見えてんのよ。
『我が国は日の巫女が占いやって統治しとります。
その場所が、あの山たい』
と高祖山を指差しました。 >>199
継体天皇は傍系を自称しているし捏造としても継体以後は
日本的カウントでは同一王朝。
さらに欧州基準を持ち込むなら三回どころかもっと増える。現皇室は
光格天皇からの光格朝という数え方になるだろう。
欧州は、傍系血筋だと外国王家になることが普通だったから、
傍系=別家という認識でかなり厳格だった。新規イメージのある欧州王室も
日本皇室式のカウントだと結構さかのぼれるはず。 >>218
具体的に
>>219
かけた年月のレベルが違うし、それは「国」の移動じゃないだろ
アフリカから移動してくる時にいきなり日本に移動してきたわけじゃない >>236
>卑弥呼は伊都国に居たと魏志倭人伝には書かれてる
>>237
>使者は卑弥呼と対面してますから
そんなことどこに書いてあるんだ? >>243
弥生時代の硯はこれまで、▽田和山遺跡(松江市)▽三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)
▽中原遺跡(同県筑前町)▽薬師ノ上遺跡(同町)など――で出土してきた。
(出典:毎日新聞2019年2月19日「今後のカギは文字確認 国産硯の製作跡から見えてきた弥生の『文明開化』」) >>245
足利尊氏は西へ東へ5000kmも移動してるな。 魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國 >>80
天照大御神の記事と卑弥呼の記事に共通する部分が少なくないし、何より神武東征は邪馬台国東遷を彷彿とさせる 魏志倭人伝は
役人がサボタージュして、倭に行かずに又聞き情報かき集めて
行ったことにしたとしか思えないあいまいさ >>246
「世有王皆統屬女王國」
「魏の時代には倭王(卑弥呼、壹與)は伊都国に居た、倭の国々は皆、女王国に統属していた」
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩」
>>250
距離で説明・帯方郡ー狗邪韓国−対馬國−一大国(壱岐)−末廬国(呼子〜二丈)−伊都国(糸島市)−奴国(福岡市)−不弥国(那珂川町)
時間で説明・帯方郡ー−投馬国(狗邪韓国)−邪馬壱國 (伊都国) >>249
その時代って一応広い範囲で国の体裁ができてて中で移動してるだけやろ 九州北部の石甕に遺体をおさめる政権が滅亡したあとに
奈良で邪馬台国が出現するよ 「邪馬台国の卑弥呼」なんて、素人考えでは
どう見ても「大和国の日巫女」に悪い漢字当てただけにしか見えないけど
そう主張してる説が見当たらないのは何故 >>256
邪馬台国に敵対していたのは狗邪韓国の奴国
・・つまり狗奴国でこれが北九州にあり、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かっていた
邪馬台国の行程に出てくる奴国は、邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った大国主という王がいる伊都国(出雲)の奴国
・・つまり、大国主神の最初の妃「八上比売」の国、因幡
ちなみに
長官は多模(たも)の不弥国は、田裳見宿禰の摂津国住吉 ID:tBdLMtVw0は糸クズと呼ばれてる電波だからスルーで
伊都国が邪馬台国だと言い張ってるから伊都クズ=糸クズ >>259
魏志に使われてる漢字の大半は小韻の首字、つまり同じ発音の字の一覧表の冒頭に来る漢字で、単なる発音記号
皆それを知ってるから言わない >>256
邪馬台国に敵対していたのは狗邪韓国の奴国・・つまり狗奴国で
これが北九州にあり、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かっていて【邪馬台国は北九州を利用できない】
280年〜-297年の間に書かれた魏志倭人伝では記述の時点で、30箇国が大陸に使者を通わせており
大陸と交易する港も、30箇国がそれぞれ所有していた
・・つまり、大陸と行き来する港は、国毎に30箇所あった
と考えるのが妥当
邪馬台国の行程に出てくる奴国は、邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った大国主という王がいる伊都国(出雲)の奴国
・・つまり、大国主神の最初の妃「八上比売」の国、因幡
ちなみに
長官は多模(たも)の不弥国は、田裳見宿禰の摂津国住吉 つまり
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國 この人大学教授だったからてっきり歴史の専門家かと思ってたけど実は元役人で専門は心理学
歴史家としては在野
今でいうと八幡和郎みたいな立ち位置かね >>269
基本的に九州説を唱えてるのは郷土史家(笑)とか部外者のみと考えて間違いない 魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國
邪馬台国に敵対していたのは狗邪韓国の奴国・・つまり狗奴国で
これが北九州にあり、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かっていて
【邪馬台国は北九州を利用できない】
晋の時代、280年〜-297年の間に書かれた魏志倭人伝では
「今現在、30箇国が大陸に使者を通わせている」と書かれており
大陸と交易する港も、30箇国がそれぞれ所有していたと考えるのが妥当
逆に言えば
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)は、弟のスサノオの娘婿の大国主から伊都国(出雲)を国譲りしてもらったおかげで
一大国(隠岐)−末廬国(松江)という大陸への海路と、それに精通した宗像氏という海洋豪族を手に入れたことにより
大陸に使者を通わせられるようになって、皇帝から「親魏倭王」に任じられたわけだ
そして、邪馬台国の行程に出てくる奴国は、邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国
・・つまり、大国主神の最初の妃「八上比売」の国、因幡
ちなみに
長官は多模(たも)の不弥国は、田裳見宿禰の摂津国住吉 ちなみに
古代出雲王家の子孫らによる伝承では、宗像氏の祖先は出雲6代主王の息子
つまり宗像氏はもともと、出雲の海洋豪族 朝倉の地名がアマテラスからきてるってのはちょっと感動したw >>270
じゃあ魏志に書かれてる絹などの産物の出土が、九州の方が圧倒的に多い理由を説明して見ろよ 邪馬台国の南に狗奴国があると魏志倭人伝に書いてある
狗奴韓国とは全く関係ない 後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かった狗奴国が
北九州にあるのに
狗奴国が敵対する邪馬台国に北九州を使わせていた
なんてバカしか考えない >>280
バカか?
邪馬台国と狗奴国は対立していて魏は邪馬台国に狗奴国対策の土産を渡した関係なのに狗奴国に金印を渡すはずがない >>278
圧倒的?
3世紀に九州のどこでどれだけ絹が出た?
現実はほとんどゼロだろ >>281
北九州の狗奴国・・つまり狗邪韓国の奴国に金印を授けたのは後漢
奈良の邪馬台国に金印を授けたのは、後漢を滅ぼした魏
魏が邪馬台国に、後漢から金印を授かった狗奴国対策の土産を渡した
のは当然です >>281
北九州の狗奴国・・つまり狗邪韓国の奴国に金印を授けたのは後漢
奈良の邪馬台国に金印を授けたのは、後漢を滅ぼした魏
邪馬台国が北九州を利用できなかったのも当然だし
魏が邪馬台国に、後漢から金印を授かった狗奴国対策の土産を渡したのも当然です >>1
記述の信憑性すら疑わしいものを根拠に俺様推測と俺様解釈だけで積み重ねてるのだから滑稽の極みですわ
だいたい何をもってして邪馬台国だと確定するんだ?
これが卑弥呼の墓ですと記した石でも出てくるまでやるのか? 物証も無いのにまだこんな戯言を言ってる馬鹿いるんだな
邪馬台国は畿内にあったんだよ 後漢の光武帝から倭國王として「漢委奴國王」の金印を授かった委奴國は北九州にあった
その後漢から権力を、戦闘で奪ったわけではなく譲られた魏
の皇帝は、「漢委奴國王」の金印を授かった北九州にあった委奴國ではなく、邪馬台国に「親魏倭王」の金印を授けた
魏は後漢から権力を譲られたのだから
魏から倭國王とされるのも引き続き自分達だと思っていた
北九州の「漢委奴國王」の委奴國は当然のごとく
「親魏倭王」の金印を授かった邪馬台国を、倭國王とは認めない
「親魏倭王」の金印を授かった邪馬台国と、ことあるごとに敵対する
邪馬台国に自分の港を使わせるなんてことも絶対にしない
となると「漢委奴國王」の金印を授かった、北九州にあった委奴國は
邪馬台国と敵対していた狗奴国で
邪馬台国は北九州を、大陸への窓口として使えなかった
なんてバカしか考えない 真偽は別にして安本美典はやめとけよ
トンデモ町おこしになるで
ちなみにオレも九州派だがな 新羅の祖は神武の次兄の稲飯命
新羅の王子アメノヒボコが日本に来て垂仁天皇に会って
7つの宝物を献上して日本への帰属を願う
その際新羅は弟に任せたと語る
その後アメノヒボコは但馬で新たに妻をめとって定住して
持ってきたほかの宝物は但馬でアメノヒボコの子孫が継承する
あるとき垂仁天皇がその宝物も全部渡せと言ってきて
アメノヒボコのひ孫が渋りつつ献上する 後漢の光武帝から倭國王として「漢委奴國王」の金印を授かった委奴國は北九州にあった
その後漢から権力を、戦闘で奪ったのではなく、話し合いで譲られた魏・・の皇帝は、
「漢委奴國王」の金印を授かった北九州にあった委奴國ではなく、
邪馬台国に「親魏倭王」の金印を授けた
魏は後漢から権力を譲られたのだから
魏から倭國王とされるのも引き続き自分達だと思っていた
北九州の「漢委奴國王」の委奴國は当然のごとく
「親魏倭王」の金印を授かった邪馬台国を、倭國王とは認めない
「親魏倭王」の金印を授かった邪馬台国と、ことあるごとに敵対する
「親魏倭王」の金印を授かった邪馬台国に、自分の港を使わせるなんてことも絶対にしない
となると
「漢委奴國王」の金印を授かった、北九州にあった委奴國は
邪馬台国と敵対していた狗奴国で
邪馬台国は北九州を、大陸への窓口として使えなかった
つまり、邪馬台国は九州以外の地方の国
で
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國 古代九州北部の三勢力の関係:
みなと(=水・戸(門)=水辺のクニ)=後の「奴国」=今日の博多周辺
みなかた(=みなとの横方向)=今日の宗像(むなかた)
最初にみなとを支配した沿岸盆地の国。盆地は軍事的に有利。
スサノオ→天照に剣を噛み砕かせ→宗像三女伸(=権力放棄)
やまと(=山・戸(門)=内陸のクニ
そのうち、みなかたから覇権を奪取、港を支配し、鉄の輸入独占
天照→玉をスサノオにかみ砕かせ→男の神々が(=権力掌握)
なお、海幸彦・山幸彦の神話では、スサノオの剣が海幸彦の「釣り針」に
化けてるが、九州勢力(みなかた・やまと)と半島倭人との関係がわかる。 9代開化の子孫の父と
新羅王子アメノヒボコの子孫の母を持つ神功皇后は
三韓征伐で半島南部に出兵して属国にしたことになってる
これは神功が新羅王子の血を引いているからそういうことにしたけど
実際にやったのは15代応神天皇で母神功が助けた >>291
ちがうな。
魏代の邪馬台(やまと)の名が後世に大和朝廷に残ったということは、
漢代に邪馬台が覇権を有し、魏代には既に歴史的権威だったということ。
漢代に朝貢してたのは、奴国(博多)。
ということは、漢代は、邪馬台が配下の奴国に朝貢させてたということ。
魏志倭人伝の邪馬台は、三世紀頭の大乱で負けて、
男王(=剣を持つ王=権力追及)を禁止され女王卑弥呼を立ててる、
つまり、大乱で覇権を失い、名目上の盟主に落ちたということ。
この時、おそらく、奈良勢力(百済地域に接近し鉄を掌握か?)が
列島の覇権を握り、かつての盟主邪馬台に朝貢させたということ。 やまとは、みなとの覇権を牛耳れる軍事要塞の国。
つまり盆地の国。これが、やまと(邪馬台)の起こりの地。
@飯塚・田川の盆地 A日田盆地 のどちらかだな。
そのうち筑紫平野を押さえ、物流・軍事の拠点として大宰府
の地を最重要拠点として、西日本の覇権を握ったはず。 >>286
乱暴な言い方をすれば、勘違いや思い違い、脚色や創作が入っていたら記述の根本が揺らぐわけで
邪馬台国や卑弥呼なんて存在していたのかも怪しくなる。
ま、アトランティスの記述を信じて探してる人も実際にいるわけで
見方によってはそのレベルの代物でしかないと言えなくも無いよな。
証明の根幹である魏志倭人伝の信憑性は確かに確実でないのだから。 >>298
なら、徳川幕府・薩摩藩が琉球を使って清国に朝貢させてたのも、
妄想かラノベでしょうね。 倭国というのは本州から四国、九州を含む地域の事を指し、邪馬台国とその連合国家は
倭国の中にあるんだよ、倭国は倭人が住んでいる国で百余国あったが邪馬台国連合国家は
倭国の中の三十余国だな。その三十余国だけが魏国に朝貢して魏国と交流をしていた訳だ。
魏使は朝貢に来ない国にのこのこと出向いていく事は無い。魏使が訪れたのは朝貢してきた
三十余国の邪馬台国連合国家。 安本さんは、朝鮮語で『万葉集』は解読できない 、を書いた人よ。当時、日本の古書が朝鮮語で解読できるとか、馬鹿な本が流行った時代に >>304
極東共通語とかバカな主張も山ほどある
この人の特徴は、数字を信じすぎて流れを考えないことじゃね ノストラダムスの大予言の著者レベルの解釈で騒ぐお前等 九州説はこういう胡散臭いやつしか頼る人がいない
藁にもすがりたいんだろうけど、現実には終わってるんだよ >>307
確かに九州説のためにも人選は慎重にしたほうが良い
オレは九州派だよ 九州説が悪いんじゃない。
九州説を考古学的に正しい説にしようとしてるのに、
すでに否定された騎馬民族説、東征説、地名類似説を持ち出す頭の中が50年前で止まってる馬鹿が足を引っ張ってる。 >>302
3世紀の倭は朝鮮半島南岸から九州
本州は倭種で裸国や黒歯国が在った
三十余国の邪馬台国連合国家は北部九州。 >>309
神武東征は日本書紀に書かれれるくらいだから史実だが問題はその時期
8世紀に覚えてるんだから古くても5〜6世紀のこと
地名類似は記紀を編纂した時に九州の出来事を関西に移したので
辻褄が合うように地名も九州の地名を関西に付けたんだよ。 彼方此方で○○が邪馬台国とか飽きてんだよ
せめて有無を言わせないレベルのモノを発見してから主張しろ
「お前の中ではな」のレベルで戯言主張合戦はどうでもいいんだよ
ムー記事の嘲笑レベルで主張合戦とかいい加減に止めろ >>310
黒歯国が本州というのは賛同するよ。
お歯黒として明治まで風習が続いてるから、征服側の国のことであると考えられる。
8世紀に記紀に合わせて地名を変えたとか本気で言ってるんだとしたらちょっとおかしい人だよ >>310
お前の説では倭国は百余国の説明が付かない。本州の近畿地方までとか四国を入れれば
百余国の説明が成り立つし、半島南岸の国名は倭人伝に記されている。 >>313
>8世紀に記紀に合わせて地名を変えたとか本気で言ってるんだとしたらちょっとおかしい人だよ
歴史を移設する為には必要な作業だろ
地名類を上手く説明できる。 やっぱり物証レベルで語らないとあきまへん
この人ではダメだ >>310
倭人伝では釜山付近の国名は狗邪韓国と記されている >>314
後漢の時に北部九州に百余国在ったものが統一が進んで魏代には30国になってただけの話。 もう、お前ら、オカ痛・・いや、オカ板に帰ってやれよ(嘲笑
ついでに、その優れた洞察力と観察力と知識を駆使してアトランティスも解明してくれ ここの九州説の人は邪馬台国論争がまだ続いてると思ってるの?
教科書が書き換わってきてることも知らないの? >>320
教科書が真実って時点で
お里が知れますね >>318
それが全部「今現在、30箇国が大陸に使者を通わせている」か?
アタマおかしいぞ、おまえ
倭国は百余国で
そのうちの
「今現在、30箇国が大陸に使者を通わせている」 どこだろうと成立するが今の研究の答え
どこにあるかわからない邪馬台国より直接やり取りをした伊都国のが大事 >>297
漢代は、邪馬台が配下の奴国に朝貢させてた
ならば
金印は博多には無いはずだが? >>321
九州説とかいう「俗説」が正しい可能性も少しはあるだろうな
万に一つの可能性だけど
その万に一つの可能性をごり押ししたいなら、物証くらい出そうや
文献を珍解釈してオレ様の珍解釈こそが正しいといくら言い張っても無意味 >>925
畿内説とかいう「俗説」が正しい可能性も少しはあるだろうな
万に一つの可能性だけど
その万に一つの可能性をごり押ししたいなら、物証くらい出そうや
文献を珍解釈してオレ様の珍解釈こそが正しいといくら言い張っても無意味 >>321
ガリレオ・ガリレイやダーウィンの
苦労が分かるよな
俺もネアンデルタール人はクロマニヨン人に進化したと習った世代w >>326
確か、「邪馬台国邪馬台市高野台3丁目1番地」っていう標識が見つかってるはず
詳しいことは ID:jxLWUJfd0 に聞いてw >>>322
俺もお前の考えと同じで元と言葉は最初と言う意味では無くて倭国は元々百余国あり
その内の三十余国が魏国と交流していると考えるのが正しい。倭種の国とは倭国の東方の
国で中部地方や関東地方の事を指している。倭国は九州、四国、中国、近畿までの国と思う
百余国あった国が戦争で三十余国に再編されたと言う意味では無い。 >>1
邪馬台国は筑後やろが
薩摩街道で隼人とのせめぎあいしてたんや 元記事の動画のサブタイトルに「通説への挑戦」と書かれている
少なくともフォーラムを主催した人物は、畿内説が通説であることを自覚している
だがこのスレにカキコミしてる九州説のやつらは、そういう現実さえ知らない
まるで九州説が主流だと思い込んでるパラレルワールドの人間のようだ 「それが定説です」
ライフスペースだったか、懐かしいなw >>321
教科書を疑えってノーベル賞受賞者が言ってましたね。 出雲には、
青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)に別れており
東の畿内の邪馬台国の政争に敗れて畿内を追われ、
西の九州北部の勢力の狗奴国との国境の、荒涼とした出雲にたどり着き
盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始めた、女王・アマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオの
娘の須世理姫と結婚した地元の豪族の大国主命が、
九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、最初に「葦原中津国」まで発展させたのが、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)
その後、その大国にまで成長した葦原中津国に
もともとはアマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオか造った国だっつって
東の畿内の邪馬台国がアマテラス(=卑弥呼)の息子であるアメノホヒを派遣して、
スサノオの娘婿である大国主命に、出雲を禅譲することを求め
大国主命が邪馬台国に国譲りをして、出雲は古代出雲王家が出雲大社に居続けながら邪馬台国の伊都国となり
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)が発展した 邪馬台国的には纏向からはゴミしか出ないと地元民が嘆いてたな
纏向以外に候補もなくて身動きとれんと 宇佐八幡宮の発掘調査とか出来んもんかね
宮内庁管理でも無いわけだし 出雲は、
青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)に別れており
東の畿内の邪馬台国の政争に敗れて畿内を追われ、
西の九州北部の勢力の狗奴国との国境の、荒涼とした出雲にたどり着き
盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始めた、女王・アマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオの
娘の須世理姫と結婚した
「因幡」の国の「八上比売」と結婚していた地元の豪族の大国主命が、
九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、最初に「葦原中津国」まで発展させたのが、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)
その後、その大国にまで成長した葦原中津国に
もともとはアマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオか造った国だっつって
東の畿内の邪馬台国がアマテラス(=卑弥呼)の息子であるアメノホヒを派遣して、
スサノオの娘婿である大国主命に、出雲を禅譲することを求め
大国主命が邪馬台国に国譲りをして、出雲は古代出雲王家が出雲大社に居続けながら邪馬台国の伊都国となり
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)が発展した
つまり
現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町あたり、すなわち
大国主の最初の妃「八上比売」の国「因幡」は
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国なのだ >>320
教科書ってほぼ十年間が最新学説で載るトンデモメディア 恐竜の隕石による絶滅説なんて
子供の頃の教科書には無かったしな
つうか恐竜の想定図も随分変わったね >>343
今では羽毛着て卵暖めてるらしい
あとネアンデルタール人は天使みたいな慈悲深い顔の色白になった >>341
すげーな
これが典型的な九州説論者なんだろうな
学者はみんなデタラメで、ド素人のオレ様こそが正しいと言い張ってればいい そうだななんといっても桃の種があるからな!
