1845年5月、英国の探検家で英国海軍将校だったジョン・フランクリン卿は、大西洋と太平洋を結ぶ「北西航路」開拓のための北極海調査を行うため、133人の隊員とともにエレバス号とテラー号に乗り込み、テムズ川を出航した。それは、北極探検の歴史において最も凄惨な出来事の始まりだった。

 計画では、フランクリンの探検は万全のように思えた。隊員たちは経験豊かで屈強な若者たち。乗り込んだ艦船は外側が鉄で覆われ、蒸気機関や温水設備といった、ビクトリア時代の最新技術が満載されていたし、3年分を超す食料品も積み込まれていたからだ 。

 海軍本部の指令に従い、探検隊は北極海でも最も危険な海域へと船を進めた。しかし1846年9月頃に、2隻の船はキング・ウィリアム島の北西で海氷に閉じ込められ、1848年4月までに24人が絶命。フランクリンもその一人だった。キング・ウィリアム島の石塚には、フランクリンに代わって新たな指揮官となったフランシス・クロージャーが書いたと思われる文書が残されていた。それによると、生き残った隊員たちはバック川を徒歩で目指したという。

■沈没船発見に沸く小さな町

 2014年、キング・ウィリアム島の南沖の海底でエレバス号が見つかった。その2年後にはイヌイットのサミー・コグビクが研究者たちを案内した入り江の底から、テラー号が発見された。保存状態は驚くほど良いと、カナダの国立公園を管理する政府機関「パークス・カナダ」の考古学者ライアン・ハリスは話す。

 歴史学者たちの間では、隊員のほとんどが1848年のバック川への無謀な徒歩行の途中で命を落としたのではないかと長く考えられてきた。しかし、カナダのブリティッシュ・コロンビア州を拠点に歴史を研究するデビッド・ウッドマンは違う考えをもつ。1980年代にイヌイットの目撃証言を分析したところ、徒歩行で命を落とした隊員はほとんどいないことがわかったのだ。

 また、ステントンが率いる研究チームは、発見された人骨のDNA分析を進めている。隊員の子孫からもDNAサンプルを集め、骨が誰のものかを特定しようというのだ。

 1世紀以上の時を経て、探検隊を襲った悲劇の真相が明らかになる望みが出てきた。こうした明るい見通しが、北極圏の小さな町、ジョアヘイブンに新たなチャンスをもたらし始めている。沈没船が荒らされないように若者たちが警備の仕事に就いたり、伝説的な船から見つかるかもしれない品々を展示するために地元の博物館を拡張する計画を立てたりしている。

「観光客が来始めていますよ」とコグビクは誇らしげに言った。氷で覆われた極北の地の美しさとフランクリン探検隊の謎に満ちた物語に誘われて、さらに多くの人が訪れることを彼は望んでいるのだ。

https://cdn-natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/082900502/ph_thumb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/Franklin_raerels_800.jpg

ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/082900502/