【歴史】本能寺の変後、明智軍と信長軍が船戦 伝説生んだ戦いか 滋賀・石山寺で古文書発見 朝日新聞 [オクタヴィアス5世★]
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本能寺の変後、明智軍と信長軍が船戦 伝説生んだ戦いか
筒井次郎
2020/6/7 13:32
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天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた。その直後、明智軍と信長軍が琵琶湖で船戦(ふないくさ)をしたことを記す古文書が、石山寺(大津市)で見つかった。明智軍を率いたのは明智秀満(左馬助(さまのすけ))。愛馬に乗って琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連資料は少なく貴重な発見という。
https://www.asahi.com/articles/ASN666Q81N62PTJB00B.html >>73
信長の首級を挙げていたらもっと戦えた。
逆に信長にはそれが分かっていたから遺体を徹底的に秘匿した。 >>73
不意打ちなんかせず、九州を平定してから九州の勢力を束ねて堂々と信長と戦えば良かったんだよ。 こないだTVに明智の子孫が出ていて、明智光秀は裏切者じゃないと言ってたぞ
理由は不明瞭だが秀吉が悪い事にしたいらしいw >>76
マジで?
そんな意味があったとは知らなかった。 やっぱ、信長を討ち取った後は京や安土を目指すのではなく、間髪入れずに秀吉の背後を襲うべきだったよね。
それ以外に明智光秀が生き残る道は無かった。 >>80
延暦寺の焼き討ちはほんの一部しか焼けてないのが発掘調査で分かってる >>73
縁戚関係の細川すら味方につかない時点でどうやっても無理
運が良ければ、羽柴柴田滝川あたりが牽制しあって分裂するデアドコイ状態の中に混ざってそこそこの勢力で生き延びれるかもってくらい むかし読んだ短編時代小説で
叡山焼き討ちは果心居士の幻術だった
というのがあったな
流石に無理があるだろとw >>82
でも領地財産没収して織田家でうまうましたから何も残ってないよ 光秀がそのままトップになるのは無理だったろうな
義昭あたりを再度担ぎ出せればなんとかなったかも >>88
信長上洛時義昭と争ってた足利家の子孫も阿波にいたんだけどな >>30
山内一豊でかなり主役のハードルが下がり、杉文と金栗死相で地に落ちたw
光秀なんて全然合格ライン >>3
少しずつ改変してきてる
わたしリカちゃんの話に似て怖い 坂本に城造ってるくらいだから水軍持ってたんだろな
全然有名じゃないけど >>79
首や遺骸があれば、討ち取ったと正式に喧伝できるが
表だって発表出来ないのでは、周辺の豪族や与力も信長は逃げ延びているかも知れない、
ここで軽々に光秀に加勢するわけにはいかない(万一信長が他の軍団と合流したら裏切り者として光秀もろとも揉み潰される)
って様子見にシフトせざるを得ないもんな
まさか、焼け落ちる本能寺からおるてなる南蛮の地に流れ着くとは光秀痛恨の誤算であったろう >>95
いうても安土城に信雄が入城したとも言われてるし
あれもこれもは難しいだろう >>88
本能寺の変の時点での足利幕府の体制は、
将軍が足利義昭、副将軍が毛利輝元。
当時の足利幕府の所在地は、広島県福山市鞆町。 >>81
それ後の歴史を知ってるからで、
他に柴田もいたし、織田家臣ではないが家康もいた。
もし秀吉を攻めるために中国地方へ出発したとしても、
逆方向の中国大返しのような進軍はとても無理だから日にちもかかる。
秀吉のいる場所に到着するまでの間に、味方についてない大名の領地も通るから、
戦いながらの進軍になる可能性もある。
兵士が疲労で苦戦して時間食ってる間に、
柴田とかが近畿地方に攻めてきたら、光秀は挟み撃ちになって終了。
この場合、なんで京都や大阪や安土城を抑えていれば、柴田が攻めてきても有利な態勢で迎え撃てたのに、
中央にいて各地の大名・武将を味方につける事に注力しなかったのか?と後世に言われる事になるでしょう。 左馬之介って言われると鬼武者というゲームを思い出すな。
和風チャンバラホラーものとしてはなかなかの出来だったんだが、最後のラスボスが
非常に手抜きで残念だった記憶がある。 >>79
秀吉は本能寺の変の情報をかなり掴んでいて信長の遺体が見つかってないのを知っていた。
これを利用して「信長様は落ち延びていて復権する」と近畿の諸将に文を盛んに送っていた。
そう言われれば信長を快く思っていない武将でも慎重にならざるを得ない。
秀吉は情報操作、情報戦でも光秀を圧倒していた。 >>63
次のとかぶっていいから予定本数やってほしいものだ >>96
>>103
なるほどwww
確かに信長が生きている可能性が1%でもあったら怖いよなw
死の間際にそこまで計算する信長も何というかやっぱすげえ人物だ。
もちろん、秀吉の情報戦も凄いけどさ。 麒麟が来るもあんまり面白くなかったから、日本史で明智一族は裏切り者代表のままでいいだろ。 >>106
変から3日後の6月5日付の中川清秀宛秀吉書状で
「仍只今、京より罷下候者慥申候、上様并殿様何も無御別儀、御きりぬけなされ候、
ぜぜか崎へ御のきなされ候内ニ、福平左三度つきあい、無比類動にて、無何事之由、先以目出度存候」
(たった今、京よりやって来た確かなる者が申すには、信長様と信忠様は何事もなく無事に切り抜けられ、膳所まで退かれた。
その間福富秀勝が敵と三度突き合い、比類なき働きをしたとのことで、先ずもってめでたいことだ)
と書いてるけどこの嘘はかなり効力を発揮したようで、少なくとも摂津衆である中川、高山、池田らは
迂闊に動けなくなって、結局その後も秀吉と綿密に連絡を取り続けるしかなくなってる >>108
摂津衆に対して反対側の近江へ逃げったって情報出すところ流石だな
容易に確認できないし 光秀は京都の延暦寺系の寺の寺領を没収してるし
朝廷に利子を渡すという名目で京都の民に強引に米を預けて
おそらく朝廷に渡す利子の一部を光秀がちょろまかしてたと思われ
延暦寺前に和田秀純に大津の協力的でない民衆を「なてきり」にするよう
手紙で指示してるし光秀は決していいやつではない 信長親子を襲ったあとで光秀は朝廷に金をばら撒いたのに対して
秀吉はすぐ用意できる金目の物をすべて将に与えて
すべての米を兵に与えるよう指示した
光秀をやれば秀吉には今以上の収入が見込めるとかあったんだろうね
結果部隊は進軍がんばるし裏切り者もほとんどでなくて山崎の戦いに勝つ
金の使い方でも光秀と秀吉で違ってた >>110
その書状は
「仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候」
(仰木(大津市仰木)は必ずや撫で切りにしようと思う。近い内に本意を遂げることができよう)
文脈からも分かる通り、別に和田秀純に撫で切りを指示してるわけではない >>73
細川筒井が協力しなかったことばかり強調する人いるけど
その前に織田家の中で対等程度に力のある全員が敵って言う時点で無理ゲー
家臣の羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽・滝川
信長の息子の信雄・信孝、同盟者の徳川家康
このうちの何人か味方になってくれる奴がいないとどう足掻いてもフルボッコ >>1
今年の今川義元は、信長に勝てそうだったんだけどなぁ 左馬助って大河では光秀のパシリやってるけど、最後まで光秀に従うのか
無能な上司を持つと苦労するな >>53
秀吉みたいに醍醐の花見からのイメージシーンで終わっちゃったのもあるから
敗走中に麒麟の夢見ながらそのままエンドのナレ死だったり
太平記も最後は能観劇エンドだったよねw >>117
織田家臣団にも中であの地位にまでなった人を無能呼ばわりとは
すごい人なんだろうねえ 本能寺って織田信成が明智光成に暗殺されたお寺だっけ >>117
朝廷などの中央や追放までは幕府(足利)との調整や折衝、
商人や寺社との外交や催し事などを担当するなどかなり大役を担っていたように思うけど
政治や文化面に明るいからかなり重宝されてた筈
中央付近の統治や細川筒井らを含めた軍団を任されてるし超有能で評価もされてる証拠では 秀吉より先に毛利に知らせが届いていたら秀吉は容易に退却できかっただろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています