高句麗語の復元については『三国史記』にある高句麗の地名の表記が手がかりとされているが、それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。
(Wikipedia 高句麗語より)

百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている[3]。
(Wikipedia 百済語より)

クリストファー・I・ベックウィズは、日本=高句麗語族(英語: Japanese-Koguryeoic)が紀元前4世紀に遼寧省西部に存在し、一つのグループ(弥生文化と同定される)が海から朝鮮半島南部と九州に、他のグループが満州東部と朝鮮半島北部に、他のグループが海路で琉球諸島へ移動したとしている[3]。
(Wikipedia 半島日本語 [Peninsular-Japonic] より)