【歴史】織田信長の快進撃…実力主義の戦国時代をいかにのし上がったか (幻冬舎) ★2 [首都圏の虎★]
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織田信長と豊臣秀吉が活躍…「安土・桃山時代」とは?
安土・桃山(あづち・ももやま)時代は織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)が活躍した時代です。仏教勢力と戦った信長は、キリスト教を保護し、外国風の雄大な文化が栄えました。タバコやカステラが日本に伝わったのもこの頃だと考えられています。
本連載で解説するのは安土・桃山時代ですが、最初は室町(むろまち)時代の出来事から紹介します。
尾張(おわり)の大名(だいみょう)、織田信長が有名になったのは、1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いです。天下統一に近いと言われていた今川義元(いまがわよしもと)が攻めてきます。
駿河(するが〔=静岡県〕)を支配していた今川氏の軍、その数2万人以上。数千人しかいない信長の軍は、今川軍が休んでいるすきに一気に攻め、今川義元を倒します。この戦いを聞いた人たちが、信長のもとに集まります。桶狭間の戦いが信長を有名にしたのです。
一代でのし上がったつわものたち、戦国大名
では、この頃に活躍した戦国大名(せんごくだいみょう)をささっと紹介していきましょう。
まず、「下克上(げこくじょう)」と言えば、戦国大名の北条早雲(ほうじょうそううん)や斎藤道三(さいとうどうさん)が有名です。守護大名(しゅごだいみょう)は、もともと守護として任命されていた中で力をつけて守護大名になっていきましたが、戦国大名はゼロからのスタートです。力だけでのし上がっていったのです。パワフルですね。
たとえるなら、守護大名が、大企業の子会社の社長から力をつけて独立して自分の会社にしたのに対して、戦国大名はベンチャー企業をつくって一代で成り上がったという感じです。
次に、中国地方を治めた毛利元就(もうりもとなり)を紹介しましょう。彼は石見銀山(いわみぎんざん)を支配下に持ち、活躍しました。
現在の大分県のあたりを治めていた大友宗麟(おおともそうりん/大友義鎮〔おおともよししげ〕)は、キリシタン大名として有名になります。キリシタン大名とは、キリスト教の信者である大名のこと。ザビエルが鹿児島に上陸したこともあり、九州地方に多くいました。
ライバル同士だったのが、甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)と越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)。武田信玄は「信玄家法(しんげんかほう)」とも呼ばれる分国法(ぶんこくほう)をつくり、騎馬隊(きばたい)を組織しました。領内に金山があって、騎馬隊を組織する経済力があったのでしょう。ライバルであった越後の上杉謙信と激しく争った「川中島(かわなかじま)の戦い」は有名です。結局は決着がつきませんでした。
戦いは主に春から秋にかけて行われました。冬は雪が降るから戦えません。なかなか進めないし、凍え死んでしまう可能性もあるからです。でも、春から秋に毎年戦うわけにはいきません。
なぜなら、農業をしなければならないから。戦いだけしていたら田畑は荒れ果て、生活できなくなってしまいます。当時は「半農半士(はんのうはんし)」と言って農業をしながら、戦いになれば兵隊になるという人たちが多くいたんですね。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/d6b3934f40d9f91a485ebd74bbf753ca5970b94f
https://amd.c.yimg.jp/amd/20201009-00029269-gonline-000-1-view.jpg
★1 2020/10/09(金) 15:35:37.84
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1602225337/ 今川の家法や寄親寄子みたいな制度は徳川政権に踏襲されていて
封建制を築くのに寄与しているだよね
だた、織田が天下とって、もっとシーパワー的な開かれた国家になっていたら日本はどうだったか?とか思ったりもする >>426
実際ブルジョワだよ
津島神社が、沿岸貿易でしこたま稼いで織田家を支援してた
神主を信長が夏に団扇仰いであげてたくらい
港湾を抑えれば金が入ってくると言うのを感覚的にわかっていたから、上洛したらいきなり堺を抑えることが出来た 信長の経済感覚は有名で、大金ぶち込んで安土城を建設したら、
それを見に来たやじうまたちから見物料を徴収したという
楽市楽座にも見られるように、軍事よりも経済が重要なのでは、と気づいていた、稀有な人物 >>430
ヌルハチは長城を越えられずに死んだんだけど >>375
そもそも、騎馬隊が存在したのかも諸説ある
馬の上は不安定で前方にしか攻撃できず、
急に後方を向くことが出来ない
方向転換も騎馬隊より歩兵の方が優れている
前からだけの突撃しか強いものはない >>426
今川家は今川了俊という伝説級の人物がいたからね。
室町幕府体制では武家の中でもかなりのネームバリューだと思うよ。 >>18
日本へ寄生するゴキブリ
半島へは兵役拒否で逃げ回る卑怯者
正真正銘の屑 >>431
徳川も家康存命中は十分に貿易振興だよ。
浦賀に貿易港を開こうとしたり、朱印船貿易も積極的。
家康は南蛮の文物も好んで使った新しもの好きでもあった。
二代、三代目からだね。織田の場合でも同じようになったかもね。 >>423
下級がどんだけ困って死のうがたいしったたこっちゃない。上級が儲かればいいだけ。
ってのが戦国時代・太平洋戦争・日本流新自由主義のやり方 >>437
そもそも甲斐は山がちな地形だしな
その威容から武名だけは響き渡っていたが、実際には単なるシンボルだったのかもしれんね 人は記憶型と思考型に大別できる
馬だけで編成された騎馬隊は基本的になかったと思われる
弓持ち、槍持ち等の言葉からも判るとおり騎馬に足軽が付随してるんだ
更に最小ユニットが地侍による編成なんだ
侍が足軽を何人か引き連れてくる
このユニットは大名といえども切り離すのが難しい >>384
フィクションだろうな。
動物は火を恐れるから、角に松明なんてつけられたら前に進めんよ。
中国のは、しっぽに火をつけてたってことだから、あり得んことはないだろうが。 >>437
確かに乱戦で馬なんて目立つものに乗ってたら格好の攻撃対象だわな
一方で、だからこそ乗って鼓舞する価値があったのかも?と思う
ただ、戦いでの武将の死傷者考えると乗って戦ってないか感じはするわな
指揮官が前線行かないってのは中国や朝鮮じゃないからないだろうし >>442
まあ騎馬隊に力いれてたの武田じゃなくて後北条氏らしいからな >>443 の続き
なれど騎馬だけの騎馬突撃はあったと思う
突撃距離 200mとしよう
騎馬 30km/h
足軽 15km/h
騎馬が敵陣に突入したとき、足軽は後方100mの位置にいる
よって騎馬だけの突撃が発生するんだな >>445
そもそもオール騎馬隊なんてあったら餌代も運搬も大変w
ただ騎馬を筆頭とした乗り込み戦術はあった。戦車と歩兵みたいなもんやね
それも鉄砲がメイン兵器になってかり効果薄れたけど、それでも長篠で馬防柵を何段か突破したり橋頭堡確保してんだから大したもん 騎馬隊は存在したけど騎兵隊はなかったでしょ。
騎馬武者にお付きの護衛が数人いて1騎馬 信長は軍事的にも優秀な将軍だよ。桶狭間は今川軍主力に砦を攻めさせて、主力と分離された義元を攻撃した。他にも朝倉軍の撤退を予見・察知して、自らこれを追撃し崩壊させたりしているが、柴田、丹羽、滝川、秀吉などは撤退などありえないと判断していたので信長についてこれなかった。 上杉謙信は補給が限界あったから上洛できず。
手取川で織田軍倒したが、福井近くまで進出して撤退。 合戦の度にお馬さんの補充も必要になるし
馬に乗って戦闘する訓練も必要になるからね >>452
結局、どんな優秀な武将が居ても無意味で、最後に勝つのは経済と兵站なんだよね
呂布も王允がバックアップしているうちは無敵だった 長篠の戦いでの火縄銃が画期的と言うけど、火縄銃の使い方は雑賀衆とかからのパクリだよね
まあ楽市楽座もパクりだし・・・
一向一揆で散々やられたこと(信長の親族が何人も死んでいる)を、長篠に再現しようとしたのは流石だけど
武田勝頼が若くて負け知らずみたいに戦に強かったから填められると思ったのかもね >>447 の続き
そもそも西国の武将は馬から降りて戦う
尾張の兵も馬上では戦わない
馬上で戦うのは坂東武者、関東の侍ね >>453
そうだよ
偏差値35の人に偏差値50程度の内容を求めたらかわいそうだろ? 1453年に関東で享徳の乱という大乱が起きた
あの太田道灌の現れた戦争で30年続いた
その頃コンスタンチノープルではオスマン軍がビザンチンに向けて
最後の攻撃を行っていた
そこで登場したのが巨大大砲ウルバンだ
日本との時間軸はまだそれほど違った >>452
手取川の後にすぐ冬だったからな
北国の敵は雪。そして上杉に関しては一揆と関東菅領という役職と謙信の性格 >>18
戦国時代なんていう半ば伝承の向こうの
価値観も何もかも異なる世界での武将を英雄視云々に何の問題があるよ
そもそも現代と地続きの近代のテロリストを英雄視する
おまエラが言えた台詞かよ、身の程知らずのダブスタキムチが >>463
そもそも人権なんて概念が無い時代、昔から日本は奴隷を輸出してたからね
それを拒否ったのが豊臣秀吉
キリスト教を隠れ蓑に日本人を奴隷としてどんどん海外に売りさばいてる、という事実を知って全おこ、
キリシタンの弾圧に入った 尾張は生産力高すぎるし商業も盛んだったからな
場所が有利すぎる >>72
バックについてた今川の家格も知らないアホか?
お前の歴史は数十年前で止まってるようだなw >>448
騎馬隊は拠点破壊などの動かない対象への攻撃や
兵力で勝っている時の突撃には効果あったと思う
だがやはり馬に乗っていては戦い辛いし
急に方向転換できないので横からの弓や投石に弱かっただろうから騎馬隊メインの戦いは出来なかったと思う
強いが使いどころを選んでたんじゃないかな >>467
バック言うなら今川じゃなく菅領細川(と傀儡室町殿)だぜ旦那 >>456 尾張の田舎者は全てパクり。
誰か後ろに居たんだろな。 長篠の戦いで特筆すべきなのは鉄砲の三段撃ちなどではなく、野戦築城。おそらくスペインの宣教師からヨーロッパの戦い方を聞いていたものと思われる。この戦いから、戦争の勝敗が土木工事の優劣(つまりカネ)で決まるようになった。これに一番影響されたのが秀吉。 >>457 の続き
北条早雲は今川の家臣
なれど自力で伊豆を平定した
程なく独立したというわけさ 今川軍ってのは将軍直属軍にほぼ近い
将軍継承権を持つ今川は関東の抑えのために駿河にいた
関東からみた幕府軍というと基本的に今川軍を指していた >>432
堺は三好氏の勢力下にあった貿易港で三好氏が擁立する足利義維が堺公方として居たところだから
信長が制圧するのは当たり前 武田信玄、上杉謙信…特に信玄にはビビりまくってた、
謙信じゃないけど上杉には柴田勝家だが、
「織田軍、恐るるに足らず」と言われる始末
結論を言うと、運がよかったからでしょう、
徳川家康も、ずっとそれを言っていたし自覚もあった >>467
今川の家格なんざなーーーーんの役にも立たん。さらに家格が高い吉良ですらなーーーーーんの役にも立たんのに
家格あんのに遠江の守護取られてぐぬぬ…になった家がどこか知ってて言ってるのか?
バックと言うなら>>469の言うとおり斯波なんてどうでもいいよと言ってくれた幕府 >>475
機会を狙っていたのが信長のすごさだと思う
いろいろ才能ないけど意思を持っていたとか 鉄砲の三段撃ちが文献に最初に登場するのは、江戸時代に書かれた太閤記
つまり小説
信長の史料でもっとも信用できるとされる信長公記にはそんなことは一言も書いてない >>475
武田はどう見ても戦国最強であり、それはさすがに相手が悪すぎる >>475
謙信のそのセリフは手取川に信長本軍が来てると思ってたから出た言葉だけどね >>468
並んで長槍を上下に振る足軽なら農閑期のアルバイトでいくらでも補充できる
だけど騎馬武者となると技量、度胸、士気諸々の問題で基本的に武士の子弟になるわけだ
日本の場合は武士の子弟は指揮官と行政官を兼務してる将来の幹部候補
そんな人らだけで編成した高コスト部隊編成するか?
フランスなんかも100年戦争で騎馬突撃で王子や有力諸侯死にまくって見直したのに
っていうか、日本の場合は一族で独自に部隊編成してるんだから集められないだろ
北面武士とか子弟集めた母衣衆とか実戦で消耗覚悟で前線に送る部隊違うし(人質と権威) >>468
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
(信長公記 長篠の戦) >>477
だね。勝頼にもちょっと痛い目に合わされたのもあってしっかり機会を探ってた
謙信様も勝頼を見くびるなよとアドバイスされてるし
戦は大したことないけど勝ち方を知ってる >>477,479
信長の凄さは経済力(と強運)
特に経済力、九鬼水軍だっけ、あと村上水軍(ほぼ海賊)
秀吉、信長は水軍を使った補給や流通学に長けていた、
479の言われる通りやな。川中島の両雄は相手が悪過ぎ
策略を張り巡らせて、戦わないのが正解やね そもそも、お父さんの織田信秀が超やり手だよね
形式上は、守護・守護代の下にありながら、尾張をほぼ牛耳って、
最盛期には、西三河で今川義元相手に優位に立ち、
加納口の戦いでは敗れはしたものの、稲葉山城を包囲するまでに斉藤道三を追いつめ、
大垣城を占領し続けた
晩年は苦しくなったけど、最盛期の石高だけでも全国有数の大名で、
尾張の商業拠点をがっしり押さえて経済力を確保している
商業都市の津島を支配したのは、お爺ちゃんの織田信定の時からだから、
織田信長の経済権益重視の政策は、
織田家の家業を代々受け継いだものと言える >>471
長篠は丸太担いで行軍したんだっけ。
ドラマではその様な描写があったが、それぐらい長い柵と空堀、土塁で要塞化した織田徳川陣営。
本来なら睨み合いのまま終わりそうな戦だが武田勢は背後を突かれ開戦に引き込んだ。
あと天候の妙や内通の情報戦など合戦を研究するには長篠は現代人にとっても良い題材。 >>479
武田信玄の小田原攻めを見れば、
信玄の遠征能力では岐阜城を落とすなんて無理だろう 信秀なんて守護代の家来ですらないだろ?
その家来の傍系の親戚くらいの奴
現在ヤクザで言えば六次団体くらいのグループ
それが身内を制して地元を制して山口組の大物幹部を倒した
それは大変ですよ 信長のじいちゃんの信定が津島を手に入れて
港湾から金と人を獲得できるようにしたのが
信秀の活躍につながるから
そこそこ代々優秀なんだよな 越後攻めの時、秀吉は柴田勝家と揉めて別れた、と聞いた
最新の資料研究じゃ変わってるかもだが
ノッブは桶狭間が言われるが、
基本的に経済力で大軍動員して小を倒す、
そんなのしか出来んし、それでも結構負けてる
信長本人が来てたとしても、織田軍は果たして強いかな? >>490
守護代(若頭)の下なんだから舎弟頭くらいだぞw
さすがに6次団体はないというかそこまで行ったらただの準構成員w 当時の織田家で言うなら山口とかあの辺
4次団体が平手で5次団体が柴田 >>492
織田は武力としてはそんなに強くないよ
要所要所で上手に勝ってるだけ
武田家とか、家康配下の三河武士隊とか、あの辺が強い >>493
信長はさらに長男ですらないからな
尾張のトップに立ったことが一番の偉業 >>23
どうもならんよ。
甲斐源氏の名門である武田家の当主様が、甲府から本拠地を移動できるわけがない。
もし、ホンキで移動なんかさせたら父親がそうなったように、部下に追放されるのがオチだ。
部下に気を使って、部下のために戦っちゃいけない相手とも戦って無駄に敵を増やして。
あんなやり方で天下統一なんかできるわけがない。 >>492
信長が手取川に来てたらおそらくは手取川を渡ることはなかったろう。七尾城が落ちてるかどうかが不明でも
そしてやはり上杉には侮られる
が、強いからね。「強さ」の基準を戦のみで語るのは当時ならまだしも現代に持ち込むのはちょっとな もともと三河武士は命知らずではあったが、強さとしては上の下くらいだった
三方ヶ原で武田に惨敗したくらいのレベル
が、武田家が勝頼の代で潰れたら、武田家の遺臣を大量に雇いこんだ
その結果、命知らずで武力が高い、チート部隊が出来上がった
こういうことを考えると、戦国最強は武田で決まり >>488
背後を衝かれたというより別動隊出たから兵力分散したとみて攻撃掛けたんじゃないの
背後たって山登って行ったんだから戦わない気なら普通に逃げればいいだけの話 >>495
長男であろうがなかろうが正室が生んだ嫡男が家督を継ぐのは普通だぜ 中央の歴史好きがよく間違ってるのが
謙信は中央を目指してなかったというところ
謙信は関東王になりかった
謙信は冬になると略奪目的で関東に来てただけで義の人でもなんでもないという説があるけど
別の義の人なわけじゃなくてただ関東の覇権を目指してた
中央行きはおまけでしかない >>500
そんな決まりでは継いでないな
公家じゃないんだから
実力主義で長兄や末弟の勢力もゴロゴロあった >戦いは主に春から秋にかけて行われました。冬は雪が降るから戦えません。
だから、この記事、ツッコミどころ満載なんですが、全部に突っ込んでいると切りがないので1点だけツッコまさせてもらいます。
でぇ、冬には戦えない地域もありますが、戦える地域もありますな。
南国などは冬の方が戦いやすいんじゃないですかな?
それから、まるで隔年で戦っているような書き方ですが、そんな事はありません。
田植えは1年でも止めたら大変な事になりますので、毎年やってます。
戦は農繁期を避けてやってる訳ですな。 大河ドラマの江に出てたトヨエツの信長はカッコよかった >>23
信玄の上洛を大幅に遅らせたのは上杉謙信だよ
謙信は北条にとってもさぞ迷惑だったろう
が、武田の勢力が拡大し過ぎるのを防いだ一面もあるので、北条は助かった面もある 中国だと三国志や他にも面白い時代があるが
日本の面白いのがこの戦国時代くらしいかないのが残念 源氏とか藤原氏辺りも面白いのだが・・・
徳川が長いし 鎖国解いたから外国風味になってしまった まぁそれで今があるが 武田は田舎武将というだけあって、
すぐに地元に引っ込むからな
だから領地を奪っても奪われ返されるし
関東王なんて現実的無理
その点織田家は、敵の最前線に城を構えて引っ越すという
当時としては画期的な手法を使った
それが秀吉とかに引き継がれ天下統一に繋がった >>501
関東菅領の職務を忠実に果たしてただけで「覇権」を目的にしてたわけじゃないからね
北条の野心さえ潰せればいいわけで、だからこそ北条から養子は取るし和議結ぶしであって
覇権という言葉の使い方を間違えただけかも知れんけどそれこそそこ勘違いしちゃいかんよ 越後上杉氏なんて謙信の代じゃなくても
室町年間ほぼ数年おきに関東に行ってる
越後を空けて関東に行くのは越後上杉の年中行事
謙信しか知らないとそれがわからない >>506
オジサン目線ならそうだが、女子目線なら平安時代最強だからな
あと室町〜南北朝もなにげに面白いから
圧倒的に面白くないのが、観応の擾乱〜応仁の乱
状況が入り乱れて何が何だかよくわからないうえに、何の決着もつかない >>500
投稿500が正しいな。
信長なんかも本当の長男ではなかったが、母親の家柄が良かったので長子となったのではなかったかな? 日本史の深いところは史料がなさすぎて創作もできんから面白がりようもないからな >>501
謙信はさっさと仏門に戻りたかった・・・説 >>508
全然知らないね
義の人とか関係ない
上杉氏というのは元々東日本全部の棟梁なんだよ
東国史を知らないとそれがわからない
失った失地を回復したかっただけ
義もなにも下剋上して主君の上杉氏を倒したのは家宰の長尾氏
元の主君の本家が頭を下げてまで来越したことには
義を感じたかもしれんけど
そもそも犯人が自分側なのに >>497
家康が関ケ原でやった謀略戦、
秀吉が家康に対して仕掛けた大儀を失くさせる和睦など
戦に勝っても外交で負けては、血の犠牲も無駄になってしまう、
線引きが難しいが戦の強さのみで判定してるでしょう>誰が一番強いのか
基本戦闘能力は上杉謙信と上杉軍が一番、でもこの人は謀略とかない
関東を〆ても、それだけで終わるので北条討伐を繰り返す、 長篠の戦いは鉄砲の戦いでもあったが、ポルトガルからタイ産の鉛を入手できた信長に対し、
武田は鉛が手に入らないので銅で弾丸を制作 鉛と比べると銅製弾丸はつまりやすく暴発が
続出した とNHKの大戦国で言ってたな やはり、交易にはやくから注目してた織田氏はすごい 謙信は北条を討伐する気もなかったかも
北条が領土拡大を止めたら >>502
基本、決まりは嫡男。それは源平の頃から何も変わらん
戦国になって嫡男じゃないやつが当主狙ってもいいじゃんって価値観が出てきただけなだけであって
というか信長が跡を継ぐなんて最初から決定事項で信広が跡を継ぐなんて一切無かった話なのに何で偉業とか言い出した???
てか書き込みみたら全部何か勘違いし過ぎてて草 >>369
上杉謙信の戦争目的は敵を殲滅することでなく
相手に自分を見ただけで小便をちびらせるようなトラウマを植えつけることだからな
上杉謙信の猛攻を耐えきった武田信玄はそれだけですごい
ジャイアンに殴らまくりながらへばりついて引き分けの持っていったのび太ぐらいの根性
織田信長は土下座してでも絶対に避けていたから、そういった上ではかなり上手
秀吉も結局ビビッて逃げてたし 織田信長の生き方真似たところで部下に粛清されるだけ >>498
歴史的に、三河に勝った事無いだろう
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>498
最強は伊達政宗と思う
後20年、生まれるのが早かったら、と誰しも言う
あまりにもありふれた賛辞だ
加えて政宗は家臣にも恵まれていた
伊達成実は島左近、真田幸村に並ぶ猛将
小十郎は秀吉、家康にすら一目置かれていた
強い大名には優れた家臣がいる 無論主君の越後上杉氏を倒したのは
父の長尾為景だから
謙信自身はもしかして主家に悪いと思ってたのかもしれんけど
とにかく主家のそのまた主家の家督を継いだのだから
有象無象に食い荒らされた旧領と権力を取り戻そうと思うのは普通だろう
京に行くよりもまずそれが先 伊達と鬼島津は、本当に意見が分かれる
信長、秀吉をビビらせた信玄、謙信クラスなのか、
あるいは信長、秀吉クラスなのか、
もしくは、秀吉が打倒した毛利クラスなのか
両方とも強いのは間違いないのだろうが… >>503
稲作を教えて貰った北朝鮮が伝統を守っている
品種も北海道辺りからかっぱらたのだろう >>514
とりあえず関東菅領とは何なのかというところから勉強した方が宜しいと思いますよ
関東の棟梁は鎌倉公方。関東菅領に拘るということは室町将軍の家臣であるということなんで
義とか関係ありませんがな >>511
家柄じゃなく正室の長男
年上の妾の長男より年下の正室の長男が嫡男になるのは当たり前どころの話ではない。常識であり基本 >>369
関東で十万の軍集めてるんだぞ
小田原行っただけじゃなくて鎌倉で管領の就任
上総常陸あたりでは毎年のように
土豪を征伐してる
その時に土地を奪わなかったから義の人にされてるのだろう
奪う必要無いんだよ
元々関東の長官だから 俺は基本弱い者の味方で、
敗れた方に立って、じゃあどうやれば勝てたか?について考えるんだが、
前TVでやってたが、長篠の場合、すでに武田軍があの戦場に行った時点で
負け確定、みたいな感じだったな。
後ろは長篠城で、そこにも徳川軍だかがいるので、ある種もう織田徳川連合軍に包囲される形になってんの。
なので、前にいる敵主力と戦わざるを得ない展開。
結局、深入りしちゃった感。
なので、単純なんだが、勝頼は、敵主力は勿論、長篠城自体も西に見る位置まで一旦兵を東に引き上げるべきだったんじゃなかったか?と。
あと、敵が鉄砲一杯持ってることぐらい事前に分かっただろうから、
どうせ戦するなら、雨の日にやれよ、と。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています