幕府はたびたび風紀が乱れるということで男女入込湯の禁止令を出すと、銭湯は男湯と女湯が別々なものとなるよう仕切りをしたり、曜日や時間帯を男湯専用、女湯専用と別々にずらしたりするものもあらわれた。

 だが、人口が密集した江戸の狭小な住宅事情もあり、結果、浴室が狭くなり、また、生活の実情に合わないなどの理由により、特に女性の間からの苦情が殺到した。そのため、結局、男女混浴の形態が続いた。

 幕府の男女入込湯の禁止令に、特に女性が反発したのは、おそらくは浴室が狭くなったためだけではないだろう。

 狭くて蒸し暑い浴場内は男女が肌をさらけ出し、犇めきあい、蠢動する場である。

 そのありさまの中で、男が女の浮艶に惹かれるのと同様に、女もまた男臭い裸体に対する雌的な探求的好奇心も潜んでいたのだろう。

 なぜなら入浴と性欲とは密接な関係があるからだ。

 そこでは女が日頃は隠して見せまいとしている妖しいときめきが生じ、桜色に火照った身体や、肉感溢れる瑞々しい素肌の上に無造作に羽織った浴衣姿といった趣。

 女性ならではの浴後匂い立つ芳烈などの風情に色めき立つ場が湯屋であり、そこでは男と女が互いに胸躍らせながら性の喜悦を享受し合う。

 それが男女混浴の妙味であり、性的な疼きを密かに愉しむような扇情的な空気さえ漂っていたにちがいない。銭湯が増えると湯女(ゆな)風呂が流行した。

 湯女とは浴客の世話をする女性で風呂屋者、垢(あか)かき女などの異称がある。湯女は客の体を洗ったり垢すりや髪すき、また衣服を整えたりするなどのサービスを提供した。

『色音論』によると、湯女とは「湯女はもと諸国の温泉にありしがもとなるべし」とあり、古くは諸国の温泉宿にいた遊女を湯女と称したことから、江戸市中の風呂屋の湯女は町湯女と呼ばれた。

 風呂から上がった男客は、別料金を払い2階の座敷に上がって休憩もできた。

 座敷には碁や将棋が置かれ、湯女は茶菓子の接待や酒間を取持った。2階を利用する男客は湯屋にとって上客であり、散財させては収益を上げたのである。

 銭湯の多くは通常の営業を終えた夕刻の6つ刻後の7つ刻から男客向けの「湯女風呂」を営んだ。湯女風呂の風呂とは名ばかりで純然たる入浴が目的ではない。

 脱衣場を金屏風で仕切るなど模様替えし、客が来れば席に侍り、三味線を奏で小唄を唄ったりもした。そして求めに応じて男客に膚肉の交接といった性的行為が行われていたのである。

 江戸の人口は男3人に女1人の割合の男性過剰な町であったため、男たちの性欲の惑乱を鎮めるための場所がいくつも存在した。

 主に遊里や茶屋、湯屋などが私娼家化し接客婦を控えさせ、男たちの悶悶とした鬱勃を静穏させる役目を担っていた。

 入浴の世話をする接客婦が最初に登場したのは鎌倉時代。有馬温泉がその発祥で接待入浴はここから全国へと普及した。

 室町時代中期には接客婦は全盛期を迎え、京都など湯女を抱えての客の入浴接待が盛んに行われた。

 江戸時代には京都、大坂の湯屋や各地の温泉場などでは、競って美しい湯女を集め1軒に20〜30人も抱えるところもあったという。

西洋人たちをも巻き込んだ男女混浴の顛末

 明治の初期、神戸に居住した西洋人たちから巻き起こった抗議に「風呂屋の男女混浴」という記録がある。

 神戸の北に位置する有馬温泉は、外国人たちにとっては距離的にも近く、手頃なリゾート地であった。

 ところが、当時、日本では混浴が古くからの習慣であったため、女客の裸体を目の当たりにした外人は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)。

 その惨状を「お上」に訴えるべく温泉地では外国人の入浴反対運動が巻き起こった。

 西洋人からも「混浴は野蛮な習慣だから改めるべきだ」と県庁には抗議が多数寄せられる始末である。

 そこで兵庫県知事は思いあまって、銭湯の男女混浴禁止令を発令。

 騒ぎは一件落着の様相を呈したようにみえたが、実際には入り口は別々になっていても、湯船は1つという状態でもよいということだった。

 となれば、当然、有馬温泉は混浴のまま。この一見、頓珍漢ともいえる洒落の利いた混浴禁止令を発布した兵庫県知事は、伊藤博文。騒動から18年後、初代内閣総理大臣に就任し帝国憲法の制定に尽力した。
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