【福岡】邪馬台国は筑豊にあった? 「卑弥呼連邦」樹立、8市町村が宣言 「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」 [樽悶★]
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卑弥呼連邦樹立共同宣言を読み上げる二場公人田川市長(左端)
https://www.nishinippon.co.jp/uploads/image/726188/large_e2f3aebb61.jpg
邪馬台国は福岡・筑豊の田川地域にあった−。福岡県田川市など地元8市町村の首長が1日、同国の女王卑弥呼を地域共通のシンボルにする「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した。卑弥呼をキーワードに広域観光ルートの開拓やガイドの育成などを進めるという。
きっかけは、同県赤村で見つかった全長約450メートルの前方後円墳に見える地形。日本最大級の古墳「大山(だいせん)古墳」に匹敵する規模から、「卑弥呼の墓では」との声が地元から上がった。
この古墳説に地元の文化財担当者は厳しい見方を示すが、「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者。
田川古代史フォーラム「卑弥呼への想い 九州説の夜明け」(田川広域観光協会主催)が1日、田川市の田川文化センターであった。田川8市町村の首長らも出席し、古代史を観光資源として地域振興に生かす「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した。
卑弥呼連邦のきっかけは、赤村の前方後円墳に見える地形。全長約450メートル、後円に当たる部分の直径は約150メートル。規模は国内最大級の「大山古墳」(大阪府)に匹敵する。
住民らによると、約40年前に「卑弥呼の墓では」と話題になったが、数年前に衛星写真から再び注目されるように。同協会の永原譲太郎理事(44)が地域振興の起爆剤になると奔走し、8市町村が足並みをそろえた連邦樹立にこぎ着けた。
同協会は観光庁の地域連携DMO(観光地域づくり推進法人)に県内初登録しており、今後、補助金などを活用。卑弥呼をキーワードに観光ルート開拓やガイド育成、弁当などの食品開発を行う。
記念講演では、吉野ケ里遺跡の発掘を指揮した考古学者の高島忠平氏ら3人が登壇。高島氏は「遠賀川中流域は古代、海が深く進入した入り江で、北部九州にあった邪馬台国の交通、交易の結節点だった」と述べた。永原理事は「田川では多くの弥生遺跡と出土品がある。古代史ツーリズムを成功させたい」と語った。(吉川文敬)
11/2(月) 10:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201102-00010001-nishinpc-l40
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201102-00010001-nishinpc-000-1-view.jpg >>10
九州から神武天皇達が畿内を攻め滅ぼしたのは事実だけど当時の畿内や中部地方は当時は銅鐸文化だった 真実とかどうでもいいやつらなんだろうな。
軽蔑するわ。 やまたいこく→やまとぁいこく→やまといこく→やまとこく→大和国
んね? 邪馬台国はどこか 決着は 金印 親魏倭王或いは親晋倭王を掘り出すこと
金属探知機持って探し回れ 女王というちゃらんぽらんさを考えると関西のような気がするな
九州はもっとしっかりしているし男の文化もある
関西辺りは男の文化が無い >>1
卑弥呼とか邪馬台国とか中国人が付けた蔑称をそのまま使うのはいかがなものか
カタカナで良いんじゃ 単なる中国の表現記述の実在しないものを捏造したいのか なんでも良いけど、卑 なんて字を使うんじゃねーよ。
本当は 日巫女 だろ、たぶん。 >>23
当時自分たちの国を何と呼んでたか分からないんだから例え蔑称であろうと邪馬台国でいいよ
変に捻じ曲げたりすると歴史捏造のあの国みたいになっちまう 奴隷を中国に送ってて顔に刺青してた国が邪馬台国
そんな国地元にあっても嬉しく無いだろ 予算かけずにオラが自治体宣伝する安易なツール = 邪馬台国 筑豊ってヤンキー多いとこってイメージしかないけど最近はどうなん 福岡市から水行20日+10日+陸行一月離れてないので却下
すごくゆっくり進んだ可能性を排除できないので
鹿児島県と宮崎県は条件付で認めてあげる 遺跡提示 邪馬台国が日本を代表する国だと思うからこういう話がつきないけど、
単なる地方豪族だろ? >>42
天皇家自身が私達は九州から来ましたって言ってるじゃん? 隋書には『邪靡堆には常に火を吹く不可思議な山がある』という記述がある
畿内には火山はない
ひとつもない まず
その古墳らしきものを調査しろよ
指定されていないならやりたい放題だろ 畿内説の方が主流とかってはなしなかったっけか。
まあいいが。
ロマンはともかく歴史は一応科学なんで、
こういう割り切り杉なのはどうなのかなぁ…。
史学でコレ決着つかない政治的な問題にでもなってんのかね。 畿内説が政治的圧力から、こういう遠回しにやらないといけないんだな 日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内省による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、約2700年前に神武東征によって南九州から稲作と弥生土器などの弥生文化が日本中に普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり 邪馬台国九州説で有名な高島忠平氏は
「君は九州出身だ。邪馬台国九州説を主張する者がいないので君がやってくれ」と言われて仕方なくやっている。 >>1
当時、あのあたりまで海が入りこんでたなら信じてもいいw
だけどキングオブ筑豊にまで遺跡を見に行くのは命がけだから悩む(いいひと多いけどねw >>54
畿内に三種の神器はなかなか出て来ないからね いくら掘り起こしても桃の種ばかり(笑) 豊国=台与の国は確定してるだろ
宇佐八幡宮が台与の古墳
九州から関西に遠征して当時の日本の真ん中で朝廷を建てる
記録に残ってる もう面倒臭いから遠賀川が邪馬台国後でいいよ
卑弥呼邸は麻生邸でいいや >>44
筑豊は元炭鉱があったゴーストタウンでそもそも人が住んでないだろ それより投馬国はどこなんでしょう水行でしか行けないところなんですよね。 >>35
筑豊ナンバーのドキュン遭遇率は高いけど、襲ってくるわけではない >>54
つても銅鐸やら銅矛の出土で
機内圏と九州圏に二大勢力があったてのは
歴史的事実なのでは?
中国地方が、あいだの国・真ん中の国だから中つ国で中国(地方)て
聞いて昔びっくりしたわー。 こんなことしてるから九州説は単なるおらが村の村おこしなんて言われる
村おこしだから九州内での場所特定はしてはいけないし、漠然と広い九州説のまま進展しない >>60
これ確定?
宇佐方面も正直こわいから命がけ 朝鮮半島からやってきた部族が倭国の古代の王朝であるヤマトの名前を騙ったのよ
やり口は今と一緒 >>44
それ、田川から博多に出て行っているだけだろ。
古墳に見えるのはボタ山だろ。
本当のこと言うと、赤池だと射殺されかねん。町長が。 >>68
機内説の人が頑張ってくれるし…向こうがはっきりすれば、自ずと決まるし
とりあえず宗像大社と吉野ヶ里、糸島、
宇佐神宮に高千穂とあるから古代に栄えたのはわかってるw >>70
半島南部は北部と違って
倭国圏とかってレス読んだことあるが
どうなんだろう。
任那の日本府て名称は後付けかもしれんけど。
まあ朝鮮半島は、三韓も朝鮮も大陸の移民・流民が建国したことになってるが。 >>60
道鏡の事件も次の天皇を占うのにわざわざ宇佐八幡宮に行ったのも謎なんだよな。 邪馬台国は30ヶ国からなる連合帝国
西は九州から東は関東までの全域が邪馬台国であってもおかしくはない 九州説と畿内説は両立する >>69
巨大古墳の出現と時を合わせて畿内の銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から畿内への侵出は神武東征に象徴された民族戦争であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた。 吉野ヶ里をみたら、こんなもんかって気分なる
コンクリでできてる >>86
巨大古墳群は披征服民族・畿内人銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは古代日本版強制収容所だった。 >>90
よくわからんけど、卑弥呼路線と神武路線がどこか潰しあったんかな 九州説はいよいよ学問では無くなったな
朝鮮の慰安婦や徴用工、竹島とおなじだわ 邪馬台国のベースになった所は、2019年5月まで明仁と宮内庁が毎年 素通りしたエリア 邪馬台国 四国説をとなえている人、どーすんのこれ? 筑豊にあったのは葵觀箭台国
邪馬台国とは似て非なるものだ >>60
二之御殿の位置を動かすことは絶対にまかり
ならぬ
下に埋まっている棺は禁忌
何重にも神を被せ、存在すら隠匿してる
本当に何なんだろう・・・
いや、追求することすらいけない事なのかもしれないが ロマンで金儲けしようとする根性がいやらしい
ロマン詐欺とか、ロマンコロがしとか >>98
誰でも、古代2・3世紀の日本は銅剣銅鉾文化圏と銅鐸文化圏に大きく別れていたことを学校の歴史の時間に習った事があると思います。ところが、西暦300年頃、近畿圏を中心とした、銅鐸文化が突然消滅して、以後前方後円墳を中心とした古墳時代に移行してしまうのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。 >>104
そのあたりって狗邪韓国じゃなかったけか。
なもんで倭国の勢力は朝鮮半島南部まで、てな話が出てきたような。 卑彌呼(ピミク)→ 今の発音で「ひめこ」
注:「ひ」の発音は、江戸時代に出来た音。
昔は、はひふへほ と書いて ぱぺぷぺぽ の発音だけだった。
ひめこ(日女子)= ひめ
※ むすめ(むすめこ・産す女児)や をとめ(をとめこ・若と女児)
と同様に、「こ・児」( むす「こ」、をと「こ」)の対義語の
「めこ」は「め」で代用される。(注:をとこ は、若い男の意味。) >>113
補足
てのは、三国志や後漢書には倭国の一部てな記述がされてるので。 筑豊はそれなりに栄えてただろうに、倭人伝にそれっぽい名前が出てこないもんな
不弥国、穂波説くらいか >>98
北部九州を中心とした当時の墳墓からは、いわゆる三種の神器と言われる剣・鏡・玉がセットで多く出土しており、それを継承する形で、近畿地方では、銅鐸文化が滅んだあと古墳時代が始まっています。 田川広域観光協会はYou Tubeに定期的に動画あげているけど面白いな
福永晋三の公演がいいわ 邪まな馬の台国の卑しい巫女を探して何がロマンなんだよ
中国の資料に一致するものを探すからみつからない
最初から探す必要がない >>98
そして現在の皇室も三種の神器を引き継いでいる訳です。この事は自然に考えれば、300年頃九州勢力の一部が東征して銅鐸文化を滅ぼし、古墳時代を始めたと考えられ、私もそうに違いないと思います。いやそうとしか、考えられないのです。
古事記や日本書紀に記されてる神武天皇の東征は、この時の事がモデルになったのでしょう。 >>125
ラノベかw
>>131
それ邪魔大王国な
>>119 再訂正
wikiより
>狗邪韓国は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』
>に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。
>『後漢書』では「倭(現在の日本)の西北端の国」とする。
>伽耶、任那(みまな)との関連性が指摘されている。 >>63
津屋崎から少し先に言って、遠賀川河口から川を「南に水行」するんですよ。
遠賀川流域が投馬国ですよ。 そもそも邪馬台国とやらを
王政大和に結びつけようとするから無理がある >>63
>有明海南部の東岸沿いで、大きな平野があって戸数5万余りを抱
>える大国は現在の熊本市付近以外に考えられないと、中田力は論じている
という主張もある。
どういう人のどういう論文なのかよくわからん。工学部だし。
秦氏=ユダヤ支族って確定してるんかね?
https://core.ac.uk/download/pdf/71915705.pdf
馬壹国と近隣のくにぐにの比定棚田 嘉博第一工業大学 工学部 邪馬台国スレは延びる
韓国大好き九州信者がバカレス量産するから 極悪暴力団工藤会は北九州市にあった。
さようなら工藤会 >>144 訂正
×馬壹国と近隣のくにぐにの比定
〇邪馬壹国と近隣のくにぐにの比定 ああ、一二年前に航空写真があったな。
あれ発掘したの? >>136
遠賀川を遡って、途中から英彦山川に入って、英彦山神社がある英彦山に至る
そこから陸行したら、宇佐八幡宮
神武天皇は、東征の前に、宇佐からこのルートを逆行して、遠賀の岡(岡田宮)に1年滞在した 邪馬台国って狗奴国に侵略されるぐらいの国だからそんな大国じゃないはずなんだよね
場所は九州だろうけどその後どうなったのかが気になる 日向勢と出雲勢が争った、ただそれだけ
邪馬台国がどこにあったとか議論にすらならないんだわ >>152
出雲は実は銅鐸文化圏だった事を近年まで隠してた 実は九州勢力に攻め滅ぼされてた 王族の末裔だから気位が高く
勤労意欲が無いから
生活保護の割合が高いのか >>149
(北)九州人のバイとタイの区別がつかん。
ばいは断定、たいは伝聞推定でいいんじゃろか? 卑弥呼は知らんけど
天皇は吉武高木遺跡の王族出身な
弥生時代の最古の三種の神器が出とるとこだよ >>158
バイとタイとチャンとローガとローモンがあるからね >>160
…高等過ぎてついていけない orz
ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン 正に卑弥呼利権に群がる魑魅魍魎ども
西日本にはゴミしかいないよね
浅ましく恥ずかしい まあ、九州に邪馬台国は有ったんだろうけど卑弥呼じゃ人は集まんないよ。島津家とか立花家やら色々いるだろ。 中国ってなんか権力者が変わったら、
それまでの歴史の書物とか破棄しても
よさそうなもんなのに、日本が邪馬台国
どこかすらよく分かってないこの
時代よりさらに5、600年は前の
春秋戦国時代とかのことも
結構分かっててすごいと思う。 「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」・・・いいねw ロマンだからいいんだけど
前方後円墳が卑弥呼の墓かも、という点は
近畿説の影響が色濃いような
>>170
権力の正当性が必要だからねぇ
西洋的な「神」がいないなら、歴史にそれを求めるしかないのかも やーれ卑弥呼が
やーれ邪馬台国がどねぇのこねぇの
何県だどーのこーの
ホントにあったの?
自然災害に備えるわ たった1700年前の事がわからないってほんとどうかしてるわ
中国なんて紀元前の書物が残ってるからね 邪馬台連合の北東端は不弥国(筑前国糟屋郡)ですよ。
だからこそ、その南端に有った投馬国とともにその方角も里程も書き留められたのです。
宗像国も遠賀川流域の小国家群も出雲の支配下に有ったと思われます。
遠賀川流域を支配していた王については記紀にしっかりと記されているではないですか。
半島南端に有った倭人国家、多羅国の王族、タラシ系の侵略者たちが九州に上陸したときに
伊都国のイ・トデとともに白旗を掲げて降伏した熊鰐(嘉麻王仁)こそがそれです。
嘉麻国こそ遠賀川流域の小国家群を支配下に置いていた強国です。 >>20
男尊女卑がひどくて、女を虫けらのように扱うのは、
古代からじゃなく、朝鮮儒教の影響だろ >>155
それが、神武東征と国譲り神話だと思うよ
俺説
記紀が史実を伝えてるなら、九州部族の王も出雲部族の王も出目は同じで、九州側が本家、出雲側が分家の関係にあった。たぶん、どちらも秦王朝の末裔の秦氏
新羅も秦王朝の末裔なので、分家の出雲王の方が新羅経由で先に倭に入植し、本家の九州王は後から華南から直接に九州入りして、邪馬台の部族を引き連れて東征した
でもって、俺が本家だから、出雲の国譲れやと分家に迫ったけど、素直には譲らんかったから武力で滅ぼした >>170
ただまあ、それなりに散逸、消失したりってのはあると思うよ
中国になくて日本に残ってるものもあるって話だし。
あと皇帝と同じ名の文字を使ってるのは不敬とかで
文字表記を改竄というか修正することとかあったと思う。 福岡県田川郡赤村内田
http://maps.gsi.go.jp/#17/33.640004/130.861459/&base=std&ls=std%7Cslopemap&blend=1&disp=11&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
これのどこが前方後円墳やねん あほか てこの人が↓ ていうか後円部より前方部の方が高いやんけ
卑弥呼の時代にこんなんないわ
ていうかそもそも山の稜線や てこの人が↓ 魏志倭人伝の著者が、墓の築成を最初から最後まで
見てたわけではないだろうから
木を切り倒して土ならして、これ1から作ったったて言われたら
そかーって書き留めるしかないのかもよ〜 >>170
権威は使えるからな
つまり伝承されていないってことは「その程度」だったんだよ >>158
バイとタイは似て非なるものだからな
例えば「よかね?」(いいですか?)と聞かれたときの返事に「よかタイ」とは言わない
「よかバイ」になる(「よかよ」になることも多いが)
「よかバイ」は上のように応諾の意味に使うが
「よかタイ」は「まあいいじゃないか」みたいな意味に使う >>112 >>122
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
「倭奴國」漢委奴国王の
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明されちまったもんだから
九州説は梯子を外されちゃったね、可哀想に >>182
奈良の方が開拓されてなかったんだよ
古墳は残土処理だから 魏志倭人伝てさー
ただのファンタジー小説なんじゃないの >>112 >>122
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」漢委奴国王の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明されちまったもんだから
朝鮮に行くには九州から対馬を経由しないと渡れないから邪馬台国は九州説
は梯子を外されちゃったね、可哀想に >>170
真逆だよ
中国では、王朝が変わったら、次の王朝が前の王朝の史書を編纂して、王朝交代を正当化するんだよ
だから、魏志を編纂したのは随。隋書を編纂したのは唐
初代の王は徳が高い聖人にされて、最後の王は民衆を苦しめた悪にされて、それを滅ぼした自分たちを正当化するの
たぶん、日本書紀の大化の改新もそれで、前の王朝の蘇我一族が悪者にされて、藤原王朝を正当化してる >>112 >>122
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」漢委奴国王の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明されちまったもんだから
九州説は梯子を外されちゃってロマンになっちまった、可哀想に
九州や対馬を経由せずに朝鮮半島に行けたことが考古学事実で確認されりゃ
朝鮮に行くには九州から対馬を経由しないと渡れないだけが根拠
の九州説は、そりゃあ、ぶん投げられるのも当然だわな >>192
笑ったw
九州北部に住んでる人にはわかる事で今でも古代地名として約8割方残ってるから一目でヤマイ国わかるのなw
なので九州北部の人から見ると皆さんわざと江戸時代からボケてる感じに思えるわけよ >>178
神武東征神話が日向から奈良までだから
九州(南部)から機内圏を征服して西日本統一して
大和政権成立みたいに漠然と考えてたなぁ…儂。
まあそれと邪馬台国の場所ってのはまた別の話なんだろうけど。 >>1
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
動機は金だろ。
汚い奴らだ 中国人が投馬国をどこに比定していたかで邪馬台国の場所もヒントになる
解明するべき順序は、まず投馬国を確定すること >>197
日本書記は奈良時代の出雲についてしか見たことないなソースある
後漢書で卑弥呼より前に倭奴国が朝鮮にまで行ってたようだけど
後漢書
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gokan_wa/gokanzyo_waden.htm >>199
北部九州で育った俺の感覚でも、古事記の話に出てくる地名や神社が近所にボロボロあって、神武天皇と一緒に東征するまでは、邪馬台連合国が北部九州にあったとしか思えん
神武東征は、魏志倭人伝よりも後の話だと思う
江戸明治の学者は、神武東征を紀元前にする為に、邪馬台国の時代には卑弥呼は畿内にいなきゃならんと言う、歴史歪曲に至ったんだよ >>170
焚書は日本の方が徹底してると思う
それ以前の痕跡を此処迄徹底的に潰すとかもう >>197
山陰は畿内よりはるかに九州とのつながりが密になってるし
朝鮮半島由来の物が出たところで直接行き来できたという理由にはならんし
頭大丈夫か >>192
三国志の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称で
陳寿は信憑性の薄い史料を排除したとされてて、三国志そのものが
歴史書としての評価高いんじゃなかったか?
ファンタジー小説てのは、ぶっちゃけ頭おかしいレベルだと思うが…。 補助金狙いのくせにロマンとか言うなよ
真面目に九州説唱えてる人にとってはわりと迷惑なんだから >>106
これと道鏡事件で天皇家と日本の運命を宇佐神宮に託した
九州が征伐する対象ならありえなくね
なんでだろう〜 そんな重要な国だったらとっくに場所なんか判明してるだろ
つまり、言うほど大して重要な国じゃなかったってこと なあに、熊本県に「卑弥呼の里」というリゾート施設作ろうとして大失敗
廃墟だけが残ったことに比べたらかわいいもの >>201
日向が南九州の宮崎なのかは、かなり怪しいと思ってる
理由は、魏志倭人伝も北部九州の話だし、記紀の神話にも北部九州の話が
山ほど出てくる
南九州は、魏志とか隋書とか記紀に記載が殆ど無く、ショボい遺跡しかない
だから、南九州の部族が東征して畿内や出雲を征服して大和朝廷を建国したとは思えない >>175
本当はな
中国も日本の文明もあまり変化はないんだよ
魏志倭人伝を信じすぎでその中身も結構間違いが多いんだが
日本が戦争に負けて神武天皇と神功皇后の存在が否定されたからな
それは戦後のGHQの出した神道指令を見ればわかる
教科書もそれようにガラリと変わった
大学も研究機関もGHQの指令通りに動いた
実際には神武天皇の即位の時期はBC660年の2月11日
でこれは干支で決められているから一年が半分になったりする事はないんだよ
ただ太陰暦だから閏月があって間違える時があるのな 歴史で細かい事言わんと、よくわからんことになるからダメだろw
まったく。
神武なんて、実在証明されてないし、
革命の年だから、ここだとか、決めたらだめだろう。 >>216
西都原古墳群って日本最大の規模らしいけど 今見てる夜空の星の光も何千年前に発せられた光を我々は見てるんだから
卑弥呼の時代の光景をキャッチする探査機発明すれば邪馬台国の場所も
特定できるはず
金儲けのためにロマンを語るな >>207
いやいや日本書記やら古事記には干支が出てくるし
この日本書記や古事記ですら系図の欠損の部分あるから
紀元前の事だよ
邪馬台国と卑弥呼は神功皇后の時代だから
全然後の事
そして住吉大社は神功皇后が建立した
その住吉三神はイザナギ神の子供
そして宗像三姉妹は天照大神の子供
(天照大神はイザナギ神の子)
で神功皇后もこの宗像三姉妹や住吉三神を祀っている
住吉大社はその過程の中で生まれたんだよ >>219
逆に日本書記の記述が全部嘘とも証明されていないし
日本にはそれこそ神武天皇と神功皇后の痕跡が多すぎるからな
嘘ではないと思うぞ
古文書それから神社などすごくそれ関係のものが多いから
逆に卑弥呼関連に神社や古文書などはほとんどなかったのだが >>220
4-7世紀の遺跡だから、時代が合わないんだよね
神武東征が5-6世紀くらいなら合うけど、それだと堺の巨大古墳が5世紀にはできないし >>226
>>1
逆に卑弥呼関連の神社や古文書などはほとんどなかったのだが >>227
西都原古墳群は、3世紀末から7世紀にかけて築造され、その数は、陵墓参考地の男狭穂塚・女狭穂塚を加えた319基である
そもそも古墳自体が神功皇后が三韓征伐を行い経済に余裕ができて
祖先の墓などを整備した事に始まっているんだけどね つか以前から思うに近畿説唱えてる人は九州に倭国。近畿にそれに匹敵する国があったと想定して史書読み返すと点と面がピタッと筋妻合うと気がつかないのかね
何が何でも邪馬台国は近畿にあったとなるから無理が出る >>1
ついでに言うと景行天皇を見ればわかるように
古い天皇は神武天皇の故郷の九州に里帰りして数年住んでいたよ
崇神天皇の時に疫病が発生して帰省どころではなくなる
垂仁天皇の時に混乱が収まり伊勢神宮を建立する
景行天皇の時に九州巡回を再開する
その時に熊襲退治もする
その子のヤマトタケルは九州から東北まで巡回する
これが倭国大乱
神功皇后の夫の仲哀天皇なんか熊襲と数年交戦している
そのために山口県に御所を構えて数年住んでいる
日本書記とか古事記見ればわかると思う 宇佐神宮から南にまっすぐ線を引く。意外とそんなとこにヒントがある。卑弥呼の卑は奴婢を多く従える者即ち頂点で王って事。元々の卑弥呼の祖先は南九州市阿多。そこから北あるいは北東へ移動、最後は国東半島付近。北九州の諸々は渡来系だと思う。九州大隅半島は日向族、薩摩半島は隼人族、その北が熊襲族。日向族の前衛にあったものがウガヤフキアエズ王朝。日向とは今の宮崎県ではなく、鹿児島から宮崎南部まで。現在の宮崎県都城市も元は島津藩直轄である。 >>216
魏志倭人伝を素直に読むと邪馬台国(熊本)
政権所伊都国奴国(福岡)
狗奴国(大分か鹿児島)
後漢書でも邪馬台国は阿蘇山付近
鉄の出方からすると出雲が負けても不思議ではない 何十年も議論して場所を特定できないんだからもう特定するの無理だろ
裁判みたいにどっちが有利かを誰かが決めてくれるわけでもないんだから >>237
邪馬台国は畿内にあった大和国と確定しているよ >>216
神武天皇の東征は紀元前600年だからね
卑弥呼とは関係ないよ 結局九州説唱えてる奴は村おこしに利用したいだけであって
確たる証拠も証明する気もないのさ
今はコロナ禍だから少しだけ大目に見てあげるけど
時期が来たらちゃんと返してもらうからな >>225
記紀の神代は、複数の部族が持ってた神話を無理矢理繋いでるから、系図や年号はデタラメだよ
宗像三女神は、朝鮮半島と北部九州との間の海運を仕切ってた宗像族の神
住吉三神は、博多湾と志賀島から津屋崎あたりの玄界灘を仕切ってた阿曇(安曇)族の神
天照大神は、天孫降臨神話を持ってた物部氏の神で、天皇家とは無縁
天皇家は、大嘗祭と新嘗祭を中心とした稲作農業の祭司で、宗像や住吉の海洋神や天照の太陽神とは宗教が違う >>231
畿内説は邪馬台国は畿内にあったとする立場だから畿内やで。
もちろん近畿の研究者は大和朝廷に繋げるためのいろんな考えを持った人がおるで。
・九州からの神武東征
・九州邪馬台国とは対立する勢力の存在
・渡来系勢力の台頭
九州と違って取りうる可能性が多いねん。 倭国大乱が肥国と豊国の北九州対決だとありそうだけど
ここからしてよくわかってないんだろ >>240
畿内説の証拠て何
>>242
それのどこが畿内説になるんだ
邪馬台国は九州て言ってるだけじゃん >>241
だからな
お前がそう思うのはお前の勝手なんだが勝手に断言するなよ
系図や年号が正確でないのはな欠損があるからなんだよ
あとは閏月の入れ間違いとかそんなところだ
しかし
>天照大神は、天孫降臨神話を持ってた物部氏の神で、天皇家とは無縁
>天皇家は、大嘗祭と新嘗祭を中心とした稲作農業の祭司で、宗像や住吉の海洋神や天照の太陽神とは宗教が違う
とか勝手に日本の歴史をお前の都合で捏造するなよ ウリナラファンタジーじゃねえか
考古学をなんだと思ってんだ福岡人 筑豊は平地も多く豊かな土地なんで何か重要な遺跡が出て来ても驚きはしないわな。 >>245
じゃあ、事実だけ
天皇陛下の祭祀には、宗像や住吉の様に海に浸かって体を清める様なものはなく、太陽に向かって日の出や日没を拝むものもなく、海洋信仰や太陽信仰とは関わっておられない
即位されたら大嘗祭にてお米を食べられて神と一体化され、その後は毎年の新嘗祭の収穫に向けて、田植えから稲刈りまでの稲作過程を執り行われるのが、天皇陛下が行われている祭祀
平安から明治以前の歴代の天皇は、伊勢神宮にも宗像大社にも参拝されておらず、祭祀的な繋がりはない 三角縁神獣鏡や銅剣・銅矛作るのにもエネルギー源は必要不可欠、露頭炭を採掘して使ったのは間違いない
となると、やはり田川かなあ その後、魏が国交断絶したのも、あの辺の柄の悪さ考えたら、あり得るもんな
熊襲連合狗奴一家 Vs 倭会系邪馬台組、昔から連綿と続く縄張り争いにチャイニーズ・マフィアの援軍呼ぼうと
邪馬台組の女組長が仕掛けた
で、取り敢えず太陽光使う鏡面反射型光学撹乱装置(別名:三角縁神獣鏡)を額に括り付けて・・・
狗古智卑狗の方はよく分からんけど、たぶん飛び道具だよなあ 毒矢とか毒塗った竹槍とか
援軍のチャイニーズ・マフィアは大麻で骨抜きにされて・・・か
魏も焦るわなぁ こんなの持ち帰られて魏軍に蔓延しちゃったら・・・ 温泉だよ!温泉!
邪馬台国って、実はただの温泉郷で、別府にあった邪馬台温泉郷って話しじゃなかったの?
卑弥呼は温泉花魁で、彼女と遊び呆けた中国の役人が、長期滞在の理由で、水行10日陸行30日と場所を曖昧にして記しちゃったんでしょ?
別府付近は二度火山灰に覆われているらしいから掘れば銅鏡くらい出土するんじゃね?
邪馬台国が国のシステムを有していたとしたら、その後の実在した天皇までの300年が空白なのが説明つかないもんな。 公務員のおじさん的には、ロマンは大事だな。ジョジョのように。
若者はついていけんわw >>249
そもそも王塚古墳とか竹原古墳とかの装飾の古墳が出てるしね。
王塚古墳なんて国内の装飾古墳で使われてる5色中4色も使ってるきらびやかな古墳だよ。
竹原古墳も騎馬と特徴的な服装の人物が一緒に描かれてたりして興味深い。 >>216
金印が出たのは北部だし九州南部は舞台になってないからな
そこから神武が出たというのはかなり怪しいよな >>251
>天皇皇后両陛下神宮御親謁
> 令和元年11月23日
>天皇皇后両陛下におかれましては、11月22日に豊受大神宮、23日には皇大神宮に、即位礼と大嘗祭を終えられたことを大御神に親しくご奉告され、御代の弥栄と人々の平安を祈念されました。
>天皇陛下は立纓御冠、黄櫨染御袍、皇后陛下は十二単をお召しになり、即位礼と同じお姿で御正殿までお進みになり、一代に一度のご参拝をされました。
第10代崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命は大和の笠縫邑に神籬を立てて大御神をお祀りしました。
その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。 >>257
崇神天皇の時に疫病が発生して日本は大混乱に陥った
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 2]に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。 >>220
そうそう西都原あるよな、しかも近くには空自の新田原基地があってさ、人類の新旧の技術が同じ場所で並存してる光景ってのはなかなか面白いものがある。 弥生時代には、九州北部が日本のどの地域よりも先進的であった時代はあったとは思うが
早々とヤマトの友好・衛星地域になったのではないかな
そしてここをおさえていたことが中央集権化の早期実現にはたらいたような 神功が不自然なのは初の女帝で三韓討伐したり熊襲と戦ったりと大活躍してるのに
女帝が神功のあとに途絶えてるところだな
あれだけ活躍したら女帝をもういちど採用しようとか考えそうなもんだがな >>257
伊勢神宮の件は、皇国史観を信じてる人に気の毒なので、あえて触れなかったのに...
その10代崇神天皇の御代に、都で疫病が大流行して、バタバタと死者が出た。
崇神天皇は、それが天照大神の祟りではないかと怖れられ、それまで宮中に置いてた天照大神の御鏡を都から遠ざけ、伊勢神宮に封印したと言うのが、その日本書紀の記述。
つまり、天照大神は、天皇家が怖れている祟り神で、敬う皇祖じゃないと言う事。祟りが強いので、崇神天皇以降、皇族の子女をおくって祀らせてるし、出雲大社と同じく、式年遷宮を行って厳重に封じてる。 >>205
天照大神に追い出された建速須佐之男命が、子の五十猛と、
新羅の曽尸茂梨(そしもり)に渡って帰ってきた時の上陸地点が
島根県大田市(旧邇摩郡)の五十猛海岸
ちなみにその時に、隠岐から朝鮮半島に渡るために経由したのが
日本海(対海・トウカイ)に浮かぶ直径10km程度の絶海の孤島である鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)で
江戸期の日本名は「磯竹島(いそたけじま)」 >>216
検索したら日向も南九州説と北九州説あるんだね。
あと神武天皇で調べてみたらwikiだと筑紫日向の生まれとあるんで
南九州の日向国ではなく、北九州かもしれん。
dクス 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3〜5世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?)
おそらく奈良を中心とした出雲・北陸・東海・吉備等の連合政権、北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜関東を平定
4〜8世紀 熊本の球磨川流域と宮崎の一ツ瀬川流域以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱 卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
九州で出土する畿内式の土器は、畿内から多くの避難民が移住してきたという証拠でしょう。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
https://i.imgur.com/9fKvb8o.png
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』 半島に渡った畿内からの避難民が戻ってきたのが4世紀末
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) >>219
実在云々て話ではなく、王朝の正史として
九州から機内を征服して統一国家を形成したてな
神話が継承されたことが重要だと思うが。 >>275
それさえも確定しとらんねん。
きちんとした裏付けがなければ神話は神話やねん。 >>278
意味が分からない
神話が継承されるということは意味があることだろうに。 >>274
400年頃に三韓征伐てのは高句麗好太王碑で確認されてる。
そんで500年頃までは倭の5王(応神-雄略)の時代で
朝鮮半島南部は倭国の勢力下で交流にしろ移入にしろ多くなってて
おかしくないと思うが。
避難民というのがどういう発想なのかよくわからん。 この際卑弥呼を絶世の美少女にしてアニメ化しちゃえよ
邪馬台国は宇佐神宮周辺なら文句も出ないだろう
邪馬台国である為の絶対的な条件は
1.卑弥呼は楼観、城柵に囲まれた宮殿にいたから楼観跡と
城柵跡の痕跡があること
2.卑弥呼は没後石室が無いお墓に埋葬されている、しかも殉職者がいる
以上の2点が絶対条件なので楼観跡や城柵跡が無い纏向遺跡や
石室がある箸墓古墳は当てはまらない
これが当てはまるのは吉野ヶ里遺跡と祇園山古墳しか無い 男子は大小の区別なく、
皆が顔や体に入れ墨をする
コレは田川で間違いないだろうな。 やばい奴らが絡んできたということは
なんか国にたかれるんか? >>241
>記紀の神代は、複数の部族が持ってた神話を無理矢理繋いでるから、
>系図や年号はデタラメだよ
暦の伝来が6-7世紀頃とすると、後から再編・系統化してた
と考えても、おかしくないような気はする。まあよくわからんが。
九州から機内への東征に当たるようなことが起こったとしたら
卑弥呼以前か以後かわからなくなるな。 ロマンを語っていいのは一般人であって
考古学がロマンを免罪符に適当ぶっこいたらダメだかんな、分かってるか?w 卑弥呼の墓は祇園山古墳で決まっているので。
そこのところは間違いのないようにしてもらいたい。 >>209
はい?
山陰が九州との繋がりが密だった?
天照大神に追い出された建速須佐之男命が、子の五十猛と、
新羅の曽尸茂梨(そしもり)に渡って帰ってきた時の上陸地点が
島根県大田市(旧邇摩郡)の五十猛海岸
ちなみにその時に、隠岐から朝鮮半島に渡るために経由したのが
日本海(対海・トウカイ)に浮かぶ直径10km程度の絶海の孤島である鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)で
江戸期の日本名は「磯竹島(いそたけじま)」 >>276
どっちもヤマトだろって本居宣長が言ってた 島根と広島の境目の山に伊邪那美さまのお墓があるの?
九州なのかなぁ 邪馬台国は新羅出雲でヤマト王権は奈良百済
どっちも大陸渡来人の傀儡政権ですよ >>1
こういう取り敢えず乗っかっとけって街興しはみっともないわ
やってる事が乞食と変わらん 卑弥呼かはわからんが、あの一帯はかなり有力な豪族がいたのは間違いない
宗像、安曇に匹敵するレベルなのは間違いない ちなみに
九州の筑紫城にいた天皇家の祖先は
初代国王は、天之御中主神で
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
ときて、
伊邪那岐神・伊邪那美神の息子の「大綿津見神(豊玉彦)」が
九州の筑紫城の跡を継ぎ
伊邪那岐神と出雲出身の女性との間に出来た「天照大神」が
高天原を分け与えられ
伊邪那岐神と出雲出身の女性との間に出来た「建速須佐之男命」は
母である出雲出身の女性の地元の、出雲と伯耆の堺近辺の「根の国」の跡を継ぎ
建速須佐之男命の娘と結婚した大国主が
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)にまたがる「葦原中国」を造った >>281
それは違うね
三韓征伐は200年の事
つまり
三国史記(新羅本紀)
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
これが該当する
日本人が発見した高句麗好太王碑は仁徳天皇のころのもの
実は神功皇后そして応神天皇その後の天皇は朝鮮半島と強い関わり合いを持っていた 皇統を重視すると
葦原中国:古代出雲
構成:島根県から鳥取県西部の複数の国々
初王:九州倭奴國国王の伊邪那岐神と伊邪那美神から産まれた13番目の子の大山津見神の6世孫の大国主
高天原:古代奈良
構成:紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々
初王:九州倭奴國国王の伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない出雲の娘との間に産まれた長女の天照大神
海神国:古代九州【倭奴国】
構成:九州全土の国々
初王:天之御中主神
日本最初の政権で、全ての政権の祖
何代目かの九州海神国王が、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り倭国王となる
その後、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)倭奴國国王の時代に四人の皇子が東征
第4皇子の神武が、葦原中国と高天原を制圧し
天(津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)皇(子)として統治する 島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」漢委奴国王の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明された
天照大神に追い出された建速須佐之男命が、息子の五十猛と、
新羅の曽尸茂梨(そしもり)に渡って、島根県大田市(旧邇摩郡)の五十猛海岸に帰ってきた
という話もウソじゃなかった
ちなみにその時に、隠岐から朝鮮半島に渡るために経由したのが
日本海(対海・トウカイ)に浮かぶ直径10km程度の絶海の孤島である鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)で
江戸期の日本名は「磯竹島(いそたけじま)」 富野由悠季も卑弥呼を主題とした物語の企画を考えていると公表している
ここで富野は、有明海に面した「みやま市」説を唱えている
無論、福岡県ではある
ソースとなる動画
富野由悠季×藤津亮太 静岡に語る in サンライズ (2020/10/30)
https://youtu.be/D4Q_5Bb20xI?t=5372 卑弥呼はおそらくヒメミコの当て字なんだろう
ではヒメミコは、たんなる女性の敬称なのか、需要な地位にある人物の娘(姫)
を言っているのかよくわからない
どちらにしても、固有名詞ではなくて、「〜のヒメミコ」の一部なんじゃないか まぁとにかく >>1の写真見てみろって。
マスクしててもカタギじゃないのが判るだろ? 九州説は「おらが国さ」の地域起こしでやっているから、候補地が乱立する。 でも、銀山がないじゃん
邪馬台国には銀山があるんだよ ばってん >>316
「なんちゃらヒメミコ」の聞き取れた部分だけ記載したかな
あるいは「単に〇〇と言った場合それは最上位にある特定の存在を指す」というのが当時もあったか 山門県の田油津媛が卑弥呼の後継者だろうな・・・
ヤマト王権に無残に殺されて墓すら誰にも知られず土蜘蛛として伝えられるとかあまりにも可愛そう ちょっと手土産あげると
あいつらは俺の支配下だ!言われるw 観光収入源が欲しいだけでしょ。結局金目かと思うとロマンもへったくれもないよ。 >>227
此処も背乗りされてるんよ
斎殿原と言うのが元の呼ばれ方で、古代の重要な祭祀の場 >>310
まあ間違いなくその辺だろうな
わざわざ日本書紀にまで記述する山門県の田油津媛
神功皇后が田油津媛を殺して熊襲征伐は終わる 大和政権が確立したのは350年頃
それまで都は築紫国にあった
成務天皇から空白の5年
仲哀天皇は熊襲征圧に失敗
神功天皇は熊襲征圧山門県の田油津媛殺害
朝鮮征圧が卑弥呼と重なるが
三国志によると魏の頼みで行ったとある
大和政権前に政権を握る勢力が九州にあったてことでいいんじゃね 筑豊は無いわ。
まだ太宰府辺りが宣言するなら理解できなくも無いが太宰府市は教養があるからそんな詐欺的なことはしない。
まあ邪馬台国は朝廷を騙った熊本の豪族だろ。 >>1
> 【福岡】邪馬台国は筑豊にあった? 「卑弥呼連邦」樹立、8市町村が宣言 「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」 [樽悶★]
観光資源のために歴史を捏造する権利は誰にも無いはずだわ。
百歩譲って【観光資源】のために許容するとしても、
【明確にパロディだとわかる形での展開】
とすべきよ 水行20+10日陸行一月
大サービスで一日2.5kmしか進まないと仮定して150km離れる
福岡県、熊本県、大分県、佐賀県、長崎県、山口県
魏志倭人伝で確実に消えると言えるのはここまで >>328
賛成
日本書紀の皇国史観に囚われずに、素直に歴史を俯瞰したら、それが合ってると思う
1-3世紀頃は、日本にはまだ全国統一する様なクニの概念も軍事力もなく、1世紀の漢倭奴国は今の区に相当する程度、3世紀の邪馬台国連合は今の県に相当する程度の規模しかない
3世紀頃は、今の日本列島が国境ではなく、朝鮮半島南1/3から北部九州に跨がってる海洋民のクニが倭国で、南九州や出雲や畿内も、それぞれに倭人が居住する別のクニ
記紀には北部九州の神話が多いので、大和朝廷の中心に北部九州から東遷した勢力がいたのは間違いない
卑弥呼に相当する巫女は、3世紀まではあちこちのクニに居ただろうから、考古学的では、あちこちに卑弥呼の時代の古墳や遺跡があるだけ >>18
大和=倭が近畿発かどうか疑問が残るのよ
田川には香春岳(金と銅が採取可能)
英彦山は日子山が語源で卑弥呼(日の巫女)にも通ずる ひみことえっちした人もいるってことだよなぁ…
いいなぁ… >「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者
正直でよろしいw
アホ説をこうやって自覚して遊んでる感じなら面白い 卑弥呼まんじゅうや古墳せんべいの量産体制が整ったんだな
邪馬台国である為の絶対的な条件として
1.卑弥呼は楼観、城柵に囲まれた宮殿にいたから楼観跡と
城柵跡の痕跡があること
2.卑弥呼は没後石室が無いお墓に埋葬されている、しかも殉職者がいる
以上の2点が絶対条件なので楼観跡や城柵跡が無い纏向遺跡や
石室がある箸墓古墳は当てはまらない
これが当てはまるのは吉野ヶ里遺跡と祇園山古墳しか無い。 >>338
天孫降臨の地は高千穂だと思ってたわ。違うの? >>332
日本に到達してから水行20日なんだっけ?
えらいとこまで行ってますな >>339
北九州は縄文系です
上顔高 (長岡朋人・解剖学)
縄文人 北九州66.5 関東65.5
渡来系弥生人72.2
現代人 北九州69.3 関東70.7
韓国と近畿は短頭(絶壁頭)で歯がデカい
北九州は長頭で歯が小さい
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
https://i.imgur.com/68g8Cjx.png
現代 近畿--------関東--九州
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。 >>29
邪馬の方はいいんだな
すべて中華思想のなせる技だよ
蘇我入鹿、蝦夷、馬子とかもそうだろ
絶対に本名は違ってたと思うわ オカ版の連中や超能力者に緊急霊視してもらうしかないだろ
で何人かが一致したところを掘って掘って掘りまくれ
なんか出てくるだろ >>353
別に変な名前じゃないよ
小野妹子の子で毛人と書いてエミシの小野毛人もいるし
強い人とかそういう意味があるようだ 近畿方面まで行くとして、船だとやっぱり瀬戸内海側が波が穏やかでいいと思うんだよな
けど、鳴門の渦潮は越えれないと思う、今の大阪南港付近から歩いて10日くらいか? >>343 魏志倭人伝の文章の流れから
棺有りて槨無し は倭人の民衆の風習であって
女王卑弥呼の墓に槨がないは書いてない
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。
食、飲には?豆を用い、手食す。
その死には、棺有りて槨無し。 ←
土で封じ冢を作る。
始め、死して喪にとどまること十余日。
当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。
已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。
以って練沐の如し。
この倭人の民衆の風習が書いてるのが魏志倭人伝の中盤あたりで
卑弥呼の死から墓のことが書かれてるのが終盤
卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
女王卑弥呼の墓が倭人の民衆と同じで槨がないかは
ここからはわからない 福永さんか
話術はすごいけど、決めつけもすごいんだよな
さすがに田川じゃ狭すぎるだろ >>356
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
「倭奴國」漢委奴国王の
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明された
『魏志倭人伝』に記載されている
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
という
対馬も、九州の国々も、阿蘇火山も出て来ないルートも、
誤字や誤写などでは無く、正しかった ちなみに
天照大神に追い出された建速須佐之男命が、息子の五十猛と、
新羅の曽尸茂梨(そしもり)に渡って、島根県大田市(旧邇摩郡)の五十猛海岸に帰ってきた
という話もウソじゃなかった
その時に、隠岐から朝鮮半島に渡るために経由したのが
日本海(対海・トウカイ)に浮かぶ直径10km程度の絶海の孤島である鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)で
江戸期の日本名は「磯竹島(いそたけじま)」 つうかいつまで「卑弥呼」って呼ぶつもりだ?
これは中国人がつけた蔑称だぞ
正しくは「日御子」または「日巫女」だからな 魏の役人「お前ら、どこから、来た?」
やまとの人「やま(と)たい」 → 「やまたい」と漢字を当てる
魏書書いた人「昔のことで、よー分からん。そのまま」 >>357
すくなくとも何人かの殉葬はありそうだな (意訳)「煩いこと言って金儲けの邪魔するな。事実なんてどうでも良い!」 >>363
山奥から来て「山たい」と答えんだろ
でかい墓ってのも実はでかい山の中にある墓とかじゃね? 一般民衆のお墓は槨がないのは当たり前 倭人伝の文章は卑弥呼の墓について書いている 卑弥呼の墓は棺桶に直接土を被せただけの簡単な作りだったから魏使も多少驚いたような書き方をしている 歴史はロマンニダー!
ウリナラに対する愛はないニカー! 自称未来人は何で邪馬台国がどこにあるのか言わないの?
新元号とかどうでもいい話題で登場
結局自称だった
大地震でも現れるけど地域別の詳細な震度は言わないよね
だって数年後その地域は合併したりするかもしれないからうかつなことは言えないもんw 女王だって言われると墓はデカそうだけど巫女だって言われるとそんなでもなさそう >>357
>朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。
これぶっちゃけ倭面土国のことだよな
顔に赤い土をぬったくる風習があったんだろね >>3
そりゃまぁ弥生時代は河内湖の底だったからな 邪馬台国がどこだろうと現代人の生活には何の関係もないわ
要するに観光の材料にしたいだけだろ
金の亡者どもが 事実かどうかは知らんが観光に来てくれってすげぇな
これで日本人が来ると思われてるってことだろ? >>379
古代史関係は誰も興味ないから邪馬台国!とか言うと気を引けるからな
だから全然関係ないのに取り合えず邪馬台国と付けておくノリ
でも残念なことにそいつら金落とさないで妄想を更に加速させて騒ぐだけなんだ >>356
瀬戸内海航路が確立する以前は日本海沿岸ルートが主流だったことが発掘調査でわかってきている
仁徳天皇を堀江を開削したり古墳時代は瀬戸内海が主流 >>379
名字が織田なだけで信長の子孫を名乗って金儲けしてる奴だっている国だぞ
事実とかどうでもいいんだよ 日本海ルートで6トンも有る石棺を九州から運べ無いよ >>377
ちがうよ
この人たちは集まって酒を飲みたいだけだよ
金儲けなんて嫁さんへの言い訳 >>67 >>112
近畿=銅鐸文化圏という存在は古いデマ情報となっている
例えば九州の代表的な吉野ヶ里遺跡ですら銅鐸とその鋳型までもが発見されている
つまり近畿だけでなく九州でも当時は銅鐸が作られていたことが判明している
一方で近畿の巻向遺跡では前時代に破壊されたであろう銅鐸の破片のみしか発見されていない
そして巻向遺跡は大和政権の初期であるとすれば
さらに九州からの東征が成り立つには巻向遺跡の初出をかなり繰り下げる必要がある 出雲は古事記のオオクニヌシノミコトがヤマトタケルに国譲りを迫られ騙されて殺さる
ぐらいしか知らないなソースほしいわ
武器も得やすいだろうが
卑弥呼以前に倭国が争う時代あり勢力争いを抑えるために卑弥呼を擁立させ安定させ貿易で栄えた時代あり
旧唐書では代々皇族は築紫城にいたとされる
その後大和政権へ移行て感じじゃないか
箸墓の倭迹迹日百襲姫命孝霊天皇は物部系
支配を畿内まで拡げたのち暗殺され蘇我系に乗っ取られた説があるかもと思った
蘇我氏VS物部氏は仏教を取り入れるかどうかが問題になってるが
アマテラスという太陽神を創造し天皇=神という教えに導いたことが大きい
これがなければその後の戦争に繋がらなかったかもしれない 邪馬台国は岩手の八幡平だよ
え?細かいこと言うなよ。古代史は浪漫なんだからさw モノはいいようだな
要するに金づるだから黙っとけと 青森にあるキリストの墓だってネタと割り切ってるのだから
ここも、なんちゃって卑弥呼の墓で売り込めばいい 倭人は酒が大好きと書いてある まさに九州の飲み助のことを書いている >>393
ぶっちゃけ、神武東征は4世紀だと思ってる
3世紀の北部九州は、倭国とは言っても、今の福岡県よりも狭い、福岡市+佐賀県の一部までの規模でしかない
北部九州勢力を含む西日本の豪族が奈良に集結して大和朝廷の原型を作ったのは、せいぜい4世紀の話で、出雲を平定して西日本を統一したのは、たぶん5世紀の巨大古墳の頃だろう
纒向が2世紀とか言う年代測定の遡りはかなり怪しく、当初に否定されてた4世紀が妥当だろうと思う
2世紀頃だったとしても、それは神武東征以前の話で、九州の倭国とは関係ない 今のうちに山の地権者説得して
研究会あたりが調査やりたい放題したらええのに
とりあえず墳墓かどうかはハッキリする >>83
豊玉姫が神武のおばあちゃんで、玉依姫が神武のお母さん(ちなみにこの二人は姉妹)なので
ご先祖様にお伺いをたてに行ったんでしょ?
宇佐八幡宮第弐乃御殿に祀られてる「姫大神」はこの二人
「皇族下乗」の看板はだてじゃあありません。 >>400
応神仁徳ということであればそれに近いことがあったのは記紀にも記録がある 4世紀の倭国は百済と同盟して半島に攻め込んで広開土王碑に残ってるのに東征したなんてありえない
東征して外国に出兵とか不可能 日本学術会議の実態が暴露されて、よくわかったのだけど、日本の文系学者は頭がおかしい
古代史に対しては、皇紀2600年の万世一系が絶対的事実として存在して、それを正当化する為に、文献史学も考古学も、都合が良い解釈の詭弁が学会の正史になってる
皇紀2600年にするには、神武東征は紀元前でなければならず、2世紀には既に天皇家が畿内から全国を統治してなきゃならないので、魏志倭人伝は方角や地名を曲解し、纏向を2世紀から存在として、箸墓古墳が3世紀の卑弥呼の墓になる
頭おかしい 誰かロマンティック止めてロマンティック
九州説が苦しくなる 倭奴国王は、魏より大きな漢から金印をもらっている
福岡の一部だけを治めてもらえるとは思わない
そのときにはすでに中国地方は配下にあっただろう
それが銅矛の広がりと見ていいのじゃないか
神武が戦ったのは中国地方を越えてから
しかも大和にはすでに天孫族の王がいた
「神武東征」をいつ誰が言い出したのか知らんけど、神武の物語の本質を言い表してない気がするね >>406
大和政権は3世紀末だからまだ統一はされてないね
築紫出の人物しかいないし
隋書が出てくる6世紀頃に暗殺により天皇勢力が入れ替わってる >>400>>406
日本史についての基礎知識が乏しすぎる
義務教育からやり直すことを勧める >>406
初期の大和王権は豪族の持ち回りってのが主流だけどそういうのも知らないで「ブンケイガーリケイガー」言ってるん? >>405
現在の国境を前提に朝鮮半島を外国だと解釈してる時点で、感覚が狂ってる
3世紀の倭国は、朝鮮半島の南1/3から北部九州と中国大陸の東シナ海沿岸に跨がる海洋国で、朝鮮半島は外国じゃない
当時の朝鮮半島は不毛の地で人口が少なく、百済高句麗新羅とは言っても、そんなに強い国じゃない
倭も半島南部に住んでたし、百済とは民族的に近かったので、同盟して高句麗と戦ったのは自然な事で、高句麗の碑文と日本書紀の記述が合致してるので史実だよ
感覚的には、当時は畿内や出雲の方が疎遠な外国 記録も残せなかった土人の集落を誇りたがる意味がわからないな >>408
いや古代倭国がある種の連合形態で
代替わりで有力豪族が王を務めていたとすると
神武東征で、最強勢力による平定・王位継承の確立と
考えることもできるのでは? >>405
誤解してた、すまない
4世紀の倭国は朝鮮出兵して高句麗と戦ってたから、同時に神武東征は無理ゲーと言う話ね。そりゃそうだ
だったら、神武東征はそれよりも後かも知れないな
そう考えたら、神功皇后は最初から北部九州に住んでて半島とも行き来してたわけなので、妊娠してる体で朝鮮出兵してても、不思議はないかも >>412
高句麗はかなり強い。だから日本は百済と組んだんだよ。
ところが日本書紀では高句麗も日本の支配になったとか妄想書いちゃってんの
高句麗は668年に滅亡した、日本書紀は720年に完成したので
時代的に高句麗がもうない。だから話盛ってもバレないと思って大和朝廷が書いたが
広開土王碑というものが存在してることで日本書紀のハッタリがバレてしまい
記紀って嘘書いてるの?←今ここ 国譲り≠神武東征だろう。
古事記や日本書紀を考えると出雲が倭国勢力に
入ったとしても神武帝より前のはず。
天照大御神は神武帝を5代さかのぼるし。
ちな仮に卑弥呼が天照大御神だとすると男弟が須佐之男命で
出雲が狗奴国になったり、西暦換算で250年頃の話になるので
大和朝廷の成立を1-5世紀ごろと考えると、年代的にも
苦しい気がする。 >>407
古いわw と突っ込みたくなるが
もっと古い古代史のスレだから悩むww >>416
日本書紀も広開土王碑も、どっちも話を盛ってるけど、倭国が百済と同盟して新羅を服従させて高句麗に攻め込んだまでは、高句麗側も認めてるよね
その後に大敗して逃げ帰ったのは、高句麗側の碑文が事実なんだと思う
その後に百済が滅亡して、日本に百済仏教を持った移民が多く来てるし
高句麗が北部九州まで攻め込んで来るかも知れんし、当時は中国大陸も三国志の大戦争中で、このまま北部九州に居たらヤバい
そこで、4世紀終わりに畿内に東遷して、大和連合国を築いたとしたら、時代も地政学的にも辻褄が合う
トンデモな珍説だけど >>418 補足
同時代の同じ出来事を、両勢力から眺めた記録が
神話として一本化・体系化された、とかってのは考えるのも
根拠が乏しいような…。そこまで詳しくないしなぁ。 >>421
三韓討伐が4世紀だし、5世紀はワカタケル大王がもういるし
珍説にすらなってないよそれ 纏向ですら3世紀後半〜4世紀前半やし、
4世紀の終わりなら既に大和連合が出来上がっとるわ。
東遷/東征どころか編入やで。 >>423
国譲り≒神武東征だと思ってる
記紀を読むと、出雲の方が大國主の本家で、畿内はその子供の大物主の分家
だから、神武一派は、畿内を統合するのが東遷の最終目標ではなく、畿内の大物主と神武東征のドンパチをやった後で、出雲の本家に向けて国譲り交渉をやってる
本家の大國主は、俺には判断できんから息子の大物主と交渉しろと言ってて、つまりは畿内が先で出雲が後から統合された事を示してる
神話にあるような穏やかな統合じゃなく、強い怨念を抱いて亡くなった様なので、大國主も大物主も祟り神として厳重に封じられてる もう言ったもん勝ちなんだから全国の自治体は邪馬台国を名乗れ >>426
>記紀の神代は、複数の部族が持ってた神話を無理矢理繋いでるから、
>系図や年号はデタラメだよ
このスタンスで同じ時代にあったことの多角的記録を
一本化したって考えると、そういう解釈もできそうで面白いとは思う。
面白いと思うけど、そこまで言えるほど詳しくないので
自分は根拠を提示できないな。 >>427
ご当地邪馬台国w
ゆるキャラみたいだな >>424
>>425
そやね
3世紀の邪馬台国
4世紀の三韓征伐
5世紀の倭の5王
神武東征と出雲の国譲りが、この3つのどこかに入らないと、辻褄が合わんのよね...
謎だから楽しい 先ず奴国=安曇族の畿内進出を頭に入れておかないとな。 >>432
2世紀の倭国大乱も入れてくれ
九州北部において1世紀の漢委奴国、2世紀の倭面土国の台頭
からの倭国大乱とか東遷するのにこれ以上ないシチェーションだ 本住吉神社周辺から、
銅矛銅剣の一大生産地が発掘されており、
コレが所謂銅矛文化圏と言われる、
奴国を構成していた安曇族の
西日本進出を示している。 >>435
加えて、北部九州の邪馬台連合国の東の豊前には、秦王朝の末裔の秦氏がいた様で、神武天皇が遠賀の岡に1年滞在して秦氏も東遷に連れてってるっぽい
東遷後も、畿内で疫病が何度も流行って平城京から転々と遷都してる間に、最後に京都の広大な領地を平安京として提供したのが秦氏なので、実は古代史の裏で秦氏の力も相当に大きかったはずだと思う 神武の東征以前に、物部氏の祖先ニギハヤヒが
既に大和にいたという記述は、
安曇族の西日本進出と考えていい。 神武の東征は、神武が東征した際に、
宇佐の山手に逗留した場所が
妻垣という地名で残っており、
コレが所謂、日向の豪族が
大和に進出していったことを
示していると考えられ、
実際に日向の豪族が大和に進出していった時代は
古墳時代直前と考えられるので、
天皇家が瀬戸内海を通じて大和に進出していった事は、
3世紀後半に起こったと見ていいだろう。 >>8
多分ね
九州北部にある国はほぼ全部邪馬台国(女王国)に属する国だったんじゃないかな >「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工 また、物部氏と天皇家は、
同じ天孫降臨族と言う事で、
元々博多湾周辺の部族だった可能性が高い。
従って、神武は本来まず最初に
日向の国に進出していると考えるのが理に適っており、
そこからまた宇佐に戻って
大和に進出していったと言うのが
日向系の天皇家の歴史だろう。 邪馬台国は、高千穂のあたりじゃえか?
原始農業って、灌漑する時に少しだけ勾配をつけるとか難しいだろう。
だから、山の麓が田畑作りやすいのよ。 一方、邪馬台国系の天皇家は、
山門八女を本拠地としていた丹波氏で、
ここから出雲丹波へと進出していったのが、
日本武尊である。 ある期間に不服を申立をしないと事実になるのですねw 赤村出身者は自分の出自を明かさないな
何か卑しいことでもあるのだろうか 中学生レベルの基礎知識
「3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に、王を中心に、近畿地方の有力な豪族で構成する強力な勢力(大和政権)が生まれました。
王や豪族の墓として大きな古墳が造られ、大和政権の勢力が広がるにつれて、全国の豪族も、前方後円墳などの古墳を造るようになりました。」 >>437
阿曇族(安曇族)=物部氏なの?
そうであれば、神武天皇の実態が安曇族なんだと思う
天照大神と天孫降臨から繋がる神武天皇の神話も、天皇家とは宗教が違うので、天皇家じゃない別部族の神話だろうと思ってる。天皇家は天孫降臨族とは違うだろうと。
安曇族が物部氏なら、大和朝廷の建国後に勢力が衰退して、蘇我氏に敗れてほぼ滅亡して、歴史から消えたのよね
日本書紀は物部氏や蘇我氏の業績を歴史から消してしまい、天皇家と藤原家の業績に仕立ててる >>446
女王国の南には狗奴国という一大勢力があるのでもし高千穂にいた勢力があったとしてもそれは狗奴国の者だろ そういや鷹羽(田川)の里には邪馬台国関連の神社が3つあったような
記憶が定かではないがな 高校生レベルの基礎知識(1)
「弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、
3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現する。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室におさめた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な
副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」 高校生レベルの基礎知識(2)
「弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、さまざまな形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を統合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とはくらべものにならないほど強力な力をもつ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権との関係が深いことを示している。」 >>458
つまり女王国の東にあった倭種の国がヤマトだったのですね
わかります >>458
だから3世紀の半ば頃、倭国連合内で中央集権的に
権力が集中する何かがあって、大和政権・王朝が確立するような
大イベントがあったと考えざるを得ないだろ。
それと同時代の記録が魏志倭人伝て卑弥呼の記録となる。 学校の先生ですか?
それ、突っ込みどころが満載の、検定教科書で教える歴史の話ね ウリナラファンタジーじゃねーんだがら
学説で適当な事言うな 狗奴国は、おそらく、宮崎県か、霧島のあたりじゃないかな。
谷で繋がっていて、係争地になりやすい感じだ。 寺澤でもコピペすればいいのかな?w
弥生期の大和には前方後円墳につながる文化がないって とりあえず前方後円墳は卑弥呼の墓ではない可能性が高いから前方後円墳を根拠に「ここが邪馬台国」とか言うのは却下な >>466
時代測定厳密にいうと3世紀半ばと断定するのは微妙で
近畿圏に巨大なものができるのは4世紀杉で超巨大なものは
5世紀になってから、てな話だったんじゃないかと。
5世紀は倭の5王の時代だから巨大な古墳つくっててもおかしくないが
それ以前、3世紀ごろてな成立時期について幅を見て考える方が
妥当かも? >>465
寺澤は纒向型前方後円墳の段階ですでにヤマト政権が誕生していて古墳時代に入っているという見解 狗奴国は隈の国で間違いないだろう。
そこの長官が狗古智卑狗=菊池の豪族とハッキリ書かれているからな。
一方、投馬国の長官副長官は、
彌彌、彌彌那利と書かれており、
コレは宮崎県の美々津耳川の部族で間違いない。 >>466
畿内の遺跡に関する考古学的な記述は概ね正しいけど、他の地域の遺跡を殆ど無視して定量比較もなく、偏った物証からヤマト政権だとか強大な力を持ってたとか、日本書紀の皇国史観に誘導する印象操作が酷すぎるの >>464
高千穂辺りは一大勢力が住むには険しすぎると思う
交易の観点から見ても海からあまり遠く離れない地であると予想 当時から、狗奴国と投馬国は、
ハッキリ別れていたと言える。
そしてソレは、その後の前方後円墳の
広がりを見ても明らかだな。 >>1
カチンとくる筑豊にあったわけがないだろw
筑後で決まりなんだよw >>393
田原本町の唐子・かぎ遺跡では銅鐸の鋳型まで見つかってる そして廃絶の後初瀬川上流5キロの地点に、近畿坊の大好きなマキムクが突如出現する これは無関係ではあるまい?畿内の銅鐸民を、馬 逐じゃなく、古墳労働者としてこきつかって箸墓を作ったのでは? >>469
前方後円墳が大和に由来しないなら、それが象徴する大和王権も大和発祥ではない。大和王権が外部の勢力に由来するなら、大和の地がその外部勢力にとって本拠地なのか出先なのかを墓の大きさだけで判別できるのか。侵略地だから自由にできる土地と奴隷の確保がしやすかっただけじゃない?と思うことが多々ある。 対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
奴国に至る。百里。官は?馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。
不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。
ヒナモリはその地区の軍事をまとめてたと思われる
奈良時代の夷守(ひなもり)
北九州や東北で朝鮮や蝦夷の防衛に当たる者
関係ない可能性はあるけどね 帯邦郡に行った戴斯烏越の烏越は、
筑後の部族、鳥越氏ではないか?
外交できる部族という事で、
漢字で自分の名前を書けた。
と言う事で、おそらく筑後市周辺を当たれば、
当時の文字の明確な使用が確認できる筈だ。 教科書はコンサバだから、定型化された前方後円墳の出現をもって古墳時代の始りで、ヤマト政権の誕生としている
しかし纒向型前方後円墳が出現した庄内期を弥生時代に含めるのか、古墳時代に含めるのかは
考古学者でも見解が分かれていて、寺澤や柳田は古墳時代とみなしている
つまり邪馬台国は古墳時代という見解 >>477
それ寺澤の説とは全く違う、ただの作り話 普通に考えて
奈良と出雲が共立して卑弥呼を女王にして邪馬台国という連合国を樹立
九州や対馬を使用せずに
【行き】
邪馬台国(奈良)ー投馬国(近江)ー不弥国(摂津住吉)−奴国(因幡)−伊都国(出雲)ー末廬国(松江)
【北に進んで】一大国(隠岐の島)
【北に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【西に進んで】朝鮮半島沿岸を伝いながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【西に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら黄海側にある帯方郡
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良)
の日本海ルートを使って「親魏倭王」になり
九州の【倭奴国】筑紫城「漢委奴国王」と対立
九州の【倭奴国】筑紫城 第三十二代「漢委奴国王」の「彦瀲」が邪馬台国の平定を命じ、
四人の息子が東征して、奈良と出雲の連合国の邪馬台国「親魏倭王」を武力鎮圧
末っ子の「神武」が総督としてそのまま奈良に残り、奈良を九州【倭奴国】筑紫城の植民地にした
だよ >>477
前方後円墳の由来は謎なんだけど、それがわかれば大和政権の由来がわかるかは、ちょっと誤解があると思う
現代日本人のDNA解析からも、日本列島では異民族の侵略とか奴隷化とかの痕跡はなく、弥生時代に異文化を持った移民はたくさん来てるけど、縄文時代からの倭の土着民と混血して融合してる
たぶん、古代から海に囲まれた島国なので、異民族が一度に何万人も攻めて来る様な事はなく、一度に100人づつくらいの小集団が渡来しては、土着民と混血していったんだと思う
前方後円墳は、たぶん畿内で複数の文化が融合して誕生したもので、どこかの民族が侵略してきて奴隷に作らせたものじゃない
また、先祖の墓に参拝するのは7世紀以降の仏教文化で、3〜5世紀の古墳は王の墓と言うよりも生前の宗教儀礼の場
奴隷の使役じゃなく、宗教の信仰として建設してる
宗教的に大切な墓じゃないので、亡くなって埋葬した後は忘れ去られ、都や寺院を建てる際に平気で壊してる そもそも、
「魏志倭人伝に外交した記述がある以上、
当時の日本人は文字を使用していた」
と言い切ったのはこの私だ。
それ以降、弥生の文字の使用を示す遺物が
次々と発見される事になった。
次は「鳥越」だ。
明らかにコレは「とりごえ」の鳥越であって、
日本語読みを漢字で残させた事が、
鳥越氏が「とりごえ」を漢字で書いた事を示しているのである。 わずか1800年前のことを古代と読んでいいものかどうか >>483 つづき
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の西暦57年の
倭奴國漢委奴国王の「光武賜以印綬」のときにはもう
出雲から、九州も対馬も使わずに朝鮮半島に渡れたことが判明しているからね >>484
奴婢というのはあったみたいだけどね
ただ、大陸のように異民族が大挙しておしよせて地域ごと滅ぼすというのはなかったような >>483 つづき
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に、九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になったときにはもう
出雲から、九州も対馬も使わずに朝鮮半島に渡れたことが判明している
220年に 後漢が魏に皇帝の座を禅譲して
238年に 公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠
したら、出雲から一気に魏に朝貢だよ >>483
対馬通ってない証拠あるの
遣隋使も対馬通るし遣唐使から沖縄ルートもあっだけど遭難も多かったよ >>488
まあそうだよな
韓国が古代韓国とは全く違うように
中共の中国が正統なる中国とは全く違うように >>490
つづき
んで、九州の【倭奴国】筑紫城「漢委奴国王」と対立
【倭奴国】筑紫城 第三十二代「漢委奴国王」の「彦瀲」が邪馬台国の平定を命じ
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
『魏志倭人伝』
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。 >>487
これさ、海流は今も昔も同じなんだよ
日本海沿岸は、めぐみさん拉致事件とか不審船漂着事件とか、今でも半島北部や東部と繫がってる
北部九州の博多は、韓国釜山と毎日フェリーが往来して、昔の百済あたりの人は釜山から博多に来られる
ついでに、長崎は東シナ海で中国大陸の香港マカオや沖縄台湾と繫がってて、その海流はフィリピンや太平洋の島々から来てる >>491
『魏志倭人伝』に記載されているルートは
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
なので、むしろ、対馬を通ったという証拠の方が無い >>491
遣渤海使ルートという対馬ではなく隠岐を経由して朝鮮東岸や北部に至る海流を利用した航路があったようだ >>491
『唐書』の遣唐使のルートは
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良
だけれども
『魏志倭人伝』に記載されているルートは
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
なので、むしろ、対馬を通ったという証拠の方が無い 島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に、九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になったときにはもう
出雲(葦原中国)から、「漢委奴国王」の九州も対馬も使わずに朝鮮半島に渡れたことが判明しているので
いい加減、
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視するのはやめたほうが良い >>498 のことを誰より良くわかっているのが
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視していた九州の自治体なので
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者。 >>496
朝鮮北部や東海岸からなら、黒潮の流れが早いので、壱岐を経由するはずはなく、直接に山陰から東北沿岸に漂着するよ。今でも北の不審船がその海流で漂着してる
出雲が交流してたのも、高句麗と新羅だと思う
中国からは、半島西側の陸路か西海岸沿いに南下して、釜山から対馬経由して博多湾に入るルートが最も簡単で安全
目視で見えるので、島伝いに来られる 島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って「漢委奴国王」になったときにはもう
「漢委奴国王」の九州も対馬も使わずに出雲(葦原中国)から、朝鮮半島に渡れたことが判明しているので
いい加減、
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視するのはやめたほうが良い
そのことを誰より良くわかっている
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視していた九州の自治体は
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と九州説の梯子を外したのさ >>500
遣隋使や遣隋使ですら、釜山なんか使ってねーぞ? ID:Sb32lVel0
↑
何が何でも邪馬台国は近畿にあったと想定するから日本にある古代史は全て偽書とめちゃくちゃになる
倭国は九州、近畿にそれに匹敵する大豪族あったと想定すると日本にある古代史全て筋妻合うと気づかないのかな >>497
あなたはそれを散々コピペしているけど、隠岐から筑紫へ戻る理由を説明できないと説得力がまるでない 邪馬台国はどこにあったかを真面目に話してる連中よりこういう人らのほうが健全に見える >>503
はぁ?
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って「漢委奴国王」になったときにはもう
「漢委奴国王」の九州も対馬も使わずに出雲(葦原中国)から、朝鮮半島に渡れたことが判明している
『魏志倭人伝』に記載されている
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
のルートは
必ずしも対馬と九州を使用したルートとは限らない
むしろ、対馬を通ったという証拠の方が無い
なのに何が何でも邪馬台国は九州にあったと想定するから
九州説者は
日本にある古代史は全て偽書、中国の正史は誤字脱字とめちゃくちゃにする
倭奴國漢委奴国王は九州、近畿に邪馬台国親魏倭王と想定すると
日本にある古代史、中国の西史全て筋妻合うと気づかないのかな >>502
あ、ごめん、497に書いてくれてた
チェジュ島経由ね、納得
戦後のドサクサ時にいっぱい来たルートやね とにかく、
田川付近にホテルをつくれよ。
まわりにくい。 >>503
近畿人はチョンDNAが濃いから行動パターンも一緒なんだよな >>504
隠岐から筑紫になんか戻りません
隠岐から松江です
>>505
遣唐使のルートは
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良 >>508
釜山から対馬海峡突っ切って対馬なんて
動力船じゃねーかぎり、海流キツくてムリ >>484
拠点的母集落の衰退と消長
小共同体の瓦解
高地性集落の発生と消滅
銅鐸の破砕
寺澤が指摘する纒向発生ごろの大和はとてもそんな平和な姿じゃないね
とはいえ氏は東征論には与しないと言ってるけど >>511
あ、やっぱり思った通りお前近畿説の人かw
正直お前の言ってる事はよくわからない ここまでまとめると、
奈良盆地は狗奴国の傘下だった
ということだね 卑弥呼スレって、結構よく立つよなw
この前は温泉地説で入浴シーン想像してたら、実際はババアだよと指摘されて萎えたw >>515
それね
ヤバいデータが出てるのに原発は爆発しないと言っていたヤツと同じの【バカの壁】
と言うんだぜ ID:Sb32lVel0は一般的な畿内説ではなく、我流の畿内説もどき >>511
1レスの中で矛盾を発生させるなw
『西へ戻って』って自分で書いてるじゃないかw 我流の畿内説もどきを論破しても何の意味もない
無視しとけ >>515
それね
ヤバいデータが出てるのに
原発は五重の壁があるから安全だという固定観念に囚われて
原発は爆発しないと言っていたヤツと同じの【バカの壁】
と言うんだぜ >>520
遣唐使はね
邪馬台国の使者は
【行き】
邪馬台国(奈良)ー投馬国(近江)ー不弥国(摂津住吉)−奴国(因幡)−伊都国(出雲)ー末廬国(松江)
【北に進んで】一大国(隠岐の島)
【北に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島?)
【西に進んで】朝鮮半島沿岸を伝いながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【西に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら黄海側にある帯方郡
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良) 島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って「漢委奴国王」になったときにはもう
「漢委奴国王」の九州も対馬も使わずに出雲(葦原中国)から、朝鮮半島に渡れたことが判明しているので
いい加減、
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視するのはやめたほうが良い
そのことを誰より良くわかっている
対海国と対馬国、一大国と一支国、末廬国と九州の国を同一視していた九州の自治体は
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
と九州説の梯子をそっと外したぞ >>497
隋書に奈良とか書いてないけど
両方対馬通ってる可能性があるってことでしょ
隋書は後漢書卑弥呼の前時代から6世紀の大化改新前の話までを書いてるから
大和政権は成立しつつあるので都は変わってる可能性はあるわな
島根から鉄が出てもただの輸入品が流れてきたかもしれないし出雲から朝鮮に行くルートが存在する根拠にはならない
ヤマトタケルの父景行天皇(71〜130年)が築紫に入り行宮を設ける
出雲は国譲りをして成務天皇 空位5年
仲哀天皇神功天皇辺りが卑弥呼の時代
都は築紫城九州だな
卑弥呼は阿蘇山付近にいたかもしれない >>488
邪馬台 ヤマトゥー
どこが関係ないんやヤマト言うとるがな >>523
遣唐使頃には卑弥呼が没して350年ぐらい経つよ
邪馬台国はない築紫国も残してない
そのルートは何に書いてあったん
邪馬台国は関係してない >>523
だから遣唐使が隠岐から筑紫へ西に戻った理由を説明しないと一大国=隠岐とするのは説得力ないってw >>526
そもそも倭面土国からしてヤマトだからまあ九州にあった国だろね >>488
倭連合圏の邪馬台国が全域掌握・統一して、大和になった
と考えた方が合理的というかロマン?だと思うがなw 山陰地方の例えば出雲あたりから朝鮮半島に渡ることは不可能 海流の
方向は西から東へ向かっているから樺太辺りまで行ってそれから大陸の方を朝鮮半島まで戻るのならば出来るのだが弥生時代にはそういうルートは開発してなかったはず これが許されるならゴッドハンド遺跡も観光資源にしていいだろ 古墳かどうかすらわかってないのは、流石にフライングだろ。
ってか、古墳なら石室なり葺石なりですぐわかるだろうに。
形が似てる地形を古墳認定しだしたら際限ないわ >>535
筑豊のは、古墳でも何でもない、ただの造成地だよ
山を削ったら前方後円墳みたいな形になったのが、最近の地図の変遷でバレてる
まあ、熱海城と同レベルの観光スポットだろうから、笑って見てる
きっと、卑弥呼の秘宝館とかラブホの邪馬台国とかが近所にできるよ >>426
記紀神代で国譲りがされてから天孫は高千穂に降臨したはずですよね。
なのになぜ神武は東征(征ってことは従わない奴らを従わせてる)しなければならなかったのか?
つまり畿内の連中と戦わねばならなかったのか?(おまけに淀川でも紀ノ川でも負けてるw よわっ))
一方、崇神垂仁の頃には明らかに出雲神は祟り神となっている
実は本当に国譲りがなされたのは、初代神武から崇神垂仁の間ではないのか?と思うわけですよ 筑豊は邪馬台国以来の伝統、
入墨をピーアールすべきだろう。 >>532
ところが、裏日本は海岸伝いに博多湾から壹岐、対馬を伝って朝鮮半島に行ってたとさ
卑弥呼の時代の前から
しかも帆船の技術が発達してないから、手漕ぎのボートで
オレがデタラメ言ってんじゃないぞ
「古代史の謎は「鉄」で解ける」って本に書いてある >>525
はい?
遣隋使を派遣した大和政権の都だから奈良ですよ >>529
遣唐使は一大国には渡ってねーけど?
統合失調症かよ >>537
多分こういうのは電通とか広告代理店に乗せられてるんだろうね。
卑弥呼で町おこしなんて成功してるところは1つもないのに。
オリジナル卑弥呼ちゃんキャラクターデザイン料が200万円から始まって
道の駅、物産館のリニューアル
外溝、内装デザイン料が700万円
工事費に2000万円〜
オリジナル卑弥呼ちゃんまんじゅう
パッケージデザイン料が50万円
卑弥呼ちゃんぬいぐるみ
デザイン料80万円
卑弥呼ちゃん着ぐるみ
デザイン+現物制作で700万円
卑弥呼ソング、アニメ
こうやってどんどんむしり取られるんだろうな 卑弥呼連邦
>「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
こりゃ、なんじゃもんじゃ、 >>538
神武東征と言う表現は、明治政府が皇国史観で名付けた表現で、実際の記紀を読むと、九州から畿内まで10年以上かけて移動してるので、軍隊の東征と言うよりも、民族の移住だと思います
神武側は、無計画に正面から畿内入りしようとして敗戦していて、どうやら戦闘を想定して軍備を揃えてた形跡がない
記紀にある様に、国譲りを受けるだけの正当な理由があったのか、圧倒的な文明レベルの差がある蛮族だからナメてたのかの、どちらかだろうと思います
国譲りの神話の方では、出雲だけの話ではなく、大國主の息子が畿内の大物主で、最初は大物主に交渉しろと言う話になってるので、順番としては神武東遷での畿内平定が先で、出雲平定が後でしょう
神武天皇から欠史8代の実在性が怪しいので、出雲平定が神武天皇によるものなのか、その後の天皇によるものなのかは、何とも言えません 固定観念のバカの壁には
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良
のなかに
どこにも書かれていない「一大国」という漢字が見えるらしい
病気だな >「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
そういってみたものの、大きなところで間違う田川・筑豊 >>545
たんに大乱で祖国を失って親戚を頼って流浪の旅してただけ説 >>546
IDを変えて人格攻撃に逃げるのはよくないと思うよ
じゃあ、一支国が一大国でも隠岐でもないとして、どこなのよ?
そして海流を逆行してまで西に戻る理由は何なのよ >>549
隠岐の島は散々調査されて無関係と結論付けられたはずだよ 島根県の隠岐の島と、
福岡県宗像市の沖ノ島がこんがらがる畿内ワシュ 邪馬台国が大和朝廷の前身なのか、大和朝廷とは関係の無い勢力だったのか、これくらいは知りたいが資料無し
同一地名が各地にあるから西から東に勢力を拡大しつつ、本拠地移転をしながら畿内に入った神武東征は事実に基づく話かもしれないが、知りたいのはそれ以前の話
金印でも見つかればな 筑豊は、ヒミコ連邦というよりスサノヲ連邦だな。が、追い出されて島根に逃げちゃった・・。 >>550
記紀を信じるなら、神武側が本家で出雲纏向が分家筋なので、神武が本家の御旗で国譲りを迫ったと言う説も、あると思います
その場合、双方のルーツはどこやねんと言う、新たなロマンがあって楽しい
騎馬民族襲来説とか、古代ユダヤ末裔説とか、徐福伝説とか、色々と絡んできます >>69
宇佐は渡来人の秦氏が定住した場所。関係があるとすれば天皇家は秦氏のバックアップの
もとに政権を奪い取った 5チャンネルでしつこく書けばそこが本当の邪馬台国になると考えているアホがいる 奈良とか阿波とか宇佐とか書いているやつは倭人伝をしっかり読み直せ その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。
居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。
鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。
非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
出雲の国譲り >>549
そうですよ
邪馬台国の使者は
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良)
だけれども
遣隋使遣唐使は
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00080/093000003/
隠岐の島なんて通りません 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>557
神武天皇が東遷の前に1年間滞在した、遠賀の岡(岡田宮)も、秦氏の居住エリアの様です
7世紀の隋書東夷伝に、筑紫の東に華南人が住んでる秦王国があると書かれてるので、7世紀までは秦氏がいたはずです
岡田宮の宮司は波多野さんと言う方で、おそらくは秦氏の末裔
遠賀川沿いの湿地で砂鉄が採れたらしく、たぶん岡田で鉄器を生産してたのだと思います
秦氏は畿内でも広大な領地を持ってて、平安京は秦氏が天皇家に提供した土地らしいので、ご指摘の通り神武天皇と共に東遷して大和朝廷の建国にも、大きく貢献してるのだと思います >>565は免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
308:名無しさん 2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの ノリが完全に暴走族、ヤンキー
あの辺はこんなのばかりなのか? >>567補足
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれたし
後に東征することも可能になった
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった 5ちゃんねるの九州説ってのは、日本史そのものを否定し、
「ぼくのかんがえたさいきょうのにほんし」を前提に、邪馬台国は九州だと言い張ってるだけ
出発点がズレてるんだから、その上に乗っかってる説がトンデモになるのは当たり前 当時は朝鮮や中国に近い九州のほうが
大陸の技術を吸収するのが早かっただろうから、
九州が最も栄えており、都もあったとの説ほうが説得力があるわな >>556
九州から追い出された旧王家の一族が、列島に散らばった一族を糾合して
近畿で再び旗揚げし祖国九州を併合して、ついには列島を支配するに至る物語もなかなか
倭の五王や旧唐書とも齟齬なくストーリーが組みあがる >>549
そうですよ
奈良から出雲を平定した邪馬台国の使者は
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良)
だけれども
九州から奈良を東征した大和政権の遣隋使遣唐使は
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00080/093000003/
隠岐の島なんて通りません >>570
そもそも歴史なんて数十年前の説なんて覆っているの多いのに
よく昔の日本史の説を持ち出してえらそうにできるよねぇ
君、学生時代から何も新しい歴史的発見を勉強してないでしょ >>575
新しい知見を一切受け入れず、40年も50年も前の日本史を前提にしてるのも
5ちゃんねるの九州説の特徴 神武だって「東征」しているように、
文化レベルの高かった大陸の技術や人々が東の日本へと渡ってきている
となると、日本列島においてはもっとも大陸に近い
九州が日本列島においてはもっとも先進的な地域であったのは当たり前
近畿なんてのはあとから発展した地域 イメージ的に、福岡県と佐賀県と熊本県の辺りが邪馬台国の範囲っぽいな
そもそも邪馬台国ってのも、いくつものクニが戦争ばかりしてたから、
共通の女王を掲げて連合したって連合王国だから
熊本県の北部に東京国立博物館に国宝で展示してある宝剣が出土した江田船山古墳とか
壁画が有るチブサン古墳とか
佐賀県には吉野ヶ里遺跡とか
久留米辺りにも遺跡が沢山あるわな 俺は九州説なんだが、宣言しようがしまいが事実とは無関係で、
なんだかもうビジネス臭どころがそのまんまで議論する気が無
くなったわ。 >>565
その邪馬台国が八女市あたりだった説は、地政的に疑問を持ってます
理由は、伊都国や奴国から山越えが必要で、敵対してる狗奴国からは攻めやすく無防備だから
卑弥呼は女王などと誇張されてますが、倭人伝を読むとただの巫女でしかなく、軍事力は弱いと思います
今の象徴天皇の様な存在で、実際の軍事は伊都国や奴国が担ってたはず
大切な巫女を、そんな危ない土地に置いておくわけがなく、実際には伊都国の中にバチカン市国の様な形態で邪馬台国神社が存在したとか、地政的にはそんな程度の存在だろうと思ってます
魏志倭人伝は、魏王の権威を大きく見せる意図もある様で、魏王に朝見した東の果ての倭国を、女王が治める黄金の国ジパングの様に誇張しています
だから国名や風俗は正しくても、距離や人口などは大きく盛ってるのだろうと こんな宣言にロマンなんてないわ。
無理矢理過ぎて反吐が出る。
ロマンに戻せ、馬鹿市長連中。 雑な考えだが人口=軍事力なら、筑紫平野は無視出来ないな
ただ、2000年前の地形がどうだったかによるが 磐井の乱でも山門八女が北部九州の
中心地だった様に、
古代の山門八女は北部九州の中心地だった事は間違いない。
なんや伊都国て。 秦王国に八幡神に波多宮司、・・せいぜいスサノオ連邦 細かいことは言わないで。古代史はロマンですから
まるでかの国のようなものの言い様 >>584
現代日本的でなく、どこか南方の島々やペルシャのようなエスニックセンス 邪馬臺国がヤマト王権という証明も無いからな
日本書記も卑弥呼?誰それ?みたいな扱いだし
後にヤマトに吸収されてしまったヤマトとは別の九州にあった国という可能性も無くはない >>574
邪馬台国の使者は隠岐の島なんか通らないよ
原文だしてみなよ
隋書に書いてる邪馬台国は朝鮮から南東にあるしかない範囲は広がってる
阿蘇山がある
608年に唐から使者で倭国に来るルートがあるが
対馬と築紫の当て字があるだけで隠岐の島も奈良もない
恐らく大和政権は成立しつつあるがまだ都は邪馬台国にある
完全に日本国となったのは大化改新以降
新唐書旧唐書には日本国と倭国は別だという記載まであるよ ヤマタイ国というより、ヤマタ之大蛇
大樽の大酒を飲み干すオロチ連邦だろう >細かいことは言わないで
筑豊の人が言いそうなクズセリフ >>584
熊本は、ポリネシアやフィリピンから南方人が海流に乗って有明海に入って来てるはずなので、南方文化でしょうね
魏志倭人伝の倭人も、ペインティングや入墨を行ってたと書かれてるので、文化的に共通しています
海洋民なので、鮫から身を守る護身から来てるとか 邪馬台国はヤマタノオロチのことつまり高司の国のこと(-_-) 神武天皇って筑紫生まれだろ?九州北部が邪馬台国
宇佐で秦氏と合流して関西に向けて出発した
史実では三韓征伐の時期だけどさ 卑弥呼は奴婢百人殉葬なので身代わりの埴輪は置いて無いし、埋めてない
だから埴輪が出てる箸墓古墳は卑弥呼じゃないのは確定的 神武天皇て日向高千穂に降臨するんだけど
アマテラスの孫ニギギの子供が神武天皇
出雲は国譲りしてそこに即位するのがニギギ
その後12代景行天皇の子供ヤマトタケルがクマソタケルと出雲タケルを討征するという伝説がある
でまた東征に向かうんだがその目的は
富士高天原王権の復権を企てて富士周辺や東北地方の豪族が兵をあげたから領地を奪われそうだったからという記述があるらしい(ソースはつべ)
景行天皇wikiに
築紫に入って子孫は日向国造となる
とあるからこれが魏志倭人伝でいう倭奴国なんじゃない 卑弥呼の鬼道は古神道か宗教だろう
その宗教の信者が30ヶ国に多数居たのだろう
同時期に大陸でも太平道が大流行していた
秦王国は景教であろう
その為、キリシタン弾圧の際、徹底的に痕跡は消された >>602
神武天皇は確か日向生まれだろ?
記紀を信じるなら 九州説が舞台の卑弥呼伝というギャルゲーあったな
たいして人気も無かったけど小説が長期連載されてたな
どっかから金もらってやってるのかと邪推してたわ >>554
魏志倭人伝に全部書いてある。よく読んでごらん。
邪馬臺支配下の港と周辺諸国を大倭が監理している。
邪馬臺国の家来か何かのような、でも正体不明の大倭!w
あれ? 漢の時代は奴国が朝貢してたよね?
でも、魏志倭人伝を見ると、奴国は邪馬臺の支配下だ!
ああ、漢代は、邪馬台が配下の奴国を倭国代表のフリで
朝貢に行かせてたのね? 自らは大陸の臣下に成らずに、
漢の権威と下賜される富で、列島の覇権を握ったのね。
で、魏の時代になって、今度は、大倭が港を押さえてる!
ははあ、漢末の倭国大乱は、邪馬台国内の内乱じゃなくて、
列島の大乱で、女王"共立"=和議条件で男王禁止=覇権放棄、
つまり、列島の覇権国が、邪馬台から奈良(大倭)に移って
権力を失った邪馬台が倭国代表のフリで朝貢させらた訳ね! 神武東征の神話で不可解な点があるのだけど、誰か説を知ってたら教えて
神武は九州にいた時から東遷部隊のリーダーだったわけじゃなく、4人兄弟の末弟で、東遷しようと言い出したのも神武なのか兄なのかがわからない、中途半端な存在じゃない
最終的に生き残って畿内平定したのは神武だから神武さんだけが天皇になってるんだけど、他の3人の兄は途中で病気とか怪我で亡くなってる
これ、事実がそうだったのかも知らんが、わざわざ兄の事を神話に残す必要はなく、最初から神武が偉大な神の子だった話に単純化した方が自然だよね
何でわざわざ、兄の話が出てくるんだろう
過去にあった天皇家よりも上位の存在として、兄の事を神話に残さなきゃならない、何かの因縁が隠れてるのかな? >>597
『魏志倭人伝』に記載されている
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
対馬も、壱岐も、ありません 最近九州説の人のハッスルがとまらないね。何かあったのかな? >>610
三男の「三毛入野命」は高千穂に戻って本家の跡を継ぎ
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の次の九州倭奴國筑紫城国王になりましたよ 言ったもの勝ちみたいな発想は韓国と変わらないじゃん。ちゃんと科学や事実と向き合おうよ。 >>613
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
【九州と対馬を使わないと海を渡れない、だから邪馬台国は九州】
【出雲からでも渡れるだろ】m9(^Д^)プギャーwww
になって発狂しとる(笑) >>610
日本のその手の話って意外と整合性とか考えずにそのまま話をぶっ込んでたりするからね。
変に削られたり改変されてない分、文字通りに読んでみた方が意外と事実に近いってのはある。
書物内の記述なんかだと移動中の行程とか今と比べると辻褄合わないけど古代の地形と照らし合わせるとピッタリ合ったりして事実もしっかり書かれてる。 >>613
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
【対馬を使わないと海を渡れない、だから邪馬台国は対馬に近い九州】
【対馬を使わず、遠い出雲からでも渡れるだろ】m9(^Д^)プギャーwww
になっちまって発狂しとる(笑) >>614
サンクス!
神武の上の三男さんは九州に戻って子孫が残ってたのね
たぶん、兄弟だとか言うのは神話の話で、実際は4部族が連合を組んて東遷したとかだろうから、途中で脱落した他の2部族にも、それぞれに因縁が残ってるんだろうね >>610
東遷前が神代で、東遷以降が人代となってる。なぜ??
そう言えば、出雲は滅ぼされて、神々の地に成ってるよね?
ははあ、邪馬台は滅ぼされて、その権威を奈良が継いだ。
それで、滅ぼされた西の邪馬台の時代を神代にして、
奈良が権威を継いで以降を人代、両者を繋いで権威継承を
正統なものとするため、虚構の東遷神話を作ったのね。
ああ、それで三本足の烏とか大陸にある話のパロディーが
東遷神話に出て来る訳ね。ネタを思いつかなかったんかな。 5ちゃんを見る限り
邪馬台国は九州説が主流っぽいし
最近は九州でほぼ確定の流れだなあ >>617
そうだよね
だから、こう言う不可解な点を調べてたら、意外なところで史実が見えてくると思ってる 現代的地名と昔の地名では位置も異なるのに。当然地形も異なるし。だいたい天照大神・素戔嗚・月読と来るならば3部族。争いも有ったが末、連合国と為す。言葉や文字も少なかっただろうから移動しても同じ地名をまた使用したり部族が散らばっても再利用している。だから日本中同じ読み方や同じ漢字の地名多々。 >>613
倉本一宏が言うには、このままでは畿内説で確定しまいそうなので、行動を起こしたのだと
本を出版したり、講演をやったり、イベントやったり
論文を書いてる人がいないんだから、学問の世界では1ミリも押し返してないと思うけど >>620
いや単純に
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠したドサクサにまぎれて
奈良の邪馬台国が出雲の葦原中国から、対馬を使わず使者を出して親魏倭王になっちまったから
九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんが「潰せ」
息子たち「了解」
で
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。 >>624
ハハハ、地名は全くその通りなので、魏志倭人伝の地名比定は無視してる
アメリカでも、ニューヨークとかニューイングランドとか、移民が出身地の地名をコピーするのは自然だよね
それを何百年後かの歴史学者が見たら、ヨーロッパはアメリカ大陸にあった説が出来ちゃう >>622
地政学から考えても、魏志倭人伝を読み解いても、
そうなる。
畿内説は、あれは学問じゃない。歪んだ政治だ。
今、巷で騒がしい、学術会議騒動と似たような次元のw 天台寺瓦窯址(読み)てんだいじがようし
福岡県田川市伊田法師(いだほうし)殺しに所在する奈良前期の瓦窯址群
「法師(ほうし)殺し」って地名なのか? - 日本人チョロすぎ!(笑)マスコミの日本人民族浄化計画 -
@日本人の精神を腐敗・堕落させ愚民化させろ.
A日本人の女を集中的に狙い洗脳しろ!
Bネトウヨ、ヘイトスピーチ等の言葉を浸透させ、同胞への批判を封じろ
C「同性婚・LGBTを全面肯定しない者は差別主義者だ!」という雰囲気を作れ。
D中身のないアニメを流行らせ、クールジャパンをオワコン化させろ。
E「未だにガラケーの奴は笑い者」という雰囲気を作れ
F「日本人の男VS日本人の女」の対立を煽り、分断しろ.
G日本人同士で恋愛・結婚させない、子供を生ませないよう誘導しろ.
H日本同士で結婚していたら離婚させる方向に仕向けろ
海外セレブやハーフモデルをもてはやし、「日本人は劣等人種だ!」と植えつけろ。.
Jイケメンブームを定着化させ、「男は外見が全てだ!」と洗脳しろ!
- ソース -
電通グループ会長 成田豊は朝鮮半島生まれ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E8%B1%8A >>611
魏志倭人伝
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。」
朝鮮から南東方面にあり南北で行き来きができるのは
一大国は壱岐島
隋書は対馬と築紫と明記
隠岐の島なんて全くどこにも出てこないよ >>614
ぐぐったら宮崎県高千穂町の伝承となってるが宮崎の伝承というだけでもう
まゆにつばしたくなってしまった >>572
九州は水もいいから
関西よりあると思う 朝倉の大己貴神社が地元で大神(おんが)様と呼ばれてる
遠賀川の名前は河口付近の岡から来てるとされてるけど、なんとなく侮れないなと感じる >>633
東国原の言うことを信じるかと言われたら、悩ましいよね
指原の言う事なら、ちょっと信じる ひ、卑弥呼連邦www
連邦なんだw ソビエト連邦ならぬヤマタイ連邦www
邪馬台国は社会主義ならぬ祭政一致主義の王国なんだけど
(しかも魏帝から親魏倭王に冊封済みw)
ここにきて連邦かあwww
あ、しかもヤマタイ連邦じゃなくて卑弥呼連邦なんだw
あくまで忠誠の先は国家じゃなくて卑弥呼個人なんだwww
太古の昔に亡んだ王朝の今は亡き女王を頂く連邦…
とくれば名誉革命で追われたジェームス王の王統復活を目論む
イギリスのジャコバイトのような「ロマン」はあるかしらんがw
これはそういう話じゃないんでねwww
観光ネタかなんか知らんけど、どうなんですかこういうの。
しかも税金とか使うんでしょ? うううううん。
ネタにマジレスなのかどうかしらんが
ロマンというよりかはどっちかっていうと歴史修正とか
そっちの方を連想するけど…いいのかねえ、こういうの。 220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠したドサクサにまぎれて
奈良の邪馬台国が出雲の葦原中国から、対馬を使わず使者を出して親魏倭王になっちまったから
九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんが「潰せ」
息子たち「了解」で
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
ところが案外手強くて、長男・次男と立て続けに討ち取られてしまったので、九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんが
三毛入野命は跡取りになったから戻ってこい
あとは神倭伊波礼毘古命ひとりでなんとかしろ 倭奴国てのが書物によりちょいちょい動くのは景行天皇が動くからかなとか思った >>638
面白い、とても参考になる
難しい文献は、細かな人名や地名に囚われるよりも、こうしてマンガチックにモチーフを俯瞰した方が、行間の感情や力関係が読み取れるから、他の資料や遺跡と突き合わせやすいんだよね
実際にその地に行って、地形を眺めたら、更に地勢的な裏付けもわかってくる
2週間前、長野の安曇野に行って、安曇族の事を考えてた >>584
4枚目の画像がチブサン古墳の壁画だな
復元図かな
十年くらい前に付近に旅行に行って
何もない地域だからなんかないかと古墳に行ったら
たまたま現物を見せてくれたんだよね
数百円払ったかな
ガラス窓になってる覗き穴から内部の赤と黒の模様と丸がいくつも描かれた壁画を見れた
今は公開してないと聞いたが
丸の中心に点があるので、乳房の古墳→チブサン古墳と
地元の方言で言うそうな
昔はガラス窓をハマってなくて、自由に覗けたらしい 関西人の畿内説と九州人の九州説はゴミ箱に捨ててしまえ
むしろ関西人の九州説やその逆なら耳を傾ける価値ある >>591
九州説を言い出した学者本人が、
考古学の指導教授から、
お前はなんか面白い学説をやってみろって言われて、
良い案が浮かばなくて、
教授から半ば邪馬台国の九州説をやってみろって追い込まれてから言い出した、
って白状してるからな >>632
はーーい注目ぅぅ
隋書俀(倭)国伝
明年 上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中
又東至一支國
又至竹斯國 又東至秦王國
壱岐は南北に行き来なんかできないそうですよ >>643
いやおかしいだろ?
九州の天皇勢力が畿内の銅鐸文化を滅ぼしてるんだよ?
関西人はそんなに九州人に西暦300年頃に滅ぼされた事実を認めたくないのかよ? >>646
そんなに強い九州は先祖伝来の墓制を捨て前方後円墳体制に組み込まれヤマト王権の影響下に入ってしまった
何故なんだろうね >>643
それは橿原考古学研究所の所員として自らの手で纒向遺跡を数十年間も発掘調査していながら
九州説を支持している関川尚功氏のことか?
考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784870356801
「大和・畿内説」で中心として考えられるのが、纒向遺跡、箸墓古墳である。
本書の著者は、長年、纒向遺跡をはじめ、箸墓古墳など多くの大和地域の発掘・調査に携わってきた。
そんな著者が出した結論は、「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」
数々の史跡、遺跡を発掘してきた著者が語る本当の「邪馬台国大和説」。 >>641
つづき
なんだかんだで、奈良と出雲を平定した神倭伊波礼毘古命が、九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんに終わったよと報告すると
九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんは、こっちは兄の三毛入野命が立派に跡を継いでいるから、帰ってこなくて良い
対馬は漢委奴国王の跡取りである兄の三毛入野命が使うから、おまえには使わすことは出来ないが
そのかわり、奈良のおまえ専用の港として一支国(壱岐)を使わせてやるから、奈良と出雲はおまえが好きにしろ
で、対馬が無い
『梁書』倭人伝
帯方郡から倭に至るには、海(岸)沿いに航海して韓国を過ぎ、東へ行ったり南へ行ったりしながら、七千余里で、初めて一海を渡る。
海は広く、千余里。瀚海(広い海)と名づけられている。
一支国に至る。
また一海を渡ること千余里、名は未盧国(松江) >>645
明年 上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
これは608年中国から倭国に渡った話
隋書てのは遣隋使の話しではなく中国隋の書物
ここにある一支国は沖ノ島
対馬〜沖ノ島〜築紫〜秦王国
夷洲は台湾人て言われてるね >>647
関西人は邪馬台国九州説や畿内説にそんなにこだわってないだろ?
九州人に畿内人は攻め滅ぼされた事実を受け入れろ >>649 つづき
父ちゃんが死んでからも、何年かは、まだ我慢できたものの、対馬が使えないフラストレーションの我慢の限界で
ヤマトタケルの西征
漢委奴国王の跡取りが代々利用していた
九州 【倭奴国】筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)を祖先とする阿曇氏を、海が無い信州に追いやって
未盧国(松江)からの航海を司っていた隠岐の島の
出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、吾田片隅(アタカタス)一族を博多に遷して宗像氏とし
晴れて
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良
で遣隋使遣唐使 >>648
関川編年なんて他の考古学者にまったく支持されてない
標準的年代観と100年ズレてるが、交差年代を考慮してないなど重大な欠陥があると思われる
そんなのが他の考古学者たちに受け入れられるはずがない >>653 つづき
ところがだ
朝鮮半島から、いきなり絶海の孤島の対海国(対馬では無い)に出て
対海国から南の一大国(隠岐の島)に渡り、末廬国(松江)に上陸
という海流の影響が少ない海路を、先祖代々、続けてきた
出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、吾田片隅(アタカタス)を祖先とする宗像氏は、
海流が激しい対馬海峡を航海するのは得意ではなく、大誤算
大和朝廷は、
西征で海が無い信州に閉じ込めていた海人族
九州 【倭奴国】筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)を祖先とする阿曇氏
も、再び航海に起用することとなる >>653
そのルート遣隋使のルートは違うし
東に行って西に戻るよ
前文よく読みましょうよ
頭壊れてんじゃね >>658
何がおやおやだ
倭人伝
対海国から一大国= 壱岐
中国の書隋から倭国に来たルートが
対馬から一支国=沖ノ島
だよ
何ごっちゃにしてるの >>657
でもこの人の投稿は力作で面白いと思うぞ。 三輪山の麓に箸墓古墳があるから畿内説も信ぴょう性があるような気がするな・・ >>661
>>648を見ろ
掘った当人が否定しとる >>659
一支国が沖ノ島だとしてそこからどう通って倭国へと行ったん? >>659
ふーーん、一大国が壱岐で一支国が沖ノ島ねぇ
んじゃ対海国はどこ? >>660
力作はオレじゃなくて、古事紀や日本書記を書いた人たちだよ
九州は倭奴國「漢委奴国王」、出雲と奈良が邪馬台国「親魏倭王」の前提で読むと、中国の正史と照らし合わせても、すべてまったく破綻せずに、すらすら物語が言える >>663
対馬ー沖ノ島ー築紫ー秦王国ーどこかに到着
沖ノ島は壱岐の島の近くにある
隋から倭国へのルートで(中国から使者)
遣隋使のルートではありません
倭人伝では
末盧国=長崎佐賀から築紫に行くが
佐賀唐津に寄らず直接築紫に着港したんだと思う >>664
始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」
南北に行き来できるのは対馬です
>>665
コピペじゃん
ルートは破綻して捏造作文だし 本州から朝鮮半島には直接渡る事は絶対にできん 日本海流は西から東へ流れているから朝鮮半島から本州の山陰地方や北陸地方には簡単に渡ることはできる ツングース系の弥生人はそういうルートで本州に到達したんだよ 九州には南方系の弥生人が住んでいたので九州に来ることはできなかった したがって本州から九州を通らずに朝鮮半島や中国大陸に行くのは不可能ということだ >>663
対馬(対海国)−−沖ノ島(一支国)ーー神湊(宗像=筑紫)−−田川(筑紫)ーー豊前(秦王国)の、4世紀以降の新ルートを知らんのか
このルートが開発されて半島〜近畿交流が一挙に繁盛しだしたのだ
(沖ノ島ー神湊部分は世界遺産にも認定された)
>>664
対馬の別名が対海国だ。その対馬(対海国)の真東が沖ノ島(一支国)。 >>45
さすがに隋の記録を論拠にするのはちょっと >>666
それなら一支国が壱岐島でも沖ノ島でもどっちでもよくね?
どちらにせよ推測の域を出ないし邪馬台国が九州にあった、って論には影響ない 中国のデタラメでいい加減な歴史書がここまで日本の考古学を歪めるとは・・・
やはり文字の力は恐ろしい >>45
そればっちり阿蘇山って書いてあるんよね
そんでその地が邪馬壹であるとも たとえばだ
九州「倭奴國」の二十九代目の国王「伊邪那岐神」は
最愛の妻である「伊邪那美神」が死んでから、
寂しさのあまり、出雲と伯耆の堺近辺の「根之堅洲國」出身の側女に手を出して天照大神が産まれる
「伊邪那美神」が死んでから元気がなかった「伊邪那岐神」は
天照大神の誕生を大層喜び、畿内の天氏の直轄地の奈良盆地(高天原)を天照大神に分け与える
その後、出雲と伯耆の堺近辺の「根之堅洲國」出身の側女との間に、月読命が産まれたあと
「伊邪那岐神」国王以外の全ての筑紫城の人々が心配していたことが現実となる
出雲と伯耆の堺近辺の「根之堅洲國」出身の側女との間に、男子が産まれてしまったのだ
それが「建速須佐之男命」である >>667
えっ
一大国と一支国は別の島なのに
対海国と対馬国は同じ島って
ずいぶんご都合主義だな m9(^Д^)プギャーwww >>677
そういうファンタジーの話はいいです
無駄 >>677 つづき
「伊邪那岐神」国王は、年をとってからの男子の誕生に狂喜乱舞
息子の大綿津見神(豊玉彦)の長男の
宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)を
天照大神に分け与えた畿内すらも飛び越えて、
信濃国の安曇の穂高に追いやって
大綿津見神(豊玉彦)に建速須佐之男命を預けて、大綿津見神(豊玉彦)の次の国王にしようとしてしまう
それは正妻の伊邪那美神の子である「綿津見大神(豊玉彦)」にとっては、いい迷惑以外のものではなく
特に「綿津見大神(豊玉彦)」の弟の志那都比古神は、トンビに油揚げ拐われた状態で
訪ねてきた建速須佐之男命をイビりまくって
九州の筑紫城で孤立無援となった建速須佐之男命は、父である伊邪那岐神に「俺はこんなところはいやだ! 母の住んでいる出雲と伯耆の堺近辺の「根之堅洲國」に行かせてくれ」と直訴
伊邪那岐神は、育て方を間違ったと建速須佐之男命を九州の筑紫城から追放し、大綿津見神(豊玉彦)への面目を失って、天照大神の高天原に近い淡路島に、そのまま隠居してしまう。 >>678
対海国と対馬国では大きく時代が違うのに、なにゴネてんだよ >>683
(それを言うなら一大国と一支国も同じでは?) >>684
一大国と一支国も、大きく時代が違うのに、なにゴネてんだよ 細かいことは言わないで。古代史はロマンですから
↑
これは問題発言だぞ。
左巻きが、嘘古代史を撒き散らす時の常套句だ。
本当のことがわからないなら、言ったもん勝ち。
左巻きはこれを拠り所として
日本の古代史を狙い撃ちしてきた。
左巻きの臭いがする。 ちょっとした表記の揺れだけで珍説唱えるやつが出るからタチが悪い >>101
- わはははははは @阿波
の人か?w 大内と細川が我こそが日本国王と言い張って
寧波の乱を起こしたみたいな感じの九州地方政権だったって事だろ >>18
山大国
日巫女だよ
母系
すべては中国のせい >>691
九州地方政権じゃないと、大和政権が魏に朝貢してたって事に成るからな
大内氏や細川みたいに日本国王僭称してたってことさ そろそろこんなアコギな商売やめたらどうなんだ?
そのうち埼玉辺りも小銭欲しさに参戦してくるぞ 桃の種しか出ないので畿内説は
最近元気が無いな!w >>695
畿内説推してる連中は大和政権が
中国に朝貢してたって事にしたいだけでやってるからな >>654
見た来たような聞いてきたようなことを書くな
批判してる学者出してみろや
関川さんを批判できるような骨のあるやつが居ればいいがな >>625
狭い偏狭な学会のカルトサークル内でだけ通じる論理のことね、学問ってw たとえるなら徳川家康は自称清和源氏だけど清和天皇が江戸にいたかっていう話
しかも本当は全然つながっていないかもしれない さすがチョンの国福岡
福岡には嘘吐きしかいねえからな 邪馬台国=ファンタジー世界
そんなもの始めからフィクションだったんだよ
史実では存在しない国だからw 邪馬台=ヤマト=大和
関係ないのに同じ名前をつけますか?
筑紫と畿内で同じ地名もいっぱいある >>1
>約40年前に「卑弥呼の墓では」と話題になったが、数年前に衛星写真から
>再び注目されるように。
真面目な話をすると、卑弥呼の墓は「径百歩」つまり75m位とされているので
後円部が150mの前方後円墳は大きすぎますよ。 2007年ぐらいに月刊ムーという雑誌がアメリカのFBI超能力捜査官のジョー・マクモニーグルさんに協力してもらい、卑弥呼を霊視してもらったそうです。
すると、とんでもない事がわかりました。
マクモニーグルの霊視によれば
沖縄から渡ってきた南方民族(縄文系?)が山口に居住して村を作っていました。
卑弥呼はその部族で生まれたそうです。
そして、その部族の名前が「ヤマト」だったそうです。 >>707
なんでそんな当たってるのか外れてるのかもわからんことを
霊視するんやろねw
だいたいの去就が分かってる諸葛亮とか関羽とかやってもらえばええのに 魏志倭人伝に登場する末盧国は山口県の周防灘にあった!
ウエツフミの記述から邪馬台国の場所が明らかに
それは、ひょんなところから出てきました。
『ウエツフミ』に書かれた、「オロシの来襲」に関する記述を読んでいたときのこと。
そこには、こう書かれていたのです。
「穴門のクウリナカのマツラクニの・・・・」
穴門(アナト)の国とは現在の山口県のこと。
その端門(ハシド)にあたるのが関門海峡で、
その(クウリナカ)にあるのが「末盧国」だというのです。 新説
邪馬台国=邪魔台国=中国にとって邪魔な存在=台湾 邪馬台国が山口県なら
田布施システムで首相排出量が
不自然に多いのもうなずける >>668
無理て言えるほどの距離じゃない
だったら佐賀に行くのも無理
目的地が唐津から築紫の陸行省くために行くのは当然
>>678
対海国は南北で行き来きが出来る条件にあたるから
代々使ってたルートじゃないんですか >>714
福岡じゃないかな
目的地が築紫なら佐賀から築紫の山越は省く 魏との修好が歴史の重要点になってる大和の神功皇后は拓跋部神元皇帝のパクリ。
夷狄の地で冷遇され中央にクーデター起こした関東武士団は北魏武川鎮軍閥のパクリ。
古代日本は全て北魏のパクリw >>716
神代語古代語日本語はパクリじゃない
たたら製法とか次々に独創性のある技術生み出したし
色々品揃えも豊富だったとか >>697
はあ?
関川編年を支持してる考古学者はいないと書いたんだ
批判してると勝手に捻じ曲げるな 曹操にびびって糞漏らしたのが鮮卑
司馬懿にびびって小便漏らしたのが倭
爆笑 >>586
八女津媛神社を初めて見た時には体が震えたな >>713
【行き】
邪馬台国(奈良)ー投馬国(近江)ー不弥国(摂津住吉)−奴国(因幡)−伊都国(出雲)ー末廬国(松江)
【北に進んで】一大国(隠岐の島)
【北に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島?)
【西に進んで】朝鮮半島沿岸を伝いながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【西に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら黄海側にある帯方郡
【帰り】
朝鮮半島の黄海側にある帯方郡から
【東に進んで】耽羅国(済州島)を南に見ながら弁韓の弁辰狗邪国(狗邪韓国)
【東に進んで】日本海(東海)上にある絶海の孤島の対海(トウカイ)国(鬱陵島)
【南に進んで】一大国(隠岐の島)
【南に進んで】末廬国(島根県の松江)
伊都国(出雲)ー奴国(因幡)ー不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)ー邪馬台国(奈良) >>721
嘘だと言うなら関川編年を支持してる学者を挙げてみろ >>681 つづき
綿津見大神(豊玉彦)の虐めから解放された建速須佐之男命は、母の住んでいる出雲と伯耆の堺近辺の「根之堅洲國」に行くまえに、姉の天照大神の元に立ち寄るが
天照大神は武装して、父の伊邪那岐神から筑紫城を追放された乱暴者の弟がやってきたとバリバリに警戒する。
しかしよくよく話を聞いてみると、綿津見大神(豊玉彦)志那都比古神の兄弟に、側女の子と虐められていただけだということがわかり、天照大神は建速須佐之男命を歓迎する。
生まれてはじめて居心地が良い環境で生活する建速須佐之男命は、手当たり次第に女性に手を出して
多紀理毘売命
多岐都比売命
市寸島比売命
天之忍穂耳命
天之菩卑能命
天津日子根命
活津日子根命
熊野久須毘命
の子が生まれ、呆れた天照大神の側近により建速須佐之男命は神逐されてしまう >>722
それいつの時代の航路書いてんだ?
どうやって海流に逆らって西に進むんだよ
帰りとやらも郡から東に進んで済州島南に見ながらだ?
その一行目から破綻してるだろがw >>723
ばかかてめぇは 批判してるやつが居ないのが証拠だろが
いちいち私は誰誰を支持してますなんて言うかよ >細かいことは言わないで。古代史はロマンですから
飲んだくれのたわ言ならまだしも、首長・マスコミ多数を集めて連邦旗揚げなどとはしゃぎ過ぎる、さすが筑豊! >>727
どうしようもないバカ
もし関川編年が他の考古学者に支持されてるなら、教科書等に記載される年代は関川編年と同じになるはず
ところが現実は関川編年とはかけ離れている
おまえが嘘をついたのは確定
失せろゴミ >>729
前と同じだなおまえは
そのかけ離れてるって部分出して見ろや
ほんとに見て来たような嘘を平気で書くよなおまえ >細かいことは言わないで。古代史はロマンですから
他人の忠告は小さく見える。そして自分の妄想は限りなく大ききく思える。
田川が邪馬台国だったなどと、どっかのイカサマ学者に載せられているのだぞ・・。 >>730
450 457 458
嘘つきは消えろ 中国の呉越から流れ着いた渡来人たちは北部九州に定住し、2世紀末頃から3世紀半ばにかけて女王を軸とした邪馬台国連合という女王国家をつくりました
3世紀頃、奈良盆地は邪馬台国連合と対立していた狗奴国連合の共同墓地でした
4世紀半ば頃、纒向の古墳造営局が破綻してしまったので、奈良盆地は再び過疎化しまいました
しばらくは空き地でしたが4世紀末頃、半島情勢の都合により多くの渡来人が若狭湾から入植してきました
しかしどこも倭人で満員だったので、人気の少ない奈良盆地の共同墓地周辺にに定住することになりました
渡来人たちは半島時代に培った統治ノウハウを活かし、ヤマト王権を爆誕させました
あとは記紀の通り >>24
家の中で嫁に尻叩かれて外では偉そうな振りをするのが
九州男児なイメージ ひめのみこと→ひみこ→卑弥呼
この時期北九州にいた仲哀天皇の嫁神功皇后が日本の代表だった 火(肥)の国の御子→ヒミコ→卑弥呼
かも知れんよ
豊の国の御子→トヨミコ→トヨ→臺与
いや苦しいかw >>732
遺跡ってなんの話?
建物的な話なら吉野が里遺跡の住居が魏志倭人伝に出てくる住居の特徴と合致するらしいし鏡なんかの出土品なら近畿より多い
古墳の話なら卑弥呼の墓は単純な円塚で前方後円墳ではないらしいからそれらしいものが見つかってないという意味では近畿も同じでは? >>737
当時の寿命が20〜30歳だった時代に100歳近くまで生きた人の話はいらないです >>740
畿内説の遺跡といえば、纒向古墳造営キャンプ場の事だろう >>724 つづき
建速須佐之男命が去ったあと、残された子たちは、天照大神が養子として迎え入れ
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命は、息子の五十猛と出雲から新羅に渡り曾尸茂梨(ソシモリ)に来る。しかし、建速須佐之男命は「この地に私は居たくない」船を作りこれに乗って東に渡り、
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸に上陸し、
櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智を退治
尾の中から出てきた大刀を天照御大神に献上し、
出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き宮を建てて留まった >>725
対馬海峡と違って海流の影響はほぼねーよ >>743 の、建速須佐之男命が新羅に行って帰ってきたという伝承が
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
考古学的事実として確認されたわけだ >>740
吉野ヶ里を出して九州説を唱えるなら、邪馬台国は吉野ヶ里だと主張しなければならない
倭人伝に合う宮室、楼観、城柵は吉野ヶ里だけど、邪馬台国は九州の他の場所と主張するのは論理的に誤り 訂正
>>743 の、建速須佐之男命が、奈良 ー 葦原中国(出雲)ー 新羅に行って帰ってきたという伝承が
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
考古学的事実として確認されたわけだ >>35
決してあなたの期待を裏切らない人達が沢山いますw >>746
馬鹿じゃないの?
女王国以北が女王に属する国
その中に吉野が里があったとしても不思議じゃないし、例え属してなくても住居建造の技術ぐらい伝わる >>750
馬鹿はおまえ
ただの空想であったと言ってるだけ
空想を根拠にしたら何でも言える >>751
じゃあお前はその土地それぞれの国がそれぞれの建築技術で住居を建ててたと、そう主張するのか >>753
そもそも環濠集落なんて日本中にある
おまえの理屈だと畿内にもある >>754
お前は何を言ってるんだ?
「九州に邪馬台国と所縁のありそうな遺跡はあるか?」の話をしてるんだから
「魏志倭人伝に登場する建造物と合致するものがある」と言ってるだけだぞ? >>752
そうなん?じゃあ大和朝廷は東征ではなく渡来系ってことなんかな?
畿内の遺跡みてると九州色が感じられんから有り得んこともない。 九州の人じゃないだろう
全く無関係の変な人たちだろw
九州はそういう連中相手に商売できるかと思ってこういう事やってるだけ
でも残念ながらそういう連中はネットとかで妄想披露するばかりで現地なんていきやしないから
吉野ヶ里とか一番たくさんの人が来たのはトラック市だからなw >>759
商売じゃないよ
会議にかこつけて飲みたいだけ 筑豊は遺跡も結構あるんだから変な前方後円墳もどきを推さずに、真っ当にやればいいのに >>735
渡来人は周の時代から渡来してきてた(弥生時代の開始)わけで
だからこそ中華王朝に朝貢しようという認識にもなった
57年頃には漢委奴国(イナ国)、107年頃には倭面土国(ヤマト国)が台頭し
倭国大乱は倭国王の座で揉めてるわけで、男王連合が7〜80年ばかし続いてるはず >>761
結局のところ九州に何もないからだよ
だから古墳も土器も自分たちのものだとか言い出すわけよw
まぁ自分達でもそれが致命的な部分だとわかってるという事だからある意味わかりやすい話だな >>758
俺は九州人だけどもし奈良に住んでても九州説を推したと思うよ
それだけ邪馬台国九州説は理にかなってるし畿内説は無茶苦茶なものだと思える
実際このスレにいる畿内派から出る説と言えば「ジンムテンノウガー」とか「ジングウコウゴウガー」とか存在すらあやふやな奴らの話しかせんし 当時の筑豊がどんな所か、まずそれを調査しないとね。
古代人は湿地帯になんか住まないから嘘をつくなよ、朝鮮人は。
古代人が好んで街を形成する場所は多くが三角州が形成される港湾型の地形だからね。
もちろん例外もありますが、生活用水を確保できて水はけもいい場所である事は絶対ですから。 いやいや
学問的見解からあまりにもかけ離れた俗説を公的にぶっ放すと世間に浸透してしまって
逆に本物の研究者を嘘呼ばわりするアフォが出て歴史研究にも支障が出るし
教科書や単なる歴史の教師まで巻き添えにされてマンドクセになるんだよな >>757
当時の奈良盆地と九州の文化がとても同じ民族とは思えないほど違うね >>768
この分野の学者がアホばかりだから仕方ない
学生の頃、考古学を専攻する人ってどんな奴だったか思い出してみそ 西日本一帯は一部を除いて全部、邪馬台国だった
これなら説明がつく > 「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者。
アッチ系かな、この人、気持ち悪いんだけど。 >>774
だからみんな会合にかこつけて飲みたいだけなんだって
お前ら田舎の町おこしおっさんの生態を知らん過ぎるわ >>774
でもこの人の言う事はある意味正しい
遺跡の場所に立って目を閉じ思いをはせる
確か、考古学のエロい教授が言ってたよ https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/maizobunkazai.pdf
遺跡の数で言えば福岡だと思う
集落数と弥生も多い
佐賀宮崎熊本も候補に挙げられる
中でも阿蘇山あっても多い熊本が邪馬台国に推せる
出雲は国譲りしてるから倭奴国に入ってると見れる 三国志の東夷伝に北魏の神元皇帝、日本の神功皇后などという文明人はいない。全て律令国家成立後の作り話。 畿内中心の銅鐸文明が饒速日と崇神のダブルパンチで滅んでるから
やっぱ東征の東遷やろな >>764
普通に考えて
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠したドサクサにまぎれて
『魏志倭人伝』
景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
奈良の邪馬台国が出雲の葦原中国から、対馬を使わず使者を出して親魏倭王になっちまったから
九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんが「潰せ」
息子たち「了解」で
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
『魏志倭人伝』
正始八年(247)、倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と、素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。 >>779
この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵食地形である
円じゃないしやや小さい古墳であっても卑弥呼の墓かどうか分からない
遺跡の数だと奈良は論外 ■魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・帯方郡から女王国までの総距離は12000里
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
つまり当時の1里=約75m
https://i.imgur.com/yLFScGN.png そもそも
57年 後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り
107年 生口160人を献じ、安帝に謁見した
天皇家の祖先の
日本の記紀では「筑紫城」は
後漢にとっては「倭奴國」だろうけど
220年 「後漢」が皇帝の座を禅譲して
238年 司馬懿が「公孫淵」を討ち果たし
楽浪郡と帯方郡を占拠した
「魏」にとっては
狗奴國だよ そもそも、
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した
天皇家の祖先の「筑紫城」は
後漢にとっては「倭奴國」漢委奴国王だろうけど
220年 「後漢」から皇帝の座を奪い取り
238年 司馬懿が「公孫淵」を討ち果たし
公孫氏から楽浪郡と帯方郡を取り戻した
「魏」にとっては
狗奴國だよ >>783
それはわかるけど、その岩を利用して形を整備して古墳を作ることはできるわけで。
この山の真南に藤原京とか造営されてるし。絶対目立つから当時でもランドマークになってたはずなんだよね。 とはいえ、「邪馬台国は畿内で決まり!」みたいな大宣伝が全然効果を発揮してなくてちょっと微笑ましいわな
ばかデカい前方後円墳モドキを卑弥呼の墓だと騒ぎたてるのは畿内説のパロディーかね >>774
学問や事実を捻じ曲げようとする圧力をかけるとかさえしないなら、
好きにすればいいんじゃね? >>787
古墳とは限らず
藤原京からの見た目がよくなるように「成形」しただけかもしれない >>784
あー、もしもその地図が正しいならば
狗邪韓国から対馬に渡るのはムリだわ
600年の遣隋使・遣唐使ですら
朝鮮半島の中国側の百濟から沖合いの竹島に出て
耽羅国(済州島)を南に見ながら海流に逆らわずに【東に進んで】都斯麻国(対馬)
だもの
狗邪韓国から船をだせば、海流に流されてたどり着くのは
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命が、
息子の五十猛と新羅に渡り
「この地に私は居たくない」と船を作りこれに乗って東に渡り
たどりついた
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江
だわ
https://i.imgur.com/yLFScGN.png >>791
倭人と金づちチョンを一緒くたにし過ぎだ
縄文時代は琉球まで行き来してた海洋民族だぞ >>764
神武、神功が年代だけ纏向遺跡発掘調査結果から修正し記紀通りとするなら、
むしろ九州説を補強する材料だと思うがな。 >>784
あー、もしもその地図が正しいならば
狗邪韓国から対馬に渡るのはムリだわ
600年代の遣隋使・遣唐使ですら
朝鮮半島の中国側の百濟から沖合いの竹島(日本海の竹島じゃ無いよ)に出て
耽羅国(済州島)を南に見ながら海流に逆らわずに【東に進んで】都斯麻国(対馬)
だもの
狗邪韓国から船をだせば、海流に流されてたどり着くのは
出雲から新羅に渡った
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛が
「この地に私は居たくない」と船を作りこれに乗って再び東に渡り
たどりついた
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江
だわ
https://i.imgur.com/yLFScGN.png >>790
耳成山は火山の火口というか溶岩が湧き出て出来た山だから形が整ってるんだよ >>792
600年代の遣隋使遣唐使のルートは
行きは
博多から船出して、海流に逆らわずに朝鮮半島の東側の新羅に漂着で、基本的に対馬は経由しない
帰りは
朝鮮半島の西側の百濟から船出して、海流に逆らわずに、耽羅国(済州島)を南に見ながら対馬に漂着 >>794
狗邪韓国も末廬国同様漁村の可能性が高いかもな。
当時対岸から大規模な農地の近くに船で上陸することは許されてなかったんじゃないかな。 そうか
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江に帰ってくる
曾尸茂梨が狗邪韓国なんだね >>791
600年遣隋使(日本側)の記録はない
隋からの使者は対馬から東だよ改竄するな基地外
>>786
相手が変わったところで中国と敵対してるわけじゃないから倭奴国と狗奴國は変わらない
逆に何度熊襲討伐されても生き残る狗奴国が何者なのか気になるわ で、>>799 のルートが
『魏志』倭人伝の
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国〜投馬国〜奈良
の日本海ルートなわけだ >>800
はいはい
600年代の遣隋使遣唐使のルートは
行きは
博多から船出して、海流に逆らわずに朝鮮半島の東側の新羅に漂着で、基本的に対馬は経由しない
帰りは
朝鮮半島の西側の百濟から船出して、海流に逆らわずに、耽羅国(済州島)を南に見ながら対馬に漂着
対馬の西側から船出して、海流に逆らわずに、壱岐に漂着 >>801
>奴国に至るまで百里東行して不彌国
この後はずっと南だから奈良はありえない
>女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり。
海を渡った千余里に国はないから女王国は奈良ではない 奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江に帰ってくる
曾尸茂梨が狗邪韓国なんだね
で、この建速須佐之男命が航海した対馬を経由しないルートが
『魏志』倭人伝の
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国〜投馬国〜奈良
の日本海ルートなわけだ >>803
末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)
全く問題ない
>女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり
東日本最古の「古墳時代前期(3世紀末 西暦200年代後半)の墨書土器」を展示 平成16年8月11日
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/contents/23140/23405/35347/035465.html
流山市立博物館で東日本最古の「墨書土器」が展示され、来館者から好評を博している。
今回展示している墨書土器は、財団法人千葉県文化財センターが発掘調査を実施した流山市西初石の「市野谷宮尻遺跡」で出土したもの。
これまで東日本で出土された墨書土器では、七世紀後半のものが最も古いとされていたが、この土器は、それより400年も古い、「古墳時代前期(3世紀末 西暦200年代後半)」のものと見られている。 流山の語源は
神武に東征されて流れてきた邪馬台国
だったりして >>804
>『魏志』倭人伝の
>帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国〜投馬国〜奈良 ←(笑)
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
帯方郡〜投馬国(半島南部)〜邪馬台国(北部九州) で12000里(水行30日+陸行1日)
女王国以北は「女王国の北部」と訳するのが正解
そして女王国=邪馬台国の南に狗奴国アリ >>780
天皇という名称自体後からつけてるのにアホか
神功皇后=卑弥呼は日本書紀にも書いてあるんだけどね >>797
狗邪韓国は、最初に海を渡って行く倭国の北限の地で、
次に海を渡って行くのが対馬だから、狗邪韓国=巨済島。
狗邪 kuja → keoje 巨済島※
※ 今の韓国朝鮮語では清音と濁音の区別が明確でないので
巨済をアルファベットでGeoje と書くが、語頭のGは、ほぼKの音。 神功皇后なんてどうみても350−400年ごろの人物なんだから
卑弥呼とは100年くらい時代がズレてるよ
せめてモモソとか言っとけばまだ >>805
対海国と一大国はどこ
千葉は北東で遠すぎ
随の使者ルートて
秦王国に至るであって女王国でも倭奴国でもないんだよな
奈良は素通りしてる変じゃね 纏向は4世紀半ばに消滅しており、隋の時代には存在していませんでした
■纏向消滅後の奈良
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>813
女王国の東、海を渡ること千余里
だから、関東さ
建速須佐之男命が出雲から新羅に渡ってから
曾尸茂梨(狗邪韓国)に行ったことを考えると
ふつうに
絶海の孤島の対海國 (鬱陵島)
一大国(隠岐)
だろうね >>788
5ちゃんねるが現実世界と乖離してる証拠 福岡だから民族的には韓国人の仲間なのかな
歴史は願望で作るものと思っているな
細かいことはケンチャナヨって…細かいことを分析すんのが学問なのに朝鮮民族には分からんのかな 邪馬台国はハワイにあったんだよ。地殻変動であんな遠くに行っちゃったけど。
アロハ―って卑弥呼が最初に言った言葉だよ。 >>817
科学的事実を知ろうともせず、また知っても認めないってまさに朝鮮民族だよな
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png こういうの馬鹿が勝手に宣言したら揉めるよね土地柄なのかな
元祖とか本家とか発祥の地とかいろんなところが言い出しそう 建速須佐之男命が出雲から新羅に渡ってから
曾尸茂梨(狗邪韓国)に行ったことを考えると
ふつうに
絶海の孤島の対海國 (鬱陵島)
一大国(隠岐)
だろうね
「鬱陵島」は建速須佐之男命に同行した五十猛(イソタケル)の名を冠した「磯竹島」だし
航海を司った海神族は
宗像氏の祖先の、出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、隠岐の島の吾田片隅(アタカタス) >>818
ハワイは少しずつ日本に近づいてるという話は日本人なら常識のはずだが? ID:E1hi770e0は我流の畿内説もどきだからスルー推奨 >>817
科学的事実を知ろうともせず、また知っても認めないってまさに朝鮮民族だよな
乾燥耳垢:渡来系
湿潤耳垢:縄文系(本来の日本人)
https://i.imgur.com/wPgk6Bx.png
参考)
DNA分析結果
韓国人のほぼ100%が乾燥耳垢
https://i.imgur.com/IbqopHU.png >>813
チクシ国「以東」はみな倭に付属している
だから >>823
九州説はロマンだから反論できなくなってスルー m9(^Д^)プギャーwww >>823
確かに
対海国=トウカイ国なんて聞いたことない
日本海を東海に変えたいあの民族なんじゃなかろうか まるで古墳文化が奈良起源であるかのように印象操作してる奴は逮捕するべきだよね
前方後(円)墳以前から、東日本の前方後(方)墳時代が存在していましたね。
鍵穴型の発祥は東日本であり、古墳文化は古くから居る倭人に共通した文化です。
https://i.imgur.com/49UBvoP.png >>829
はいはい
狗邪韓国から対馬に渡るのはムリですよ
tps://i.imgur.com/yLFScGN.png
600年代の遣隋使・遣唐使ですら
行きは
博多から船出して、海流に逆らわずに朝鮮半島の東側の新羅に漂着で、基本的に対馬は経由しない(できない)
帰りは
朝鮮半島の西側の百濟から船出して、海流に逆らわずに、耽羅国(済州島)を南に見ながら対馬に漂着
だもの
狗邪韓国から船をだせば、海流に流されてたどり着くのは
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛が出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨で船を作ってこれに乗って再び東に渡り
たどりついた
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江
だわ ID:E1hi770e0 おいもうあの見にくい地図は止めたのか
前回こてんぱんにやられたからさすがに出せんわなw
ちなみにお前の言う竹島ってどこだ? >>828が頭おかしいのは確かだけど、じゃあまともな説を出してくる畿内派がこのスレにいるかというといないんよな
邪馬台国は畿内だというちゃんとした根拠があるなら是非聞いてみたいんだが 奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江に帰ってくる
【曾尸茂梨が狗邪韓国で、末廬国〜伊都国〜奴国が出雲(葦原中国)】
「鬱陵島」は建速須佐之男命に同行した五十猛(イソタケル)の名を冠した「磯竹島」だから【絶海の孤島の対海國 は鬱陵島】
宗像氏の祖先は、出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、隠岐の島の吾田片隅(アタカタス)だから【一大国は隠岐の島】
この建速須佐之男命が航海した対馬を経由しないルートが
『魏志』倭人伝の
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国〜投馬国〜奈良
の日本海ルートなわけだ もう豚骨ラーメンとか、唐揚げとか、辛子蓮根vs赤福餅、お好み焼き、素麺伝説の闘いみたいなw
異論は認めないと言うつもりはないけど、いい加減疲れたw 隋書
>また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
秦王国より東に倭国があったら十余国で済まさないよね
完全に奈良無視
秦王国より西が倭国か
都は邪馬台国で阿蘇山があるところ
熊本は倭国から外れたのか
隋使者で対馬通ってるから通れないと言ってる基地外は無視 >>842
鋼鉄さんがνガンダムに乗ったふりする映画が公開してしまうんだぜ?w 卑弥呼の墓は祇園山古墳で、
祇園山古墳のある高良山の
高良大社の始祖が丹波家であるから、
丹波氏の姫、倭姫命が
邪馬台国の卑弥呼で間違いないだろう。 >>831
対を『トウ』と読む根拠はあるの?
『タイ』or『ツイ』or『ツ』ならわかる
トウと読む例は見たことがない 倭姫命は伊勢神宮を開いた巫女であるが、
伊勢神宮は丹後の元伊勢籠神社にあった様で、
丹波氏が丹波を拠点として、
畿内に入って行った事と一致する。 倭の姫巫女の歳の離れた甥が日本武尊であり、
コレが卑弥呼の歳の離れた弟で間違いないだろう。
古事記によると、日本武尊が出雲を征服したと書かれており、
コレが丹波氏の日本海を通じた畿内への進出と合致する。 日本武尊が出雲を征服する際、
飾りは豪華だが、刃のない刀を送って、
油断させて攻め滅ぼしたと書かれている。
この刀が、荒神谷遺跡の大量の☓の印された銅剣であり、
銅剣の産地は北部九州で間違いないので、
武器として使えない銅剣が北部九州より送られた考古学的事実であり、
日本武尊が北部九州の武将であったことが分かる。 >>824
一重で蒙古襞(もうこひだ)と、
耳たぶ無い方が朝鮮系の確率高くない? >>855
外観ってあんまり関係ないんだよ
弥生人と縄文人の違いってNHKの捏造だったって有名な話を知らないの? また、丹後天橋立には8人の天女が絹織物を伝えた伝説がある。
8人の天女=八女である。
八女が絹織物の先進地だった時代は
弥生時代であり、ソレが丹後に伝わったのが、
古墳時代前記と考えられ、
八女から丹後に絹織物が伝わった伝承が
残っていると言えるのである。 邪馬台国と狗奴国との戦いは、
日本武尊の熊襲征伐に比定されると考えられる。
倭の姫命から絹織物と酒を貰って、
宴会を開いて熊襲をブッ殺したアレだ。
絹織物と酒は、八女の特産物である。
八女の特産物を使って、狗奴国を攻略した、
コレが邪馬台国と狗奴国の戦いの顛末である。 >>857
伝承なんかこのスレに書いて何がしたいの
そんなの書いても邪馬台国の解明には繋がらないのに
ただ「自分はこんなこと知ってますよー凄いでしょー」って言いたいだけ? >>860
随分と無知なんだなw
お前人間初心者か?w 一方、邪馬台国の長官副長官は、
伊支馬、彌馬升である。
伊支馬は生目=垂仁天皇であり、
彌馬升は御馬城=崇神天皇である。
生目は宮崎県の生目で、古墳群もある。
日向系天皇家が、卑弥呼の時代に、
未だ北部九州の邪馬台国の被官であったことが分かる。 筑豊にあったのは「投馬国」
戸畑の地名として残っている 最早、邪馬台国に謎は無い。
この私によって解明された。
邪馬台国がどこで、卑弥呼が誰で、
卑弥呼の墓が何処か分からない
と言うのは、ただの情弱でしかない。
弥生後期の事象をインプットして、
分析すれば、自ずと結論は導き出される。 >>864
垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」イクメ・イリビコイサチノミコト
皇后「氷羽州比賣命」ヒバス・ヒメノミコト
皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」ミカハシ・ビメノミコト
皇妃「沼羽田入毘賣命」ヌバタノ・イリビメノミコト
の、纒向珠城宮 第11代垂仁天皇一族が
・・官有 伊支馬(いきま)
・・次曰 彌馬升(みます)
・・次曰 彌馬獲支(みまかし)
・・次曰 奴佳醍(ぬはだい)
と、ひとりならまだしも4人とも
266年に邪馬台国の壱与が遣使を派遣した
西晋(265年 - 316年)が書いた『魏志』(倭人伝を含む)に【言い伝えではなく実録】で、女王の官として列記されとる
この事実から
卑弥呼が女王となり親魏倭王になる、何代も前から畿内に邪馬台国は存在し、
天皇一族は実務を担う総理大臣のような役人だったことがわかる 畿内説は、投馬国すら何処か分からないと嘯くが、
投馬国ほど分かりやすい国は無いだろう。
投馬=妻、都間であり、
長官副長官の彌彌、彌彌那利は、
美々津耳川の豪族である。
何故ここが投馬国でないのか、
むしろ理論的に説明出来ないのは、
畿内説の方だろう? 高楼や城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している女王の住んでいる所が【皇居】で
女王の官である第11代垂仁天皇一族が住んでいる纒向珠城宮が【総理官邸】
ってところかな 狗耶韓国=金官伽耶
対馬国=対馬
一大国=壱岐
末盧国=松浦
伊都国=糸島、怡土郡
奴国=那珂、那の津
不弥国=宇美
投馬国=妻、都間
狗奴国=隈、球磨
である。
これらの地域ではない所が邪馬台国であり、
すなわち山門八女〜豊の国の範囲である。 >>872
あきらめろん
600年代の遣隋使・遣唐使ですら
行きは
博多から船出して、海流に逆らわずに朝鮮半島の東側の新羅に漂着で、基本的に対馬は経由しない(できない)
帰りは
朝鮮半島の西側の百濟から船出して、海流に逆らわずに、耽羅国(済州島)を南に見ながら対馬に漂着
対馬の西側から船出して、海流に逆らわずに、壱岐に漂着
なんだから
狗邪韓国から対馬に渡るのはムリです また、邪馬台国の南方4000里(300キロ前後)に、
小人の島、侏儒国がある。
山門八女の300キロ南方に、
弥生後期の成人小人の集団墓地のある
種子島の広田遺跡が見つかっており、
侏儒国=種子島も確定している歴史の事実である。 狗邪韓国から船をだせば、海流に流されてたどり着くのは
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛が、曾尸茂梨で船を作って東に渡りたどりついた
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江
です
tps://i.imgur.com/yLFScGN.png >>865
で、対を『トゥ』と読む例は他にあるの? もし邪馬台国が九州にあったら、
それは邪馬台国とは呼べない。 ちょっと前までは、
金印がなぜどうして志賀島から出たのか、
サッパリ分からないとか言っていたのが
考古学会だ。
しかし、この私が
「奴国を構成している民族は安積族であり、
安曇族は志賀島の志賀海神社に、
祖先の神を祀っているので、
奴国=安曇族に渡された金印が、
志賀島から出土するのは歴史の必然である」
と、ズバビシッと言い切ったので、
ソレが歴史の事実として解明されたのである。 存在するかわからんもんの争奪戦でわろた。
観光地にしたいもんな。あわよくば世界遺産狙うし >>876
「対海」を今の中国語で発音すると「トゥイハイ」
当時の中国の発音に近い、呉音や漢音と呼ばれる発音だと「タイカイ」 あらら、ここに書いてあることとかなり違いますな なんででしょ
https://imgur.com/zlW2WXF.jpg 世界遺産w
皮算用過ぎるけどやりそうだな
卑弥呼まんじゅうとか売るか いや細かいこと言えよ
古代史はロマンて人文科学じゃないのか >>880
『トゥイ』の『イ』は無視しました
当時は『タイ』です
ダメじゃんw 難しい事ではないね
魏志倭人伝の行程はつぎはぎだよ
■中国に残っていた記録を転写した部分
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人に確認したときの中国側の記録
帯方郡〜投馬国(半島南部)〜邪馬台国(北部九州) で12000里(水行30日+陸行1日)
■考えられること
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は「里」を知らず「日」を使っていた(隋書倭国伝に記載あり) 巨大450メートルの前方後円墳に見える地形!これは間違いない国中不服の男王の墓。 ちっちゃいことは気にすんな
それワカチコワカチコー 古代出雲の出雲国に含まれる島根県松江市の弥生時代の遺跡から
弥生時代前期末(紀元前200年)〜中期後半(紀元前1年)の三重の環濠が出土したり
朝鮮半島の北部のすずりと判明した弥生後期(西暦100年前半)の石板が出土したり
古代出雲の伯耆国に含まれる鳥取県倉吉市の
弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土する
のも当然だわな >>885
『マツウラ』の『ラ』を無視するのは良いの? >>858
>邪馬台国と狗奴国との戦いは、
>日本武尊の熊襲征伐に比定されると考えられる。
日本武尊は景行天皇の時代だから、卑弥呼より100余年くらいのちのことだな。時代遅れ・・、 >>885
『マツウラ』を『マツロ』のほうがもっとダメやね(笑) 対馬航路についてはダンマリかw ま、別に聞いても意味ねぇからいいが >>868
景行天皇は筑紫からずっと九州にいたので墓が奈良にあっても
邪馬台国は九州ですね
狗邪韓国と南北と行き来きができて1000里と本土まで1000里と
同じぐらいの距離になるのは対馬しかない
ガキみたい駄々こねるなよ
遣隋使も対馬を通ってるから嘘はあかん 狗邪韓国から船をだせば、海流に流されてたどり着くのは
奈良盆地(高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛が、曾尸茂梨で船を作って東に渡りたどりついた
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸か松江
です
tps://i.imgur.com/yLFScGN.png
古代出雲の出雲国に含まれる島根県松江市の、弥生時代の遺跡から
弥生時代前期末(紀元前200年)〜中期後半(紀元前1年)の三重の環濠が出土したり
朝鮮半島の北部のすずりと判明した弥生後期(西暦100年前半)の石板が出土したり
古代出雲の伯耆国に含まれる鳥取県倉吉市の、弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、
朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土する
のも当然だわな 細かいことは言わないで、どでかいことで大失敗するチクホー 魏志倭人伝に出てくる国々の名前から
昔福岡県にあった山門郡のあたりにあったと思う
行程を文字通りに受け取るとどこであっても矛盾するよね >>894
はいはい
遣隋使も対馬から釜山には渡れません あれ?誰かさんは対馬海流以外はたいしたことないとほざいてたんだけどな >>885
そもそも当時の発音を無視して現在の発音を参考にするのは意味がない ■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
つまり当時の1里=約75m 「卑弥呼連邦」樹立、8市町村が宣言
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
なぬ、8市町村の首長が宣言とな、ソリャ卑弥呼連邦じゃなくて 八岐ノ大蛇連邦 だろう >>90
このころそれほどまでに国を二分し、被征服民が奴隷扱いされるほど激しい対立があったのか。もしかして言語も習慣も人種までも違っていたとか。 >>882で遣隋使6回まで壱岐対馬使ってると書いてあっても無視w >>836
畿内説は通説なんだから根拠を知りたければ自分で調べろ
自分の無知を棚に上げて難癖つけるな これはあながち嘘とも言えんな
筑豊は独特の雰囲気があるから 赤村と言えば西川峰子先生の出身地ではないか
卑弥呼の化身か
ついでに筑豊は井上陽水の出身地 筑豊といえば宗像大社の近くだっけ
沖ノ島には大陸からの宝物がたくさん埋まっている
筑豊に大陸の先進文化が伝わって巨大な権力が誕生したとしても不思議ではない
生活のために働くの ご苦労さんです 頑張ってね 遣隋使も対馬から釜山には渡れません
青が大和政権の遣隋使遣唐使 赤が邪馬台国の遣魏使
http://iup.2ch-library.com/i/i020992266215874611226.jpg
絶海の孤島の対海国は「見島」で
一大国は「隠岐の島」か >>914
狗邪韓国や鬱陵島から隠岐は見えないんじゃないか? 220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠したドサクサにまぎれて
『魏志倭人伝』
景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
奈良の邪馬台国が出雲の葦原中国から、対馬を使わず使者を出して親魏倭王になっちまったから
九州筑紫城の漢委奴国王の父ちゃんが「潰せ」
息子たち「了解」で
『古事記』
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
『魏志倭人伝』
正始八年(247)、倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と、素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
だけど、
援軍を送ってくれと、畿内の邪馬台国が『魏』に頼んだって
赤ルートじゃ、軍なんか派兵できんわなぁ 渡れないとか考えたこともなかったけど、調べてる人もいるんだね
こんなことが書いてる
対馬海流をよく見ますと、なかなか海峡を渡れそうにない時期と、逆に邪魔したくなるほど簡単に対馬海峡横断ができる潮流を発生する時期があります。
魏志倭人伝を読むのに、レーダーを持ち出すのはちょっと大げさだったかも知れませんが、高度な帆船の航海技術を熟知していなくでも、潮位と海流の関係を知っていれば手漕ぎの船はおろか筏(いかだ)でも十分対馬海峡を渡海可能なことがよくわかります。海面の変化をよく観察し、何時なら目的地に航海できるのかを知る航海技術を『潮待ち』といいます。海面の水位の変化を見ながら出航のチャンスを待つ事で、風と違い潮位による海流の変化は常にワンパターンに繰り返されることも特徴です。潮位の変化は引力がおこすもので、例外が存在しません。 57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、漢委奴国王になった
天皇家の祖先の、九州「筑紫城」【倭奴國】は青ルートだったから、
107年に生口を160人も連れていくことが出来たけど
238年に魏に難升米等を派遣して、親魏倭王になった
畿内の邪馬台国は、赤ルートだったから、
そりゃあ生口10人とか、生口30人とかしか連れて行けないわなぁ
http://iup.2ch-library.com/i/i020992266215874611226.jpg 畿内の邪馬台国は、赤ルートだったから、
そりゃあ
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、漢委奴国王になった
天皇家の祖先の、九州「筑紫城」【倭奴國】の青ルートを潰してくれないかぎり
中国の皇帝に朝貢なんかできないわなぁ
http://iup.2ch-library.com/i/i020992266215874611226.jpg 畿内の邪馬台国は、赤ルートは
宗像氏の祖先の、出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、隠岐の島の吾田片隅(アタカタス)
天皇家の祖先の、九州「筑紫城」【倭奴國】の青ルートは
九州 【倭奴国】筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)が祖先の阿曇氏
http://iup.2ch-library.com/i/i020992266215874611226.jpg 畿内の邪馬台国(天皇)赤
と九州の邪馬台国(卑弥呼)青
なるほどね。 >>917
リマン海流があるので狗邪韓国から対馬に着くと思う
渡れないの意味が分からない
まず隠岐の島では南と北に1000里ずつにはならない
沿岸部に沿って細かく島から島に行けば海流の影響は少ない
対馬から壱岐の本土間の海流は弱いから
遣魏使は山形あたりから出てるて話ですけど
記録的なものがありませんが
その出たところが邪馬台国になるとは限らないしな >>924
可哀想に
統合失調症は現実を突き付けられると、現実逃避しちゃうのね >>925
対馬から釜山ならまだしも
実際に、遣唐使では、正規航路から外れてしまって、博多ー対馬ー釜山で渡ったことがあるらしい
釜山から対馬なんて、絶対にムリ >>928
じゃ対馬通って釜山に渡ってるじゃん
対馬海流の流れからすれば釜山から対馬の方が容易いと思う
頭おかしいんじゃない議論にならないよ そいつ毎度出てくる海流無視野郎だから
何言っても無駄だよ そもそも邪馬台国が日本で覇権を握っていたかが怪しい。ただの一地方の小国に過ぎないのでわ。
当時の日本を代表するような強国は他にあったはず。 >>929
対馬海流の流れからすれば釜山から対馬の方が容易いと思う??
頭おかしいんじゃない議論にならないよ >>932
リマン海流は北〜南
対馬海流は西〜東〜北上なので
釜山から対馬は対馬海流の流れに乗れば着きますよ
対馬から釜山は逆行することになるので難しい
帆船ならば風の力使うから問題ないかもしれないけど
遣魏使は山形から北上するんですよ
ただ時間がかかりすぎて危ない本当かどうか分かりませんね
妊婦の神功天皇だし
何よりも文章の条件に全く合わないのが畿内説てのは分かる だいたい、元寇でモンゴル軍はどこに攻めてきた?
対馬から九州北岸だぞ
神功皇后はどこから朝鮮半島へ攻めた?
九州北岸からだぞ
理由は簡単だ
目的地を目視できるからだ
海流は漕ぎ手を増やせば乗り越えられるが、見えない目的地に向けて航海するには高度な測量技術が要る
朝鮮半島から隠岐なんて遭難した時に運良く流れ着く場所だ
下手をすると越前あたりまで流される >>936
正しい
バカが渤海使なんて引っ張ってきたから教えてやろうかと思たが無駄だから
止めとくわ、8世紀から10世紀の渤海使でも海流をうまく使わないと
辿り着けない 200年ほどで34回?程度しか日本に着いてないから
相当海の藻屑になったやろね
https://imgur.com/09oVwTd.jpg >>931
覇権など握っていないよ。
共立されただけだよ。
本来、男王。 >>17
いや邪馬台国はアメリカで末裔がトランプだよ 日本が「日本」になったのは6、7世紀ぐらいだから
歴史的にはそんな古くない
邪馬台国は卑弥呼を親魏倭王として正式に外国から王様として格付けされたことで
当時の倭国の中でいちばん権力を有していた国 >>941
その発想は中国の王侯の立ち位置をわかってない。
ってか、大抵の日本人は王の意味を過大に誤解しすぎている。
中国で一番偉いのは皇帝
皇帝が各地の人間に爵位を叙勲する。
魏の爵制は王、公、侯、伯、子、男、県侯、郷侯、関内侯の九等級
卑弥呼がもらったのは郡王の爵位に相当するもので、これで卑弥呼は魏の外臣になったことになる。
魏から公式に王の爵位を与えられたのが卑弥呼
これは権力者ではなく、権威者と考えるのが妥当。
魏から与えられた権威で権力を掴めたかどうかと言えば、親魏倭王に叙せられてからも狗奴国と戦争してたりするので
実は魏の権威は当時の倭国では通用してなかったということになる。
親魏倭王には、権威も権力もあんまりなかったのよ。
日本人の感覚で王を捉えるのが違うというのは、こういう意味。
同様に筑紫君の意味も君主って意味じゃないんだけど、それはまた別の機会に。
神功皇后の三韓征伐は呼子を出発して壱岐-対馬-釜山帰りも同じルートで帰って来た
昼間に渡海する場合は目視出来るから多少の潮流は乗り切れる
夜は潮まかせになるしかないから渤海船は東北まで流される事が多かった 食糧、水等の補給、避難地を考えればわかる。
帆船でも時期を見て出航だろ。 福岡の恥だから止めてくれ。
マジで筑豊はDQNの巣窟ってイメージだったが大人までDQNなんだな。 >>1
東日本の幾つもの有名温泉地が史料的な裏付けもなく
「開湯1300年」みたいに宣伝してるのと一緒だよ
西日本の温泉地が『日本書紀』や『万葉集』や風土記等を根拠に
「開湯1300年」みたいに温泉地を宣伝しているのは問題ないけど
東日本の温泉地みたいに史料なしに伝説だけが根拠ってのは…() >>947
土木工事で偶然できた地形を、墓でもないのに勝手に古墳だと決めつけて卑弥呼の墓扱いしてるのと
伝承でも残ってるものを根拠にしている温泉地を、同列には扱ってあげるなよ。 >>1
邪馬台国は北九州にあったのは間違いない
卑弥呼自身、韓国からの渡来人で、渡来しやすい地域に文明を築いたというのがその背景
この人たちは、卑弥呼が渡来人である事をことを根拠に、もっと自信を持って主張して良い 別に卑弥呼渡来人でもいいけどさ
友好的だし
逆に秦氏がついてた神功天皇の血筋が嫌だ
ヤマトタケルの太刀騙し討ちとか日本人精神違うわ
遺伝子的には東北は縄文多くて近畿奈良は縄文少ないて話なのに
なんかあてにならないよね >>946
日本人は韓国人の子孫で、卑弥呼自身、韓国からの渡来人だという背景がある以上、北九州説はかなりの信頼性を持っていると考えていい。 >>950
北九州じゃないわ。
マジレスすると邪馬台国は朝廷を騙った熊本の豪族って説が一番信憑性が高いと思う。 >>920
>対馬海流をよく見ますと、なかなか海峡を渡れそうにない時期と、逆に簡単に対馬海峡横断ができる潮流を発生する時期があります。
九州大学の観潮レーダーを使った研究で、月の引力・大潮・小潮・離巌流を利用して、まこと簡単に渡れる時期があるとわかっている。
それは、旧暦の6月と12月で、基本的に各島間は1日で渡れるという。
事実倭人伝の朝貢記録にも、○○年12月と○○年6月が出てくる。
これは渡海の好機を反映したもので、読む人が読めば対馬海峡の潮時が分かる貴重な記事なのだそうだ。 ・・素人の安っぽい説に騙されるなよ。 >>953
韓国人の血は残ってないみたいよ
中国が滅ぼしたて書いてた
築紫より西佐賀熊本鹿児島長崎が邪馬台国だと思う
何度も乱があったから相当強い
神功天皇に討たれた田油津姫系が卑弥呼 田川文化センターの講演会も卑弥呼の出番がなかったようだな。
記念講演には、吉野ケ里遺跡の発掘を指揮した考古学者の高島忠平氏ら3人が登壇したものの。
高島氏が「遠賀川中流域は古代、海が深く進入した入り江で、北部九州にあった邪馬台国の交通、交易の結節点だった」と述べるにとどまったようだ。 もうめんどくさいから北海道にあったということにしよう(鼻ホジ) 詳しいことは、ビッグコミックオリジナルに描かれてるから参考にするといいよ。 >>953
倭人は先祖は太白(呉)からやってきたと言っていた事が
中国の記録に残ってるぞ たかだか3世紀のことがそんなにわからんもんなんかねえ
トロイなんてそれよりはるかに昔のことなのに 畿内で卑弥呼の時代に中国から貰った鏡とか多くの証拠が見つかってるので
邪馬台国は大和国というのが歴史学や考古学での定説 学問では九州説はとっくに否定されてる
けど九州説の本を売りたい朝鮮人団体がいまだに邪馬台国の位置は謎だと言ってるだけ >>961
あくまで倭人伝や後漢書隋書日本書記を元にすると邪馬台国は九州てことでえいやん
天皇は築紫に居たし神功天皇も築紫で子供産んでるから
遺跡古墳集落の数からも九州
日本海の往来があったとしても僅かだろう
相当大きな船じゃないと遭難する
自分的には日本に友好的は渡来人はok >>963
多すぎだよ。
動かせるもんだからね。
中央集権に集まるのは当然の事。
九州から運んできてコピー。 >>965
畿内なら畿内でいいんだけど
それをベースに当時の日本の状況をはっきりさせりゃあいいのに
結局邪馬台国が畿内だったら
イコール大和朝廷としか考えられないとおもうが
それはそれでごにょごにょしとるやろ? 卑弥呼、台与の遺体、一族は、奈良に移動。
魏志倭人伝道理の墓は、発見されない。
殉教者のみで主人がいない状態で発見されるかも? 邪馬台国が畿内だったとしての
その後の話が全然進まないからな
九州説だったら、畿内で興った大和が西に勢力拡大させたですんなり行くんだけど
邪馬台国が畿内だったら既に西日本をほとんど勢力下におさめてるわけだし
それ以外の記紀のエピソードもほとんど意味がわからんことになりそうなんよねえ 崇神天皇陵、天理市柳本町の行灯山古墳に
移動だろ。 >>967
九州から畿内に運ぶ理由が不明
邪馬台国は魏に四回は使者を出した事が記録になるので多すぎるという事はない >>968
別ににごにょごにょしてないが?
邪馬台国が大和国で大和朝廷の祖で何の問題もないけど >>970
畿内に邪馬台国が成立する前に九州から移動してきたんだろ
日本書紀には初代天皇の神武天皇が東に向かって国々を征服した話が書いてあるし
後漢書や魏志倭人伝にも西暦180年頃に倭国で大乱があった事が書いてる
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年つまり239年のことなので
それ以前の180年に九州から神武天皇が畿内にやってきて
邪馬台国つまり大和国を建国したというのが日中両方の資料からわかる事 >>975
だから西日本を征服した後の話をしてるんじゃん
もっかい西に向かって征服しなおすってことになってないか? 景行の時代に中国九州を征伐してるんだよなあ
神武が東征したはずなのにおかしいなあ 宮下文書
https://youtu.be/ViXfzCU-4Mg
日本先祖は中央アジアユーラシア大陸から
もっと昔に富士王朝あり
都は九州高千穂に神都
朝廷天皇に逆らう土蜘蛛は各地にいたが
神都九州にいたのが卑弥呼てことかな
神功天皇の後か同時期に神武天皇になってるような
誰か日本書記と宮下文書まとめてくれ 記紀の仲哀・神功皇后記は、ちょうど卑弥呼〜臺与の年代に合わせてあるが
実は、2運(120年)だけ繰り上げてあった。
それを元の年代の4世紀後半に戻すと、
糸島に五十途手という県主が居て天皇から伊蘇志(怡土氏)の名をもらったが、それが卑弥呼と同時代であり、伊ト国の根拠である・・、
という、糸島・伊都国説の記紀的論拠も、全て4世紀後半に繰り下げとなり消えてなくなる。
つまり江戸時代以降の糸島・伊都国、博多・奴国説は、鉄板でもブリキでもなく、ただの空耳、空目、空アタマだったのだ。 >>817
韓国における歴史とは何か。
日韓歴史共同研究に参加していた日本人の学者によれば、日本側から歴史の事実を指摘し、韓国側の考えを問うたところ、「あなたは韓国を愛していないのか」という反応があったという。
その学者によれば、韓国における歴史研究は、歴史の事実を積み上げて、真実を追求するのではなく、そもそも期待する歴史認識が前提にあり、それを何とか説明するために、断片的な歴史の事実を探し求めることであるという。 >>984
単に邪馬台国は歴史扱いされてないってことやろ
もはやファンタジー >>983
もとからイトの国のイトテだったのを後からストーリーでっちあげてこじつけただけじゃね >>977
それはクマソの事だろ
九州南部には邪馬台国と普段から争っていた狗邪国
つまりクマソがいた事は魏志倭人伝にも書いてあって常識 >>988
倭の五王の時代には西に66国平定してるし
近畿ヤマトは普通に九州攻め取ってるねえ…… 景行の時代の北部九州は畿内大和の勢力下やと思うで。
熊襲はまだ対立してたが。 >>983
それは何に書いてるの
違いをまとめて
中国と宮下文書と日本書記に出てくる都が九州だよ
貿易国防に働いた民族が九州邪馬台国でいいじゃん
和平にはたらく渡来人なら全然ok >>989
神武天皇が西暦180年ごろ九州から畿内に向かったことも
日中両方の資料に書いてるねえ >>987
もしそうであるなら、記紀には「伊都国の五十途手」が伊蘇志の名を賜ったと書かれたはずであるが、縣主であったとなっている。
つまりそれは、キミの想像であって、何らの根拠も伴っていない。 >>990
まだら模様だろね
筑紫国になったあたりは簡単に近畿の勢力化に入ってると思うが
熊本あたりは抵抗勢力が結構残ってそう >>994
天皇すげえ物語のエピソードを鵜呑みにはできませんって
なろう小説読んでるようなもんだよ 神武天皇の話は九州から始まり東に行ってるから神功天皇の後なら合ってくるね
東が弱ってきてから統治始めたんだろう
秦氏がついたから九州はお役御免てことになった 文字すらなかった時代の話を300年以上も後に書き記した日本書紀の話なんか何も信用ならない このスレッドは1000を超えました。
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