0001樽悶 ★
2019/08/05(月) 23:27:24.26ID:/gAVnMcC9https://amd.c.yimg.jp/amd/20190805-00000007-kobenext-000-3-view.jpg
佐伯、竹内、佐伯、岩田、小谷−。広島の原爆投下で孤児となった西宮市の小谷栄子さん(76)は人生で4回、名字が変わった。養子に入った家では、孤独から「死にたい」と何度も思った。温かい家族にも迎えられたが、結婚後は原爆の後遺症におびえた。波瀾(はらん)万丈の歩みを「いろんな人に育ててもらった。不幸な人生ではなかった」と振り返る。今は平和な日常に感謝し、毎日鶴を折る。(初鹿野俊)
1942(昭和17)年9月、広島市中心部にある現在の中区東白島町で生まれた。「佐伯」家の4人きょうだいの末っ子。レコード店を営む父母との6人家族だったが、父は白血病で44年に亡くなった。6歳、3歳違いの長姉と長兄は疎開し、45年8月6日は母と一つ上の次兄とで迎えた。
当時は2歳11カ月。原爆投下の瞬間は爆心地から約1・5キロ離れた自宅の隣家にいた。家事の邪魔になるからと預けられ、爆風で家の下敷きになったが助かった。ただ、1人自宅にいた母は犠牲になった。
今も痕が残るやけどを右足に負ったが、「痛かったとも、かゆかったとも覚えがない。お母さんが死んだ記憶もなかった」。無事だった次兄と2人、焼け野原をさまよった。孤児が街にあふれていた。いきさつは不明だが、「竹内」家にひとり娘として引き取られ、次兄と離れ離れになった。
竹内家は貧しかった。父は日雇い仕事で収入が不安定。祖父は働かず、リウマチがひどい祖母は寝たきり。家事や介護に追われる母と、港町の同市の宇品で狭い借家に5人で暮らした。
3年後、男の子が生まれ、状況が一変する。貧しさに耐えかねてか、程なくして母は1人家を出た。祖父は栄子さんと「弟」の扱いに差をつけるようになる。「弟がかわいいんかな」。自分が養子と知らない栄子さんは理由が分からず、ただただ耐える日々だった。
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原爆孤児となり、竹内家の養子となった小谷さん。母親が出て行き、小学生ながら「弟」をおぶって、家事や祖母の面倒をみた。家計は一層厳しくなり、食卓に並ぶのは、麦飯に外国米を混ぜた「黒いご飯」と、薄く色が付いたみそ汁、おかずは酢みそ。給食で出たパンを祖母に食べさせ、授業に戻ることも度々だった。
学校は大好きだったが、行事は嫌いだった。運動会の昼休みは家族と弁当を広げる同級生を尻目に、家に帰って過ごした。
弁当が必要な遠足は休んだ。3年生の時、担任の先生が弁当を作ってくれた。初の遠足。弁当箱には、まぶしいほどに真っ白いご飯と黄色い塊。生まれて初めて見る卵焼きだった。塩味でおいしかったが、「先生に悪い」と気が引けて、4年生から遠足は行かなくなった。
弟が成長すると、「拾われた」栄子さんとの待遇の差は明確になった。おかずの酢みそを箸ですくおうとすると祖父に叱られた。「箸を横にするな。縦にしろ」。酢みそはほとんどすくえなかったが、弟は箸を寝かせてたくさん取った。弟のみそ汁には具も見えた。我慢するしかなかった。
小学3年生のある日、転機が訪れる。親戚が突然現れ、佐伯のきょうだいで集まると告げられた。あっけにとられた。元は佐伯姓で姉と兄2人がいて、母は原爆で死んだこと。自分も被爆し、竹内家には養子でもらわれたこと。すべて初耳だった。「線でつながった」。祖父から受ける仕打ちの意味が分かった。
きょうだい3人と再会した。次兄は足のやけどを気に掛けてくれたが、「みな初めて会う人。感動はなかった」。親戚にもらったワンピースで記念写真を撮った。竹内家に戻ると、祖父からワンピースを質屋に持って行くよう言われた。「あんた、また来たの」。質屋の店主はすっかり顔なじみになっていた。
孤独を深め、「原爆で死にたかった」「死んだ方がまし」と何回も思った。
中学2年生の時、窮状を知った地元の親戚に引き取られ、再び「佐伯」に戻った。去り際、竹内の祖父が「いじめて悪かった」と頭を下げた。不思議と報われたような気持ちになった。祖母も涙で見送ってくれた。
佐伯家は裕福で、いつも白米があった。毎日風呂に入り、きれいな服を着て、夏は浴衣も縫ってもらった。「ここは天国」。申し訳なくて、必死で家事を手伝った。
1年後、「きょうだい一緒に」と長姉を養子に迎えていた広島県三次市の「岩田」家に入った。ここでも不自由はなかったが、遠慮が働き、自立したいと思い始めた。(続きはソース)
8/5(月) 10:30配信
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