すげーよ桃の種が一杯あったんだぞ
桃の種とかいかにも仙人思想が入ってそうじゃねえか
何処にも記載も記録もないけど桃の種が凄いんだよ 「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。
常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」
ノーベル医学生理学賞受賞者
本庶佑 邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主」の
最初の結婚相手・・つまり正室は
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)・・つまり因幡の国の「八上比売」
しかしそのことで大国主は兄弟から嫉妬され、
東の畿内の邪馬台国の政争に敗れて畿内を追われ、出雲の鳥髪山(現在の船通山)へやってきたアマテラスの弟スサノオが
巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚して留まった
青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)
・・つまり
根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)に追放されてしまう もう畿内説だった学者はいなくなっちゃったよ。
地元考古学の纒向学に転向済みだ。
あとは奈良時代とか他の時代で
邪馬台国とは距離をおいてるよ。
近畿周辺の歴史学や考古学の研究機関の
サイトを検索してみてばいい。 あの大家が畿内説を強烈に押したんだもんね
もはや遠慮なく本音が言えるだろ 教科書レベルの知識もない九州説のやつらが
教科書は間違ってると決めつけてるんだからお笑い あえてイデオロギー的に仕分けするなら安本氏は右側だよね
新しい歴史教科書をつくる会に賛同もしていた
神話に史実性を見出だそうとしてる点、安易に神話を切り捨てる畿内説よりは右側にいるわな
在日かどうかは知らんけど
古田氏への攻撃も九州王朝説が左翼に支持されてるから余計に強くなったのかもね >>355
右側は大変結構だがやはり科学的裏付けがないとね
むしろ考古学、DNA解析などの科学的知見のほうが大事で
文献上のアームチェア探偵では読者も集まらん時代でしょ >>342
纏向自体は歴史上すごい遺跡だが
邪馬台国的にはゴミなんだとさ
出てきてほしいものが出てこないとかで落ち込んでる >>358
たとえ奈良が邪馬台国だったとしても交渉してたのは九州北部で
邪馬台国の意思を無視して勝手に交渉されてたことがわかるだけ。どっちみち中国と交渉してたのは九州北部 >>329
主語を変えてオウム返しされるような情けない事を書くなってーのwww
で、畿内説の物的証拠って何なの?wwww 畿内説の物的証拠って何なんでしょうか?w 桃の種でしたっけ?www 桃
畿内説の物的証拠って何なんでしょうか?w 桃の種でしたっけ?www の
畿内説の物的証拠って何なんでしょうか?w 桃の種でしたっけ?www 種 >>347
早良区を含む福岡市全体が奴国
早良区を横切って那珂川町へが不弥国
伊都国、奴国、不弥国を含む北部九州全体が邪馬台国 魏志に卑弥呼ってのが朝貢したと書いてるけど
それは神功皇后だとは断定をさけつつ
暗に神功皇后だと思わせるような書き方をしている日本書紀は
何かを隠している
神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守ケ夏 遣吏將送詣京都也」
神功皇后摂政40年(240年)
魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」
神功皇后摂政43年(243年)
魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」
神功皇后摂政66年(266年)
是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」 魏志倭人伝の書かれている倭は九州一帯の狭い範囲の日本だろう
まだ列島を広い範囲で支配出来る勢力はなかったように思える 卑弥呼とは書いてないか 倭女王
台与の朝貢も神功皇后が摂政してたころということになってて
魏志と年代が矛盾しないように合わせてたり
編纂した人の苦労のあとがみえる 神功皇后と武内宿禰が卑弥呼と男弟つういかにもなフェイクも混ぜてあるね
ちなみに神功皇后は単なる神輿で何の実権も無いから卑弥呼と比するべくもない 魏国以前に漢の国から金印貰っているので
福岡が貿易の中心だったのは間違いない >>369
たしかに苦労の跡が見える。
中国の正史との整合をとりたいとの意思がある。
一方で男系男子相続はどうでもよさそうだ。 倭国大乱の後の九州はオワコン
貿易拠点が壱岐島・糸島から博多湾に移行したのは正しいが 九州から関西に政権が変わったのが701年
卑弥呼の時代から500年以上後のこと。 倭国大乱は熊襲が北部九州に攻め込んできたと考えれば
個人的には話が全部繋がる
伊都国から出てくる遺骨は全て縄文人なので
縄文人同士が争ったのではあるが >>375
朝鮮出兵したとなれば、さすがに魏書にも記述されるだろうから、
神功皇后は卑弥呼ではないな。 まだ畿内説を唱えてる奴がいることに驚く
世は令和になろうとしてるのに >>360>>361>>364
いくつかは高校の教科書に書かれている
参考書にはもう少し詳しく書かれている
最低限の知識くらい身につけてから出直してこい 桃の種爆笑記事が出る頃、大先生は既に最晩年だったのだろな
畿内説の晩鐘が聴こえるわい 邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主」の
最初の結婚相手・・つまり正室は
鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)・・つまり因幡の国の「八上比売」
しかしそのことで大国主は兄弟から嫉妬され、因幡の隣の伯岐国につれ出されて殺害されそうになり、心配した母親が邪馬台国に保護を求め
大国主は邪馬台国のとなりの紀伊国にいたスサノオの息子のところに逃げ出した
そして大国主を追いかけてきた兄弟が、紀伊国のスサノオの息子に、大国主の引き渡しを求めるとスサノオの息子は
東の畿内の邪馬台国の政争に敗れて畿内を追われた父が、
八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた櫛名田比売命と結婚して留まっている
青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)・・つまり
根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)に行くように大国主に告げて、大国主を兄弟から逃がした
スサノオの元にたどり着いた大国主は、スサノオが櫛名田比売命との間にもうけた娘の須勢理毘売命(スセリビメ)と出会い一目惚れ
スサノオが与えた様々な試練を克服して、須勢理毘売命(スセリビメ)を娶り、
九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、自分を追い出した兄弟を平定し、
鉄器を主とする東部出雲と青銅器を主とする西部出雲の統一し、葦原中津国とする
統一出雲の王となった大国主は、東部出雲の因幡から「八上比売」を西部出雲(現在の島根県出雲市付近)の宮殿に迎え入れるが、正妻となった須勢理毘売命の嫉妬を恐れ、生まれたばかりの子を置いて因幡の国へ帰ってしまう。 そののち
大国主が兄弟から殺されそうになったときに母親が相談した邪馬台国から
統一出雲の王となった大国主の元に、統一出雲を譲れと使者が来る
返事に困った大国主は、息子の事代主が答えると言った
そこで事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答え、
抵抗した弟の建御名方も服従すると、大国主は国譲りを承諾し
宮殿がある西部出雲(現在の島根県出雲市付近)は伊都国となり
八上比売が帰った東部出雲の因幡も、伊都国の奴国となった >>383
斉王陛下へ
狗奴国の卑弥弓呼(崇神)を成敗したく、お墨付きとご支援願います。
大和の姫巫女より >>324
まずさ、位置的に同じ奴国でも違う国もしくは何らかの原因で移った思った方が良い 博多湾は金印も出ているし
要なんだす
奈良?どうやって何年かけていくのか >>378
教科書とか参考書ww
一番ダメな奴のパターンだな 朝倉といえば朝倉軌道。法令もコンプライアンスもどこ吹く風の超フリーダムな鉄道会社
そして戦前大量にあった地方軌道線の一つなのに黒字経営という訳の分からない企業 そもそも神功皇后は実在が疑われているし、そのため仲哀天皇(父親がヤマトタケル)や子供の
応神天皇も仁徳天皇同一説なんてのがある。これは多分正体不明の応神(=仁徳)が大王を
簒奪したためにぼかして記述してるんではなかろうか。
さらに応神天皇は神功皇后とともに宇佐神宮に祀られている。考えてみれば主祭神として天皇を
祀っている神社はけっこう少ない(後年になって橿原神宮とか作られたけど)。祟り説のある崇徳
院とか流された後鳥羽院とかを除けば古くからあるのは応神天皇と仁徳天皇くらいしかいない。
そうしてその宇佐神宮にあるのは九州で、もちろん応神天皇が生まれたのも九州。ヤマトタケルや
その子供の仲哀天皇も熊襲征伐で九州に行ってるので、これはつまり応神天皇という九州出身の
豪族が当時の大王を簒奪したことを表しているのではないか。
さらに言うと、おそらく応神天皇は邪馬台国系の豪族の一人で、卑弥呼の墓は宇佐神宮だと思う。
多分、卑弥呼自体は宇佐神宮のもう一人の祭神の比売大神かな。神功皇后は台与の子孫か。
神様的には
崇神系:大物主
応神系:卑弥呼(宇佐神宮)
天武系:アマテラス
継体系:卑弥呼(宇佐神宮)
って感じですかね。 10代崇神は8代孝元〜9代開化の存命だった兄弟たちの中で
言うことを聞かない人物を実力で排除した
それが武埴安彦の叛乱であり
箸で突かれる百襲姫の謎の死にもつながる
その後15代仲哀天皇が若くして死んで
9代開花の子孫である嫁の神功皇后が摂政として政権を取って
神功皇后の死後息子が15代応神になる
10代崇神や15代応神の頃に政権の簒奪があったのではなく
一族内部での政権争いがあった >>377
根拠も無く南が東や距離も時間も一緒にして連続読みとか昭和で思考が停止したままなんだw そのまま読んだら、九州の南に大きく外れるので、距離を根拠もなく短くしてるのは北部九州説の奴らも昭和で停まったままだなw
だから短里だの、水行は帯方郡からの距離などと意味不明な解釈をもちこまざるをえないわけでw 朝倉かどうか知らんけど、北部九州は間違いないだろうね >>396
短里や水行は帯方郡からの日数との結論は
魏志倭人伝の記述と現実の世界とを照らし合わせると当然のことだ
否定する意味が分からない。 明朝までは日本列島は現在で言う九州から沖縄方面に在ると知識層に思われてたんだから仕方無い面はあると思う
>>391
一番ダメなやつは、教科書レベルの知識もないくせに、教科書を否定するやつだ
お前のこと 九州の邪馬台国説は村おこしのためにやってるからな
俺の地元もそうだったw もうそろそろAIにデータ放り込んだらこの国の成り立ちがくっきり見えてくるんじゃねーの
邪馬台国だけなんで好きかねえ
北部九州が重要地域であったことは間違いないんだからもういいやろ 邪馬台国が九州に在ったことが明確になると3世紀段階で日本は未だ分裂状態で
大和朝廷など成立していなかったことになり記紀の内容が全くの作り話だと判明するから
記紀の研究を日本古代史の研究としてきた人からすると絶対に認められないんだ。 >>403
教科書レベルって言う表現が
教科書原理主義のバカ丸出し
だという事に気付いてないのか?w >>408
無知の分際で、根拠なく教科書を否定するから救い用のないバカ確定なんだよ >>410
根拠なく教科書を盲信するから
バカにされてるのに気づかないのか・・・ 教科書の記述を変えるには、それを否定する論文を書くなり、学会で発表するなりしないと無理
何故なら教科書は、会社から信用を与えられている大学教員が著者であるから
つまり、学術的検討や議論を経たうえで、大学教員の大半に認められた意見を書くわけだ
教員でもないくせに、教科書の記述を否定したり、盲信とか言い出すのは結局、歴史をオカルトのように扱っている幼稚な子供
そういう人間の書く文章は学術的考察が一切抜けている 今の通説は先行する通説を否定して成立している
それが学術の営みだろうに
学者が言ってるから、教科書に書いてるから、を根拠にしちゃう人はむしろ学術には向いてないんでないかい?
歴史に興味持つのやめたらいいよ
お前が気にしなくても学者が上手くやってくれるからw >>411
お前はほんと救い用のないバカだな
小学生が知識ゼロの段階から歴史を学ぶには教科書は必須だ
専門家が資料を調べ発掘などの新しい知見で、従来の通説や教科書を改めるのは、
先の先の先の先の先の段階だ
ここの九州説のやつらは教科書に書かれてることさえ知らないほどで、基礎知識に欠けている
そんな無知が専門家気取りで、根拠もなく教科書を否定してるんだからお笑いだってことだ >>380 >>384
こうして統一出雲を譲られた邪馬台国のアマテラス(卑弥呼)は、統一出雲の国々を平定するため、邪馬台国からアマテラス(=卑弥呼)の孫のニニギを一大率として派遣し、出雲に見たこともないような巨大な宮殿(出雲大社)を建造して、大国主一族を王として住まわせ
国譲りに抵抗して闘った建御名方は助命されて、邪馬台国の東の果ての支惟国(信濃)に宮殿(諏訪大神社)を建設し住まわせた
さらに、小さな港だった松江を大陸との行き来ができる立派な港に改造して末盧国に、外洋の拠点として隠岐の島を改造して一大国とし、航海術に長けた出雲の一族(後の宗像氏)を得たことで、奈良の山間民族であった邪馬台国は、大陸との交易を開始することとなり
九州の狗奴国(稲作・青銅器伴った海神族)王【卑弥弓呼】を「漢委奴国王」に任命した後漢が220年に権力を禅譲した魏(220年 - 265年)から、正始元年(240)「親魏倭王」に任命され金印を授かった >>413
もちろん、証拠が出てくれば、学説が変えられるのは極々当たり前のこと、そのことと学術経験のある人間を否定することとは何も関係がないな
あらゆる学問には多くの研究者がいて、彼らが日々精力的に動き、新しい発見があり、変っていっているから、昔一般的だった学説がある日
突然塗り替えられるのも、彼らが学術的に正当な論文を書いたり、綿密な調査報告を行ってきたからだ
そのような学術というのは、最高学府である大学もしくは行政の研究機関で行われることで、世間一般の信頼も得ている
結局、学術的訓練を受けていない人間の説を信用することは、オカルトを信用することなんだよ
マスターベーションと同じだ
このへんはまともな大学を出ていれば誰でも理解できることなんだけどな
>>416
残念ながらネトウヨだわw
君、まともな学校を出てないのがまるわかりだねw 北九州の門司に「大里だいり」という地名があるけど、これはかつての宮廷である内裏が置かれていたはず >>417
それで持ち出してきたのが安本ってギャグかよw >>407
半分くらいが神話なのに今更作り橋も糞あるかよw
その神話も含めて捏造されてる部分も、元ネタは何か謎その様に変えられたかを探っていくのが重要 >>412
純学術的な研究の結果と言いたいんだろうが、政治的、風潮も多分に影響する。
従軍慰安婦に対する記述の変遷を見るとあきらか。
ああ、邪馬台国は畿内だと思うけどw >>418
子供の使ってる教科書見ると
未だに従軍慰安婦とか南京大虐殺とか記述されてるんだけど
俺の知らないところで決定的な証拠でも見つかったのかな?
学術的に正当な論文やら綿密な調査報告とやらがあるんなら
教えてくれ >>380 >>384 >>415 つづき
その後、邪馬台国から一大率として出雲に派遣されていたニニギの二人の子、海幸彦と山幸彦が、次の一大率の座を巡り
権力闘争を始め、破れた山幸彦は出雲を追われて九州の狗奴国に亡命
時を同じくして、大陸から正式に倭王として認められた邪馬台国は、かつての倭王であった九州の狗奴国の平定を目指し戦争となる
戦力的に劣勢となった九州の狗奴国は、亡命してきた山幸彦を魏に派遣することを決定
山幸彦は狗奴国の「漢委奴國王」の金印を携えて、伊都國(出雲)ではなく、北九州の狗奴国の大陸との窓口の竹斯国(筑紫)から、密かに海神=魏に赴いて事態を告げようとするが、金印は竹斯国(筑紫)から一支国(壱岐)に脱出する際の戦闘によって行方知れずになってしまう
一方、倭国からの使者(山幸彦)が、連絡もなく誰にも知られずに、帯方郡にこつ然と現れたことに、魏はとても驚くが、
正始八年(247年)に倭国に張政を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを邪馬台国(奈良)と狗奴国(九州)に告げて諭した
しかしその最中、邪馬台国王でもあり「親魏倭王」でもある【卑弥呼(天照大御神)】が死亡し、事態はますます混乱する >>364
普通、金印みたいなものは居住地には埋めないよね。埋めるとしたら神聖な場所かお墓。
大和で神聖な場所といえば三輪山。あるいは、伊勢神宮内宮にあるという三種の神器の八咫鏡。
八咫鏡をちゃんと調べた方がいいと思う。魏の鏡だったらアマテラス=卑弥呼で間違いない。 >>380 >>384 >>415 >>424 つづき
パニックとなった【卑弥呼(天照大御神)】の官たちは、狗奴国の逆襲に怯え
かつて出雲の国譲りの時に自分達と闘い、武芸と開拓の神として尊崇を集めている大国主の次男のタケミナカタの子孫の男子を、諏訪から呼び寄せて男王としようとする
しかし大国主の長男のコトシロヌシの子孫である伊都国(出雲)の王に正統制を疑問視されて猛反対され、国中が不服で互いに殺しあう最悪の事態に発展
その後、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定するも、張政たちは檄をもって壱与に教え諭した
が、今がチャンスとみた狗奴国は、
竹斯国(筑紫)から、密かに海神(魏)に赴いて事態を告げた後、日向の高千穂の宮にとどまっていた「山幸彦」の孫のカムヤマトイワレヒコを担ぎだし
狗奴国(九州)から邪馬台国(奈良)に向けて東征を開始
大国主の次男のタケミナカタの子孫の男子を、諏訪から呼び寄せて男王としようとした【卑弥呼(天照大御神)】の官に不信感を募らせて邪馬台国(奈良)から寝返った、大国主の長男のコトシロヌシの子孫である伊都国(出雲)の王も途中から東征に加わって
ついには【卑弥呼(天照大御神)】の官だった「饒速日命」を倒して邪馬台国(奈良)を制圧してしまう
まんまと邪馬台国(奈良)の制圧成功した狗奴国(九州)は邪馬台国(奈良)に、新たに「天皇」という官職を設け
カムヤマトイワレヒコをその新しい官職「天皇」とし初代神武天皇が誕生する >>380 >>384 >>415 >>424 >>427 つづき
その後暫くは神武を天皇として迎えた邪馬台国(奈良)と、狗奴国(九州)の関係は良かったものの
初代の天皇「神武」の死後、次の天皇を誰にするかで、また一気に関係が悪化する
もともとは邪馬台国の流れを汲む神武天皇勢は
神武が軍事クーデターを成功させてから、邪馬台国で出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミを推し、
初代天皇と一緒に軍事クーデターを起した九州・狗奴国勢は
初代天皇が九州狗奴国日向の高千穂の宮にいたときに日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミを推し
両者の蜜月は終了
結局、もともとは邪馬台国の流れを汲む新しい天皇勢が推していた、
初代天皇が東征後大和国で出雲のコトシロヌシの娘との間に作った子カムヌナカワミミが、
北九州狗奴国勢が推していた
初代天皇が北九州狗奴国にいたときに狗奴国の豪族の娘との間に作った子タギシミミに勝利して、
奈良の妾の子である弟が、日向の正室の子である長男を殺害排除する・・かたちで邪馬台国の次の天皇「綏靖天皇」となる >>380 >>384 >>415 >>424 >>427 >>428 つづき
しかし『天皇』を巡る混乱はおさまらず、それ以降『天皇』は
出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統と、北九州狗奴国の流れを汲む正室系統の間での、血なまぐさい政争が8代続き(欠史8代)、
その後『天皇』が、出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統から、恒常的に代々輩出されていくようになって、ここにやっと邪馬台国は安定
邪馬台国は「大和国」となって、本州から九州までの、現在の日本とほぼ同じ領土を統一する大国となり、隋(581年 - 618年)に遣隋使を派遣することとなる
『隋書』倭国伝では、百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良 >>425
建武中元2年(57年)に「漢委奴国王」を授かったのは、北九州の狗奴国
正始元年(240)に「親魏倭王」を授かったのは、奈良の邪馬台国でアマテラスは卑弥呼
出雲は奈良の邪馬台国に国譲りした
という前提だと、澱み無くストーリー展開できるのよね >>431
ラノベアニメブームだから美少年美少女で脚本書けよ
角川に持ち込めよ >>423
横レス失礼
従軍慰安婦
特攻は形式上は志願であったが実質強制だったのと基本的に同じ
南京大虐殺
従軍した日本兵の日記や証言から捕虜の銃殺やゲリラ防止のため住民無差別虐殺があったことは確実
中国政府の主張する30万人が嘘だからといって、虐殺した事実は否定できない
日本政府も数万人という見解を示している >>407
そもそも九州の女王国が王都で、大和は辺境の新興国なら何もおかしくないし、記紀も事実になるんじゃね 邪馬台国はヤマト王権に飲み込まれた100の国の一つにすぎない >>38
倭人伝普通に読んだらパプアニューギニアあたり 倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、
畿内よりも九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。
刀子は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県では210本も出土したのに、奈良県では1本も出土しない。
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。 弥生時代鉄鏃出土数(鉄鏃とは鉄製の矢じりの事)
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3 (1)女王国
邪馬台国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
(2)女王国以北(女王国に服属)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
(3)女王国と対立してる国
狗奴国
(4)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の国
(5)倭人ではない人種が住む国
侏儒国、裸国、K歯国 >>304
金田一春彦も朝鮮語で『万葉集』は解読できないって書いてる。
安本ビチョンは好古都を岡田と読むと
「卑弥呼は日本語を話したか」の中で書いてる。
オレは好古都をコクトゥと読んで和名抄記載の「久久知=ククティ」と同じで後に「菊池」に訛ったモノだと考えてる。 >>443
倭人伝の行程で知られる(2)の国は南北に並んでるってことになるよね。
なお実際の釜山、対馬と壱岐、末盧は北西南東の関係なのに倭人伝では「南北に交易し」
とあるように現実と座標軸を傾いて認識していることごわかる。
だから大分が邪馬台国だとすると対馬、奴国(福岡)だとすると邪馬台国は大分、 宇佐は邪馬台国連合の1つの国であって邪馬台国そのものでは無い、倭人伝には
邪馬台国には七万戸の家があると書いているから邪馬台国は九州で1番広い平野部のある
朝倉か佐賀あたりになる。邪馬台国の東に海があると書いているのは邪馬台国連合国の
東に海があると考えれば良いので邪馬台国本体は北部九州の内陸部にあっても良い。 使節「お前の国はどのくらいの大きさなんだ?」(攻める時に大事のことだからな……)
役人「ええ、だいたい七万戸くらいですかね」(馬鹿にされると嫌だから大きく言うとこ……)
使節「おお、素晴らしい国ですね」(蛮人に嘘をつくような知恵もないだろうしな……) >>442
やっぱ九州だよな
デカい遺構が出たから近畿ってことはほぼ無いわ 1〜4世紀の中国や西洋やローマの王の平均在位機関を調べて約10年として
それを日本に当てはめて神武即位を西暦180年ごろとしてる
この辺の安本の説は面白い 安本は福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町、夜須町)の大己貴神社を元に
奈良の三輪山のふもとに大神神社を作ったとしてるが逆
奈良の方が先にできてて三韓征伐で九州に来た神功皇后が
大神神社を真似て大己貴神社を作った
つまり朝倉が発展したのは邪馬台国より後の時代 >>439
ミチョンでは?
安本美典って昔笑っていいともによくでてた人だな 本当は違うけど半島では王朝ができたのが
紀元前2世紀てことにチョンどもが捏造していたので
日本もこれに対抗してもっと古くから王朝があったことにした
でも倭女王が魏に使いを出した年代はあわせる必要があったので
初期天皇たちがすごく長生きしたことにした >>452
延喜式神名帳では奈良の大神神社は大己貴神社と記し、朝倉の大神神社は
於保奈牟知神社と古い字体で書かれている。 >>442の弥生時代鉄鏃出土数で福岡県と熊本県の出土数が他県を圧倒して多い
これは福岡県と熊本県が戦争状態になっていたからだ、要するに邪馬台国は福岡県に
あり、敵国の狗奴国は熊本県だったと言う事になる。 >>450
王位簒奪が横行したローマでは短いだろうな
もっともそもそも欠史が実在と考えなければ20年ぐらいで大分常識的になる 倭女王が魏や西晋に朝貢した西暦238〜266年と
14代の嫁の神功皇后の在位期間を重ねる必要があった
さらに王朝発生年のインフラが起こった結果
半島よりもずっと前の紀元前660年2月11日に
初代神武が即位したことにしたから
初期天皇たちがものすごく長生きになった
記紀の年代はおかしい
年代とそのつじつま合わせの部分は特に
でもあとはだいたいあってる
多くが嘘だとするとあそこまで作るほうが難しい > 産業能率大
通信制がメインで、他大への編入学試験専門の予備校みたいになってるとこだっけ? >>452
多分仲哀天皇、神功皇后、応神天皇は実在しない。 あそこまで嘘を作り上げるほうが難しいと言ったほうがわかりやすいか
天皇は合議的支配のために多くの地方から嫁をもらう多妻制で
地方の文献との整合性もあって
記紀に書いてる多くの嫁の名前までは捏造しにくい
>>460 魏志との年代合わせだよね
仲哀天皇の記載部分は簡素すぎて違和感ある >>436
記紀だと既に3世紀には大和朝廷が西日本を統一してた
>>443
1)女王国
伊都国、奴国
(2)女王国以北
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
(3)邪馬台国(女王に服属)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国
(4)投馬国
狗邪韓国
(5)女王国と対立してる国
狗奴国
(6)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の国
(7)倭人ではない人種が住む国
侏儒国、裸国、K歯国
>>447
七万戸だから北部九州地域全体が邪馬台国だな
邪馬台国の東には海がり、海を渡った先には倭種や侏儒国、裸国、K歯国が在ることとも説明できる。
>>449
北部九州地域からは紀元前1世紀〜弥生時代の硯は多数出土してる
北部九州地域では早い時期から文字が使われ始めてたみたいだ。 ×王朝発生年のインフラ
○王朝発生年のインフレ
ま〜ち〜が〜え〜た〜 記紀に書かれてないものを信じるな
男子全てがイレズミしていた国など日本であるわけがない
ヤマト国家ではイレズミの文化がない、つまり邪馬台国は別の国の土人の話 >>461
神武東征の時期は邪馬台国時代よりは後だな
関西でも鉄製品が増える5世紀くらいだろう
神武から欠史八代、次に天武が来る程度が大和朝廷の歴史だな
崇神などは九州の倭王朝の歴史で、それを関西に書き換えたものだな。 樽悶も、こういう無駄スレ立てるのもうやめなよ!
安本氏の余生は静かに過ごさせてあげなさい 5chは既に在日チョンに買収されているのをご存知ですか?
在日チョンの5ch運営が規制してリンク貼れなくなってしまったので、
「2chの譲渡先、5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員」で検索してみてください
そして、在日チョンのバックに居るのは売国政党の立憲民主党です
在日チョンが5chを買収して、売国左翼や在日チョンにとって有利な世論誘導しようと企んでいます
5chのあらゆる板でジャップがどうのとかほざく、日本人卑下する奴とか、「アベは売国奴だー アベは統一協会だー」みたいな頓珍漢な政権批判するレスが異様に増えたと思いませんか?
売国政党の立憲民主党の支持母体の一つは在日韓国人組織の民団です
そいつらが5chを買収した在日チョンの背後にいます。↓民団と連動して動いている売国政党の立憲民主
在日チョンの帰化議員がワンサカいる売国政党の立憲民主党
↓
「竹島は日本の領土ですよね?」立民・白真勲(ハク・シンクン)議員を再直撃! 徴用工判決には「コメントできない」連発…
在日韓国人組織の民団は立憲民主党の支持母体の一つ。売国政党の立憲民主に絶対に気を許してはならない
↓
在日本大韓民国民団の中央本部新役員と意見交換 - 立憲民主党
安倍さんより以前は日本の保守派政治家はみんな親韓派だった
安倍さんが政界の保守派を改革してくれたんだよ
だからチョンは安倍さんを引きずり降ろそうと必死。
5chの運営がチョンに買収されていると、とっくにバレている以上、完全記者制というシステム止めるべき
チョンに買収されている運営が全てのスレ立てをコントロールするとかありえない
.
.
安室のバックのヤクザバーニングやエイベックスを業界から完全に干しましょう。
メディアや芸能界が反社会勢力と繋がっているのが許される時代ではありません。エイべトップの松浦勝人の犯した犯罪行為は上場企業のトップとしてありえない
↓
【怖い】ブラック労働が発覚したエイベックスの闇!バーニングと密着し強大な権力を発揮!株主の男性に暴力団をあてがい脅迫も!
https://yuruneto.com/avex/
「狙いはやはり”ドン”とエイベックス!?」暴排条例摘発の本丸は芸能事務所とレコード会社か
https://www.cyzo.com/2011/11/post_9057_entry.html
..
640624 >>450
面白いよな
エンタメとしてみればだけど >>441>>442
この数字は弥生時代の全期間を通しての合計の数字だよな?
3世紀の史実を解明するために、紀元前まで遡って関係ない年代に出土したものまで合算する理由を説明してくれ >>470
後漢末から三国時代は大陸が戦乱で日本への鉄の供給が多くなく
鉄が普及していた地域は北部九州地域に限定されてたみたいだよ
「淡路島 五斗長垣内遺跡」 そこから出土した鍛冶炉は近畿の鉄器の時代を象徴するには
どうもぜい弱であり、出土鉄遺物も小さくて薄いものが主で 時代を引っ張るような鉄器は出土していない。 >>471
だから何?
3世紀の史実を解明するために、紀元前まで遡って関係ない年代に出土したものまで合算する理由を説明してくれ >>470
弥生時代に継続して鉄の矢じりが出ない場所は
邪馬台国にはなり得ないから
まあ今後奈良から大量に出てこないとも限らないけど
望みがないのは皆理解してる
もう畿内説なんて諦めろって >>473
倭人伝のどこにも書かれてないことを創作して言い張ってるだけ
そういうの止めな >>473
そうだな、諦めろ
国立歴史民俗博物館 よくあるご質問
https://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
大多数の考古学者は大和説です。 「卑弥呼」と「徐福」では約400年のタイムラグがある。 >>475
考古学者と歴史学者は違うんだよね。さらに学者が間違ってることも
あるんだよね。 「九州のヒエラルキー」めぐり大激論
地元番組が発表した「ワースト県」は...
https://j-town.net/fukuoka/column/gotochicolumn/278219.html?p=all
福岡県>>熊本県>鹿児島県=長崎県>大分県>佐賀県>宮崎県 九州説は学者に見放されたし、安本みたいなのがインチキしてますます胡散臭くなってる
どこかの省庁でデータ捏造してたのと似てる この時代に、倭国は既に朝鮮半島で
狗奴韓国と接していたという重大記述。 朝倉市の卑弥呼関連祭
朝倉市民祭「あさくらにぎわっ祭〜卑弥呼の恵み〜」
朝倉市民祭「花の邪馬台国祭り」
朝倉市 「女王卑弥呼コンテスト」
朝倉市 「天然温泉卑弥呼ロマンの湯」
甘木鉄道 「卑弥呼号」
甘木駅前 「日本発祥之地卑弥呼の里」の石碑 >>455
古い字体って篆書体かwww
//font.designers-garage.jp/products/list?phrase=%E6%96%BC%E4%BF%9D%E5%A5%88%E7%89%9F%E7%9F%A5&font_category=10&weight=&os=2&type=&maker=&submit=font_search >>458
長生きの原因は
麦の穂が黄色く色付く5月が「麦の秋」で
立夏〜立冬、立冬〜立夏をそれぞれ1年と数えたから >>482 邪馬台国は朝倉じゃないよって言いにくいふいんき >>441
残念
鉄文化の痕跡は、九州よりも東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)のほうが
圧倒的に古くて多い >>456
>>441
残念
鉄文化の痕跡は、九州よりも
東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)のほうが
圧倒的に古くて多い 鉄なんて貴重品だから鉄の矢じりはリサイクルして刀剣や農機具を製造したと考えるのが妥当。 >>488
お前の主張する根拠を明示しろ。口先だけならどうとでも言えるぞ。 >>488
出雲は大昔から辺鄙な片田舎、あんな所が栄えていたなど寝ぼけた事を言うなよ、
朝鮮系関西人が >>1
邪馬台国との位置関係
【朝鮮半島】投馬国 (狗邪韓国)
【九州北部】邪馬台国(対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国)
【九州南部】狗奴国 >>491
>>441>>442の数字は弥生時代の全期間を通しての合計の数字だよな?
3世紀の史実を解明するために、紀元前まで遡って関係ない年代に出土したものまで合算する理由を説明してくれ
インチキするためと正直に答えてもいいんだぞ >>491
はあ?
日本神話で出雲は重視されてるのに荒神谷遺跡が出るまでは考古学者はそんなの作り話だと相手にしてなかったぞ。 >>487
嘘はいかんよw
北部九州では紀元前3世紀頃からの鉄器が使用し始め
弥生時代には鉄器が普及してた。 >>100
初期の天皇の年齢問題をなんとかしようとすると、皇紀がめちゃくちゃになってしまうジレンマ w >>495
倭国にろくな硯も無い時代に漢字の地名が西から東に行くわけないよな。
朝倉地名に関しても倭の五王の1人と言われる実在性高い雄略天皇の朝倉宮が、斉明天皇の朝倉宮より先な訳だし。
甘木周辺部名相似に関しては東から西と推定せざるをえない。 12代景行天皇には80人の子供がいたよ
その中に双子がいて兄が大碓命で弟が小碓尊がヤマトタケルだよ
古事記だと景行が美濃の美人姉妹を嫁にしようと
大碓命に連れてくるように命じるよ
大碓命は美濃に行くけど景行の命令には従わず
別のぶさいく姉妹を差し出して
美人姉妹をこっそり自分の嫁にしちゃうよ
ある日大碓命が食膳にこなくて
景行が小碓命(ヤマトタケル)に
「ねぎし教えさとせ」と言って大碓命を呼びに行かせたつもりだったけど
勘違いした小碓命(ヤマトタケル)は双子の兄の大碓命を
捕まえてつぶして手足をもぎ取ってムシロに包んで殺しちゃうよ
景行は小碓命(ヤマトタケル)に転戦させて距離を置くよ >>478
考古学は歴史学を補佐する学問ではあるが、文献にはない、証拠を呈示できる学問でもある
まさに論より証拠だな
そんな考古学者でも間違えることはあるし、色んな考えの人もいるし、意見が対立する場合もある
だけど、多くの研究者の議論や検討によって最終的な信頼性は高められて行く
だが、いくら学者だとは言っても、他分野の人間が行った独りよがりの研究の成果でしかない説を信用するのはもっと大きな間違いだよ
邪馬台国位置論は、とっつきやすいために、大学で歴史学を学んでいない人間でも本を書けば売れてしまう分野なのが、話をややこしくしている
しかもその読者は、倭人条しか読んでいないので、一定の説得力があったり、自分の考えに合致すれば、その説を盲信してしまう傾向にある
誰かが(学術とは関係のない)邪馬台国教だと言ってたけど、言い得て妙だと思う >>362
ぐぬぬしてないで、桃の種以外の物的証拠をだしてみなよw >>24
正確に言うと甘木朝倉地区は筑前に入る
しかし経済圏は久留米がメインの筑後 古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、
以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。
特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある
ちなみに
初代天皇神武天皇の皇后(初代皇后)の
日本書記ではヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)
古事記ではヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)
の父親は「出雲の」事代主 >>502
>>506
北部九州より後世の話だな。 >>507
北部九州が製鉄を始める前に奥出雲はすでに野たたら製鉄だらけですよ >>508
たたら製鉄の原料は砂鉄だから過酷な労働量に比べて採取量が非常に少ないから
結局たたら製鉄は長続きしなかった。朝鮮系関西人が偉そうに大口を叩くんじゃ無い 邪馬台国は大和国の当て字だろうし、そこに3世紀の邪馬台国があればその後の古墳時代になるのも不思議じゃないし。
いきなり、最大の権力者が九州から機内に遷都するわけないだろ。
九州説は無理があるよ。 >>508
そこまで言うなら
せめてそられの遺跡名と年代を教えてくれ >>511
普通はそう考える
九州には候補になりそうな遺跡もないし遺物もないし >>511,>>513
神武東征の話は、天皇家が、天孫降臨の地である九州から来た、天孫の子孫であるということを主張する重要な部分。
わざわざ記紀にそう書いたということは、倭国の正当な支配者を名乗るには、九州から来たとする必要があったということ。 たたら製鉄の発祥は福岡市東区を流れている多々良川河口で始まったから
名付けられた、出雲のたたら製鉄は博多の海人族が製法を教えた訳だ。 >>503
桃の種以外にも犬まるごと1匹分の骨が出土したんだぞwww
犬食い民族が暮らしていた証拠。 北海道や東北の過疎の町も邪馬台国で町おこししてみれば?
何かでっち上げられるやろ >>513
といっても畿内にも候補の遺跡がないんだよな
纏向は馬具と布留式土器のおかげで4世紀以降と判明したし
そういえばこの前も桃の種の年代をねつ造して悦に浸ってたっけ >>518
国内的には中国王朝のお墨付きをもらったことを誇示しつつ、後世や国外向けには朝貢はなかったことにしたい、
見栄の綱引きをしている様子が伺える >>304
元号考案する役安本の方が良かったよねw >>514
天皇家の祖先が九州南部から来たという神話と
邪馬台国が九州北部にあったという主張はどう関係があるんだ? >>521
仁徳天皇凌なんて最大の証拠だと思うけどなあ。
なんせ、エジプトのピラミッドに匹敵する最大の墳墓だろう。
これだけの土木工事をするにはそれだけの労働力を集める、かなりの権力がなきゃ無理だし、
それは機内に大和朝廷の基礎があってこそじゃねえの。
つまり、巨大な墳墓を作るだけの人口があったという事。
加えて高度な測量もできる文化があったわけでしょ。
長年、その地で権力を築いてなきゃ無理なこと。 >>502
1400年前って6世紀じゃねーかよ
新しすぎるよ >>444
好古都はハカタと読む
しかし、西暦107年に帥升は160人の生口を後漢に献上してるのに
卑弥呼は男女計10人、台与は30人としょぼい
邪馬台国の規模はそれほど大きくない
帥升は倭国大乱前の統一王だと思われる
160人の生口を洛陽まで連行するのは大変であっただろう 卑弥呼から謎の四、五世紀って大して離れてない
短い期間でツジツマ合わせしたから色々変なんだろ
神武は四世紀初頭には東遷して大和の基盤を作った
それ以前は九州の話だよ >>524
吉野ヶ里発見あたり北部九州の自治体がうるさいだけで
普通に方角は信じりゃ南部にまでは行きついてもおかしくはない
そして東遷の真偽もあまり重要ではないんだわ
東遷が記されたって所に意味があるわけで
してなくてもかつて倭を代表すると認められた勢力と繋がってる事にして箔付けたいという
当時の政治的な判断は十分理解出来る >>530
九州南部には邪馬台国と敵対する勢力があったと主張しながら
今度は邪馬台国と繋がりがあると言いやがる
支離滅裂な屁理屈 >>498
木星は黄道(水・金・火・木・土の五大惑星と地球の公転軌道)を約12年周期で移動するため,
古代中国では五行説に基づいて木星の黄道上の位置,またはその像としての太歳の位置による
紀年法が行われたので木星を歳星と称した。
干支が辛酉の歳は天命が改まる年で、王朝が交代すると言われてた。
皇紀はその辛酉革命説に従って決められた。
wiki「辛酉」より引用
>明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注
>「天道不遠 三五而反 六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」
>を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命がある
と考え
>推古天皇9年(601年)がその年に当たり、
>この年の1260年前である西暦紀元前660年(の旧正月)に神武天皇が即位したとする説を立てた。
だから「紀元前660年(の旧正月)に神武天皇が即位した」というのは史実ではなく
支那の漢代に流行した「緯書」(隋の煬帝により禁圧され散逸、三善清行による「革命勘文」の
オカルト理論から導き出された荒唐無稽な説。 >>514
道鏡事件でも九州大分の宇佐八幡宮にご神託を伺ってるし
皇室と九州には深い繋がりがあることは明白だな。 >>515
弥生時代が始まって600年後の紀元前3世紀、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から板状鉄斧(鍛造品)の頭部が出土。 >>533
日本語で読める訳ないだろ
倭人の為に当て字してる訳じゃないし
平仮名の無い国が自国の発音に近い漢字を当てた訳だ
当て字したのは当時の魏の人だ
好の字の現在の発音くらい解るだろ >>531
更にそれが南にズレだけだっての、天孫降臨と無理に繋げるつもりも無いけど敵対が隼人なら普通に南だろうが 弥生時代は米作りが始まった時代なんで、大きな国があるとしたら当然、米作りができる平野だよな。
無論、あちこちに小さな集約や国はあったと思うが、巨大な国があったと考えられるのは機内しかない。
当時はね。
大阪を中心に京都や奈良盆地や名古屋あたりに決まってる。
なのに、九州の山奥が邪馬台国とか、バカバカしくて。 >>535
現在は糸島市になってるよ。
すぐ隣の海側には神功皇后由縁の鎮懐石八幡宮がある。 >>537
妄想で自分勝手なストーリーを作ってるだけ 日数は間違ってない
魏の使者が邪馬台国に行っていた場合も
伊都国で待っていた場合も
日数にズレがあれば使者は疑問に思ったはずだが
そういった記載はない
そうなると方向がおかしい >>542
公務員とかカラ出張とか平気でやるじゃん。 >>542
距離も日数も方向も間違ってない
一か所、日が月に誤記されただけ。 >>539
続き
ちなみに、家康が関ヶ原で勝って江戸時代になったのは、日本最大の関東平野を整備して、
どこより米作りができる平野に変えたから。
洪水を起こして湿地帯でしかなかった利根川を千葉にもっていって太平洋に流したり。
多摩川から玉川上水を引いて多摩地区を農村に変えたり。
それが兵を養い、力の根源になったんだよ。
いつだって農村の支配する歴史以後は、平野の広さが権力の根源だよ。 >>521
纏向って神武東征でいう長髄彦や饒速日の遺跡? >>536
「博多」の発音がHakataと全国区になったのは
江戸時代、徳川家康が死んだ後の江戸弁に拠る。
イエズス会の伴天連が、1603年から1604年にかけて長崎で発行した
日葡辞書のポルトガル式ローマ字ではハヒフヘホを
Fafifufefoと綴っている。
切支丹版「平家物語」はFEIQE MONOGATARIという綴りだ。
http://hougen.amakusa-web.jp/MyHp/Pub/Free.aspx?CNo=69
安土桃山時代の博多はファカタFakata
弥生時代〜飛鳥時代にハ行はpa pi pu pe poと発音してたから
卑弥呼の時代の博多はPakataという発音だった。
卑弥呼はPimikoという発音。 順番としては陸稲雑穀の熊本平野
水稲の福岡平野
広大な低湿地の筑紫平野
広がりつつあった大阪平野
そして関東平野の順に
中心勢力が移動していきますね。 >>539
3世紀には河内湖や奈良湖(湿地)があって耕作可能な平野無い。 >>548
順番としてはそうだと思う。
弥生時代に外から移住してきた人らは当然、九州から移住するよな。
けど、3世紀に中国の歴史書に記述されてる意味では、九州はないと思うよってこと。
3世紀のあと、仁徳天皇量があるんだから。
とっくに機内に移住してる。 >>542
倭人伝の対馬から伊都国を通って邪馬台国への行程は「女王国の方の国は詳細に記せる」。
つまりこれらはほぼ南北に並んでいることになる。
実際は北西南東の関係にある対馬、壱岐、福岡が南北と書かれる、つまり倭人伝の方向認識は傾いている。
よって対馬、福岡、その先の大分が邪馬台国の位置。
「邪馬台国連合に入ってる他の21カ国は遠くて詳細がわからない」
伊都国からは海路を関門海峡を超えて大分まで進んでるようだから
これらは大分福岡の内陸部および筑後や佐賀平野あたりにあったものと思われる。
で21か国の最後に奴国(福岡の奴国とは別)があげられ「そこが女王国の境界。その南に狗奴国」
つまり邪馬台国本国と狗奴国は隣り合ってはいない。 >>551
なら、仁徳天皇量という大工事をした時の、延べでの労働者を食わせるカロリーはどこから出たんでしょうか。 >>546
長髄彦は大和と河内の国堺の生駒山の西山麓で神武軍と合戦して
神武軍を邀撃(常用漢字では迎撃)してコテンパンにやっつけたのが
孔舎衙(≒日下クサカ)のあたり。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
長髄彦 ながすねひこの記事に
「孔舎衛(くさえ)坂」とあるのは「大間違い」www ストーリー的によ、最終的には、応神朝の末裔ってだけで福井くんだりから連れ出してきた継体天皇の即位に狗奴国末裔の北九州勢力が反発して新羅に近づいて、
それを継体政権が良く思わず内戦勃発、磐井が討ち取られてもうヤマト王権に歯向かうのはクマソとエミシだけになりました、ってのが古墳時代の結末なんだよな? >>521
このコピペたまに見かけるけど、その度に間違いを指摘されてるな
しつこく貼り続けてるのは、指摘されてもどう間違ってたのかも理解できないんだろう
纒向と箸墓を混同してるようだし、基本的な知識がないんだろうけど >>554
仁徳天皇陵は5〜6世紀
時代的に200〜300年後だし
時間を掛けて造れば労働者はそんなに必要ない。 >>525
その割には、日本書紀には、古墳を造った記録が殆どないんだよな。あんな大事業なのに。
これって明らかに、古墳を作った勢力と、後の大和朝廷は別勢力ってことでしょ。 >>558
古墳時代は3世紀からだよ。
つまり、卑弥呼の時代の直後で、小さな墳墓を作り始めて、その後、4世紀以後、大きな墳墓になっていった。
技術の集積や人口の増大があったからでしょ。
もうね、無理なのよ。
九州説は。
ちなみに俺は東京の人間だから、関西に思い入れは全くないけどな。 古墳の大きはとかはなんの意味もなくね?
卑弥呼の墓は小さめと思える基準あるんだし
むしろ中国人から見てもでかめの墓は候補から外れるだろ >>559
確かにそうかも。
記紀は朝廷の支配を神話から作ったファンタジーだから、あえて事実を隠したのかもな。
記紀に事実はひとつもないでしょ。 日本書紀にただの巫女である百襲姫にでかい墓を作ったって書いてる
天皇じゃない女性について詳細に書くのは日本書紀でも異例だし
巫女に当時の天皇並の大きさの墓を作ったのも異例
何かあると考えるのが普通 >>549
中国の文献に踊らされてる時点で相当なアホだよな。 寺澤氏が当初主張してたように、古墳に眠るのは筑紫の王族だよ
赴任者は地元じゃないから遠慮なく古墳築造のために畿内の人々を徴用しただろうね
そりゃ畿内や周辺の勢力にとっては面白くない
筑紫が滅んで史書書き直す時に触れないようしたのは分かる 元から倭人伝なんて残ってた資料を再編纂しただけで、
元の資料の正否なんてどうでもいい著者が編集している >>8
ですよねぇwwwwww
どこの田舎だよwwww
おいらの田舎だorz...
甘木鉄道よろしくね(はあと) >>560
古墳時代は4〜5世紀からだよ
3世紀はまだ弥生時代
仁徳天皇陵も5〜6世紀に造られたもの。 九州に居た勢力が卑弥呼の国。
小さな国で、日の巫女が支配する国で、力がなかった。
一方、機内には大和の国という大きな国があった。
こっちが知られていた。
けど、弱小国の卑弥呼の国は魏を中国を統一した強力な国だから同盟国のように対抗勢力にしようと考え、使者を送った。
そしたら、混同してしまい、大和(日本)の日巫女が来たと考えた。
統一国家があったわけじゃないから、どこが大和国?
わけわからなくて、適当に記したとか。 >>559
仁徳天皇陵とか応神天皇陵されてるけど天皇陵じゃないよな
神武に成敗された畿内の先住豪族の墓だよな。 >>570
何時代とか、分けるのが逆に歴史の理解をおかしくしてると思うんだよ。
つまり、パターンで考えてしまう。
古墳時代の数百年後、法隆寺の五重塔が建つわけだよ。
東京スカイツリーに応用される耐震設計。
この高度な数学は仁徳天皇凌の測量と同じじゃないかと。
いくらでも、ギリシャやローマ、中東やエジプトの文明が時間をかけて中国経由で入ってきたんじゃないかな。
だからハッキリしない。 >>559
すげーな九州説は
こういう頭のネジがぶっ飛んだやつが多いんだろうな
古墳は3世紀から6世紀まで造られた
一部は型式を変えて7世紀まで続いた
そして全国で同じ型式の古墳が造られた
7世紀以降、ヤマト王権の総取っ替えがあったとでも言うのか
新しく乗り込んできた勢力は、国史編纂に当たって、自分たちの祖先を全て捏造し、
旧勢力が造った古墳を自分たちの祖先の墓だということにして嘘八百を記録したってことか
バカバカしい与太話
稲荷山鉄剣のワカタケル大王などは当事者でないと知りえないことなんだよ
そして古墳の新旧は考古学のない7世紀では全くわからない
祖先の系図と墓に指定した古墳の新旧はランダムになるはずだが、そこまでランダムにはなっていない
与太話ではこの現実を説明できない 古墳は湿地帯を田んぼにするのに
江戸沿岸部開拓みたいに水路を造り土を盛ったのがそれ
ただ山を造るのでは能がないので形を整えた
だから遺体を納めるのが目的の墓ではない 甘木朝倉の地名が大和の地名に位置的に酷似してるのは注目すべきことだし、
そこに太古に国家や文明があったことも事実だろう。
シナのいいかげんな書物に振り回されて、邪馬台国がどこにとかとか、
夕刊タブロイド氏の女優陰毛占いみたないこといい加減やめろや、 >>572
その根拠は?
天皇の墓とされる古墳も、別に何の根拠もなく比定されてる訳ではなく、日本書紀に書かれた地名から推測されてたりする。
どこそこに陵を定めた。だったり、亡くなってどこそこに埋葬した。だったりと、古墳の主を推測するための情報に基づいて比定してるわけだ。
盗掘されていて既によくわからなくなっていたり、発掘の許可が降りなかったりのせいで、古墳の埋葬者が確定できていないと言う話から
勝手に妄想を膨らませて、埋葬者なんてデタラメだ、嘘だと信じ込みすぎてないかい?
日本書紀がデタラメだとか言い出すと、そもそも日本の古代史には何も参考になる資料はないことになるので
そもそも畿内土着勢力がそのまま発展してヤマト王権になったという空想すら否定できなくなる。 古墳ではないか意識し始めたのは明治維新後だろ
それまでの1000年以上平地の山くらいの意識
明治期に造成をやり直してのもあるし
皇室も祖先の墓だ〜という気は全然ない 先住豪族の墓せつもどうかねあれほど荒れ放題で放置されるのか >>551
耕作するには種が落ちて春や秋に発芽する時期に土が適当に湿っていることが必要条件。
常時冠水してる土地では植物は発芽しない。
成長するのは昆布、海苔、水草などだ。
だから稲作や畑作には水資源のコントロールが重要だ。
乾田直播栽培
ttps://www.jeinou.com/benri/rice/2009/05/181030.html 日本列島を伝える北魏東夷伝以外にベトナム朝鮮チベットなど
辺境の地の伝えた書はそもそも正確なの?東西南北何里云々
それとの比較がほしいね。もしそれが不正確なら北魏東夷伝なんて
ぜんぜん信用できないことになる >>583
ただ畿内説はそうやって方角を否定するのに「魏はちゃんと国力調べて金印やってるから!」っての根拠に
邪馬台国=大和朝廷しかとか言ってるのがな……… >>584
北魏の役人が実際に来て測量したとか歩数で距離を調べたというのか
そもそも今のように1mは厳密に決まっていたのか
もし伝聞だとして倭人がどれほど数・距離単位と方角を意識していたか
史料丸呑みの限界・想像力の欠如 >>583
知っててわざとなんだろ?
漢書西域伝ではカシミール、パキスタン、アフガニスタン、イラク、キルギスタン、タシュケントが全て長安から一万二千里前後とある。
当然距離は全然正しくないわけで、中国から遙か遠方の土地というのは、一万二千里と表すのが当時の慣用句のような扱い。
万里の長城が一万理きっかりでなく、長大で果てしないものを表す比喩表現なのと一緒。
邪馬台国だけがきっちり萬二千里だと思うのはそもそも間違いの可能性もある。
漢書西域伝以外にも、なんか同じ表現の書物があったはずだけど、名前を失念した。 >>562
記紀に書いてあるよ。
タジマモリが垂仁天皇の古墳と同じところに葬られたとか、妃の古墳に生け贄が埋められて気持ち悪いから埴輪に変えたとか
いろいろ >>568
負け惜しみの強いやつだな
Googleの翻訳で
何語の発音を聞けと言うんだ
>中国語から翻訳
>好古都
>Kōkoto
かよ
ちゃんと魚拓を取って何処かのアップローダーに貼り付けろよwww
オレはhokkien=福建語(アモイ方言、福州方言)、Teochew=潮州方言しか認めないけど。
北京語は五胡十六国の異民族の影響を受けてる。
広東語も広東省の異民族の影響を受けてる。
ttp://www.zdic.net/z/17/kx/597D.htm
《唐韻》呼皓切《集韻》《韻會》《正韻》許皓切
↑で「切」と書いてあるのは「切」と書いてある部分の前の2つの漢字
「呼皓」や「許皓」で「好」という漢字の「頭子音」が「「呼」や「許」という漢字の
頭子音と同じで万葉集で「許」は「乙類のコ」として用いられている。
ttp://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/ko_oturui.htm >>581
だから現代語のハは江戸時代以降で
古代のハカタはPakataだと…
今の北京語で「胡麻」の「胡」huで
古代の「胡」はグまたはゴ。
唐代の後半に濁音のゴはhuに清音化した。
「胡椒」と書いて「コショウ」と読むのが唐代の後半以降の発音。
古代の漢字の濁音を現代まで伝えているのが日本語の漢字の音読みの特徴だ。 >>1
新唐書によれば、皇室は神武天皇の代までは筑紫城に住んでいたことになってる
新唐書日本伝
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、
皆以「尊」為號、居筑紫城。
(訳)そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、
初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 倭人伝には「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、
朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十余国」と記されており
百余国ある倭国だが魏と交流しているのは僅かに三十余国しかない。要するに魏国と交流
していない国の方が多い。魏使が訪れたのは交流している国だけで交流が無い国は訪れない
魏使が訪れたのは北部九州の三十余国と言う事だ。 神功皇后は卑弥呼ではないから、それ以前の記紀に卑弥呼を探すが、見つからない
つまり卑弥呼は大和朝廷の人ではなく、九州の本家筋ってことになろう >>595
卑弥呼は九州にいたか、斎王を大和の王と間違えたかどちらかだと思う >>551
無知なくせに、よく、平気で嘘がつけるものだな(苦笑)
河内平野中央部にも奈良盆地北部でも弥生前期の水田や集落が見つかっている
3世紀には河内湖がさらに小さくなっていたのは言うまでもない 朝貢すると魏から返礼品がもらえるということで、行った奴には
自国(実際は数百人の集落)を数千・数万戸とほらを吹くやつも
いただろうな
英人:この動物はなんだ
現地人:カンガルーニダ(私は知らない)
英人:ぇと、二本足のこいつはカンガルーと名付けよう >>587
邪馬台国の場合は一万里以上の道程が記載されてるので
それらとは何の関係もないな >>595 神功皇后説のほかに百襲姫説、倭姫命説があるよ >>602
考古学の成果と8世紀に想像された神話を無理矢理くっつけちゃ駄目w
12世紀に捏造された三国史記を信用するようなもの
そのロジックだと、もともといた九州に起源となる墓ないと駄目だろうに >>603
墓の起源自体は吉備や出雲だが、埋葬品は九州だからなあ つまり、吉備や出雲に九州王が婿入りしたですべて解決する。 >>604
副葬品となる大陸製などの宝具やそれを作る資材は、当時種類が非常に限られていたし、
北部九州を通じてしか入って来てないのだから、同じようなものが広まるのは極々当たり前のことだよ(苦笑)
墓というのは祭祀なんだから、祭祀形態の起源として考えないと駄目だね >>595
九州説の人はこの理屈を持ち出してくることが多いけど、それは記紀が正しいという前提に立っている
記紀には大王やその一族がすべて記載されていると思い込んでるわけだ
だが記紀が正しいという保証はどこにもない いや、どこまで神話か分からん本で全て事実とか思うはずないやんw
重要なのは九州から来たと記されている。という事実だよ
コレはどういう形にせよ九州に無視出来ない存在があったって事だ
別にその時系列でって事じゃないぞ? >>610
宣伝は嬉しいけど日向峠はひなた峠だし、なんか残念なブログだね >>499
中心になっている最重要の三輪様そのものが外から来ている設定だからなあ
神武より前に そもそも、古事記日本書紀にも隋書にも、「王族はもともと筑紫にいたけど畿内に引っ越した」書いてある
問題は卑弥呼の時代が引っ越した後なのか、その前なのかの話だろ
そうでないと本居宣長の言う通り卑弥呼は熊襲かその辺の蛮族って話になるw 金印が畑に埋まってるわけないじゃん
焼け落ちた豪邸の跡地とかならともかく よく見ると漢字が一致していないし、発音も変化しているから
漢字を使い出す前に発音の方が移転していると見たほうが自然じゃない?>>499 >>574
そうさ、九州のやつらは、鍛冶と製鉄の違いもわからんやつら >>612
三輪神社から大神氏の由来とか子孫の在住を追うと二番目に糸島市高祖地区出てきて面白かった。
>>610の伊都国博物館にも出てくる山裾地域。 >>614
ならねーよ
>>430
建武中元2年(57年)に「漢委奴国王」を授かったのは、北九州の狗奴国
正始元年(240)に「親魏倭王」を授かったのは、奈良の邪馬台国でアマテラスは卑弥呼
出雲は奈良の邪馬台国に国譲りし、邪馬台国は出雲から対馬に航海していた
神武東征は、北九州の狗奴国に政治亡命していた邪馬台国の王族(山幸彦)の子孫による軍事クーデター
で、全てが繋がる >>594
魏(220年 - 265年)の時代、倭人は、大陸に一番近い九州からしか海を渡ることができなかった
という、小学生みたいなバカ理論だな >>609
私が思うに、話は簡単で、記紀の編者も陳寿『魏書』烏丸鮮卑東夷傳を読み、
「大和(邪馬台国)はもともと南九州にあった」と思い込んだわけだよ
他国の史書との整合性を取るために、東征伝説を創作したのではないかと
実際に『魏書』を読んでいたのは記述から明らかだからね
仮に、記紀の著者に西から来たという意識があったとしても
北部九州から集団が来て征服したことを示す証拠は何もないからね
吉備ならばあるけれど 九州説の根底にあるのは
魏(220年 - 265年)の時代の倭人は、大陸に一番近い北部九州からしか海を渡ることができなかった
という、小学生みたいなバカ理論 >>621
社員が悪くないのがヤマ1国
全部社員の所為にするのがヤマ10国 >>623
いやいや
日向に高千穂の宮を建立して居住していたのは、神武のおじいさんの「山幸彦」
「山幸彦」は奈良のアマテラスが、出雲に派遣していたニニギの子(もう一人の子は「海幸彦」)
ニニギはアマテラスの孫 >>623
いやいや
日向に高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
日向に高千穂の宮を建立して居住していたのは、神武のおじいさんの「山幸彦」
「山幸彦」は奈良のアマテラスが、出雲に派遣していた「ニニギ」の子(もう一人の子は「海幸彦」)
「ニニギ」はアマテラスの孫
つまり、「神武」はアマテラスの直系
アマテラス=卑弥呼で、卑弥呼が死亡した後、卑弥呼の官たちが、壱与(イヨ)なんてわけのわからん娘を本国の王にしたら
そりゃあクーデターも起こすわな >>624
わざわざ九州北部にある外交の窓口のことまで書いてくれてるのに他にあるとは普通考えんな
畿内説でもそれは関係ない
さらに他から海を渡るような広範な交易が存在しないことは
三国志の孫権の東方遠征失敗で証明されてるし 水害地域を盛り上げようというのはわからんじゃないけど無理があると思う >>587
《魏書巻三》の明帝紀に魏の都洛陽から遼東半島の襄平まで「四千里」と書いてあるぞ
洛陽〜襄平間が4,000里なら帯方郡〜邪馬臺国の一万二千里は数字を盛りすぎwww 日向に高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
日向に高千穂の宮を建立して居住していたのは、神武のおじいさんの「山幸彦」
「山幸彦」は奈良のアマテラスが、出雲に派遣していた「ニニギ」の子
「ニニギ」はアマテラスの孫
つまり、「神武」はアマテラスの直系
神武のお爺さんで、奈良のアマテラスのひ孫の「山幸彦」は、
親のアマテラスの孫の「ニニギ」が、アマテラスから任命された「一大率」という地位を、どっちが引き継ぐかで
兄弟であるもう一人のアマテラスのひ孫の「海幸彦」から兄弟ゲンカを吹っ掛けられて出雲を追い出され
「海人の国」・・建武中元2年(57年)には「漢委奴国王」を授かり、大海を渡って大陸と交易していた北九州の狗奴国
に逃げ延びて、「海人の国」の王・・つまり、狗奴国王の娘と結婚
日向に高千穂の宮を建立して居住して、鵜戸神宮(宮崎県日南市)でウガヤフキアエズ・・のちの神武が産まれる
そして
アマテラス=卑弥呼で、卑弥呼が死亡した後、卑弥呼の官たちが、壱与(イヨ)なんてわけのわからん娘を本国の王にしようとしたので
日向の高千穂の宮から出発して、奈良の邪馬台国に対して軍事クーデターを起こし、初代天皇になる
なので、皇室の祖が日向にあった・・のは当然・・というのが
日向から奈良に対して軍事クーデターを起こし、初代天皇になった日向三代が編纂した、日本書記であり古事記 >>629
アホか
30もの国が、同じ港を使用しているわけがなかろうが >>53
>卑弥呼の墓は石室が無いと書いてあるのに箸墓は石室があることは無視ですか
マジか。あかんやん
>>247
>>253
めっちゃ文字あるやん。古代から。教科書ではまだ文字はなかったと書いてあるの?
>>282
この時代の絹は九州からしか出ないと本で読んだ記憶ある。これデカイよね?
>>351
じゃあ教科書は今後、やっぱ畿内じゃないっぽいって書き換わっていく?>>378
>>374
>伊都国から出てくる遺骨は全て縄文人なので
古代の先進地域なら渡来系かと思ったらネイティブなのか。やるじゃん >>622
日本と北朝鮮は国交が無いからどちらも訪問する事は無いだろうが。魏国と北部九州は
国交があったから魏使が北部九州を訪問したと言う事実を理解出来んのか >>634
ガセネタに食いついててワロタ
それだけ大量にレスしてて、全部がガセネタってどんだけ色眼鏡で見てるんだかw のちに、北九州と大陸の間の航海を、一手に担う「宗像氏」
彼ら一族の出身は出雲であり、アマテラス(卑弥呼)の時代は
出雲(伊都国)から、松江(末廬国)隠岐(一大国)対馬(対馬國)のルートで
邪馬台国の大陸との交易を一手に担っていた
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國
その後、卑弥呼の死で、
北九州の狗奴国から邪馬台国への東征を果たした日向三代の皇統が
北九州の狗奴国との統一を成し遂げたのち
出雲から竹斯国に転封となった
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
彼ら一族が「沖の島」で祀るのは、一大国であった島根県(出雲)の「隠岐」であり
彼ら一族が北九州からの航海で使用する壱岐は、一大国(隠岐)の一支国 >>614
卑弥呼が暮らしていた邪馬台国は朝倉にあったから卑弥呼の死後東征をして
奈良に大和朝廷を開いたと言う事だ。 >>633
港が違うのは当たり前だろ
でも海を渡って大陸と交易する窓口は同じ
他の倭人国は記載がないので不明だが
それらが魏や呉とつながりないことは三国志で証明されてる いまだにハッキリしないってのもよくわからんな
ビッグバン理論みたく主流な論は固まってて一部にプラズマ論者がいる、くらいの状況ではないのか >>635
魏国と北部九州は国交があった?
北部九州と国交があったのは後漢(25年 - 220年)
後漢を滅亡させた魏(220年 - 265年)から正始元年(240)に「親魏倭王」に任じられた邪馬台国が
後漢(25年 - 220年)の「漢委奴国王」だった北部九州を使えるわけがねーだろーーー >>639
アホか
北部九州と国交があったのは後漢(25年 - 220年)
後漢を滅亡させた魏(220年 - 265年)から正始元年(240)に
邪馬台国が「私が倭国の王です」と使節を送り出すのに
「漢委奴国王」だった北部九州の国が同意するわけがねーだろーーー
バカジャネーノ m9(^Д^)プギャー >>612
出雲は屈服して忠誠を誓ったから情報が得られて記紀に記すことができたが、物部はたぶん屈服しなかったんだと思う。
血統が自分らの方が上だと思い込んでる可能性があるから
だから物部の情報は記紀に全く入ってこない >>374
伊都国から出土した遺骨が全部縄文人だったとはどんな文献を参考にしたんだ? つまりだ
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
魏(220年 - 265年)が後漢を滅ぼしたときには、北部九州一帯は「漢委奴国王」の強大な勢力下にある
邪馬台国が、魏(220年 - 265年)に朝貢するために、北九州の「漢委奴国王」の国に入れるわけがない >>642
邪馬台国と北部九州は全くつながりがないという
畿内説の学者や他の説でも誰も唱えてない珍説好きさんでしたか
それはかまってしまって悪かったな >>644
伊都国だけじゃないけどね
長崎も縄文人だし、東北は完全な縄文人だし、伊都国は今の日本人よりは縄文人だし つまりだ
北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられている
魏(220年 - 265年)が後漢を滅ぼしたときには、北部九州一帯は「漢委奴国王」の強大な勢力下にある
邪馬台国が、魏(220年 - 265年)に朝貢するために、北九州の「漢委奴国王」の国に入れるわけがない
同時代に大陸に朝貢していた、30か国の倭国の国も同様で
北九州の「漢委奴国王」の国に入れるわけがない >>646
おまえ、統合失調症か?
邪馬台国と北部九州は全くつながりがない
なんて一言も言ってねーぞ
>>632 筑紫平野、筑後川流域一帯が邪馬台国だった可能性が高いことがわかってきました。 >>651
自分で邪馬台国と九州北部の奴国は関係がなかったといてるが
頭大丈夫か
倭人伝に記載された伊都国や奴国はどこだと考えてるんだよ
畿内説も九州説もそこまでは九州北部で一致してるのに 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた
北部九州の「海人の国」・・つまり狗奴国には
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」に任じられた
奈良の「アマテラスの国」・・つまり邪馬台国から
神武のお爺さんで、奈良のアマテラスのひ孫の「山幸彦」が
出雲から亡命している >>632
なので
日向から奈良に対して軍事クーデターを起こし、初代天皇になった日向三代が編纂した、日本書記であり古事記で
皇室の祖が日向にあった・・と記述されるのは当然 >>636
>全部がガセネタってどんだけ色眼鏡で見てるんだかw
絹は間違いない。硯もニュース記事である
なのに「全部」がガセネタとはどういうこと? >>653
何度も同じ書き込みさせるな
のちに、北九州と大陸の間の航海を、一手に担う「宗像氏」
彼ら一族の出身は出雲であり、アマテラス(卑弥呼)の時代は
出雲(伊都国)から、松江(末廬国)隠岐(一大国)対馬(対馬國)のルートで
邪馬台国の大陸との交易を一手に担っていた
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國
その後、卑弥呼の死で、
北九州の狗奴国から邪馬台国への東征を果たした日向三代の皇統が
北九州の狗奴国との統一を成し遂げたのち
出雲から竹斯国に転封となった
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
彼ら一族が「沖の島」で祀るのは、一大国であった島根県(出雲)の「隠岐」であり
彼ら一族が北九州からの航海で使用する壱岐は、一大国(隠岐)の一支国 >>652
そんなのずっと前から言われてることだよ >>442
これも絹と同じでデカイよな
>>534
『続日本紀』見ると宇佐が本家か?と思う
>>426
伊勢の鏡は火災で焼失。今あるのは作り直した別物
皇居にあるオリジナルも平家が持ち出す以前から火災にあってて箱の中は灰かも
>『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである
これ伊都国の鏡だよね?
大きさが直径46cm(=八咫)
世界最大で大きさが八咫なんだから、これが皇室ではないの? >>656
対馬から隠岐で松江から出雲を経て因幡とか
完全に地理無視してて笑ったわ
地図で移動経路を自分で確認してみろよ
大阪から和歌山経て神戸に行くみたいな無茶苦茶加減 大宰府に鎮守があり、朝倉市には白村江の戦いのために一時的に朝廷も置かれた。
それだけ古代では重要な場所。
邪馬台国があったとしても不思議ではない。
南西に行けば有明海、東に行けば日田別府まで行く。
そこから北に行くとUSA神宮だ。www 邪馬台国の行程に出てくる奴国は、
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国・・つまり
大国主神の最初の妃「八上比売」の国、因幡
であり
長官は多模(たも)がいる、邪馬台国の行程に出てくる「不弥国」は、
田裳見宿禰の摂津国住吉
古代出雲王家の子孫らによる伝承では、
大和王権後の北九州で、大陸との交易を一手に担う宗像氏の祖先は出雲6代主王の息子 どこでもいいわ
未だにどこにあったのかもわからないようじゃ観光資源にもならないだろう 大和の史書である記紀は邪馬台国のヤの字も出てこないし、卑弥呼のヒの字も出てこない。
内容は高句麗を建国した東明東征物語のまる写し。
つまり、畿内人=半島人なんだよ。
ちなみに中国の記録によると邪馬台国人は中国の呉の末裔とのこと。
大宰府に残されていた翰苑にも書いてある。
しかも邪馬台国は伊都国のすぐ南にあるとも書いてある。 >>658
>これが皇室ではないの?
邪馬台国は不明だけど、皇室のルーツは伊都国でいい
しかしその伊都国が女王国で太陽信仰だから、またややこしい つまり
卑弥呼の時代は、北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられていた狗奴国の強大な勢力下にあったので、邪馬台国は出雲を利用していた
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國(奈良)
その後、卑弥呼の死で、
北九州の狗奴国から邪馬台国への東征を果たした日向三代の皇統が
北九州の狗奴国との統一を成し遂げて北部九州一帯も使えることになり
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国(豊前・豊後)−十余国を経て難波津(大阪)−奈良 >>655
九州の絹は弥生中期が中心
後期からは減ってくる
硯を倭人が文字を使っていた証拠とみなすのは短絡的
中国人が使っていた可能性もあり、倭人が絵を描くためや印をつけるために使っていた可能性もある
元レスには文字を使っていた云々は書かれていないが >>664
邪馬台国が伊都国の真南ならば三瀬峠を山越えすればすぐに吉野ヶ里になる。
伊都国があった糸島市井原を早朝に出発すればその日のうちには吉野ヶ里に到着する。 >>664
小学生の時甘木から炭鉱離職者の息子が転校してきたが
甘木弁アクセントは朝鮮語風だったな。
関西弁はどちらかと言うと中国語風。
言語学的には九州人=半島人なんだわ。 >>655は日本海流の流れを完全に無視したトンデモ屁理屈にもならんバカのお遊び >>669
甘木には炭鉱は1つも無いし、関西人が日本人の中で1番朝鮮人に近いのは日本人として
常識だろう。 >>640
結論を後回しにして理由を先に書いておく
長文で申し訳ないが、興味があれば読んでおくれ
中国人の使者が福岡周辺まで行っているので、ほぼ正確な日数や国名などの報告は残っていて、著者の陳寿もそれを見ただろうが
それでも倭国が実際よりも遠く巨大な国であるかのように描かれたのは、陳寿が「公孫氏を滅亡させ、倭国の朝貢に道筋を付けた晋
の祖である司馬懿(司馬宣王)」に対して配慮したからだろうと思う
陳寿は晋の文書・史書関係の公務員であり、司空張華の直属の部下で、張華は陳寿の大恩人でもある
また、張華は司馬懿の孫である司馬炎の直属の部下でもある
明帝の時代に行われた倭国の親魏倭王と、西の果ての大国である大月氏の朝貢の結果である親魏大月氏王とは一対の出来事なんだよ
で、その大月氏の初朝貢を成功させたのは、司馬懿の政敵であった大将軍の曹真だったわけだ
つまり、そのような政治的な対立の結果から、同じく初朝貢であった倭国は、なんとしても大月氏よりも遠くて巨大でないといけなかったわけだ
実際に、初めて洛陽までやってきた倭国人たちは「あの呉の近く、何万里ものはるか遠くから明帝の徳を慕って朝献してきた大国の使者だ」
と喧伝されたのかもしれない
既に曹真は亡くなっていたが、数年後に激しく対立し、司馬懿がクーデーターを起こす理由にもなった曹爽(曹真の子)は見ていただろうからね
『漢書』西域傳では、長安から大月氏まで11600里となっており、陳寿も当然それを知っていただろう
魏の都である洛陽から平壌(帯方郡)までの距離は約4500里+12000里だから、かなり遠くに設定されたわけだ
そして戸数も大月氏は10万となっており、倭国は約15万戸とこちらも同じく誇張されている
このへんは、三国志や関係資料をすべて読んで、時代および政治的背景や人間関係を理解するれば、誰でもわかることなのに、
倭人条だけしか読んでない、しかも木を見て森をみない議論が大好きな日本人らしく、距離がどうだの、方向がどうだのと無意味なことを
いつまでもやってるので、ハッキリしないだけのことなんだよ
少なくとも明治期の学者たちがきちんと史料批判し、東アジア史の視点で読んでいれば、こんな事態に陥ってはなかったとは思う
いずれにしても、森をみない人たちが大勢いて、そういう人たちに売れるからマスコミもそちら側についているので、文献の解釈だけでは
一生ハッキリしないのだと思うよ
もう、まともな歴史学者は匙を投げちゃってるからね そもそも邪馬台国って実在していたのか?
唯一の根拠が古代中国の文献「魏志倭人伝」なんだろ?
どこに存在していたのかさえ明らかになっていない。
もし実在していたなら、これはおかしい。 >>669
DNAって知ってる?
科学的に近畿は半島系が多い事が分かってるんだけど。 >>668
吉野ヶ里はイメージにピッタリだよね。
規模的には少し小さいけど邪馬台国の一部ではあったはずだよ。 流れまとめると
⑴三種の神器、皇室のルーツが伊都国
⑵伊都国は女王国、かつ太陽信仰
⑶最高神アマテラスは女性。太陽神
⑷加治将一の説だと、伊都国のNo2以下はトップに立てないから、
新天地でトップに立つために東へ向かう。鶏口牛後
伊都国の甥っ子姪っ子みたいな国々が無数に出来る。
⑸下っ端の大久保が東京に移って本国薩摩をとりつぶす的なことが起こる。
⑹記紀編纂時の大和朝廷は畿内。しかし「邪馬台国の卑弥呼て何??」状態
>>664
背乗り。⑴〜⑶までは古い記憶。⑶と⑷の間に本当の歴史が消失。記紀として作り直し、高句麗神話が入り込む。
⑴〜⑶は卑弥呼の祖父母世代。⑷が卑弥呼時代。⑸がトヨ以降 ⑶と⑷の間に本当の歴史が消失というのは、
複数の豪族がそれぞれの伝承を主張して乱立し始めるという意味。国として一つの神話にまとまらない
⑷と⑸の間くらいに森浩一の説が入る。
海を知らない蜀出身の陳寿が、
九州時代の邪馬台国(『翰苑』には伊都国のすぐ南)と、畿内東遷直後の邪馬台国を二重露光してしまった。
まとめると、
高天原・・・伊都国
邪馬台国・・・筑紫
トヨ時代は大分? その後に畿内
>>670
もうちょい詳しく。あなたの意見はどういうの? このスレ、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の特徴が見事にでてるよな
・陰謀論大好き、俗説大好き
・学者は頭カチカチで近視眼的だから、学者の説は間違いに決まってる
・アマチュアや作家は大局的にものごとを見てるから正しい
よって、畿内説は間違いで九州説が正しい!!!
こんな感じだろ 邪馬台国は奈良だと思う
なんでこんなに修ちゅくするんだろう >>667
硯は北部九州地域各地で見っかってるから中国人だけが使っていたとは考えられないな
北部九州では一部の倭人も使ってたんだろうな。 【虎ノ門ニュース】4/11(木) 有本香×竹田恒泰
https://freshlive.tv/toranomonnews/266479
・F35A戦闘機 墜落と断定 青森沖
・天皇陛下ご即位30年で感謝の集い
・安定的な皇位継承の確保を検討 男系継承を模索
・尖閣諸島のお天気
・トラ撮り!(竹田恒泰氏:不合格教科書)
・衆院大阪 沖縄2補選の候補確定
・韓国メディア 渋沢栄一を収奪の象徴と批判
・インド総選挙 11日投票開始 有権者9億人 邪馬台国がどこにあったってどうってこともないのにな >>678
というか畿内説は「もしかしたら〜」という前提で作られた仮説から発展しているので、検証のしようが無い。
いまだに単なる空想だよ。 >>683
お前の考えが正しいが真実を求めたい気持ちもある。しかし何が何でも自分の考えている所に
持って行こうと言う気持ちは俺の場合は全く無い。 安本って九州説派のキチガイだよ
こいつのせいで九州派はキチガイと思われ、学界側から無視されてるそくめんは強い どこにも媚びずに自分の金で研究していた森浩一みたいな巨人がいなくなったのは痛いな
素人とプロの差は小さいが、プロと超一流のプロとの差は大きい >>667
その絹について
畿内と比較しなきゃいけないから、畿内の出土状況は? 京都工芸繊維大学名誉教授 布目順郎氏
「弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。
したがって、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の、現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいといえるであろう。 」 教科書はリベラルアーツの入り口として重要
そのことと教科書に書いてあるから正しいと盲信するのは違う
参考までに、小林よしのりがいた初期の「新しい歴史をつくる会」は畿内論者がいたから、
小林も当時にゴー宣でそれにそったこと書いていた記憶ある
高森明勅だっけ >>644
>>674
縄文男が古代からずっと最強だった
半島沿岸部に船で侵入襲撃してボコボコにし
半島女と交わって子供を産ませまくった
子を産ませた半島女、若い半島女を連れ帰り
そしてまた畿内や西日本各地で子どもを産ませたから
細面の薄い白顔が増え混血が進んでいった
縄文が男
半島が女
縄文が挿した側
半島が開いた側
その子ども達が弥生時代の人間で父系男系が縄文 >>674
じゃあ科学的なソースのurl貼れよ
ウワサで聞いた程度では邪馬臺は北九州に有ったというウソと同じだ。
それとDNAは2種類あるって知ってる?
細胞核DNAとミトコンドリアDNAだ。
人類の起源はアフリカっていうのは母子遺伝だけするDNAを分析した結果だ。
だから桓武天皇の生母が百済人でも
桓武天皇の第2皇子で後の嵯峨天皇は生母藤原乙牟漏のミトコンドリアDNAを継承して
桓武天皇の母親(つまり百済人である祖母)のミトコンドリアDNAを継承してなくて遺伝的には断絶してるんだ。
桓武天皇の孫の仁明天皇は橘嘉智子のミトコンドリアDNAを継承している。
人類は卵子が受精した時点で父親のミトコンドリアDNAが破壊される。
父由来のミトコンドリアゲノムが消される科学的なしくみ
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/085/research/2.html >>691
日本の考古学者が信用されてるとでも?(笑)
藤村の捏造事件が発覚した時みんな震えてた?(笑)
「あいつ上手いことやりよったな」とか「俺も美味しい思いしたいぜ」とか言ってたの覚えてるぞ(笑) >>698
>「あいつ上手いことやりよったな」とか「俺も美味しい思いしたいぜ」とか言ってたの覚えてるぞ(笑)
証拠出せや
こういう捏造を平気でやるのが典型的な九州説 >>697
種を決めるのはミトコンドリアDNAではなく、Y-DNAであるという話を知らないということは韓国人?
Y-DNAは免疫システム=種族保存システムだから人種として区別するならこっちをみるしかない。 >>697
>じゃあ科学的なソースのurl貼れよ
>>631
>言語学的には九州人=半島人なんだわ。
言語学のソース貼ってみて
あなた自身が半島に近い性質だからこそ、俺は半島系じゃないぞと思い、他者をソースなく落としめている。まさに半島人のようなお前じゃないか 関西人が韓国人と似ていることは、韓国人が言っているし
普通に似てるだろ 徳島にあった説を調べると面白いのよな
邪馬台国は四方を海に囲まれてた
距離も合ってる
何故かトヨの歌も残ってる
・・いろいろ >>700
てことはX染色体しか持たない女性には人種は無いのか。
どこの国でもオバハンの特性が共通してることに納得w 本屋走って教科書見てきた
教科書に準拠した資料集と図説見てきたけど、九州説と畿内併記して論点並べてただけだぞ
あと三角縁神獣鏡神獣鏡は載ってたけど、>>610の大型内行花文鏡はなかった
全然ダメだな
教科書と言い出したのは>>320だと思うけど、どの出版社か教えて
つくる会のやつ?
つくる会のは大型内行花文鏡 は入ってる? >>706
教科書の記載は昔から変わってないよ。
教師も興味があれば自分で調べてねとしか言わないから。 ミトコンドリアDNAは一人の女性から出発したなら、YDNAは多数の男性から出発したことになるなあ 邪馬台国は奈良。
中国父さんに金印貰って初めて国際社会にデビューしたという歴史的事実を
惨めだと思うネトウヨが逆ギレしているだけ。
縄文古墳を捏造しまくった馬鹿を熱狂的に支持していた西尾幹二と同じ。
邪馬台国は奈良、そして、中国の属国、天皇は朝鮮人。
いい加減認めろよ、猿。 >>702
悔しくて卑しくて劣等感爆発なのが
股開き韓女の母国朝鮮
男系父系が縄文
女系母系が半島 wwwwwwwwwwww
海洋南方系の縄文大和倭人の方が骨太でガタイ良いからな
半島男は細身チビでケンカ弱い >>660
そのときの記録を適当に使ってりゃ女王国は九州な訳だからな 奈良は百済人の移民場所
海人族遺骨が散見される九州が倭人の都邪馬台国だろう
福岡の那珂川河口に一大、上流域に邪馬台国だろう >>703
辻褄合ってるところもあるが、決定的に合わない部分があるから無理
どこと戦って負けたわけ? O1b2a1a1は日本の関東発祥だろ
藤原氏、秦氏、蘇我氏は日本人 >>693
30年以上も前の発言貼り付けてどうするつもりなんだろうか
九州説がまだ元気だったころを懐かしんでる爺さんか
そもそも絹の記述は倭人一般についてであって邪馬台国とは関係ない 邪馬台国や卑弥呼の単語は魏志倭人伝(その後は除く)の中にしか出てこない
だとしたらそれを読み解くしかないのだが、なぜか考古学者先生は
それは置いといて地面掘り返しては、おぅ邪馬台国や卑弥呼の時代と
同年代だ、ここに違いないとおっしゃる 誰もおかしいと思わんわけ?w 奈良出土の三角縁神獣鏡は中国製か 蛍光X線で分析
https://www.sankei.com/west/news/181013/wst1810130014-n1.html
泉屋博古館はその後、スプリング8の強力な放射光を使い、
蛍光X線分析を実施。鏡に含まれる錫、銀、アンチモンの
3元素の組成数値を調べ、グラフ化したところ、
古代中国の前漢後期〜三国時代(紀元前1世紀〜3世紀)の鏡の
組成数値の分布エリアに収まることが判明。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡と前漢後期〜三国時代の中国鏡が、
同じ原材料で作られている可能性が高まった。 >>719
それゆえに畿内説はまるで宗教だと罵られてるんだよ >>719
ほんこれw
ジャップのチャイナ劣等感は凄まじい
それをこじらせて赤っ恥かいたのが西尾幹二 >>719
>なぜか考古学者先生は
>それは置いといて地面掘り返しては、おぅ邪馬台国や卑弥呼の時代と
>同年代だ、ここに違いないとおっしゃる
例えば、誰がそんなこと言ってる?
畿内説にイチャモンつけるための捏造じゃないなら例を挙げてみてくれ >>723
それは考古学会ではもう畿内だと決まってるよと言ってる
御人に聞いてくれ
必ずスレには出てくるからなw 魏志倭人伝の(明らかにヘンな)地理紹介の2ケ所。しかも伝聞体。
と「邪馬台国」(当然伝聞」という名のヤマトとの類似だけだっけ<畿内説
あ、最近桃の種もあったねw
急にネット工作を始めたから考古学やる金に困ってると思われ >>724
捏造と白状したようなものだな
九州説ってなんでこういう卑劣なことするんかな
倫理観のかけらもない人間 >>726
君 こういうスレ初めてか?
考古学会ネタも知らないようなら参加するには早いぞ
しばらくROMってたほうがいい >>727
捏造がバレて開き直りか
ほんと卑劣な人間だな >>729
さっさと、NGしてくれや
他人を貶めるためには、ありもしない話を捏造して誹謗中傷する人間のクズと
やりとりするのはこっちもウンザリだ シニアカー
車体の大きさは、次に掲げる長さ、幅及び高さを超えないこと。
長さ 百二十センチメートル
幅 七十センチメートル
高さ 百二十センチメートル[5]
車体の構造は、次に掲げるものであること。
原動機として、電動機を用いること。
六キロメートル毎時を超える速度を出すことができないこと。
歩行者に危害を及ぼすおそれがある鋭利な突出部がないこと。
自動車又は原動機付自転車と外観を通じて明確に識別することができること。
いける セグウェイの最高速度は20km/hだけどこれを6km/hに抑えて
あともろもろ基準クリアすればいける 九州説またやらかしたんか
捏造体質は九州説のデフォだし一生治らん >>725
桃の種で畿内説減ったかもなw
測定年代が卑弥呼の年代と近いんですよ、だからココが邪馬台国なんです。
は?
これを真面目に言ってる姿を想像してみ?
学の無い学者って痴呆かなと疑うほどあからさまにおかしな事を言ってるからw >>720
708年に日本国内で銅が発見される以前の銅製品の材料は全て中国産なんだから
三角縁神獣鏡の材料が中国産なのは当然だし材料が中国産だからと言って中国製ではない
この記事書いた奴は頭が弱いな。 >>737
バカ?
今現在、確実に言えることは
1纒向遺跡は卑弥呼の時代と同時期の遺跡
2当時の列島最大の遺跡でかつ王権の強さの表徴たる墳丘墓で列島最大のものがある
3列島の広い範囲で共通化される土器様式、前方後円墳の発祥の地
4列島の広い範囲の交流の結節点
九州のみの倭國が成り立たないことも、5番目に挙げてもよい
「この5つを与件として、列島上に存在した倭國の王がどこにいるかを考える」と
いうのが、畿内説というか日本古代史の基本的な枠組みだ
批判があるなら、この5つに対して、具体的に指摘してくれ 桃の種とか魚の骨、ベニバナ花粉まで持ち出したときには
畿内説のネタがないんだな、
と思ったな。 >>740
花粉はマジでワロタw
それが通るならとプラントオパールで最古の稲作とかいう話もあったが却下されたのかなw
>>739
すでに佐々木が列島一国はあり得ないと判断したんだから妄想は捨てろw
宗教にドップリなお前に正常な思考は期待できないかw >>737
そうそう畿内説の第一人者が畿内説押しのメディアで語った
畿内説の証拠として挙げたのが桃の種だけだった
しかもそれは測定方法に問題があったため後から難癖つけられる有様で
あれだけで畿内説は完全に終わったと確信したもんな >>738
しかも畿内が銅鐸文化圏だった事はすっかり忘れて銅鐸の成分との比較は無しw
国内で銅鐸溶かして鏡に作り替えた可能性については誰も触れないというバイアスの罠w >>742
1年ちょっと前に紅花の花粉が箸墓から見つかったと
マスコミ集めて記者会見していた
紅花の花粉が赤い布地を染めたと言いたいらしいが
肝心の絹が出ない >>745
想像パズル学という新しい分野としか思えないような事を公然と語るんだよな畿内説はw >>746
悪いけどパズルにもならない
畿内説を言い出したのは京大の内藤
魏国が東と南を間違えたという説
キチガイとしか言いようがない 白鳥と内藤の邪馬台国論争はどうもプロレスくさいんだよね
どっちが先かは忘れたけど2‐3か月の違いでお互いの説発表してるのと
その執筆中もずっと二人は連絡取り合ってるし、普通に交流してんだよな
以前それについての考察をどこかの新聞に載せてた人いたけど
画像無くしちゃったなw とてもおもしろい内容だった 「邪馬台国」は静岡県沼津市の高尾山古墳の辺だと思う。 日向に高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
神武の父ちゃんは「ウガヤフキアエズ」
宮崎県日南市の鵜戸神宮で産まれ、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵に墓がある
ウガヤフキアエズの父ちゃんは山幸彦
海幸彦に出雲を追い出されて、海人国・・つまり北九州の狗奴国に亡命し
日向に高千穂の宮を建立して居住していた
山幸彦の父ちゃんは「ニニギ(邇邇芸)」
大国主がアマテラスに国譲りした後に、奈良から出雲に派遣された
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんは「アメノオシホミミ」
スサノオの長男でアマテラスがひきとって自分の子にした
アメノオシホミミの父ちゃんは「スサノオ」で
奈良から出雲にやってきて、巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚し、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)で暮らしていた
つまり「神武」は、奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系で九州産まれ 邪馬台国の行程に出てくる、
王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した出雲
「奴国」は、
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国、因幡
長官は多模(たも)がいる、邪馬台国の行程に出てくる「不弥国」は、
田裳見宿禰の摂津国住吉
古代出雲王家の子孫らによる伝承では、
大和王権後の北九州で、大陸との交易を一手に担う宗像氏の祖先は出雲6代主王の息子
つまり
卑弥呼の時代は、北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられていた狗奴国の強大な勢力下にあったので、奈良の邪馬台国は出雲を利用していた
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(丹波)を経て邪馬壱國(奈良)
その後、北九州の狗奴国へ亡命していたアマテラスの直系の日向三代の皇統が
卑弥呼つまりアマテラスの死で、邪馬台国への東征を果たし
北九州の狗奴国との統一を成し遂げて、奈良は北部九州一帯も使えることになり
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国(豊前・豊後)−十余国を経て難波津(大阪)−邪馬臺国(奈良) >>709
縄文古墳とはこれまた新語だな
放送大学で縄文遺跡の「周堤墓」とか「環状列石」とか言ってたが
ああいうのが弥生以降の古墳の原初形態なんだな。
大きさも100m級、200m級のがある。
ただそういった縄文大規模記念物の分布をマトリックスにして見ると
近畿がすっぽりと空白になってる。
近畿が倭国の中心となってからは稲作や麦の栽培、都市建設で
再開発の為縄文遺跡が壊されたと見るべきだろう。
小学校の教科書に出てくる所謂古墳の数は他の地域を圧倒して
兵庫県が日本一だ。 樽悶 さんはウンコを食べる
人だよ
こいつのスレは、いつも変な書き込みばっか
自作自演だろ >>708
ミトコンドリアDNAは核DNAに比べて
塩基配列の数が圧倒的に少ないので
DNA分析に要する工数が少なくて済み
早く結果を出し易いのが特徴。 >>738
でも魏の製造年が入った鏡それしかないんだから仕方ないだろ >>752
>ニニギ(邇邇芸)
ひとつ教えてやるが
「芸」は元々「ウン」と読んで香草=ハーブを意味する。
書物を食い荒らす銀白色の蠹を駆除するために用いた。
芸帙ウンチツ 帙チツとは糸で紙を綴じた和本、支那の書物を
数冊束ねて布張りの厚紙でカバーするもの。
ttps://www.kmsym.com/hozon/hozon.htm
その帙の中に「芸」というハーブを入れたのが芸帙ウンチツ。
ニニギの正しい書き方は邇邇「藝」だ。
漢字知らない朝鮮系九州人は漢字を書かなくて宜しい。 邪馬台国は博多湾沿岸だ
漢の国がすでに奴国に金印を授けている >>25
九州北部に有ったのは一大卒(太宰府)
邪馬台国は纏向が最有力 一大卒があったのは伊都国だ
纏向はなんて太田遺跡は関係ない
だいたい太田遺跡から、纏向遺跡に名前を変えたのも変 >>756
前方後円墳の数は、
県別だと千葉県が最多だよ。
すべての墳墓の多さを競うとしても
北部九州では市町村で千基単位の
記録がいくつもあるので
兵庫を一位にしようとすれば
条件が面倒そうだ。 >>764
チバニアンかw
誰も関心寄せてないみたいで残念 倭人伝には卑弥呼の宮殿の周囲には警備兵が日夜巡回していると書かれている
要するに邪馬台国本国も敵国からの攻撃があると警戒していた訳だ
ところが纏向遺跡どころか奈良県の弥生遺跡からは戦闘の形跡も見つからん
邪馬台国が奈良では無いのは明らか 穴穂部皇子のようなレイプマンからの警戒です
樽悶 さんはウンコを食べる 桃の種が大量に出土した平和な纏向遺跡に戦争に怯えていた卑弥呼が暮らしていたとは
思えない。 前3世紀〜3世紀に鉄器が普及してたのは北部九州地域だけだからな。 >>762
>>763
一大率は女王国以北に置かれてた
伊都国では常に治めてた。 >>770
>>739は具体的に反論しろと書いてるので、妄想であるとするならその根拠を具体的に述べないとただの難癖だな
なお、箸中山古墳の「周濠」から出た木製鐙は、箸中山古墳の築造年代を表しているわけではないぞ?
周濠というのは土砂で埋まるまでは常に水が溜まっていて、築造以降、ゴミである土器や木製品なども
棄て続けられるし、なおかつ、洪水などによって溜まった土やゴミが巻き返される場合もあれば、溜まっ
た土が軟質な場合、重い物は下層に沈んでゆくこともある >>763
遺跡の名前は行政が発見された際につけるので、遺跡名の変更は結構あることだよ
たとえば、誤解を招く、遺跡とはかけ離れた場所の地名である、発掘の結果隣接する遺跡とほぼ同一であるなどの理由でね
邪馬台国に関係するからとかそんなしょうもない理由で行政機関が変えることはまずありえないよ(苦笑)
信用できないのなら、住んでいる場所の都道府県教育委員会文化財関係部署に問い合わせてみ? >>770
地面の安い超ど田舎なので広い古墳作れたんじゃね
大都会福岡では無理や >>774
纏向遺跡からは5世紀以後に日本に伝来した紅花の花粉も見っかってたな。 そもそも超大国である魏に何度も朝貢して官位を授かるのは、半島への睨みを効かせるために
挟み撃ちしたかったのだろう
卑弥呼の最晩年の西暦240年代にそこまで必死ということは
女王国と友邦は半島に接してるてか一部は半島南端にあった
さてこれに当てはまる人物は神功皇后だが
卑弥呼は朝鮮征伐を果たさずに死んでると思われるし、
そもそも卑弥呼と同時代はぎりぎり神武、実は欠史か崇神あたりであろう
要するに卑弥呼の偉業は、記紀には伝授されていない
つまり大和の本家にあたる女王で、神武以前の人であろう
そもそも魏と一緒に朝鮮を挟み撃ちする計画が半ばで頓挫し、
方針が定まらぬから国内が乱れ騒乱になったのではないか
神武はその騒乱をよそに、辺境のど田舎で着々と農業を巨大化した知恵者だ
秀吉が卑弥呼、家康が神武と考えると分かりやすい
そして家康は秀吉の神格化を禁止して自分だけ大権現という神になった 日向の高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
神武の父ちゃんは「ウガヤフキアエズ」
宮崎県日南市の鵜戸神宮で産まれ、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵に墓がある
ウガヤフキアエズの父ちゃんは「山幸彦」
海幸彦に出雲を追い出されて、海人国・・つまり北九州の狗奴国に亡命し
日向に高千穂の宮を建立して居住していた
山幸彦の父ちゃんは「ニニギ(邇邇芸)」
大国主がアマテラスに国譲りした後に、奈良から出雲に一大卒として派遣された
倭人伝では「伊都国」の長官「爾支(にき)」として記述される
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんは「アメノオシホミミ」
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
アメノオシホミミの父ちゃんは「スサノオ」で
奈良を追い出されて出雲にやってきて、巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚し、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)で暮らしていた
つまり「神武」は、産まれも育ちも九州で奈良では無いが
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系 そもそもトヨのとき既に女王国は実権を失い、新興国である大和が背後にいたわけだ
そんで女王国の偉業は、一切を消すことにしたと
あまりに姑息だが家康も似たようなもんだった 神武東征の原作は朝鮮半島で高句麗を建国した東明東征物語だ。 >>777
だから捏造だとも言いたいのだろうが、如何せんいつ入ってきたかは推測でしかない
具体的な証拠をもってして、この時代年代には入っていたということが証明される
そんなことよりも、>>739氏の書き込みを妄想だと決めつけた以上は、どこがどう妄想
なのか、具体的に指摘してきしてあげなさいよ 神武天皇=東明聖王である。
大和の史書に神武東征が描かれているということは、高句麗を建国した元扶餘人達がさらに畿内へと流入し、大和王権を構築したということだ。
扶餘族はもともとバイカル湖周辺にいたプヨ族の末裔であり、その名「プヨ」は「鹿」を意味する。
奈良で鹿を崇める風習は先祖崇拝を意味するのであろう。
つまり、九州邪馬台国と大和(畿内)は無関係ということである。 神武天皇と東明聖王こそ無関係である
関係あるなら、百済のように拝借するだろう
扶余系って、ツングースだし
韓国人はウンコを食べる 魏国が南と東を間違えたとする京大の内藤は
火あぶりの刑でいいくらいだな >>787
普通に考えて墓を建築するために使われた土は当時より古い時代の地層の土だろ。
半島で見つかった最古の鐙は5世紀のものだぞ。
それが出てきた箸墓は、無理をしても5世紀以降の墓ということになる。 >>787
紅花はエジプトや地中海沿岸辺りが原産で
3世紀に中国の西域でやっと栽培が始まってるんだよな
どう考えても3世紀の日本にあるはずのないもの。 >>792
鐙は周濠の中で見つかってるから一行目はまったく関係がない
周濠を掘って盛り土したマウンドの中から見つかったというのならともかく
それから、半島で見つかってる最も古いものが5世紀のものであって、それ以前がないというわけではないし、
既に魏と直接交渉しているので、半島に古いものがなくてもなんら不思議ではない
結果、半島の例を持ってして5世紀の墓になるというのは、単なるこじつけでしかないよ(苦笑)
箸中山のマウンドの上に置かれた特殊器台や弥生後期末のものであるのは疑いのないところ
弥生後期末が5世紀だというのなら、君のおっしゃるとおりだけども >>793
同じこと(苦笑)
現実に証拠が出ていることから、3世紀の中国の西域で栽培が始まったというのが誤りとなる
>>739に反論できないから、噛みついてくるの?なら他人に妄想という言葉を吐いちゃ駄目だな 畿内説は暴言ばかりで墓穴を掘るばかり
なんで魏国が東と南を間違えるか
おいおい >>794
畿内説の学者はそんな反論はしていなかったぞ。
君のような宗教じみた連中はフェイクニュースしか頭に入らないんだろ?
それとも妄想癖でもあるのかな? >>799
畿内説の学者というのは具体的にどなたのことかな?
その人(たち)が私と同様な反論をしていなかったら、いったいどうだと言うのかはさっぱりわからんが(苦笑)
ま、いずれにしても、反論されて再反論するのではなく、フェイクニュースだの、妄想癖だのと言いがかり
をつけてくるようなくだらない人間と議論する気はないよ はいはい
畿内説を書いておきますね
畿内説は京大の内藤が魏国が東と南を間違えたとする説
当時の魏国は短単を使っていたので九州に収まります(北部 >>780
○ニニギ(邇邇藝)
Xニニギ(邇邇芸)
邇邇芸はニニウンと読む
朝鮮系ウンコ喰い北九州土人は漢字を知らないw >>797
放射性炭素年代測定で出土したベニ花の花粉の年代を決定すればいいはずなんだが
何で測定せずに3世紀だと決めつけるんだろうな? >>776
福岡空港は昔、板付飛行場と云ってたんだぞ
東京に対する成田空港のようなもんだwww >>804
纏向遺跡が3世紀だってのは怪しいな
他の西日本からは纏向遺跡の何百年後にしかベニ花は出ないんだぜ >>51
千葉県説もあって、本になっているから頑張ればいけるぞ
唱えているのはその人だけだろうけど >>806
はっきり言う
纏向(太田遺跡
は ありえない >>803
花粉をC14などで年代測定が出来るのかどうかは知らないが、何故しないのかと、3世紀のものと判定してるのは
発掘した桜井市教育委員会文化財課(TEL0744-42-9111)なので、ご自分で尋ねてくださいな 開けて中を確認したわけでもないのに箸墓は卑弥呼の墓だと言い張り、
さらに仮説を展開していくという畿内説の手法は真実からは遠ざかる方向にしか進まないんだよ。
そもそも開始地点が、魏志で示す南は東の間違いである、という仮説だからな。 >>803
微量の花粉の放射性炭素が測定出来るものなのか
貝塚なんてのはゴミ捨て場だから
唐子・鍵遺跡周濠にも用済みの土器が捨てられていた例がある。
吉野ケ里が発見された後、弥生テーマパーク建設にあたっては
唐子・鍵遺跡出土の楼観を描いた土器を参考にして楼観を捏造したのは
朝鮮人そっくりw >>803
コンタミの問題があるから花粉の放射性炭素測定はおそらく不可能
そもそも纒向はすでに何度も放射性炭素で測定してる
纒向石塚やホケノ、箸墓、それに最近では大型建物近くの穴から出た大量の桃の種
その結果、3世紀前半という結論が出ている
しょうもない難癖つけてるが、無意味な難癖だと自覚してくれ >>764
古墳の数
兵庫県が18,851でダントツ1位
以下
2位)鳥取県:13486
3位)京都府:13016
4位)千葉県:12765
5位)岡山県:11810
6位)広島県:11311
朝鮮系弥生人居留地の福岡県は
10754基7位
クヤシイのうwww
http://kofun.jp/diary/5176.html
↑の元ネタは
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/h29_03_maizotokei.pdf
の38頁目の右から3列目だ。
千葉を最多にするためにはどんな数字の操作をするんだ?
千葉が最多だという統計資料を出せよwww 箸墓は魏志にある様式とはまるで異なり殉葬の形跡もなく、卑弥呼の墓とは言いがたい。
他に可能性を探るとすればトヨの墓か。
纒向遺跡は生活痕が希薄であり居住区ではなかったもよう。
いわば宗教施設か、一時的に作られた土木事務所のようなもの。
今の畿内説は桜井市の軽率な想像が一人歩きしているだけだよ。
なんたって考古学でもなく纒向学だからな。 そもそもC14で比定させるための年輪年代法が狂ってるからね
箸墓の木の年代が199年と出てしまって、ずらして、3世紀前半に伐ったものです
なんて馬鹿げたことしてるから
ちなみにこの年輪年代法の決定は、その時代の資料の広範な収集が必要だが
そういうのは成されてない
またその限られた資料さえ、何度も公開を請求されてるのに非公開にしている >>603
神話だというのはそうだが、全てがダメというわけでもないし
史料も古いものの方が信憑性が高いというわけではないんだけど 日向の高千穂の宮から奈良に東征したのは「神武」
神武の父ちゃんは「ウガヤフキアエズ」
宮崎県日南市の鵜戸神宮で産まれ、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵に墓がある
ウガヤフキアエズの父ちゃんは「山幸彦」
海幸彦に出雲を追い出されて、海神国・・つまり北九州の狗奴国に亡命し
日向に高千穂の宮を建立して居住していた
山幸彦の父ちゃんは「ニニギ(邇邇芸)」
大国主がアマテラスに国譲りした後に、奈良から出雲に一大卒として派遣された
倭人伝では「伊都国」の長官「爾支(にき)」として登場する
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんは「アメノオシホミミ」
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
倭人伝では「投馬国」の長官「彌彌(ミミ)」として登場する
アメノオシホミミの父ちゃんは「スサノオ」で
奈良を追い出されて出雲にやってきて、巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚し、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)で暮らしていた
つまり「神武」は、産まれも育ちも九州で奈良では無いが
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系 ああ、箸墓じゃなかったっけな、まあその近辺のたったか
いずれにせよ出鱈目になってしまってる
旧石器捏造で出世した人が絡んでるのが元凶だわ >>794
輪鐙は確認されてる最古のものが4世紀初頭の西晋の時代
さらにこの時代ではまだそれが中国でも貴重だった
鐙や馬といったものが日本へ伝わったのは5世紀以降なのはどうやっても覆せない事実だし
特に畿内説の人も反論はしてない(というか無理)
なので「少しあとに鐙が放り込まれた」と彼らは述べてる
でその、少しあとに、とはいかほど?て突っ込まれてるのが今 トヨスキイリヒメにしとけばいいのに
それなら一番でかい墓からの呪縛もとけるだろ 他にも布留0式とか突っ込みどころ満載なんだよ、畿内説てか箸墓説は
じゃあなんで畿内説唱えてるの?ていうとC14てか年輪年代法が唯一の根拠
けどそれも上で書かれた通り、ブラックボックスとなっておりまるで体を成してない
門脇氏や森氏が批判的になったのもそらまあそうなるよね、と 大宰府に保管されていた「翰苑」によると
・倭人は春秋時代の呉の子孫である
・廣志曰く、到伊都国〜又南、邪馬台国
邪馬台国の人達は半島というより中国からの渡来人であり、九州北部に住んでいたということ。
旧唐書では、大和政権から派遣された遣使は倭人ではなく日本人と呼ばれ、さらには倭人伝ではなく日本伝として記載されている。
なおその日本人は、昔の日本国(畿内)は小国だったと言っている。
そして倭国と合併したとも言っている。
これは畿内政権が西日本一帯を統治していたという畿内説の主張と矛盾する。
卑弥呼の時代の畿内は倭国では無かった可能性が高いのである。 >>821
○ニニギ(邇邇藝)
Xニニギ(邇邇芸)
邇邇芸はニニウンと読む
朝鮮系ウンコ喰い北九州土人は漢字を知らないw
カタカナ、朝鮮発音記号だけにしとけwww >>826
こいつみたいに、文献から自分に都合のいいとこだけを切り取るやつは信用してはいけない
都合の悪いところを切り捨てている
つまり、嘘つき人間である 朝倉軌道が走っていた地域か
フリーダム過ぎるイメージだな >>823
>>794では木製輪鐙が朝鮮では5世紀のものしか見つかってないことを根拠に、箸中山の築造年代を
5世紀に求めるというロジックを批判としているのであって、出土した木製輪鐙が5世紀のものだろうと構わないよ?
もともと土坑など異なり、周濠から出たという時期を特定しづらい遺物だし、その時期までは周濠が埋まってなく、
周辺遺構から古い遺物の流れ込み(注)もあったというだけのことだからね(鐙すら流れこみかもしれないのだし)
ただ、もし、築造と同時期に置かれたとみられる宮山型特殊器台まで5世紀のものであると言いだすのなら、
北部九州の弥生後期末の土器も5世紀のものになるだろうし、となれば、3世紀頃とされている平原方形墳丘
墓は5世紀のものとなり、4世紀初頭築造と考えられいる祇園山古墳も6世紀以降のものになるだろうけどね
つまりは北部九州から3世紀の卑弥呼の墓らしきものはすべて無くなるということだよ
それは女王国=奴国説を採る私も困る(苦笑)
(注):流れ込みとは、近辺の遺構がなんらかの原因で崩壊し、(その土とともに)遺構内に埋まっていた遺物が別の遺構に入ること
土地の開発、発掘調査時のミスなどの人為的要因、洪水などの自然的要因(複合的要因も含む)などで起こりうる
たとえば弥生後期の土器しかない遺構に一つだけ縄文土器片(信楽焼片)が入っていたとすると、その地域で縄文土器(信楽焼き片)が
弥生時代に作られていた可能性が低い場合、この縄文土器片(信楽焼片)はどこかから流れ(紛れ)込んだものと判定するわけだ
とくに長い間、溝や窪地、池だったりする場所には流れ込みがおきやすい そういえば半島由来のDNA濃度を都道府県別に調べると、上位15位以内に近畿圏全てランクインするんだよな。
よく日本海沿岸に朝鮮ゴミや船が流れ着くんだが、その一部が近畿人になったようなものかな? チョン臭い福岡人がまた捏造歴史で日本の歴史をゆがめようとしてんの? >>831
出土された状況から、古墳が築造された少しあとに放り込まれたというのが桜井市及び箸墓説の公式見解だけど >>832
この前のサイエンスZEROで篠田さんが言ってたように、
渡来人は弥生時代だけでなく古墳時代やそのあとにも継続的にやってきた可能性があるということ
当時の渡来人が来るとしたら政権中枢の畿内
去年の11月ごろだったか、奈良で渡来人特有の建物跡が見つかって4世紀末のものと発表があった >>834
公式見解に従うなら、箸墓は3世紀後半でいいな? >>834
報告書を読んでないので、報告者自身がどのような結論を出したかはしらないが
廃棄されたものとするのなら、布留T式土器と木製輪鐙が同じ時期のものである
とのなんらかの根拠があるんでしょ
鐙にこだわりたい気持ちはわかるけど、特殊器台という証拠があるのだから
5世紀まで下ることは現状ではありえないね >>835
それがまさに>>826が言うてる日本国大和の歴史であって、九州を中心にしていた弥生時代の畿内は、倭国とは別の倭種の小国だったという話。
その小国だった頃の畿内について調査し、大和王権発祥の謎を探るのが考古学者の仕事。
それをたまたま同時期だった邪馬台国の歴史に無理やりヒモ付けようとするから辻褄合わせが大変なんだよ。
邪馬台国は九州中心に栄えた倭国時代の話。
大和国は畿内の渡来人たちが構築した新政権の話。 >>838
はぁ?
『隋書』で、れる。遣隋使が持参した俀国(倭国)多利思比孤(『隋書』では多利思北孤)から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に
翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国、また東で秦王国へと至り
大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に他10余国をへて海岸についた
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
とハッキリ書かれているのに、
邪馬台国は九州中心に栄えた倭国時代の話だとか
九州の歴史に無理やりヒモ付けようとするから辻褄合わせが大変なんだろ(笑) >>838
はぁ?
『隋書』で、遣隋使が持参した、俀国(倭国)多利思比孤から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に
翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国、また東で秦王国へと至り
大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に他10余国をへて海岸についた
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
とハッキリ書かれているのに、
邪馬台国は九州中心に栄えた倭国時代の話だとか
九州の歴史に無理やりヒモ付けようとするから辻褄合わせが大変なんだろ(笑) >>838
はぁ?
『隋書』で、遣隋使が持参した、倭国から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる
「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に
翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国、また東で秦王国へと至り、東に他10余国をへて海岸についた
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
と、奈良は邪馬台国だってハッキリ書かれているのに、
邪馬台国は九州中心に栄えた倭国時代の話だとか
九州の歴史に無理やりヒモ付けようとするから辻褄合わせが大変なんだろ(笑) 魏史倭人伝には倭人は手で物を食べると書かれている
でも倭迹迹日百襲姫は箸が陰部に突き刺さって死んだわけで、箸墓を卑弥呼の墓とするなら被葬者も変えないといけない >>838
考古学の成果により3世紀中頃には、畿内を中心に広域連合ができていてこの連合に北部九州も含まれることが確実になっている
そして、中国鏡の取引で帯方郡との交渉相手は畿内勢力に移行している事実もある
北部九州だけを倭国とする説は考古資料と矛盾してて、とっくに否定された与太話
基本的な知識のない九州説の素人連中だけがいまだにそんな与太話にこだわってるが、そんなやつらはどうでもいい
なお>>826はチェリーピッキングなので論外 王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した出雲
「奴国」は、
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国、因幡
長官は多模(たも)がいる「不弥国」は、田裳見宿禰の摂津国住吉
「投馬国」の長官「彌彌(ミミ)」は
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんの「アメノオシホミミ」
古代出雲王家の子孫らによる伝承では、
大和王権後の北九州で、大陸との交易を一手に担う宗像氏の祖先は出雲6代主王の息子
つまり
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(河内山城)を経て邪馬壱國(奈良)
卑弥呼の時代は、北部九州一帯は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられていた狗奴国の強大な勢力下にあったので、奈良の邪馬台国は出雲を利用していただけであり
607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣した時の記録にも
住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。
翌年(大業4年 608年)大唐国が文林郎裴清を倭国へ遣し
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国、また東で秦王国へと至り、東に他10余国をへて海岸についた
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
とハッキリ書かれているし、奈良は邪馬台国だったのは間違い無い >>841
隋書の場合は「倭」国ではない。
旧唐書にあるように、日本人が「倭」という字が気にくわないと言ったからだ。
つまり隋書ともなれば畿内政権からの使者が多く出入りし、情報交換しながら編纂出来たはずだ。
それにも関わらず、大和は魏志でいう邪馬台国みたいなもの、と字を改めて紹介されている。
大和が昔の邪馬台国であったのなら、この一文は必要ないし、字を替える必要もない。
中国の史書は共通して、変化した部分しか書き換えないよな?
つまりこの一文は邪馬台国と大和は別物だと強調してるようなもんさ。
そしてそれを当時の日本人も認めていたということ。
これを天智天皇が、西の倭国と東の日本国という歴史ではなく、西から東へと広がった一国の歴史として纏めさせたのが記紀だ。 だとしたら高句麗物語のパクリでも何でも良かったわけだな。
結果的に全国統一となれば良いのだから。 >>845
ほらな
607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣した時の記録に
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であると、ハッキリ書かれているのに、
邪馬台国を九州に無理やりヒモ付けようとするから
大和は魏志でいう邪馬台国みたいなものと書かれている・・なんて、無理矢理歪曲して、褄合わせが大変だ(笑) 『隋書』には
607年(推古15年)に小野妹子を派遣した倭国の大和王権は
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であると、ハッキリ書かれている
大和は魏志でいう邪馬台国みたいなものとは書かれていない >>844
○ニニギ(邇邇藝)
Xニニギ(邇邇芸)
邇邇芸はニニウンと読む
朝鮮系ウンコ喰い北九州土人は漢字を知らないw
カタカナ、朝鮮発音記号だけにしとけwww
>607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って
小野妹子が「日出処天子」云々の国書を持参したのは隋の煬帝宛だぞwww
唐の建国は618年なんだがwwwwwwwwwwwww 女王国の外交方針が大和と相いいれないことが卑弥呼を記紀から消した理由なんじゃね
つまり女王国は事実上半島南端に広がっていたから240年代には超大国の魏と組むのが得策だった
しかしその後高句麗の強大化で半島情勢は激変する、それは西暦300年頃からである
要するに大和から見て女王国は正反対の半島攻略を考えていたわけだ だから畿内説は文盲と言われるんだよ。
理系どころか文系にもなれなかったその他の人達かw
隋書は方角や字まで変わってるから魏の頃の邪馬台国と奈良は別国ということ。
日本人なら気づくよな。
文面からもよくわかるし。
しかし隋書でもまだ、本当に邪馬堆が奈良なのかは謎だな。
相変わらず畿内とわかるような情景描写は皆無。
畿内説はなぜ奈良なんだ? 『隋書』には
607年(推古15年)に小野妹子を派遣した倭国の大和王権は
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であると、ハッキリ書かれている
小野妹子を派遣した倭国の、「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である大和王権とのルートも
住吉大社近くの住吉津 ー 住吉の細江(現・細江川)から大阪湾 ー 難波津
となっており、上陸地点が九州か出雲かの違いだけで
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(河内山城)を経て邪馬壱國(奈良)
とも一致する
邪馬壱國(奈良)で間違い無い
なのに九州に無理やりヒモ付けようとするから、
大和は魏志でいう邪馬台国みたいなものとは書かれているとか、無理矢理歪曲して、辻褄合わせが大変だ(笑) >>850
そりゃ中国を上に見ていたんだから少しでも近づけるよう、場合によっては韓国を潰してでも、という勢いだったんでしょうよ。
だから九州北部の邪馬台国などが半島に渡って百済となったのかもしれない。
とも思える。 >>849
どうせそのぐらいの知識しかねーんだろ(笑)
『日本書紀』607年に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣された
『隋書』607年に小野妹子が隋の王煬帝に国書を持ってやってきた >>852
それはお前の持論。
畿内説では投馬国=出雲と比定している。 隋書は逆に南を東と間違えてるんだな
けっきょく中国の書物の方向などあてにならんということか >>855
邪馬台国の行程に出てくる、
「一大国」は、宗像氏の祖先、出雲6代主王の息子が拠点にしていた隠岐
上陸地点の「末廬国」は松江
王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した出雲
「奴国」は、
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国、因幡
長官は多模(たも)がいる「不弥国」は、田裳見宿禰の摂津国住吉
「投馬国」は、大国主が兄弟の八十神からの迫害を逃れるために訪れた「木の国」(紀伊 和歌山県北部)で、長官「彌彌(ミミ)」は
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんの「アメノオシホミミ」
これで全部説明がつく
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(河内山城)を経て邪馬壱國(奈良) >>855
>畿内説では投馬国=出雲と比定している。
はあ?
出雲に比定する人もいれば吉備に比定する人もいる
どちらかというと吉備に比定する人の方が多いだろう >>857
そういう独自解釈は否定しないが、ファンタジー史書を参照している時点でファンタジー小説確定だ。 >>856
太陽が上る方向を間違えるわけない
実際に行ってないが正解 >>860
ファンタジー史書を参照している時点でファンタジー小説確定だ。
・・・ということにしないと、邪馬台国を九州に無理やりヒモ付けできないんだろ(笑)
辻褄合わせが大変だね(笑) 『魏志』倭人伝の邪馬台国への行程に出てくる、
「一大国」は、宗像氏の祖先、出雲6代主王の息子が拠点にしていた【隠岐】
上陸地点の「末廬国」は【天然の良港 松江】
王がいて、長官は爾支(にき)がいる「伊都国」は
大国主の国譲りのあと、邪馬台国が、アマテラスの孫の邇邇芸(ニニギ)を派遣した【出雲】
「奴国」は、
邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)に国を譲った「大国主という王」がいる伊都国(出雲)の奴国
・・つまり大国主の最初の妃「八上比売」の国【因幡】
長官は多模(たも)がいる「不弥国」は、田裳見宿禰の【摂津国住吉】
「投馬国」は、大国主が兄弟の八十神からの迫害を逃れるために訪れたスサノオの息子の国「木の国」【紀伊】で、
長官「彌彌(ミミ)」は
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした、スサノオの長男の「アメノオシホミミ」
「邪馬台国」は
邪靡堆を都としており魏志の邪馬臺である、607年(推古15年)に小野妹子を派遣した倭国の大和王権(隋書)
これで全部説明がつく
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国(隠岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(河内山城)を経て邪馬壱國(奈良) そしてその後
神武の父ちゃんは「ウガヤフキアエズ」
宮崎県日南市の鵜戸神宮で産まれ、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵に墓がある
ウガヤフキアエズの父ちゃんは「山幸彦」
海幸彦に出雲を追い出されて、海神国・・つまり北九州の狗奴国に亡命し
日向に高千穂の宮を建立して居住していた
山幸彦の父ちゃんは「ニニギ(邇邇芸)」
大国主がアマテラスに国譲りした後に、奈良から出雲に一大卒として派遣された
倭人伝では「伊都国」の長官「爾支(にき)」として登場する
ニニギ(邇邇芸)の父ちゃんは「アメノオシホミミ」
スサノオが奈良にいたときに産まれた長男で、スサノオが奈良を追い出された後、アマテラスがひきとって自分の子にした
倭人伝では「投馬国」の長官「彌彌(ミミ)」として登場する
アメノオシホミミの父ちゃんは「スサノオ」で
奈良を追い出されて出雲にやってきて、巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と結婚し、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)で暮らしていた
つまりは、産まれも育ちも九州で奈良では無いが
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系の「神武」が
九州日向の高千穂の宮から奈良に東征し、邪馬台国は大和王権となって
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国(豊前・豊後)−十余国を経て難波津(大阪)−邪馬臺国(奈良) 『古事記』や『日本書紀』の編纂を勅撰した天武天皇は
自分達の祖が、邪馬台国の時代から大和の地を離れずに、連綿と続いた系統ではなく
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系ではあるが、一度大和の地を離れ、邪馬台国に敵対していた狗奴国の九州で産まれ育った「神武」だ
ということが、そうとう引っ掛かって、
『古事記』や『日本書紀』には、大和と邪馬台国や卑弥呼との繋がりを記述しなかったんだろう 240年代には魏は高句麗とも衝突し半島への圧力を急激に高める
このとき魏との同盟は半島南部を制圧する良い同盟かもしれないが
魏に飲み込まれ危険な同盟とも言えた
後の四世紀の大国西晋(魏の後継)が激しい内乱だったのとは正反対に
この3世紀の魏は絶頂期だった
そこで女王に逆らう勢力が生まれる、これが倭国大乱である
その勝者で、トヨのバックとなった大和が卑弥呼を記紀から消し去るのは当然だし
そもそも大した血縁もない
九州の貧乏豪族が畿内の農業で大成功したのが神武一族で、
欠史八代は地元の神を敬意から編入したもの
結局卑弥呼の治世に神武は僻地の小物だったわけである
後に覇権を握れば自分だけ神になるのは家康とそっくりなのである >>866
5chに入り浸るんじゃなくて、ファンタジー小説でも書いて出版しろよw 関西人は朝鮮人の遺伝子が非常に濃いいから俺のような純粋な日本人には理解しがたい
解釈が多い >>863
魏志倭人伝の記述では、
狗邪韓国(釜山)〜対馬国 千里
対馬国〜一大国 千里
一大国〜末盧国 千里
末盧国〜伊都国 五百里
実際には対馬から隠岐までは釜山〜対馬間の5倍くらいの距離があるよ
それと、出雲は松江よりも西。松江からいったん西へ行って再び東の因幡へ行くのも意味不明
この時代の航行方法は海岸に沿っての移動だからそんなルートは取らないし、隠岐に寄る意味もない
だから近畿説で出雲を経由したという説を唱える人は投馬国を出雲に比定する >>866
まぁ
魏(220年 - 265年)から、正始元年(240)「親魏倭王」に任命され金印を授かった邪馬台国が、倭国平定のために
かつての倭王、「漢委奴國王」の九州の狗奴国に、戦争を吹っ掛けている時に卑弥呼が死んで
狗奴国の逆襲に怯えてパニックになった卑弥呼の官たちが、男王をたてたり、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為したり
大混乱しているのをみて
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系ではあるが、一度大和の地を離れ、邪馬台国に敵対していた狗奴国の九州で産まれ育った「神武」が
邪馬台国に敵対していた狗奴国から唆されたか、これは自分が正すべきだと思ったかして
邪馬台国に敵対していた九州の狗奴国の、産まれ育った日向の高千穂の宮から、奈良の邪馬台国にむけて東征を開始したんだろうね >>869
距離なんか、九州説でもムチャクチャじゃねーか (笑) >>866
まぁ
魏(220年 - 265年)から、正始元年(240)「親魏倭王」に任命され金印を授かった邪馬台国が、倭国平定のために
かつての倭王、「漢委奴國王」の九州の狗奴国に、戦争を吹っ掛けている最中に卑弥呼が死んで
狗奴国の逆襲に怯えてパニックになった卑弥呼の官たちが、男王をたてたり、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為したり
邪馬台国が大混乱しているのをみて
奈良のアマテラスと出雲のスサノオの直系ではあるが、一度大和の地を離れ、邪馬台国に敵対していた狗奴国の九州で産まれ育った「神武」が
邪馬台国に敵対していた狗奴国から唆されたか、これは自分が正すべきだと思ったかして
邪馬台国に敵対していた九州の狗奴国の、産まれ育った日向の高千穂の宮から、奈良の邪馬台国にむけて東征を開始したんだろうね >>871
九州説でも近畿説でもさすがに東→西→東と右往左往した説を唱える人はいないよw ___
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 ̄ ̄ 安本の後継者がいないと、安本が死んだあと九州説どうすんだ? 遅かれ早かれ九州説は消えて行くからどうでもいいけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています