【朝日】古事記の膨大な出雲系神話は、服従の歴史か、連携の記憶か 古墳から読み解く大和と出雲の関係 [みの★]
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『古事記』が語る神話は、3割から4割が出雲系とされる。中央政権が編み、自らの正統性を知らしめるはずの伝承なのに、である。そこに隠されたのは大和と出雲の征服と服従の歴史か、それとも連携の記憶か。近年の研究成果から読み解いてみよう。
大和王権の成り立ちを後世に伝えるにはそぐわない一地方の物語が、これほど挿入されたのはなぜか。この問題をめぐっては、覇権を伸ばす中央勢力に出雲が屈し、傘下に入っていく過程を暗に示唆していると理解されることが多い。
奈良時代から平安時代にかけ、出雲大社でオオクニヌシをまつる出雲国造が新任時に朝廷で執り行った、天皇の世をことほぐ神賀詞(かむよごと)の奏上儀礼を、服属の名残と見なす意見も根強い。
ただ、そこにはなにか奥歯に挟まったような違和感、もどかしさがある。実は、『古事記』とほぼ同時期に成立した『日本書紀』は出雲神話にほとんど触れない。だから、ここに出雲侵略への負い目にも似た大和側の感情をかぎ取る研究者もいる。そんな出雲の複雑さは、考古学的にも見て取ることができそうだ。
…続きはソースで(会員記事)。
https://digital.asahi.com/articles/ASP3V563TP3JPTFC02B.html
2021年9月15日 11時30分 >>64
聖徳太子と蘇我馬子が編纂した天皇紀という歴史書があったが、
大化の改新のどさくさに紛れて中大兄皇子一派が燃やした 藤原氏が適当にでっち上げたんだろ
大真面目に語るだけ無駄 旧唐書→中国五代十国時代の後晋が945年6月作成
太平御覧→977〜983年
版本としては、日本に伝来した1199年(慶元5年)の蜀刻本の残本945巻が知られる。これに基づき、別系統の宋本で補った『四部叢刊三編』(上海:商務印書館、1935年)所収の景宋本、および、その重印本(中華書局、1960年)が見られる。
中国では北宋刊本、南宋刊本とも早くに失われた。いっぽう日本には南宋刊本がいくつか伝存している。 >>82
違う国から来た人らが勝手に国を作って
東へ東へ侵略し
言うこと聞かないネイティブ日本人達をいっぱい成敗したぞ
って伝わってるやんw んなもん、大和が悪いことしたに決まってるだろうにw
結局のとこ、日本人のルーツは半島系ってことなんじゃないの? 天武天皇 「おい、稗田阿礼、古事記書いておけよ」
稗田阿礼 「はいっス」
天武天皇 {あれ ? タンスの奥から日本書紀出てきたわ、ごめん、ごめん」 黄泉に逃れたイザナミは黄泉の主祭神、道敷大神になる
道の神さまやね
道の枕詞は玉鉾の。玉鉾の道
黄泉ヨミ、山ヤマ、閻魔エンマは同源
山の枕詞はあし引きの。あし引きの山
アシは芦原中津国や大国主の別名芦原醜男の芦やろね
芦が散るはなにわの枕詞。芦が散るなにわ
芦原はアイヌ語でサルという。サルタヒコのサルと関係があるのかな?
大国主=芦原醜男=サルタヒコかもね
山陰の伝承によればサルタヒコは出雲の姫神の幸神とクナトの神の子
クナトの神は道饗祭に出てくる神さま
皇御孫之命の名前は 八衢比古・八衢比売・久那斗であると書かれている
道に繋がったねえ >>82
青谷上寺地遺跡の人骨から採取されたDNA解析によると
サンプル4体のうち父系が縄文人、母系が弥生人が3体らしい
征服された場合には父系が侵略者側になるのが通常なんだってね >>82
田んぼや水路作るのは時間がかかるから当然だ。 >>106
昭和時代に、マンガ火の鳥読んだ爺さんってすぐにそっちに話を持っていきたがるよねw >>33
中国大陸から移り住んだ徐福の集団伝説みたいな連中が後の日本の弥生人の祖なら、それだけ移動出来る位のバイタリティーは持ってそう
というか元々土着している人達とは感覚が違うから当たり前ではある >>109
つまり縄文土人は頻繁に渡来人の村を襲撃し、男を殺し女を攫ったということ。
そして温和な渡来人もキレて大逆襲が始まるわけだな。征夷大将軍の誕生だ。 見るからに👳🏾♀インド系の😔🙏オチャーンは
🍛カレー👑嫌い >>113
そもそも徐福の集団は、知識層だから中国からの移動の記録、日本での活動記録を残しているはずで
それが何も残っていないことで日本には来なかったという話が今は主流
当時の中国人は異常な記録魔だから、何も残っていないということはありえない >>17
古事記完成が712年、日本書紀完成が720年で、たった8年しか違わんだろ。 明治天皇が詠まれた歌にも道が登場する
人もわれも 道を守りてかはらずば この敷島の国はうごかじ
葦原のみづほの國の萬代もみだれぬ道は神ぞひらきし
お地蔵さんは閻魔さまや道祖神、クナトの神と習合し今も広く信仰されている
辻々にお地蔵さんが祀られていて、通学中の子どもや通勤途中のサラリーマンが手を合わせる姿もよく見る >>109
面白いな
征服したとはいいつつも救世主と言わんばかりに緩やかに吸収されていく過程が知りたいね
和の国日本の穏やかな変化は将来への重要な価値観になりそう
縄文人自体が高度に自然と調和しつつ狩猟採集とは一言に言い難い、植林に見られる農耕じみた事もやってたのを見ると
平和ボケとはなんか違うものを感じるんだよね
なぜか考えられていたよりも古い時代に見られる鉄器も含めて当然武器は元々いくつか持ってたはずなんだ
動物も狩ってたはずだしな > 和の国日本の穏やかな変化
まずこれが妄想だから話にならない。 古事記の序文にもあったが、古事記編纂以前に各豪族にいろんな歴史書があったらしいね。それらの記録はみな正しい事実に基づくものでないというので、天武天皇は古事記をつくらせたわけだねw >>115
日本で発掘された縄文人の集落、渡来人の集落の骨には、鏃の後とか殺された跡がほとんど発見されていないので
お互いに仲良く暮らしていたという説が今では主流
おまいら、昭和の爺さんたちは、一度知識を最新の知識に修正しろよw
いつまで、そんな古い知識のままネットで主張していると笑われるぞw まぁ科学が進歩した現代でさえ
スサノオがこれだからなw
https://i.imgur.com/JHr71bu.jpg
この絵が1枚だけ後世に残ったら
それが姿図になるw >>119
日本書紀は、日本紀を書き直したという説が多い
>>109
弥生人 「米やるよ」
縄文人 「イノシシの肉食うか ?」
縄文人 「今晩、セックスパーティやるからおまいらも参加しろよ」
弥生人 「ゴッチでーす」
そうやって混じっていったんだよ 卑弥呼が魏に朝貢して受け取った鏡が
なぜか出雲で出土する
ヤマタイ出雲説何故とりあげられない >>92
昔から気になってんだけど、中国や朝鮮にこういう服装と髪型の民族がいたって話、全然聞かないよね。 >>126
昔は特にパリピ系が多そうだな
大麻常習してそうだし そもそも正史の編集事業というのは偉大なる聖徳太子のころから始まっていたわけで、天武天皇はそれを完成させたといえるねw >>17
古事記は語り物
口伝えで伝えられていたものを文章にしたのが8世紀 >>124
妄想はいいかげんにしてほしい。防御を目的として環濠集落の存在が説明つかない。
さらには>>109が証左。これは最近の調査だよ、キミ。 >>127
そんなもんに頼らなくても出雲は神の国だから まー日本書紀は純粋な漢文体で書かれていて、六国史はすべて日本書紀のやり方を踏襲してたわけで
古事記みたいな書き方をされた歴史書は古事記以外にないとは言えるねw
聖徳太子と馬子がつくったとされる天皇記、国記はどちらのスタイルだったのだろう? 外国から来た人らは一旦お国に帰ってから議論しようよ
そんで君らの言う通りネイティブ日本人が「私たちの国を治めてください」言うたのが本当ならまた日本に来たらええやん?
それまでは自分らの国で待機 >>117
・白兎は出雲っつーか因幡国(今の鳥取県東部)。
兎がワニ(サメとされる)に皮を剥がれて泣いてた白兎海岸て場所がある。
・海幸・山幸は南九州の神話。
海幸彦=隼人の阿多君の始祖。 >>126
日本書紀は異伝が細かく入ってるし
朝廷に都合悪いことも記して
天皇も結構客観的に見てるし
かなり学問的で冷静な文書だと思う >>137
どっちも海に関係した神話で南方系、海洋系の神話であるねw まぁこのスレの中にも得体の知れない奴らが「和の国、日本!」て言いながら
後ろ手にナイフ隠し持ってるような奴いるのかも知れないと思ったらつくづく嫌な事だよなぁ >>132
>>109が 124の証拠を意味することだろ ?
お前、理解力低いだろw 聖徳太子がつくったとされる天皇記、国記も各豪族に伝わる言い伝え、記録をすべて提出させたそうで
相当大規模な歴史の編集をやっていたのだろうね。そうやって集めた記録が蘇我氏が滅ぶときに皆焼けてしまったので
古事記、日本書紀にあったとされる様々な史書はほとんど現存してないんだねw >>132
環濠集落は弥生系で縄文人は作ってないのでわ
なんで侵略した側が防御するん >>145
もう説明しただろ。ループするからおれのレス全部読んでからレス頼むわ。 ID:imA4nvaB0
↑
知恵遅れの妄想ブサヨ >>115
>そして温和な渡来人もキレて大逆襲が始まるわけだな。征夷大将軍の誕生だ。
証拠は ?
そもそも日本で発掘されている弥生人集落に武器は発掘されていない >>149
歴史捏造ばかりしてるネトウヨが偉そうにレスするんじゃねぇ。 初期大和が出雲出身者の政権でそれを九州の田舎出身の神武が乗っ取ったからだろ。
それだけのこと。 >>147
お前のレス全部見たら、妄想朝鮮人だと判った >>38
稲作が来た時期と、金属、鉄が来た時期は違うよ。 まー弥生時代になると規模の大きい戦争の形跡が増えると言われるねw 農耕社会の発達と同時になぜ戦争が増えるかについてはいろいろな説明があるが
農耕社会というのは大規模な土地利用がおこなわれるようになるのが特徴で、つまり土地争いというのが起きるわけであるねw
日本史でも建武の新政から戦国時代にうつって戦乱の世になったのも、その根底的原因は土地争いにあったと言えようw >>64
当時の超先進国家であった中国とお付き合いしようと思ったときに、
自分たちをどう紹介したらよいのかわからなかったんだろうね。
で、歴史を作ったんだろうね。
日本だけでなくて、たいていの国の最初期ってそんなものでしょう。
北朝鮮の作った将軍様の建国物語と同レベルやと思うで。 >>106
爺さんは洗脳されてるよなあw
学者だって洗脳されてると思うことがあるわ。
すぐに「朝鮮半島から・・」とか、
条件反射みたいにさあ。 聞いた話から着想を得て自分達の伝説に組み込むということは、
ほぼ口承が唯一の歴史であり知識であった時代にはごく一般的なこと
だったんじゃないか。
例えば、コーカサス地方のナルト叙事詩がなぜかアーサー王伝説に取り入れ
られていることなど。 ブリトンに駐軍したアラン人傭兵から聞いた話を
吟遊詩人が広めてアーサー王伝説というブリトン人自身の伝説になったのかもしれない。 ◯◯大社という神社は下記の通り
出雲大社
春日大社
住吉大社
意外にもたった3つしか無いのである >>38
日本に来た渡来人の集落の大半が家族単位で武器を持っていなかったことから
現在では戦争に明け暮れていた中華から逃げてきた避難民と言う説が主流
あと、来ているのが大集団ではなく、DNA検査から家族単位での小集団って判っているし
身分的には農民が多かった >>109
それは、どの遺伝子を「縄文系」と決めたのかねえ。
そこんところがはっきりしないとなあ。
「母系の弥生人」のミトコンドリアDNAはどれのことなんだろ? 古事記の出雲パートは明らかに出雲に同情していて面白いね
しかし邪馬台国とか2世紀、3世紀程度のことが闇に埋もれててもどかしい >>28
逆だ
古代から日本が朝鮮半島南部を支配してた
糞朝鮮人死ね >>159
宗像大社
熊野大社
伏見稲荷大社
無数にあるぞw まー日本における戦争の原因というのは歴史的に見れば、ほぼ土地の支配権を巡る争いであったと言えようw >>118
あれだけ残ってるということは、徐福本人はいなくても、
一緒に船出をして、難破した船の生き残りがいてもおかしくないと思う。
まあ、その子孫だという伝承はないんだよなあ。
「来た」ということが伝わってるけど、その後どこかへ行ったのか不思議だ。 律令制になって口分田というのをつくって、全国民に平等に土地を与える社会主義的システムを作ったが
それが荘園制の発達とともに有名無実になっていき、その荘園制も節の台頭で徐々に崩壊していったわけであるねw >>145
「弥生系の集落」の時点で、すでに混ざってる状態だな。 >>166
日本に残っている徐福伝説の大半が、戦後に作られた観光用だけどなw >>28
朝鮮人ってさ、遺伝子的には中国人と日本人のミックスなんだよw
半島南部にいた倭人と北から、大陸から逃げてきた中国人のまざったもの。
もちろん、漢民族という意味じゃない。 >>159
大山祇神を祀る三嶋大社
この娘神が富士と桜の神
浅間神社のコノハナサクヤヒメ
神武天皇の曾祖母
基本的には
大社は国つ神
神宮は天つ神と言われる
藤原氏の氏神の春日大社は例外
香取・鹿島は神宮なのにね >>118
残ってないから来てないとは断定できないんじゃないか
海人族の安曇氏と始皇帝は水銀繋がりとも言えるし
徐福が日本列島でクニの原型を作っていたとしても、それが太平洋側だとすれば
津波で壊滅した可能性もあるわけで >>162
此方は体系立った文字記録がないし、支那は内戦中やから辺境の詳細情報なんか必要以上に記録しないし…
確かに出雲の大國主に対する古事記の噺は愉快で優しいね。 諏訪に追われた息子よりは英雄譚になってるし。
丹波一ノ宮たる出雲大神宮の川向に稗田野って地名が有るけど、由緒以外の話は無いんかなあ?とか思う。 そもそもオオクニヌシは、
天照大神の弟のスサノオの義理の息子
天照大神の子孫であるニニギノミコトと親戚関係
これは親戚関係の権力抗争の話 >>33
諏訪の黒曜石糸魚川のヒスイ
縄文時代からルートがあった
はず 地元に居ないとまず分からんけど出雲大社周辺から出雲市内には荒神社がやたらあるのでそういうことなんでは 侵略だろ
いきなり「国よこせ」とか習近平でも言わんわ >>173
記録を発見して初めて来たかどうか論じるもので、
それはUFOを見ていないから、存在しないとは言い切れない
妖怪を見ていないから、存在しないとは言い切れない
と同じで、単なる想像上のおとぎ話 >>175
侵略してしまったので親戚だったことにしたのだろう
子供の頃読んでて親戚なのになんで国譲りが悲壮に書かれてるのか
わからなくて悩んだよ >>173
徐福の子孫は朝廷の家になったよ
八真人というか 高句麗の北に住んでいたのが穢族
穢族の北に住んでいたのがアイヌ人 >>162
邪馬台国のことを隠すための歴史書が古事記と日本書紀だからね >>181
古事記や日本書紀を最後まで読んだことないだろ
天皇家、豪族、みんな兄弟で殺し合っている 古事記や日本書紀を読んだことがあるかね。
系譜をじっくり読んだことがあるかね。
古代氏族にとって、系譜はものすごい重要なことだ。
イスラムの国の王様たちには、ムハマンドの子孫の誰それの子孫ということが
伝わっている国もある。正当性を担保されるというべきか。
今のイギリス王室はフランスからやって来た侵略者だが、ノルマン朝だけでなく、
イングランドのウェセックス王国の血も引いている。
系譜はなかなかおもしろいぞ。
三世紀から四世紀の国家の黎明期の真実があるかもしれん。 >>182
ベトナムに全く同じおとぎ話があるんだけど・・・ >>181
日向神話もそうだな
海幸山幸は赤道付近の島々に伝わる神話で天孫降臨は北東アジアに伝わる神話
高千穂周辺=都城盆地には奈良時代まで南九州古墳人=縄文人が住んでいた 事実と妄想を分けて考えると、妄想9割なのが日本の古代史。
発掘される遺跡等から妄想を語るしかない。
まぁ極東において中国以外はどこもそうなんだが。
さらに1000年前の記録(春秋戦国)が大量に残っていてるのが中国のヤバいところ。
アジアの貴族たちが教養として学んだ古典も、この時代の中国の物。
古代に関しては中国が圧倒的すぎる。
しかしその中国も中世以降はボロボロで見るべきものが何もない。
蛮族国家となり果てた現在の中国を見ると残念で仕方がない。 >>118
船に乗ってたのが全員知識人なわけないw
水夫がいなきゃ船は動かない。
料理したりその他下働きの人間をたくさん積んでいたはずだ。 >>190
中国大陸で栄えた王族は蛮族に滅ぼされる
滅ぼされた王族は日本に亡命する
日本人は王族の末裔 なんで皇室の皇女が出雲大社の神官のところに嫁いだんですか? >>192
都城市歴史シンポジウム「古墳をつくった人々〜墓制から文化の多様性を探る〜」
令和2年3月
【竹中正巳】
骨の研究や最近ではDNAの研究で、縄文人の遺伝的な要素、DNAを色濃く残しているのが北海道のアイヌの人々だということがわかっております。
アイヌの人々の軟組織を見れば、眉が濃かったり、髭が多かったり、そして目は二重であったり。そして耳垢が湿っていたりという特徴があります。縄文時代の人たちもそういう顔つきや体つきをしていた。
縄文人は基本的に日本列島全域でほぼ一緒の特徴を持っていたと言われております。近年では、DNAの研究で東日本と西日本の縄文人の中には、DNAのタイプとしてちょっと違うものがあるという面白い研究等もあります。
私はDNAの専門家ではありませんので、またの機会に譲るといたしまして。縄文時代の終わりから弥生時代にかけて大陸から、朝鮮半島や今の中国の地域から人がやってきます。
そのような人たちは顔が長くて、面長で平べったい顔で、毛は薄い。そして目は一重ということになります。縄文人とは違っていますね。
こういう人たちがやってきて、生活も弥生時代になると、金属の道具とか水稲耕作とか、色んな形で生活も変わってまいります。もう日本列島の人々にとっては大革命です。こういうことをもたらした人たちが、地元の縄文的な人たちと混血をしていくことになります。
そしてどんどん広がって、この人たちの特徴がどんどん後の日本列島の色んな所に広がっていくというのが、現代日本人の成り立ちの大まかなストーリーであると、大方の研究者が認めております。
それでは最後になりますが、南九州の古墳時代人は、ということになります。第1図を見ると古墳時代、地下式横穴墓が分布しています。宮崎平野と内陸の方です。
この都城盆地からえびのにかけての地域というのは、本土の縄文人みたいな感じ、上部中央の写真は菓子野小学校の近くから出てきた人骨です。
上部右側は宮崎の平野部の国富町から出てきた人骨ですが、これは渡来系の弥生人に似ています。
現在の宮崎県域の方は本土縄文人と渡来系弥生人の特徴を持った地域とに分けられます。最後になりますけれど、都城盆地の古墳時代の人々、多様な古墳がいっぱいありますけれど、
今わかっているところでは地下式横穴墓と箱式石棺墓から出てきている人骨から言うと、本土の縄文人に近い顔つき、体つきの人たちがこの都城盆地の古墳時代の主な住民だと思います。
隼人の故地にあたる南九州地方(宮崎県南部・熊本県南部〜鹿児島県)における古墳時代の墓制 には、南九州にだけ認められる地下式横穴墓、地下式板石積石室墓、土坑墓・立石土坑墓があります。
地下式横穴墓は、竪穴を垂直に掘り込んだ後、横方向に水平に掘り広げて、墓室を造ったものです。
最も古いもので4世紀末頃の土器を出土するものがあり、5〜6世紀に築造 の最盛期があり、7〜8世紀頃まで存続して造られています。
515 名前:名無しさん[] 投稿日:2021/06/22(火) 02:47:47.65 ID:xpX/MMMe [2/3]
古い時代の人骨というものは中々残りません。良い状態で出てくるということはほとんどないのですが、地下式横穴墓というものは、天井が落ちなければ空間が保たれるものですから、非常に良い状態で骨が残ります。
南九州ではこういうお墓が、宮崎から鹿児島にかけての東半分の地域に認められます。ですから古墳時代では有数の、残りの良い古墳時代人骨が出てくる地域であります。
ですが、たいていの土を被せて埋めてしまうお墓ですと、日本は酸性土壌、火山灰の土壌ですので、体が溶けて骨も溶けてしまっています。中々残らないのが実情です。
それで南九州の縄文時代、古墳時代の話なんですが、南九州では縄文時代に少し人骨が出ます。南九州で縄文時代の保存の良い人骨というのは、残っていても10体くらいです。
その次の弥生時代になると、ほぼ皆無であります。南九州の本土で1例だけで、それらはもうボロボロの状態の人骨で、そこから特徴を探るのは中々厳しい状態です。
そして古墳時代は地下式横穴墓をはじめ、人骨がたくさん出てきます。地下式横穴墓からは非常に良好な遺存状態で古人骨が出土し、その数は県内で600体を超える。
これほど大量の古墳時代人骨資料が出土しているのは全国唯一であり、考古学のみならず人類学研究においても重要かつ不可欠な資料群と言えます。 古事記にしろ日本書紀にしても、ニニギの天孫降臨より前の神話には殆ど大和は出てこないよ
大国主の国創りを手伝っていた大物主が大和に住むわって話しくらいしか思い当たらないかな?
神話の話は、高天原やその他場所のよくわからない所の話と、出雲の話が多く、後少し日向系の神話の話がある
だからといって、だから何?としか思わんけどなー >>192
地下式横穴墓から出土した人骨および人骨関連遺物に関する骨考古学的研究 (竹中正巳、篠田謙一他 2015)
主に大隅半島の古墳時代人骨に関する研究。5〜6世紀
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24520873/
宮崎県などの南九州の山間部では縄文人・西北九州弥生型の人骨が弥生〜古墳時代にかけて出土することで以前より知られている(南九州山間部タイプと呼ばれる。)が、大隅半島では詳細が不明であった。
今回の研究で大隅半島に属する立地の遺跡(小野堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、 町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)、塚崎古墳群 19 号地下式横穴墓(鹿児島県肝付町)、飯隈古墳 群鷲塚地区地下式横穴墓(鹿児島県大崎町)、
旭台地下式横穴墓群(宮崎県高原町)、地下式横穴墓群(宮崎県えびの市))で新資料が得られた。
それらの新資料を本研究で詳細に調べたところ、典型的な低身長・低顔・低眼窩・広鼻という縄文人の特徴を持っていることが判明した。
地下式横穴墓(隼人)・横穴墓(大和)
https://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/c/9/c97e0728.jpg
https://i.imgur.com/0ct0mKi.png 島根の神庭地方で栄華を極めた集落は紀元前後に営みを終焉
その後四隅突出墳丘墓が1〜3世紀に
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
と勢力を拡大していく
2世紀末、元々銅鐸と勾玉、方形周溝墓だった奈良に突然山陰や東海の土器が大量に現れる
勾玉や銅鐸はなくなり、アイデンティティの最たるものである墓制も変わり前方後円墳と鏡の地になる >>33
縄文時代の交易の広さはすごいぞ。
いや、旧石器時代でも各地の石器が。
1.5万年ころにはアメリカへ渡って南米まで行ってるくらいだからな。
まあ、アクティブというか好奇心旺盛と言うべきか。
最寒冷期の2万数千年前の時点で、ユーラシア大陸のかなり広い範囲に行ってるし、
オーストラリアまでも行ってるわけだし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています