【社会】足利義満を描いたとみられる新たな肖像画を発見 東京都内の男性が古美術商から購入 [凜★]
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NHK(2020年12月22日 6時41分)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201222/k10012776841000.html
室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。
見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。
東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。
義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。
史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
中世に描かれた将軍の肖像画が新たに見つかることは非常に珍しく、足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されていないということです。
東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は「義満という有名な人物の新しい肖像画が出てきたということは非常に驚きだ。権力者として最高潮だった時の姿を描いていて、この肖像画から新しい義満像を読み取ることができるのではないか」と指摘しています。
(以下省略)
https://i.imgur.com/fHyY8AY.jpg 一休さんに出てくる将軍さまをベースにしたんやろな。 >>3
お前の中では「捕らえてみせる」んじゃなくて「捕らえて見せる」のかwwwww >義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
笑わせるな 話はそれるが義満って中国の属国の証明の金印をもらったんやろ。
売国奴の走りみたいなもんやん。 〉義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
偽物? 読売に古文書の連載枠があって面白い
いつネタ切れするんだと思うくらい新資料がぞろぞろ出てくる国 千鳥の大悟みたいだな
今年3月に発見された出っ歯の松永久秀の肖像画よりはマシだな >>11
中国って二千年の昔から列島とは比べものにならない先進国で超大国だったのよ
だから世界にあまたある国の中で一番中国の模倣をしてきたのが日本なのよ
古代は当たり前のように中国に朝貢してたのよ
今の基準で過去を見るなよ >>2
チョンは歴史がないじゃん文化も
奴隷民族だから >>16
マメに日記とか付けてた人たちが
聖職者しか読み書き出来ない(しかも異端視されないように内容制限付き)キリスト教圏より多かったのか 150年も経って肖像画描けるの
今から慶喜の肖像画が描くみたいなものじゃん 死後150年も経ってるのに肖像画など書けるか!
想像画だろ! ひな人形みたく、昔の目が細い顔よりも、今風に目を大きくして書いたんじゃなかろうか。 >>1
本人が死んで150年も経ってから
どこかの馬の骨が想像で描いた落書きに
何の価値があるんだ?
ゲームで美少女化された戦国武将と何が違うのか 割とすごい人なのに
一休さんのアニメだとバカ殿風味なの可哀想 現在、死後450年後くらいに俺が描けば、お宝になるか まぁ、1555年頃には義満デブハゲヒゲ説が定説だった証拠として
価値があるんじゃない? >>12
前近代の日本では、肖像画は没後に供養の対象として描くもの。 >>16
磯田が連載してるやつか?あれ面白いよな
先週の記事でも東大寺大仏殿焼討に関する新史料を磯田が古書店から発見して
それには松永軍による放火と記述があり被害者の東大寺側は松永軍のせいだと記録に残してるんだよな
近年松永久秀の研究が進んで大仏殿焼討も三好三人衆がやったことと言われることが多くなってきたから興味深い史料だな こんな阿呆なコメント出すやつでも准教授
気楽な商売だな
死後150年という同定自体義満であってほしいという妄想に過ぎないし
仮にそうだとしても時代を遥かに隔てて想像で描いた画について
>この肖像画から新しい義満像を読み取ることができるのではないか
とか正気じゃない 150回忌法要用に作ったんじゃないかと言ってたよ
想像で書いたわけでもなく、なにか元となる絵を参考にしているともね
義満、どの絵でも似ているからね。 >>11
あれも財政難で卑弥呼の金印みたいに溶かされ使われちゃった
真品と伝わるものでも子孫が似てないっての言われて腹をたててというか
んなもん二分の一の確率が続いていけばそうだろうに
相続では死活問題になってたり逆に似すぎてると暗殺おそれてかきたしたりするからね >>11
卑弥呼の時代も聖徳太子の時代もずっと属国なのよ
中国と国交を持つ=属国になる、ということだったの
中国と周辺の国の関係ってそういうシステムが当たり前だよね、くらいの力関係だったわけ
ちなみに義満の前に南朝も中国に朝貢してる、つまり属国になってるのよ
昭和20年に日本は中国にも無条件降伏したけど、そっちの方がはるかに日本史上異常で恥なの >>48
室町時代(戦国除く)が人気がない。
右翼がごちゃごちゃうるさい。
という事情もあるんだろうけど、
クライマックスをどう持ってくか、
難しいってのもあるかな…(;´・ω・) >>24
ほとんどくだらねーツイートやチラ裏だがな
たまに蟹座の方角に新しい星が現れたなんて天文学的に貴重な資料もあるけど 足利義満は、大内、山名、土岐などの有力守護大名の力を削減し、南北朝の統合を果たし、朝廷を差し措いて、北山の山荘を公宮として明國施設をもてなしました >>58
家臣を抑圧し続けた挙句に、
家臣に殺されていては、世話がないわ。(´・ω・`) 鎌倉、室町、江戸、どの幕府も二代目より三代目の方が辣腕を振るうのは面白い イメージと違うと思ったら死んでから150年後に書かれたんだ
新しい義満像なんかわかるわけない >>70
鎌倉の実朝は、辣腕を振るったのか…?
京都かぶれなのが、ある意味で異色ではあったが。 1550年って言うと戦国時代の真っただ中だろ
そんな時代に、足利義満の肖像画なんて需要があったんだろうか?
絵師の修行で肖像画の練習があって、義満像っていうプロトタイプを描いただけのような
どこかの無名の坊主とかをモデルに使ってるのかも知らんが 実際に会ったら失笑しそうな将軍だ・・・タイムトラベルはやめておこう >>29
割とすごいって、そりゃ将軍だからなw
割とすごいといえば、新右衛門さんが寺社奉行というものすごい高官だってところ >>73
13代将軍足利義輝が幕府の権威を取り戻そうとしてた頃だな
(´・ω・`) >>73
義輝が少年将軍をやってる頃ということになる。
最盛期を思い起こしながら、
足利再興を念じて、義満像を描かせたと見ることもできる。(´・ω・`) >>1
衣装変えればキリスト教の絵に変換出来そうw w >>76
後小松天皇の子である一休さんの監視役でもあるんだから、身分の高い人じゃないと務まらないだろう >>78
当時としては、貿易の手段として避けられない。
天皇が冊封されたわけではないので、
ある意味で、うまく誤魔化せてるとも言えるし。(´・ω・`) >>84
義満「なあにそのうちオレがホントに天皇に」 時代鑑定だけ間違ってないなら
細川晴元とか大内義隆とかがイキって足利将軍風に自分の姿を描かせたもの
って可能性はないか >>20
何言ってんの?
お前みたいな無知蒙昧野郎が歴史語るな >>70
実朝が辣腕とは笑止
官位で言ってるなら後鳥羽院に気に入られての話だからな 1550年って戦国時代に入ってるだろうにわざわざ義満描かせたのか? 朝貢って貢いだ側がそれ以上の返礼を受け取れるから
日本はぼろ儲けだったんだよな
朝鮮半島と違って
海があるから大陸の政変リスクは受けないし
日本には美味しすぎる制度だった 欧米の小説だったら、このお墨付きのあと、製作者が登場して作成過程の動画を公開したりするはず
目的は、腕を見せることで贋作市場で評価されること >>95
そういう時代だからこそ過去の栄光にすがって義満を描いたのかも >>11
古来、日本の為政者は中国の王朝に朝貢したりで位を貰ったりしていたからな
義満で走りとか何を言っているんだ?
古代の天皇にしても、武(雄略天皇)は南北朝時代の斎から鎮東大将軍に、梁から格が下がったが征東将軍の位を貰ったり
そこらをもって権威を日本国内で示したりした訳だ
また、大陸との貿易をする際にはそれが役にたった
ま、そこらで日本国王さん(義満)にしても、朝貢するという形で日明貿易(勘合貿易)をする手段だろうよ 死後150年後に描かれたものを肖像画って言うのか…
存命中に描いたもののことじゃいないのか >>102
天皇を戴きながら、
米国に平伏してる戦後の保守政治家と、
同じようなもんだわな。(´・ω・`) なんで義満って分かるんだよ
まさか「ハゲてるから」とかじゃないだろうな 150年後に書かれた時点で肖像画というより想像図だろ >>2
棄民はいる理由からして嘘しかねーじゃん?ほれ?とっととハウスだエラ豚 >>92
科学技術でも宋まで世界最先端の国だったんだぞ中国は
日本なんてフィリピン家のおんぼろ国家だよ >>116
少なくとも足利家の往復や足利家の人間は直接見てるだろ >義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
>東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は「義満という有名な人物の新しい肖像画が出てきたということは非常に驚きだ。権力者として最高潮だった時の姿を描いていて、この肖像画から新しい義満像を読み取ることができるのではないか」と指摘しています。
こいつの目は節穴だ 親父と後醍醐帝の基地外2人が無茶苦茶にした状況をクッソ苦労して収束させたって言うのに明徳の和約の手柄は息子が持っていくんだから義詮って可哀想な人だなと思うわ >>106
御維新150年奉祝行事を執り行い
逆賊足利幕府からの決別を改めて誓う時点で
足利よりよほどまし。 >>70
徳川秀忠の政策
・武家諸法度、有力外様大名取りつぶし
・禁中並公家諸法度、紫衣事件、天皇家への娘の入内
・ バテレン追放令、平戸・長崎に貿易制限
家光に比べれば地味かもしれないが頑張ってるだろ 七たび生まれ変わり朝敵足利を滅ぼすという大楠公の弟君の大精神は
後世の幕末の国士を奮い立たせ倒幕回天をなしとげさせたんだ お〜ご先祖様や〜。
この目、うちの家系っぽい感じがするわ。 足利義満は、明国に朝貢して金を儲けるシステムをつくったが、長男 足利義持は、父親に反感を持っていた。
足利義持は、義満が死亡すると、金閣寺を解体し、義満が寵愛していた次男、足利義嗣に死刑を命じた
朝倉義景の正室は、義持と将軍を争って命を失った 足利義嗣の忘れ形見である。 >>131
樺太まで行ってるんだぜw
どんだけ欲深いの?
絶対攻められてたぞw
負けないだろうけど 俺のちんこと引き換えに
戦争回避出来るなら…
かっこええやん!w
明の宦官
王承恩(? - 1644年4月25日)
王振(? - 1449年)
汪直(生没年不明)
魏忠賢(1568年2月27日 - 1627年12月11日)
高ァ(生没年不明)
曹吉祥(? - 1461年)
鄭和(1371年 - 1434年)
劉瑾(1451年 - 1510年) >義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれた
だれも検証できないという >>83
癇癪おこして一休を叩っ切ったりしないあたり大人物だよね >>1
なんぼでこうたんや?
なんぼでうれるんや? >>135
日本国王()様を持ち上げて何かいい事あんの? >>132
>朝倉義景の正室は、義持と将軍を争って命を失った
>足利義嗣の忘れ形見である。
小宰相は正室ではないし、
鞍谷氏が義嗣の子孫という説も、
同時代史料に根拠のない怪しい説。 処理済みなのか未処理の毛なのか
どっちかにしろ!
良しマンよ。 >>139
帝のご落胤にそんなことしたら本人の斬首どころか蜷川家お取りつぶしは間違いないぞ >>139
本当に幼少時の一休と問答してたのだろうか?w >>11
天皇やなくて征夷大将軍だからね
対等であるという天皇と対等を認めない皇帝
双方の国書が門前払いされ連絡が取れなくなった
そこで困った官僚のアイデアで、天皇の家臣、太政大臣ならいいやろとなった
太政大臣が金印、太宰少弐が銀印
高麗王が銅印なので銀印の太宰少弐(官位四位の官僚で貴族ではない)に目上の礼をとらなければならなかった。
日本人は知らないがあっちは屈辱の歴史として覚えている。 剣豪宮本武蔵と剣豪将軍足利義輝が試合した記録書がうちにある
時の関白豊臣秀吉の前での御前試合らしい >>153
本来臣下なのに「日本国王」を名乗る度胸には恐れ入る >>11
大内氏も朝鮮国から日本国王之印を贈与されてるよ
李氏朝鮮からね。
影武者かどうかは知らない。 征夷大将軍というのは、日本のトップでも執権でもなく、防衛庁東北管区防衛局長みたいなポジションなので、源氏長者や近衛大将、内大臣を兼務してはじめて存在感がクローズアップされる 偽者をホイホイ自分の部下にするのって
よくないのだろうねw
ナメられて 強いねー
長門探題
田布施王国w
単体で李氏朝鮮と互角なの? >>132
最後が長七郎江戸日記みたいな言い回しだな。 そんなのは良いから足利尊氏のあの絵は
誰なんだよw 大明帝国臣 日本国王源義満
ネトウヨ的には都合の悪い日本史の偉人だな 朝貢国と冊封国は扱いが全然違うから良いんじゃないか 朝貢に対する恩賜が少なくて不満を抱いた進貢側が、帰り道で住民に略奪行為を行うこともあった。←w 天皇の名前は出せないからな
そのおかげで朱子学や陽明学、山水画、壺、茶碗
あとは宋銭もじゃないかな
潰して貨幣に再利用、色々儲かったからいいんだよ >>170
自主的に女性貢いでたんかね?李氏朝鮮は。
清朝のルールだと強制は無いみたいだが。
(「属邦自主」の原則)
だから琉球は女性貢がなかった?
でも、ソウルの石碑見ると
「フザケンナ!ボケ!お前ら如きが!」
って書いてあるけどw
ヨーロッパに対しても、朝貢感覚で貿易を継続しようとしたが、ヨーロッパ諸国に傲慢な態度として憎まれ、
結果、アヘン戦争などが勃発し、逆に中国が半植民地化する要因となった。 しかし明よりも唐宋だろうな
唐はローマ帝国並
漢は技術が余りないイメージ
だからローマ帝国迄やって来た >>11
足利義満が、外国によって作られた欠陥憲法の下で外国の軍隊を国内に駐留させている今の日本を観たら、何て言うんだろうな。。。 >>1
現物を前に申し訳ないが
非常にコレジャナイ感が漂ってる 偽者だろー
大陸の国アホだなあw
ヘコヘコすれば大満足。
>>171
日本国王ナカソネ >>154
貴人の生存説はいろいろあるが義輝生存説は初めて聞いた
本出したら売れるかもよ? 義満が太政大臣すぐに辞めて30代で出家したのは
配下の大名がどれだけ追従して坊主になるか自分の権勢を確認する意図があったそう 「はぁ〜退屈じゃ…これ新右衛門、一休殿を呼んで参れ!!」 >>11
ナショナリズム勃興以前の世界で売国奴云々なんていうのはまるでナンセンス
南朝方の懐良親王も日本国王名乗って称臣しているし 内乱ばっかしてねえで、領土拡張しろや
一番平和だった江戸時代が、そこら辺一番マシというw >>196
あの人後小松天皇の落胤として当時から有名で、今もお墓は宮内庁管理ですよ。 >>168
なんでだろう?やはり「一休さん」でいつも
一休さんのとんちにしてやられる冴えないバカ殿のイメージがついたからか? >>179
一休さんは義満が老人の頃生まれたので金閣寺で会うのはほぼ無理
新右衛門さんは当時名声を確立した一休さんのカルチャーサロンの常連だった >>204
長男が夭逝しているので次男だけど実質産まれた時から嫡男扱いで将来将軍になる事が確定している
そして将軍として死んで、波乱万丈なドラマが無いというか
徳川での家光主人公でドラマを作っても面白くないだろう
日本史の大物ならそれこそ藤原道長とか、武将なら楠木正成とか、天皇なので無理だろうが天智天皇とかまだいるしな
西郷をやったので明治維新くらいから博文か板垣とかでもいいような 期待てたんと違う(。・ω・。)y━・~~
まぁ美化は当然入るにしても、本当にA♂ッぽい負陰気。
権力握ってハンサムとか、残念じゃのぉ〜。 >>7
惜しいw
詭弁も追加しよう
>>14
オープンザプライス! >>204
麒麟なんかより、池端には太平記2として取り上げて欲しかったんだけどな。太平記が義満産まれた辺りで
終わってるからちょうどいいのに。南北朝の混乱後編と合一が描ける。 >>1
誰かに似ていると思ったら
間 抜作先生じゃないですか、お久しぶりです 足利義持と将軍を争って命を失った、足利大納言義嗣の忘れ形見である。 >>208
氏治さんは前に歴史秘話ヒストリアでやったでしょ >>義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
これじゃ想像図でしかない。 >>1
寺が燃えたらしいから
燃える前にあった肖像画を見たのを
模倣して描いた贋作だなw ああ、この話題、スレがたってたかw
日本国王たる源道義の御真影でしょ?
まあなんていうか面白いものが出て来たもんですな。
(そしていつでてくるんだ、足利尊氏の確定肖像画はwww)
まあね俗にさ「唐様で売り家と書く三代目」とかいうけど
三代目の人間の出来でその後のレジームの流れ、できるんだよなあ。
義満も家光公もあれだけの力量あらばこそ後代に続いたってわけさ。
それいえば金塊将軍実朝公も大した力量はあったと思うけど。
>>220
とはいえ、現代の例えば今から400年前の戦国時代の
武将の顔イメージなんて大抵は某ゲームからの影響が強いわけでねw
いわんや1800年前の中国の三国志時代、とかさwww 義満が明への国書で「日本国王」と名乗ったのは海禁政策で外国の君主以外と交易しない明に対する方便で国内ではこの称号を全く使っていない ところでおそらく誰かスレ民がガイシュツだと思うが
1550年ごろってことは16世紀中ごろってことですな
ってことは西洋じゃルネサンスも盛期を過ぎてる頃じゃないっすか。
ダビンチは亡くなっておるし、ミケランジェロも古希を超えてるよw
ううん、まあルネサンス絵画と直接比べるようなものじゃないし
出羽守をきめるのもなんだけど、まあ差があるよなあ。
旧代の最高権力者を描いたものにしてもさ。頂相ねえ。 >>48 くんと>>168 くんが大河ネタの話をしているけど
義満を大河にしちゃうとさ、南北朝、南北正閏論争にハッテンしかねないわけで
ってか避けて通れないわけでさ。アブナいでしょ、そこwww
今の皇統の話とも直結するご先祖の話なわけでさ。
さらにこれは>>224 くんへのレスでもあるが
貿易目当ての形式的にせよなんにせよ現実に大中華の冊封を受けて
要するに室町将軍が明朝の家臣になってるわけで、
これは特にネトウヨ時代にやるには
色々とメンドーな論争を巻き起こすんじゃないかなあ。
大河ネタでいえばほら、清盛やったときだって皇室を王家と呼んだだけで
あれほどネットじゃ大騒ぎだったんだからさwww
それに尖閣問題じゃないが現在の大中華ともビミョーな時期に
大中華と上下関係つける話なんて、まずいんじゃないですかねえ。
むしろ大河ドラマ「マッカーサー」の方が面白いんじゃないっすかねwww
まあ「ペリー」でもいいけどwww >>220
鹿苑寺(金閣寺)に義満の死後すぐ描かれたとされる肖像画があるからそれを参考にしたんだろう
姿が若いのは息子の義持に将軍位を譲って出家した38歳の時を想定してるからなんだろう 死後150年後に描かれた肖像画なんて価値無えだろ
いま徳川時代の将軍の肖像画を誰かが想像で書いたとしてそんなもんまったく
再現性なんて無いわけで歴史価値なんて無いだろ? 骨董業ではヤバイもんだったかな
模写もそこそこあったけど
そっちのが価値が出るからってので僧形の身につけてるものがよいものなら
自分の先祖でも義満像とかしちゃって売り払ったりでアホみたいに数があったり
仏像の種類の定義みたいに丸顔髭 僧形坊主頭でで高価な持ち物持ってる武家なら
義満像とかね 南朝倒して実質朝廷終わらせて神武天皇みたいなもんだったから
とにかく数があった 新たに発見って、戦国時代の1550年頃に書かれて、今の今までその肖像画はどこにあったの?学者もその存在を知らなかったなんて驚きなんだが。 >>207
最近の大河ドラマって女か戦国武将か幕末やっときゃいいみたいな風潮で
すげー見飽きた感あるんだよね。その辺の人も源義家とかもやればいいのに >>111
尊氏のつもりなんだろ
国博にしては認識が古いな >>231
鹿苑寺(金閣寺)が臨済宗の寺だから、おそらく臨済宗 ヘタレ尊氏と違って義満はめちゃんこ凄かったらしいな
法王だかなんだかうろ覚えだけど 死後150年後に描かれた肖像画にリアリティーってあるの?
今で言うなら、1870年に亡くなった人の全盛期の時の絵だろ? 聖書の4大福音書も
イエスが十字架に掛けられるところを今見てきたルポルタージュみたいなドキュメンタリーみたいな書き方だけど
実際は 新右衛門さんって直属の部下じゃ無い寺社奉行だろ?
なんであんなに気軽に命令できるんだ? 蜷川新右衛門について
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っている。
蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1975年-1982年)に足利義満の側近で
寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった蜷川親当(智蘊)が仕えたのは足利義教であり、
そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも親当が出家して
智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した『親元日記』や
一休が記した『狂雲集』には蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、
これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる。
Wikipedia蜷川氏の項目より 一休さんってただのトンチ名人の小坊主じゃなくて帝のご落胤のエリートセレブやかららなあ。当人は好き勝手の貧乏暮らしを好んだ
乱れた性生活が大好きな禅問答屁理屈じいさんだったから有名になったが。 義満が日本国王たるには、一休とのとんちクイズに勝ってからにしなくてはならない 死んですぐ建てられた西郷像だって似てなかったと言われるのに150年後に書かれた肖像画なんて漫画やゲームの絵と変わらないだろ 仮に大河をやるなら
金閣寺が燃えるとこまでやってほしい 足利家は名前見てもわからん。
何代家くらいは書けよ >>255
義満がわからんなら相当なアホと言っていいぞ >>255
「日本国王」の称号と金閣寺で有名な人物だぞ。 昔の肖像画なんて全部誰が誰だか分からんのばっかだろ
写真じゃないんだから
適当でいいんじゃないの? 今のソシャゲや信長の野望の信長さんのイラストも肖像画と言えば肖像画か。 >>240
家光みたいなもんだからな。
俺は偉いってのがスタート地点だから、アタマが良くてリーダーたる資質があれば、龍となるわけだよ。
その点、徳川慶喜はアタマはリーダーたる資質がなかった。あったら徳川中興の祖となったかもしれない。 >>261
×徳川慶喜はアタマは
○徳川慶喜はアタマは良かったが 足利将軍15人のうち、尊氏だけ「義」の字がつかないの。 日本国王源道義はドラマ等でも見たことがなくね?
花の御所や金閣寺造ったり天皇をしのぐ権威を持とうとした権力者にしては影が薄いわ >>251
そもそも上野の西郷像は本人を知らない人が
写真も無いから絵を見て作ったわけだから
大昔の人を想像で描いた肖像画と条件が大して変わらん >>220
元にした画像はあっただろう
よく知られたものに似ているし
室町幕府の権威が揺らいでいたので最盛期の将軍の画像を権威付けに描かせたのかな 義満と呼ぶとは無礼な!
室町殿、もしくは北山殿と呼びなさい >>2
朝鮮人なんかは何も残ってないんだよなあ(笑) >>275
北条高時の高
から
後醍醐天皇の尊治(たかはる) 歴史ゲームの大家・コーエーの査定値
足利義満 政89 戦71 智87 歩B 騎B 弓B 水C
蜷川智蘊 政68 戦62 智55 歩B 騎C 弓C 水C
一休宗純 政54 戦19 智93 歩C 騎C 弓C 水C >>264
足利氏は「義」か「氏」が通字で尊氏(高氏)の兄が「高義」という名だったんだけど早死したので高氏が惣領になった
その後尊氏の嫡男の義詮が将軍になり、弟の基氏が鎌倉公方になってから将軍家は「義」で鎌倉公方家は「氏」を通字にするのが習わしになってる 有力御家人のうち、代々北条氏と婚姻関係を結び、のちに室町幕府の将軍家となった足利氏を例にとると、鎌倉期の嫡流家の歴代当主の諱は「得宗の当主の偏諱+通字の氏」で構成されている[19]
(具体的には、泰氏が泰時[20]、頼氏が時頼[20]、貞氏が貞時[21]、貞氏の三人の息子(高義・高氏・高国)が高時[22]からそれぞれ偏諱の授与を受けたとする)[23][24]。
足利氏は代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった[20]が、
正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時(貞氏の父、母は上杉重房の娘)が家督を継いだ。
家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだ[20]が、代わりに用いられた「時」の字は本項の冒頭で示したように北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられる[25]。
また、足利高義の名の2文字目に清和源氏の通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、得宗家が足利氏の将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方もある。 >>285
今川貞世 政治56 戦54 智58 歩C 騎C 弓C 水C
新田義宗 政治11 戦46 智25 歩C 騎B 弓C 水C
上杉憲顕 未登場 義満は機嫌のいい時と悪い時のギャップが酷いお天気屋だったらしい
足利将軍家は尊氏の躁鬱病の気質が遺伝している >>2
朝鮮王国には朝鮮人が今でも誇りにしている輝かしい歴史があるもんな
1637年2月24日
朝鮮王仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼(最上級の土下座)を行わされた。
朝鮮王仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座る清皇帝ホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞わされた。
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
叩頭礼は額を地面に打ち付けて行う中国式の土下座で、三跪九叩頭の礼は三回ひざまずいて九回額を地面に打ち付ける最上級の土下座である。
清の支配体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てた。
清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
このような清と朝鮮の朝貢関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。 幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。 なんとも言えない表情だな
開いた瞬間クスっとしてしまった 重要文化財に勝手に認定されて売ることも出来なくなり
保管方法を指示され保管に費用がかさみ
維持できなくなって国に寄贈という糞みたいな末路が待ってる 義政と安倍が凄い似てる
どっちも爺ちゃん目指してたしね 鹿苑院にある義満の絵像を元に描いたんだろ。
1550年頃の作というから、足利義輝が描かせたか。
足利義輝が顎髭長く伸ばしてたから、自分の顔と合
体させて描かせたんじゃ?
義輝は剣豪将軍と言われたエエカッコシイだから、
絵図への特別な執着心があったのかもな。
150年経って、元の絵を参考にして殆どを描くなど
絵師にとっては全く意味が無いこと。 >>207
家光なら三田村邦彦(家光)とコロッケ(影武者)が旅する時代劇あったな… >>317
凄い溺愛していたんだっけ
でも次の将軍は溺愛していない方の子になったんだよな
それで父と間反対な政策を取るようになった 家光もそうだったけど、大体将軍は親の庇護を受けてなかったのがなるな なんちゅう下手くそな絵・・・
どこで習ったんだこのバカは
ゴミみたいな絵を描くなよ 応仁の乱って授業で習って覚えてる人は多いけど、じゃあどういった争いだったかを具体的に言える人はまずいないよな >>326
登場人物が多いのといきさつ複雑すぎて細かく教えてられない 源平戦国幕末みたいに最後がわかりやすく締まってればいいものの
初めから終わりまでぐだぐだだったからな 南北朝時代だから、国内で権力争いしてると。
ところ明徳の和約の後、南朝の公家たちはどこに消えたの?
北朝の公家達でしめられていて
復帰出来なかったようだが。 義満や義持、義教の守護大名への介入政策で、大名当主の争いが多発しており、マグマは充満していたのだ 鎌倉幕府や室町幕府を少し調べると徳川の江戸幕府がいかによくできたシステムかよくわかるな
領地を細分化して徳川に対抗できる勢力をつくらないようにしたり、外様の大大名を政策決定から除外して干渉を防いだり、将軍が多少アレでも支障なく機能できる官僚制度を作ったりとか
だから源氏みたいに実権を簒奪されることもなく、足利氏のように有力守護大名に振り回されてグダグダになることもなく幕末になるまで強固な体制を維持し続けることが出来たわけで >>326
分かってるのはこの事件を境に京都は日本一の都市の座を
東京(江戸)や大阪に明け渡してしまって歴史からも埋もれてしまったという事だな
以降歴史に出てくるのはは東京(江戸)や大阪ばかり。 死後150年って、坂本龍馬の盟友山田藤吉を俺が想像で描くようなもんだぞ
似ていたら奇跡だろ 150年後に描いた肖像画とか
現在に描かれてる維新志士のイラストみたいなもんだろ
狩野派の古美術としては意味あるだろうが義満の史料としては価値ゼロだろ >>334
江戸や大阪が都市として栄えるのは江戸時代に入ってからだ
戦国期の都市と言えば、大内氏の山口(西の京)と北条氏の小田原(東の京)、それに商業都市の堺と博多
大阪は細川晴元・法華宗・六角定頼に逐われた本願寺が移ってきて寺町が出来るまで、葦が茂る湿地に過ぎなかった
江戸も家康が入り、街の整備を行うまでは田舎の荒れ地だ >>337
ワイが義満描いた絵が500年後とかに見つかったらニュースになるんかという話よな >>321
どんなに朝貢したくても、中国の王朝に認めてもらわなくてはできない。朝貢国になるってことは国際的に一人前の文明国になることと同義だから、名誉なことだったんよ 昔の人が描いた絵ならどんな落書きでも文化遺産になる しかしいくらで買ったんだろ?
物凄い値段で売れるんだろうなこれ
うらやましい
オレは骨董店で鎌倉時代に掻かれたという織田信長、宮本武蔵の肖像画を買ったことがある >>341
あと朝貢された中国王朝の側は体面があるのでより価値の高い品を返礼として下げ渡してくれるから、とりあえず頭下げてあなたの家来ですってポーズしとけばボロい商売だったりする 絵なんてもんはバンクシーみたいなもん
無いものを売る >>326
そりゃ細かく教えようと思うと土岐、斯波、畠山等々の家督継承争いやらそこから派生した幕臣間での対立だとかでもう滅茶苦茶だからな
更に無茶苦茶になってるところに将軍家でも跡目で揉め出して、この対立が以降の将軍位継承に影響していくとか授業時間の範囲で簡潔に説明しろなんて言われても無理だろ >>350
おまけに後南朝の末裔が突然出てくるし、関東では応仁の乱の前から後まで延々30年近く享徳の乱という内戦やってるしでカオスとしかいいようのない状況だしな 5ch民殿。この肖像画から夜な夜な義満が出てきて悪さするので困っておる。何とかしてくれないか?(;・∀・) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています