【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
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曹操高陵と大分県日田市
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190905001744_comm.jpg
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
国華によると、直径21・3センチ、厚み2・5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。
日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。
「X線で調べたところ、象嵌の…
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朝日新聞デジタル 2019年9月8日08時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html 中国人観光客に紛れ込んだ工作員の仕業、九州は中国の土地運動の始まり なぜ九州に?って
九州ですよ?
盗んできたと考えるのが普通 >>8
曹操じゃなく二代目が皇帝を自称したんじゃなかった? 人がつくれるものなら、べつにどこにあったっておかしくはないだろ 神武天皇は九州から来ましたって建国神話でも謳われているのに
近畿説支持する奴ってなんなの >>15
昔は素材的にも技術的にもそんなになんでも作れない
これも世界に数点レベルの貴重品なんじゃないの >>14
曹操は王までで子の曹丕が皇帝になったよ。 966 名無しさん@1周年[] 2019/09/11(水) 18:07:23.54 ID:0NUJ3J9F0
>>301
何ヘラっと嘘ついてんだよ
古物商はなんも知らんで売った
買った方の先生が昔大分の学校に飾られていた盗難された遺物を覚えてて買い戻したんだよ
発掘された時の資料もあってほぼ間違いないじゃろって大分に戻ってきたんよ 曹丕も自称じゃなくて献帝から正式に禅譲されて皇帝になった >>1
> 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、
この時点で、信用できん話や 伊都があって山門があるのになにいってんだと
元々九州の邪馬台、山門から奈良の大和に落ち着いた
二元化しようとしてるから戦後の歴史学者なんて高卒ボンクラレベルにしか扱われてないわけで 近畿でも九州でもどっちでもエエ
出土品に興味あるわ 親魏倭王の金印でてこないかなあ >>18
たぶんiPhone所有してつヤツはAppleの子孫でAndroid所有してるヤツはGoogleの子孫 卑弥呼がいた時代は神功皇后が治めていた時代なんだろ(日本書紀)
なぜ天皇を差し置いて女王を名乗る? 曹操となると卑弥呼の頃より古い鏡だな。
九州でそんなものが見つかるのは面白いけど、これは九州説を否定する発見だと言われるでしょう >>29
邪馬台は単なる当て字だからな
九州もやま○の国の一部と考えれば畿内に移動したとか無理筋の仮説を提唱しなくても古墳時代の始まりから大和王権の時代にまで歴史は繋がる 邪馬台国(卑弥呼)は九州でしょう
畿内説は関西の学者の希望論、証拠が少なすぎる
金印が発見された志賀島、平原遺跡の伊都国
魏に付いた邪馬台国の女王である卑弥呼に贈った鏡である可能性が大きいのでは 運送員
死亡につき、埋葬しました
どこに持ってくのか?不明だったし
身元もわかりませんでした >>25
>日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。
記事にはこう書かれているがどっちが正しい? 外からの情報で固まった説が揺さぶられるのは おもろいな 魏が滅べば壊すべき物でしかないのをありがたがるのは倭人だけだった 曹操に日本から送った物なんだよ。
日本製だから日本に同じ物が有ってもおかしくはない。 というか、金印が見つかってる時点で既にびっくりなわけだしなあ 邪馬台国の九州説が有利に
最高級の鏡や金印なんて簡単にもらえない
近畿連中はあおざめているだろうな >>27
>>41
盗掘って言っても墓荒らしじゃなくて、
いったん発掘されて展示されていた博物館的な場所から盗まれているらしいから(レスの受け売りなのでソース探さないとだが)、
それがそうなら古物商から取り返したぞってことでは? そういえば、近畿説だと金印についてはどう説明してるんだっけ? >>39
伊都国=委都国=倭都国
だが、伊都国だけは有り得ないんだよ。
すでに邪馬台国に征服された様子が倭人伝に書かれているから 金印とワンセットで送られ
途中、野盗、もしくは反対勢力に襲われ、
どっちも本来の贈答先の手には届かなかった可能性も出てきたな 渡来人からかっぱらったんだろうな
クソジャップが大陸や韓半島の皇帝と渡り合えるわけない、エテ公の酋長だろw >>46
当時の日本にあれだけの技術は無かった
世界に数点しか残っていない >>14
禅譲って知らない?
少なくとも自称はしていない >>54
いや時代がずれてるだろ
九州の金印は漢の時代のものだから、セットで送るのは無理 持つにふさわしいから持っていた、
のだろう
歴史ロマン 金印は大した事ない説
金印が出たからそこが卑弥呼みたいに言われるが
実は土産物レベルだった金印 高木彬光は邪馬台国は宇佐神宮のある大分説を取っていたけど、本当かもしれんな(´・ω・`) >>25
>買った方の先生が昔大分の学校に飾られていた盗難された遺物を覚えてて
疑問1
出土したときは錆びた鉄のかたまりだったのだが、普通そんなものを飾るか?
疑問2
京都大学の学者が昔、大分の小学校なんかを訪問したのか?
疑問3
大分の小学校で昔見たものを本当に覚えていたのか?
嘘くさいし作り話だろう >>61
金印のインパクトは、中国の正史に書かれていたものが本当に存在することでな…
逆にいうと、史料で確認できないものなら豪華絢爛な出土品が出てきてもそこまで大きな話にはならない >>50
金印は正式な迎えの使者で有ることの証明になるもので玄関口である島にあってもなんらかおかしくない
後生大事に中央の宝物庫にしまってたと思う方がアホ >>59
曹操の鏡が、いつ作られたかは不明
王権の象徴としての伝来品かもしれない >>34
皇族の娘は「女王」(天皇、直系皇族だと内親王) 日田市内の地名
天ヶ瀬、耶馬渓、夜明、、、、
地図みりゃわかるガチ 結局文献史料が魏志倭人伝以上のものが出てこない以上、あらゆる状況証拠も推論に過ぎず、邪馬台国論争も永遠に決着することはない >>46
大分県ってのは由来としてオカシイという話。
近代になってから大分県出土を装ったという可能性もゼロじゃない。 シュ儒国・裸国・黒歯国が小笠原〜マリアナ〜とか考えられない
奄美〜沖縄〜台湾〜フィリピン方面と考える方が自然
やっぱ邪馬台国は九州だよ 卑弥呼は孝安天皇の兄の嫁とわかっている。
何が九州。 >>2
曹操の墓は早い時期に盗掘にあっているから、盗まれた可能生もあるかも
4-5世紀になって東漢氏が持ち込んだかも >>73
欠史八代の天皇なのに確定出来るとかゴイスーw どう見ても邪馬台国は九州でしょう
韓国は考古学じゃなくて願望をクリエイトするなんてよく言われてるけど
日本も韓国を笑えないぞ 魏志に書かれてるのは邪馬臺(たい)国じゃなくて
邪馬壹(いち)国である >>62
金印も曹操の鏡も九州から出土してるんだよなあ 九州出身の奴が近畿で成功して邪馬台国になったんだろ
もうこれで終わりよ >>77
九州説の面倒な点は、邪馬台国の時期にもう機内にはけっこう大きな国ができてるっぽいことなんだよな
なんでそっちを無視して九州の地方政権王朝を相手にしてたのかがよくわからなくなる 邪馬台国の難升米が明帝からいただいたのかも知れん。
邪馬台国は九州のどこかにある 倭国って実は大国扱いされてた説あるよな
金印にしても皇帝に次ぐような高い地位じゃないと貰えないものだし倭国に対する悪口も少なくて周辺国ほどは見下されてない
徐福の伝説とか関係あんのかもしれんが >>73
夫の弟が天皇なのに自分は他の国の女王であったと?
どういう状況なのか教えてほしい 邪馬台国は曹叡の頃なので、曹操だとちょっと古すぎるんだよね。
九州にあったのは倭(奴)国。その首都は伊(委)都国。
それを邪馬台国が滅ぼし魏との交易権を握ったのが倭人伝の頃。 もしかしたら正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵が派遣した建中校尉の梯雋が卑弥呼に献上した鏡がそれかな。 >>84
金印は中華内部の諸侯とか周辺大国の王はけっこうもらってる
金印をもらう国は強豪国と認識されてたのは間違いないけど、皇帝に次ぐというほどレアなものではない
半島の朝鮮王とか中央アジアの匈奴王や大月氏王なんかももらってる 邪馬台国の現代読みを大和にこじつけしたのがバレバレ >>63
「X線で調べたところ、象嵌の…
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ここに書いてあるかも? 筑紫の磐井が大分を目指して山の中に逃げたよな
こいつが持ってたのでは 倭国の王とか遠い蛮国相手に魏が適当に言ってるだけかと思ったら魏王の墓に入れるような高貴な鏡を本当に贈ってたとか胸アツだわ
魏が倭国を呉や北平の裏にある味方にしておきたい大勢力として認知してたって意味にもなるよな
そもそも何回も海渡って使者行き来させてる時点で俺らが思ってるよりずっと進んでたんだろうな倭国
卑弥呼様かっけーあと壱与様かわいい やまと=山+戸
戸とは、集落入り口の木戸のこと。きど(木戸)→かど(門)
戸で集落・クニを差すようになった。
やまと(山戸)の反対が、みなと(水+戸)=水辺、つまり港のクニ。 >一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。
磐井の乱も6世紀だ
すまんな大分県民。余計なことに気づいてしまって 大陸との往来は命がけの船しか移動手段がない時代
地の利がある九州が表玄関である事は容易に想像がつく
1つは伊都国、1つは狗奴国(肥後)、その中間に邪馬台国
勢力争い激しい邪馬台国末期に九州や出雲、尾張などの勢力が畿内に移動し
ヤマト政権樹立したと考えるのが自分的に1番納得感がある 曹操と並び皇帝となってたのは劉備やろ?
劉備の末裔が日本に逃れてきてたんか? >>88
書き方あれだからあれだけど弱小国だと貰えないのは事実なわけで
でも倭国の場合はその中の一国でしかない邪馬台国や委奴国か奴国か知らんが貰えるほどの大国だった
古代史について書いたものを読んでるとちょくちょく倭国がクソ雑魚扱いなことがあって違和感ある 大分の土地勘ないけど、
磐井が戦った場所(どこか知らん)から大分の山の中に入ったら日田がある? >>94
ただ、正史の記述量から考えるとそこまで重要視されてたわけでもないようで、
それが日本の古代に関する記録が少ない原因にもなってるんだよな
邪馬台国くらいの時期に白村江レベルで中華王朝に殴りこみかけていれば
「ないこれあいつヤバい。しっかり記録取らないと」となって、もっと古代の姿が明らかになっていただろうに 地図を見ると日田って福岡・熊本・長崎・大分・佐賀・小倉・下関・久留米・日向・宇佐
などなど九州の名だたる都市のちょうど中心にあるんだな。
ここを抑えたら九州を支配できるって感じはするね。 >>93
日田が邪馬台国起こりの地。そこから筑紫平野を支配し富を蓄え、
博多・奴国の港を手に入れ、漢への朝貢(奴国に朝貢させた)と
鉄輸入独占で列島の覇権国に。
女王国の時代は、倭国大乱に負け、覇権を奈良に譲った姿。
覇権禁止=男王(=剣を持つ王)禁止=女王「共立」だ。
最盛期は、邪馬台の政治軍事経済の中心は、大宰府だった筈。
卑弥呼が大宰府に居たか、古都日田に戻ってたかは、知らん。 卑弥呼 壱与 邪馬台国
いずれも日本の史蹟には一切言及がない。中国の魏志と後世のまとめにしか存在しない名前 司馬炎の泰始の初め、幽州太守張華の求めに対しトヨは遣使し訳を重ねて入貢した。
その時、張華の邪馬台国への手土産が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だった思い出 >>88
他の王の金印は四文字だけど、志賀島は五文字だし、書体がなんか違う。 卑弥呼の年代に筑紫で活躍してたのは神功皇后で孫が仁徳天皇
卑弥呼の墓は巨大だったそうだから、実在するなら見つかり易いでしょうに
巫女が子供産むのか解らないけど、引退したりするよね? >>84 遠方の国ほど金員をもらっている
逆に近所の挑戦は貰ってない
遠方の国が長江に来ることは権威を示すことになるので
丁重な扱いをしたそうだ 諸葛亮ほどの知恵者なら
倭国の存在は知ってただろう
漢中と倭国で魏を挟み撃ちに出来たのに
天下四分の計という発想は無かったのか 九州は通り道なんだから見つかっても不思議じゃない。 地図見たら福岡と日田は隣接してるのか
>>102
元々は山国だったからヤマという部分はそう 金印もゴッドハンドなんだろ
いまさら認められないだろうが >>113
倭に興味あったのは司馬懿に滅ぼされた燕王 公孫淵だと思う。
公孫淵は孫権と通じていたみたいだけれど >>103
陳寿ってたぶん差別主義者だろ
皇帝様が超高貴な鏡贈った相手に墨彫った野蛮人扱いとか完全に冷静さ失ってるだろw
こいつのせいで日本の太古が過小評価されてるわ
あと張政って帰った後とか倭国に対してなんか言ってないのかね?普通なんか言うだろ?
絶対話端折ってんじゃん陳寿w >>12 39 50
「漢の委の奴の国王」
わ な
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! 失笑 >>113
蜀の使者が到着した5秒後にはチクりの使者が魏に向かう展開しか見えない
魏に朝貢してた邪馬台国を寝返らせるとなると相当の見返りを提示する必要があるが、そこまでして参戦させたとしても
半島で暴れるくらいしかできないと思うぞ 卑弥呼も邪馬台国も現時点では架空だしな、もっと見つかるといいね
小学校の頃、先生が金印とかが畑で出るとか嘘くさーって言ってたしさ >>84
1文字国名な
文化的なものなんだろうが、正統な国として使われる基準 >>120
何でそれで畿内が負けになるの?
九州説には、ときどきこういう突拍子もない考え方するやつが出てくる 当時朝鮮半島の中部ぐらいにいた朝鮮人の祖先の一つである穢族が反乱ばかり起こして楽浪郡や帯方郡は苦労してた
魏や燕は邪馬台国を大事にしてたのはよくわかるな 曹操も死後武帝を諡号されてるから皇帝とも言えるよね。 >>100
倭国の一部に過ぎない委奴国か奴国が金印を貰うくらいだからな
朝鮮の首長は銅印なのに
後の琉球王は銀印 >>124
魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという
つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる
卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は
魏との交流を持っていないと考えられる
ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが
佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる
そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている
ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 陳寿の三国志は真実をついて素晴らしい史書だな
魏志高句麗伝を読めばよくわかる。
其人性凶急喜寇鈔(人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む)
うーむ見事だ 倭人伝はこう
不盜竊、少諍訟 (窃盗をせず、訴訟は少ない)
古代から綿々戸つづく日本人のは民族性を見事に表しているな >>129
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝 普通に考えれば、魏が卑弥呼に贈った「汝好物」の「銅鏡百枚」の候補だよな
いくら皇帝用の最高級品とは言ってもしょせん鏡、戦略物資でもなんでもないから
鏡好きの忠実な家来にくれてやる、ってのはむしろありそうな話 <<<<1
封印された邪馬台国 沈黙する女王の鏡―いま大分・日田に蘇る卑弥呼の悲劇 (プレイブックス) 新書 ? 2000/11
関 裕二 (著)
千数百年の時空を越えて、一枚の鏡が目を覚ます。
しかも、これまでみたことも聞いたこともない金・銀・石英・瑪瑙で装飾された、
みごとな鉄鏡だ。それが大分県日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡で、
卑弥呼の時代に日本にもたらされた後漢王家の至宝であった疑いが強い。
それにしても、なぜ「邪馬台国論争」はこの鏡を避けてきたのだろう。
だれも口を閉ざして語ろうとしないのは腑に落ちない。
そして国立博物館に封印されてしまったのはなぜか。
こうして、迷宮入り事件の最終章がはじまったのだ。
↑おれは、久留米の祇園山が卑弥呼の墓だと思ってるが、宇佐説もバカにできない >>128
論点ずらしは、漢委奴国王の金印の読み方どうたらは、無意味だってことでいいか? >>131
卑弥呼や難升米は漢字による表音文字だから魏志倭人伝に書かれている国名もそうかもしれないね。 >>135
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい) >>134
箸墓は積石塚
箸墓の構造が一部明らかになった。
40年以上前に宮内庁が後円部の頂上付近を調査していた。それが今年の九月に発表されたのだ。
それによると頂部には分厚く石が轢かれ、積石塚のようであったらしい。
箸墓が倭人伝に記された倭国の墓ではなく、卑弥呼の墓でもなく、とうぜん畿内が邪馬台国の所在地ではない証拠である。
倭人伝には「土を盛りて冢となす」とあり、「石を積て封となす」と書かれた高句麗の墓によく似ている。
積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓も五世紀に築造されたと考えるのが正しいだろう。 >>136
なるほど奴佳鞮が中臣になるのか
倭人伝にはないけど那珂が中臣の中かなと思っていた 出土品の一覧はペルシャ製じゃんね
正倉院にもいっぱいあるし、普通に輸入されてたしさ 狗奴国スレでは畿内説の人はこれに手も足も出なかったけど、こちらではどうかな?
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>141の続き
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>129
ただ高句麗人と今の中国人や朝鮮人はあまり関係ないんだけどな
むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
古代史について考えるときによくやる間違いが、今と同じ場所に同じ民族の祖先がいたと無意識に思い込んじゃうこと
日本は歴史時代以降は渡来人と現在の在日朝鮮人が来たぐらいしか移動がないけど古代の大陸の民族は入れ替わりまくりだよ
日本列島は人口が少なかった当時は略奪するほど飢えることが少なく、むしろ協力しないと生き残れない自然環境だから古代から穏和だったんだと思う >>141,142の続き
> 308 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
> 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
> 海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
> http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
>
> また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
> http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
>
> 有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
> 製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
> 狗奴国との国境は菊池川だろう
>
> 鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの 畿内が狗奴国ってのもありだな
なにせあの邪馬台国を追い詰めたのだから >>139
ほんまや、失礼w
当時、鉄鏡と銅鏡ってどういう使い分けしてたんやろ。日常用と儀礼用、とかはありそうだけど >>143
扶余族が南下して朝鮮半島南部にいた倭人を畿内に追いやったのだろう >>144関連
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、
謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。 >>141
南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった
↑明快じゃん 薩摩か熊本だよ
男王卑弥弓呼 ←菊池につながるから熊本かな?
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
↑いずれにせよ、この2国の北部、(女王国は)九州北部しかありえない
狗奴国が邪馬台国に勝利してヤマトに合流したのかもしれない
魏志倭人伝にも、邪馬台国との戦いの結果がかかれていない
隼人が大量に京都周辺に移住してる(させられた)
大隈隼人とか >>141関連
重要と思われるポイント
> 806 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:37:57.84 ID:PRbsOSjX0
> >>793
> >畿内説ってのは中国語読めない人たちが漢文を曲解してるだけのつまらないお話
> それな
> 畿内のアホどもが散々縋りついていた水行十日、陸行一月の記述も暴かれちゃったしw
> もう畿内説は詰んでる
>
> > 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> > 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> > 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> > これを押さえておかないと正解には辿り着かない
> >
> > 【用例】
> > 通鑑釋文辯誤卷六
> > https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> > >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> > 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> > 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
> >
> > 【嘉興府志】
> > https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> > >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> > 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> > やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> > また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 後漢書では狗奴国女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至るとある。
狗奴国は岡山から畿内ぐらいまで >>151
広域説ってやつ?? ないない あり得ん 畿内説の学者ら みんな馬鹿ばかり 根拠が薄い
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>137
>それが今年の九月に発表されたのだ。
今月? >>137
>積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
>その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓が高句麗の影響だとしたら、
>>143
>むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
これも含めて、あれだ、神武東征神話が高句麗の神話に似てるんだよね… とにかく卑弥呼の墓は巨大で、その頃を境にして急に巨大な古墳が大和に現れたから
普通に大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えるのが自然だけど
天孫族は海から熊野を通って畿内に入ってるし、前身が九州でも変じゃないだろうけども
卑弥呼の墓は邪馬台国にあるはずなんだよね 三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
証明終わり >>152
免田式土器を狗奴国にしちゃったのが畿内説の小林行雄とは如何なものか 司馬維がクーデター失敗したときに、自分が逃げる場所として、意図的に方角を違えて魏志倭人伝に記述式した説
これを前提とすると、司馬の乗っ取りは計画的に曹叡在任中から暖めていたもの、ということになる しかし、漢委奴国王の金印が日本に残ってたってことは、印をもらった国は滅びちゃったのかね?
国が残っていれば、漢が滅びたあとは後継国に朝貢したくなるわけで、古い印を返却して現行王朝の印をもらおうとするだろうし >>155
自分は巨大な古墳がある場所は、他所者がトップに立った地域と感じる
デカい古墳を作らせて地元民の経済力を削ぐ
倭国大乱のトヨ以降に中国への朝貢が途絶えているのは、各地でトップ層が入れ替わり、
朝貢どころではないが、地元民を抑え込むためには巨大古墳を作らせる
どうかなこれ >>144,148
そういう複数の考古学資料がだいたい同じ分布になってるのを見ると>>141は大凡あってるんだろうな >>160
卑弥呼の墓が大きいそうですが、余所者なの? >>82
逆なんじゃね?
当時は九州のほうが発展してて、畿内こそ地方政権だったんじゃないの? >>159
後漢に使者を送った伊都国もしくは奴国ほぼ滅びちゃってるように思う。
倭人伝で伊都国奴国の王は存在感がない。
一大卒ばかりが目立つ >>160 地元民の経済力を削ぐ
いい線いってるよ
あれだけ畿内一帯から出てくる銅鐸が全く魏志倭人伝の邪馬台国や倭国の国々に関しての記述に出て来ない
それどころか記紀にさえ出て来ない
断言するけど、人間狩りが得意な九州勢力(のちの大和朝廷)が
先住民(銅鐸族?)を使役してつくったのが あの壮大な古墳群だよ
だから銅鐸発掘地と巨大古墳は微妙に近い場所にある
彼らは濠の中に住まわされてた
古墳の外周の濠を掘り返すと
かわらけ、生活雑器がでてくる
たしか箸墓の濠からも出てきてたはず
↑九州勢力=邪馬台国ではない >>162
別に巨大なんて記述はないよ
魏書東夷伝は韓伝と倭人伝だけは短里で書かれているから径百歩は大したことない(1里=300歩) >>160
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>156
東遷が起きたのは四世紀か
空白の四世紀とか呼ばれてる時代だね 邪馬台国は日田だったのか
そういえば箸墓は5世紀だから邪馬台国の訳がない >>150
向こうのスレでは>>141ばかり話題になってたけど、本当に大事なのはこっちだよね
そこを押さえているかどうかで全く経路が変わってしまう 久しぶりにロマンに浸れて楽しかった。
あとは弟子ちゃん サボちゃんに任せた! >>16 172
仁徳天皇は16代
神武天皇は初代
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる 邪馬台国=奈良説を主張し続けてる桜井市どうすんのこれ >>141
祇園山古墳って日本で唯一大規模な副葬が見つかってるんだっけ
奴婢を百人も殉葬したという卑弥呼の墓は普通に考えればそこってことになるよね >>128
古代はピアス、刺青、肉食バリバリだよな。
刺青嫌うのは中国文化が起源だろう なぜ九州にって邪馬台国が九州にあったからだよ
何をいまさら 神話が正しくて九州が当時栄えてたんだろ大和朝廷がどこにてきたかとは別にして
菊池あたりに古墳多すぎだし >>177
なんだそんなのがあるのか
卑弥呼に決まりだな
ぜんぜん知らなかったぞ >>1は>>133のことなのか?
知ってる人は本にしてるんだな、こんなん全く知らなかった
つか国立博物館って?? 祇園山古墳の南の方に岩戸山古墳があるけど、岩戸山という山はない?
何でそう呼ばれている?
>>177
>祇園山古墳
なるほど。磐井はここに陣を敷いたのか、、、
時代が違っても地理は大体同じだから、卑弥呼の時代も陣を敷くのに適した場所だったはず >>156
大和の支配下にはいったってことなんじゃない?
大和の支配下に入る=税という形でそれぞれの地域の特産品を都である奈良に運ぶ
北九州の鉄器の出土年数が確かなら、その特産品を大和に納めるようになった、ということなのでは?
九州=熊襲、が大和に負けて勢力下に入った時期がその頃、というだけの話にも思える
関東・東北=蝦夷、が坂上田村麻呂による東征を受けるのはもう少し後 >>137
5世紀頃の古墳の石室の寸法は高麗尺使ってるからね
埋葬者とは限らないが
高麗人の職人など関わりが深い >>190
鉄器だけならそれでもどうにか説明がつくかもしれないけど、大和朝廷のメンバーを見ると主従は逆みたいなんだよね
九州出自の氏族が連姓=天皇の譜代の配下とされて、畿内などの地域豪族は臣姓=外様の共立者になってる
なにより倭国造の一族が九州の氏族というのがポイントだと思う
畿内政権が元々地元の勢力なら、大和地方の為政者をよそ者の九州人には任せないでしょ
> 300 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 17:41:24.27 ID:yjDSp0sY0
> >>282
> そうかも知れないけど、個人的には違うと思ってる
> 畿内の土着勢力は滅ぼされたと言うよりは九州から来た支配者(のちの皇室)を共立する形で臣従したと思う
> そしてそれが現れているのが氏姓制度だと思う
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)だけど、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/氏-34455
> >日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> >臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> >神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> >すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> >実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征に付き従った元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となるわけ
> 逆に臣姓となった豪族の中に畿内の土着勢力がいると思う
>
> 名目上の地位は臣の方が高いことになっている、それは共立以前は皇室と並ぶ立場の王だったから
> でも、天皇がより頼みとしたのは昔からの家臣である連
> 上記引用で比されている江戸時代でも、外様の加賀藩なんかはどの譜代大名よりも石高は高かったけれど、
> 高位の幕閣には譜代大名しかなれなかったわけで将軍が本当に頼みとしたのは譜代大名だった >>192のつづき
> 342 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 18:29:00.83 ID:yjDSp0sY0
> >>321
> >>300のとおり、オオミワはもともと筑後山門にあった地名
>
> 大倭氏の祖である宇豆毘古は尾張氏と同族で、安曇氏と同祖氏族になる
> だから尾張氏も連姓だし、倭氏で出世した人も連姓になった
> http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国造
> >倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> >天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> >一般に綿積豊玉彦の孫とされ、神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる、海人族の一族。 >>192
ふーん、ほんじゃ熊襲ってどこの地方のことになるの?
大和=東海・近畿あたり
熊襲=九州
蝦夷=東北
みたいなイメージだったんだけど
それに九州て阿蘇山噴火で絶滅してなかったか? >>1 >>2 >>100
パンスト朝鮮顔を整形しまくった ネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がわきまくってるしな。
日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら凶悪レイプ性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
チョンポップの人気偽装を繰り返してるのもこいつら在日朝鮮人・帰化人。
在日朝鮮人はスパイそのもの
帰化人を含めて朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨(ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. ぎしわじんでん普通に読んだらやまたいこくは大分あたりやろなぁと思うだろ普通に 『泥棒家族』って、よくタイトルに市民団体からイチャモン入れられなかったな
今度は『泥棒部落』を上映してくれよ 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた証拠であり
九州に邪馬台国はなかった証拠でもあるね >>196
うん、最後の方角だけが妙に解せないから>>158
司馬維がクーデター失敗したときに、自分が逃げる場所として、意図的に方角を違えて魏志倭人伝に記述式した説
これを前提とすると、司馬の乗っ取りは計画的に曹叡在任中から暖めていたもの、ということになる
と推理したんだが
死せる孔明、生ける仲達を走らす
死せる仲達、現代日本人を惑わせる
歴史ロマンだよ >>137
古代日本は、4〜5世紀あたりに高句麗の勢力に侵略されたのかね? 240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時
九州は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だった証拠
だね
九州に邪馬台国はなかったことが確定した >>1
象嵌
記事の説明を追加
象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味がある。象嵌本来の意味は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味で金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌等がある。その中の金工象嵌は、シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わったとされる。 240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時
九州にあったのは、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だった
証拠
だね
九州に邪馬台国はなかったことが確定した 卑弥呼なのかな。
奈良時代にササン朝ペルシアの王族が日本に来たって話があるから、そっちかもしれない。 日田どんこと豊後大蔵氏は阿智王劉照の末裔と言われてる
てことは霊帝の血筋なんだよな
いろいろつながってる http://michi01.com/magosaki/233kgy26660801.html
日本書紀
六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。
辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
六七六年(天武天皇の四年)春正月、丙午の朔、大學寮の諸學生、陰陽寮、外藥寮、及び舎衛の女、堕羅の女、百済の王善光、新羅の仕丁等、藥と珍異等物を捧げて進りき。
大夏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%8F 中国共産党は
魏志倭人伝を根拠にして
1800年ほど前には現在の日本列島は
中国領土になっており、以後1800年ほど日本を名乗る連中が
不法占拠していて、これに伴う罰として
日本人を必ず絶滅しなければならない
としている
邪馬台国や卑弥呼の話は、日本では
中国共産党がこの主張をしはじめた頃の呼応して
急に出てきた話になっている
魏志倭人伝に出てくる日本の国々はほぼすべて九州なのに、
中国地方にあった出雲や吉備をすっ飛ばして邪馬台国だけ畿内なんて
記載としておかしいやろ >>2
簡単に盗まれるとか、中国人って間抜けなんだな。 >>209
使者は九州までしか行ってないからな
九州の馬鹿はほとんどこれ >>209
邪馬台国の北(畿内説だと西)の国は全部記録されてるはずだからねえ。 大分県日田の日高の工事現場から出土だっけ?
梅なんちゃらってやつが少し胡散臭いやつだったからずっと黙殺されてた鉄の鏡 そもそも大した鏡でも無いんだろ。支那より日本の歴史のが古いから、シュメール人とかエジプトなんかで鏡の製造法が出来て
それが海経由で日本に入ってただろうし。日本は太陽、太陽の光を反射する鏡が三種の神器に入ってるし
基本的に支那は属国ってて意味だろ。 >>211
伊都国までしか行ってないならそこから先はすべて伝聞
距離も戸数もまったくデタラメかもしれない。
邪馬台国をとんでもなく遠くで大都市のようにウソをいって
自分たちがいかに大きな国かをアピールしたんだろう >>20
チョンみたいなこと言い出すなよ九州のカッぺ
恥を知れ 阿蘇に行きその風景をみれば
ヤマタイの意味がわかる
山の台地に囲まれた自然の常識
狗奴は南阿蘇
古代都市国家は
広大なきちんと整備
区画された田んぼが基本だぜ
国造神社もある阿蘇を山から眺めればよくわかる
いきなり畿内にあるわけねえだろ トヨタの工場に手りゅう弾を投げ込む住民の熱さを考えれば、邪馬台国の九州説はほぼ確定。 大分県日田はむかしむかしからヒタ
日田の盆地に水が張り
それが引いたからヒタだとさ
馬鹿すぎて受ける
卑弥呼の田
卑田
卑弥呼が生まれた土地 >>1
曹操って遺言で自分が死んでも喪に服すな自分の葬儀は簡素なものにしろって言ってたから牝ジャップの鏡も簡素な品なんだろうよ 卑弥呼
日を観る巫女
火を観る巫女
火を使って預言したシャーマン
火が簡単につくれる、
火山の存在が必須だぜ
阿蘇の火をみて予知 九州の地下アイドルがメジャーデビューで畿内に行ったんだろ ちなみに「日向」という地名(旧国名以外)は日田市に多く残っているとか。
その「日向」は「ひむか」つまり「卑弥呼」が居た場所を指している。 >>224
火なんて旧石器時代から簡単に点けてたんだけど 卑弥呼
あまねく卑しいと呼ぶ
倭猿の酋長になんと相応しい名かwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 日田の隣の福岡朝倉も卑弥呼の里と主張
そりゃそうだ
特殊な能力があった卑弥呼が外に出て
勢力を作った土地
阿蘇なみのきちんと整備区画された土地
そこから抗争で阿蘇へ
四方を山に囲まれた日田と同じ阿蘇へ 実際は卑弥呼のいた日田市から「天孫降臨」して「(葦原の)中津(国)」へと移動したので
そこが「豊(トヨ)国」と呼ばれるようになったわけだ。そうして卑弥呼の墓もその近く(宇佐)に
作られたと。
いや、やっぱりこの話は良く出来てるなあ 大分はむかしからオオイタ
この世あの世をつなぐシャーマン
イタコ、イタの巫女
むかしむかしから
いまだに硫黄臭が全体にただよう別府は別の府
むかしの人間からすりゃ地獄の入り口
むこうは死国 大分県国東半島
国東はクニサキ、つまりクニの東の端
鹿児島じゃなくなぜか宮崎に日南
われわれと方向感覚が違う
リンクさせりゃクニ
国見の知名も当たり前 日の巫女。神社に仕える巫女
特別な存在じゃ無いだろ… 豪族や地方の集落がそこら辺にも有りましたよ程度
日本の歴史は2600年は超えてる世界一歴史のある国だぞ。支那とか何度滅んでるんだよ 阿蘇噴火、避難
福岡側には別の族がいるから大分側へ
別の府はこわいからひたすら北上
宇佐で紛争
敵の慰霊に神社
下関から中国へ >>233
「日南」は単に「日向」の南だからそう名付けられた 出雲で紛争
貴重だったはずの鉄が
武器や大量生産に遭遇
もってきたものを大量に破棄 >>35
どっちかというと、漢倭奴国王絡みかもしれないな
後の戦乱で奴国が制圧されて、旧王家の至宝は流出
最終的には出所も忘れられ、所有者は馬の骨に 天草ー阿蘇ー宮崎高千穂にリンクする
淡路ー畿内ー三重伊勢
ヤマタイの正式な継承者
特殊な能力をもった卑弥呼の継承者 大分中津には耶馬溪がある
耶馬が通った渓谷
阿蘇
耶蘇教
邪馬台
耶馬溪 出土ってよく聞くけどそんな最高級品がなんで土に埋まってるの?
長屋王邸とかも、噴火で街が埋まったとかならわかるけど 大分県日田には
ちいさな目立たない会所山神社がある
会所山と書いてヨソヤマ
この世とあの世が会う所はヨソ
卑弥呼関連かもな 大分県日田の月出山岳
月出山とかいてカントウ
関東地方じゃねえぞ
東側の関 何をいまさら
そもそも金印が発見されたのが大分県だろ >>217
隋書では奈良まで行ってここが魏志倭人伝の邪馬台国ですと書いてあるからな
九州なんか最初からウンコ >>1
鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっている
終了 いま国の場所が確定してるのはどこ?
マツラ国と金印発掘されたクナ国くらい? >>249
マツラ国も九州。今でも地名や川の名前として残る 戦前戦中に中国の骨董が多く日本人よって買われたからな
出土はニセ情報で、中国見上げだと思うよ 魏に朝貢した記録があるのだから
その時貰ったのでは? >>192
>なにより倭国造の一族が九州の氏族というのがポイントだと思う
>畿内政権が元々地元の勢力なら、大和地方の為政者をよそ者の九州人には任せないでしょ
なるほど道理だのう
やはり邪馬台国は九州にあって魏志倭人伝ののちに畿内に遷都したのか おいおい、これスゲーわ。邪馬台国は九州で決定的じゃん。三国志を知ってる小学生でもわかる話。 日本の鏡は出所不明なのか?
では盗掘品流れを疑った方が早いな くぐったら益々凄いわ。曹操と酷似した鏡かよ! 中国の学者からアピールがあったんだと!
こりゃ決まりだな。邪馬台国は九州で間違いないわ。 >>250
今回のはそんな数百枚見つかった鏡ではなく、
大陸でも皇帝クラスしか持てないという金銀装飾を施した鏡で世界にも数枚しか残っていないもの
それより付着物や使用されている鉱物などの科学的分析である程度辿れると思うのだが すべての古墳を発掘していいよ
と皇族が言えば解決しそう >>259
魏の書類とかに残ってそうだけどな
そのレベルなら でも、古美術商が大分の鉄道工事現場から出土したと言ってるだけでしょ?それを考古学者が買ったと。
しかも出土地を調べてもごく一般的な馬具とかが出ただけだったっていう
そんな凄い鏡を持つような人が埋葬されてるような古墳とは思えないっていう >>230
古代は有明海の海路で繋がってた。
今は筑後干拓で分断されてる。 >>265
美術的あるいは中国銅鏡研究上の価値はあっても、考古学的(歴史学的)な史料としては扱えないからね
どこから出たなどの伝聞は、最近中国で売られていた三角縁神獣鏡と同様に何の意味もないな >>259
国内ではこれしか出ていないという貴重な物なのにね。
出土場所も付着物からある程度絞れる、にも賛成。 畿内お得意のご都合ゴッドハンドと違って、
元々出てた鏡だろう。後からアクションを起こしたのは中国じゃん。
これは決定的だよ。邪馬台国確定だろう。 畿内説論者は徒労でしたな。お疲れ。青春を返せってかw >>65
金印に使った形跡がないから、もらった人間が後生大事にしまっていたと考えるのが自然 >>272
かなりの熟女好きだね。80歳ぐらいかな 旧石器時代捏造事件を思い出せ。
畿内説とは、
魏志倭人伝の南は方角を間違えて記述されている
という仮説の上に積み上げられた想像群の総称です。
これを史実と主張する行為が歴史捏造事件だと言われても仕方のないことだ。
論理的事実は「畿内説は空想」だということです。 >>87
鏡の種類に触れてはないがテイキョウが鏡を持ってきたと倭人伝に書いてあるのか。
皇帝から100枚の銅鏡は後のチョウセイの時だっけ?
チョウセイが来たのは卑弥呼死去の前後だけど、
倭人伝は卑弥呼死後に内戦で犠牲者多数、トヨが王位について治ったで完結してる。
それ以降も中国人は邪馬台国に行ってて本国に報告しているの確実だね。 ネット見ると、出土したとされるときの状況についてガセネタが広まってるし
購入経緯についても、ガセネタっぽいのがが書かれてる
>>25なんかがそれ 邪馬台国畿内説は完全に崩壊したね。
ただし、大和朝廷なのはたしかなんだからそっちの研究で頑張ってよ。
さて、日田1択なのか流れついたのかを考察すべきだね。 >>237
荒神谷遺跡の鉄拳や銅鐸の大量出土を
出雲の国譲りは史実(要するに武装解除した)でまさにその場所だった、とする本も見たことあるな。 邪馬台国とかよく解らないから聞いてきたけど
倭人伝の記述通り旅すると、琉球か台湾だってさ
福建の真東で、更に東に国があったって言うなら「台湾」だなだってさ
ググってみたら卑南族とかの古墳があった、卑南族の巫女「卑弥呼」でいいんじゃない
刺青はアイヌが有名だし、大義の縄文人なんじゃまいか? >>278
いんや、崩壊したのは九州説
金印と鏡という動かぬ証拠により
240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時、九州にあったのは、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だったことが確定した これは学者がすごいモノだと気付いて古物商から買ったものだが
由来がはっきりしないうちの適当な情報からいろいろぶち上げてしまって
よくよく調べてみると盗掘三昧の中国から普通に持ち込まれたものだと分かったけど
話が大きくなってしまいそのことを言い出せないまま亡くなられたという話です 科学的な物的証拠がここまで揃っているんだから「邪馬台国」は九州にあったと結論着けていいだろう
ただし、何らかの理由で九州から遙か遠い畿内に権力が委譲され奈良の地方豪族から「天皇」が生まれた
その九州から畿内への権力委譲を象徴的に架空の人物を使い「神武東征」と歴史書には残した訳だ 狗奴国との戦争に加担した見返りにもらったか、
大事な物を隠し保管しとくための邪馬台国の隠れ里的な存在だったかちゃう? 出土状況が怪しいというか、まったく確認が取れてないからな
1933年、ダンワラ古墳で何かが出た
1960年、古美術商から鉄鏡を購入した
2つを同一のものと判断する根拠がないというか、専門家は否定的
発掘に携わった関係者が、当時ダンワラ古墳で出土したモノを須恵器に入れたと述べている
これは鉄鏡と大きさが異なるということで、高島さんもダンワラ出土に否定的
実際どこで出土したかはまったく不明ということだろう >>281
今までお疲れ様でした。畿内学かなんかしらんけど、あっちに行けw 卑弥呼の邪馬台国が九州だとして、金印や皇帝の鏡など沢山出てきて栄華を誇るハズの九州ではなく、
3世紀の古墳時代には一転して巨大古墳が畿内から出てくる
日本の先進地域は九州であったが、田舎の畿内に飲み込まれたんだろうな
畿内の方が人口が多いとかで 金印と鏡という動かぬ証拠により
240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時に、九州にあったのは、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だったことが確定した
邪馬台国は九州には無かったんだねぇ >>283
邪馬台国と冠が付くと税金を使う大義名分ができるとかあるから、
白熱した論争を続けて欲しいんやろ。
九州は地方税をもっと地元の大学につぎ込んで、いろいろ調べるべきやな。 邪馬台国の場所については親魏倭王の金印が出土すれば一発なんだが、
魏の滅亡後に晋に朝貢した記録があるから、普通に考えれば返却しちゃってるだろうしな… >>288
鏡に付着してた土を調べたとかいう話じゃなかったっけ? そういえば、旧日本軍が戦争中、中国から強奪してきたという推測も前にどこかで見た
さすがそれはないだろう
錆を落とす前は、ただの鉄のかたまり
お宝だなんてわからなかったのだから、鉄のかたまりを持ち帰るとはとても思えない マジレスすると、三国時代にはかなり多くの人が日本に逃げてきてるから位の高い人間が九州の山中に逃げてきてても不思議ではない
糸島だけでなく宇佐と並び豊前で重視された香春神社も渡来系氏族が祭神だし、魏に滅ぼされた公孫氏は一族の神社が畿内に残ってる ここ数十年、畿内説を提唱する学者達は纒向遺跡を根拠とし、何かとお袈裟に持ち上げてきたが、
現時点においても科学的に認めることが出来るのは
「3世紀の九州と畿内は疎遠だった」
という事実だけ。
畿内説は公金横領が目的じゃないのか?などと罵られるのも当然だ。 見ず知らずの女性にいきなり卑弥呼様ァァって土下座してひれ伏すのたのしすぎワロタ >>82
大陸側から見たら倭国ほぼイコール九州とその周辺って感覚だけど
弥生後期各地に国ができてたのは定説だよね。 >>291
九州に一つの国しかないと仮定するとそうなるのかな? >>294
ソースある?
1962年に錆を落としたとしき、そんな技術はなかったはずだし
当時の土を現在まで保存してたとはとても思えない だから俺がずっと言ってるだろ
卑弥呼は伊都国生まれの伊都国のお姫様
その当時の倭は争いが耐えなかった
卑弥呼は鬼道(アイドル活動)にあつく
次第にその名声は他国にも響くようになり
争ってた国々も共同で卑弥呼の国邪馬台国(ファンクラブ)をつくった
邪馬台国(ファンクラブ兼事務所)の卑弥呼の鬼道(アイドル活動)は
とても人気で邪馬台国加盟国ツアーを開催
次第に常設劇場が欲しいねという話になり奈良に卑弥呼常設劇場が誕生
中国の史書の記述があーなのはアイドル活動を理解できないから女王とし
鬼道ツアーをやってたから邪馬台国の場所もああいう感じに書かれた >>283
鉄拳や鏡や古墳の件からしても三世紀まつから四世紀にかけて九州から畿内への変動があり、
考古学的にも神武東征(九州勢力の畿内進出)は史実なんだとね。
しかも応神天皇系の皇后は日向出身が多い(大和土着の葛城氏と並ぶ)とか。 >>301
九州に一つの国しかないもなにも
日本の記紀では
九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)の「海神国」(倭奴国・狗奴国)
出雲は、素戔烏尊の「葦原中国」
奈良は、天照大神尊の「大和国」(邪馬台) >>305
日本の記紀では九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)の「海神国」
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれ
伊弉諾尊からまず
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が生まれた
その天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていたのが筑紫城
・・つまり
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」の印をもらった倭奴国
その後
天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
素戔烏尊(すさのおのみこと)
が生まれて
伊弉諾尊から
天照大神尊は、高天原(畿内)を統治せよと言われ
月読命は、伊邪那美命の根之国(出雲)を統治せよと言われ
素戔烏尊は、豊玉彦の筑紫城(九州)を引き継げと言われた 北部九州は大陸との玄関口で渡来系氏族が多くやってきたから、弥生中期ごろは農業生産能力も最先端だったんだよ
だから人口爆発で農地が足りなくなり、各地に人が分散せざるを得ないことになった
高地性集落が中国地方→畿内と遷移し、戦乱の痕跡があるのもこの頃からの話 倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
筑紫に三十二代いて神武のときに大和州に移った。
日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>
或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。
日本は昔は小国(筑紫)だったが、倭国を併合して大きくなっている。
倭奴国や倭国と呼ばれることが不満なので日本と名乗ることにした。
実家である倭奴国も存続しているから、これとは別種である。 >>307
なるほど
成分を調べたわけではないのか 記紀とか小説はどうでもよくて、やはり物的証拠でしょ
いわゆる動かぬ証拠ってやつ
卑弥呼の時代と古墳時代
なぜ九州の権力が畿内に奪われたのか
九州は外国に近くて危ないから引っ越したのかな? 四世紀半も経て編纂された古事記と日本書記で
熱心に卑弥呼の時代を語ろうとしてる奴いて笑うわw 盗品としても大分じゃあ秦一族か卑弥呼一派と考えていい話だよな。しかし記紀程いい加減な書物はないな!何故もっとちゃんとしたものを書かんのかねえ。大体記されてる戦い方も騙して皆ごろしにして喜んでる連中だからな >>304
応神天皇系の皇后は日向出身が多いってのが本当なら、
嫁とることを条件に熊襲に暴れてもらうよう手配してもらった可能性が十分考えられるな。 >>1
> 大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、
数日前の朝日新聞に続きが載ってた
発見されたとされる墓の発掘も行ったが、他の出土品は平凡なものばかり
鏡の本当の発見場所は別ではないか? てのが専門家の大勢意見みたいよ そもそも日田から出たのか分からないのか
下手したら日本からの出土でもないかもしれんしな。これはちょっと 土器とかも胎土分析で、どの地域の胎土を使ってたかわかるようになってきたけど
当時の知見では、科学技術がこんなに進歩するとは予想できなかったから仕方がないな 戦前とは言え、まともな調査ならろくに調べず古美術商に売り渡すとかある訳ないしな
盗掘となると元は中国の可能性も充分あるしな >>316
なるほどなあ
金印もそうだが出土が曖昧な物はモノ自体に価値はあっても歴史的資料にはなり得ないね >>308 つづき
んが素戔烏尊は「豊玉彦はおっかねぇから引き継ぐのは無理」っつって断ったため、
素戔烏尊は伊弉諾尊から勘当されて
奈良の天照大神尊の「高天原」に立ち寄って、そこも追い出されて
出雲にたどり着き国を造った
そこに大国主がやってきて、素戔烏尊の娘と結婚し、出雲の第八代主王となり、出雲を「葦原中国」という大国にした
そしたらそこに奈良の天照大神尊の「高天原」から使者がやってきて
大国主は、天照大神尊の高天原(畿内)に「葦原中国」を国譲りして
そこに天照大神尊の養子となった素戔烏尊の長男の子・・つまり
天照大神尊の孫の天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が派遣され
その出雲に派遣された天照大神尊の孫の天彌聞尊の子の【山幸彦】が、兄の海幸彦から出雲を追い出されて
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていた筑紫城・・つまり
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」の印をもらった【九州の倭奴国に天孫降臨する】わけだ サビまくった鉄の塊の状態の物
というのが最初の状態で
そんなの見てもも貴重なものとは思わないわけで
伝日田出土
というのは、意図的にうそをつくようなものではないと思うな そうかもね。
ちなみに劉備、チンギスハン、ナポレオンは日本人だから >>321
奴国の金印は価値高いのに何を言う。
後漢の光武帝が倭国に金印を授けたと言うのが明記されてるのに。 高千穂に天孫降臨なんて伝説加えるぐらいだからな
元は九州なんだろな
高千穂付近に降臨だと朝鮮半島よりは中国から島伝いで来た感あるよね >>316
それって発掘当時の話?
昭和初期の鉄道建設の時に出土したとされる古墳は取り壊されて今は現存しないから。 >>324
古美術商は嘘をつかないと思い込む純粋さいいね >>326
金印のモノ自体に価値はある
出土が不明だと別の事柄の証拠にするには難しい >>210
よう間抜け なんだそのくだらない思考は >>327
個人的には反対の解釈だね、。
熊本側から峠を越えて来たとかの表現だと思っている。 >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦です >>322 >>171
里の実際の長さによっても結論変わるしなあ
仮に「または」の例がそれだとしても、他に「連続」の用例がないということまでは言ってないし >>332
出土の経緯は怪しくとも後世のレプリカじゃないと分かってるんだから
それ以外に何がある、とならないかな? >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦(神武の祖父)です >>322 >>331
嘘をつく必要があるのかな?
ただサビてるだけのみすぼらしい塊の出土地を偽る意味とは? >>313
編纂されたのが何世紀か後でも、説話が作られたのは数代後くらいじゃないの? 関西の古墳は発掘調査をしていないだけ、発掘調査をしたら九州の何百倍優れた
出土品がざくざく出て来るよ >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、その山幸彦の孫が神武です >>322 ラピュタみたいなもの。みんなの頭の中にどこででも存在する。 記紀解釈は混乱の極みだねw
それこそが朝廷の狙いだったのだろう 古美術商に売り渡したやつが盗難経路を誤魔化すために嘘の発掘地を教えた可能性はあるのでは >>339
古美術商が30年前のことを知っていたと考えてるのか >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、
その山幸彦の孫が、出雲・奈良と東征した神武
です >>322 食い散らかした大量の桃の種を見て喜ぶ畿内説派からしたら、曹操の鏡なんてゴミみたいなもんなんだろうな。 >>327
元は九州だよ
ただ、それが畿内に引っ越した部分が謎
三種の神器を重視する文化が弥生末期に畿内に移動してる >>345
最初の発見者が最近まで生きてたので(亡くなってるかは定かではないが)記録がそれなりに残ってるようなので
全くのデタラメとは言えないと思うわ >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、
その山幸彦の孫が、出雲・奈良 を 東征した神武
です >>322 >>346
古美術商が知っている必要はないだろ
伝日田出土と言われてるのをそのままにしとくだけだろうが そもそも売り渡した奴も別の誰かから手に入れただけで発掘地など知らず適当に言った
可能性もあるしな。中韓の盗掘品で大陸の戦争時のどさくさで手に入れたようなものなら
元が何処かなんて誰も分からないだろう >>355
詳しいことは知らんが
発見者が日田だと言ってるのならそれほど間違いはないだろう 発見者がどういう経緯で鉄の塊を手放したのかがよくわからない
数年前にさらっと読んだ記憶があるだけなので
もっと詳しい人に教えてほしい >>293
言われてみればそうだが、晋から新しい印綬貰った記録ってあったっけ >>352
古美術商は、日田出土ということだけは知ってただと?
それを鵜呑みにできる純粋さはおれにはもうない 久大線の工事の時に古墳が見つかる
その古墳の出土品に件の鉄鏡が含まれていた
発見者の渡辺音吉は、その古墳があった場所の土地所有者
工事の時に出土品を回収する許可はもらってたので回収する
どういう経緯で鉄鏡を手放したのかは知らない
奈良の古美術商から京大教授が購入する
さび落としをすると装飾がすごくて大発見となった
京大教授が出土地を調査する
発見者の渡辺に繋がり、出土場所の調査を行う >>354
九州の出土品は、57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨した倭奴国のものだから
そりゃあ金印も出るし、皇帝が持ってるレベルの鏡も出る
240年に「親魏倭王」になってから、たかだか40年かそこらで大和政権に変わってしまった邪馬台国からは、んなもん出ない >>360
美術品なら謂れも記録するのは常識じゃないか?
お前は純粋さだけじゃなくて常識もないんだよ >>332
今回の鉄鏡の場合は盗難にあって不連続な時間があるが、金印にはどんな疑いがあるの? >>361
>その古墳の出土品に件の鉄鏡が含まれていた
この時点では、鉄鏡かどうかさえわからなかった
錆びた鉄のかたまり >>354
九州の出土品は、57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨した倭奴国のものだから
そりゃあ金印も出るし、皇帝が持ってるレベルの鏡も出る
240年に「親魏倭王」になってから、たかだか40年かそこらで大和政権に変わってしまった邪馬台国からは、んなもん出るわけがない
桃のタネで精一杯 >>365
それでいいと思うよ
鉄の塊が含まれていた
その鉄の塊が出土したことを渡辺は覚えていたという程度の話だろう >>364
あぁ、
渡辺氏が近所の学校に寄贈しててそれが盗まれたという事だったのかな? >>334
阿蘇山辺りから来たのかなと僕も思ったけど、
その前は熊本平野から来たのか、
ひょっとすると日田辺りから来たのかが気になったことがあったな。 >>291の意味がわからんなと思ったら
>>301
そういう意味か >>8
死後即曹丕は皇帝に、曹操は太祖武帝とされたんだから墓は皇帝格で作られてるんじゃないかな 日田か、また山が深い所でしょう。卑弥呼は温泉が好きだったかもしれんねwww 曹操の時代って事は大体倭国大乱の頃
とはいっても、戦乱は九州よりも中国近畿地方がメインだったように見えるが 宇佐八幡に残る伝承では、宇佐と阿蘇と高千穂の神三兄弟が合議した結果、宇佐が都(畿内)に行くことになったとか >>378
土をこねて焼いた物体の謂れですらいくらでもあるだろ
常識だぞ 鉄の矢じりとか戦闘に使う鉄製品の出土率みたら九州しかないよ
畿内なんて少ししか出た無いんだから
まあ邪馬台国事態はもう都市部の下に埋もれて出てこない可能性もあるから文明が無くなって掘り起こさないと解らないかもね
戦闘で鉄製品が使えるって貿易してた拠点くらいだよね
当時の畿内では一般人は石器か木製品くらいしか使う経済力しかないよ
あと桃の種 日田から南に伸びてる支流は阿蘇の外輪山付近まであるみたいだしな。 >>370
そもそもだ、北部九州は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国
邪馬台国が九州にあったのなら、邪馬台国は南部九州
南邪馬台国は糸島も、壱岐も、使えません 宮崎を「日向」と名付けたのは、景行天皇が九州へ行った時と古事記に書いてある。
では本当の日向はどこか。
九州で、「日向」とつく地名の一覧
https://i.imgur.com/jCJpZkL.jpg
宮崎県には、延岡と日向市の2ヶ所しかない。
ほとんどが九州北部に集中している。
「日向」とはその名の通り、日に向かった所。これらの中心に日があると考えると、
それらを線で結ぶと大分県の日田が浮かび上がる。
さらに日田は、宇佐・中津と隣接し、近くには耶馬溪もある。
http://travel.rakuten.co.jp/group/hojintiku/prefecture/images/Oita_x.gif
耶馬溪は江戸時代につけられた名前だが、もともと山国(やまくに)と呼ばれていた場所。頼山陽がそれに「耶馬」とあてたものだ。
日向は古くは、「ヒムカ」と読んでいた。これを卑弥呼と関連づける人もいる。
また宇佐神宮は神道のルーツとも言われ、卑弥呼の墓説まであるところ。
道鏡事件のときも、天皇家の大事を、アマテラスのいる伊勢神宮ではなく
この宇佐神宮にお伺いをたてている。
そして中津だが、天孫が降臨した豊葦原(とよあしはら)の中ツ国(なかつくに)こそ、
この豊前の中津ではないかという説もある。 >>382
その理屈がよくわからんなぁ
奴国が福岡あたりに存在してたとして
そこを通過できないのはなぜ? >>383
日本の記紀では
九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国・狗奴国)
出雲は、素戔烏尊が造った「葦原中国」
奈良は、天照大神尊が造った「大和国」(邪馬台)
だっつーの、朝鮮人 これで、やっと、大団円か
長かったけど、まあ大長編の喜劇映画だったよなw
京大の奴らも大変な業を背負ったもんだw
明治の頃、先輩が畿内説をとなえばかりにお
明治以降、次々と発掘される圧倒的な考古学的証拠の前に意気消沈
ただ、後には引けない 三角縁神獣鏡の発掘で大喜びして反撃
ただ、その後、三角縁神獣鏡は国内で続々と発掘w
成分分析の結果も国内で製造と判明
一方、吉野ケ里の発掘もあった
再び、意気消沈 ただ、後には引けない
纏向発掘と年代測定を100年早める詭法で再び反撃
一方、京大が押さえているているマスコミ考古学記者をつかって国民大洗脳作戦
「卑弥呼の墓発見!」とか「桃の実が発見!!」とかw
ただ、纏向は掘れば掘るほど邪馬台国とは別の姿
そして、ついに5世紀の馬具wが発見
そして今回、正真正銘の曹操の鏡が九州で発見
それも、筑後平野からトヨの国大分に抜ける途中の日田で
まさしく、東遷説どおり
ただ、これまでの経緯を見てると京大の奴らは、何せ、生活がかかっているから
九州の発掘物を夜間に纏向の埋めることすらやりかねない なぜ九州に? の?は要らんだろう。なぜ?を付けるのか?九州だからあるのは
当然と考えるのが本当に考古学を研究している者のありかただ。 >>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
邪馬台国が九州にあったのなら
邪馬台国は糸島も、壱岐も、使えません >>389
EUの中のドイツとフランスみたいな関係だったんじゃね?
なんか、お前の中の前提がよくわからない
糸島や壱岐は
伊都国や一支国だろ
奴国ではない
そもそも邪馬台国の時代に
「漢委奴国王」は君臨してたのか? >>385
日本の記紀では
九州は生まれたときに4つの顔があった
筑紫の国を白日別(シラヒワケ)
豊の国を豊日別(トヨヒワケ)
肥の国を建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)
熊曾の国を建日別(タケヒワケ) >>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
北部九州に
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨している倭奴国がある
以上、邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無いし
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い
んだよ その鏡が出た場所のすぐ近くにいた久津媛という謎の人物も気になる >>198
魏志倭人伝
帯方郡から水行で海岸を循って狗邪韓国まで7000余里(700キロ強)。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里(100キロ強)渡ると一大国に至る。
また海を1000余里(100キロ強)渡ると、末廬国に至る。
(帯方郡から末廬国まで船で1万里(1000キロ))
東南に陸行し、500里(50キロ)で伊都国に到着する。
東南に100里(10キロ)進むと奴国に至る。
東へ100里(10キロ)行くと、不弥国に至る。
(末廬国から不弥国まで陸路で700里(70キロ))
残り1300里(130キロ)
さらに陸路で邪馬台国のある国東半島に至る。
まとめとして、
帯方郡から、南へ水行20日で、投馬国に至る。
帯方郡から、南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里(1200キロ)である。 >>390
>>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
北部九州に
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨している倭奴国がある
以上、邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い 大分日田こそ町興しに卑弥呼を使うべきだよww
おめでとう日田さんw >>393
全く理解できない
奴国って九州北部の小国家じゃないのか? アホ記者だから許されるけど
歴史の専門家がこれ言ったらアホだと思われるぞ
曹操(後漢の丞相・魏王)は墓を質素にしろと遺言を残して
曹丕(初代皇帝)はそれを実行したと思われる
×「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」
○「後漢の丞相・魏王の所有物の中でも質素な鏡」 >>396
コピペするしか能がないのか?
もっとわかりやすく書けよ >>395
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
ということは、
方角は、倭人から言われたまんま
距離は、中国からの渡来人のあてずっぽう
なので
【実際の距離に関係無く】
海を渡るときは・・・すべて1000里
陸を行くときは・・・500里(遠いか)、100里(近いか)
のみ 曹操の墓から他にも出てきたものがあるけど
どれも質素なのは調べればわかる
息子曹丕は曹操の遺言を守ったんだろうね
大分県日田市の人は残念だろうけど貴重なものではあるが
ランクとしては高くないよ
ちゃんと現実を知るように >>399
質素のレベルが今となってはわからんもんで
なにが質素だったか、から考証してると思うけどね
考古学者つうのは >>398
>>390
>>384
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国
は
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれ
伊弉諾尊からまず
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が生まれ
その天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていた【海神(ワダツミ)国】という大国だ
邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い >>398
委は倭の略字で委奴国と考えるほうが意味通る
よく教科書にある漢の倭の奴の国王みたいな
あほみたいな訳し方は前例もないし馬鹿説が通説なった
ただ、背景には近畿説や戦前からの大和民族云々みたいな主張がある
これで全部歪められてるわけだ そもそもだ、この時代の北部九州勢力は最新の技術をもった海の民だから半島南部から畿内、東海まで勢力を伸ばしている
そして弥生末期、それまで銅鐸作ってた唐古・鍵遺跡のすぐ近くに九州で信奉されてきた鏡を重視する王権が発生する訳で 曹操の副葬品に金がないのよゴールドが
おそらく卑弥呼の墓には入っているだろうから
曹操の墓の副葬品は倭王以下だと思われる
まだ三国の戦いが続いているときで資金がいるし
墓を質素にさせたのは実に曹操らしい現実的な考えだと思うよ
詳しくは漫画よめばわかる しかし天皇が持っててもおかしくない代物がなんで落ちてんだよ?それに引き換え巻向じゃ金歯も出てこないんだろ? >>407
曹操の墓は盗掘されてるから、金目のものはあらかた持って行かれただろ
あと、中国では盗掘品のうさんくさい贋作がわんさか売られてる >>404
いろいろ言い訳してるけど
結局は距離が違うから当てはまらないと言ってるだけなのか?
渡一海千里
というのは慣用表現
海を渡るのは千里を移動するくらい大変だという意味であって
実際の距離が千里である必要はない
そもそも千里だったとしてどうやって距離を測るんだ?
無理だろ
糸島も同じ
上陸地点の呼子から糸島は大雑把に言えば南東方向
陸上の距離も、測定器具を使いながら距離を測ってるわけではない
徒歩で1日歩けば何里という基準があるんだろう
それで測れば五百里
何の不自然さもない 日田さんはこれから大変だね、邪馬台国の一番の候補としてマスコミやら卑弥呼好きが沢山集まるね
これからは探せば祭壇とかも見つかるかもしれんよ。邪馬台国温泉とかやっちゃえばいいよw 卑弥呼は曹叡の時代だから関係ないな
九州説ぬか喜びで草 >>412
本物だとすると、九州が中心だったのは卑弥呼よりもっと前の時代だという説を補強する可能性がある
吉野ヶ里のときのパターン 208年 赤壁の戦いで曹操ボロ負け
209年 劉備が荊州攻略
211年 益州が劉備を向かい入れる
215年 劉備が益州がを掌握する
220年 2月 曹操病死 曹丕が跡を継ぎ魏王となる
10月 曹丕、献帝の勅令によって禅譲され帝位に就く 魏建国
221年 劉備が蜀漢を建国
229年 孫権が呉建国 三国鼎立
239年 卑弥呼の使者が朝貢 >>410
そうですよ、だから >>395 は妄想だよね >>411
古美術商が言ったことを根拠にするとはさすが九州説ですね 名前は酷い当て字してるんだから俺の女にくれてやろう程度の感覚で
贈ったんだろ >>415
>>395が妄想かどうかなんて俺には関係ない
邪馬台国が糸島や壱岐を通行するのは当たり前なんだよ
奴国が妨害したというお前の言い分は妄想という事だ 57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
は
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から生まれた
伊弉諾尊が
まず最初に生んだ天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神が統べていた
【海神(ワダツミ)国】という大国だ
邪馬台国が奈良にあろうが、南九州にあろうが、
どこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えないのだ
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い 皇帝の御物にふさわしいかどうかは別にして
朝貢してきた賓客への贈り物なんだろうね
神獣鏡は最初から配布用のお土産 >>416
辛い?w 残念だったね畿内説w
お疲れちゃんww >>418
もう一度聞く
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
なぜ、どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせる? >>408
皇室と卑弥呼を無理に結び付けようとしてるからおかしくなるんだよ
邪馬台国と奈良の倭国は別物だと思ったほうがしっくりくる
畿内説の特に奈良説はこじつけばかりやん
九州説、近江説、大阪説、四国説、沖縄説は面白くて好きだけど纒向厨だきゃあ
こじつけが酷過ぎて >>6
神功皇后を見る限り実家は周防国(秦王国)だな
まあ筑紫も支配していただろうけど 結構宇佐周辺は有力だねえ、日田には耶馬渓とか山国とかあんだなあ >>423
伊都国や一支国は奴国の支配下ではないからだよ 当時の配達員が面倒臭くて埋めちゃったんだよ(名推理) 盗掘はされているけど
二重にしてて奥に隠した本体はあらされてないという意見もある >>423
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
邪馬台国の時代には奴国は没落してた
という事だろ
それから
金印や鏡は皇帝の臣下の国に下賜されるものだぞ >>429
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の糸島では無い >>433
そう
EU連合のドイツやフランス等の関係と同じ >>430
うちの先輩が畿内派なんだけど、連続性の問題で金印は志賀島から出てますけどって言ったら、、、、
畿内の方に持っていく予定だったけど持っていく人がめんどくさくなって途中で捨てたんだろう。だってwww
畿内派ってなぜかこんな人が多いだよね、マジで。 魏の初代皇帝は曹丕・・・
高校の期末テストで曹操と書いて間違えたの思い出したわ >>432
邪馬台国の時代には奴国は没落してた
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
は没落してた??
とんでもありません
帯方郡の公孫氏とグズグスの関係で、
魏も手出しが出来ないほどの全盛期です >>65
1世紀の畿内に王なんていねぇよw
これだから畿内説カルトは >>437
全盛期なら倭国伝でも倭人伝でもなく
奴国伝でないとおかしいので間違い 宋史新唐書でも秦の末裔ちょうねんの王年代紀を調書した上記載したんだから、32、23?年代までは筑紫だろう、ただ仲哀死が卑弥呼だと思うよ。神功は宇佐で船木に軍船を作らせとるからここも基地であったことは確か。 原文略
景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、
天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。
その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
制詔、親魏倭王卑弥呼。
帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、
汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。
汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。
すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。
私は汝をはなはだいとおしく思う。
今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、
装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。
汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。
汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。
銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。
今、絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹を以って、
汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。
また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、←←←
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、
皆、装封して難升米と牛利に付す。
帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、
我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
魏から金八両をもらってるのでこれが卑弥呼の墓にあるんじゃないかと >>434
必死に言い訳しているが
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
なぜ、どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせるわけが無いのだよ
使わせたら、自分が倭王ではなくなってしまう可能性があるから
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者には
糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】 >>444
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
この3行が大好きみたいだけど
あまり洗練されてないんだよな
コピペするほどじゃないと思うわ >>440
>>434
必死に言い訳しているが
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせるわけが無いのだよ
使わせたら、自分が倭王ではなくなってしまう可能性があるから
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者には
糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」も
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の糸島では無い
【邪馬台国は九州には存在できない】 >また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、
>五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、
(略)
>そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
>汝の好物を下賜 とあるから
紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤
これらは倭国側から求めたものと思われるクレクレ
白絹五十匹 銅鏡百枚 >>444
>糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】
だとしたら、大陸が日本列島の人間を交流するには奴国と必ず関係を持たないといけないのに
奴国の記述が少なすぎる
なのでやっぱり、
アプローチの方法を変えてもお前の言ってる通りにはならないことが判明したわけだ
そろそろコピペばかりの無能の相手はやめとこうかな >>372
Googleマップを航空写真にして見ると日田がそんなに山深いとも思えないんだな。
東側は険しい山だけど西側は平地が開けている。
その平地の中央には筑後川が流れてるからかなりと所まで船で行けそう。 これから日田さんが卑弥呼を活用してどう町興しをして行くのかが興味深いな〜♪
日田は何か名産があるのかな?調べてみよう。 金印もらうから王になるんじゃなくて力関係が逆転してるから金印をもらうんやろ 金印は確かな歴史の物証としても、魏志倭人伝はそうじゃない可能性のが高いけどな
三国志は陳寿の世界観に大きく依存してるが、司馬遼太郎みたいなフィクション作家に近い >>435
紀元前後は北部九州が中心だってことは機内派云々関係なく常識だと思うんだけど・・・ 魏は「卑弥呼の生真面目さ」を評価して金印を授けたんだよな。
それを「金印に値する強大な勢力だった」からと曲解してるのが畿内説。
頭の中で作り上げた根拠不明のシナリオにしたがって説を組み立てていくのが畿内説のやり方だ。 >>454
当時の倭国が統一国家だったとでも思ってるのか?
典型的畿内説だなw >>86
畿内には鉄器も碌になかったのにどうやって九州倭国を滅ぼしたのか 白絹五十匹
おしゃれさん卑弥呼 絹でテカテカ
銅鏡百枚
卑弥呼の鬼道(米くれたらお祈りしてあげる)を
各地に普及させるための鏡 納税制度の確立 >>450
ほんまや、福岡からも近い。やきそば、うなぎ、やまめ、梨、名物はこの辺だね。
金の日田まぶしとか、曹操のやきそばとか、ひみこ梨とか、色々いけるんじゃないw 日本式の統一国家ってのは江戸時代にしても盟主に過ぎないんだよな。
本当の意味での統一国家とか想像を超える >>448
必死に言い訳しているが
糸島や、壱岐を、【使わずに】
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国と【関係を持たずに】
日本列島の人間が大陸と交流すれば良いだけだろバーーカ m9(^Д^)プギャー
日本列島の人間が大陸と交流するのに、なんで
北部九州一帯を統治する倭奴国と【必ず関係を持ち】
糸島や、壱岐を、【必ず使わなければならねーんだよ】
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里− 対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良) しかし、漢の時代には倭王に任じられるほどの奴国が、
三国時代になると邪馬台国が台頭してきて、その他大勢扱いになっちゃうんだよな
邪馬台国の外交手腕が優れていたのかもしれないけど、よく滅びずに共存できたもんだ >>457
鉄器がろくにない地域だったから宮を築くのに都合がよかったんだろ 日光を反射させる鏡と絹で卑弥呼キラキラ
↓
部分日食が起こる
↓
卑弥呼殺される
↓
祟らないように奉る
↓
アマテラス神誕生 帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里−対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
宗像氏の祖は出雲6代主王の息子、吾田片隅(アタカタス)その娘達が宗像三女神とよばれる田心(タゴリ)姫、市杵島姫、多岐津姫
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
アマテラスから奈良の高天原を追放された素戔嗚尊が新羅曽尸茂梨に渡り、日本に戻って来る際の上陸地点という伝承が残る、古くから大陸と出雲を行き来する港湾国
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
王は出雲主王
長官「爾支(にき)」は出雲に派遣されれたアマテラスの孫の「邇邇芸(ニニギ)」
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
伊都国(出雲)の奴国、大国主の最初の妃「八上比売」の国
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
長官「多模(たも)」は、天火明命の流れをくむ、摂津国住吉郡の豪族の田蓑宿禰
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
長官「彌彌(ミミ)」は、スサノオの長男の「天忍穗耳尊」
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良) 九州だから出るのは当たり前であって、奈良から出たらおかしいなと考えるのが普通だぞ ID:1yC9KkT10
こういう人が意地になって、歴史を捻じ曲げるんだろうな >>461
大陸へ渡るルートは決まってるんだよ
呼子から壱岐対馬を経由して朝鮮半島へ向かうんだよ
出雲ルートは季節風に頼らないと往復できないので頭の悪い空論だぞ
冬の日本海を舐めすぎている
それから
>− 海を渡る1000余里− 対馬國
対馬から1000里の出発地って具体的にどこだ?w
知らんけど
見島は対馬から1000里なのか?
自分に都合がよければ1000里なんてどうでもいいと思ってるんじゃないか?
詭弁そのものだな >>457
滅ぼしてないよ
前方後円墳体制に北部九州も参加したんだよ
奴国が真っ先に加わり、他の九州勢も追随した >>467
コピペ連投したり罵倒繰りかえす奴はおなじみの基地外だから相手してはいけないw >>469
前方後方墳の同時発生=連合の証というのは定説だな
北部九州と畿内は早いうちからなんらかの関係があったんだろう 卑弥呼の時代は2世紀〜3世紀前半であり、3世紀末には女王制が消滅しています。
奈良にはそれに合致する遺跡は無く、史書には無い独自の歴史を歩んでいたと考えられる。
<奈良の歴史>
〜2世紀末 唐古・鍵最盛期
3世紀後半〜4世紀半ば 纏向最盛期
4世紀末〜↓ヤマト政権の種ご到着↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね >>471
北部九州と畿内は疎遠だったというのは今や常識だが。
[纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する
決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、
古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで
東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる
(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を
含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が
大陸との交易は乏しかったと推定される。 >>403
曹操は布団に房をつけるのもやめたってくらい質素なんだぞ
親魏倭王ってのも
曹真がインドとよしみを結ぶのに対抗したものらしいし >>468
そうしないと邪馬台国は九州ではなくなってしまうから必死だな(笑)
残念ながら倭国からは、30カ国近くが【別々の独自ルートで】大陸に朝貢していました >>467
そいつと近畿パー連呼のやつは見つけたら即NG >>463
4世紀になったら北部九州の副葬品文化と
同時に鉄器もなだれ込んできたけど >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね >>475
纏向遺跡群のホケノ山古墳やら桜井茶臼山古墳、黒塚古墳とか初期の古墳からゴロゴロ銅鏡出てるのはわざと無視してるん?
息をはくように嘘をついちゃダメだろ 畿内説の学者は5ch畿内説を否定しています。
[箸墓古墳]
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。 三国志関連は鬼門、演技みたいな完全フィクションと正史扱いのノンフィクション風フィクションの逸話が入り乱れてるし
愛読者が多い。曹丕皇帝つっても統一国家じゃねえし・・というか魏はその前に滅ぶし >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に卑弥呼が「親魏倭王」になって、たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑) >>483
それいったら史記でも項羽の個人戦闘力とか盛りすぎだしな
あいつドラゴンボールの初期悟空くらいならタイマンが成立しそうな強さだぞ >>481
それ纏向ちゃうやろw
また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと
古墳時代のものが見つかることが多いので、
纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、
箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できない
ことに注意する必要がある。
石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である
弧文円板(こもんえんばん)が出土している。
ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は
3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の
大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」 >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑) >>1
秦氏(ペルシャ人)が魏を通過する際にもたらした物じゃないかね。 >>479
3世紀に北部九州は前方後円墳体制に飲み込まれる
そもそも前方後円墳は、全国各地の葬制をてんこ盛りにしたものであって、
その一つの要素として、副葬文化を北部九州から吸収しただけのこと
鉄器は3世紀中頃から畿内優勢 >>485
三国志正史の魏の名将たちは項羽レベルばっかよ
泣いて馬謖を切るというが、相手張郃だしな、100回戦って100負ける相手 >>26
正式だけど脅されてだろ。そのあとすぐ死んだし 九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑)
つまり、こんな鏡が出ちゃったことにより、邪馬台国が九州にあった可能性は、ますます低くなっちゃったんだ >>486
ホケノは纒向遺跡の中
黒塚は数百メートル離れてるだけ
桜井茶臼山は3キロほどの距離 日田は邪馬台国でなかったとしても九州を支配するのに最高の場所だよ
筑後川を使えば海との行き来は簡単だし海産物や交易品の搬入も簡単
筑後川流域は行ったことあれば解るけど稲作には最高の場所
しかも佐賀平野も近く穀物の安定供給も可能
地図で見たら分るけど九州全域にも移動しやすく
山に囲まれているので攻められ難いつまり守りも完璧
九州を卑弥呼が平定して本拠地を置くなら最適な場所でもある
今はダムになってるけど川のまんまなら良かったと思う
あと個人的に簗場を川の中に作ってアユを食べてた頃は好きで良く食べに行ったけど
川の中に食堂が無くなって寂しくなったので行かなくなった
元にもどして欲しい 古代史最大のエポックは国譲りだろう
国の主が変わったんだよ。とすると葦原中国とは畿内のことで
そこにはエミシもいた。まつろわぬ民は辺縁に散りズーズー弁が残った
堂々と邪馬台国の後裔と名乗れないのか、滅んだのかのどちらかだろう >>493
唐古・鍵遺跡も至近距離だし、桜井のあたりで一体何があったのかすごく気になる 九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑)
つまり、こんな鏡が出ちゃったことにより、邪馬台国が九州にあった可能性は、ますます低くなっちゃった
九州説、やっちまったね >>339
中国の盗品
盗人が倉庫に適当に管理
錆だらけになった
盗人は価値を知ってるから高値で日本人に売った 邪馬台国が大和にあったとしたら、その頃には飛鳥時代に続く中央政体が日本に存在したって事になる
そりゃ御用学者は必死に大和説を推すわな
神武天皇の橿原宮も、何らかの施設が2700年前に今の橿原神宮の場所に有ったらしい事までは肯定的じゃ無いけど
春秋戦国時代の中国で周の全盛期時代に、日本に王制が有ったなんて認めたくない事実だからな
実際、倭人が周の成王に薬草を献上した記録もある。この倭人は中国の南方民族だとされて日本人とは無関係とされているけど
さすがに三千年前に日本人が中国にたどり着き、内陸部まで旅をするなんて想像力とは無縁らしい >>350
だからこの>>1の記事の続きは、本当の発掘場所と言われているところを調査したところ曹操の鏡とは全くレベルがそぐわない遺跡だったのでここで発掘されたものではないだろうという結論 >>499
だったらもっと高く売れる方法はあるだろ
京都大学の教授風情が自費で買える程度のはした金でよかったの?
そして盗人と日田の渡辺氏は仲間だったと言い張るの? 末裔がいたかもしれんな。末裔が大事に持ってて死後一緒に埋められた可能性もあるな。なんだとよw >>501
没落貴族の墓
という事で済むと思うんだがなぁ >>500
初代天皇の神武は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し
九州一帯を統治する
後漢からの金印も所有する「倭奴国」
日本の記紀では「海神国」
の
三十二代目の国王である「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
第4皇子
九州から奈良に東征しないと自分の領土が持てなかった
のさ >>462
長どうしの婚姻関係で共存するみたいなんが、日本列島での風習やったんちゃうかな。
邪馬台国の時代でも奴国はリーダー的存在だった可能性が高いとは思うけどな。
ただ、さすがに他の諸国がそれに不満を持ってたんで、
邪馬台国に傀儡王立てて建前上倭国のリーダーにしてたんじゃないだろうかと
現時点では推測してる。 本当に近畿説を信じる古代学者なんていないよ
大人の事情で事実を曲げようとしているだけ >>504
一緒に埋められていた物が全く価値の低い物
このレベルの鏡持ってるなら他にも何か一緒に埋めるだろ
それとも本当にそれ一枚しかないほど落ちぶれてたら鏡を売るか誰かに寄贈するだろうね >>500
初代天皇の神武は
後漢から金印を授かって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し
九州一帯を統治する
中国の史書では「倭奴国」
日本の記紀では「海神国」
の
三十二代目の国王である「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
【第4皇子】
九州から奈良の邪馬台国に東征しないと、自分の領土が持てなかった
のさ キチガイ犯罪者チョソニンはいつの時代でもコソ泥してるニダヨ。 要するに天皇家以前に和国の支配者がいたのにそれを無理矢理天皇家の先祖とする陰謀から始まったわけ 関さん理論が立証されたのか?神武と崇神は別人だった! 魏志倭人伝のころ、大和の母体は九州だった。
その後、東に移って畿内へ >>502
完全に錆びさせて見た目ゴミになったから安くなったんだろう
盗人ってのは日本に来る前の中国人 >>514
いんや
初代天皇神武の祖は
素戔烏尊の長男で
天照大神尊が養子にしている
から
奈良の天照大神尊は天皇家の祖先だよ 日本の記紀では
九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国)
出雲は、素戔烏尊が造った「葦原中国」
奈良は、天照大神尊が造った「大和国」(邪馬台)
初代天皇神武の祖は
素戔烏尊の長男で
天照大神尊が養子にしている
から
奈良の天照大神尊は天皇家の祖先 >>516
九州と畿内って随分離れてるよね
それに昔の人が慣れた栄えてる土地を放棄していきなり見ず知らずの地方豪族がいるであろう地域に丸ごと移るとか考えにくい
普通に元々畿内にあった新興勢力の田舎の人たちが昔から海外と交流があった先進地域九州の威光を借りたくて、
神武東征って物語を作っただけでは >>369
九州の地理を確認したら日田から高千穂なら阿蘇山経由になるよね。
熊本から来た、日田から来たいずれも矛盾しない。
まあ現在の高千穂は昔はそう呼ばれてなかったそうだが。 >>521
神武にとっては
出雲も、奈良も、遠い親戚 >>519 何で魏の太祖武帝である曹操の墓に、他国の異民族にあげるプレゼントレベルの物を一緒に入れるるんだよwww >>521
産まれも育ちも九州の
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国)
の
神武にとっては
出雲も、奈良も、遠い親戚 >>519 曹操の鏡と一緒に葬られてたのは卑弥呼一族の末裔だろう。これは面白くなってきた。日田熱いわ! >>521
産まれも育ちも九州の
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国)
の
神武にとっては
出雲は、神武の爺ちゃんの山幸彦を、出雲から追い出した遠い親戚
奈良は、神武の祖の素戔烏尊を、奈良から追い出した遠い親戚
>>519 曹操の死 220年
卑弥呼が魏に朝貢 239年
19年経ったデザインが古いあまりものが銅鏡百枚にまぎれてて
模様や漢字の意味がわからない倭人は
直径や厚さや研磨具合をみてランク決めてたと思うよ
そして偶然大分に曹操の墓やつと同じものが配布された
>直径21・3センチ、厚み2・5ミリ
これが大分のランクってこと >>528
そういう小説はいいですから
聖書鵜呑みにしてる原理主義者か >>527
人身供養は無いだろ、始皇帝以降であるこの時代は
使者に連れて行かれた数人の倭人の奴隷の末裔は気になるが >>521
>昔から海外と交流があった先進地域九州の威光を借りたくて、神武東征って物語を作った
大和の歴史がすべて口伝だったのに対し、地方豪族たちの歴史は中国の史書に残されていた。
だから天武は歴史を文書で残すべく日本書紀の編纂を命じた。
稗田阿礼に吹き込んだ内容は、歴史コンプレックスを持っていた天武の口伝だろうな。 >>527
まあでも古墳や遺跡がないんだな。出土品も鏡一枚では心もとない。 糸島市平原遺跡の直径40cmが最大
>直径21・3センチはまあまあ大きいから
倭国の重要地域としてみられてたんじゃね大分
ただトップではないので大分県日田市は邪馬台国ではない >>521
産まれも育ちも九州の
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国)
の
神武にとっては
出雲は、神武の爺ちゃんの山幸彦を、出雲から追い出した遠い親戚
奈良は、神武の祖の素戔烏尊を、奈良から追い出した遠い親戚
そして
神武は【第4皇子】で、そのまま「海神国(倭奴国)」にいたら、国王にはなれない >>468
卑弥呼の時代から100年くらいたった神功皇后の時代、タニワ(丹後)の海人が
水主100人を引き連れて神功皇后に付き従ったという伝承がある。
ツヌガ(敦賀)にいた仲哀天皇を九州へ送っていった集団もいる。 畿内説のこのコピペ厨
九州説の近畿パー連呼して罵倒するやつ
安曇どうたらの自演野郎
この3人には構わないでNGした方がいい >>79
金印は島から出たでしょ?
九州本土から出てれば確定だったかもだけど、
通過点か難破か盗品のどれかだったんじゃない? その鏡一枚がすごいんだけど、掘り出したと言われる場所から何も出てこず全く鏡にそぐわない場所だから本当の出土はここではないだろうと学者には推定されている
ここまで出土が明確でなければ学術的価値も疑われる
おそらくモノは本物だろうけど中国からの盗品が流れ着いた可能性すらある >>521
それも面白いね
ただ、九州→畿内は100年かければ遠いとは思わない >>494
ダムって言葉で気が付いたけど、進撃の巨人の作者の故郷か。
ダムから60m級の巨人の頭見えてんのやろ? >>539
金印の本当の出土場所は不明
誰が掘り出したも明確じゃない これが末裔だとして、まだいるよね。まだ他にあるよね。熱いわw
はい、これ来た! >>530 >>533
1145年まで正史が無い朝鮮人らしい書き込みですね >>541
九州が火山がひどくて放棄した、とか具体的な天変地異が無い限り古代の人が遷都をするとは思いにくい
普通に古代都市は川や海の近くで自然発生的に栄えた場所なんで移動させたら不便でたまらない >>495
出雲以外の地域の事には口出しせぇへん約束しただけ違ったっけ? >>521
実際の神武東征神話も少人数で出発して吉備に何年も滞在した話だから、実際には地元豪族との婚姻などを伴った連合の話ではないかな。確かに高地性集落や戦乱の痕跡はあるけど、大軍勢で攻め上がって根絶やしにしたとかそういう話ではない 新規でつくるのうまくいかないし面倒だから手近なの粘土型とって
しばらくパチもん作り倒していて
八王の乱で荒れて逃げる時に持ち運びできる手頃な財産として
あちこち散らばったけど鏡有り難がるのって日本くらいで
管理が面倒なわりに二十年くらいで長持ちしないし大人数でも使えない無くても別に困らんって
金属材料や壺にいかけられたりで他では人気なかった
九州では重いしふべんで仕方ないけどその分大陸に近かったので
上流階級でぶら下げる持ち歩くってファッションアイテムとして一定の人気があった
持ってれば大陸異国と交渉できる交流があったってって割り符的な役割もあったけどね >>495
男王の大国主が天照の一族に国を譲った話だから、女王共立と関係があるのかもしれないね 倭国は九州だけじゃないの。
唐の時代には倭国と日本国が併記。 当時の海岸線とか考えると日田の立地は都市を形成しててもおかしくない。
九州の古墳っていろんな種類があって面白い。 倭国(九州)人が奈良に日本国を建国。
やがって合併。というながれだろう。 >>546
神武は
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「九州の海神国(倭奴国)」の【第4皇子】
で、
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「九州の海神国(倭奴国)」の【国王では無い】
神武が九州から奈良に移り天皇を宣言しても
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「九州の海神国(倭奴国)」には神武の父ちゃんの
三十二代目国王「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」が、筑紫城を都として居続けてる
遷都では無い 普通に卑弥呼までは九州
その事何かで儲けた金満新興勢力が畿内に生まれて、今で言う東京みたいな九州から嫁をもらって政略婚
次第に日本の中心が九州から畿内に移り古墳時代って所かな >>506
系図みると出雲と宗像が親類だったり、阿蘇に大王が皇子を婿に出したりと色々繋がりまくってるんだよね つまりだ
綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「九州の海神国(倭奴国)」の
三十二代目国王「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」が、
【第4皇子】の神武に奈良を武力制圧させて
奈良を「九州の海神国(倭奴国)」の植民地にした
遷都では無い 漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる >>539
金印はこれ以上ないくらい重要な公印だから為政者のもとに保管するし、失ったら朝貢先宛の外交文書を発簡できなくなっちゃうから、少なくとも奴の国が存続している間は動いてないと思うぞ
移動するとしたら後世になってから盗掘されたケースになりそう >>559
倭は九州
日本は畿内
これ図形付きで明確 >>546
天変地異……
日蝕だ!東国征服のきっかけ >>520
どちらかというと畿内に吉備系が共立されたという説
記紀で言えば吉備津彦とか百襲姫あたりの話だな つまりだ
「九州の海神国(倭奴国)」の
三十二代目国王「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」が、
【第4皇子】の神武に奈良を武力制圧させて
奈良を「九州の海神国(倭奴国)」の植民地にした
はるか昔に
奈良の「高天原」の天照大神尊が、孫に出雲を武力制圧させて
出雲を奈良の「高天原」の植民地にした
のとおなじ
遷都では無い >>522
仮にそうだとしたら、なぜ高千穂と呼ばれるようになったのかが気になるところやな。 つまりだ
「九州の海神国(倭奴国)」の三十二代目国王
「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」が、
【第4皇子】の神武に奈良を武力制圧させて
奈良を「九州の海神国(倭奴国)」の植民地にした
はるか昔に
奈良の「高天原」の天照大神尊が、孫に出雲を武力制圧させて
出雲を奈良の「高天原」の植民地にした
のとおなじ
遷都では無い >>562
それ、畿内派のやり口を学んでるやんwww >>472
唐古・鍵遺跡は銅鐸がある青銅器文明人。
纏向は崇神天皇系の初期大和朝廷。
次は応神天皇系の大和朝廷。 九州が衰退するのも世界史的には珍しくない。
資源の枯渇を有力視出来る、大抵の文明もこれで終わり 3世紀には博多か筑紫方面で卑弥呼周辺に居て
その子孫で6世紀に日田に隠居してた奴だろ。
一応豪族化はしてて、古墳には入った。
壹與の子孫でも全く問題なし。
だけど、鏡は何代かは、鬼道、宗教系の世襲になってたかな?
って、
馬〜鹿、有料記事かよ、
日田は山奥だぞ、地図のは筑紫どころか豊前もかぶってるし。
あ、邪馬台国の九州説は、もはや日本史の前提だぞ? >>559
聖徳太子も遣隋使も九州だと、リアル社会で知り合いに言ってるのか?
ネットの中だけの戯言だよな? 「韓国は兄の国」としたい人達が、懲りずにずっと九州卑弥呼説を唱えてるね。 平安時代でも東国(東京より東)は未開地帯だったんだから、
同じように倭国の時代は、九州以外は未開の地だったんじゃない?
もし記録が無かったら、平安時代の都も京都か東京かの論争になってたと思う。 九州に住んでたらよくわかるけど、四国や中国地方(とくに西部)って九州と文化的にも近いんだよね
ただ、兵庫県に突入したとたんガラっと変わるw >>569
好太王碑から朝鮮半島に最初に倭国軍が侵攻してきたのは西暦361年かなんか。
神功皇后そのものは架空としても、政権交代して国策が変わったからこそ出兵は可能性高いと思う。
天皇家の正当性を訴える史書にもかかわらず神託に背いて変死したことになってる仲哀天皇は怪しい存在。 >>569
>纏向は崇神天皇系の初期大和朝廷。
このすぐ後に渡来系豪族が入植してきている>>472。
この渡来系豪族たちが最新の統治ノウハウを持ってきた可能性がある。
それを取り入れて、大和政権の繁栄が本格化したとも考えられる。 >>537
丹後の人が海岸線を伝って九州まで行った
という話だろ?
何の関係もないぞ >>576
その通り
九州は最先進の地域で
出雲、吉備くらいまでが、その恩恵に預かっていた
それより東は、人外魔境の地
九州の王族たちが少しずつ開拓していった
山奥の秘境に天然の砦を見出し
そこに長安を模した都市を建設した >>572
貴重な鏡だった故に大事にされた故に
時間が経ってから埋められた説はアリだと思う。
邪馬台国崩壊後に関係者が持ち出してその一族が代々守ってたとか。 >>575
百済仏教のおかげで飯が食える奈良人が言う言葉か?w なんか語呂合わせみたいなのでこじつければどこでも邪馬台国にできそう。ほとんど妄想大会。 まあ海岸に流れ着いた難破船から拾った説が有力だろう >>548
安芸、吉備に関しては元々九州勢力との関係も多少あったから、
国譲りを受けて平和的に軍勢を受け入れ、
神武の兄弟は持って来た稲で耕作して何年か様子を見てたんちゃうかな?
だが、畿内とって九州勢力は縁もゆかりもない完全なよそ者で敵対心丸出しやったみたいな。 >>537
田舎者が都会を目指すのは、古代より人間の本能といってよかろう まぁこういうのは元祖と本家みたいに結論出さずにゆる〜くしとくのがいいのかもね。妙な思惑持ってる人にエサ与えないためにも。 >>550
国譲りって結局神武東征を出雲が許可したくらいにしか読み取れんで。 大和朝廷と関東東北等の東夷との関係は、明らかに西方の九州中国とは違うからなぁ >>560
漢が滅んだ後はアクセサリーとしての価値しかなかったと思うけど。 国譲る奴なんていねえよ。部下がいれば部下は怒りだす。大体記紀の戦い方みりゃ譲らせといて皆殺しにするタイプだろ。それと57年と帥升107年が同じ王朝とは限らない。兎に角この辺の記紀の天皇は同じようなのばかりで何がホントかわからない。 >>563
一部おかしな奴も出てくるかもしれんけど、99%以上は普段の生活に戻るよ。 >>546
倭国大乱の時期に火山による急激な寒冷化や大地震があったことは解ってるよ
後漢滅亡の遠因にもなってる >>576
それはあんまりだ
8世紀には宮城県多賀城に国府があったのだし古墳もあるから
もっと以前から中央との関わりがあったはず 57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国に
大陸への道を閉ざされていた奈良の邪馬台国が
出雲を武力制圧して、出雲を奈良の邪馬台国の植民地にしたとたん
奈良の山国の邪馬台国に、大陸への道が開く
邪馬壱國(奈良)
投馬国(近江)
不弥国(摂津住吉)
奴国(因幡)
伊都国(出雲)
末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
一大国(見島)
対馬國
残る邪魔者は、北部九州一帯を統治する倭奴国と結託している帯方郡の公孫氏のみ
その公孫氏が、238年の遼隧の戦いで魏によって滅亡させられたとたん
240年に、奈良の邪馬台国は、出雲からちよ朝貢、魏から「親魏倭王」に任じられる >>597
コピペで見たけど倭国大乱の原因はNZのタウポ山の大噴火による世界的な火山の冬による
異常気象による寒冷、不作が数年間続いたことによる食糧難や社会不安が原因で
それが落ち着く時期に卑弥呼が王位についた。
つまり卑弥呼がアマテラスで、有名な神話は日食原因じゃない(日食は数分で終わり実害ない)って本当?
一方で卑弥呼は日食原因で巫女として役立たずとして殺されたって話も聞いたことあるし。 >>576
未開の地というわけではないだろうな。
銅鐸を国産するなど高い技術を持ってた。
ただ、九州ほどには豊かでなかっただけだろう。
瀬戸内海は平野が少ないし、畿内とその周辺地域の銅鐸文化圏は
大和や九州ほどには米が育たなかったんじゃないだろうかと推測してる。 57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国に
大陸への道を閉ざされていた奈良の邪馬台国が
出雲を武力制圧して、出雲を奈良の邪馬台国の植民地にしたとたん
奈良の山国の邪馬台国に、大陸への道が開く
邪馬壱國(奈良)
投馬国(近江)
不弥国(摂津住吉)
奴国(因幡)
伊都国(出雲)
末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
一大国(見島)
対馬國
残る邪魔者は、北部九州一帯を統治する倭奴国と結託している帯方郡の公孫氏のみ
その公孫氏が、238年の遼隧の戦いで魏によって滅亡させられたとたん、奈良の邪馬台国は出雲から朝貢
240年に魏から「親魏倭王」に任じられる 普通にこれだよ
邪馬台国は九州にあり、そこは「倭」と呼ばれた
畿内の政体は「日本」(ヤマト)
別の集団だよ
ぽっと出のヤマトが天皇を名乗って日本という国が始まった
昔畿内にあった地方豪族が羽振りよくて乗っ取ったんだろう
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png あすかあきお「卑弥呼の正体は曹操だったんだ!(バーン)」 >>604
残念でした
邪馬台国は九州には存在できません >>318
シルクロードのアラベスク模様だね。
金属螺鈿はシリア発祥の技術だし。 >>603 つづき
慌てたのは
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国だ
そこで
北部九州一帯を統治する倭奴国の三十二代目国王の
「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」が、
【第4皇子】の神武に、奈良の邪馬台国を武力制圧させて
奈良を「九州の海神国(倭奴国)」の植民地にした
というわけだ ダンワラ遺跡からはこの鏡と同じ技術を駆使したベルトのバックルなども出土していたそうだ。 >>580
天皇も所詮は旗振り役で、家臣の意見にも耳を傾けなければ
そういう目に合うということもあるってことだったんじゃないかな。 邪馬台国の人たちは呉の太伯の後裔を自称していたらしい。
長江の下流にあった国だね。
彫金技術者も日本に来ていたのかな。 いつ頃貰ったか知らんが大陸からならバチモン決定だな >>604
その地図が正しいと信じてるからこそ、貼り付けてるんだよな?
16世紀は日本は戦国時代だけど、戦国時代にも日本と倭国に分かれてたと思ってるわけだ
さすが九州説ですね 畿内の遺跡で気になるのは、弥生後期に高地性集落での戦乱の痕跡があったり、いちど環濠をとっぱらった唐古・鍵遺跡がまた環濠集落に戻ってるところ
気候変動や倭国大乱とも関係があるんだろうけど 日本もシルクロードの端っこだしね。
奈良時代にはペルシア人の官僚がいたという記録もある。 >>584
自分の意志で埋めたんか、洪水とかで埋まったんかはとちゃう? 6世紀の古墳だろ。
出土地も伝聞であって確証もない。 >>128
北が百済領、南が熊襲領だよ
もともと筑紫は百済の行政府が置かれてて事実上の植民地だったんだから まさかとは思うけど、通説とは違うものが出土したら隠されたり
埋め戻されたりされてるんじゃないかと疑念を抱くことがある >>599
平安時代には東北は日本に欠かせない重要な地域の一つだったろうな。 卑弥呼は九州にはいない
九州は日本のいかなる時も中心にはならなかった
あくまで中継地
ましてや古代において稲作に向かない九州でその指導的立場をとるのはおかしい
その時代に九州から日本の各地への指導や指令は時間がかかりすぎるし
ましてや日本側に残る資料に全くのそのような記述もない
それらを全て神話呼ばわりするなら世界の歴史は全て神話になる
くだらない政治的主張としか言いようがない 漢から任じられた王国が在った訳だからね
菅原道真の頃には大和朝廷の左遷先にもなってるくらいだから
単なる敵対国家だった様には思えんよな むしろ白村江の戦いまでは半島南部は日本の領土だった。 日本にはあちこちに古墳がある
その大半は盗掘されている
それらはどこへ行ったのだろう >>576
東国に関しては行田の前方後円墳からワカタケルの剣が出てくるくらい畿内との関係は緊密
同じワカタケルの剣が江田船山古墳でも出てるから、どっちも大和王権の有力地方豪族だったんだろう うん、だから邪馬台国と大和は別もの。
邪馬台国は倭国
大和は日本国
ノータリンはなぜか西日本を統一してないと気がすまないらしいw >>619
半島南部には前方後円墳があるのに北九州には百済系の古墳がありませんねえ。 当初正統を誇示するためにアマテラスを祀ったが、
ヤマト王権が確定した途端伊勢は遠ざけられ
最終的に紀伊半島の東端まで追いやられ、
更に皇族の禁足地扱い。
この点からも、大和王権の汚なさが分かる。
こんなのの末裔を神と崇めて死んでいった
英霊とむこの民の無念さよ。 >>128
昔は僕も邪馬台国の勢力圏をその辺までと思ってたこともあったけど、
そんな弱っちそうな狗奴国と戦争するためにわざわざ魏の臣下に下る必要があったんだろうか。
現時点では熊本平野が熊襲に寝返ったんじゃないかなと推測してるかな。 >>516
時間が合わないね。
卑弥呼のあとのトヨが朝貢したのが266年。
それから神武が「東征」して、たった100年で七支刀。
14代も経ってるのに。
九州には前方後円墳の原型もなく、なのに、東征した瞬間に前方後円墳が作られる。
奈良には突如よそ者に襲われたらしき遺跡もなく、戦乱の影さえ存在しない。
よく言われるように、奈良には鉄がない。
つまり、鉄の矢じりも出ないからなw >>625
それは左遷ではなく、たぶん天下りだろう。 天下りって本社から関連会社に飛ばされるようなもので左遷だろう。 >>631
畿内からの出稼ぎで事足りてたんちゃう? まぁ、祟り騒ぎがあって政敵が祀った訳だからね
中央から遠ざける意味合いが強かっただろうね
そしてその様な人材のやり取りが可能だった関係でもある
征夷大将軍なんて作って送り込む地方とは違いすぎる >>218
金印が出てるんだから朝貢してたのは間違いない 女王の痕跡は斎王として平安時代くらいまでは風習が残っていたようだね >>633
東方で海からの日の出が見れるとこで奉る風習とかあったんちゃう?
宇佐神宮とも共通しそうやし。 >>59
曹操存命時は漢だったし大してずれてないな >>637
官僚が民間企業に移ってがっぽがっぽ稼ぎまくることやろ。 >>644
官僚でピラミッドの上に行けなかった人が脱落した順番に天下るわけだけど、
上に行った人はもっといいところに天下ってもっと稼ぐからなあ。 始皇帝の命令でハクタクが100人ぐらいの子供を引き連れて日本にソーマを探しに来たからでは無いか >>639
そんなん、目くらましに決まってるやん。 >>645
官僚としてトップになることを幸せと考える人もいれば、
民間で稼ぎまくって贅沢三昧の暮らしをすることを幸せと考える人もいるだろうからな。 >>645
遣唐使を廃止にして、逆に中国から来るようになった船との交易を独占してたやろからな。
並の稼ぎじゃなかったはず。 国営事業を民営化して、そのトップにまんまと収まったってわけやろからな。 大宰府に独自貿易の権限が有ったのなら色々話が変わって来ないか?
出土物がこの時代の交易品の可能性すら出てくる
唐なら漢時代の遺物も骨董だったかも知れんし >>651
おそらく古墳時代に治水は大幅に向上したろうから、
平安時代には洪水で埋まるようなことはめったになかったとは思うけど。 奈良出身者だけど邪馬台国は九州だと思うわ。たぶん奈良県民全員そうおもってる。 >>194
熊襲が南九州以外の説って見たことない
>>200
>>205
Googleやらの米ITはインド人のトップや幹部がわんさかいるけど、
別にアメリカがインド人に支配されたわけじゃないしね
神話の元ネタに高句麗のものが採用されることはあったと思う。今からしたら迷惑だけども >>651
中国船が停泊できるくらいちゃんとした港が博多くらいしかなかったろうから、
交易を独占できてたろうってだけで、所詮天皇の旗振り役の下、
中国との接点を担当してただけやとは思うけど。
中国人が欲しがるものを用意できなんだら、中国船わざわざ博多まで来んやろからな。
中国人が欲しがるものを用意するのは本州の役目といったとこだろうな。 >>248
森浩一の説だとトヨのときに畿内に遷都したとなってるから、卑弥呼の時代は九州でも、隋の時代には畿内であってる
個人的にはトヨのさらに次以降だと感じる。中国から見た空白期間が長すぎるので >>442
邪馬台国周辺の対外交渉に使用した可能性もあるから、
確実に墓にあるかは分からない >>654
そういう意味ではない
向こうはこちらは蛮族の地として興味をもたないうえに
半島の神話って日本神話とは全く違う 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は後漢のものと言われていて、魏の時代と時代が合わない。
北九州の遺跡からは後漢の鏡が出土する。魏の時代からは畿内をはじめ全国から出土する。
曹操が死んだ時期も卑弥呼が使いを送るずっと前の出来事。
つまり、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は後漢の時代のものであり、北九州説論者が魏の曹操と言う
名前を出して「魏」と連動させて邪馬台国九州論に有利になるように仕向けた風説の流布にすぎない。 >>341
あんま知らんけど、発掘したら九州のものが出てきたらしい
【考古学】ヤマト王権トップ?の木棺、初公開 桜井茶臼山古墳
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568090711/
>>360
>>363
元々は「美術商から買ったものは由来が適当だから無視しよう」ではなくて、
「窃盗を助長するから買うな。儲けさせるな」という意味
一般論としては、美術商サイドは由来を気にする
そいつらは本物を手に入れたいわけだから そもそも日田の古墳から出土という言い方が誤解のもと
勘違いする人が多い
古物商から買ったもので、出土場所は不明の鉄鏡と表現を変えるべき オオクニヌシの国譲りやアマテラスの天岩戸の神話が
邪馬台国とそれ以前の北九州の史実の反映だ、説あるけど
なんで大和朝廷は太古の北九州の話知ってるんだ?ってことになるよね。
邪馬台国東遷は支持できないにしろ、神武東征な邪馬台国は間接的に関与している可能性高いとみる。
神武の祖先は邪馬台国崩壊後、あるいはその前の倭国大乱時に北九州から日向に逃れた一族。
天孫降臨はこの時の話を反映。
東征するにあたり本当は関係薄いのに北九州勢力を味方につけるために「邪馬台国の正統な後継者」を名乗ったと思ってる。 魏志倭人伝の時代を全うした地域は一貫して鉄と縁があるという事だ。
■魏志韓伝より
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(倭種の国?) >>16
卑弥呼は神武が奈良に来た後だからだよ。
崇神の頃だから
卑弥呼は東遷後とかんがえるわなあ
記紀を信じれば >>34
違うよ
神功皇后より120年昔が卑弥呼だよ。 卑弥呼は斎王だよ。
王は王でも政治の王は天皇
祭祀の王が卑弥呼ね
つまりトヨスキイリヒメの事だよ >>666
大和朝廷で巫女な役割をしている女子皇族は大勢いるけど
「女王」は推古天皇が初めてだよね。
実在が怪しい神功皇后は除いて。 >>132, >>442, >>447
「賜汝好物也」の読み下しは、
「汝に好き(よき)物を賜うなり」だよね。
べつに卑弥呼が「あたし鏡が大好物なんですう」とか
リクエストしたわけじゃないのだw 考古学者は捏造ばっかりやるから信用できない
古美術商は由来、謂れを調べてるから信用できる
九州説さんのこの判断基準は理解不能w >>609
>ダンワラ遺跡からはこの鏡と同じ技術を駆使したベルトのバックルなども出土していた
本当?
>>488
飛鳥京にペルシャ人建築家がたくさんいたのは学会でも定説だけど、
秦氏=ペルシャ人説は今どんな感じなの?
>>607
仮に秦氏がペルシャ人としたら、宇佐は秦氏の本拠地だし、関係あんのかな 斎王は吉備、紀伊、丹後、伊賀、近江、尾張、美濃、伊勢を平定して回ったんだよ。
枕かもしれんが 古事記は言い伝えだから適当でいいとして、日本書紀の編纂チームは魏史倭人伝とな後漢書東夷伝を読んでかなり困惑しただろうな
当時から見ても500年前のことで、学術的な研究成果がない分、たぶん今よりも古代の状況はわからんだろう
「邪馬台国ってやっぱりヤマト国かな?」
「でも、この経路だと日本のどこにも到着しなくね?」
「そもそも卑弥呼って誰だ?この時期に女王とかいたか?」
「神功皇后じゃね?うちには厳密な年代とか残ってないし卑弥呼ってことにしちゃおうぜ」
「いや神功皇后独身じゃないし子供いるぞ。というか台与とか何者よ?」
と、謎の邪馬台国をめぐって、日本史上での位置付けにかなり悩んでそう >>671
女帝が女王なのは分かってるさ。
巫女的な斎宮と呼ばれる女子皇族は女帝じゃないと言いたいわけで。 歴史推理小説だが
舞い降りた天皇| 加治 将一
素人にはこの本の解説がわかりやすかった >>674
帝じゃないかもしれないが王だよ。
斎王 日本史において卑弥呼的な処女引きこもり女王に相当するのは斎王以外にない。 >>668 卑弥呼が鏡をリクエストしたと思うよ
2世紀後期の伊都国の平原遺跡の40枚の鏡とも繋がり
好物と考えても矛盾がない 後漢が滅びた時、公孫氏が滅びた時 魏国が滅びた時
ある程度は亡命みたいな形で駐在してた連中が戻れなくなって北九州から畿内まで流入したんだろうね >>6
奴国が倭国王
↓
黄巾族の頃に倭国分裂
↓
東四国の勢力が西日本統一
↓
邪馬台国で卑弥呼が王となる
↓
東海の狗奴国と争う
↓
卑弥呼死す
↓
東海の姫で卑弥呼とも繋がりのあった台与を王とする 邪馬台国の祭政一致社会はのちの熊襲や琉球に受け継がれて行くのだろう。
大和王権には有力氏族の連合政権だから邪馬台国が持っていたヲナリ神信仰はあまり感じない >>659
呉の太伯の後裔である卑弥呼が、大陸から大切に持ってきた家宝かもな。 >>675
この作者はあまり好きじゃないけど、この小説は面白かった
古代史の知識や情報がたくさんあって勉強になった まー普通に考えて九州のどこかだよなあ
対馬から壱岐、福岡までは確定していて、その後いきなり近畿にワープするような記述とするのは流石に無理がある
普通ならその間の出雲やらあるいは瀬戸内海沿岸のムラの事も書き記すだろうし >>677
何をどこまでが日本史と言ってるのか分からないが、卑弥呼は
アマテラス以外あり得ない。と俺は思う。
天孫族で、大中国の魏から印綬を授けられ、呉=熊曽連合と対抗
しうる三国最大の国をバックにし、また大量の朝貢貿易を成功
させた。更に大陸からの技術や知識、もしかすると武具や軍事的
知見もも獲得した可能性が高い。
外交だけでもこれだけの成果を得、また当然共立女王として生存
期間中は倭国大乱を鎮めた。
大日孁貴=大いなる日の巫女・御子であり、最大の呪力を有して
いる点からも、卑弥呼と推測される。
欠点は、五男三女の子がいることだね。
それと、神武との前後関係だが、それはアマテラスの五代目だから、
神話上は神武の方が後となる。ニギハヤヒも二代後だから、その点は
問題なさそう。
筑紫の生産力では養えない人口圧力により、漸次東への植民が進み、
同時に奈良や京都、河内が海退により入植可能となっていった。
神武はそんな時代だろうね。神武記は、初代に相応しくない結構不名
誉な内容だが、その父の名前も裕福とは言えないので、筑紫王族だと
しても羽振りが良くないポジションだろう。 >>670
ここに書いてあったよ。
http://www.netpia.jp/history/kagami.htm
http://www.netpia.jp/history/kinginsakugan_shuryumon_tekkyo-summary_Japanese.htm
東寺ダンワラ古墳からの他の出土物
鉄刀、轡、鉄製貝装雲珠(かいそううんじゅ)、鉄製貝装辻金物、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだだま)、
水晶製切子玉(きりこだま)、ガラス製小玉、勾玉(まがたま)
近辺からの関連のある出土物としては、金錯鉄帯鉤 (きんさくてつたいこう・男性用の鉄製バックル)
*金錯鉄帯鉤の装飾の金にも、11%の水銀が含まれています。 出雲の荒神谷遺跡から出た銅矛16本が全部、北部九州による制作とされている
それとは別に日本史板で、
出雲は元々博多湾沿岸のことという説があった。何が起こってたの >>685
私はぞくぞくしながら読みました 時々読み返しますが今読んでも古びた感じはないと思います しかしなんだな
今「ローマ人の物語」を読んでるのだが
あっちは2000年以上前の出来事でも手紙なんかが残ってて
カエサルが何月何日に暗殺されて首謀者はこういう連中でその後ブルータスがどういう演説をして・・・とか事細かに残ってるのに
こっちはたかだか1700年ちょっと前のことなのに国がどこにあったかすら分かってないというのはカルチャーショックを覚えるな
文字くらい作っとけよ本当に 日田市が邪馬台国の都なんじゃないのか?
隋の使節を招いた倭の都は邪馬壹という。
300年変わらない場所にあった。
それは倭側が迎えにくるような山奥にあり、
阿蘇山がモクモク煙をあげるのが見える。
これに合致してるのはまさに日田市では? >>640
金印は捏造でほとんど確定。
文字の彫り方が当時のものと全く一致しない別物と分かってる。 アマテラスは元々は男神という話もありますよね 女神にしてしまったのは藤原とか >>128 九州の方言は、鹿児島だけ極端に異なる。同じ九州人でもわからない。敵を区別しやすくするためだそうだ。 >>674
無意味な言い合いだね。
そもそもが日本の天皇は「皇帝」じゃない。みかどに帝をあてただけで、
それも大唐に聞こえれば怒られる。日出ずる所の天子などと僭称して
煬帝を激怒させたわけ。漢風に帝と呼ぶのは少なくとも飛鳥期より以降、
漢風諡号を使い始めてから。
ましてそんな称号の無かった時代の卑弥呼は、女王だろうが女帝だろうが
どう呼んでもいいってこと。なにせ魏から金印貰ってるんだからそう呼ば
れる資格はある。歴史的名称の問題。どの天皇も生存時は単に「おおきみ」
「天皇」あるいは「今の上」。 >>695
関東人だが前に自転車で九州を縦断したことがあって毎日日帰り入浴してたんだけど
鹿児島に入って最初の温泉に居たおっちゃん二人の会話は本当に何言ってるのか分からなかった
イントネーションや語気の強さから最初中国人が会話してるのかと思ったくらい
たまに日本語の単語が聴こえて来てなんとか日本人だと分かったけど
全国色んな所旅したけど薩摩弁が一番聞き取れなかったわ
青森秋田なんて比較にならん >>691
図抜けて有能で期待のホープの官僚だったのに時の権力者にうっかり反論したばっかりに金玉取られて絶望して
一時期は死を考えたけどその思いをすべて歴史書の編纂に当てたような人物が日本にもいればなあ… 崇神だと宋史新唐書に崇神の箇所に卑弥呼を匂わすようにするはずなんだよね。中華から見ると一番有名な倭王は卑弥呼だからね。記された仲哀死、これは重いのよ。仲哀なんて中国人初めて聞く名だからね。タリシヒコ系王もここで終ってる、ここで滅んだのよ。 >>687
アマテラスには子供がいる時点ですでに違う。 >>694
藤原ごときがそんな大それた事したら打ち首ものだよ。
持統天皇ではないだろうか? >>697
鹿児島弁は江戸時代、人工的に分かりづらくした言語だと言われてるから特殊 >>694
それはあります。
女帝の時代だから、その権威付けのために遡って天照を女性っぽくした
って言う説とか。
でも、そんなことするかなっていうのが私の説。
皇族貴族の禁足地と言うことは、それだけ国家規模の災厄をもたらす
祟り神ということです。仏教改宗の時も、めっちゃびびってますw
また、実際に男説の方が後から出てきてるんですよね。「女なんかが」
ってことで、武士の時代とかw
ヒサツヒメも勿論卑弥呼候補で、十分有力ではありますが、時代的に
遅い気がします。或いはトヨの方かも。 >>689
出雲と宗像は系図的に同族だから関係あるかもね >>691
今でいうところのイスラム圏が古代では世界最先端だったろうからな。
隣接するギリシャやローマが進んでるのは当然だろう。
日本は更に大陸から海で分かたれてしまってるしな。 >>682
東海といえば、桜井稲荷山古墳が3世紀ごろの前方後方墳だったというニュースがあったな
卑弥呼のお膝元に東海勢力の墓があるという >>693
金印が偽物だなんて初めて聞いたわ。
同時期に作られて「漢委奴国王」と同仕様の「広陵王璽」という金印が、
「漢委奴国王」より後に中国で発掘されているんだけどさ、
「漢委奴国王」を作った贋作職人は予知能力者で、
まだ発掘されていない「広陵王璽」に似せて、偽物の「漢委奴国王」を作ったってこと? で滅ぼしたのが卑弥呼と武内宿禰、弟になってる奴でしょ。だから卑巫女なんでしょ、仲哀なんて名の天皇恐らく存在しない。記紀は隠したのよ >>704
アマテラスを女に変えた理由として考えられることで一つあるのは
実際は斎王というのは地元の豪族(その象徴の地元神)にさしだした女の人質なのだが、それでは天皇家の権威が保てないので、皇祖神のしかも女神に仕えるという形にすれば大丈夫とかんがえたんではないだろうか? 伊勢神宮は治外法権みたいなところで、明治になるまで天皇家ですら伊勢に入れたのは蘇我系の女性しか入れてない。 コレは日本に来た安貴公が曹家直系の子孫だったからで確定した。 斎宮は大和朝廷の官舎なので伊勢に入れてない。宮川の手前である。 >>699
そりゃ祟るからw
そもそもが「伊勢神宮」というのは27回も移動したという説もあるくらいで、
三種の神器と共にあちこちを渡り歩きました。これをして「神器の霊威を盗難や
強奪から守る」ためと言う説もある訳ですが、なんで岡山とか丹後半島とかの
僻遠の地にしかもどう考えても無防備ぽいところに神器を移すのか。
実際に奈良盆地に権力中枢が定まっていなかったというのならそれはわかります
がね。まあ岐阜とか流石になさげですがw
これも私見は「恐れたから」だと思うわけです。まあ最後の場所が豊の国に似て
いるというのは半分賛成ではありますが。まさしく宇佐神宮のポジションw >>716
斎王の髪の毛ハゲるくらい祟られるからな >>716
廻った所ぜんぶ、当時大和政権を作ったとされる地域だよ
吉備の古墳、ハニワ
東海の土器
丹後 鉄?
紀伊 木材? >>708
いやいやそれはもう結構あるわけでw
特に出土の仕方が胡散臭すぎるんで偽作というわけですが、やっぱり畿内説の
偉いさんが特に大好きでした。
でもあなたの言うように、重箱の隅的につまみがどーとか字体がどーとか、これ
も畿内説の自称学者共のいちゃもんの付け方の典型ですよねwww
これらは滇王之印や広陵王璽の出現で、畿内馬鹿の大好きな言葉を使えば、その後
はほぼ「無視」されるわけです。
重箱の議論は続くわけですが、何と言っても金の成分を何で江戸時代に完璧に同じ
に出来るのか。そんなこと100%不可能なわけで。
こんな出来事のたびに、畿内説の自称「権威」共が理系の人達から馬鹿にされるわ
けです。国が伊達に国宝と指定するわけ無いってw
事実は事実として、じゃあなんで志賀島から出たのかを考えるのが科学ですよね。 >>694
伊勢に鎮座してから「メシ友が欲しい」と言って呼んだのが女神のトヨウケだもんね。
レズかっつのw 日田はいい場所だな。
天然の要塞的な感じがするし、徒歩が多いのも納得できる。
対蘇國、蘇奴國、華奴蘇奴國
と、やたら周辺に「蘇」がつく国が多いのも近くに阿蘇山があるからだろう。 >>720
例えば誰?
それとも畿内説を批判するための作文? >>699
で、この鉄鏡が見つかった日田の古墳の近くに由来不明な伊勢神宮かあるんだよな。 アマテラスは中国の古典の山海経に出てくる太陽の母神である義和が元になってるんだろう 華奴蘇奴國=カナサキノクニ=神埼国
コレが吉野ヶ里だ。 曹操は質素志向で墓にもあんまり豪勢なモン入れんなって厳命していて最近の調査でその命令は守られているっぽいって話じゃなかったか?
そんな大層な鏡入れるかね ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>718
ああ、巻向に女王を共立したエリアって話ですか?
じゃあ、各地域に順に神宝を展示したって事ですかね。面白いですねw
有名西洋画家の展示会って、大概東京ですよね。そら中々地方には持って行
けない。盗まれちゃ偉いことだし、移動だけでも金がかかる。飛行機も装甲
車も無い時代にそんな大事な物を運ぶ理由って何なんでしょう。よくわかり
ません正直w
そんな、平和裏に北部九州どころじゃ無い広域連合が女王を共立するという、
ウルトラCの理屈を幾重にも重ねる超ムズい話が学会の主流って、ある意味
凄すぎると私は思うのですが。国ってそんなふうにでかくなるもんですかね。 >>728の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行一年」 なぜ曹氏一族が日田に来たのか、
ソレはやはり、自ら宝物を贈った
倭国がそこにあったからだろう。 >>731
日田は秦氏だよね。今でも秦氏の末裔の畑さんが住んでる。 >>728
>>730
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>736すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) もう国家東遷説で確定やろ?
卑弥呼が九州にいたのか畿内にいたのかはどうでもよくね? >>738の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 もし仮に大和が邪馬台国なら、
自ら狗ナ国との戦いに支援を求めた、
魏の皇帝の子孫が日本に来て、
日田に留め置くという事があり得るだろうか?
日本書紀にも言及は無い。
コレはやはり、邪馬台国と大和が無関係だった事の証明だろう。 >>740の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 とうとう完全に歴史が解き明かされたなと曹操様の鏡があったということ 最初に天皇を自称したやつは相当なフカシ
自分の神話まで作らせたんだからな
こういう事をするのは、おそらく日本人じゃなくて、半島、大陸系だろう >>699
崇神の時代に天皇家の神ではないということで大和から追い出された >>481
それ殆ど珍獣鏡やろw
珍獣鏡は魏鏡やないぞw >>745
そいや、、朝鮮の「海東諸国記」には、祟神天皇期に初めてアマテラスを
祀ったと書いてあるな。案外、このあたり(アマテラスは祟神朝で創作された)が
真実をついているのかも知れん。 >>728
おまえ面白いyo!
相当 倭人伝を読んでると見たw素晴らしい >>749
日本書紀は不比等の影響は相当大きいだろうからな >>663
鉄の分布図が全てを物語っている
古代日本は、北部九州と中国地方の国だった
そこから徐々に東へ東へと、フロンティアを拡大していった
アメリカの開拓時代と同じ そもそも「邪馬台国」を「やまたいこく」なんて読み方をしてるのがそもそもの
間違い「やまとこく」だろ
卑弥呼の後を継いだ「壱台」の読み方「イト」
「イタイ」なんて読まない。
「 >>720
1人も名前挙げられないのは、やっぱり畿内説を陥れるための捏造だったのか?
卑劣すぎ これ俺もわかっちゃたんだけど怖い
邪馬台国の最後の記述って張政が壱与のところに行って檄文をめっちゃ詳しく言い聞かせたってのが最後なんよね
これってどう考えても中国語ちんぷんかんぷんの13歳の壱与に夜な夜な檄文言い聞かせた程にしてオッパイ触ってたん違うかな?
でその後プツンと邪馬台国と魏の交流は一切無くなるわけだろ
オッパイ触ってきたヘンタイがいる大陸から近い土地とか嫌だから国ごと畿内に移ったってわけ
これ大きくは外してないよな? 古代5〜6世紀の日田は筑紫君の勢力圏だと思うんだけどな。
どうなんだろう? >>739
どうでもいいってことはない。
現代まで続く豊穣な農業地域である筑後川流域や博多湾岸、遠賀川流域を
放棄して王族貴族がこぞって移住するなどほとんどあり得ない。
「東遷」自体怪しげな造語であって、王が動くといちいち北遷とか西遷とか
言うのか?って話。
確かに大和王の豪族達は筑紫出身が多いが、本家を全部引き払う理由が無い。
普通は本家はそのままいたと考える。
「大和王権以外、巨大な影響力を持つに至った国はない」という単純で凡庸な
思考法に歴史学を支配されるのは誠に遺憾。京都学派には万世一系という呪わ
れたイデオロギーも根底にあるし。
>>745
一体どれだけの神社がアマテラスを祀る・もしくは改宗したと
思ってるの?それも大王家の指示で。
放逐するなら記紀神話からも削除しろとw >>754
ウケるw w w
張政は檄文だけよんで帯方郡に逃げ帰ったかもしれんな >>752
なんで日本の小学校の教科書は「ヤマト国」にならないんだろうな >>756の後半
いやいや、もしかしたらアマテラスって意外と新しい神様かも知れんぞ。
たとえば延喜式の月次祭祝詞第四段のアマテラスに関する部分の
内容・形式は、明らかに後代の挿入であろうと言われている。
論証した文献としては、金子武雄「延喜式祝詞講」、
松前健「日本の神話と古代信仰」、溝口睦子「王権神話の二元構造」 など。
もともとはタカミムスヒのポジションだったところに挿入したらしい。 >>756
当時は灌漑技術もないから水田や畑にできるところも限られてたんだぜ
というか、耕作地が足りなくて奪い合いになるから環濠集落作ってたんじゃないか >>747
逆に言うと、崇神期にアマテラス=卑弥呼を大和から追い出し天皇家の神を祀るようになった。
出雲大社の大国主の神も大和から出雲に追い出された。
つまり崇神が宮崎から大和へ東征し、三輪山のふもとにあった邪馬台国を乗っ取り、王朝を
築いたのかもしれない。それは、おそらく台与(トヨ)の後の男王の時代であろう。
あるいは当時の大和は物部氏が軍隊を担当し守っていたのかもしれない。 磐井がらみかもしれんね
豊前に逃げる時に日田の信頼できる者に預けたかも >>754
その後倭の五王が南朝に朝貢し、叙任を受けている。
学者がテキトーに当てはめて仁徳とか雄略とか応神とか言ってるが、この辺も
古代史学者ってアホっぽいw
そもそもが仁徳とか雄略とかがどこまで実在かも分からない段階でパズルする
って、アホと思わない?最低でも9回は派遣しているのに、系図的に嘘をつく
というのもあり得ないし、記紀にそんな記述はほとんどないし。(取って付け
たように呉に通じたと書かれているだけ。呉っていつの時代だよってw)
そして、「遂に絶つ」(475年?)がほんとの最後。
半島諸国の軍事統帥権を大和朝廷が何故そこまで必要とするのか、全く理解
できない。大和のいいところは、国際情勢に影響されないほど離れていると
言うことだよね。
この倭国は、半島と近く、元々同根の北部九州勢力。魏の正統後継者である
南朝との主従関係にこだわった。 大和から持ち込まれたものという判断で良いのではないか 高天原は、弥生系の故地である山東半島か
山東半島と九州北部の間にあり、当時はこっちも弥生系がメインだったらしい
朝鮮半島南部じゃねえの? >>760
でも田畑は環濠の外だよね。
というところで思い出したのが天津罪。
農地に対する実力行使はマジカルな「罪」によって抑止されていたのかも知れん。
だから農地ではなく収穫物の略奪が横行して、その結果の環濠集落だと。
>>761
ううむ、どうなんじゃろ。
俺は「追い出した」部分も含めて創作された説。 文献で残っているので怪しいのは倭人伝の正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵が派遣した建中校尉の梯雋が卑弥呼に献上した鏡。
あとは古事記のみに八咫鏡は真金(鉄)と書かれているのが面白いところかな >>760
弥生後期の生産力の差は圧倒的。
弥生前期から長い時間かけて、高度な灌漑技術までを手に入れていた。
更に鉄器の普及でその差は拡大し、そして鉄器の広がりと共に生産力も南へ、そして
東へと拡大していった。畿内の巨大古墳もそれら灌漑技術あっての物なんだよ。大和
三山以北は巨大な奈良湖で、かつ大和川は大変な暴れ川。これを灌漑するのに鉄器が
なければ極めて困難。
稲作はその土壌が更に生産を押し上げるという特徴があり、また、乾田と湿田を交互
に行うなどの技術も既に普及していた。灌漑設備は耕作地が広がるほど大事な技術かつ
投資であり、福岡、佐賀、大分などの巨大な耕作地ネットワークを放棄する理由はどこに
あるのだろうか。私的には無いと断言できる。従って、王権の移動もありえない。
いくら奈良盆地が「美し国」でも、それは北部九州の技術と鉄器(農業も兵器も)に
よってこれから豊かになるのであって、現時点ではない。明智光秀の「切り取り次第」
と同じ話。神武一行のルンペン旅行も、それほど明確な宛てがあっての旅だとも思えない。 >>1
邪馬台国との位置関係
【もっと北】 朝鮮半島 (狗邪韓国)
【北】 九州北部 (対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国)
【女王国】 邪馬台国
【南】 狗奴国 >>770
いや、そんなに農地有り余ってるなら苦労して有明海干拓しなくてもいいんだよ
農業生産が安定すると人口が増えるから、一度天候不順になるとカオスになる
弥生後期から末期あたりがちょうどそういう時期だったといわれてる カクが好きな俺にとっては魏の歴史がわかるの嬉しいよ 古代奈良湖や宍道湖みたいな大きな湖周辺に朝鮮半島南部や奴国にいた倭人が移動して行ったのかもしれないね。
米が作りやすそうだし輸送や移動も船を使ってただろうし >>489
吸収って、それまで王権のかけらさえないのに
誰が吸収したの?
誰かが持ち込んだとしか考えられないよ。
変な妄想してないで奥山さん働きなよ。 >>656
遷都があればそう書いてないとおかしいから 農業生産力と軍事力のバランスがいつ崩れるのかは今後の研究課題だが、
継体天皇が磐井に勝ってなぜ長門までしか獲れなかったのかは参考になる。
確かに畿内の巨大古墳は相応の軍事力の成せる業だろうが、それを同じ
九州の同盟関係でやる必要性もまた可能性も無い。拮抗した近隣同士で
は、そんな使役も権威の発露も無意味。みんな鉄器も生産力も持ってるw
鉄器という軍事的脅威と、それを最大限効果的に運用したことで初めて
巨大古墳を造営するための多数の被征服民を使役出来た。おそらく沢山
死んだんだろう。ちょっと手弁当でって規模じゃ無い。大和川付け替え
工事のような、賃金や食事の支給などろくに無かったと思う。特に大仙
古墳や誉田山古墳なんてでかすぎるし近すぎる。
結構平和的に暮らしていたかも知れない銅鐸民を、最大限残酷に征服して
いったんだろうね。 >>778
おまエラが悪質なんだよ
嘘を確信して捏造ばかり
チョンコの特徴だ >>721
寂しいと語ってたの変えてるところが笑える
あと差別主義者は今時嫌われるぞ
レズでも問題ないだろ 不可逆理論に悪態工作のがチョン臭いけどな
もう止まらないだろうけどなw >>770
耕作地が不足して跡取りにもなれない
四男坊の神武が東に旅立ったのだろうな。
九州大乱の原因も耕作地の奪い合いか、
交易権争いだろう。 >>780
卑弥呼なき後の四世紀は九州でも大和王権の前方後円墳が作られ始める。
空白の四世紀になにがあったのか >>784
どこまで信じるかってのはあるけど
一家総出みたいだよ
兄とかは戦死してる >>782
たしかに適切ではない表現だった。すまん。
が、それを承知であえて書くと、古代の感覚では、
トヨウケは明らかにアマテラスの「嫁」のポジションだよね。 >>773
日本史と世界史は結構連動してるんだよな
曹操や孔明たちがダイナミックに動き回ってるのに
卑弥呼が小さな邑の女王だったというノーセンスな発想はやめてもらいたい >>768
今回の鏡は少しちがうのよ
鉄で象眼してあって装飾もお土産レベルじゃなくて国宝レベルなんだわ
北九州の古墳だって掘ったら鏡はいっぱい出るけど
象眼してある鉄の鏡は当時の曹操とかしかもってなかった
しかも曹操の墓から出たものと似ているから問題になってる
曹操の墓に埋葬されるくらいの物が日本の日田にあったって事が凄いわけで >>773
邪馬台国から魏を考えるなら辛い話な気もする
249年には司馬氏によるクーデター以後は傀儡政権になる
そして、265年には晋へと王朝交代
トヨは何処と交流してたんだろうな? 記紀には「土蜘蛛が立て篭もった砦を攻め落として一族郎党みな成敗した」みたいなことがさらっと書いてあるけど、あれって高地性集落のことだよなw >>792
古物商の話が何処まで本当かだろうな
あと、古物商から購入した学者が何処まで真実に辿り付いてるか
日田から消えて30年後だから。間に戦争もあった >>773
魏に滅ぼされた公孫氏の一族なら日本に逃げてきてる >>773
でもやっぱり一度自身を打ち破った賈詡を受け入れる曹操の度量がすごいな
また光栄三国志194年のシナリオで始めて袁紹しめてくるわ >>796
受け入れないんじゃね?
何かそこから先に進んで交流しようとするの邪魔してたみたいだし >>785
前円後方墳については、博多湾岸が最古。何があったかと言えば、本格的に
軍事的征服を拡大していった。そして征服地でも勢力を布置・拡大した。
例えば奈良の神武から八代は実際は王権と言うほどの物では無く、むしろニギ
ハヤヒ=物部の方が王だったとも考えられる。そして、後に派遣された崇神が
治水を行い、応神が神仏混淆の仏教を広げ、軍事的にも攻勢をかけた。
一方本拠の北部九州は半島へのコミットにこだわりすぎ、派遣地域との体力に
逆転され始めた。南朝の威力も次第に失せ、北朝が優勢になっていく。
南朝にこだわり、日出づる国の天子などと挑発し、遂には百済と共に滅ぼされ
た。
というのが一例。空白と言っても歴史は連続しており、必然性の洞察と推理、
それと先入観の無い年代比定があればいいと思う。古代史学のかつての年代
設定は歪みが大きすぎた。九州には新しく、奈良には古く、などは未だに残
っている。それこそ、日田の旧跡や、太宰府、博多湾岸、八女、山門、どこ
もまだまだ「不明」なのが多くて、お金も手も足りないんだよ。国東の古仏
も年代不明で放置されてるw >>156
完全に邪馬台国は九州だね
もう間違いない >>797
帯方郡から伊都国まで一万五百里
あと残り千五百里のところに邪馬台国はあるはず 中国から友好使節団が日本に来ていたから
日本から中国の皇帝に贈ったとか
逆に中国から日本に贈られた物かも >>800
赤染氏常世氏が公孫からの帰化人。神社も残ってるぞ >>801
ニギハヤヒが物部ってのは面白いな。
ウマシマジが物部だからそうなるのか 東遷のモチベとしては狗奴国がうるさいでも十分ではないの >>297
そんなに多くの位の高い人たちが逃げてきたなら、偉い人達の間では、普通に漢字が使われているはずだよね。 >>805
豊前田川の香春神社だっけ。いかにも丹を扱う一族だよね。
ここの香春岳は、古くからの銅山なのだ。 金印偽造説を知らない人がいるのが驚き。
「日本が中国の臣下だった証明だから絶対に本物。
朝鮮がもらえなかった金印を日本がもらっているのはおかしい。だから偽。」
と、バイアスがかかるからややっこしい。
ちなみに中国の専門家は本物説だったと思う。
金印も鏡も、出土地が問題にされたけど、前に誰かが書いていたけど、
磐井の乱の時に持ち出され、散逸したんじゃないかな? >>802
中国から九州に来ていたのは確かだろうね
その先の大和まで行ったかどうかだね >>801
え? 最古の前方後円墳は九州なの!? もし本当ならまた畿内論者に騙されてたわ… >>805
そうなんだ
謀反起こして滅ぼされた連中なのに >>812
おれおれ詐欺に簡単に引っかかるくらいの単細胞だな >>808
硯すずりが ここ数年で 複数の古墳から 見つかっています 以前は平安時代まで日本で 文字を書いていないということでしたが 数百年間遡ったわけです >>797
他の史書や遺跡なども見れば奈良だね
魏史倭人伝が色々と間違えてるから九州説が生まれたけど
三国志当時の地理学はそこまで凄くない 前方後円墳を前円後方墳と書くやつがまともな知識を持ってると思うんかね やっぱりこれが正解だったか
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>97
あと、阿蘇の噴火の脅威も考えられる
まあ、大陸文明に直接に接する日本列島の最西で国家を形成したが、
一山を超えたら、東に果てしなく続く静かな瀬戸内海
それを見て、東方に発展しようと思わない者がいるだろうか 魏が高句麗まで潰しておいてくれたら、
後々、日本が朝鮮半島に進出しやすくなったのだが
まあ代わりに、中国の王朝とやり合う機会が増えて、
潰される危険性も増えたか? >>811
三世紀は九州の海人族の拡大と共に各地に広まっていた鉄がまだ畿内に届いてないから魏志倭人伝の時点では畿内には行ってないね
四世紀以降は畿内が九州に屈服したから畿内にも鉄が来るようになるね
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と >>821
倭の中心が東に移動すればするほど朝鮮半島に対する影響力は失ってる感はあるよね。 >>819
これは矛盾なく説明がついているな
良く出来ている >>823
単に南下してるだけじゃね?
日本から見れば海を渡るんだから、どうしても不利だよ >>819
倭人伝の行程で1番解釈に困るのが投馬国の存在だよね。
伊都国から投馬国、邪馬台国と続けて進むのか。
伊都国起点は同じで別々な所へ行くのか。
それでいて投馬国や行程に出る他の国は邪馬台国の北(ないしそれらの国から南に邪馬台国)とある。
ある説では投馬国は山口県の瀬戸内側で邪馬台国は宇佐や中津に推定していた。
関門海峡を抜けて豊前沿岸を邪馬台国に南下したら
対岸の山口県に投馬国が見えるからその名を行程に書いてるんだとか。
確かにそれだと対馬、壱岐、糸島、宇佐は南北の位置関係だし、
遠くて詳細の分からない連合加入の21カ国は西側の内陸部ないし有明海方面で納得がいく。 >>822
福井の鉄製品、なんでこんなに多い?
日本海を通じて大陸とパイプあったのだろうか? >>825
加羅諸国を失い、百済を失ったのは日本の中心が遠く畿内に移動したからだと思うな。
九州からは倍ぐらいの距離になるからね >>822
チョンコってなんでこういう嘘の歴史を言うんだボケ
土器の移動を見れば大和が九州を支配しただボケナス >>816
漢字が既に普及していたら、万葉仮名とか、あんな変な漢文で記紀を書かないだろ 何を言ってるかわからない
曹操の墓はみつかってなかったと記憶しているが 権力を使って畿内にするためなら捏造おかまいなしの畿内説はヘドが出るわ。 >>833
見つかったよ
只、本当にって議論は又別 ハッハッハ、曹操孟徳はそうそうもうろくされておられる! >>810
金印偽物説はガセ。
当時の知識では知り得ない組成や
様式で作られていた。
これを偶然とするのがカルト >>830
土器w
30年前のポンコツ学問で頑張ってるのが畿内説。 >>729
豪族がつよいし争ったりなんかするかもしれないので
枕したんじゃないかとおもうんだが
鏡も配って 最近まで興味はあったけど無知で、何となく畿内論者だった
無知な状態だと何となく畿内と思うんだよ。大和朝廷の歴史を長くしたいのは自然じゃん?
でも各板の邪馬台国スレ見て回っているうちにね、、、 >>535
>糸島市平原遺跡の直径40cmが最大
正確には46cmなんだ
https://ironna.jp/article/4548?p=8
それで気づいたんだけど、
http://www.netpia.jp/history/kinginsakugan_shuryumon_tekkyo-summary_Japanese.htm
>「魏(ぎ)の曹操(そうそう)が金錯鉄鏡(きんさくてっきょう)を持っていた」と書かれていますが、大きさは直径約46cmの大きなものだったようです。
曹操が持ってたのは伊都国の鏡じゃない? 今も昔も力の強い相手を籠絡するには欲を満足させるしかない まぁ適当に考えりゃあれだけ都がたくさんあった奈良や京都付近だと
思うわな、でも栄枯盛衰の言葉があるように新潟だって過去には
人口TOPだったりしたんだ、時代と共に人は移動して事実上の
首都は今は東京、2‐3世紀の話なんて想像すらできんわな
それでも文献によれば邪馬台国は九州のどこか、これは動かしようが無い 沖ノ島の宝物の出土状況を考えれば金印の発見状況も不思議とは思えない
また金印が委奴国で使われることがあったとすれば漢字も理解しているはずだが
その形跡は一切ない
最近、平らな石を硯にしたいらしいが、文字が残っていない以上は証拠にならない
金印は授かった後に使われることなく神にささげられていても不思議ではないと思う >>830
それだと纏向から東海の土器たくさんでてるから纏向は東海の傘下だったという論法も成り立つぞ
桜井の稲荷山古墳(3世紀)が東海式の前方後方墳みたいだし >>846
いや、庄内式土器自体が畿内じゃなくて
播磨が拡散の中心地だから
20年前くらいに庄内式土器研究会とやらが
発表してたよ。 布留式も北陸がルーツらしいし、
土器とか文化の移動の証明にしかならないよ。 硯には炭?が残っていましたので それですずりだろうということになったのです 皇帝から実力買われてたことある日本と違って格下朝鮮は今でも当たり前のように中国の一部w 硯交易の 文書とかで 必要だっただけで 書いてたのも雇われの 大陸人だったかもしれないですけどね 楽浪郡帯方郡と 交易していたからこそ 色々発掘されてるわけであって 貿易にも文章が必要だったわけです >>844
ぶっちゃけ統一王朝ってわけでもないし邪馬台国だけならそんなに人々の情熱を掻き立てる事はなかったろうね
卑弥呼という存在が加わることでなんかこう神秘的な輝きを持ったテーマになるんよね 日田だとしたら投馬国はどこになるんだろう。福岡と日田を直線で結ぶと
かろうじて南といえなくもない。途中の朝倉に平塚川沿遺跡がある。
だがこれだと福岡からの陸行になってしまう。
福岡から水行で川を南下するとすると久留米にいきつく。投馬国に相応しい広さもある。
だがそっから筑後川を遡上して日田に向かうと方角が東になってしまう。 >>854
邪馬台国は明らかに統一政権じゃない。
大和朝廷からいままで続く天皇家政権より前にあった地方政権。
問題は九州説でも畿内説でも大和朝廷設立に絡んでくる可能性があるということ。 魏王に与えられた鏡なんだから、
倭王に与えられていても何も不思議ではないと思うけど 鏡の一枚くらいは曹操クラスでなくても持ってんだろw >>855
宮崎の下の方にトウマって地名あるよ
あと邪馬台国は熊本の上の方だと思う 鉄鏡が日田で出土したと信じ切ってるやつがこんなにいるとは驚き 魏志倭人伝の原本は無く写本しかないから誤字もいくつかある
投馬国=殺馬国=薩摩国 >>862
薩摩大隅日向の3つはもともと全部日向だったこともしらんとそういう電波を・・・ >>863
アホか?
魏志倭人伝の当時のサツマ国は今の鹿児島県西部
鹿児島県西部が日向だったことはない >>742
たぶん以下のような南北対立状態だったんじゃないかと思うけどな。
天智:反紀伊半島(新羅とパイプを持つ勢力に頼った)
天武:親紀伊半島 >>747
天照大神を東の海に面した地域で奉るような風習があれば、
その時代まで待つ必要があったろうな。 赤壁の戦いで諸葛亮が東南の風を吹かせたのは、卑弥呼に秘法の書を貰ったから >>758
そういや、なんで大和王権でなくヤマト王権なんだろうな?
当時カタカナ使ってたって話もないんだから
カタカナで当てようが漢字で当てようが条件同じはずなのに。
まるで外来語感出して渡来系民族の王権感出そうとしてるとしか思えん。
大和王権が嫌ならせめてやまと王権にしとけよと。 持ってくる時に、輸送してた奴がくすねたりしたんだろう
多数出土したならわかる >>866
蘇我対反蘇我じゃなくて?
蘇我が東海に基盤をもってたんじゃない?
皇子の名前の付け方からして 邪馬台国
卑弥呼
俺ら漢字をそのまま日本語として読んでいるけど、当時の中国読みじゃないとダメだよな
倭国の使者が口頭で答えた国号と王名を漢字で当て字した訳だろうから >>830
822がこういうスレに常駐してる歴史無知のコピペ工作員かどうかは知らないが
そのコピペに出てくる海人は朝鮮半島中部まで制海権を持っていて半島に攻め込んでいた
縄文系と弥生倭人の融合海人
現在では文献史学でもその海神が青銅祭祀を持って西日本から北陸や美濃や中央アルブスまで
弥生後期には到達していたといわれている >>759
畿内及び周辺地域にとっては天照大神は日本建国と同時に入って来た新しい神だろうな。
天照大神より古い神々は多々存在し、天皇家によるランク付けにも縛られないだろうし。 >>873
そもそも縄文時代に北海道から沖縄まで航海していたのに、理解に苦しむ >>763
呉は地方行政区でその長官に使いを送ったんじゃないかと推測するかな。
まだ中国皇帝に謁見するような地域単位とは認められてなかったみたいな。 縄文時代には三内丸山で高床式建物があったり、北海道でごほうら貝の腕輪や
東北のほうで朱があったり、八丈島で縄文土器とかサヌカイトとか出てくるんだよ。
弥生時代に渡来人が来て初めて航海できたみたいな認識はいかがなものか? そもそも邪馬台国をフォクォタァみたいに呼ばれてて、当て字したのがいまの博多 >>120
もっとまともに田んぼから出たことを考えろ >>884
遺伝子解析がすすみ、渡来系弥生人などというものはいない事がどうもはっきりしてきた現在
渡来人→九州→日本全体
という流れも崩れたんだよ。 代わりに分かってきたことと言えば、弥生時代に日本人がどうも大陸から女を連れてきてるらしいということだ。 >>772
古墳時代以前に有明海干拓した形跡あるの?
それ以後なら、たぶん畿内と周辺地域、中京地域、関東に平野部面積で劣ってるため、
強引に平野部拡大しようとしたのが有明海干拓じゃないかと思うが。 この曹操の鏡から分かることは九州が王手をしたことは間違いないだろう
畿内ありきの畿内派には何が出ても何を言っても無駄ではあるがな >>786
地域を牛耳ってた叔父、叔母たちとうまくいかなくて新天地を求めたんかもな。 788
「イワレビコが持ち込んだ稲奈良湿地に立つ」やろな、たぶん。 >>788
「イワレビコが持ち込んだ稲奈良湿地に立つ」やろな、たぶん。 狗奴国の存在と神武東遷の整合性を考えれば
北九州にあった邪馬台国は北上する狗奴国に滅ぼされその後出雲吉備と東進征服していって大和に至ったとなる
神武東遷が虚構だとなるとヤマト王権が西進して出雲を征服したのち邪馬台国を滅ぼした >>874
天照大神は南洋系原日本民族が元から持ってる太陽信仰
そういう太陽神話の一部は半島にも流れたけどね 大和の豪族は母系継承していたらしいから、邪馬台国は大和だと思う。 >>885
朝鮮半島の周囲には超高速激流の対馬海流とかがないから陸続きの大陸民族に侵略征服され放題だったけど日本は激海流のおかけで朝鮮半島のような民族浄化が起きなかっただけで >>893
瓊瓊杵命が天孫降臨で日向の高千穂に降臨した後、定住の地を探しに九州をウロウロ。
居を定めたのは吾田の長屋の笠狭の岬。今で言う鹿児島県西部南さつま市。
つまりヤマト王権の源流は南方系海人族である隼人だったという事。 もう少し書くと、吾田は九州のほぼ南端にある。
後漢から金印を授かった奴国は倭国の極南にあると後漢書にもある。
邪馬台国よりも前の時代、九州南部が倭国の中心勢力があり、倭国大乱とはこの倭国からの反乱独立だったという事。
魏志倭人伝で倭奴国と呼ばれる勢力が隼人であり、邪馬台国は彼らに再征伐される。
だから隼人は日本史に残り邪馬台国は一切残っていない。 >>827
出雲の米所として福井・石川があった可能性は十分あるだろうな。
出雲経由で新羅と太いパイプを持ってたと推測するかな。 >>792 ただそれを倭人が理解してなかった可能性が高いのと
儀式で反射させて使った際には反射光の大きさと
銅鏡の凹凸でできる光の模様が重要で こんなの↓
http://ancient-megalith.info/wp-content/uploads/2014/02/20140130_yomiuri_np_himiko_1.jpg
倭人の巫女からみて大分ののっぺりしてるこれは
みがいても模様がでてこなくて
あまりよいものではなかった可能性がある >>829
日本の中で親百済派と親新羅派が対立してたんじゃないだろうか。
九州は親百済派だったろうが、親新羅派が足を引っ張ってたと推測するかな。
親新羅派は唐ともつるんでた可能性も濃厚に思えるし。 >>832
漢字が普及していたから、万葉仮名とか、あんな変な漢文で記紀を書いたんじゃないか? 当時の倭人は三角縁神獣鏡の意味もわからず
鏡面を磨いて反射させたときの模様が複雑だという理由で
好まれて複製品が多く作られたんだとしたら
この大分ののっぺり銅鏡はあまり人気がなかったということになる >>893
大和王権が西進して邪馬台国を滅ぼしたと思うな。
日本書紀を編纂したのちの大和朝廷は卑弥呼の事をよく知らない。
記紀は狗奴国の物語だな のっぺり鏡を反射させた場合の民衆の反応 → ふ〜ん
鏡面は平らなのに反射光から模様が出た場合 → すげえええええ
倭人ちょろい >>848
人が移動した可能性を示してるんじゃないの?
出稼ぎで。 >>908
無い無い
>>822のとおり九州が畿内を征服した
考古学的にありえるのはそれだけ、逆は無い >>904
なるほど。
岩井は親新羅だったと思うがいろいろ利害が複雑に絡み合う感じだったんだろうな 邪馬台国なんてなかった
ヤマト国に音を当てただけだ 神武東征ってのは
九州が畿内を征服したが同化されたって話なのかね
なんか征服って言葉の禍々しさがイメージに合わないんだよな
じゃあ国譲りってなんなのってなる >>915
神武天皇は吉備で初めて兵を整える。
大和王権の発生は出雲で吉備を抑えて畿内に進出したのかも 魏志倭人伝に、不弥国(ほぼ間違い無く福岡近郊)から船で10日で投馬国、さらに投馬国から船で20日行き上陸して1カ月歩いて、やっと邪馬台国にたどり着くと書いてあるのに、未だに邪馬台国北九州説が存在することが信じられない。
魏志倭人伝に書いているルートは瀬戸内海または山陰の海岸沿いに奈良へ行くルートだ。
ただし著者の陳寿が実際に行ったわけではなく人から伝え聞いた情報だから正確な距離や方角はいい加減ではある。魏志倭人伝に南へと書いてあるが正しくは東なのだ。
とにかく邪馬台国は不弥国からは船で何日も何日も行って、さらに上陸して何日もかかるぐらい遠くにあると言うことだ。 >>915
出雲の国譲りは
出雲を征服した事を言い換えてるだけだよ
国を奪ったけど相手から譲ってもらったという事にしている
カツアゲの理屈と同じ >>907
畿内の鏡は磨いてない模造鏡。
副葬専用品だよ。 >>911
考古学的には大和が九州を支配しただろ
土器は東から西に広がっている >>921
土器は単なる貢物の容器
つまり畿内が九州に朝貢した跡に過ぎない >>918
現代の舗装された道路をイメージするからそうなるわけで
獣道に毛が生えた程度の道しかないのなら1カ月かかってもたいして進めないぞ
トンネルなんて無いのだから山越えするときははるかに遠回りをすることになる
否定ばかりせず
そういう事を想像すると楽しいよ >>920
蛍光X線分析で三角縁神獣鏡の舶載鏡とされていたものは魏・晋時代の中国鏡と同一成分である事が分かっている >>922
馬鹿か
年代ごとに徐々に西に移動してるんだよ
つまり人の移動を示している >>924
鋳つぶして複製すれば同じことなんだが
なぜそれが分からないんだ? >>921
大和朝廷の初期メンバーが九州人ばかり
諦めろ
> 572 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 23:52:09.84 ID:k2WzL2jE0
> >>563
> 古代の九州出自の人々
>
> ・神武天皇(初代天皇)
> ・物部氏(大連:大和朝廷のメインプレーヤーの一角)
> ・安曇氏(海人の宰:伊都国王の一族、古代の海上交通の支配者)
> ・尾張氏(尾張国造:東海の支配者、安曇氏とは同祖氏族)
> ・倭氏(倭国造:大和地方の為政者、安曇氏とは同祖氏族)
>
> これだけのメンバーが九州に揃っちゃってるのに、邪馬台国は畿内ニダ!とか言ってる人たちはきっとオツムがご病気なのだろう >>926
地方の人が東京へ集まっていくように
古代の人も少しずつ中央になる九州へ移動してたという事じゃないか? >>927
国内で作られた鏡は様々な鉱山から産出された銅が混じった結果が検出される
倭国内には鉱山がなかったので輸入物の古いものや新しいものを溶かして作った事を表す
三角縁神獣鏡の銅は魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと同じものが使われた分析結果が出ており
これは三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡である事を示すもの
これを積極的に否定する物は今のところ見つかっていない 三角の縁があることで指が鏡面にかからず持てるので
反射光がきれいな丸になるから巫女たちに好まれたのかも三角縁神獣鏡 >>924
だから銅鐸をリサイクルして作ったんだろうと言われている。
同時期同型の鏡なのに成分が一致しない。 >>930
違うよ
日本国内で中国から輸入された銅鏡を鋳つぶして複製しても分析結果と同じ結果が出るんだよ
国内で鋳型も出土してたんじゃね?
鋳型の修正した痕跡がある同じ銅鏡が離れた古墳からも出土してたんじゃなかった? >>929
古墳の様式も畿内のものが広がっていってるからな >>897
侵略されたと言えば語弊が出るだろうな。
農耕を持ち込んだ渡来人が縄文人の協力も得ながら混血を繰り返し、
人口を増大させてったってとこだろうな。 >>2
偉大な朝鮮王朝も簒奪したクソチョッパリなら平気でやるだろうな
戦中に中国で侵略した可能性は十分にある >>933
なんでそんなことをした証拠がないのに
そんなことが言えるんだ >>934
九州の人が東京へ引っ越ししても
実家の宗派と同じなんじゃね?
俺の実家は天台宗だが
俺が何処に引っ越しても天台宗のままだと思うよ
特に思い入れはないけど >>898
高千穂の位置によってはそういった可能性も考えられるかな。 >>938
なんで支配してる方が支配されてる方の様式を真似るんだよ >>937
鋳型が出土したんじゃなかったか?
鋳型にひびが入ってて、ひびが入ったままの鏡と、鋳型を修復した痕跡がある同型の鏡があるとか
そういう話があったと思うが >>940
なんで?
古代日本は民衆を宗教で統制してたのか?
現代日本は中国製の食器が多いけど
それをもって日本は中国に支配されてると言い張るわけか? >>912
岩井って因幡でよかったんだっけ?
そうなら、親新羅派だろうな。
親百済派、新新羅派、親紀伊半島派、他にもいろんな小勢力があったかもしれんしな。 九州ってほんと馬鹿しかいないな
同じ事ばっかり言ってるな >>915
国ゆずりは出雲が神武東征を許可した話、
征服したのはほんの一部で、銅鐸文化圏との共存が長く続いたと推測。 畿内説も同じことばかり言ってるけどな
・学者のほとんどが畿内説だ
畿内説に賛同してないとハブられるから
学問としてではなく生活として畿内説に賛同してるだけ
・九州説は韓国を兄と考えてるザイニチが主張してるんだ
議論の放棄だな
・纏向で桃の種が出土した
桃くらいどこでもあるだろ
畿内説って基本的にこんなのだろ >>946
もうすでに論破されてることを何度も言ってるだけだろ九州の連中は >>933
国産鏡はいろんな銅製品を鋳つぶすからブレンドされてしまい、
成分分析の数値が毎回異なるんだよ
デマはダメ >>946
そんなすぐバレる嘘を捏造してでも、中傷したいんか >>947
その認識なら畿内説も論破されてることを何度も言ってるだけだぞ >>948
なんでブレンド前提なの?
ブレンドしなきゃいいんじゃないの? >>940
古墳の様式の話なら委託した事業主に設計も任せたんだろう。 畿内は唐古遺跡があるから
→ 約2000年前の環濠集落遺跡で、その規模は約30万uで近畿地方では最大、国内でも吉野ヶ里遺跡に次ぐ
https://plaza.rakuten.co.jp/utiwauke/diary/201808150000/
卑弥呼とは別物の王国が会ったのは明白 ヤマトはここから始まった >>950
お前エラは何を論破したんだよ
主要な論点は何も論破できないだろが >>951
鏡1枚作るには1枚分の銅が必要
すでにある完鏡をわざと割って鋳つぶす理由がない >>955
キナイコシが論破したのってあれか?
他人の意見を否定するため、古墳時代の大和を堤防も築けない未開の地だと言い張ったやつか? >>956
デザインが気に入らなかったんじゃないか?
理由なんていくらでも思いつくだろ >>953
こうやって九州説は最終的に、ヤマト王権の存在さえも否定する
いったいどこの国で教育を受けてきたのか 九州が玄関だったことは間違いないな
首都はあったのか >>960
別に否定してないが。
そのカタカナで書いてるのは気にくわないが。 >>960
九州説と言ってもいろいろあるからなぁ
それを全部ひとまとめにして論じるからおかしくなる
畿内説にも纏向だったりその他の地域だ他t利するんじゃないの?
箸墓古墳が否定されたら畿内説は消滅するの?
違うんじゃないの? 「奈良時代以前の、在位が歴史的に確実な諸天皇について調べると、300年以上の期間、天皇一代の平均在位年数は、11年足らずで安定している」
「11年足らずという数字をもとに、『古事記』『日本書紀』の伝えるすべての天皇が実在していると仮定し、神武天皇の5代前と伝えられる天照大御神の活躍年代を統計的に推定すれば、天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とがほぼ重なる」
https://ironna.jp/article/4548?p=2 「その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である」
「天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている」
「九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある」
「1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている」
https://ironna.jp/article/4548?p=3
※1992年以前の知識だと、甘木朝倉には大きな遺跡がないと思われていたわけね >>964
カッコいいからそれにした
じゃ理由としてダメなのかな? >>964
それイコール大和の政権範囲だというのは否定するかな。 >>965
神武東征は西暦300年前後の史実と聞いたが間違ってないんだな。 「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している」
「邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」
「邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、ともに認めている」
「図4のようになる。朝倉市がトップである」
「『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない」
「ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる」
https://ironna.jp/article/4548?p=6
※ホノケも箸墓もここで脱落 >>968
だよな
現代では世界中に中国製品が出回っているけど
だからと言って中国が世界征服したわけじゃないもんな
それと同じだと思うわ >>964
じゃ、逆に前方後円墳じゃない所は大和の勢力範囲じゃなかったのか? 「『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない」
「例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している」
「図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる」
「現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」」
https://ironna.jp/article/4548?p=7 >>954
でも徴税の証拠になる土器は九州に流れてるから
所詮は九州に支配されたくそざこ文明なんだよな >>959
分析結果を認めたくないから、でまかせで話を作ってるだけだろ?
基本的に当時の鏡種はすべて日本でも出土するが、どの鏡種を日本人は嫌ったんだ?
デザインが気に入らないなら最初から買わないはずだが >>963
九州説には頭のイカレた古田武彦による九州王朝説信者がいるのがネック で、結局卑弥呼って何者なの?ニュータイプみたいなもん? >>968
日本古代史の通説を否定するなら、自分なりの根拠を示してくれ >>978
かつてはゴッドハンドのねつ造が通説だったこともあるわけでw
ゴッドハンドの片棒を担いでたやつが畿内説でもあるわけだし
あやしいわなwww >>976
なるほど
そういえば九州王朝説とかあったなぁ
短里も放射説もなぁw
そうじゃない九州説もそれらと同じだと思われるから困るわな >>973
安本のインチキに簡単に騙されるやついるんだなwww
まあ考古学者は全員捏造やってるとでも思ってるんだろ?
古い知識と乏しい知識の安本こそ正しく、考古学者たちの捏造を暴く正義の味方と思っていればいい >>978
少なくとも、九州に関しては人も流れた形跡があるって話らしいんだから、
設計者・現場監督以外の土木作業員も随行した、
要するに事業委託を受けた出稼ぎがどう見ても一番しっくりくるじゃん。 曹操の鉄鏡の破壊力は半端ないわ。黙りを決め込む畿内論者が増えたんだってよ♪ >>945
うん、そんなイメージ
日本国内の戦、とくに古代の戦って大陸みたいに殺し尽くすまでやる苛烈なものじゃない気がするのよね
そこそこの所で勝負が付いたと思ったら手打ちにして序列をはっきりさせて終わり、みたいな
征服ではなく国譲りとしたのは方便だろうけど
やはりそういう事にするのはそういう美徳観念があったからだと思う >>982
それはお前の勝手な妄想であって、「根拠」ではないわな(苦笑) この論争ってなんでもめる話になるのかがわからん
邪馬台国は九州だったとして、
・その後、その九州勢力が今の近畿に移っていく日本の原型
邪馬台国が畿内だったとして、
・そのまんんま現代まで続く日本の原型
どっちでも同じ話になるのではないか
もし対立軸になるのならば邪馬台国が今の日本とは関係ない、
まったく別の国や民族の話、という場合のみ
しかしその場合は、そんな関係ない古代の国の話に夢中になる
意味がまったくない
結局、このネタで村おこし、くらいの地域同士の争いなのかね? >>982
具体的に書いてくれ
抽象的過ぎてさっぱりわからん
それと、ヤマト王権が存在した証拠をどう考えているのかも >>987
土木工事とか建築工事は
素人がなんの勉強もしなくてもできるようなものじゃないんだよ
中央政府が設計図だけ渡して地方の人間にいきなり作らせるようなことも当時できるわけがない
墳墓を作ることができる特殊技能を持った現場監督らしき人物が存在したという事だと思うよ 倭寇だの卑弥呼だの、時代がバラバラ過ぎておかしいだろ。
せめて時代くらいの整合性をつけて書き込めよ。 >>989
そうだな
とりあえず1つ書いておく
弥生時代を全期間で通算して、九州に鉄が多いと見せかけるインチキ
古いデータを使い、畿内で鉄が出てないように見せかけるインチキ
そこにある安本のインチキは全部見破ってるよ
もうスレが終わりだからインチキを暴けなくて残念だけど なんでも邪馬台国にくっ付けようとするのがアカンのやろ
中国が良く認識していなかった大勢力が関西にあっても不思議じゃない 普通は遺跡があって、後から説を作るもんだろうが、
安本の場合、先に推理があって、後から平塚川添遺跡が見つかっているよね
>>992
じゃあ>>970について反論してくれ >>987
ヤマト王権が存在した証拠って具体的に何なの?
僕が思ってるのは銅鐸文化圏消失後、出雲と同盟を組み、
大和の勢力範囲が一気に拡大したと思ってるだけだけど。
出雲との同盟は近年発見された考古学証拠も矛盾してないみたいだし。
一応、考古学的根拠からも出雲→大和→日向までは繋がったと思ってるくらいかな。 >>990
だから中央から派遣されてたんじゃん
自分で書いている通り >>996
中央から派遣されたのか?
契約書ないのに分かるのか?
地方の変わったデザインの墓が流行しただけじゃないの?
違うの?
否定できるの? >>994
1. 「棺あって、槨(かく)なし」は庶民の墓制について書かれたもの
2. ホケノは槨という用語が使われているが、中国の槨とは違う
同じ漢字で、違う意味 このスレッドは1000を超えました。
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