【京都】最古級の前方後円墳に石室、向日で出土 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓説ある箸墓古墳に酷似
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最古級の前方後円墳とみられている五塚原(いつかはら)古墳(3世紀中ごろ)=国史跡、京都府向日市寺戸町芝山=の後円部から石室が出土したと、同市埋蔵文化財センターが発表した。墳頂を掘り下げた竪穴式(たてあなしき)石室で、壁面に川原石のみを積む工法が採用されていたことが判明。時代最初期の大型前方後円墳の石室が出土すること自体珍しく、同市文化資料館(同市寺戸町南垣内)で開催中の展覧会で出土した遺物などとともに調査成果を紹介している。
五塚原古墳の形は邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)の墓といわれる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)に酷似する全長約90メートルの前方後円墳。保存目的の範囲確認に伴い昨年7月から11月まで、後円部の墳頂部約100平方メートルを調査した。(続きはソース)
9/17(火) 8:23配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190917-00000507-san-cul
https://amd.c.yimg.jp/amd/20190917-00000507-san-000-1-view.jpg 卑弥呼が誰か、を比定しないかぎり永遠に結論は出んやろうなあ 天皇家は九州にも大和にも拠点あって重要視してた
これは史実上中国貿易を重視してた結果だよな 魏志倭人伝の共通する文章
○○があって、△△がない → ○○があって、△△もある 京都って平安京のイメージが強いけど、元伊勢とか初期古墳とか、凄く古い土地だよね。 はりこ池の裏山かい大牧という軽めの被差別地域の近所w >>1
箸墓が卑弥呼の墓と言われてる?
いまどきそんなトンチンカンなこと唱えるアホ居ないわ 其死有棺無槨 封土作冢
その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。
人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。
つまりね、卑弥呼の墓には石室はないんだよ。つまり前方後円墳には全て石室がある。
ってことは、前方後円墳は全て卑弥呼の墓じゃないってこと。 ここ、四世紀の古墳だろ
いつから三世紀に繰り上がったんだ? 前方後円憤は物部の墓。王に姫をあてがい裏で操るシラギのやり方。神武も開化も嫁はシラギ二人三脚姫彦制は表の顔で実は彦彦制。室に入りて矛を操る。 >>26
うちの近所に高尾山古墳ってのがあるけど、当時日本を縦断する道って
中山道の元しかなくほぼ陸の孤島状態だったのに出土品は各地のモノが出て
年代も長期に及ぶらしい。でも東日本では最古級だって。
おかしな話だよな。結果から推測するにもっと以前から文化や風習が入ってきて
伝わってきた元の地域がもっと昔にあるべき >>2
本当は ひめみこ だったが,魏の役人にうまく伝わらなかった
という説を読んだことがある.そうだとしたら ヒミコ は固有
名詞ではなかったかもしれないということだった.
それにしても乏しい資料で説を立てているからいろんな話が飛び
交っていますね. 京都は工事するとそこかしこに遺跡あるから、遅れるし見つけたらそのまま壊して埋めるケースが多いそうだ みんな前方後円墳のネーミングは納得してるの?
前円後方じゃね? 違うよ
単に巫女さん
それに卑しいという意味をつけただけ
壹与は正しく伝えられた名称だけど
卑弥呼は魏側のただの当て字 弥生時代の文献は中国にしかないんだよな
卑弥呼もなにか文献残してくれてりゃよかったのに >>8
【無理筋】
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u >>30,34
魏志倭人伝は中国の書物。
「ひめこ」や「みこ」と聞いて、卑弥呼の文字を当てるはずがない。
姫、日巫女とかの当て字説は元々の根本から大間違いの単なる空想 >>1
邪馬台国論争は畿内で決着済みです
九州説は学術的根拠のない俗説に過ぎません
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 最近の古墳は出てきた土器の時代比定が上がったんで
昔よりより古く算定されてるんよなー >>36
伊都国や奴国ならあった可能性は十分あると思うんだが、
燃やされちゃった可能性が高いんかもな。 >>34
地上からの目線だよ
入り口に立って、手前にあるのが方、後方にあるのが円 >>34
主体部が円部で、そこを祀る催しなりをする場所が方部だから
祀る方から見たら、方部が前で、円部が後ろになる
だから前方後円墳てのは合ってる感じ >>1
>石室内には木棺が収められていたと考えられ、室内の高さは現状で約1メートルだが、
>床面までにはさらに1メートル近くあるとみられる。
>堆積土の状況などから盗掘はなさそうで、床面には銅鏡などの副葬品が残る可能性もあるという。
せっかく調査したんだからあと1メートル掘って確かめてもらいたかった
土が堆積しただけならそんなに難しくないだろう >>11
九州にも大和(畿内)にもそれぞれ王朝があって、大和王朝が九州の王朝を吸収合併したのじゃないのかなあ >>2
どれが本物かはともかく
邪馬台国の研究者の大半は嘘つきって言うのは確定 ここの3世紀中ごろっていうのは信頼できるの?
箸墓が卑弥呼の墓とかいいだしたころよりあとに変わった年代測定はあんま信用できんし。 (-_-;)y-~
偽朴さん俺が塾講してた近所やん。 ヒミコはヒメコと発音した可能性があるそうでオメコと関係ありそう >>52
元から四世紀の古墳と言われてるのに
今になって三世紀になったw 当時大和と出雲をつなぐルートはどこがメインやったんやろな。
京都盆地を通って陸路で日本海まで出るルートやったんかな? 卑弥呼って何がそんなにすごかったの?
なぜいつも話題になるの? >>59
中国の史書に載ってて、奴国は比定済みみたいな感じがあるから、
次に古い邪馬台国はどこか、その主要登場人物の卑弥呼は誰かって
興味を引いてんじゃね? 日本海の方かと思えば内陸。平安京の西南じゃん。
しかも前方後円墳。
卑弥呼は円墳だ。もし違うなら魏志にそう書いてる。
卑弥呼よりかなり後のものだし、九州以外はなんちゃって説よ 魏志倭人伝によると、倭国の墓には、棺はあるけれど槨室はないそうです。
つまり、同時代に槨室のある墳があれば、そこは倭国ではない。 埴輪が出たみたいだから違うんじゃない
卑弥呼の墓は殉葬らしいから 今のところ調査できない天皇陵調べたら殉死の遺体がゴロゴロ出てきたりしてなw >>64
その辺の連中と仲良かったかどうかも関係するかもしれんしな。 >>13
AdSenseに通報したらバナー消えるんだよねw >>70
邪馬台国論争にの話?
でも、あれ直線距離で話してるから説得力に欠ける。 「邪馬台国」が「女王国」なら「狗奴国」は「男王国」だね。 倭人伝では福建の真東ってあるし地理的に台湾かも
古墳に金山、卑南族の巫女だから卑弥呼かも?とかあるある説 畿内説の人は邪馬台国と大和朝廷の関係をどうみてるのかな?
邪馬台国→大和朝廷なのか、大和が邪馬台国を滅ぼしたor征服した、なのか
前者なら男系継続との大きな矛盾が生じる
後者だと神武東征の時期は4世紀以降ってことになる 優れた建築文明を保有する渡来人が指揮し、頭数と単純労働だけがいっちょ前なクソジャップがドカタ作業をしてたんだろうね
歴史のロマンやわぁ、韓国にカムサハムニダ。 >>1 >>2
パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ( ネット工作の在日朝鮮人)がわきまくってるしな。
日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら凶悪レイプ性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
チョンポップの人気偽装を繰り返してるのもこいつら在日朝鮮人・帰化人。
在日 朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨( ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. >>2
卑弥呼と言うくらいだから、卑しい女と言う事 >>62
山城は秦氏が居たと言われるが卑弥呼と入れ替わりぐらいの時期から。
つまり箸墓遺跡は秦氏のものの可能性がある 近畿って墓ばっかりで金印みたいな国宝級のお宝が出てこないよね >>15
向日市は被差別地域無いぞ
大牧やはりこ池のどこが被差別地域やねん
ヤニ濃い京都市と違うんやうぇい
住むにはどこ行くのも便利過ぎるねん >>81
元は山奥の奈良湖畔の霊地だからな。
鉄の導入も遅かったのは戦がなかったから。
つまり大きな紛争が起きるほど人が住んで居なかった。
弥生時代までは水運の便利なところが栄えて人が集まった >>81
墓は大抵盗掘済みだしな
ただ未盗掘だとお宝の山の場合もある もうご当地ヒミコってことで各地にヒミコがいたってことにすればいいじゃん 石室がある時点で箸墓にしろ卑弥呼の墓ではない。
卑弥呼の墓は槨が無く棺のみで土を盛っただけの塚であって墳ではない。
箸墓は馬具が発掘されているから早くても4世紀。
5世紀なら畿内の他の古墳との辻褄が合う。 邪馬台国は四国
倭の中心は九州
大和は近畿
これら全部別の国 >>23
いつまで古い編年頭着けてるんだ
早く切り落として新しいのと取り替えろよw >>55
兵庫県にはオッコウ山(さん)とメッコウ山という山が並んでいて
ふたつ合わせてオメコ山
京都の小娘曰く「なあ、なあ、お母ちゃん
お賃(チン)におマン買(こ)うてーな」
おマン=まんじゅうの丁寧語。 大阪城の下の石山本願寺のさらに下にあると言われている古墳掘り起こしてぇ >>34
円がお墓、方がお墓の前の祭壇、だから前方後円墳 >>89
箸墓より古い形式のホケノ山古墳さえ四世紀だもんな
箸墓は五世紀だろ
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 >>1
そもそも3世紀中頃と言うのがおかしい。
前方後円墳は5世紀前後。
それ以前は、円墳か方墳となる。
年代測定きっちりやった方が良いんでないかい? うん?何がなんでも箸墓って事で特定したんだろう。なんでブレたの?www
やっぱり畿内説っていい加減だね。こんなんじゃ、予算も出なくなるはずだw >>82
便利なん?
駅は小さい、道は狭い、商店街は死亡寸前、人はセコい。
向日市ってそんなイメージだった。 とりあえず邪馬台国を考えずに各地の遺跡を精査してみたらいかがですか。 >>89
誤解しやすいところだが、有棺無槨は当時の邪馬台国の一般庶民の風習の記述であって
卑弥呼の墓に付いては、径百余歩と殉葬者百人としか書いてないのよな。
当時の一般人の埋葬といえば、精々甕棺に入れるだけで槨で覆った埋葬なんてまずない。
そして女王の墓が一般人と同じな訳もなく、有棺無槨を卑弥呼の墓の要件に入れることはできない。
また94のコメントもあるが、現在前方後円墳と呼ばれる鍵穴型の古墳も塚の部分は円形部分であって
方形部分は厳密には墓そのものではなく斎場である為、円墳でなければ卑弥呼の墓ではないとも一概に言えない。
魏志倭人伝の記述には不明確な点が多すぎて、何も断定的には話せないよ。 >>1
九州説はたんなる町おこしイベントでやってるだけで学会では誰も信じてない 箸墓と同じってことはこれも大王級ってことになるの? 脈々と続いているならいまも前方後円憤だろ、忽然と現れた支配者連中の墓だよ、それ以前は滅び、物部と共に前方後円憤は消える。この時代のスポンサーだな。鉄で稼いだ半島連中が新たな場所を探してたんだろ?今も稼いだ中国人連中は北海道を買ったりしてる >>102
まず橿原周辺で神武東征の痕跡の年代を調べ、
次に孝霊の黒田廬戸宮とその周辺を調べ、唐古・鍵遺跡の変化と一致する年代を調べて欲しいかな。 >>94
命名の理由は地面に立って横からみた形が牛車に見えて
前の方部が引手、後ろの円部が車体に見えることからだそうな まあ宮内庁ガードがある限り古墳の類は絶対に解明されることはないからね
日本の正統性を維持するために必要なことだから仕方ないね >>1
古墳って古い古墳群は九州、比較的新しい古墳群が畿内にあるイメージだけど、どうなんだろ >>109 の続き
次に可能なら、百舌鳥野にある古墳を調べて、天皇と年代確定して欲しいな。 >>115
仁徳天皇陵は掘っても天皇や年代は確定できないだろうな ウヨ的には魏から蛮族扱いされている邪馬台国がヤマト王権につながっているってのは許せないんじゃないのか?w >>103
一般庶民と限定されてるわけでもないだろ。
一般庶民だけかもしれんし、支配層含むのかもしれんし。あなたの言ってることは決め付け。 >>121
庶民の墓に装身具や剣、鏡なんかがある訳ないし、棺の素材も違って当たり前。
槨の有無に違いがあっても当たり前だよ。 >>11
1550年から
大韓帝国の本拠地になった歴史を持つ
この為、大分県の一部地域以外、朝鮮人が多く生息している 史書には「槨無し」と記述されているのに、ことごとく石室(槨)を持つ前方後円墳を候補に上げる畿内説は池沼。
印象操作による歴史捏造だ。 >>125
だからそれは卑弥呼の墓の記述部分ではなく、庶民の暮らしの記述部分だよ。
魏志倭人伝をちゃんと読めば、書いてる部分が全然違う事くらい誰でもわかる、、
庶民と同じ作りの墓でない支配階級の墓なんていくらでもあるし、寧ろ庶民と同じ墓の作りのはずがない。 >>126
お前の想像とか意見じゃなくて文献的あるいは科学的根拠を示せよ。 >>80
卑弥呼の鬼道は五斗米道との関係も指摘されてるけど、共立された女王が秦氏などの大陸系という可能性はないのかね 横レスだが、確かに魏志倭人伝では「其死、有棺無槨、封土作冢」は一般の風俗の
ところにあるから、卑弥呼の墓に槨があってもおかしくないよ。槨があるから卑弥呼の
墓じゃないと断定することはできないって言ってるだけでさ。 >>131
卑弥呼の墓じゃないとは断定できないという以前に、卑弥呼の墓だと想定する理由が無いだろ。
史書には埋めた場所は書いてない。
棺を埋め土を盛るのは一般人の墓だとも書いてない。 「其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒
已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」
有棺無槨の部分にこう書かれている
喪にとどまること十日、埋葬が終わると、一家で水に入りみそぎをする
たった十日で径百余歩の墓は造ることは、絶対に不可能
卑弥呼の墓に関しては、別途記述があるんだから、この部分は庶民の葬制についての記述
またこの前後の記述も、父母兄弟は別々の寝るとか、持衰の風習とかが書かれていて、これも庶民の風習
有棺無槨の部分を王族に当てはめるのは、畿内説にイチャモンつるための曲解
しかも、竪穴式石室は中国人の概念での槨ではない 宇佐というか豊前は渡来系の本拠地だな
香春神社の赤染氏然り 魏の時代の石槨墓と竪穴式石室はほぼ同じものに見えるんだが「中国人の概念での槨ではない」って考える理由を聞きたい 九州説のやつらって、有棺無槨みたいに一般人の墓について書かれた部分を
卑弥呼の墓のことだと解釈を捻じ曲げるくせに
径百余歩みたいに卑弥呼の墓について書かれた部分は、都合が悪いからガン無視 日田の伝承+曹操の鏡で決着はついている。邪馬台国は九州。
畿内は大和王権だ。 >>138
何処にも書かれていないことを勝手に想像して断言までしてるのが畿内説。 少なくとも邪馬台国の都=纏向には説得力がないな。
纏向に宮があった頃は銅鐸圏は大和に従ってたろうからな。
魏との交流や狗奴国との戦を記紀に書かなければ元銅鐸圏の豪族がおかしく思うだろう。
独立王朝だった九州併合時前後に記録を燃やしたと考えればしっくりくる。
大和政権下では極一部の者しか知りえず、九州が騒いだところで負け犬の遠吠えにしか聞こえない。 >>138
畿内説は径百歩しか見ていないw
大きさのみで卑弥呼の墓だと騒ぐのは病気だろw
■卑弥呼の墓に関する記述
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」
墓は大きく造り、大きさは約径百歩、殉葬者は100人余り。
・箸墓というか前方後円墳において殉葬の形跡は無い。
■卑弥呼死後の状況に関する記述
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」
男王を立てたが国中が不服で殺し合いに発展し、1000人余りが死んだ。
・箸墓近辺の纏向遺跡に、戦乱の痕跡は見られない。 現代でも、重要な記録は念のため石とかに刻んどいた方がいいんかもしれんな。 面白いな
最初期から古墳の規格性が存在していたことが分かるな
箸墓の設計を基準に各地の古墳が作られた様相が見える
古墳の築造が大きな意図をもって広められてるのが見えてくるな これが3世紀中ごろと本気で考えてる学者はいるのかなあ・・・
地方の古墳群だと、最古が250年で次が400年頃とかになってしまうから、
最古を350年以降にしないと無理ありすぎ。
この古墳も360年以降だろ。というか、箸墓もその頃だろうに・・・
プライドを捨ててストリーキングをする学者が多すぎ。 箸墓と同じ構造を持つ古墳がここだけってのが興味深い
箸墓登場の頃にこの地域に大和の政権と密接なつながりを持つ勢力がいたのかな?
場所的にはここは土師氏との関係も古いから物語的にも繋がりが出て面白いな
土師氏は古墳築造の指導者として活躍してるからな
まぁこの古墳には埴輪がないけど 邪馬台国関連情報をもとに近畿を連想するなんてのは意図的精神疾患だろw
■魏志倭人伝に記された倭国の地理的情報
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
女王国の東の海を渡り約1000里でまた国が有り、それらも皆倭人の国である。
「又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
女王国から南に約4000里のところに侏儒国という身長1mほどの小人が住む国がある。
「又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至」
船で東南へ一年行けばまた裸国や黒歯国が有る。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
倭地は海に浮かぶ島々が連なり、あるいは途切れ、約5000里ほどで巡回できる。 >>142
纏向は初期大和朝廷。
畿内および東海に及ぶ銅鐸文明勢力の遺跡でそこの王は真実の崇神天皇。
神話でいうナガスネヒコや大物主神として扱われている。
そこへ300年前後に九州から侵攻してきた神武天皇に負けて政権交代。
ではないかな? >>1
邪馬台国や卑弥呼に結びつけるだけで
胡散臭くなるのは何故だろう >>149
吉備が埴輪のオリジンを主張してたけどな。
いろんな地方の特徴を取り入れながら形式が一本化してったんやろな。 どちらにしろ、当時日本に文字が無かったのがダサすぎる
中国さんが「ヒミコって女がいたよ」とメモっといてくれたから、ヒミコがいたらしい事がわかるだけで、
日本人は何にも書かなかったから、何にも残ってないw
やっぱ世界4大文明に入れてもらうには、文字がなきゃ駄目だよな
ヒミコの事なんて海外じゃ誰も知らないし この古墳群は播磨との関係も指摘されてるな
野見宿禰が播磨と関係があるのも興味深い
最初期の古墳造営に土師氏が関わっていたと言う伝説の関連が想起される 纏向は大陸との交流の跡が全くないため、素人目にみても邪馬台国とは明らかに別物。
交流がないため倭人伝には乗らない。
もしや倭人伝にある裸国や黒歯国とは纏向を含む銅鐸文化圏の国のことかも。
お歯黒をする習慣があったが銅鐸ごと東征により征服をうけて黒歴史にされてしまう。 >>154
埴輪に関しては原形は吉備で吉備勢力が大和朝廷設立の主要メンバーだったから説有力だよね。
現に神武東征の話で吉備に数年間滞在したことになっている。 それこそ吉備一族の墓だろう。曹操の鏡で悔しいのはわかるけど、いつもの無理矢理説じゃんw 古墳群と言われるように、墓は特定の地域に造られていたんだから、
墓のある場所=邪馬台国とは言えない。
纏向は出土品から見ても古墳造営基地だったというのが標準的見解となるはずだ。
学者絡みのバイアス報道で印象操作されてるんだろうよ。
畿内説を先導してるのが毎日新聞というあたりでお察し。 纏向の近くに同時代の前方後方墳もあるし、桜井近辺に豪族オールスターが集まってたのかもね これに続いて出来る古墳が前方後方墳なのも色々と想像が広がるな
同型の物が天理や播磨にも同時期にある
大和に連帯しながらも独自的な勢力がこの辺りに勢力を張っていたのが分かるな
箸墓と同規格の古墳を作るような勢力だから相当な実力のある豪族だった可能性がある >>159
墓の場所的には秦氏の領域だが、吉備も秦氏と密接な関係があるからなんとも >>152
僕はまず神武東征があり、孝霊(か孝安)の時に奈良盆地で勢力範囲を広げ
河内に至って瀬戸内海交易に足掛かりを築き、
開化(か孝元)の頃から銅鐸圏との交渉が始まり、
崇神で元銅鐸圏に広がる大和政権が誕生したと現時点では思ってるかな。
纏向はその後安定期に入ってきた時の都かな。
大物主は駐大和出雲大使で、大和と出雲でかじ取りを決め
他の元銅鐸圏は出雲にだまって従ってたんじゃないかと思ってる。
出雲に神々が年に1回集まる伝承はそういったことを暗示してるような気がするし。
大和朝廷と呼べるのは欽明の時になんちゃら博士が来た後の
どこかの時点からじゃないかなと思ってるかな。 まるで前方後円墳だけが古墳であるかのように勝手に定義してきた畿内説は、まさに韓国式歴史捏造術の産物であるw
角ばった前方後「方」墳もあるし、円墳と重なったものもある。
前方後円墳を古墳時代の始まりと定義した奴は意図的精神疾患だろw
https://i.imgur.com/49UBvoP.png この辺は丹波、播磨、近江とかとも近いからな
色んな豪族が入り乱れた要地
ここにごく初期段階から大和の影響の色濃い古墳が築造されるのは面白いな
大和の政権が拠点として重視していた様が想像できる
吉備や出雲との関連も多い >>167
北部九州をはじめ各地に類似の古墳が拡散してるのも、地方の有力者が桜井近辺に集まるか、あるいは祭祀の中心として重視していたからだろうな >>143
一般人が100人死のうが1000人死のうが、普通はそんな痕跡は残らない
卑弥呼の後の戦争は、国中と書かれてるのに
首都でも戦争があったと決めつけて、畿内説に文句つけてる
九州は古墳時代になるまで、大きな墓を造る文化がなかった
邪馬台国とは別の文化圏の地域だ 最初期の前方後円墳は宇佐にあり、日本最大の古墳群は宮崎の西都原なのに、比較にならない程の小規模な纏向を巨大古墳群とアピールする畿内派がバカ過ぎて泣ける。 >>57
纒向ゴッドハンド歴に合わせると他の遺跡も年代が狂っちゃうのか >>172
箸墓古墳の馬具が中国や半島のより古く編年されてる。
もう年代メチャクチャ。 記紀の歴代の王系譜と秦のちょう然坊主の年代紀を素直に尊重すると、卑弥呼は神武の前か後の神功だろ。前だとアマテラスか?アマテラスが朝貢してた上に卑呼ばわりされちゃあ困るわなあ。仲哀以前の王はどうとでもとれんだよ、兎に角誤魔化して書いてあるよね。 そもそもだよ、イエスのようなカリスマ的な神の声を聞き人々に伝え統治出来てんなら、魏に認めて貰う必要ないだろ。詐欺師だよな >>176
卑弥呼が具体的にやってた事って魏志倭人伝には特に何も書いてないんだよな。
ただ『事鬼道能惑衆』とあるだけ。
鬼道で人々を惑わせたと書いてあるが、具体的に何をやったのかまでは書いてない。
卜占は単に倭人の風習として書かれてるだけで、卑弥呼だけがやってた訳でもないし
星の運行とか暦とか、シャーマンとか巫女とかは全部の魏志倭人伝にない後世の空想なのよね。 >>174
誤魔化すというよりは古い話すぎて前後関係がごっちゃになってる感じ。
神功皇后は秦韓から来た渡来系の末裔で、伊都の領主が同族として歓待している。
実際、糸島の高祖神社に祀られてるのは天日槍 箸墓→西殿塚
って感じで古墳の規格が変遷してるとされるが、この五塚原→元稲荷の形で連動して変遷してるな
元稲荷は西求女塚古墳とも同型とされる
古墳の規格が中央の大和を手本として秩序だって採用されているのが分かるな
面白い >>143
戦乱の痕跡って具体的にどんなものを指してるのさ?
大量の争った跡のある遺体なら鳥取県の青谷上寺地遺跡が最強。
環濠集落なら奈良県の唐古鍵遺跡も同様。
何をもってに戦乱の跡というんさ? 箸をまむこに刺して死んだ、なんてものすごい死因設定だよね >>181
近代の通州事件でもそういう遺体があったようだし、何者かに惨殺されたのかもしれんね というか、
尊崇の対象となる人にはそんな謂れを付けたりしないと思うんだよな
あまり尊敬されてなかった人なのかもしれない これを見ると古墳と言うのが最初の段階から全国的な規格をもつ秩序だったものであるのが分かるな
古墳の広まりがそのまま大和の政権の広まりを示しているのが理解できる
埴輪の分布なんかを見ると吉備の勢力が本格的に政権に関わるのはもう少し後の事のように見える
古墳の成立に吉備が主だった存在として関わったと言うのはちょっと違う気がする 魏志によれば、この南が邪馬台国なんだよな?
近畿とか言ってるのは根拠無き妄想を歴史と呼ぶ半島人だろw
https://i.imgur.com/t1La2wr.png ふつうに邪馬台国=ヤマト国でしょ。
卑弥呼=姫子
瀬戸内海を水行何日=畿内
ふつうに考えればわかることで、
なんで、そうカントン人は畿内否定したいかなぁ。 ちなみに魏志倭人伝では、>>186の対馬海峡を渡るのに約3000里、倭国の規模は「周旋5千余里」と記述されている。 いいかげんに、卑弥呼だ邪馬台国だというのやめにしないかな。
古代史はこれだけじゃないし、逆にこれがまともな古代史研究の
邪魔というかネックになってるんじゃないかな。 >>180
50年くらい大いに乱れたなら武器の痕跡とか破壊された頭蓋骨みたいなのが結構出てきそうだけどね 歓迎が熱烈すぎてあっちこっち連れまわされて接待されたから行程が不明瞭になっていく 石塚原には埴輪が無いけど元稲荷には埴輪が現れる
その配置も周囲の祭祀場を囲むような形で使われている
全周に埴輪を配置するようなやり方になる前の段階だと思われる
野見宿禰の埴輪起源の話とかにも関わってきて興味深いところだな >>187
仮に方角の間違いを墓の大きさでチャラにしたとしても、
狗奴国の存在やなぜ外交・安全保障というった重要事項が記紀に載ってないのか、
中国王朝より朝鮮のほんの一部の方が重要なんですかみたいな、
説明に苦しむところが多すぎんだよな。
その点九州説はいろんなことが説明しやすいし、古墳時代の大和政権も見えてくる部分がある。 >>187
倭人(わじん)の国をいつから大倭(大和)と呼び
それをいつから大和(やまと)と読み出したかだな ふつうに邪馬台国=ヤマト国でしょ。
卑弥呼=姫子
瀬戸内海を水行何日=畿内
ふつうに考えればわかることで、
なんで、そうカントン人は畿内否定したいかなぁ。 >>192
蝦夷遠征も実際にはあちこちで歓待されて帰ってきたってのもあったしなw >>196
漠然としたイメージで九州だと思ってる一般人は多いけど
関東に限らず、それなりに知識のある人はほとんど畿内説だよ
こういう掲示板でしつこく九州説に拘ってるやつは、
日本の歴史を改竄しようとしてる外国人工作員みたいなやつか、頭の逝かれたデンパ系がほとんどと思われる
カキコミ数の多い九州説のやつは、だいたいこのどっちか
高校レベルの知識がないのは、日本で教育を受けてないからなのか
学校では嘘を教えてると思い込んでるのかは不明
根拠や証拠に基づいた議論ができないやつらだから、はっきり言って相手にするのも無駄 >>191
その結構出てきてるのは鳥取の方が遥かに多いのよ。
ついでに143は倭国大乱ではなく、卑弥呼の後継者争いの短期間の話しをしてる。 古墳の成立には吉備よりも近江や播磨や讃岐の影響が強いと思ってたからこの向日古墳群の古墳を見るとその考えが強くなるな
吉備の影響が強まるのはもう少し後 例えば卑弥呼が神武の前であったとしても記紀にはその後神功が現れ仲哀を殺してるわけで宋史新唐書中国史記で死んでますよと歌い上げてる以上この時点で王朝は滅んでいるので脈々と続いているというのは真っ赤な嘘。 >>200
楯築古墳に見られる双方円墳や弧帯石などやっぱり大和は吉備の影響が強いと思うけどな。 ヤマト政権が畿内説じゃないと言ってるんだからアキラメロンw
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※遣隋使に、倭国と日本は別国だという認識がある事がわかる 邪馬台国から東に海を渡って千里程のところに上陸できる場所がないとダメなんで近畿はねーです >>203
あってると思うけど。
奴(倭)国、伊(委)都国は明らかに倭国。それを破り統一ある程度統一したのが邪馬台(大和)国 >>205
邪馬台国は2〜3世紀前半の九州=女王国の総称。
日本統一なんてのは壬申の乱以降だろ。 >>200
その播磨も吉備の勢力範囲だろう
なんで播磨の円形基調墓から特殊器台や特殊壺が出てくるのか考えてみればよい
それに吉備の土器造りの影響は既に弥生後期初頭で畿内に入っているからな
徳島の荻原1号墓なんか土器を見る限りでは布留式まで時代が下るんだと思う 孝霊天皇の行跡が残っているのは島根鳥取岡山兵庫徳島で、このあたりから徐々に東に移動させ畿内に都を置いた感じかね >>199
多いから大乱があった とはならんと思うよ
最低条件として大乱の跡は必要ってだけで >>208
何でも奈良発祥にしたい連中が畿内説の核やってるんだよ。
奈良盆地は単に吉備政権や東海政権が接する場所だったというだけであって、奈良政権というものが古くから存在した訳じゃない。
単なる「場」だったんだよ。
俺らは「霊園」と呼んでるがw 魏志倭人伝で「棺はあるが槨はなく」てあるんから石室ある段階で卑弥呼と違うだろうに >>202>>208
前方後円墳は播磨、讃岐で先行してる
弥生時代の終末期に前方後円型墳丘墓が出現してる
先行する円形周溝墓からの発展だと思われる
播磨は大型の円形周溝墓が集中して見つかる地域
これは前方後円墳の発展の定説に合致する
前方後方墳は近江
これらの地域は出雲の墳墓の影響を受けつつ独自の墳墓を形成してる
楯築はそれに先行する大型墳墓も乏しくむしろ後発
形状も前方後円墳の原型とは言い難く、そもそも円形周溝墓が殆どないなど系譜を追えない
どちらかと言うと突然変異的に現れていて吉備が出雲や播磨、四国の影響を受けてる可能性がある
また埴輪も定型化後しばらく経ってから配置が始まりその前は祭器の土器はまちまち
埴輪が古墳を飾るようになるのはもう少し後
むしろ4世紀になってから吉備の影響の拡大が見受けられる >>212
俺は九州説だけど
その記述はあくまでも大衆の埋葬方法だと思うんだよ
だから古墳の埋葬方法は石室があってもいいと思うんだ おれはいま阿波説に夢中だ
手垢と利権で汚れ果ててる九州説畿内説よりロマンがある >>214
でも祇園山古墳が石棺のみでまんま当てはまるしねえ 寺澤氏なんかは吉備こそが前方後円墳の祖型と言うが形状と言い、祭祀の方法と言いどうもそういう風には思えない
むしろ東瀬戸内海のクニグニにその原型が見いだせる
埴輪の定着なんかを見ても吉備の影響の拡大は大和政権がもう少し発展した後になる >>216
それは別にいいんだよ
魏志倭人伝の記述は大衆の埋葬方法だろうと言ってるだけだから
卑弥呼の墓もそれに準じていたのかそうでなかったのかは別の話だ ここって4世紀の円筒埴輪が出てるんじゃなかったっけ?? >>203
毎回同じ地図貼ってるのは、その地図が正しいと信じてるからだよな
おまえは戦国時代になっても、日本と倭国に分かれてたと思ってるのか? 九州であることを示唆する記録は多々あるが、近畿を示すものは・・・orz
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている 元稲荷古墳では古墳の周りに祭祀場を設けて埴輪を並べてる様子が見える
他の古い古墳を見ても特殊器台や様々な地域の土器を祭器に使ってる
古墳に沢山の埴輪を並べるスタイルにはまだなってない
まだ祭祀の方法や埴輪の利用法が違う
この古墳群はその過渡期的な位置にあって興味深い 畿内説は浅い場所ばかり掘ってないで、この下も掘って確かメロンw
https://i.imgur.com/ZhTE3fj.png >>218
前方後円墳で竪穴式石室という邪馬台国オリジナルの埋葬方法だとしたらその形状を特筆しない方が不自然だと思うがなぁ
寸法から綺麗に計算されて作った巨大な前方後円墳なのに径百歩という大きさだけしか証言がないって外交官無能すぎってなっちゃう 実際、列石も弧文の祭祀も後の古墳には全く採用されてない
楯築の形は山を崩して作った双方中円墳で系譜的に孤立したものになってる
特殊器台の祭祀の方が広まってるけどこれも初期は沢山の地域の土器が使われてて優位性があると言うわけでもない
埴輪が盛んになるのが4世紀以降と言う事を考えても差ほどの指導性があったと言えるかどうか疑問 >>216
祇園山古墳はサイズが合わないのと、三角縁神獣鏡が出てるので無理 纏向が全国を統制する首都「邪馬台国」だったと言うのであれば、この渡来豪族たちは何者なんだよ?
時期的に、筑紫の東に秦王国が出来るよりも以前に入植してきた事を示しているんだが?
統制されていたはずの西日本国の中に渡来人による秦王国が建国されていたというのも妙な話だw
<奈良の歴史>
〜2世紀末 唐古・鍵最盛期
3世紀後半〜4世紀半ば 纏向最盛期
4世紀末〜↓ヤマト政権の種?ご到着↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>225
築造に数年かかるのに、完成するまで帰国するなって? >>229
作ってる途中で張政が帰ったならそう書くはずでは
そもそもいきなりぶっつけ本番で巨大な前方後円墳を精密に計算してしかもそれを初めて作るなんてありえないから小型の試作品や模型は最低でもあったはず
作業員じゃないんだから計画して作ってるなら完成図が分かってないとおかしい 歴代の天皇陵よりはるかに大きく
巫女的な女性が葬られたとの伝承があり
その形状が教科書に載ってる後の日本各地の前方後円墳のベースになったと言われ
3世紀中葉から後半につくられたと推定されるデータもあり
古代の移動手段で北九州から水行三十日陸行一月くらいのところにある
箸墓古墳は誰の墓なんだろ
掘ってみたらいいのに >>229
張政は狗奴国と戦争していた頃に来て、台与の朝貢時に一緒に帰国したと書いてあるだろ?
ということは卑弥呼の墓の建造工程をしっかり見ていたはずだ。
しかしその王墓の構造に関し、改めて構造を紹介する記事は無い。
だから「棺有槨無、封土作塚」だと見る方が確率は高い。 >>230
そう書くはずって、ただの主観
>>232
建造工程をしっかり見ていたはず?
完成まで見たとか何の根拠もないただの妄想 >>234
主観で構築された畿内説が言うセリフか?
w >>235
前方後円墳も塚は円形で造られてる。
方形部分は飽くまでも祭壇だぜ? >>237
その祭壇の描写がないんだが、、
張政が見たのは円墳でしょ >>234
遊びに来た観光客が書いたただの日記じゃないんだからさぁ
纏向という邪馬台国独自のオリジナル墓の建造という一大事業なら書くのが当たり前だろ
「前方後円墳は外国人に国力を示すために作られた」ってよく言われてるのに張政は大きさにしか興味を示さなかったことになってしまう
「前方後円墳を見たけど径百歩の塚としか書かなかっただけ」と考える方が主観だろ 卑弥呼が個人名でなく、女シャーマンの総称だったら笑えるなw
どこにも卑弥呼がいるとか めんどくさいから前方後円墳、全部掘り返して調査しようぜ 邪馬台国は大型墳墓を造る文化圏にある国だ
文化圏の違う九州は、スタートラインにも立ってない
いい加減アキラメロン >>243
史書には邪馬台国は南の方角だと書いてあるよな。
東の畿内説など妄想甚だしいw 神武東征
日向峠(糸島)=天日槍
宇佐=天日槍
吉備=天日槍
畿内=播磨風土記の天日槍
渡来系氏族が東遷する話じゃないの、これ >>246
バカ?
邪馬台国への行程は、方角か日数のどちらかが間違ってる
こんなの小学生でも知ってる >>248
いや流石に小学生は知らないだろw
投馬国と邪馬台国の2箇所だけ間違うのか?w
日は変に書きなぐったら月と読み間違うかもしれないがなw >>248
ちょっとした常識を組み込むことで、方角も日数おおよそ正しいとして説明してんだけどな。 >>249
小学校で習うようだ
所詮Wikiだからこれが絶対に正しいとは言えんが
>もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、
>九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、
>倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/小学校社会_6学年_上巻 住居跡は見当たらないが大集落だったと言い張る The 纏向遺跡www
https://i.imgur.com/oBoOgof.png ま た 九 州 の 田 舎 者 が 騒 い で い る の か 石室のある墓は卑弥呼の墓ではありませんと言うのが判らないほど頭が悪い 少なくとも57年107年には100ヶ国があったんよ、で卑弥呼は30。で後の倭五王は+東毛人55ヶ国?、倭5王の前に崇神は四道将軍に四方攻めさせとる。さて?崇神の立ち位置は何処だろう?卑弥呼は?卑弥呼が記紀で言うアマテラスだと57年107年は誰?って話。 >>251
呉越が来る前に、まず朝鮮半島から北方民族が入ってきてると思うけどな。
でないと当時の九州の農耕文化が説明しずらい。 >>256
卑弥呼は九州の女酋長だろうね。
崇神天皇は吉備津彦らと畿内から本州を制圧した。
邪馬台国の時代は記紀でいう景行天皇から仲哀天皇ぐらいだろう はやし浩司あたりが九州説を唱えてくれれば読む気になるんだがな >>260
ありきたりすぎるな。
卑弥呼は春日局だ以上斬新なの言ってくれよ!
って、これ畿内説にならんか。 >>262
すまん、やっぱり卑弥呼は九州の女酋長だ。
大和王権の歴史書は邪馬台国と卑弥呼をよく知らないみたいだ 倭国大乱前までに朝貢してた倭人の国は国名すら分からんし50年単位で勢力図が入れ替わってる
卑弥呼でまとまって朝貢できたが狗奴国との戦いは続いており
内乱も壱与に変わって落ち着いたとあるがその年に魏の使者は帰国
その後150年近く倭の国の記述は消える
邪馬台国がトップとして残り続けて倭の五王に繋がる確率は相当低い気がする
倭の五王の後も100年位朝貢が途絶えるし >>263
記紀を作った頃は魏史は輸入されてる
だから神功皇后の項で卑弥呼の話を引用してるから暗に彼女ではないかと示唆している
九州で活躍した神功皇后を卑弥呼と考えたということは当時記紀を書いた人や唐から来た五経博士なんかは九州の人と解釈してたんじゃないかな あ ただし三韓征伐を卑弥呼がした記録はないので実際は別人(または違う時代の複数の女王の伝説の融合)と思われる >>265
魏志との整合性を考えるならそうするしかないだろうね。
しかし日本書紀を読んだ中国人は逆に混乱してるっていうね笑
旧唐書には倭国伝と日本伝がある 日本史板で出た結論
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>267
親百済派の蘇我氏の台頭とともに九州勢力の復権的なものが見えてきたのに、
大化の改新以後親新羅派の天智の暗躍で唐と新羅の同盟が成立、百済は滅亡し、
高句麗滅亡後日本がずっと中国王朝と交流してたってことで唐と口裏合わせしたんかもな。
世代が変わった頃には当時の密約を知るものはなく、過去の資料を見るかぎり、
こいつらでたらめだらけやなという感想を持つに至ったんかもれんとか想像してしまうかな。 九州王朝があったことにするため、こじつけストーリー作ってんのかよ
捻くれ者の脳みその構造は理解できん 旧唐書の内容を見る限り、想像できることを書いたまでだが。
おそらく密約時には倭国伝や日本伝の原案は既に完成済みで、
編纂時には誰も密約の事を知る者はおらず、
何だ本当はこうだったのかと原案そのままで載せてしまったのかなとかの可能性を想像しただけ。
思考停止するんじゃなく、畿内説的には何が起こってそうなった可能性があるのかを
ちゃんと考えてみたら。 考えてみりゃ、天智の時代にあった一つの出来事が日本史に深く興味を持つに至ったきっかけであり、
現時点で持ってる僕の日本史感を持つに至った2つのきっかけのうちの一つなんだよな。
で、僕が持ってる日本史感・世界史感から導き出される結論が九州説にも結び付いてるんだよな。 卑弥呼の墓は石棺だけで石室は無く棺桶に直接土を被せたと記載があるから
前方後円墳では無く方墳か円墳しか当てはまらないが方墳が正しい
卑弥呼の墓は約百人の殉葬者もあるので1番相応しい墓は久留米市にある
祇園山古墳となる。卑弥呼の跡継ぎの壹與の墓は糸島市の平原古墳と言う事だ。 >>274
>卑弥呼の墓は石棺だけで石室は無く棺桶に直接土を被せたと記載があるから
卑弥呼の墓の構造については、魏志倭人伝には何も書いてない。
棺だけで槨は無いというのは、邪馬台国の庶民の風習についての記述。
>前方後円墳では無く方墳か円墳しか当てはまらないが方墳が正しい
径百余歩との記述から、一番遠いのが方墳。
魏志倭人伝では四角形の地形に対して、「方〜〜」と書いており区別はつけられている。
前方後円墳は円墳部の塚と祭壇部の方形を分けて考えれば柄の部分は、径で表現しても問題ない。
前方後円墳とはあくまでも現代人の付けた表現であり、本来の意味は祭壇も整備した豪華な円墳。
>祇園山古墳となる。卑弥呼の跡継ぎの壹與の墓は糸島市の平原古墳と言う事だ。
祇園山古墳は形も違うが、サイズが明らかに小さすぎる。
また三角縁神獣鏡が出ておりこの点でも苦しい。
平原古墳に至っては、流石に小さすぎて指導者の墓とは言い難い。
今の所日本の何処にも、卑弥呼の墓らしきものは見当たらないよ。
恐らく既に破壊さてる。 墓の大きさは指導者であろうが無かろうが無関係、墓の大きさよりも副葬品の
豪華さで墓の価値は決まる、副葬品がショボすぎる近畿の墓は問題外 >>258
反抗したので滅ぼされたタブラツ媛が卑弥呼ってことか?
神功皇后は実在じゃないが高句麗の記録で倭国軍の朝鮮半島侵攻は360年から半世紀つづく。
からして景行や仲哀の時期は4世紀前半。卑弥呼とは明らかに時代が合わない。 巫女(みこ)という単語はいつからあるの?
日女(ひめ)表記だと「め」と読まれてるんでは? そもそも卑弥呼の生きていた時代には狗奴国と戦争中でその途中で卑弥呼は死んだから
大規模な墓など作るはずが無い。 韓人が倭人を支配していた証拠を破壊するのが日本人だからな〜
日本の歴史は本当に矛盾だらけ 倭人が日の巫女って言ってたのを聞いて当て字にしただけだろ 短い間連合国となったけど狗奴国との戦争やらでまた分裂したから100年以上遣いを送らなかったんだと考える方が自然じゃないかな
今の日本の版図が自然ではなくて当時としては独自の文化を持った小国が乱立した状態の方が自然だったのでは? >>281
俺もそう思う。
もしくは最終的に狗奴国に乗っ取られ墓を移設したか。 >>283
となると壱与も巫女の下のランクの職名とかだったってこと?
そっちは現代まで残ってる単語? >>279
参考までに
九州の女性酋長
五馬媛(五馬・豊後国風土記)
八十女(杵島・肥前国風土記)
宇津羅姫
八女津姫(福岡県・景行紀)
田油津媛(山門郡・神功紀
比佐津媛(日田郡・豊後国風土記)
大山田女
狭山田女
海松橿媛(松浦・肥前国風土記)
速来津姫(大分県・景行紀)
浮穴沫媛(彼杵・肥前国風土記)
諸縣君の泉媛(宮崎県・景行紀)
神夏磯媛(田川市 山口県・景行紀)
宇奈岐日女
與止日女(佐賀県)
阿蘇都媛(阿蘇・景行紀) おそらく卑弥呼は自らを日の巫女として通していた女なんだろう、中国側も名は解らなかったんじゃないか?ふざけるなこのやろうで卑弥呼だろ >>264
トップとして残り続けなくても、邪馬台国の関係者が移動して別の王権を
建てた(あるいは簒奪した)と考えることもできないわけじゃない。 やっぱり4世紀に半島に攻め込んでいたのは九州の豪族で、その一部が
大和に移動して河内王権を確立したのではないか。で、それが邪馬台国系
の応神=仁徳で、その祖先の卑弥呼をイメージして神功皇后をでっち上げたと。 >>287
開化、崇神、垂仁の御代にいたやつは一考の余地ありやな。 >>225
それは卑弥呼の墓の話で、一般大衆の埋葬方法とは違うじゃないか
それに、径百歩という記述しかないのなら、それは前方後円墳ではないという考え方もできるわけだよ >>281
魏志倭人伝には大きな墓をつくっていたと書かれてるのに
大きな墓をつくるはずがないと魏志倭人伝を否定するw
九州説だと魏志倭人伝に合わないからといって、魏志倭人伝を否定してしまったら
いったい何を拠り所にするんだ? >>285
普通に考えたら狗奴国に苦戦している状態で卑弥呼が死に、
かつ後継者を巡って国が分裂して内戦。その後トヨが王位について治った。
これでなんで狗奴国に負けなかったんだ?
戦時中なら卑弥呼の死は極秘にされるし後継者問題は終戦後になる。
つまりのところ後継者争いになるまでの間に狗奴国とは和平協定が結ばれてる。
かつ後継者争いの時に狗奴国はそれを反故にして侵攻のチャンスだったはずなのに攻撃していない。 >>296
倭人伝の記述。
卑弥呼は狗奴国王の卑弥呼子とは普段から仲が悪い。
つまりのところ個人的な面識がありかつ、政治的な対立がある。
だから卑弥呼と卑弥呼子どちらかが死ねば邪馬台国と狗奴国は戦う理由がない。
飛躍しすぎかな?
もしや卑弥呼と卑弥呼子はアマテラスとスサノオのモデル? >>297
まずは卑弥呼が死ぬ前に戦が終結したかしかけてたと考えるのが第一選択肢じゃないかな。
一つ想像してるのが、一部失ってた領地を取り戻した時点で卑弥呼が死んで、
狗奴国は総力的に劣勢だったし、邪馬台国は卑弥呼の死で戦継続を望まなかったみたいな。 兎に角卑弥呼朝貢の140年前には100を束ねる王があり、その国7、80年前にも男王がありだから。王年代記を載せた中国正史は神武までは筑紫で仲哀は死と記してあるからどちらか辺りが卑弥呼だろ。俺は神功だと思うがそれじゃあ九州は難しいわな。神武前じゃなあ〜 記紀で分かるのは、ヤマト政権自身が邪馬台国のことを知らないということ。
そもそも文字で歴史を残す文化が無かったから。
ヤマト政権は朝貢に不慣れで世間知らずの田舎者が書いたような国書を渡しているし、
旧唐書の日本使者も日本建国のいきさつをしっかり説明できていない事がそれを示している。
こうして恥をかいたことで天武は記紀篇算の必要性を実感したのだろう。
おそらく邪馬台国は中国系渡来人の歴史であって、ヤマト政権は半島系渡来人だったんだよ。
そして秦王国の歴史も同様の理由であやふやなまま。 邪馬台国について畿内説の支持が多いのは、その当時の日本の様子が九州説と相容れないからなんだよ。
畿内説→邪馬台国の頃はそろそろ統一国家に近い国が表れ次の大和王朝に繋がった
九州説→まだまだ小国の集まりでその中の一つに邪馬台国があった 畿内説というか、考古学的な物証から卑弥呼時代には畿内に中心が移っていたことが濃厚というのがいまの流れ。
物証と研究の積み重ねがあるから当時北部九州に中心があったという学者はほぼいない >>302
どこに文字が無かったと書いてある?
文字で歴史をつづるという文化が無かったと書いたつもりだが? 倭国大乱後半分以下の国でまとまったのが邪馬台国でいまだ強大な狗奴国と対峙してる状況なのに
東海から九州までの統一政権があったって方が不自然 >>285
邪馬台国VS狗奴国との戦争は狗奴国が負けたか、どちらが勝ったか判らないで
和解したと思う。魏使は卑弥呼の死後も伊都国に来て卑弥呼の跡継ぎの壹與と
会ったりしているから邪馬台国が負けた事にはならんだろう。 >>305
実際文字が記されたものはなにも出てないでしょ
名前なり占いの甲骨文字らしきものなりなにも文字的文化が継承されてないのすごく不思議 >>304
それは日本の政治や文化の中枢がそこにあったという話で
邪馬台国が存在した場所が日本の中心だったというのは勝手な妄想
EU大統領はベルギー人だが
EUの中心はベルギーと思いますか?
普通は思いません >>309
そう言われても白石太一郎氏をはじめほとんどの学者が「邪馬台国論争なんてとっくにおわったこと」という立場だからなぁ >>313
魏志倭人伝にしか記述されてないよくわからん国の研究なんて何十年も続けることはできんだろ
結論は出ずに終わるんだよ >>311
九州に邪馬台国があったというエビデンスがあればひっくり返るけど、それが無いからな そもそも弥生時代後期にもなって中国の使者が東を南と間違える訳が無い、弥生後期
くらいになったら南東や東南東といったかなり正確な方角も分かったはず。
伊都国から奈良まで行くのに何十日もかかるのに毎日毎日東を南と間違える訳が無い
倭人伝の方角は素直に読めば良いんだよ。ニキビシバラの関西人 >>315
なんで「エビデンス」なの?w
証拠とか根拠と書けばいいのにw
畿内に邪馬台国があったというエビデンスは皆無だよ >>317
じゃあ根拠出して学会で論理的に学説述べてきたらいいよ
楽しみにしてるからw >>301
旧唐書の使者も建国のことを説明できずしどろもどろ。
中国側は過去の記録から後漢が倭国の奴国王への金印や
親魏倭王の卑弥呼への贈り物をしてたことをわかったうえで
東の島国から来た大和朝廷の使者をもてなしたのだが
「日本と名乗ってるが倭国じゃないの?奴国や邪馬台国知らない?」 >>318
学会で、畿内に邪馬台国のエビデンスがあると発表してるアホがいるのか? >>321
秦氏というか、渡来系氏族の到着が最近の研究ではどんどん遡ってるからなぁ
そもそも弥生中期には半島南部に倭人の根拠地があったんだから、その頃から断続的に渡ってきてる訳だし 隋の時代に秦王国が出来てなお詳細不明ということも、畿内中心説を否定している。 >>316
実際わかってないよ
末羅国─伊都国─奴国ラインです。これが魏志では東南となっているが、これは明らかにおかしいわけで まあ確かに神功も架空で背乗りは十分ありうるわね。なんせ記紀で確か神武東征で山椒かじらせてたしな。確り倭人伝は読んで書いてんだよな。ほんと恥ずかしいよ >>316
中国の使者は日数も数えられなかったのか? >>301
崇神以後は天皇の説話があるから、出雲と手を結んで以後は
出雲の助けを借りながら若干文字で記録を残すようなこともしてたんじゃないかと思うんだけどな。
魏志に出てくる邪馬台国の時代はまだまだだったろうとは思うけど。 >>303
九州説の立場は、強大な国力を誇る九州北部とその他大勢の立場だと思うが。
僕は出雲は先進技術を持ってたし、大和が組むことで広範囲に及ぶ政権のようなものが
形成されつつあったとは思ってるけど。 日本への文字の伝来は今のところ4世紀後半とは言われてるけど、渡来人が早くから行き来していた時点でもうちょっと早い可能性はあるな
最近の発掘では硯もよく出てきてるし まあ一番の原因は倭国の大乱のときのほとんど記述がない欠史八代の存在。
とくに最後の2人の
孝霊天皇(霊帝)→孝元天皇(献帝)
これから、
開化天皇→崇神天皇と繋がり記述が多くなる。
孝霊天皇については、伝承や伝説が多くあり(孝霊山、桃太郎伝説など)
実在は確実だが全く何も書かれなかったので、娘のモモソヒメの様子もわからない。 >>326
そこまで厳密にこだわるなら半島での水行が南へ東へというのもおかしいとなる。
日本海側を南下してきた事になるよな?
そして封馬国はウルルン島?
一大国は隠岐の島?
末盧国、伊都国は?
畿内説ならこのルートを取るべきだ。 石室があるという事はこのタイプの墓は全部卑弥呼の墓の候補から外れたという事か >>304
弥生時代の鉄器の存在は大規模な農耕を行っていた証拠のようなもんだと思うけどな。
出雲の技術は高かっただろうとは思うが、多くの人口を養い国力を高めるには
何かが不十分だったんじゃないかなと思うけどな。 >>326
実際は東北が東南になってるんだよね。
松浦から糸島は見える位置にあるから単純な方向誤認はしようがない。
方向の基準となる前提がズレてるんだよ。 >>335
うん、だから弥生時代中期に北部九州で人口爆発が起こったと言われている >>326
おかしくなくね?
港の位置だと東南に進むことになると思うが >>306
倭国大乱、狗奴国との戦は大和ー出雲連合が九州北岸地域へのいくらかの影響力と
朝鮮半島に大和領を持たせる隙を与える羽目になったんじゃないかなと僕も思ってるかな。 まだまだ新しい事実が出てくるだろ
歴史の教科書なんて捨ててしまえw >>304
邪馬台国、女王国連合が当時の日本国内最大勢力とも限らんからなあ
東に別の倭種がいてそっちが日本最大だったかも知らん 卑弥呼の墓は二つも無い。
つまり箸墓古墳もこの古墳も卑弥呼の墓ではないと言うことだ。 >>330
もっともその当時進んでいて考古学資料も大量にでるのは伊都国奴国だけど、倭人伝において
どちらも邪馬台国に屈してる様子が伺われるのが九州説のきついところ。 >>337
弥生中期でしょ?
鬼頭氏や小山氏の人口推計では、弥生終末期には、北部九州より
近畿や中部あるいは関東の人口の方が多かったみたいだけど >>344
>どちらも邪馬台国に屈してる様子が伺われる
そうかな?
そんな記述があったかな? 唐津湾から筑後もしくは熊本にある邪馬台国に行くときに、東南の山間部に入り多久・小城を経由した方が合理的に行ける
このルートの資料も別にあり、ごっちゃになった可能性もあるかもね 卑弥呼の時代の国って対海国伊都国は千だぞ、ちっせいのが集まった半島への海路を押さえた程度の集合体だろ。日本の中心とは馬鹿げているよ。 >>331
文字を書くような人はほんの一握りだったろうし、
石にでも刻んでくれんことには後世に残り難かったろうしな。 >>346
邪馬台国連合の構成国になってるよ。
邪馬台国と言っても本国の場合と連合国全体を指す場合とあるので混同なきよう。 >>344
倭国大乱の影響でその場を収める苦肉の策だっただけだと思うけどな。 魏志では21か国ほど紹介した上で自女王国の境界だろ?
最後に紹介されてるのは奴国だから、これがかつての倭奴国であり倭の極南界であると考える説も有る。
そしてその奴国の中に邪馬台国という首都があるとなる。
さらにその南に狗奴国があることになり、それが熊本。
必然的に福岡のどこか、もしくは北部九州を一まとめにして女王国=邪馬台国と呼ばれたということになる。 >>345
そうだね。多分弥生中期から末期の間に農業技術を伴った人の移動があったんだろう >>346
皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。 >>351
邪馬台国本国は経済軍事で圧倒して他国を連合に組み込んだのではなく、
倭国大乱がどんぐりの背比べてで決定打に欠けたために
卑弥呼はそのカリスマを買われて女王に祭り上げられた。 >>352
邪馬台国は連合国全体を指す言葉で本国は存在しない、なんて間違い。
邪馬台国、女王国、いずれの言葉も本国のことを指す場合と連合国全体を指す場合とがある。 >>345
たぶん銅鐸を食ってたみたいな理屈の人口統計なんじゃね? 縦穴式、大きさともに申し分ないけど問題は埴輪があるかどうかだよ、何故それを言わないんだ? >>356
僕は九州北部最大の穀倉地帯を持ち、その強大な地域力を支えてる邪馬台国に
九州北岸部傀儡女王を立てたんじゃないかなと思ってるかな。 >>355
主語が抜けてると意味が変わるよ
委都国の人が邪馬台国に属して郡使が委都国に逗留してたって話だよね >>4
確定しないと邪馬台国関係産業を数カ所で興せるからOKOK >>350
>邪馬台国連合の構成国になってるよ。
EU連合のドイツやフランスと思えばいいんだよ
ドイツがポーランドに屈してるとはだれも思わないだろ? 北部九州説って、邪馬台国連合100万人が北部九州にいたというんだからビックリだわな >>364
そこではないけど、そこでもいいよ。
そこには外交の拠点である伊都国が書かれている。取り仕切ってるのは邪馬台国からの人間だがね。
個人的な予想だと伊都国→委都国→倭都国で、それまでの倭国と呼ばれた国の都だったんだろう。
その外交権を邪馬台国が奪った。
伊都国には王の存在が書かれているが、使節は謁見もしてないし業績も書かれていない。
すでに実権はなくなっているからだろうなとわかる。 北部九州は弥生遺跡が多すぎて
工事でもなければ発掘しないが
それでも人も金も足らない。
今発見されている弥生遺跡の
一割以上が福岡県にあるが
これでも必要最小限にとどめており
多くは埋設保存で埋め戻している。 5chでエセ畿内説を拡散しているのはokuyamakouyou?w
自分でトリップ晒して自爆するの何回目だよ?w >>369
吉野ヶ里だったかな。
未調査のまま箱積みになってる出土品もすごい量だよね。 >>334
有棺無槨は一般人の墓制について書かれてるので、卑弥呼の墓についてではないよ
もしこれを槨とみなすなら、九州に多い箱式石棺も槨になるだろ?
九州は、有槨無棺となって魏志倭人伝と矛盾する
畿内の一般人の墓制は、木棺を直葬してるから有棺無槨にぴったり 箸墓が卑弥呼の墓じゃなかったら畿内説はどうする?他に候補ないよね奈良には… 隋書の記録は畿内政権の時代だと思うが、墓の形式は
「有棺有槨」へと変化しているぞ。
今さら「有棺無槨」だと主張するは矛盾してるねえ。 もともとは大宰府にあった九州歴史資料館。
小郡に移転したのだが、移転予定地でも
遺跡が見つかり、発掘調査で
移転が遅れたというエピソードがある。 北部九州は早い時代からオンドルやら朝鮮式土器が発見されるし、渡来系の玄関口だったことは確か
問題は人口爆発に耐えられるだけの農地が無いこと
いい農地には当然先に人が入るわけで、奪い合うか外に出るしかなくなるのは中橋孝博氏なんかも指摘しているな
ttp://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo51.htm >>371
吉野ヶ里もほとんどの領域は
50cmから1m程度の土を被せて
埋設保存している。
全部掘り出せば数十トンの遺物になるが
とてもそんな量を処理しきれないから。 >>369
盗掘されてないってのがすごいよな
畿内説・九州説っていわれるけど、畿内なんて盗掘されまくって何も残ってないから話にならんw 北部九州は遺跡数の多さから
弥生時代後期には人口が飽和していた
可能性が高い。
そうなると主流派から外れた勢力は
他地域へ流出するしかなく
神武天皇などの神話もその一つの
勢力に過ぎないだろう。 大宰府付近には弥生時代と古墳時代の
混合遺跡がいくつか見つかっており、
古墳時代に弥生遺跡を掘り返して
新たな生活圏を作っていたようだ。
おかげでたまに遺跡の上下がひっくり返っていて、
年代考証がおかしくなる例がある。 しかし、古田武彦氏ですらあっさり見捨てた吉野ヶ里遺跡を持ち出す人がいるとはねぇw
ちょっと笑ったw >>373
古墳の規模は半分くらいだが、纒向古墳群があるからそれほど問題ない
径百余歩が厳密に当てはまらないので弱点になるが
実際、コンサバな年代観を唱えてる研究者は、纒向勝山古墳などと推定してる 別に卑弥呼の墓って言ってる訳じゃないのに
九州説のジジィが文句言ってて笑ったwww >>381
まあ、吉野ヶ里はたまたま工業団地予定地で
大きく発掘できたから有名になったが
郡単位の一つの小国にすぎないからな。
九州説でもほとんどは卑弥呼やら邪馬台国やらとは
考えていないだろう。
環濠集落内の王宮と兵士で500人から1000人。
これをとりまく農地と農民が一万人から
二万人程度。
その程度の小国だ。 >>382
纏向付近の古墳は馬具だらけ。
終わっとる。 >>385
とはいえ、九州説爺の恨みの根源は吉野ヶ里らしいよ
学者連中は初めから違うの知ってた、素人騙したなと(要は九州説爺の彼等) 吉野ヶ里クラスと推定されるのが
東の安永田遺跡、朝倉の平塚川添遺跡
西に向ければ、佐賀市大和町の総座遺跡
小城遺跡群など。
だいたい10km程度の間隔で
遺跡群となってるようで
これくらいが当時の小国のサイズだろう。 他のスレで誰か、3世紀当時の半島にあった馬韓が50か国なので
その面積と国の数からすると北部九州で30か国というのが妥当だと言ってたね。 畿内説が正しいかどうかはともかく、こいつらがキモくて頭おかしいのは分かった。 >>389
三韓はまだ小国乱立状態
倭国は7万戸、5万戸の大国ができている
その書き込みは、戸数を無視した屁理屈だった
北部九州に15万戸以上を押し込むとか荒唐無稽すぎる >>368
「そこではない」って委都国じゃなくて邪馬台国に逗留してたって書いてあるならだしてよ >>388
熊本の方保田東原遺跡も
近畿とかの土器もあるらしいし 魏志倭人伝によると邪馬台国の男はみな入墨をしていたという。
同書には、水に潜って漁をするときのまじないとして入れていたものが装いに転じ、地域や階級によって刺青が異なるとも書かれている。
古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。
これは、古事記の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述を論拠とするものである。 >>393
委都国ってのは何だ?
伊都国の事?
伊都国って千人しかいない、魏志倭人伝でも小規模な国邑だぜ? >>395
記紀では神武天皇御一行は日向にいたことになってる。
邪馬台国は日向って言いたいのかい? >>198
それってどういう統計?
畿内説を唱えている人が「俺の周りは畿内説ばかり」と言っているだけにしか見えないが
どうせまた歴博のHPのQ&Aでしょ? 王年代記も記紀も一様アマテラスやウガヤが出てくるから九州には王朝があったんだろ?神武東征がなきゃなんであんな山ん中にウガヤや渚がいるんだよ。海人族の引き籠りかよ。神武は姫彦制じゃないからその後姫彦制新羅に食われたのは確か。姫彦制は半島の制度。 >>395
この時代、九州に入れ墨の痕跡なんかないよな
入れ墨文化のない畿内は邪馬台国ではない
入れ墨文化のない九州は邪馬台国だー
何この屁理屈w 魏志倭人伝の記述から畿内を想定することはまず無い。
しかも畿内説の論証とするものがことごとく魏志倭人伝などの記録には記載されていないものばかり。
しかも物証無き想像論のみ。
もともと南が東だとしたら、で始まった仮説であるにも関わらず、〜は確実である、などと想像のみで結論を下す。
畿内説って韓国人じゃないのか? >>402
>この時代、九州に入れ墨の痕跡なんかないよな
文字を書くためか、刺青の為に墨を擦ったとみられる硯。
福岡出土品
年代:1〜2世紀
サイズ:長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチ
https://i.imgur.com/k2XPkk7.png だから神武が仲哀で神功が新羅たたら姫はあり得る、旨しが武内宿禰、で神武殺して巻向にデカイの作って崇神達は応神でその後ってのはあるかも。兎に角記紀はデタラメ。 >>404
飛躍しすぎだw
硯だったら畿内でも出てるし、無意味すぎる反論 >>406
>硯だったら畿内でも出てるし、
堺出土の石は砥石だろう。
形状も大きさも違いすぎる。 河内?の石ころのこと?
まだ未検証で、傷は見られるけど墨の痕が無かったな。 >>407
あれが完形だと思ってたのかw
ということは、土器も完形で出土すると思ってるということだな
どんだけ無知なの >>279
晋書安帝紀 義熙9年(413年)に倭国が来ている。
これは倭の五王の可能性が高い。
4世紀前半はもう仁徳天皇や次の履中天皇あたりだろうね 刺青に関しては昭和の時代まで入れてる漁師が多かったし海人の風習としか >>410
反論できなくなると、1行だけの捨て台詞w
硯を即、入れ墨に結びつけるのは無理筋ってことだ >>411
4世紀は301から400年だよ。
だから400年代初期から半ばの倭の五王は5世紀。 >>395
ということは大和朝廷勢力は刺青をする習慣がないってことだな。 >>413
文字と結びつけたら逆にもう畿内はなくね?
文字ないと外交無理ゲーなのに >>368
伊都国にある一大卒は邪馬台国の出先機関。
そう、対馬海峡を見張って国防や貿易の管理のための。 そもそも、入れ墨は倭人の風習と書かれている
邪馬台国のこととは書かれていない
入れ墨は本州に痕跡が多いので、倭国の範囲が本州を含むことになる
丹と同様に、入れ墨は九州説にとって不利なもの イザベラバードが来た頃でも男は刺青して女はおっぱい出してたって書いてあるから
刺青の目的は違っても昔からの風習だったんだろう >>419
その本州の入れ墨の痕跡と北部九州の入れ墨の痕跡との違いは?
縄文時代にも入れ墨があったんだから。
もともと九州出土の硯は中国の硯と形状がよく似ているという特徴があり、弥生時代は既に文字が定着していたのでは?
と騒がれたんだよ。
政権には文書が付き物だよな?
しかし奈良の弥生遺跡からは発見された事がない。 「水行」って滝に打たれたりすることじゃないのか?
つまり、十日間滝に打たれながら瞑想することで到達できる精神世界こそ邪馬台国なんだよ >>108
>半島連中が新たな場所を探してたんだろ?
半島連中は泳げないし船もないのどうやって来るんだよ
北からは大陸勢力、海からは倭軍に攻め込まれ放題の記録しかない何だがな >>301
邪馬台国のことは知っていたけれど、本当のことを書くと不都合だから知らないふりをした(無視した)、という解釈もできる >>422
20年前までの形質的な分析ではなくて分子生物学的解析では北九州地方の弥生人は殆ど縄文人直系のような弥生人だったということが分かっている 魏の使者が訪れた所がどこかとか言ったらそりゃ九州だろうな。
ただ、同時期にすでに畿内に全国的な影響力のある王権みたいなものがあったのも事実だろう。
魏の使者は畿内には行かず、九州で中央政府である畿内ヤマトの接待受けたんじゃないかね。
倭人伝は途中から伝聞調になるし使者は卑弥呼に会ったとは書いてないしその描写もない。 >>423
じゃあ、陸行は体を地面に埋められ、頭だけ地面から出た状態で、
犬にションベンかけられたりしながら1か月耐える精神修行だったりするのか? 水行陸行は朝貢に来た倭人からの伝聞記録だろうよ。
里の概念が無いから日数で答えた。
しかも帯方郡からの。
海洋民族の倭人にとっては渡海も水行のうちだったんだろう。 箸墓古墳って昔からあった?
結構詳しい方と思ってたんだけど、聴き始めたのこの10年くらいなんだけど、無知だったってこと?ほんとに聞いたことなかったんだ… >>431
それな
ヤマト朝廷の記録に魏との交易や交戦してた狗奴国、名前まで判明してる卑弥弓呼のことが全く出てこないからなぁ 426辰韓は武力を主体として占領する民族ではないし室に入りて矛を操る、王の嫁として食い込み利権を肥やし不必要とあらば殺す。この時代一番稼いでいたのは鉄を押さえていた連中。天日矛は半島であり、神武の嫁はタタラ、多々良は半島の邑の名。 ・馬具が出土→後の時代に投棄されたものだ
・埴輪が出土→円筒埴輪だから生贄の代わりではない
・古墳に石室が存在→石室がないというのは庶民の墓の説明だ
・倭迹迹日百襲姫命には夫がいる→あれは神様だから夫ではない
・硯というが、使った跡がない→作りかけなだけだ
言い訳ばかりだなw この古墳がが最古だとすると、
ヤマト王朝の古墳文化はオリジナルではなくて背乗りって事になっちゃうね >>440
それを言い訳という表現を使う思考回路が理解不能
九州説の捏造や言いがかりに対する正当な回答だろ
なお百襲姫は個人の解釈だろうし、畿内説の論拠とは無関係
硯はおまえがトンチンカンなことを言ってるだけ
まあ、九州説はこうやって歪曲捏造して、ケチつけることしかできないだろうけど 九州説の捏造体質は死ぬまで治らんだろ
ウィキペディアなんか酷いもんだ
公的機関が出してる情報とまったく違うことがソースなしで書かれてることが頻繁にある
短里がどうたらとファンタジー全開の記述があったり
「邪馬台国の会によると」どうたらと書かれてたりもする 日出国の墓に興味があったのか興味をそそる墓だったのか
不老不死の人間がいなくてがっかりしたな 九 州 の ど 田 舎 に 文 明 な ん か な い か ら w 住民は居なかったが大集落だったと言い張る The 纏向遺跡www
https://i.imgur.com/oBoOgof.png 記録によると、ヤマト政権自身が畿内が倭国であったことを否定しています。
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※遣隋使に、倭国と日本は別国だという認識がある事がわかる 畿内説は半島人による歴史捏造の一環かもしれません。
〜2世紀;唐古鍵遺跡
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
ttps://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html ■前方後円墳は奈良発祥では無い件
全国的には、
徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、
福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。
近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された
時期別に畿内編年の1期から10期の10段階に分けて
整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは
@筑前(福岡県北部)で9基、
A播磨(兵庫県)で8基、
B大和で6基、
以下備前、美作、備中、讃岐となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら
前方後円墳が多数ある。
以上から、奈良が前方後円墳の発祥地とは言えない。
なお、前方後円墳より前方後方墳体制の歴史の方が古いとのこと。
わざわざ「前方後円墳」を古墳時代の始まりとする理由は?
畿内ありきのバイアス説だからです。 >>435
水行陸行の何日は帯方郡起点じゃない。
北九州の伊都国で中国人が倭人から聞いた。
ただ行程書いた人は必ずしも魏の使節団の人間とは限らない。
ちなみに邪馬台国より先の東に海を渡ること1000里に和種の国。
その南に侏儒国。そこは女王国(邪馬台国)から4000里。
さらに先の裸国、黒歯国までは南東に水行1年。
つまり邪馬台国の先の侏儒国まで行ってる中国人がいて、そこでさらに遠くへの行程を倭人から聞いてる。 三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり >>402
糸島の上鑵子遺跡から出土した人物線刻板に入れ墨の入った男性像が彫られているよ
http://www.iokikai.or.jp/kodai.itokoku.html
>上鑵子(じょうかんす)遺跡
>魏志倭人伝によると、『男は、大人も子供も、皆顔に刺青をして体に文字を書いている。
>昔夏王朝の少康王の子は、会稽の領主にされたとき、髪を切って、体に刺青をして、咬龍の害を避けた。今の倭人は、魚やはまぐりを捕るために
>好んで潜ったりするが、体に刺青をするのは大魚や水鳥を追払うための呪いとしている。国によって体の刺青の模様が違う。
>身分によっても左に右に、あるいは大きく、小さくと差がある。一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする』と記されている。
>上鑵子遺跡から出土した人物線刻板(右)は、この男性像に刻み込まれた入墨は、魏志の倭人伝記載文を実証している。 >>455
邪馬台国は九州だし、神武東征は史実だよね。
神武東征は史実だよね。 おお、うちの近所にある古墳やわ。京都に卑弥呼の墓があったんか。京都に邪馬台国があったんかな。
新説だが畿内説が有望である中、必ずしも奈良にあったとは限らないしな。 >>450
> ※遣隋使に、倭国と日本は別国だという認識がある事がわかる
別国ではなく別種である。
JAPANの小国の連合体の中心が西に有った古い時代が倭国。
その後JAPANの小国の連合体の中心が東へ移った新しい時代が日本。
したがって倭国と日本はJAPANの中で連続して繋がっている同じ国。 九州説の人は弥生時代を誤解している。
邪馬台国のときは稲作が伝わってから1300年後、国々が作られてから800年後の世界である。 >>458
上鑵子遺跡の入れ墨は1世紀で、年代が違う
年代が違うものであれば、畿内にも亀井遺跡の黥面絵画がある >>463
>上鑵子遺跡の入れ墨は1世紀で、年代が違う
ソースは? 箸墓が卑弥呼の墓という説はいわゆるバグです。
■箸墓古墳で馬具発見
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
■箸墓の年代は?
畿内教教祖:240〜260年
畿内教広報:280〜300年
通常の学者:350年頃
■参考
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
<事例>
国内や半島で発見された「木製の輪鐙」は5世紀のものであった。
■診断結果
考古学会のゴッドハンド事件再発 >>460
少なくとも箸墓の被葬者と関係のある勢力なことは確か >>74
卑弥呼やトヨは斎王、初期の大和王権は豪族が持ち回りという説が有力だけど 「邪馬台国」が「女王国」なのか、「女王国」が「邪馬台国」なのか。 卑弥呼っていつも美人に書かれるけど
普通にブスだったと思うw モモソヒメは記紀に始めて書かれた皇女であり、それには何らかの理由がある。
父親の孝霊天皇は行跡が今でも伝承で残っているのにも関わらず日本書紀には一行も書かれていないし、名前が酷すぎる。
何らかの断絶があったのは確実だと思う。 卑弥呼はブスかはわからないが、いきおくれの老婆で夫も子もいない
親族は弟だけ 「邪馬台国」をなんでヤマタイ国と読むのか不思議でならない。
台をタイと読むなら、邪はジャ、馬はバだろ。
「ジャバタイ国」・・・うん、これはたぶんインドネシアの国だ。 勝手な感想だが、倭人伝に記載されている次官弥馬升が
弥馬升=御間城=崇神天皇
だと思っている。
そして、崇神の業績のうち吉備出雲侵攻に吉備津彦を送りモモソヒメの助言を受けたとするのは、孝霊天皇の業績を
こちらにつけたようにしか思えない。 >>81
天皇陵を全部掘ればそれなりのもん出てくるんじゃね? >>455
考古学的に見ると九州しかあり得ないんだよな 宇佐神社の社殿のどれかの下には卑弥呼の墳墓が埋もれているだろう。 前方後円墳は皇室のものだろ
なんで卑弥呼のものになるんだよ 倭人伝でも邪馬台国は狗奴国との戦いで苦戦を強いられており、魏国から檄文を
貰ったと書いている。そういう苦しい状況の中で卑弥呼は亡くなったから
箸墓古墳のような大きな墓を作れる訳が無い。 >>481
それ前方後円墳は農地開拓した残土処理だとトンデモを唱えてるバカ九州説に言ってやれ
最近は業務委託がどうとか、訳わからんことも言ってるが 魏志倭人伝の水行十日、陸行一月は他の中国史書に照らすと「水行ならば十日掛かり、陸行ならば一月掛かる」の意
そして倭人伝の記述者は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えている
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということだ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
という構造
伊都国から陸行可能なのだから場所は九州で確定
水行のみでも行けるので海か川の近くである
有明海から矢部川を遡上して筑後の山門が邪馬台国 水行、陸行とは
2 :日本@名無史さん :2019/09/18(水) 06:58:40.88
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 邪馬台国が日本だったなんて説が
もうねありえない
邪馬台国は朝鮮半島にあったんだけど
日本は重罪人の流刑地にすぎない 日本は男尊女卑の国だから
卑弥呼は日本人ではないよ
韓国人だよ 倭国大乱とは、北九州の先進的な鉄製造技術と利権を巡り、
それを支配下に置こうとする大和を中心とした本州連合とそれに抵抗した北九州連合の戦いだったのではないだろうか?
そして圧倒的な数に勝る本州連合軍の勝利が見えてきた時に北九州連合から和解案が出される。
北九州は本州連合に服属する代わりに、北九州側から王を立てるというもの。
本州連合が実効支配するが北九州側のメンツも保つという訳だ。
しかし将来的な危険性を感じた本州側から条件が示される。王は独身の女子とすること、大陸との玄関口となる伊都国に一大卒を置き、大和側から大倭なる監視役を派遣すること。
かくして和解成立、卑弥呼は側近を連れて九州から大和の地に赴く、そして日本国の基礎が出来る。 >>488,489
もう文献学的にも九州しかないって感じになってるんだな
完全決着間近か >>74
後者でしょ
それだと畿内の大和王権の歴史が浅い事がバレるからな >>203
それって
九州にあったのは
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた倭奴国で
邪馬台国ではない
と書かれているんだよ >>488
はい残念
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里− 対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良) >>455
その通り
鉄器こそが当時の文明の象徴だから、奈良盆地の国の文明は九州の国よりも遅れていた事になる そもそも論としてなるほど世界に名だたるランドマーク的遺跡
エジプトピラミッドやマヤピラミッドが幾何学的建築なのはさもありなんスバラシイ
だがどうだこのマナのツボ的デザインの意匠は誰が考えたんか
山が多い日本ならピラミッド型が妥当じゃないのかああん? 近畿に侏儒がいたらしいから邪馬台国は近畿で決まり。 「今夜が山田」
「邪馬台は山田」理論で全国地名から絞ればと考えたが
多すぎて絞れへんわい その国もとは男王がいたとなっており互いに争い、金印は返せずに九州に落ちてた。倭奴国王は死に滅び一代率に監視されてる。さてこの倭奴国王が神武の系列なのか?開化のタリシヒコ系列なのか?それとももっと前なのか?記紀には載らない王族なのか? >>498
九州は57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有し
豊玉彦
彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
と、代々男王が北部九州一帯を統治する倭奴国
なのだから
奈良盆地の国の文明は九州の国よりも遅れていた
のは当然です
むしろ、240年に「親魏倭王」に任じられて、たかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国は、文明などありゃしないので
文明が発達していた九州に邪馬台国があるほうが変ですよ >>503
『魏志』倭人伝は、台与につづき五王が、まだ朝貢している西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に書かれている
「漢委奴国王」の変わりに卑弥呼が「親魏倭王」になったのが240年、死んだのが248年
卑弥呼(魏志)に続いて、中国の正史に倭人が登場するのは、晋書武帝紀の西暦265年と266年で、これが壱与の三、四度目の遣使
西暦247年の即位当時13歳だった壱与は、266年のときは32歳
九州の、漢委奴国王朝は、まだ継続中 普通に考えて
伊都国は出雲で、王は出雲の主王(大名持オオナモチ)
派遣された一大卒は、
素戔男尊の長男で天照大御神の養子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)
の子で
素戔男尊と天照大御神の孫である天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 九州の倭奴国にいたのは「漢委奴国王」の
豊玉彦、彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
出雲の葦原中国にいたのは「出雲主王(大名持オオナモチ)」の
大国主や事代主
奈良の邪馬台国にいたのは「親魏倭王」の
卑弥呼や台与 で、九州にあったという強国は,ある日突然、消えたらしい ww 「僕の大好きな九州に邪馬台国がなきゃイヤだ」という感情で説を組み立ててるから破綻する >>511
九州説によれば圧倒的に兵器の開発力もあったらしいんだけど、なんでそんな軍事強国が一切の痕跡も残さず、突然消えたんだろうか w
宇宙人にでもやられたのか ww こういう研究してる人らに「卑弥呼がいたかとか邪馬台国がどうのとかどうでもよくないですか?」「それが分かったからって何になるんです?ん?」
ていったらどうなるかね?埴輪で殴られるかね? 古墳時代はあのあたりまで海だっみたいだな
でも卑弥呼ばない 石室があるからってそこが遺体の安置場所てことではなあんやろ? 九州は筑紫国、肥国、豊国、熊襲国に分かれていた。
漢倭奴国王は筑紫(の前身)
親魏倭王が肥。
筑紫平野を巡って長らく戦っていたが
筑紫が筑後を支配下に起き、
肥が筑紫の傘下に入る。
筑紫と肥の連合軍が豊と熊襲を下す。
九州全体の首都が大宰府となる。
この話は景行天皇の話に組み込まれている。
記紀の話を鵜呑みにすれば
景行天皇から成務、仲哀、神功、応神天皇まで
九州にずっといたことになるが
それは考えにくく、畿内の王に
九州の豪族の話を組み込んだだけであろう。 >>510
狗奴国に滅ぼされたんだよ。
魏志倭人伝でも戦争してたって書いてるだろ。
戦時中に指導者が死に、後継者争いの内紛で千人から殺し合い、挙句の果てに十三歳の少女を代表に据えてるんだぜ?
これで戦勝国になったと思うのは能天気すぎるわな。
元々国力は狗奴国70対邪馬台国30で邪馬台国は劣勢。
強国とかありえんのよ。 >>519
>元々国力は狗奴国70対邪馬台国30で邪馬台国は劣勢。
>強国とかありえんのよ。
こういう妄想はどこから来るんだ?
九州説ってほんと不思議 >>466
最新の研究成果を引用すればいいのに、樋口隆康の大昔の研究(1972年)とかw
そもそも木製品が5世紀のものであったとか、なんでそれが絶対的事実と言えるのかも載せないとまるで意味がない
都合の良い事実だけを並べて、ゴッドハンドだと決めつけているだけのこと
こういう幼稚なことを平気でするから九州説の信奉者は信頼をおいてもらえない
恥ずかしい限り >>521
倭国は後漢の頃は100国と付き合いがあったが、今(魏の時代)は30国しか無いと書いてあるだろ。
倭国大乱で30vs70に分裂したと思われる。
その30国が卑弥呼派閥の女王国と考える事がお前にとっては妄想なのか?
妄想の世界に住むお前の言う妄想って何だよ?w 卑弥呼の時代の倭人は、半島で鉄を採るのに夢中でした。
■魏志韓伝より
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は女王国の一員ではなかった(東の倭種の国?)
■裏付け
・纏向遺跡では鉄や九州産の土器が出土しない
・箸墓では鉄製ではない木製の馬具が出土している
・佐原真いわく「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」 >>473
ブスは姫巫女にはなれないし二十歳過ぎてまだ独身だといきおくれで三十歳過ぎれば老婆扱いだ
十五歳を過ぎれば立派な大人だし嫁いで子を産むのが普通の時代だったんだからな 記紀を採用しないでちょう然の説明を聴いて王年代記をチョイスしたんだから、ちょう然より説得力ある説明じゃないとな。神武までは筑紫とあるのでまあ倭奴国は九州だろ、海岸まで追い詰められて滅んだんだろ、誰が殺ったか?さてその後だな。 >>477
お前は貰い物を贈り主に返す無礼をいつもやってるのか? >>524
自分の考えを言わず妄想という言葉だけで可能性を否定しようとするやからは
キナイコシ同様無視するのが一番だ。案外、卑弥呼=記紀の登場人物といった
内容不一致なんて気にしない、まさに妄想と呼ぶにふさわしい持論を持ち、
議論から逃げてるやつの可能性が高いだろう。
僕なら、1世紀は小国分立の時代だったが、3世紀には人口が増えて
広範囲の地域が一体となることで安全保障を確保するようになり数が減ってた、
30国が倭国すべての数と言ったわけではないのだろう等といった、
別の可能性を述べて同意できない意図を示すな。 確率の高い年代ではなく、確率の低い卑弥呼の年代のみ報告するの畿内説のやり方
桃の種の年代
https://i.imgur.com/DyAJWGe.png
捏造する気満々だなw >>524
実際、妄想そのものだろ
後漢時代の100国が淘汰されて、30国になったかもしれない
100国がそのまま残ってたとしても、公孫氏が滅んでからまだ交流を再開してないだけかもしれない
倭国大乱で分裂とか、何の根拠もない妄想
しかも、狗奴国をそんな大国にしたら、九州に50万戸以上を詰め込むことになる
3世紀の九州に人口200万人、300万人とか、現実離れした妄想でしかない 畿内説の自称学者に踊らされ、市税を食い物にされ、捨てられてゆく桜井市・・・
https://i.imgur.com/oBoOgof.png←このまま放置かよ?w
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>531
分裂を連想されるキーワードとして倭国大乱があるだろ。
>後漢時代の100国が淘汰されて、30国になったかもしれない
と連想させるキーワードはあるのか?
それこそ妄想だろ。 >>531←それは妄想ニダ―!と言いつつ盛大な妄想で反論する畿内説はアホw >>532
ガイダンス施設のタイトルに邪馬台国は入れない方がいいだろうな。
大和政権の都とかの方がいいだろう。
英断なんじゃね? >>521
魏志倭人伝の書き出しの部分と、文中に登場する国名からの推測だよ。
魏志倭人伝の書き出し
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
漢の時代は100国程交流があって朝貢もあった。
魏の時代に交流があるのは30国
100が30に減るには、吸収合併か分裂しかないが
魏志倭人伝文中には、30ほどの国名が確かに出てきている。
これらが文頭の交流のある30国であるなら、残りの70国は別にあるということになる。
そして後漢書には委奴国は倭国の南の端あるとも書いてある。
魏志倭人伝では委奴国は狗奴国となり邪馬台国と争ってる。
魏の頃、倭国が北の邪馬台国連合30国対、南の狗奴国連合70国で争っていたと言う事。
委奴国の男王の死去による統治力の低下をきっかけに、北九州が分離独立したのが倭国大乱だという推測。
全部オレの空想だよ。 >>535
いつから言いたい放題やりたい放題になったんだろうな。
https://www.nara-ebooks.jp/?page_id=1526
現状で邪馬台国だの卑弥呼だのという文言を使うのはフェイクニュース。
こういうのって社会問題だと思うがな。 >>539
極一部の爺だけの話で、社会問題とか笑わせるww
そんなに注目されてると思ってるのか?
自意識過剰ww >>533
様々な可能性を示したまでだ
5万戸や7万戸は、韓の国々に比べるとかなり大きな国だ
個々の例だと、奴国と伊都国の間にあった早良国は、
奴国に吸収されたという見解を示してる研究者もいる
したがって、小国乱立の時代からヤマト王権による統一に向けて
国の淘汰が起きていた可能性は十分にある
こういうのは、日本の歴史を学んでない外国人には思いつかないことかもしれんけどな
倭国大乱で分裂と断定的に言ってたのは、他の可能性を検討しないで決めつけた、ただの妄想だ >>539
可能性を否定できない以上、ゆるキャラを作る程度ならOKなんじゃね?
億単位の税金でガイダンス施設をつくるという話になると看過できないが。 そりゃ当時のゼネコン、イワレ組が施工したから箸墓とおなじ設計になってるのは、当たり前。
カドゥノあたりには、あの規模のミササキを設計・施工出来るぎょうしゃなんてなかったからな。 >>542 の続き
まあ、アンケート結果を尊重して九州より控えめにしとくべきだとは思うが。 >187
倭国と日本国の関係は?
どっちも小国だった? 要するに倭国とはどこを指しているのか?さえ判れば、邪馬台国とその連合国家は
倭国の中にある訳だから倭国の範囲を確定する必要がある。
倭人伝には倭国は元百余国、現在魏国と交流のある国は三十余国とあるから
魏使は交流のある三十余国しか行かなかったと言う事だ。その三十余国の中には
對馬国、一大国、末艪国など伊都国までの国も入っている。国の大きさから推測すれば
三十余国は長崎県、佐賀県、福岡県、大分県にあった国々である事が判る
邪馬台国と対立した狗奴国は熊本県と言う事になる。
本州の国々は魏国とは交流が無いから倭種の国としか記載が無い。 うちらがタイムマシンで飛んで卑弥呼に会って
それがたとえ美人でも
風呂もない状態では小汚い女で間違いない? >>486
(‘人’)
魏の時代でも定番の三跪九叩頭だよね(笑) >>548
国の大きさから推測すれば
三十余国は山口県、島根県、鳥取県、京都府 大阪府 滋賀県 奈良県にあった国々である事が判り
邪馬壱國(奈良)
投馬国(近江)
不弥国(摂津住吉)
奴国(因幡)
伊都国(出雲)
末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
一大国(見島)
対馬國
邪馬台国と対立した狗奴国は、帯方郡の公孫氏と結託し、魏国より呉国と交流していた九州の「漢委奴国王」の大国と言う事になる。
九州の国々は魏国とは交流が無いから「古の倭奴国」としか記載が無い。 >>552
当時からそんな広域の連合国ができていたとは思えない ほぼおなじ年代に、同じ皇帝の名で、おなじ唐の国の人間が編纂した
『梁書』倭人伝(629年完成)と『隋書』倭国伝(636年完成)の差が興味深い
『梁書』倭人伝(629年完成)では
南朝梁(502年から557年)の時代に倭国に行くには、対馬から
一支国 − 末廬国 − 伊都国 ー 奴国 − 不弥国 − 投馬国 ー 邪馬臺国
となっているのに、そのあとすぐに完成した
『隋書』倭国伝(636年完成)では
【南朝梁(502年から557年)の時代から、わずか24年後の】
隋(581年 - 618年)の時代に倭国に行くには、対馬から
一支国 − 竹斯国 − 秦王国 − 十余国を経て難波津 − 奈良
となっている
完全に、末廬国は竹斯国では無いし、伊都国は秦王国では無く、場所も国名も、全く違う別のルート >>548
当時の大陸の人間からしたら倭国は九州プラスαだと思う。
九州南端までは行ってないが九州が島なのは知ってるし、
その東にも本州や四国があって(九州から見えるし)
そこにも倭人が住んでいるのも知ってるがそれが東のどこまで続いているか分からない、だと思う。 >>553
島根県東部から鳥取県西部の複数の国々で構成される古代出雲は、紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々で構成されるアマテラスの奈良の国に【国譲り】しており
出雲と奈良は連合国家となって
アマテラスは奈良から出雲に、自分の孫を長官として派遣している アマテラスは大和から追い出された。
アマテラスは本当に皇祖神なのか? >>548
その30か国が邪馬台国連合の構成国とほぼイコールと思う。
邪馬台国は倭人伝のルートで松浦、糸島、福岡、沿岸を関門海峡超えて大分、という解釈なので
遠くて詳細の分からない他の連合の構成国は筑後川や有明海側と思っている。
だからあなたの言うように邪馬台国連合国は
大分福岡佐賀だし、狗奴国は熊本との意見を支持。 『梁書』倭人伝(629年完成)では
南朝梁(502年から557年)の時代に倭国に行くには、対馬から
一支国 − 末廬国 − 伊都国 ー 奴国 − 不弥国 − 投馬国 ー 邪馬臺国
となっているのに、そのあとすぐに完成した
『隋書』倭国伝(636年完成)では
隋(581年 - 618年)の時代に倭国に行くには、対馬から
一支国 − 竹斯国 − 秦王国 − 十余国を経て難波津 − 奈良
となっている
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる
【わずか24年間で】倭国の中心が九州から奈良に移った
なんてこたぁ、ありえないので
単純に、邪馬台国(大和)へのルートが
一支国から「たった5カ国だけで行ける短距離」から
一支国から「十数カ国を経由して行く長距離」に変わった
ことがわかる
つまり
一支国から島根に上陸して奈良にいくルートから
一支国から福岡に上陸して奈良にいくルートに変わったのだ 魏志倭人伝には邪馬台国の東の海の1000里には「倭種の国」(倭人とよく似た人達の国)があり、
その南の邪馬台国から4000里の場所に侏儒国があったと書かれている。
そして侏儒国は「小人の国」という意味で、背が低い人種が住んでいたと書かれている。
現状、邪馬台国九州説も、畿内説も「小人の国」や「倭種の国」がどこにあったのか説明できていない。
「小人の国」は種子島だという説もあるが、 そうすると今度は邪馬台国の東の海の1000里にあった「倭種の国」がどこかわからなくなる。
だが「小人の国」が、九州の北にある壱岐島であるとするとすんなり説明がつく。
「小人の国」は「倭種の国」の南にあったのだから、「倭種の国」の場所は壱岐島の北。 地図を見ると対馬とわかる。
そして「倭種の国」は邪馬台国からは「東の海の1000里」にあったのだから、邪馬台国の場所は対馬の西側、ちょうど朝鮮半島の泗川にあった事になる。
長崎大学の研究チームによる発掘調査によれば、壱岐島からは小柄な縄文人種の人骨が見つかっていて、
彼らは卑弥呼の時代の後まで小柄な縄文人種が住んでいた事がわかっている。
この発掘調査の事実からも邪馬台国が朝鮮半島にあったことはほぼ間違いないと思われる。 >>554
南朝梁の時代のルートが300年前の魏志倭人伝と同じ!?
それ間違ってないか?
それとも大陸側が倭国の情報収集ができてなくて300年前からアップデートされてないとか。 >>558
まったく違います
邪馬台国は倭人伝のルートで、
島根に上陸して出雲を経由して、京都大阪を抜けて奈良
という解釈です >>559 私、卑弥呼の墓は安徳天皇陵。
それと卑弥呼って言うの止めてください。
卑弥呼ではありません。 >>561
『魏志』は、
卑弥呼が死亡し台与が変わりに女王となった直後の
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に書かれているが
『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』と『晋書』は
唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された
その後
『旧唐書』が
後晋(936年- 946年)の時代、945年に書かれ
『新唐書』が
北宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた >>562
邪馬台国が奈良かよ。
話が噛み合わないわけだ。 その
唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』で
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる
【わずか24年間で】
倭国の王の国に行く行程の、国名も、経由する国の数も、書き分けられている
ということは >>559 >>548
倭は南朝鮮〜北九州までの地域
公孫氏に帰属している
ぐらいまでが確実かな これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』では
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる【わずか24年間で】倭国の王の国に行く行程は対馬から
一支国 − 末廬国 − 伊都国 ー 奴国 − 不弥国 − 投馬国 ー 邪馬臺国
から
一支国 − 竹斯国 − 秦王国 − 十余国を経て難波津 − 奈良
へと、経由する国の国名も、経由する国の数も、書き分けられている
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる
【わずか24年間で】倭国の中心が九州から奈良に移った
なんてこたぁ、ありえないので
単純に、邪馬台国(大和)へのルートが
一支国から「たった5カ国だけで行ける短距離」から
一支国から「十数カ国を経由して行く長距離」に変わった
ことがわかる
つまり
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる【わずか24年間で】ヤマトタケルが西征して
一支国から奈良に行くルートは
島根に上陸して奈良にいくルートから
福岡に上陸して奈良にいくルートに変わったのだ それよりも先ず「むこうし」って読める人居るんかな? 卑弥呼は世界中にいた
イナンナ イシュタール ビーナス マリア セミラミス 始皇帝の母親
これらは同一人物と言われている 唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』では、倭国の王の国に行く行程は対馬から
一支国 − 末廬国 − 伊都国 ー 奴国 − 不弥国 − 投馬国 ー 邪馬臺国
から
一支国 − 竹斯国 − 秦王国 − 十余国を経て難波津 − 奈良
へと、経由する国の国名も、経由する国の数も、書き分けられている
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる【わずか24年間で】倭国の中心が九州から奈良に移った・・なんてこたぁ、ありえないので
単純に、【この24年間で】邪馬台国(大和)へのルートが
一支国から「たった5カ国だけで行ける短距離」から
一支国から「十数カ国を経由して行く長距離」に変わった・・ことがわかる
つまり
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる【24年間で】ヤマトタケルが西征して
一支国から奈良(邪馬臺国・日本国)に行くルートは
島根に上陸して奈良にいくルートから
福岡に上陸して奈良にいくルートに変わったのだ つまり
末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国は、九州の国々では無い
のだよ 出雲あたりに上陸したなら南へ水行して投馬国が下関、邪馬台国が北部九州だな。 狗奴国は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有し
豊玉彦
彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
と、代々男王が統治する
九州一帯の倭奴国
240年に「親魏倭王」に任じられて、たかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国は、文明などありゃしないので
文明が発達していた九州に邪馬台国があるほうが変ですよ 狗奴国は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有し
豊玉彦
彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
と、代々男王が統治する
九州一帯の倭奴国
唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』のルートの変更から
南朝梁(502年から557年)から、隋(581年 - 618年)へ変わる【24年間で】ヤマトタケルが西征して狗奴国を討伐し
奈良(邪馬臺国・日本国)はようやく
島根に上陸して奈良にいくルートから
福岡に上陸して奈良にいくルートを使えるようになった
ことがわかる >>568
僕は帯方郡が河口は同じで別の支流の流域にあるんじゃないかと思うけどな。 ヤマト王権は邪馬台国とは別の集団だよ。
大和朝廷の正史である日本書紀には、弥生時代の河内湾、河内潟の様子が描かれている。
7〜8世紀の人間が発掘調査で河内湾や河内潟を突き止めたとすれば、邪馬台国も消し飛ぶような大発見。
河内湖、河内潟、河内湾と言う地質学的な事実を覆せない限り、少なくとも神武東征は紀元前数世紀から三世紀までにするか
少なくともその時点で畿内には記録を後世に残せた集団が住んでいた事になる。
ここをすっ飛ばしてやるのが九州王朝説 邪馬台国を有明海側に比定してる人は、東の海の向こうの倭種をどう解釈してんの?
有明海側と大分の方は関連がないだろ?
何もないけど女王国連合にするの? >>582
女王国は連合という解釈が無難だろな。
この国もまた女王に属する、などという記述も出てくるんだから。 >>583
無関係だけど、同じ連合ってことにするの? >>582
30国程は女王国連合に混ぜられるんだから、九州北東部も混ぜられるやろ。
海を渡った本州四国側は無理筋やけど。 邪馬台国は筑後地方で良い、邪馬台(連合)国の東は海(瀬戸内海)が
あり1千余里行けば倭種の国(愛媛県)があると解釈すれば良いだけ。 >>585 >>586
残念ながら
島根県東部から鳥取県西部の複数の国々で構成される古代出雲は
紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々で構成されるアマテラスの奈良の国に【国譲り】をして
出雲と奈良は連合国家となって
女王アマテラスは奈良から出雲に、自分の孫を長官として派遣している つまり
出雲と奈良の連合国が邪馬台国
だから、奈良より北の出雲諸国は、皆、アマテラスの女王国に属しており
女王アマテラスが奈良から出雲に派遣した、アマテラスの孫の瓊瓊杵尊を恐れている
わけだ 九州は昔も今も、土人しかいない。
文明作るの無理。 >>587
新しくやってきた勢力に譲歩する代わり棲み分けた感じだな そのアマテラスはなんで魏に助けてくれと頼んだんだ? 九州倭国の東の倭種だろ。
本州か四国かはわからんが。 >>580
真っ赤なウソ
日本書紀の記述に合うのは、5世紀以降の地形だ
難波碕(大阪城のあたり)から河内湖に入れるのは、難波の堀江が掘削された5世紀以降に限られる
それ以前は、上町台地の大阪城あたりから砂州が現在の新大阪駅付近まで伸びていて、
難波碕からは河内湖に入れない
日本書紀の記述に合う地形が、5世紀以降いつまで続いていたかは不明だが、
奈良時代にも難波の堀江から大和川を遡上して奈良盆地まで行ってたこと、
平安時代になっても白肩津付近に大きな池があったことから
日本書紀が書かれた時点でも、同じような地形だったかもしれない
http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail/rekishi/detail_p07.aspx >>488
完全に九州だな
畿内説のかたざんねんでした >>591
島根県東部から鳥取県西部の複数の国々で構成される古代出雲が
紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々で構成されるアマテラスの奈良の国に【国譲り】をして
出来た、出雲と奈良の連合国家は
呉国と密かに交流していた帯方郡の公孫氏を魏国が滅ぼしたことに乗じて
出雲から、遣使を魏国に派遣して「親魏倭王」となったものの
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ
それから150年間以上、倭の国王として君臨し
帯方郡の公孫氏勢力が、大挙して亡命してきた、九州の倭奴国
との力の差は歴然だったのさ 竪穴式石室の方が横穴式より古いのね。
この点、ニライカナイのような水平の他界観の方が、
天孫族の持ち込んだ鉛直の他界観(高天原−中津国−根国)
よりも古いのと反対ではある。
が、イザナギがイザナミを追って入った根の国は地下ではなく
黄泉平坂からの地続きで、その意味では横穴式石室の世界観か。 横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大き分けられる。
■「九州型」は
4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に
前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後
5世紀には九州各地へ拡がっていく。
普及する過程で「肥後型(熊本県)」や
「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、
地域色がみられるようになる。
九州外へもわずかに拡散するが、肥後型石室の
構造をよく残しているのは岡山市の千足古墳である。
■「畿内型」は
5世紀終わり頃に出現するが
6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。 そうか、「邪馬台国」の首都が「女王国」なのか。
「京都」みたいに固有名詞がなかったんだな。 >>598
当時の倭種は長門、安芸、伊予辺りまでで、
倭国にとってそれ以外は蝦夷同様の未開の地扱いだったりするかも。 >>594
九州で確定してるんだけどな
ただ、この論争をやめると仕事が無くなる人が多すぎるのでやめられないと言う
アホみたいな本当の話 >>582
邪馬台国本国は筑後川沿いでも、邪馬台国連合国の勢力範囲は大分福岡佐賀なんだから
「女王国の東を海を渡ること1000里で和種の国」
が豊後水道を超えた四国西岸なのは矛盾しないよ。 近畿が九州に東征されたのは間違いないだろう
鉄器の分布だよなやっぱ、 >>602
その和種の国から南に進む、女王国から4000里の侏儒国。
倭人伝の記述は45度ぐらいズレてるから実方向は南東方面。
水行とは書いてないが海路宇和海を足摺岬まわって土佐中村あたりと思う。 >>604
南東に水行一年の裸国や黒歯国ってどこなんだろうね?
二倍暦だから実は180日らしいし倭人伝のズレからして実は真東に近いとみていい。
土佐中村の侏儒国から東に進んだら室戸岬、淡路島、明石海峡に進むと思う。 >>554
「末廬国 − 伊都国 ー 奴国 − 不弥国」辺りの国々が合併して
「竹斯国(=筑紫国)」になっただけちゃうんか?
浦和市と大宮市と与野市が合併して「さいたま市」に改称したのと一緒w 裸国や黒歯国が初期大和朝廷ないし大阪奈良の銅鐸文化圏の国である可能性は少なくないと思う。
まあ距離が曖昧だから畿内をスルーして伊勢湾付近の国かもしれないが。 邪馬台国の時代に鉄も絹もない最も遅れていた
未開の地の奈良が裸族の国だろう >>480
これじゃ狗奴国と隣接している最前線じゃないか 投馬が秦王国ってのがいいよねえ。記紀のデタラメさ加減が理解できて。 九州説って、中国人は日数を数えることもできなかったけど
方角だけは正しく把握できてたってのが根拠? まぁ、先行研究にも目を通さず妄想撒き散らしてる感じではあるよな
だからなぜ学会に九州説が皆無なのか理解できない とまぁ、このように
九州説にもいろいろな説があるという事だろ
なのに、九州説はこうだからダメだと決めつけるのは
ロジックとして間違いだわな
そうではない九州説も存在するという事だ 畿内説さんは莫大な九州の遺跡の報告書を
まともに読んでないんだろうなあ。
まあ、実際積んである各地の報告書を見ると
めまいがしそうになるが。
正直言って、コンテナがびっしり積んであると
うんざりする。 この古墳は古墳の最初期の変遷を知るうえでとても興味深いな
後に継承される規格の原型があるのと同時に、この時だけの規格があったりする
どういう意味で取捨選択がされているのかとか考えるとすごく面白い
ただ言える事はこの古墳出現の最初期の段階から古墳の規格は共有されていて後の古墳にも継承されていると言う事
畿内に成立した古墳の文化は、後の古墳時代の政治的勢力との密接なつながりを持ってるのが分かると言う事だな
おもしろい >>611
たぶん、中国王朝に報告したやつが適当なでたらめ言ったと考えるべきだと思うけどな。
宋書の倭の五王からも散見されるし。
倭国王の焦りっぷりを暗示してるんかもな。
隋の頃は併合後の可能性が高いとは思うけど。 >>620
畿内と周辺地域は地方税を使って地元大学に古墳時代をきちんと調べてもらって
大和政権勢力範囲各地域の状況の変遷を調べてもらって
大和政権の実態解明の手助けをしてもらってもいいんかもしれんな。 もっと陳寿について調べた方が早いような気がするな(´・ω・`)
そもそも卑弥呼なんていなかったかも
シルクロードで伝わってたクレオパトラと重ねてふざけて書いたかも
だいたい三国志のおまけに書かれてるだけ >>34
壺って考えたら反対だよね
まあ語呂がいいからみんな納得してるけど >>612
あんまり近いと旅費を盛れないだろ
っていう説
個人的には幾内推しだが >>34
図形の底辺が安定してた方がいいって現代の価値観だぞ(´・ω・`)
三角形を描かせてみ
みんな底辺を下に描く >>624
仁徳天皇陵見ても方側に鳥居建ってるし、そっち側から入ってくのがしきたりなんじゃないの? >>612
帯方郡から女王国まで12000里とハッキリ書いてるのに
なぜ無視するの
それを入れるととっても不都合なことでもあるの >>624
>>626
円の部分が墓で、方の部分が儀式のためのスペース
これから儀式を行おうとする人の立場を想像すると前方後円墳というネーミングがいかに自然か解る >>628
後漢書では楽浪郡からも一万二千里って書いてあるんだよ。
大月氏国までの距離やら他にも一万里を超える行程がいくつかあるんだが軒並み全然正しくない。
一万二千里は本当の距離ではないと言うことだよ。 >>630
どの説が本当の距離だって言ってたの?
まあ、無意味な距離でもないけどな。 ヒミコを「卑弥呼」と書くのはもう止めにしようよ!
外国人の悪意ある当て字を使い続けてるのって何なの?
当時、日本に文字が無かったんなら漢字をつかう必要はなく、日本語独自の仮名でいいじゃん。
魏誌に「卑弥呼」の記述があったという事実だけ教科書で教えればいいだろ。 >>628
帯方郡から12000里だと、畿内でも不一致、九州でも不一致、沖縄でも不一致
帯方郡から12000里は赤道付近まで行ってしまう
だが、そんなところに帯方郡からは行けない
魏志倭人伝の12000里が正しくないということ 帯方郡から末盧国まで1万里になる記載があるから九州以外は不可能なのに畿内派はキチガイしかいない 倭国を遠く大きな国に見せかけてるよね
実際の距離より5、6倍、説によれば10
倍に換算してる
里数だけ誇張しているとする特段の根拠がなければ、必然的に移動日数もさらには戸数、墓の大きさなども誇張してると考えるべきだろう
して考えると、九州説の一部が短里説をとってるから誤解してる人もいるが、短里説は畿内説にこそ都合がいいんだよね >>634
帯方郡から末盧国まで1万里は、魏志倭人伝の里が正しくないことを表している
それなのに、なぜか九州以外は不可能だと言い張る
論理的に物事を考えられない証 >>636
中国でも日本でも数種類の里があるのに正しい里とか言ってるから畿内派はキチガイと言われる
魏志倭人伝は短里で全ての行程が合致している >>637
>中国でも日本でも数種類の里がある
この時代に複数の里があったことを証明すればいいだけだ
>魏志倭人伝は短里で全ての行程が合致している
言い張るだけでは無意味
短里とやらに全ての行程が合致してることを証明すればいい >>635
10倍だと距離の記述は結構一致するんだよな
そして古来から中国では成果の数字は10倍して公表する風習があった 卑弥呼とは「陽の巫女」であって「蛭子」ではないだろうな。 帯方郡治から狗邪韓国までが
(ソウル) (釜山)
7000里
なので一里80から100mだよ 九州説は短里とか言ってるからどんどん学問から離れて行くんだよ
学者はもう離れてしまったが、一般向け歴史モノの本にはまだ載ってる
そのうち、一般向けの歴史本からも消えて、月刊ムーにしか残らないだろう >>641
帯方郡治から狗邪韓国までが百数十メートル、
狗邪韓国から末盧国までは八十メートルくらいってとこかな。
朝鮮半島沿いの航海より対馬海峡の横断の方が1日当たり移動できる距離が
短かったことを暗示してるんだろうな。 畿内説でも九州説でもいいが「12000里を短里で測量した」はやめたほうがいいと思う
中国の学者からして、古代中国史書の距離は観念的数値または誇張で信頼性なしって言ってるんだから >>639
露布の原理って言うんだってね
倭人伝はやたらきりのいい数字が多いから一律十倍を疑っても良さそう
なかには、距離が十倍だから面積はその二乗の百倍で、戸数は百倍に誇張されてる説もあるけとそれはちょっと違う気もする 卑弥呼は天日矛の孫で最初から乗っとる為に新羅から送られた殺し屋よ。畿内説を借りりゃあ、前王朝を始末して巻向に新たな宗教施設を打ち立てて大和の萌がをこさえたんだろ。黄巾の乱から迫害逃げてきた宗教教団が元かもしれないらしい。 >>647
まぁその可能性も一部否定できないというか、天日槍=秦氏という説はわりとある
天日槍と秦氏の逸話が残っているところがかなり一致していたり 短里厨がいる限り、九州説はトンデモ扱い
畿内説支持の立場からはありがたい存在
感謝したいくらい >>649
少なくとも伊都国から水行30日もかかるようなところに邪馬台国はなく、
この矛盾を解くには放射説しかありえないという提案に関しては非常に論理的だと思うけどな。
トンデモ、妄想、間違いと言って逃げてばかりで
議論できないキナイコシよりはよっぽどまとも。 >>44
>>629
みんなありがとう、
手前の「前」なのね
初めて納得したわ そもそも畿内説は神武の後でないと成立しない、神武までは筑紫と王年代記にも記され中国正史に採用されたんだからね。畿内説的には奈良移転後邪馬台国成立であり、祭嗣が異なる人種政権誕生で天皇系譜は完全に途切れる、ゆえに記紀は信者本で偽書である。 >>653
神武で思い出したが(というかさっきラグビーのニュージーランド代表の
「ハカ」を見て考えたんだが)、久米軍団が唄う久米歌も
ハカと同じように勇壮な振り付けがあったんだろうね。
目を剥いて舌を出して「討ちてしやまん! ワッハッハッハ!」とか。 >>607
まーーた、九州説者はそうやって、すーーぐ、妄想で九州に無理矢理結び付ける(笑) >>656
俺のイメージと違うw
宮廷舞踊になっちゃうとダメだよな。 >>653
まず倭国では
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有し
豊玉彦→彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)→彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と、代々男王が統治する九州一帯の倭奴国が、
倭国で一番歴史があり、一番デカくて軍事力も強大な大国として存在していた
日本の記紀でも
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれ
伊弉諾尊からまず
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が生まれ
その天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていたのが筑紫城・・つまり九州
となっている
このとき奈良はまだ、部落レベル >>658 つづき
その数年後か数十年後に
天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
素戔烏尊(すさのおのみこと)
が生まれて、伊弉諾尊から
天照大神尊は、高天原(奈良)を統治せよと言われ
月読命は、伊邪那美命の根之国(出雲)を統治せよと言われ
素戔烏尊は、豊玉彦の筑紫城(九州)を引き継げと言われる
しかし素戔烏尊はそれを断ったため、素戔烏尊は伊弉諾尊から勘当されて
奈良の天照大神尊の「高天原(邪馬台国)」に立ち寄って、そこも追い出されて
素戔烏尊は五人の息子をアマテラスの元に置いたまま出雲に行き、娘が大国主と結婚して「葦原中国」を造った >>653
逆逆。もし神武東征のようなものがあったなら卑弥呼以前しかないと言われてる >>659 つづき
その数年後か数十年後
島根県東部から鳥取県西部の複数の国々で構成される古代出雲「葦原中国」は
紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々で構成されるアマテラスの奈良の「高天原(邪馬台国)」に【国譲り】をして
女王アマテラスは奈良から出雲に、自分の孫を長官として派遣
連合国家となった出雲と奈良は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
倭国で一番歴史があり、一番デカくて軍事力も強大な大国として存在していた九州一帯の倭奴国と
肩を並べる倭国の大国となる
そうなると出雲と奈良の連合国家が目指すのは「倭国の王」
後漢が消滅し、九州一帯の倭奴国と関係が深かった公孫氏が滅亡して帯方郡からいなくなった絶好のタイミングで
千載一遇のチャンスとばかりに、出雲から魏に朝貢を開始して
240年に見事「親魏倭王」をゲットする >>660
それ言ってんのは畿内じゃないと困る人だけ
実際は考古学的に見て4世紀初めころ
830 :日本@名無史さん :2019/09/14(土) 13:46:47.04
>>829
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
>>825
福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
>>825
>>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>661 つつせき
しかし、魏から「親魏倭王」をゲットしたとしても、元の倭国王の「漢委奴国王」九州一帯の倭奴国が、奈良の「親魏倭王」の邪馬台国に、素直に恭順するかと言えば、それは別の話で
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
倭国で一番歴史があり、一番デカくて軍事力も強大な大国として存在していた九州一帯の倭奴国は
国王「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊」の第4皇子の神武を、奈良の「親魏倭王」の邪馬台国に進軍させ、
見事、「親魏倭王」が統治する奈良の邪馬台国を、
天皇「神武」が統治する奈良の大和国へと、変えてしまう >>664 つづき
そして九州一帯の倭奴国の国王「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊」は、
奈良の邪馬台国を制圧した息子の神武に対して
対馬の変わりに一支国(壱岐)を使用することを許可し
神武が長官として統治する奈良から大陸に行くルートは
280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国− 対馬國− 【一大国(見島)】− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良)
から
『梁書』倭人伝(629年完成)
帯方郡 − 【一支国(壱岐)】− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良)
に変更となる >>665 つづき
そして神武が死亡後に、つぎの奈良の大和国の長官「天皇」を誰にするかで
奈良の大和国と、九州一帯の倭奴国が対立
泥沼の戦いにより、次の天皇は
神武が九州の倭奴国にいるときに生まれた皇子ではなく
奈良の大和国で生まれ育った皇子となることが決まり
奈良の大和国と、九州一帯の倭奴国は、決定的に国交を断絶
今度は奈良の大和国がヤマトタケルを九州一帯の倭奴国に進軍させて、九州一帯の倭奴国を軍事制圧
これでめでたく奈良の大和国は、九州の港を使用できるようになり
『隋書』倭国伝(636年完成)
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
で、聖徳太子が遣隋使を派遣するわけだ >>662-663
畿内説は根拠のない妄想ばかりなのに対して
九州説はちゃんと考古学の裏付けがあるから説得力があるね >>662
鉄器が少なかったのは周りを銅鐸圏に囲まれてたし、
瀬戸内海交易を始めることができたのはおそらく孝霊からだったからじゃないかな。
それ以後にしても、大量の鉄器と交換できるほど米がふんだんにあるわけじゃなかったんだろうし。 まず、畿内説、九州説なんて考え方は古い考え方なのでやめたい
よくわからないものを二つに絞って対立してるようで歴史学らしくない
対立の問題は明白だ
古代中国の歴史書、中国人は朝鮮半島南部と九州島の地名、国名と指摘
鉄や硯など大陸との交易の痕跡、全国各地にある様式の異なる古墳群
銅鐸祭器民族の存在、銅鏡は祭器なのかただの献上品なのか、豪華な鉄鏡の存在と、何故日本歴史上重要されなかったか
これとは別に、700年代に作られた日本書紀や古事記、ヤマト朝廷が仏教を導入するまで文字が取り入れられておらず、日本には記録や文字が無かったとするもの
小国乱立を認めず、全国には古い縄文人村と豪族しかいなかったとするもの
主に巨大な前方後円墳、異常な多さの三角縁神獣鏡、桃関連、
5世紀以降の筈の騎馬に関する遺物、ヤマト朝廷重臣と天皇陵とされる古墳、年代の曖昧な土器
これらはかなり曖昧なものばかりだが、畿内ヤマト朝廷関連である
弥生時代人を渡来人と決めつけ、天皇家渡来人を強く主張するものもいる
この二つが、お互いを否定しあい延々と対立するのは不毛な争い
曖昧なものは優先順位を下げる、確実なものから事実だけを積み重ねていかないと
いつ日本列島が統一され、ヤマト朝廷とは何ものか、歴史は見えてこない まあ山奥の湖畔の地だった奈良も
飛鳥時代には土木工事のお蔭で人が増えた。
だから、なにも弥生時代の終わりにまで
ムリな背伸びをする必要はないと思うけどな 掘るなら今のうち掘っとけ。
やんごとなき身分の墓だとわかれば宮内庁から待ったが掛かり、真相は闇だぞ >>667
残念でした
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡・出土品なのか、
「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡・出土品なのか、
全く区別がついておらず
考古学的裏付けが全く無いのに勝手に
「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡・出土品だと言い張っている
のが九州説
糸島市の三雲・井原遺跡にしても
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡の可能性の方が高いのに
考古学的裏付けが全く無いにもかかわらず「親魏倭王」の伊都国だなんて言っちゃってる >>668
日本の場合、鉄器って青銅器とほぼ同時に伝わったとされてるんだよね
なのに3世紀以前の畿内は青銅器だけで鉄器がない
技術そのものは古いのに作れていないのは、>>662や>>663で触れられているように北部九州勢が原材料の輸入を独占してたせいだろう
ならば4世紀まで原材料を入手できなかったのは勢力が別だったから以外には説明できない
3世紀の邪馬台国の頃は北部九州が倭国の中心だったことに疑いの余地は無いね 台与「なんでも卑弥呼卑弥呼卑弥呼!もううんざりよ!」 >>674
3世紀の邪馬台国の頃は北部九州が倭国の中心だった
どころか
北部九州は、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上すっと「倭国王」として君臨しつづける、
倭国の中心だっつーの 畿内説擁する古代史研究の学会は世界の恥
日本の恥部
生き恥さらすな 赤の他人の墓を掘れば、祟りがあるかもしれない。
下品な趣味であることは確か。 >>674
3世紀の邪馬台国の頃は北部九州が倭国の中心だった
どころか
北部九州は、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上すっと「倭国王」として君臨しつづける、
倭国の中心だっつーの
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国なんか
比べ物にならねーよ >>674
僕の推測は出雲族の稲は北陸だと比較的よく育つが、
畿内では育ちにくかったんじゃないかと思ってる。
秦人が入って来た新しい出雲族は製鉄技術を持ち、
国譲り以後冷え込んだ関係のため、古い出雲族が住む大和以外の畿内の土地等で製鉄を行い、
九州北部勢力の米と交換してたんじゃないかと推測してる。
もちろん原材料を九州北部勢力が調達してた可能性もあるだろう。
ただ出雲経由でも一応原材料を入手するルートもあったと思う。 >>1
当時は大阪全域が海で、高槻市付近が港で、
そこから物資を運んだりは可能だったろうな
だから京都府向日市が邪馬台国だったというのは
現実的に有り得なくはない
台風の高波被害にも受けにくく、かと言って港湾にも遠くなく
安全なエリアだったのかもれない 最初の女帝、卑弥呼
最後の女帝、壱与
これにロマン感じるわ
邪馬台国は本当に素晴らしい >>674
3世紀の邪馬台国の頃は北部九州が倭国の中心だった
どころか
北部九州は、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上すっと「倭国王」として君臨しつづける、
倭国の中心だっつーの
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国なんか
比べ物にならねーよ
つまり
糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡の可能性の方が高いんだ
なのに考古学的裏付けが全く無いにもかかわらず「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡だなんて言っちゃってる >>4
卑弥呼はシナ人の当て字
おそらく本来の発音は日向(ヒムカ)か妃巫女 3世紀の邪馬台国の頃は北部九州が倭国の中心だった
どころか
北部九州は、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上ずっと「倭国王」として君臨しつづける、
倭国の中心だっつーの
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国なんか
比べ物にならねーよ
つまり
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
出土する鉄器や硯、鏡にしても
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡・出土品
・・の可能性の方が高いんだ
なのに考古学的裏付けが全く無いにもかかわらず
「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡・出土品だ・・なんて言っちゃってるのが九州説 まぜか朝鮮半島出土してる土器やらと同じものがでて邪馬台国は朝鮮移住者が
造ったことにされるんだろ?w 卑弥呼(魏志)に続いて、中国の正史に倭人が登場するのは、晋書武帝紀の西暦265年と266年
これが壱与の三、四度目の遣使
西暦247年の即位当時13歳だった壱与は、266年のときは32歳
西暦240年に卑弥呼が「親魏倭王」になってからわずか26年
ここで中国の正史に倭人は登場しなくなり
次に登場するのは、壱与の最後の遣使から147年後の
晋書安帝紀(東晋)413年の神功皇后の遣使 >>674
>日本の場合、鉄器って青銅器とほぼ同時に伝わったとされてるんだよね
>なのに3世紀以前の畿内は青銅器だけで鉄器がない
>技術そのものは古いのに作れていないのは、>>662や>>663で触れられているように北部九州勢が原材料の輸入を独占してたせいだろう
ここ重要
テストに出ます 日本古代史ってホントもったいないよなあ。
中国の影響があったから、どんなに遅くとも3,4世紀には文字を書ける人も、書く道具もちゃんとあったはず。
それなのに自分たちで自分たちのことを書いた記録が残ってないんだから。
きっと、豪族たちの合従連衡とか、各地の開拓史とか血わき肉躍るエピソードがたくさんあるはずなのに。
神社の縁起とかにはそれらしいのがあるが、どうも断片的でよくわからん。 >>688
なんの疑問もなく当然だな
北部九州は、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上ずっと「倭国王」として君臨しつづける、
倭国の中心だ
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった
奈良の邪馬台国なんか比べ物にならない これ京都の葵祭は
卑弥呼に繋がる祭りの可能性すらあるな 三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式で「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」
重要文化財「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」が
戦前に大分県日田市で見つかっている
なんの疑問もなく当然だな
九州は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられ、
それから150年間以上ずっと「倭国王」として君臨しつづける、倭国の中心だ
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった
奈良の邪馬台国なんか比べ物にならない >>674
ということは、>>663のこの図はそのまま北部九州との親交の度合いの反映と見ていいわけか
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
北部九州と仲が良かったのが因幡、伯耆、丹後、越前、播磨、摂津、淡路
山陰山陽はそれなり、遠くてもつきあいがあったのが信濃、総国
そして畿内大和は没交渉と つまり
遺跡がデカければでかいほど
出土品が中国でも最高級なモノであればあるほど
そこには邪馬台国は無かったことになる
のだ つまり
遺跡がデカければデカいほど
出土品が中国でも最高級なモノであればあるほど
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国にあったわけがなく
そこには邪馬台国は無かったことになる
のだ 240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国
から出るものは
桃のタネぐらいで精一杯
つまり
デカい遺跡も、中国でも最高級なモノとされる出土品も
邪馬台国からは出るわけがないんですよ >>693
>ということは、>>663のこの図はそのまま北部九州との親交の度合いの反映と見ていいわけか
親交っていうか進行あるいは侵攻だな
物の交易だけしていたわけじゃなく、北部九州の海人族は現地に領土を拡張している
鉄器独占という優位性を背景に支配者として各地に進出していたようだ
https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。 >>697
はいはい
遺跡がデカければデカいほど
出土品が中国でも最高級なモノであればあるほど
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国にあったわけがなく
そこには邪馬台国は無かったことになる
240年に卑弥呼が「親魏倭王」に任じられ、
それからたかだか40年かそこらで消滅してしまった邪馬台国
から出るものは、桃のタネぐらいが精一杯
デカい遺跡も、中国でも最高級なモノとされる出土品も
邪馬台国から出るわけがないんですよ >>689
漢人でも読み書きができた人はごく一部だろうからな。
日本列島に渡ってきた読み書きができる人は非常に少ないだろう。
その人が書き残したものが何百年もの時を経て後世に伝わる可能性も低いだろうからな。
石とかに刻んどいてくれればいくらか伝わったんだろうけど。 >>692
唐書で倭が日本という小国を併合して、国号を日本に改めたって記述が有るけど、
実は逆で、大和の勢力が日本で倭を併合したんじゃないかな。
倭王は鎮東大将軍に叙爵されてるわけだし、逆だと不都合が有るからね。 >>697
>>663で言われているように四世紀に畿内が北部九州の支配下に入ったんだろうな >>702
箸墓はもっと後だよ
箸墓より形式の古いホケノ山が四世紀だから
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 箸墓は槨埋葬確実だし、
殉死も百余人は不可能。
初期の前方後円墳の中で、
最大の箸墓が卑弥呼の墓って、
畿内説の犯した大きな戦略ミスですわ。 九州説は日本の古代史を完全否定だな
ド素人が創作したデタラメ古代史をこんな掲示板いくら力説しても
歴史は改竄できない >>704
というか畿内に殉葬の風習がまったく見られないんだよね
これは他地域でも概ね同様で、日本ではほとんど見られないと言い換えてもいいけど
唯一例外的に多数の殉葬が認められているのが久留米の祇園山古墳
ここが卑弥呼の墓だろうね >>705
畿内説を唱えてるのは、
「大声で言い張れば勝てる」と信じてる韓国人かなんかか。
日本のスタイルには合わない 57年107年が漢倭奴国王となってるけど狗邪韓国は後漢書には倭の西北は狗邪韓国となってて接するじゃないから倭国連合とも言えるから100国時代は倭人の昔氏が漢倭奴国王かもしれんぞ、畿内説は巻向にヤマト誕生であって。記紀は仲哀神功以前は無で全部創作とも言える。 祇園山古墳の甕棺は伊都国と関係ある様式だし、伊都国は邪馬台国の衛星国。
伊都国は糸島平野にあったとされそれなりの古墳や物も出土している。
他の古墳は殉葬が見られないのも厳しいな。 邪馬台国論争で盲点なのが京都だからな。
平城京から平安京に至る過程が結局先祖の土地に戻りましたっていう、一番つまらないオチ。 >>706,710
糸島の平原古墳にも小規模だけど殉葬の形跡があるんだよね
やはり伊都国と邪馬台国の文化的つながりのように思える 若いころ俗説を信じてしまったが、老化とともに自分の間違いを
認められなくなってる哀れな九州爺さん
畿内説を否定したいために、必死に嘘を連呼し
歪曲で意味を180度変えて実質的に捏造をやり
残り少ない人生を無駄にしてる哀れな九州爺さん このスレだけでも九州説は考古学的に検証しているのに畿内説は何もできてないよね
反論を諦めて印象操作に走るだけで もう畿内と九州どっちが正しいかWTOに提訴した方がいいな。 考古学者は考古学的に畿内だと言う
九州説の連中は考古学的に九州だと言う
考古学者か九州説の連中のどちらかが嘘をついていることになる >>715
九州説が考古学的に検証している
というのであれば
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
鉄器や硯、鏡などの出土品にしても
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡・出土品・・ではなく
「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡・出土品・・であるという
考古学的な証拠を示せ 畿内説の考古学者は確実に嘘つき
>>703のとおり科学的分析により否定されたことを未だに主張しているのが畿内説
畿内説は京大の先輩が畿内説を唱えていたから学閥のしがらみで捏造してでも言い張り続ける体質が出来上がった
もはや学問とは呼べない 考古学的も何も弥生時代の遺跡なんて何処にでもある上、魏志倭人伝の内容が曖昧すぎて
好きなように解釈できるからどこでも邪馬台国を名乗れてしまう。 >>717
畿内には、3世紀の邪馬台国以前に、大国があったという考古学的資料が無い
なので、畿内で3世紀の大型遺跡や出土品が出たら、それは邪馬台国のモノである可能性が高い
いっぽう、
九州には、3世紀の邪馬台国以前、1世紀、2世紀に
後漢(25年 - 220年)から「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】という大国があった考古学的資料がある
なので
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
鉄器や硯、鏡などの出土品にしても
倭奴国の遺跡・出土品の可能性の方が高い >>719
ほれほれ
九州説者は
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品が
「漢委奴国王」の倭奴国の遺跡・出土品・・ではなく
「親魏倭王」の邪馬台国の遺跡・出土品・・であるという
考古学的な証拠を示せ >>718
魏志倭人伝で北部九州の国々を30近く記録しているが倭奴国は存在しない
倭奴国がお前の言うような大国として残っていたならばそのようなことは起こり得ない
はい論破 >>719
昔は九州説だった東大も今では畿内説なんですが、学閥のしがらみってなーに? >>1
京都の嵐山は、中国系の秦氏が住み着いていたことで有名
その秦氏は瀬戸内海一円にも一族を配備していたわけで
向日市の墓はその一族のだれかにすぎないのだ
(長岡京を一旦置いた場所で、その後今の平安京へ遷都)
京都の右京一帯は湿地が多く余り発展しなかった
京都の映画村の地名が太秦なのからおよそわかるわな
しかし、その秦氏をもってしてもお茶の栽培には失敗し、今の宇治でやっと成功したとのことだ >>723
残念でした
魏志倭人伝に出てくる国々は、出雲と奈良の連合国の国々で
北部九州の国々ではありません
はい論破 >>723
少し気になったので指摘
倭奴国ではなく委奴国な。ニンベンが付いてないんだよ。
委奴国は倭国の極南に位置していると後漢書にある。
倭国が九州を100国の指すのであれば、北九州30国の中に名前が無いのは当たり前。
もっと南の鹿児島のあたりに委奴国があったという事になる。 280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国− 対馬國− 【一大国(見島)】− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良) >>726
妄想おつ
>>728
狗邪韓国−対馬と対馬−一大国は等距離
一大国は壱岐しかあり得ないし、末廬国も佐賀近辺にしか求められない
残念賞 >>727
>倭奴国ではなく委奴国な。ニンベンが付いてないんだよ。
正論だがそれはID:Pb7UesKV0 に言ってやってくれ
委奴国は金印の出土場所からして南九州に求めるのは無理筋 >>662-663に反論できない時点で畿内の負け
出土品は正直だった >>729
残念でした
狗邪韓国−対馬は、海を渡る1000余里
対馬−一大国は、海を渡る1000余里
で
一大国−末廬国も、海を渡る1000余里
なので
一大国は壱岐のわけがないんですよ
一大国が壱岐ならば
一大国−末廬国は、海を渡る500余里 280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里− 対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良)
ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良) 北宋(960年 - 1127年)『新唐書』1060年【日本伝】で言うところの
畿内に山城・大和・河内・和泉・攝津(摂津)の凡そ五州有り。 共に五十三郡を統(す)ぶる。
東海道に伊賀・伊勢・志摩・尾張・參河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸の凡そ十四州有り。 共に一百一十六郡を統(す)ぶる。
東山道に近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の凡そ八州有り。 共に一百二十二郡を統ぶる。
山陰道に丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の凡そ八州有り。 共に五十二郡を統ぶる。
の3道が邪馬台国 仮に九州だとしても2世紀以降畿内で争った形跡はないから東征は無いよな
逆に九州は何度も鎮圧されてる訳で、もし九州にあったなら邪馬台国は滅んで
歴史から消えたと見るのが妥当かな 訂正
北宋(960年 - 1127年)『新唐書』1060年【日本伝】で言うところの
畿内に山城・大和・河内・和泉・攝津(摂津)の凡そ五州有り。 共に五十三郡を統(す)ぶる。
東海道に伊賀・伊勢・志摩・尾張・參河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸の凡そ十四州有り。 共に一百一十六郡を統(す)ぶる。
東山道に近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の凡そ八州有り。 共に一百二十二郡を統ぶる。
山陰道に丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の凡そ八州有り。 共に五十二郡を統ぶる。
の【四道】が邪馬台国 >>735
日本の記紀に
九州の海神(ワダツミ)国の国王「彦瀲」の
第四皇子の神武が、
爺ちゃんの山幸彦を出雲から、
九州の海神(ワダツミ)国に追い出した海幸彦
の子孫を服従させ
さらに
アマテラスから十種の神宝を授かった奈良の饒速日命(ニギハヤヒ)を服従させて、
九州の「海神の国」から奈良のアマテラスの国に移り住んで、
天皇を名のって、奈良のアマテラスの国を軍事制圧した
と、明確に書いているだろうが >>736 つづき
そして
西海道に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の凡そ九州有り。 共に九十三郡を統ぶる
又、壱岐・對馬・種子島の凡そ三島有り。 各々二郡を統ぶる
が
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州の倭奴国
範囲的には邪馬台国のほうが広いけど
国力的、軍事的、先進性では、
西海道と三島の
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州の倭奴国
のほうが邪馬台国の数倍上 北宋(960年 - 1127年)『新唐書』1060年【日本伝】で言うところの
畿内に山城・大和・河内・和泉・攝津(摂津)の凡そ五州有り。 共に五十三郡を統(す)ぶる。
東海道に伊賀・伊勢・志摩・尾張・參河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸の凡そ十四州有り。 共に一百一十六郡を統(す)ぶる。
東山道に近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の凡そ八州有り。 共に一百二十二郡を統ぶる。
山陰道に丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の凡そ八州有り。 共に五十二郡を統ぶる。
の【四道】が邪馬台国で
西海道に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の凡そ九州有り。 共に九十三郡を統ぶる
又、壱岐・對馬・種子島の凡そ三島有り。 各々二郡を統ぶる
が、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州の倭奴国
範囲的には邪馬台国のほうが広いけど
国力的、軍事的、先進性では、
西海道と三島の
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州の倭奴国のほうが数倍上
57年から150年近く倭国王だった歴史は伊達じゃない >>2
卑弥呼大分日田店
卑弥呼奈良纒向店
もよろしく 京都も欲張りすぎ。
邪馬台国は奈良にあったんだよ。
京都がこの国で都として認められたのなんかせいぜい平安京あたりから
それ以前はすすき茫々のど田舎なんだよ。欲をかくな >>742
京都の都が794年からとして
鎌倉や江戸〜東京
つまり関東に日本の中心がある期間の方が長いのはここだけの秘密だぞ!
足し算すればすぐばれるのだ >>740 つづき
なので
帯方郡の公孫氏が、238年の遼隧の戦いで魏によって滅亡させられて、帯方郡の自由通行が可能となって
奈良の邪馬台国が出雲から朝貢し、
240年に、魏から「親魏倭王」に任じられたものの
あっという間に
九州の倭奴国、日本の記紀で言うところの海神(ワダツミ)国の
国王「彦瀲」の第四皇子の神武が、
爺ちゃんの山幸彦を出雲から、
九州の海神(ワダツミ)国に追い出した海幸彦
の子孫を服従させ
さらに
アマテラスから十種の神宝を授かった奈良の饒速日命(ニギハヤヒ)を服従させて、
九州の「海神の国」から奈良のアマテラスの国に移り住んで、
天皇を名のって、奈良を軍事制圧した
と、明確に書いているだろうが そもそも邪馬台国という国が存在しなかったと考える方が自然では? 自分もそれがいちばん自然だとう思う
魏志倭人伝がいんちきだと
邪馬台国などなかった! 範囲的には、畿内・東海道・東山道・山陰道の邪馬台国のほうが広いけど
人口、国力的、軍事的、先進性では、
西海道と、壱岐・對馬・種子島の三島の
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた九州の倭奴国のほうが数倍上
57年から150年近く倭国王として君臨し、大陸と交易し続けてきた歴史は伊達ではない
なので
帯方郡の公孫氏が、238年の遼隧の戦いで魏によって滅亡させられて、帯方郡の自由通行が可能となったため
奈良の邪馬台国が出雲から朝貢し、
240年に、魏から「親魏倭王」に任じられたものの
あっという間に
九州の倭奴国、日本の記紀で言うところの海神(ワダツミ)国の、「彦瀲」国王の第四皇子の神武が、
爺ちゃんの山幸彦を出雲から、
九州の海神(ワダツミ)国に追い出した海幸彦の子孫を服従させ
アマテラスから十種の神宝を授かった奈良の饒速日命(ニギハヤヒ)も服従させて、奈良を軍事制圧し
九州の「海神の国」から奈良に移り住んで、天皇を名のって統治してしまった その後の倭国は
天皇を名のって畿内・東海道・東山道・山陰道を統治する【神武】と
その父である、西海道と、壱岐・對馬・種子島の三島を統治する「漢委奴国王」の【彦瀲】国王の
トロイカ体制となる 邪馬台国は真珠や蒼玉が取れたと書いてあるから
奈良も京都も論外です 邪馬台国は近畿、出雲、北部九州の西日本の連合国
卑弥呼、台与は稲の豊作(天照)、国家安泰を祈祷し連合国の権威として君臨
台与亡き後は有力豪族の大王一族が台頭
、連合国を再編し中央集権化を計った
大王一族は卑弥呼の正当な後継者として鬼道を引き継ぎ後の宮中祭祀に繋がる
邪馬台=ヤマトの名称も引き継がれた
8世紀に天皇家は卑弥呼=天照の正当な系譜として神話を編纂した >>79
中国人にとっては、周囲の異民族はすべて蛮族。
だから、ことさら貶めるような字を当てる。
卑弥呼、匈奴、鮮卑とかな。 >>753
古代においてはおそらく中東が文明高かったろうからな。
その通り道の大月氏を邪険にはしずらかったろうな。 >>480
近畿ヤマトが誕生して服属した九州北部の国々は隋書の頃には筑紫國になった
反発した国々は土蜘蛛として討伐された
そう言えば土蜘蛛の中には女王を戴く風習があったりしたらしいな >>755
大和政権にとって九州において重要な地域は、
天皇家出身地の日向と朝鮮半島へ通過点である九州北岸すなわち筑紫で、
その御機嫌を取るため筑紫に従わない豪族を代わりに討伐してたんかもしれん。
磐井の乱辺りまでは服属してたとは言い難い状況だったんじゃないかと思うけどな。 僕は記紀編纂時に魏志に出てくる邪馬台国を日本列島にいる誰も全く知らなかったわけじゃなかたと思ってるから、
大和政権でも一部の者は知ってたはずなので、それをきちんと書かなかった理由があるはずだと思う。
やはり、筑紫が比較的最近まで大和政権に従ってたわけじゃなく、
火種が残ってた状態だったので可能な限りそういったことを刺激したくなかった
というのが一番しっくりくる理由じゃないかと推測するかな。 >>756 の続き
古墳時代初期ならば、ご機嫌取るためだけじゃなく、
地方から集めた開拓要員の食料調達のため報酬として米をもらってたとも考えられるし。 >>761
どう見ても否定してない。
参考程度に海外史書の情報を載せてるだけにしか見えない。
せいぜい、その可能性は否定しないといったレベルだろう。 >>732
ヒント:一大国から末廬国へは方角指定がない 近畿なら女王国の南にあるっつー侏儒国ってどこだよ
淡路島か?ww 魏志倭人伝なんて書物はない
陳寿作 三国志 の中の 魏書 の最後の 第30巻 のおまけの 東夷伝 の付け足しの 倭人条 だ
陳寿作、陳寿作、陳寿作、陳寿作、陳寿作 卑弥呼はずばり宇佐神宮の比売大神だと思うんだよね。で、台与以降に出てきた
女王の一人が神功皇后(のモデル)で、その子孫が応神天皇(のモデル)であり、
その二代で三韓征伐をした後、大和王権(狗奴国系)を簒奪した。 神功皇后の事跡には半島が出てくるが
出てくる半島の国家は四世紀以降の、帯方郡が滅び、高句麗が北から侵入し
新羅や百済が三韓時代の小国家から台頭してきた時代を反映してる
それ以前も任那やら新羅の記事で、三韓時代の事は書かれてない
ヤマト政権が半島に関わりを持ち出したのは、四世紀前半から半ばって感じだ
好太王碑もその傍証かも 末廬国は宗像説がある
前の人が見えないほど草木が生い茂ってるんだから魏使が来たのは夏
夏に壱岐から九州を目指して船出すると、海流と風にのって東へ進むのが自然 最古の古墳は東北だよ
科学雑誌のムーに書いてあった 近畿説は聞いてると無理矢理感ある
古墳時代がずっと大和王朝の支配下だったってのは苦しいだろ まっ
一大国は、見島
一支国は、壱岐
『魏志』倭人伝(297年完成)では
魏(220年 - 265年))の時代に倭国に行くには
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一大国(見島)− 末廬国 (石見国美濃・島根県益田付近)− 伊都国(出雲)
と紹介され
『梁書』倭人伝(629年完成)では
南朝梁(502年 - 557年)の時代に倭国に行くには
朝鮮半島 ー 一支国(壱岐)− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)− 伊都国(出雲)
と紹介され
『隋書』倭国伝(636年完成)では
隋(581年 - 618年)の時代に倭国に行くには
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)
と紹介されている 240年に邪馬台国が、「親魏倭王」に任じられてから
大和政権のヤマトタケルが西海道を西征して
600年に聖徳太子が遣隋使を派遣するまでの
約360年間は
倭国は
畿内・東海道・東山道・山陰道の「親魏倭王」邪馬台国と
西海道と、壱岐・對馬・種子島の三島の「漢委奴国王」倭奴国の
2大勢力に分断されていたので
時代時代で倭国王が大陸にいくときに使える地方や島が変わっていたのだろう 『魏志』倭人伝(297年完成)では
魏(220年 - 265年))の時代に倭国王が大陸に、遣使を派遣するには
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一大国(見島)− 末廬国 (石見国美濃・島根県益田付近)− 伊都国(出雲)
のルートを使用していたと紹介され
『梁書』倭人伝(629年完成)では
南朝梁(502年 - 557年)の時代に倭国王が大陸に、遣使を派遣するには
朝鮮半島 ー 一支国(壱岐)− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)− 伊都国(出雲)
のルートを使用していたと紹介され
『隋書』倭国伝(636年完成)では
隋(581年 - 618年)の時代に倭国王が大陸に、遣使を派遣するには
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)
のルートを使用していたと紹介されている
魏(220年 - 265年))の時代に倭国王が壱岐を使えなかった・・のは、
このとき壱岐は「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下だったから
南朝梁(502年 - 557年)の時代に倭国王が対馬を使えなかった・・のは
このとき対馬は「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下だったから
隋(581年 - 618年)の時代に聖徳太子が大陸に、遣隋使を派遣する時に
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)・・が使えるようになっていたのは
ヤマトタケルが西征して、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国を討伐したから >>730
>委奴国は金印の出土場所からして南九州に求めるのは無理筋
後漢書の委奴国が倭国の極南にあると言う記述と両立させるには
倭国を本州まで含めた広範囲とする必要がある。
つまり邪馬台国の30国は九州ではなく本州という事になる。 3世紀頃の畿内はすでに半島人の入植が始まっていたと思われ
〜2世紀;唐古鍵遺跡
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
ttps://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 魏(220年 - 265年))の時代に倭国王が一支国(壱岐)を使えなかった・・のは、
このとき一支国(壱岐)は九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下だったから
南朝梁(502年 - 557年)の時代に倭国王が対馬國を使えなかった・・のは
このとき対馬國は九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下だったから
隋(581年 - 618年)の時代に聖徳太子が大陸に、遣隋使を派遣する時に
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)・・が使えるようになっていたのは
557年から581年の間にヤマトタケルが西征して、九州の「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国を討伐したから 2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<木製倭鐙の出土状況>
濠の底に埋められていました。
つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
<箸墓古墳の年代>
間違いなく三世紀ですニダ!
<参考1>
半島で見つかった最古の鐙が5世紀のもの。
国内各地で出土した鐙も5世紀のもの。
<参考2>
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 魏(220年 - 265年)の時代に倭国王が一支国(壱岐)を使えなかった・・のは、
このとき一支国(壱岐)は九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下だったから
南朝梁(502年 - 557年)の時代に倭国王が、一支国(壱岐)は使えたけど、対馬は使えなかった・・のは
265年から502年の間に九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国から
神武が奈良に東征し
対馬は九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国の勢力下
壱岐は奈良の、「神武天皇」の大和王権の勢力下
だったから
隋(581年 - 618年)の時代に聖徳太子が大陸に、遣隋使を派遣する時に
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)・・が使えるようになっていたのは
557年から581年の間にヤマトタケルが西征して九州の、「漢委奴国王」の倭奴国・狗奴国・海神国を討伐したから 少なくとも江田船山古墳の獲加多支鹵鉄剣の頃には筑紫は大和に服属する地方豪族
畿内説の通り邪馬台国=大和とすると、2世紀にはすでに大和連合に属する重要豪族だったことになる 何でも卑弥呼
こー言えば、卑弥呼
あー言えば、卑弥呼
おまエラ研究者失格だ
先入観取り除け >>781
残念でした
2世紀の筑紫は、「漢委奴国王」の全盛期
後漢の地方官だった公孫度が遼東地方に樹立した、半独立政権の帯方郡の指揮下に入り
倭国でブイブイ言わせておりました 2世紀の筑紫は、「漢委奴国王」の全盛期
後漢の地方官だった公孫度が遼東地方に樹立した半独立政権「帯方郡」の指揮下に入り
倭国でブイブイ言わせておりました
その遺跡が
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡であり
鉄器や硯、鏡などの出土品なんですよ なので
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c とっくの昔に畿内説はウソだとばれています。
旧唐書より
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
倭国より古い時代の国名=北部九州
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、倭国との関係に関する日本使者の言い訳
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
日本使者には、倭国と日本国が別物であるという認識がある。 >>720
鉄製の出土品の分布の偏りについては?
出土品は圧倒的に流通量が多い方が残りやすい
>>776
九州の地名の一致については?
九州の地名については漢語に詳しい中国人も同意見だが >>742
「卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳」に酷似した古墳を見つけたというニュースだろ
妄想を進めすぎ 畿内にヤマト朝廷が作られるに至った前身が有るのは確かだが
そのヤマト朝廷の前身をモモの種や読み的に邪馬壹国だとするのは確証が足りないだろう
そもそも読みにしてもその後には国号を日本に戻してるし
あと、「日本」の地名は古代朝鮮半島の地名を移したものと主張するものもいるが、何か証拠でもあるのかね
個人的には、聖徳太子が大陸からみて日本と改名したとするのは、ヤマト朝廷の作ったいい訳だと考える
「日本」は九州のどこかからから見た、日の出の方角(真東)の意味なんじゃないかと、つまり日本の名付けは九州の誰かではないか
大分県に国東(クニサキ)半島がある
ここから東側の地域を「日本」と呼んでいたのではないか
九州は大陸と交易する文化レベルにあったが、本州島は見て知っていた
だが詳しくは知らず、便宜上本州島を「日本」と呼んでいたのではないか 都合悪い事は無視するのが古代史学会だ
からね。
とてもじゃないが近代科学のレベルに
達してないんだよ。狂人の集まり。
だからゴッドハンドが生まれてしまう。 >>672
宮内庁は捏造まみれのガバガバ認定を批判されるのが怖いから追加で認定とかしない
今城塚古墳は調査の結果、継体天皇の陵墓である事がほぼ確定してるが、
宮内庁は別の古墳を継体天皇陵だとガバガバな主張していたのを認めたくないので
今でも今城塚古墳は天皇陵だと認めていない
仁徳天皇陵だって今でこそ宮内庁が管理して立ち入り禁止になってるけど
明治時代には「朝鮮豪族の墓だ」として発掘調査されてたんだぜ?
いや、天皇家はチョンだという意味では正解だけどww >>787
>鉄製の出土品の分布の偏りについては?
>出土品は圧倒的に流通量が多い方が残りやすい
正論ではあるが、流通量が多ければ邪馬台国だと確定できるものでもない。
つまりご当地邪馬台国は否定できない。
>九州の地名の一致については?
>九州の地名については漢語に詳しい中国人も同意見だが
まず具体的に魏志倭人伝のどこの地名の事を言ってるんだい?
またその同意してる中国人ってのは何処の誰?
邪馬台国に一致する地名がわかってるなら誰も苦労してないよ。 >>786
とっくの昔に九州説はウソだとばれています。
旧唐書より
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
北部九州は漢から金印を貰った「漢委奴国王」の国で、邪馬台国では無い
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は、魏から金印を貰った「親魏倭王」の国で、邪馬台国であり、倭国の別種である >>789
九州から見てひのもとっていうのもありかもな 旧唐書より
■倭國条 倭國者,古倭奴國也。
北部九州は漢から金印を貰った「漢委奴国王」の国で、邪馬台国では無い
■日本条 日本國者,倭國之別種也。
日本国は、魏から金印を貰った「親魏倭王」の国で、邪馬台国であり、倭国の別種である 確実に言える事は北部九州の倭人と関西人とは異民族だったと言う事だ。
勿論今でも異民族だが。 >>789
現時点で想像してるのが、九州と本州で両方とも「やまと」と名乗ってたのかなと。
区別するために例えば「筑紫やまと」「日の本やまと」と区別してたとか。
「やまと」と名乗ると併合したはずの九州勢力が主のように振舞うので、
はっきりさせるため日本に改名したとか。 >>796
北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は
完全に別系統だったんだけど
奈良の「親魏倭王」の倭人の山幸彦が
出雲を追い出されて、北部九州の「漢委奴国王」の娘と結婚し
北部九州の「漢委奴国王」になってしまって
同族になったのさ 音読みでも訓読みでもヤマトはないんだから
大和にヤマトが当てられたのはその後だろうね。 >>796
北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は
完全に別系統だったんだけど
奈良の「親魏倭王」の倭人の山幸彦が出雲を追い出されて
北部九州の「漢委奴国 豊玉彦国王」の娘と結婚し
「漢委奴国 山幸彦国王」になってしまって
北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は
祖を同じくする同族になり
さらに
北部九州の「漢委奴国 彦瀲国王」の第4皇子の神武が
北部九州の漢委奴国から、奈良の「親魏倭王」に東征して
北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は同化した
んだよ 北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は
完全に別系統だったんだけど
奈良の「親魏倭王」の倭人の山幸彦が出雲を追い出されて
北部九州の「漢委奴国 豊玉彦国王」の娘と結婚し
「漢委奴国 山幸彦国王」になって、祖を同じくする同族になり
さらに
北部九州の「漢委奴国 彦瀲国王」の第4皇子の神武が
北部九州の漢委奴国から、奈良の「親魏倭王」に東征して同化して
止めで
奈良のヤマトタケルが、北部九州の漢委奴国を西征して討伐して
北部九州の「漢委奴国王」の倭人と
奈良の「親魏倭王」の倭人は統一民族になった
んだよ >>793
斬新すぎるな。
梯儁等が奉詔書と印綬を持ってったんはどこのつもり? 九州は今も昔も大昔も辺境なんだって
大陸に近いから日本の中心だったなんて勘違いも甚だしい
単に大陸文化の上陸地点だった辺境なの http://imgur.com/L6q6EZ1.jpg
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ギリシャも今も昔も大昔もヨーロッパの辺境だったと思ってるの? >>526
>三十歳過ぎれば老婆扱いだ
倭人ジャップこれ100歳まで生きる長寿であると書かれてるんだからそれはないだろ >>769
文字を持たなかったから口伝えで伝承を残すには限界があったということでしょう
4世紀までのことは断片的に伝承が残っているが、それ以前はほとんど残ってない
3世紀のことは、箸墓の築造についての神話が唯一残ってるだけ
しかし、銅鏡や鉄器の存在は、3世紀にはすでに畿内は大陸交流があったことの証
大王の伝承も同様で、崇神天皇の墓は山辺道勾之岡上あるいは山辺道上陵と伝承され
これが行燈山古墳で正しいなら、4世紀前半の人物になる
神武天皇から欠史八代までは実在性に乏しく、架空の人物と見るべきでしょう
しかし、もっと古い200m超の大型古墳が実際にあるのだから、3世紀にも大王がいたことは確実
結局、断片的であるが伝承が残って、記紀に記載されてるのは4世紀までで、
それ以前については考古遺物は残っているが、記紀には載ってないということになるでしょう 母さんには昔から外では他言するなと言われてるが母さんは昔AV女優で卑弥呼って名前だった。
だからなんだ、との話だが。 >>804
帯方郡の太守だった【公孫氏】は、魏により滅亡させられて、その残党が大挙して、公孫氏の指揮下にあった九州北部の「漢委奴国王」倭奴国に逃げたため
正始元年(西暦240年)に、魏は奈良の邪馬台国を「親魏倭王」に任命し
帯方郡の太守の【弓遵】が、建忠校尉の梯儁たちを派遣した。
梯儁たちは詔書と印綬を守り携えて、
【公孫氏】の残党が大挙して逃げ込んだ九州北部の「漢委奴国王」倭奴国ではなく
国譲りで奈良の邪馬台国と連合している島根県の出雲地方に到着
出雲大社で、倭の王の代理の一大卒に拝謁するとともに詔書をもたらして、
金、絹、錦、毛氈、刀、鏡や、その他の選ばれた品々を贈り
奈良の倭の「親魏倭王」は、梯儁に文書を託し、詔してくれたことに対して、感謝する返事をした。 詔書と印綬を守り携えて、
【公孫氏】の残党が大挙して逃げ込んだ九州北部の「漢委奴国王」倭奴国ではなく
国譲りで奈良の邪馬台国と連合している島根県の出雲地方に到着した
建忠校尉の梯儁たちは、対馬から一大国(見島)を経由して
末廬国 (石見国美濃・島根県益田付近)に上陸し
道なき道をかきわけて出雲にたどり着き
超高層建築の出雲大社をどーーんと目の当たりにして
倭國には
九州北部の「漢委奴国王」の倭奴国と肩を並べる、むしろ上回る、こんな国もあるのかと
さぞかしびっくりしただろう >>787
鉄の出土も、邪馬台国が魏と外交をやっていた3世紀中頃には畿内優勢
ちなみに、鉄は主に朝鮮半島南部との取引であり、魏とは直接関係ない
一方、中国鏡は、楽浪郡や帯方郡との取引なので、魏との関係を考える上でより重要
3世紀の中国鏡は、圧倒的に畿内が多い
帯方郡に相手にされなかった九州が、帯方郡を通じて魏と外交をやっていたなんてありえない 訂正
詔書と印綬を守り携えて、帯方郡の新たな太守の【弓遵】から派遣された建忠校尉の梯儁たちは、
対馬から、一支国(壱岐)を経由して
【公孫氏】の残党が大挙して逃げ込んだ九州北部の「漢委奴国王」倭奴国ではなく
対馬から、一大国(見島)を経由して
国譲りで奈良の邪馬台国と連合している島根県の古代出雲の
末廬国 (石見国美濃・島根県益田付近)に上陸し
道なき道をかきわけて出雲にたどり着き
超高層建築の出雲大社をどーーんと目の当たりにして
倭國には
九州北部の「漢委奴国王」の倭奴国と肩を並べる、むしろ上回る、こんな国もあるのかと
さぞかしびっくりしただろう >>777
よくある誤解だけど、そのあたり一帯は「漢人」の渡来人地区。
渡来人では東漢氏(倭漢氏)が住んで居た場所。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%BC%A2%E6%B0%8F
|「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、
|氏族の多くが技能に優れていたこと、
|聖王が日本にいると聞いて渡来してきた
寒い半島の帯方郡経由で移住してるから
オンドルのような暖房設備を冷える奈良盆地南の山裾でも使ってたんだろう。
特に冬に屋内で動かず機織りを行うには不可欠。
また日本で「呉服」の生産が盛んになった地でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%B9%94
|雄略天皇12年4月4日に呉に向けて使節として出国していた
|身狭村主青(むさ の すぐり あお)と、檜隈民使博徳
|(ひのくま の たみの つかい はかとこ)の二名は、二年後の、
|西暦に換算すると470年に、呉国の使節とともに、呉が献上した
|手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織、呉織及び衣縫
|(きぬぬい) の兄媛・弟媛らを将いて、住吉津(すみのえのつ)に
|停泊した。天皇は呉の客人のために道をつくり、「呉坂」
|(くれさか)と名づけて磯果津路(しはつのみち)に開通させた。
|3月には使節を歓迎して(東漢氏の本拠地である)檜隈
|(ひのくま、檜前)に宿泊させ、そこを呉原(今の明日香村栗原)
|と名づけた 魏に歯向かう帯方郡の太守だった【公孫氏】は、魏により滅亡させられて、その残党が大挙して、公孫氏の指揮下にあった九州北部の「漢委奴国王」の倭奴国に逃げたため
正始元年(西暦240年)に、魏は、奈良の邪馬台国を「親魏倭王」に任命し
帯方郡の新たな太守の【弓遵】が、建忠校尉の梯儁たちを派遣した。
梯儁たちは詔書と印綬を守り携えて、
【公孫氏】の残党が大挙して逃げ込んだ九州北部の「漢委奴国王」倭奴国ではなく
国譲りで奈良の邪馬台国と連合している島根県の出雲地方に到着
出雲大社で、倭の王の代理の一大卒に拝謁するとともに詔書をもたらして、
金、絹、錦、毛氈、刀、鏡や、その他の選ばれた品々を贈り
奈良の倭の「親魏倭王」は、梯儁に文書を託し、詔してくれたことに対して、感謝する返事をした。
詔書と印綬を守り携えて、帯方郡の新たな太守の【弓遵】から派遣された、建忠校尉の梯儁たちは、
対馬から、一大国(見島)を経由して
国譲りで奈良の邪馬台国と連合している島根県の古代出雲の末廬国 (石見国美濃・島根県益田付近)に上陸したあと、道なき道をかきわけて出雲にたどり着き
奈良の邪馬台国が出雲に建設した、超高層建築の出雲大社をどーーんと目の当たりにして
倭國には
九州北部の「漢委奴国王」の倭奴国と肩を並べる、むしろ上回る、こんな国もあるのかと
さぞかしびっくりしただろう >>793
日本語が苦手な外人なのか?
または文章読解力に障害を持ってるのか?
何言ってるかわかってないだろ?w >>815
>渡来人地区
大陸や半島系の階級制度を知っていたのはそいつらだろ。
つまりそれが大和政権の源だということだ。
倭人には無かった統治手法だ。 >>818
そうだね。奈良のような辺鄙な場所が脚光を浴びるには
進んだ技術や知識が不可欠。また非常に寛大に外国の
亡命者を受け入れた。それが大和政権の成功の鍵になってる。
卑弥呼の時代から大和政権に移る部分が欠けてるが、、、 >>819
その反応は歴史を語る資格すらないネトウヨだなw
バイアス抜きで現実を見ろ。 唐古・鍵遺跡で長年交流が行われ、倭国大乱で九州勢に対抗するため本州勢による広域連合が巻向に誕生したんじゃないの >>14
千年間大きな災害の無い都市だからね
王道楽土だよ 古墳時代に文字がなかったとは信じがたい
早く探せ
それで邪馬台国問題は解決できる 同じ畿内説でも郷土愛からくる畿内説と冷静な畿内説があることを知っておこうw
以下、寺澤
弥生時代の邪馬台(ヤマト)国の王都は奈良盆地の弥生時代集落や共同体の重層構造と発展の動向から判断して、唐古・鍵遺跡を想定すべきであり、
この邪馬台国の王都が纒向遺跡の出現とともに急速に衰退、消滅していく事実は、倭国大王都纒向の誕生によってある意味で吸収消長したことを示している。
このように考えると、ヤマト王権(卑弥呼政権)の権力母体を弥生時代以来の畿内あるいは奈良盆地の勢力(とりわけ“ヤマト”国)に直結させることは不可能である。
従来ともすると、前方後円墳の出現時期の早さ、規模の大きさ、内容の充実度からして、暗黙のうちにヤマト王権の出自をヤマトないし
畿内(大和 ・ 河内連合論など)の前段階社会に求めてきたが、実際のヤマト(あるいは畿内)弥生社会にそうした考古学的兆候が見られないことは明らかである。 >>822
魏志倭人伝を読む限り、畿内と九州は敵対していない
実際、記紀でも戦乱の記録も磐井の乱までない >>826
銅鐸を作ってた唐古・鍵遺跡の至近距離に鏡と剣のヤマト王権本拠地がいきなりできるんだわ。
この時代に桜井周辺で何があったのか非常に興味深い >>826
僕は、唐古・鍵が衰退し始めたのは卑弥呼が魏に使いを送る前の時代、
纒向の誕生は卑弥呼が魏に使いを送る後の時代で、
唐古・鍵衰退と纒向誕生に関連性は一応あるが、
間は50〜100年くらい空いてると思うかな。
邪馬台国との関連性はかなり間接的なもんやろな。 九州北部から機内にかけては漢委奴国王の勢力
卑弥呼が死んだ後に親魏倭王は神輿にされて実権を奪われた >>830
バッファ地帯みたいな役割やったとこを協力して開拓してたんじゃね? >>825
古墳時代の古墳全部調べたら出てくるかな?
全部調べてかけらもなかったら、
古墳時代に文字はなかったと認めざるをえんようになるかもしれんけど。 >>832
考古学者の説を真っ向から否定するなら、根拠くらい示したら? 笑える、、箸墓はギブアップするんだw
学者はみんな箸墓だったんじゃないの?www
九州で出た鏡が曹操の鏡ってわかったもんだから、畿内も必死なのはわかるけど無理ありすぎだろうwww >>826
この人はマキムク信者のデタラメさとは距離と取ってるよね。
距離を取ってるけど・・・っていう面もあるけど >>838
日本語読めない人には関係ない話
邪魔だから失せろ >>837
100歳以上生きた天皇がいる問題解決と神武東征を奈良県銅鐸出土数激減と関連付けるため、
1年を2年で数えてたという説を採用し、暦博士が百済来てから
推古天皇が唐に使いを送るまでの間で暦の変更があったと考えて計算すると、
唐古・鍵衰退が孝霊の御代から始まったと考えた場合、孝霊即位は132〜158年だし、
纏向誕生は垂仁だと思ったので、垂仁即位は262〜289年となるから。
この計算だと神功皇后の三韓征伐も広開土王碑の記録と合うし、
崇神の御代についても近年の考古学的発見と結構整合性ありそうだし。 関東とか東北の出土品見ると関連があったりなかったりかなり飛び飛びで余計混乱する >>841
古事記か日本書紀の年代を勝手に改竄したラノベか? 古代大韓支配の証拠を消し去るから日本の史学は世界から相手に去れないんだよね
近々名古屋の熱田の古墳が調査されるけど
大和尊=韓国人だってのが確定します 子供のころ誰もが疑問に思う、「前方後円墳」
写真は前が円で後ろが方だろ「前円後方墳」じゃないのかと 邪馬台国って領土はどこまでやったんだ?
九州はあるとしてあとは関西くらいまで領土にしてた? >>826
そうなると魏志倭人伝の邪馬台国は唐古・鍵遺跡で、以後のヤマト王権の都は纒向ってことかな?
唐古・鍵遺跡がニギハヤヒ王権で纒向がイワレビコ王権ならばヤマト王権に邪馬台国の記憶がないことも宜なるかな、、 邪馬台国奈良説とか滑稽な事を考えたのは誰か判らんがそれに欺されて
未だに信じている低能もいるから呆れ果てるぞ。 結局、邪馬台国は九州で大和朝廷に滅ぼされたってことで良いの? 邪馬台国は九州で白村江で壊滅。
畿内に疎開したがジモティに
クーデターを起こされ入れ替わった。
このとき設立したのが大和朝廷。
ただし、しばらくして九州本国も復旧し
大和朝廷の天皇の血統は九州系に戻った。 >>851
記紀に出て来る天皇が差し向けた軍に滅ぼされた可能性はあるが、
現時点の僕の知識では何とも言えんかな。
九州北部の風土記に古代に関する説話がいろいろ載ってれば、
九州の歴史を紐解けたりするかもしれんけどな。 九州は邪馬台国で後に神武天皇とよばれる人は日向(南九州)の狗奴国出身 >>851
多分、大和朝廷よりも前に滅んでると思う
それに当時の占い師は無能と分かれば問答無用で処刑されてたから
卑弥呼の後継者のトヨも処刑された可能性は高い >>847
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
(女王国の東、海を渡ること1000余里でまた国有り。みな倭人である)
女王国に属してるとは書いてない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています