【考古学】「重要な遺跡」弥生時代の箱式石棺墓29基 福岡の長井遺跡で出土 箱式石棺墓内に仕切り 新たな埋葬法か
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191119-00010013-nishinpc-sctch
福岡県行橋市長井の海岸砂丘地にある長井遺跡から、弥生時代の箱式石棺墓29基が出土したことが分かった。
2基から人骨の一部、1基からは副葬品の管玉が見つかった。
約180平方メートルの中に密集し、市歴史資料館は「北部九州でいち早く集団墓を作り始めたことが分かる重要な遺跡」とする。
14日は小田富士雄・福岡大名誉教授(86)が視察し「この辺りに石棺墓があることは分かっていたが、初めて実態を確認できた。興味深い」と語った。
市教育委員会などによると、遺跡は弥生前期ごろから終末期ごろとみられる。
石棺は長さ約70センチから約2メートル80センチと大小さまざまで、10個前後から数十個の石で四方や上部を囲んでいる。
人骨は頭蓋骨や大腿(だいたい)骨の一部が残っていた。棺の周辺では土器片が100点以上見つかっている。
箱式石棺は九州北部をはじめ西日本に多い。長井遺跡の近くでは昭和30年代、砂を採掘した業者の重機で破壊された石棺片や人骨などが見つかっていた。
小田名誉教授は一帯に500から600の石棺墓があると推測し、今回の初確認について
「家族墓のような形態や人骨など、他地域の遺跡との比較研究ができる重要な史料になる」と話した。
市は長井浜海水浴場の隣接地に建設中の公園につながる市道整備のため、民有地を買い取って10月半ばから発掘調査している。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191121-00010008-nishinpc-sctch
福岡県行橋市教育委員会は20日、同市長井の長井遺跡から出土した弥生時代の箱式石棺墓群で、3基の内部が板状の石で仕切られていたと発表した。
仕切りのある弥生の石棺墓は発掘例のない構造といい、弥生時代の新たな埋葬形態の可能性があるという。
市教委によると、出土した土器片から、遺跡は弥生前期末から終末期ごろのもので、石棺31基が約180平方メートルに密集して見つかったことから、
家族か一族の墓地とみられる。
石棺は長さ約80センチから約2メートル50センチで、10個前後から数十個の石で四方や上部を囲んでいる。
最大の石棺を含む2基は内部をほぼ中央で二つに仕切り、1基はほぼ3等分に仕切っていた。
九州考古学会の小池史哲会長(68)は
「中央部を仕切った弥生時代の石棺墓は聞いたことがない。弥生は体を伸ばして埋葬するので、あえて小さい所に入れるのは解釈に苦しむ」と指摘。
石棺の底にある砂の分析など綿密な調査が必要だとしている。
このほか、石棺5基から頭部など人骨の一部、1基からは副葬品の管玉、周辺から土器片100点以上が見つかった。
長井遺跡は行橋市東部にある長井浜海水浴場の隣接地で、市道建設のため12月上旬まで発掘調査する。
市教委は23日午前10時と同11時から現地説明会を開く。予約不要、雨天中止。
※連絡先はソースで 誰でも2chを自動で投稿できるソフトを手に入れる方法があるらしい
『久留米ひさしの5ch自動書き込みツールを得る方法』
で検索すると分かるらしいので、興味がある人は見てもいいと思う。
I4G 奈良で紀元前の大規模な水田跡が見付かったのにスレ立たないな 三つに仕切りがあったからって拘ることじゃ無いだろうにな。
単に子供用なだけだわな。 つか家族墓だって自分で言ってるじゃんなw
なんだこの記事ww 幕末に来た外国人は日本の桶のような棺に死後硬直した死体をどうやって折り曲げて入らるのか疑問に思ったらしい。
寺や神社で死後硬直を解く薬剤を買ってくるのだが、成分は門外不出 >>12
過去に類例のないものが見つかったのにこうに違いないと即断定するのは愚か >>16
分からないものは素直に分からないとするのが学問的態度だよな
じゃないと何でもすぐ卑弥呼の祭祀ガーとか言い出す畿内詐欺と同レベルになってしまう >>23
バカか。仮説を立てて検証するのが普通だろ。
王墓などでは無くて私的な家族墓で人を埋めたのが分かってたら
子供だろうなと仮説を立ててから調べるのが普通の手順だろ。
「さっぱり分かりません」
は?バカ?
w お前ら見たいなアホが魏志倭人伝に史実が書いてあるとは限らんだろキリとか
どうせ昔のことなんだから永遠に分からんよキリとか
言い出すんだよバーカ 九州説論者は末期でないと困るけど
箱式石棺の導入は早かったと思うわ 長島の、民家の横のこんな感じに石で作った古墳
行ったことあるやつおる? >名誉教授は一帯に500から600の石棺墓があると推測し
>今回の初確認について「家族墓のような形態や人骨など
弥生時代に一般人レベルに石棺が普及していたとなると
祇園山の石棺のみの王の墓としてはランクが下がる
さらに平原遺跡は周りに豪華な埋葬品を置いたが
祇園山は石棺内部に納めたので点数の少なさ、小ささから
小規模ということになる
そんな墓が卑弥呼の墓であるはずがない 箱式石棺は面白い。
その内例の大発見のこと発表するからまっててちょ。
モロこの箱式石棺がらみね。
なぜ甕棺墓から一気に箱式石棺墓に変わったのか?
なぜだと思う?
祇園山古墳は規模といいまあ卑弥呼の墓で間違いない。
三世紀半ばの北部九州では最大規模。
伊都国のあの絢爛たる副葬品の出る王墓ですらしょぼい大きさでしかないし、
吉武高木遺跡などでは盛土すら無い。
規模的には別格の大きさ。
まあ卑弥呼の墓で間違いない。 一般に九州倭国では近畿日本と違って大規模な墓は作られない。
近畿日本の墓と比べた上での墓の規模云々は、参考にはならない。
磐井の墓などは巨大だが、これは後代のもので、近畿日本の習俗の逆輸入と見るべき。 >>33 祇園山主墓の石棺の周りには凹みがないのよ
だから埋葬品は石棺の中だけで収まってたと考えられる
平原は周りにも埋葬品があって鏡が44枚とかでたけど
卑弥呼の墓ならそれと同等以上の規模や埋葬品があったはずで
そう考えると祇園山は埋葬品を置く場所が小さい 俺が調べた限りでは箱式石棺墓は縄文人が使っていた墓で関東地方に1番多く出土して
近畿以外の西日本地域でも良く出土すると書いてあったな 「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、
支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、
かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。
ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも
箱式石棺がみられるようになる。」
「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、
(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、
前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、
さらに後期になるとふたたび土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」
(白石太一郎「墓と墓地」学生社刊『三世紀の遺跡と遺物』)
で、甕棺墓が猫も杓子も状態だったのが180年ころ(倭国大乱が終わるころ)
突然、急速に古式の箱式石棺墓に取って代わられるわけな。
甕棺墓は180年頃を境に作られ無くなる。
これはなぜか? 例えば吉野ヶ里の甕棺墓列とかを見ると、少女が飾りをつけて埋葬されているものとかがある。
無論、現物は残って無くて飾りと骨の一部が残っているだけだが、恐らくは倭国大乱で殺された巫女だろう。
甕棺墓は、倭国大乱が卑弥呼やイザナギなどの手で治められた後は
忌まわしい思い出でしか無かったのだろう。
だから倭国大乱が終結した後は人心一新の為に王墓から率先して古き良き時代の石棺墓に戻したのだろう。
これが180年頃を境にして一気に甕棺墓が消え、古い石棺墓が主流になった理由だろうと思われる。
で、オレが今回やった大発見と言うのが、
この甕棺墓に取って代わる石棺墓時代の最初のものと思われる墓、
人心一新の為の大王の墓、
みんなが従い真似したくなる特別な墓、
卑弥呼やアメノミナカヌシやタカミムスビなどと並ぶ
最高クラスの高貴な王の墓、
ぶっちゃけると多分イザナギの墓らしいもの
の比定に成功したらしいと言うこと。
詳細はまだ言わない。まだ準備が十分で無いので。
(オレも忙しいww無職じゃ無いんでwwww) 近畿地方では箱式石棺墓も甕棺墓も出土しない、方形周溝墓のみ
関東地方は方形周溝墓と箱式石棺墓
九州地方は総ての種類の墓が見つかっている。 FAQ
「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」だの
「幽宮を淡路の洲に構りて」だの
は止めてね。
そもそも国産み神話が欽明以降の捏造(狗邪韓国が無い)だから。
大体九州から来た神話なのに九州が後回しなのも全然おかしいしね。
まあ詳しい話しはもう少し待ってくれ。
ちゃんとやるから。 縄文時代は、むき身で穴に放り込んで土葬していたの?
石棺でも木棺でも、棺桶の起源っていつごろからなの? 行橋あたりにそんなものがあるのは聞いていたが
歴史的や地理的にそんな形式の石棺を使う必要があったとすると
結構面白い背景が見つかるかもしれんね >>47
穴掘って埋めたり貝塚に捨てられていたり色々 畿内で見つかったらなんでも邪馬台国がーと騒ぐのになw >>50
騒いでるのは主に関東の連中だけどもね
あいつら荒らしたいだけだろ
そのせいで聖徳太子も卑弥呼も桃太郎までもみんな腫れ物みたいになった >>45
無料閲覧できるネットで披露しちゃうと、他の人にネタ盗まれる可能性を考えないかな?
君の研究が、他者の金儲けに使われてもいいの? まあ詳しい話しはもう少し待ってくれ。
ちゃんとやるから。 >>55
そりゃあ興味深いけど、君の成果を有料サイトとか出版の形とかで披露するならいいんだけどね まあ詳しい話しはもう少し待ってくれ。
ちゃんとやるから。 (お前らオレの話しを盗めよって言ってるオレに「そんなことやるとお前の話し盗まれるよ」
とか言い出す悪霊丸出しが一匹ww) 弥生前期最大の水田跡 2400年前の足跡くっきり 奈良
2019年11月22日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201911/CK2019112202000265.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201911/images/PK2019112202100227_size0.jpg
奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、弥生時代前期(約二千四百年前)の水田跡が約三千五百平方メートルに
わたって見つかり、県立橿原考古学研究所が発表した。これまで確認された分を含めると、一帯には少なく
とも四万三千平方メートルの水田が広がっていたことになり、この時期では国内最大。
水田跡は九平方メートル程度の小さな区画に分かれ、間を幅三十センチ前後の小さなあぜがあ
みだくじの線のように走る構造。
緩やかな傾斜のある地形を利用し、水があぜを越えて水田全域に及ぶ仕組みとみられる。 まあ俺はお前らを敵だとも味方だとも思ってない。
オレは言いたいことを言う。
それだけ。
オレは低脳は嫌いだ。
低脳を友に連れ添う気はそもそも無い。 弥生時代の水田遺跡
静岡県登呂遺跡 約70500u弥生時代後期 1世紀
福岡県板付遺跡 約47500u弥生時代早期
兵庫県玉津田中遺跡 約30000u弥生時代中期
宮城県富沢遺跡 約40000u弥生時代中期
岡山県百間川遺跡 約40000u弥生時代後期末
滋賀県服部遺跡 約18700u弥生時代前期 >>62
弥生時代の始まりって、稲作の痕跡が見つかる度に繰り上がってない? >>63
定義次第ですね。
佐賀県唐津市の菜畑遺跡の
縄文時代終末期までありますので。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています