強制移転の歴史を語る三宅さん(中央)=2020年3月23日夜、大阪市北区扇町2丁目の市北区民センター
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神武天皇陵に続く参道。奥に入り口の鳥居。写真左、森の方向に洞集落があった=2020年3月22日、橿原市大久保町
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 戦前に行われた神武天皇陵や橿原神宮の拡張政策の一環として1919年から翌年にかけ、全戸の移転を余儀なくされた旧奈良県高市郡白橿村大字洞(ほら、現・橿原市の一地区)の歴史を掘り起こす部落解放同盟奈良大久保支部の三宅法雄さんが23日夜、「奈良・洞村の強制移転から100年〜部落差別と天皇制について考える」と題して、大阪市北区扇町2丁目の市北区民センターで研究成果を発表した。

 自主的な献納だったとする説が流布されているのに対し、「天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」として強制的に移転されたとみる三宅さんは、明治・大正期の文書や書簡、新聞記事、古老らへの聞き取りなどをもとに見解を述べた。約50人が参加し熱心に聞き入った。

 大阪府民らでつくる「世直し研究会」の第32回勉強会。三宅さんによると、畝傍山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞集落の全208戸、計1054人が立ち退いた。子孫に当たる三宅さんは「ほうら」と昔ながらの呼び名で集落を語り、「部落民が神武陵を見下ろすのは恐れ多いと、現在の大久保町に引きずり下ろされた。私の(現在の)家は神武陵から直線にして100メートルの地点です」と自己紹介した。

 神武陵は1889年に位置が決定され、1898年拡張整備が始まった。1913年、後藤秀穂が著した「皇陵史稿」は「御陵に面して新平民の墓がある」と洞集落を非難している。4年後に奈良県が示した移転理由書の中には「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼(きょうく=たいそう深く恐れ入ること)に堪えざること」とある。三宅さんはこれら資料を参加者に渡して解説した。国内で洞集落の強制移転にまつわる論文第1号は立命館大学教授の鈴木良氏(故人)の著作という。

 当時、県が示した移転理由の中には、衛生上の住宅改善を必要とし、現状の土地では日当たりが悪く、地場産品の下駄表(げたおもて)の乾燥に困難とし、移転すれば生活が改善されることを示唆する。一方、三宅さんによると、移転先として選ばれた土地は、昔から「くぼ」と呼ばれ、その名の通り、雨が降ると水が集まりやすい低い窪地だ。洞の人々が引っ越してくることが決まると、土地に面した四条町と大久保町(いずれも橿原市)で反対の声が出て、2地区とも墓地の転入を拒否した。

 移転のための家屋の解体は1919年に始まり、人々は大八車に家の部材を積んで運び、全戸の移転は2021年1月、完了する。過酷な労役だったのか、移転の過程で生後1年以内の乳児8人を含む13人が死亡したという。自作農は3戸のみで、移転前の耕作地は村外地主の田畑が相当な比率を占めた。移転の補償金は全戸で26万5千円と、当初より増額されたが、耕した農地は献納された。

 この日の発表で、三宅さんは神武天皇陵が史実に基づかないことを繰り返し指摘した。強制移転にまつわる調査をする上で欠かせない問題になる。戦後まもない民主主義の高揚期には「洞領を吾々に返せ」と返還運動も起こった。

 人煙が絶えた集落跡には共同の井戸が残り、今も水が湧くという。三宅さんは年内にフィールドワークを計画している。「洞が移転した大久保町は現在、土地のかさ上げや排水などの治水工事が実施されているが、移転した当時は大変な苦労があったとお年寄りから聞いた」と100年前の人々の無念に思いをはせ、「この節目の年に語ることができてうれしく思います」と話した。(ジャーナリスト 浅野詠子)

 【神武天皇】皇統譜上の初代天皇。日本書紀によると、紀元前585年に亡くなり、畝傍山東北陵に葬られた。実在の可能性は低いとされている。

ニュース「奈良の声」 2020年3月25日
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