聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡 法隆寺の資料倉庫で80年ぶり発見…643年蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害 ★2 [ばーど★]
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奈良県斑鳩町で、聖徳太子が造営した斑鳩宮いかるがのみやの壁土の破片が約80年ぶりに見つかった。
戦前に発掘されたが、その後所在不明になっていた。破片には、643年に焼き打ちされた際についたとみられる痕跡があり、研究者は「古代史の大事件を裏付ける貴重な資料」としている。
斑鳩宮は601年から聖徳太子が造営し、暮らした宮殿。聖徳太子の死後の643年、子の山背大兄王やましろのおおえのおうと皇位継承を巡って対立した蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害したとされる。
町教委によると、法隆寺の「昭和の大改修」に伴い、1939年に東院伽藍がらんにある伝法堂で発掘調査が行われ、斑鳩宮とみられる柱跡が出土。国が48年にまとめた発掘報告書には、「炭や焼けた壁土片多量を発見」と書かれていたが、戦中の混乱もあって壁土の所在がわからなくなっていた。
来年が聖徳太子没後1400年目にあたることから、町教委が報告書に書かれた壁土の所在を捜したところ、今年7月、法隆寺の資料倉庫で「伝法堂出土壁土」と書かれた木箱(縦67センチ、横30センチ、深さ15センチ)が見つかった。中には壁土約30片が入っており、最も大きなものは縦30センチ、横16センチ、厚さ10センチ。表面が焼かれて赤褐色などに変色していることから、町教委は焼失した斑鳩宮の壁土の可能性が高いと判断した。
壁土は、17日から斑鳩文化財センターで開く特別展「聖徳太子の足跡―斑鳩宮と斑鳩寺」で初公開される。
清水昭博・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「日本の宮殿建築の部材として最古のものと考えられ、実物が確認された意義は大きい。今後の調査で壁や建物の構造などの解明が期待される」
2020年10月14日 11時48分 読売新聞オンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/19053288/
★1が立った時間 2020/10/14(水) 12:50:15.66
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1602647415/ >>358
古人大兄皇子が「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言ったそうだから、
入鹿側ではなく中大兄皇子側に渡来系の勢力が加担してたんじゃないかな? >>276
いや、江戸時代は正妻から生まれた天皇のほうがレアケース
だから血は濃くないよ >>66
日本には賢人や英雄などなく、悪人だけの国だった!というように日本の歴史を操作して
聖徳太子や坂本龍馬なんかいなかった!と塗り替えたい連中がいるんだよ むかーしCanonのお偉いさんのおじいちゃんが私の一冊みたいな番組で日出処の天子紹介してて吹いたw
おもしろいじいちゃんだな〜 >>364
藤原と天智が百済人で天武と天智は赤の他人 >>330
奈良時代とは九州倭国系の天武系と天智ー藤原系の暗闘に明け暮れた時代なのです
642年に百済国内で政変があり、百済義慈王により、百済武王一族が島流しになります、この時、「百済武王の息子である、翹岐王が列島に亡命してきます、これが「中大兄皇子、天智」
天武(大海人皇子)と言うのは、「九州倭国王筑紫君薩野馬(大皇)の弟で(大皇弟)と言われている人物です。
道鏡事件は九州王朝(天武系)が絶えんとする時期の一発逆転を狙った最後の賭けだな 真相は山岸涼子の「日出処の天子」読んだら全部分かるよ >>369
当時から生きている人間はいないので
いた とする可能性と
いなかった とする可能性の違いだけ
今の調査では、いた可能性が高い と言う話 聖徳太子の肖像画とされてたものが嘘だったと判明したことで実在説はかなり厳しくなった >>377
あの絵が違うだけで、別の聖徳太子の肖像画が発掘されるかもしれん。
ただ、新しく聖徳太子の肖像画が出てきて、それがガチムチの髭面のおっさんだったら、
それを日本人が受け入れるかどうかだ。
イエス・キリストの顔をコンピューターで復顔したら、髭面の中東系のおっさんだったからと言って
キリスト教徒の崇める、金髪碧眼の白人のキリストの肖像画と置き換えないのと同じ 蘇我氏が大臣になってからの政治的功績は何もないからな
ただ権力を強化していただけであって画期的な政策は何もない
内政・外交の新政策が動き出したのは厩戸皇子が摂政を行ってからなのは事実 >>379
「聖徳太子」の呼称が現れたのは8世紀中ごろ以降で、推古天皇の下で政治改革や中国・朝鮮半島の外交関係、仏教興隆を推進したとされてるのは「厩戸皇子」
厩戸皇子が誰なのかもこれからの課題 >>361
くさふめば くさにかくるる いしずえの
くつのはくしゃに ひびく さびしさ
忘れてないよ、これ大好きだ。 みんな詳しいな
おすすめの本があったら教えて欲しい >>385
聖徳太子は蘇我入鹿である | 関 裕二
刊行が91年だから日本会議史観に毒されてない書籍で仮説としては充分中立的
文体も読みやすいと思う >>324
風土記も藤原の命令でつくらせたものだから
常陸国風土記も常陸国の国司として赴任してた藤原宇合が編集したそうだよ 歴史を見てると面白いな
政争の勝ち組だと思ってたら一つの事件で一気に消え去って負け組だと思った方が台頭してきたり
蘇我氏を見てるとそういう栄枯盛衰を考えさせられる
宗家一つの滅亡で全てが終わってしまう
葛城氏も吉備氏も蘇我氏もそう
そう考えると4兄弟がそれぞれの家を作って事件ごとに別な家が台頭してトップに君臨し続けた藤原氏のやり方は結果的に正しかったんだな 藤原氏もずっと勝ち組だったわけじゃないからな
と言うか最初から滅びそうな大事件に何度も遭遇して政治の動きに翻弄されてる
4兄弟がたまたま家を作ってそれぞれが別陣営に属した事が生き残った理由だな
分家が順番に生き残った形
藤原氏も運が味方してるな >>393
世界的に見ても、それは顕著だよな
一時は世界の大半を侵略したモンゴルが、今や中国とロシアに挟まれた弱小国家
オスマントルコも、いまや当時の面影もない
海洋国家のスペインも、ローマ帝国のイタリアも >>368
ソースは関何とかとかとか梅原某とかのトンデモ系だなw 半島の物があれば盗んだと言われ、交流があれば渡来人と言われ…
何の罰ゲームよ
絡まれてるとしか思えんわ >>397
弟の天武が年上とかいう書記の方がおかしい
天武天皇は天智天皇より年長(その限度で日本書紀は捏造。ほぼ通説) お前らも情けないなぁ
聖徳太子って知ってる?
デラウェア!
このネタも完全に忘れてるんだもん 九州人と近畿人の顔を見れば違う民族って普通分かるだろ お前らも何処かお互い妙に敵意を感じないか?分断工作とかじゃなくて普通に 大化改新や壬申の乱に興味がある方は、井沢元彦さんの日本史の叛逆者も読んでみたら結構面白いですよ。 馬子が太子で入鹿が山背大兄王なら
誰が誰を焼き討ちにしたというのか 蘇我入鹿が惨殺され父である蝦夷が自刃。しかし蘇我は蘇我でも赤兄は生き残って有間皇子が絞首刑まで生き残っている。 >>368
百済語と日本語は別の言語だと思うけど、どうやって会話したの? >>351
あれ良かったわ
山岸太子がそのまま出てきたみたいな雰囲気 もっくん聖徳太子ドラマは
リアルコリアンを起用してたみたいで
なんか違和感あったわ 乙巳の変の際、現場には古人大兄皇子という人物が居合わせたとされている。
その人は現場から逃げるときに言った言葉が日本書紀に残っている。
「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」 >>409
百済語は理解出来たが、高句麗語は理解出来ないと言うのが残っているらしいから、言葉が違っている可能性もある。 >>412
つまり、三韓の使者の中に暗殺者がいたってことだね。 >>409
現代朝鮮語と日本語は語順や文法が似てるとよく言われてますが語彙(単語)は似てないですね
高句麗語については一部が復元されていますが、百済語についてはどのようなものだったかも判っていません
高句麗語についても李基文博士によって復元されたのは82語に過ぎませんから、ほとんど判っていないと言っていいのですが数詞が日本語と酷似していることが注目されました
日本語と朝鮮語の間に見られる文法・語法の並々ならぬ類似性は高句麗語と百済語の話者(語彙酷似)が新羅語(朝鮮語のルーツ)に乗り換えたと言う説があります
百済人は滅亡した秦の末裔で倭語(日本語)を喋ったと言う説もある(参考) 聖徳太子 じつは 存在しなかった 都市伝説らしいぞ!
w 昔に、今でも良いかも知れないが、津軽人と薩摩人二人だけで話したら、理解し合えるのかな? >>405
井沢元彦に教えられてなるほどと思ったこともあった >>1
どういうことやねん!もっとはっきりしろ!! >>413
『日本書紀』には「吉備海部直羽嶋」という人が韓語(百済語)を話せたと書いてあるね。 >>417
庶民同士なら困難だと思う
時代が進めば謡曲の言葉で互いに話すとか筆談でやるとか >>399
それは俺の中で通説と書かないとw
個人の意見は自由だけど事実化するつもりなら史料と学説由来のソース出さないと
まさかトンデモ系とか小説家とか漫画がソースでもないんだろ
高市皇子が43才没で白雉5年の生まれになるんだからその時点で天武はおおよそ20才前後と考えられる
となると天武は舒明6年生まれと推算され、天智-間人-天武の出生順に矛盾は生じない
よって天智は推古朝末期の生まれで天武より年上
天武年上説を持ち出す胡散臭い輩のソースは本朝皇胤紹運録において天武の崩年を六十五を五十六に誤記したからだ!とかいう超無理筋だぞ
書記において生年崩御の記述がないのは何も天武らに限った話でないし取り立てるほど不審でもない >>414
中大兄皇子、中臣鎌足等を韓人と呼んだのか、三韓の使者に変装した中大兄皇子、中臣鎌足等を韓人と呼んだのかは不明 >>423
暗殺者が三韓の使者に成りすましていた可能性もあるね。
いずれにせよ、この事件は外交問題になっていないから、犯人は韓人ではなかったってことだね。 釈迦族も滅亡して
太子一族も滅亡して
仏教らしい奇妙な因縁めいた何かを感じる >>412
それ原文は、「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」で、鞍作って入鹿の別名らしいけど、鞍作って渡来人の名前だそうだね >>80
こうゆう素人の妄想が意外と当たってたりするんだよな >>430
明治天皇には複数の妃がいたから、明治時代までだと思う。 >>105
中臣氏はハプログループO1b2a1a1で、日本独自系であることが確定している。
また中臣氏の根拠地とされる京都東部からは旧石器時代から室町時代までのの遺物が連綿と出てくる。
ちなみに天皇家はD1a2a1bで天智天皇の男系子孫。
つまり、大化の改新はこの2系統の融合でなされた。
宗教的には神社系がO系統。仏教系がD系統で蘇我氏もこちら。 乙巳の変のときの、中大兄皇子と中臣鎌足は今風にいえば完全に右翼。
それが白村江につながっている。
その当時は仏教系の蘇我氏にやられっぱなしの神社系の中臣氏という構図。
これが大きな政変の動機になっている。
しかし、中臣鎌足が権力を手中にする過程で神社系の鎌足が仏教勢力の取り込みも図った。
それが春日大社と興福寺の関係として現在まで残っている。
藤原家の隆盛のおおきな思想的背景は神仏習合でその開祖が鎌足だというわけ。
藤原不比等は組織化された仏教系に対して、民間宗教でバラバラだった土着の宗教を神道として仏教の組織を参考にまとめた功績が大きい。 まあ当時、聖徳太子なんて人物がいなかったのは確か
ついでに推古天皇も後付けの名前 古事記、日本書紀、続日本紀は、もちろん史実も書いてあります。しかし藤原氏の都合のよいように
かなりの事実がゆがめられて伝えられています。ここのところを注意して読む必要があるのではないかと思います このころの中臣氏はすでに全国ネットワークを有していたのも大きく。
これは神社系のネットワークとでもいうべきものだった。
このことはまた、中臣氏のハプログループO1b2a1a1が非常に古い時代から列島に存在していた傍証ともいえ。
根拠地とされる場所から旧石器時代の遺物が出てくることからもそれを補完する。
またその地域は川にはさまれた台地状の場所であり耕作するには非常に適した土地。
神社の発達と米作は不可欠の関係にあるのだろう。
列島で古い系統だとされる物部氏(D系統)との関係も古くから深く、弥生時代以降に渡来した系統だとは考えにくい。 「邪馬台国はなかった!」と言う本がよく売れたから
「聖徳太子はいなかった!」と言う方がインパクトが会って売れる
邪馬台国の方は漢字が違うだけだった >>436
ヤバい人、つまり怨霊に
聖徳とつけたワケでしょ >>438
具体的にどうぞ。かなり意味不明のことをいっています。 聖徳太子て いなかったかもしれんのに なんで いちまえんさつに なったん?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 異母兄妹でも結婚が許された時代だからな
それでも同母兄妹はどんなに愛し合ってても変態と迫害されるw 『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)7月の項に、次のような記事があります
「右京の人正六位上栗原勝子公言す。子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖 天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして 彼の土の女を娶りて,二男を生み名づけて本大臣、小大臣といふ。はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。 時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。その後
居に因って氏を命じて遂に栗原勝の姓を負へり。 伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。
是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ」
ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。そして、その人を説明して言います
この伊賀都臣(いかつのおみ)は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると
要するに神代の天御中主命を持ち出してきて、ここに中臣氏が古来から日本に土着した氏族であることを 印象付けています。
しかし古事記において中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い 家系であるか、と言う事をそれとなく述べていますが
具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書いてありません。 書きたくてもかけなかったと言うのが 真相でしょう。変なことを書くと嘘がばれますから
それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに日本古来の氏族であることを 述べています。ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。20世と言うと一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。 仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?多分怪しんでかかるでしょう。 しかし誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか? 私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二敵ぐらいは混じっているかもしれません 『先代旧事本紀』の記述は本当なんだろうか。
俺の地元は『先代旧事本紀』の記述に基づいて町興ししているが。
『先代旧事本紀』の記述と関係がある神社もあるし、本当だと信じたい。 中大兄入鹿やら中出しのカマホリやらもうよくわからない >>448
それだけ?w
古事記や日本書紀は大化の改新以降の天皇を正当化するための書物ですよ。
中臣氏の記述は大げさでも何でもなく、非常に古い系統であることはそのような記述がなくても明白。 >>446
ヨイショする必要があるんだろ
あそこの仏像おかしいから
首筋に釘を直打ち
白毫を釘で直打ちとか
日本人というか、皇室にとって重要なんだよ
悪い意味で >>437
厩戸皇子が推古天皇の摂政を務めそれなりの勢力を持っていて
その子である山背大兄王が皇位継承をめぐって蘇我氏と対立して滅ぼされた
って傍証がここで出てくる焼けた壁土
いなかったかもと疑われているのは聖徳太子なるスーパーな人物で
当時の政治状況から
厩戸皇子以上の権勢を誇っていた可能性の高い蘇我氏の政治成果がほとんど知られていない状況から
聖徳太子の事業の幾つかは蘇我の仕事かもね〜って説や
いやいっそ蘇我馬子なり入鹿なりが太子そのものだったんじゃねってものまで幅広い推論がある >>446
もっと実在性の怪しい武内宿禰だって紙幣になってたし。 >>456
長生きし過ぎの人でしょ
森繁も敵わなかったな うまやこのひめみこは本当はもっと続くはずだったのを
朝日新聞の捏造記事「法隆寺カンカン」のせいで急に終わったとか
もっと読みたかったなー 『日本書紀』に載るような古代氏族で、後の時代まで残れたのは“鳴かず飛ばず”の氏族だけだと思う。 >>455
>って傍証がここで出てくる焼けた壁土
火事なんて昔も今も珍しくなくて、あの頃なら百年に一回程度は自然に燃え落ちて不思議はないから、なんの傍証にもならんぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています