「男らしさ/女らしさ」といった、性別による無意識の呪縛が、生きづらさの原因になっていませんか? 
ジェンダーロール(社会的・文化的に期待される性別役割)からの開放が、いま、なぜ必要なのか。

■「男らしさ」「女らしさ」ってなんだろう?

一体いつからなのか定かではないのですが、私たちはこの社会のなかで「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という、ざっくりとした価値観を共有しています。

おそらく最初は自分の家庭を見て、次にまわりの家庭を見て、それから家族が出てくるアニメやドラマを見ながら「男らしさ」「女らしさ」の「ふつう」をインプットしていきます。

そんな私たちが共有する「男らしさ」には、いわゆる仕事や力強さ、それに加え女性を好きになり、家族を養う大黒柱というようなイメージが大なり小なりありますよね。

そして「女性らしさ」には家事や育児、男性を好きになることやサポート役に徹することなどがあります。

しかし読者のみなさんもちろんご存知の通り、そんな画一的なイメージで人を決めつけることはできません。

人はみな一人ひとり個性的で、生まれ持ったものやできること、やりたいことは違い、どんなことを生き生きと自分の生きる道にしていくかというのもまた、
二分化された性別をたよりに語り切ることは不可能だと言えるでしょう。

 しかし、いわゆる「男らしさ」「女らしさ」が常識だとされている場所では、どうしても「男性」「女性」という大きな主語、
いうなれば「群」のようなものが大事にされ、「個」にスポットが当たりにくいのです。

(中略)
■「誰もが生きやすい社会」は、ものごとを進めやすく、成果が上がりやすい
(中略)
 筆者が大切だと思うのは、そんな多様な人々が、なるべく自分のしっくりくるやり方で、
心理的安全性の保たれた場所で仕事や勉強などあらゆる活動を生き生きとすすめることができる社会です。
そうすれば個人も、そして個人が帰属する会社や組織も成果を感じられると、筆者はひとりの経営者として考えています。

 つまり「ジェンダーロールからの解放がなぜ必要なのか?」という問いについて経営視点で考えるならば、
帰属する個人一人ひとりの人権を尊重できる「誰もが生きやすい社会に」できるというだけでなく、組織と個人が互いにものごとを進めやすく、成果が上がりやすい構造に変えることができるから。

(中略)
■無意識の決めつけが「生きづらさ」の原因
 それだけ個が大切な時代になってきたとはいえ、まだ自分の性別や属性によって抱えやすい問題や、困りやすいことはたしかに存在しています。

 家長権が家父長に集中している家族のかたちである、家父長制を理由に男性はときに自分の意志に反して「男らしく」生きなければならなかったことや、
その家父長制によって女性の意志や選択がないがしろにされてきたことなど……。

 いつの時代にも「男らしさ」「女らしさ」の決めつけ、押し付けによって苦しんできた人はいたし、よくよく考えてみるとあのとき自分も、
そんな押し付けがつらかったのかもしれないと振り返る人もいるのではないでしょうか。

 私は大学生のときに「女子だから」という理由だけで、お酌をしてまわったことがあったし、
同輩は「男子だから」という理由だけで無理な飲まされ方をしていた記憶があります。

■意思決定者層から「気づき、変わる」ことが大切
とくに、特権を持ちやすい異性愛者の年配の男性などはこの「らしさ」の常識に気づきにくいとも言われています。
異性愛者の年配の男性といえば、意思決定者層とも言えますよね。

 いわゆる「男らしさ」「女らしさ」、ジェンダーロールからの解放によって一人ひとりが生き生きと活動しやすい社会は実現できるのに、
そういった社会の意思決定者はこの課題に気づきにくいとされているという、何とも物事が動きづらそうな構造になってしまっているのです。

 まずはこの社会の状態に気づくこと、特に、リーダーや意思決定者だと自覚している人こそが、
もし仮に自分とは関係ない問題だと思ったとしても課題に気づくことが大切だと筆者は考えています。

 そして一人ひとりが少しずつ声を上げていくことが、共有された価値観を少しずつ変える第一歩となるのではないでしょうか。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2b4633d03e08ed661f889012ec2c03a8a192bbf4?page=3