【歴史】日本史最大のミステリー「邪馬台国論争」のユニークな新説 「邪馬台(やまたい)」ではなく「邪馬壹(やまとぅ=大和)」 ★4 [樽悶★]
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「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。
■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う
だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。
邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。
「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。
使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。
実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。
本書では、ここでユニークな仮説を立てている。
わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)
つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。
本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。
本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
◇
邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。
この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部)
2022.07.16 15:00
https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html
★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1658062499/ 卑弥呼「…なんて思われてたりしてな」
弟「まさかそんなハハハ」 邪馬台国って、弥生人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者の扱い
その程度なのに、邪馬台国がどうとか
自慢して恥ずかしくないの? 大阪本町にイトゥビルというビルがあったのを思い出した 倭人在帶方東南大海之中までが一万二千余里
行程は(帯方郡)→水行20日で半島南端の投馬国→水行10日で日本上陸→陸行1月で邪馬台国 Tomato トメィトゥ
Potato ポティトゥ
Tamago タメィゴゥ
邪馬臺 ヤメィトゥ >>17
スペイン語圏ではllaをヤと読んだりジャと読んだりする
それ以外の地域でもJaはジャだったりドイツみたいにヤと読んだりする
興味深いね。人類は実は同じ言語を話してる説は正しいと思ふ 畿内説って、ここまで魏志倭人伝の文章を無視しないと成立しないのか 何、この文字合わせ。
どこか、隣国の常套手段に似ているのう。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C
九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。
大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある。
井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している[19][20][21]。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。
神籠石
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。
古代の日本の中心はやっぱり九州だね 旧唐書
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8
「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
小国の日本が倭国を併合したという説があるね
当時の天皇は神の子孫だと主張するカルト国家だったから、前の国の業績も自分のものに取り込んでいるかもしれない 日本語の起源
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
彼らは、地名研究によって抽出された日本語に類似する単語が朝鮮半島中部に特に多いことを指摘し、これらの地名が高句麗語を反映したものではなく、朝鮮半島中部および南部における先高句麗の集団を反映したものであるとの仮説を唱えた。
Vovin, Alexanderは日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張している[50]。
朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[51][52][53][54][55]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
古代では朝鮮半島南部に日本人が残っていたみたいだね 歴史を示す書物が一切残ってないというのはブザマだな
三国志の時代に木の実を拾って食ってただけあるわ そもそも、魏志倭人伝の距離の表現からは、沖縄になるだろう。
まあ、日本書紀にも古事記にも、卑弥呼のことは載っていない。
つまり、卑弥呼は、沖縄にいたのだろう。 >>40
日本の歴史は中国頼みだもんなw
古墳調査もなぜか拒否ってるし 邪馬台国の中心は九州王朝のあった大宰府だろ。北と南にあった水城も政庁跡も白村江の戦いのはるか前の地層も残ってるらしいじゃないか。 ユニークというより色んな人の説をちょこちょこ我田引水してる気がする 魏を後ろ楯に勢力を伸ばしてた邪馬台国は、呉に起源を持つ江南からの海洋民族の勢力 安住起源の大和に征服されたんだよ。日本で大陸の代理戦争してんだよ。統一協会にいいように日本で戦争させないように気を付けようね。 鬼界カルデラが噴火してなかったら
どんな歴史になってたんだろう? >>41
神功皇后が滅ぼした山門県の田油津媛が邪馬台国の末裔 邪馬台国なんていう国は、そもそも存在しない。
ヤマトの当時の発音を漢字で表したのが邪馬壱国、
ヤマト王権の前身。
このぐらいは、初歩なのではないのかな? 江戸時代から議論して決着つかないんだからもういいよ ヤマトのヒメミコを魏の人が中国語読みで記したってだけやで 普通に不思議なのは中国に文献が残ってるのに日本には当時の文献がなにもないことだよな
日本から中国まで行けるぐらいなのになんで書類にそういうこと色々かいとかなかったんだろう?
卑弥呼と言われていますが本当は天照皇大神が代表です!とか書いておいてくれれば日本のミステリーとか消えたのに
息子はヤマトタケルです!とか色々書類付くって残しとくだけのことでよかったのに 当たり前だろ
馬鹿シナチクがマウント取るための当て字なんだから 畿内説「ヤマタイじゃない!ヤマトゥだから奈良だ!」
↓
隋書「倭国はヤミェツァイにおいて都する」 >>63
陳寿「その通り!文句があるならお前らで好きに書き残せや」 卑弥呼の時代は女王だったけど、その100年後には男性国王の国に変化した。
で、邪馬台国はそのまま大和朝廷だろ。
卑弥呼の孫あたりで、女子が無く、男系に変わったと考えるのが普通。
で、そのまま天皇へと変化していく。
合理的に考えると、それしか有り得んよ。 https://youtu.be/nxL99TbCD4M
つか、近所のおばちゃんそっくりだぞ?w
🇫🇮フィンランドの方が🇷🇺ロシア人より上の身分だった? >>68
100年後も女王国だったよ >>54
そこで終わったけど まあ、大物主=ニギハヤヒならこれもありか?
オオムナチ(大国主)が亡くなる→邪馬台国と出雲王国の王位継承をめくって出雲族と日向族が争い日向族が勝つ→
邪馬台国を支配し王になったのが天照(卑弥呼)→
急速に勢力を拡大しているヤマト王権の支配を目論む→
大物主(ニギハヤヒ)の娘に神武を婿入りさせる。
神武東征はすでにニギハヤヒが東征してるので日向の拠点がいろいろあったと思われる。
てなことを某書籍に書いてあるな。 なんかもっと新説でてこなのか
邪馬台国の神さまはイルカだったとか どんなユニークな説なのかと思ったら…こんなこと言い出したら何でもありだろ
そもそも 魏志倭人伝が編纂された頃には
魏が事実上三国の覇者になっている
そんな時に 謀略などする必要がない 日本は古代から他国の人間に支配されてんだな。日本人同士だとその中で争う野望の小さい国よね。 姉が国王、弟が執政
日本の場合はこの体制が割と安定してるかもな >>23
文字通りに受け取ったら日本のずっと南の海上に存在することになっちゃうから九州説にしても読み替えなきゃいけないでしょ そもそも古事記で
宮崎から奈良に東征したって
言っているじゃねえか >>80
卑弥呼の前に男王の治世が約80年
魏に助けを求めるくらい狗奴国と争っているから、全く安定はしてないよね >>46
儻如使人未還之際、新羅候隙侵逼任那、我當往救、不足爲憂。然善守備、謹警無忘。別汝所噵、恐致卓淳等禍、非新羅自强故所能爲也。其㖨己呑、居加羅與新羅境際而被連年攻敗、任那無能救援、由是見亡。
其南加羅、蕞爾狹小、不能卒備、不知所託、由是見亡。其卓淳、上下携貳、主欲自附內應新羅、由是見亡。因斯而觀、三國之敗、良有以也。昔新羅、請援於高麗而攻擊任那與百濟、尚不剋之。新羅安獨滅任那乎。今寡人、與汝戮力幷心翳頼天皇、任那必起。 もともとヤマトってヤマタイの訛ったくらいに思ってたけど違うんか >>83
場所が明らかな狗邪韓国、対馬、壱岐を無視してるし 🇭🇺ハンガリー語で漢文訓読み出来るのか?🤔
豈←annyira?
直←csak?
┊
┊ >>88
うむ
山上っておかしな苗字だと思ってたんだよな
それって空中じゃんかってな
高天原のことかもしらん 考古学的な時代比定に有効なのは、地名
千葉県にヤマトタケル東征にまつわる地名が多く残されているけれど
これでおそらく5世紀頃に、大和朝廷の軍事侵攻があったということが確認される
邪馬台国は3世紀の国
卑弥呼の死後、内乱があって再びまとまってとなったのが3世紀末か4世紀初め
そこから関東に勢力範囲を伸ばすような政権が、イチから奈良盆地に作られた
と考えるのは無理がある
3世紀には、既に全国政権のひな形が出来ていたと見るべき >>6
>>14
同じ頃先進国の大韓民国では法に基づく統治が行われていたんだぞ
なおジャップはどんぐりうめーーwww 中国の歴史書を少しでも信用しているって言うのがわからん。
自分の都合のいいように歴史を改変してて当たり前なのに。 日本と古代中国で水行の解釈は全く違うのよ
日本では水行10日20日は航海と解釈してるが
古代中国では水と行と2つと全く違う意味なんよ
「水」→水辺、河川
行」→歩く
中国から見て向こうの水辺は九州と歩いた日数の意味 >>6
ウィンドウズで言えば
JAPAN2682
CHINA73
KOREA103
これくらい差がある
日本以外は猿も同然 >>100
当時の中国は周辺国をライバルとは考えていないので
興味がない分、変な曲筆は行われないと思う
ただ正確でもないと思うけど、それは自分の都合を考えてのものではない
単に興味がないから、拾った資料を雑記しただけ >>83
元ネタの廣志では伊都国から南に行くと在るんだよね邪馬台国は
三国志の方でその間に書き込みがされてあの長い道のりになったわけで、元々の文章ではそんなに遠くないのよ そもそも南と東を間違えたなんて奈良ありきの結論なんだよw
根拠を出しなさい学問ならw >>109
うん
今、チラッと見たら爺さん達が根拠もない妄想を垂れ流すスレになってるなw 周りを劣等国家と見てるから普通なら使わないヘンテコな字を当てるのはよくあること >>63
古事記以前の文章は全てなかったことにされたからね
ていうかその事を古事記でバラしちゃってるんだがw >>83
白髪三千丈の国だからな
行程も大体1万分の1ぐらいで考えると近づくんじゃないの 蔑称だったとしても気にするこたーない
当時の中華(漢民族)とは別の民族と識別されていたという証拠だよ
それだけで満足だよ >>77
内部抗争の方が説得力あるね
政敵の曹真が大月氏との友好を取り付けた事に対抗して倭国と関係を大げさに誇張して描写した
距離や人口など大月氏のそれに近い事を鑑みるとまあ間違いないように思える >>116
だから根拠を書きなさい
中国からそんな方向感覚で目的地に着かないよ >>20
でもそれ当時は朝鮮南部も日本だったの考慮してないのなんちゃらとかもいわれてる 九州から仮に遷都したのなら、記紀にそれらしい神話があっても良さそうだけどね。ないね。 >>125
権力者に不都合なことは削除するのが歴史
何が不都合かは知らんけど >>54
神功皇后が滅ぼした山門県の田油津媛は
邪馬台国の末裔ではなく
東征前に神武が九州でタギシミミを産ませた
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」の末裔 >>126
記紀には権力者にとって恥ずかしい事、卑劣な事とかいっぱい書いてる。 >>125
富士山も記紀に載ってないし
載ってないことを理由に無いとは言えない >>27
その前に惟が当てられたものをどうやってタイにするんだよ >>124
魏志倭人伝で倭の北岸狗邪韓国とあって
魏志韓伝には韓は東西は海で南は倭と接してると書いてある
これで半島に倭がないってのは無理がある そもそも後漢時代の漢字の発音はほとんどが不明だからこんなん意味ない >>54
神功皇后が滅ぼした山門県の田油津媛は
邪馬台国の末裔ではなく
東征前に神武が九州でタギシミミを産ませた
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」の末裔
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミだから
その子孫である奈良の天皇家にとっては
東征前に神武が暮らしていた筑紫城(筑紫京)での出来事は
抹殺しなければならない黒歴史 >>131
だから権力が九州から大和に移ったのなら、それはすごい国家的大事件だろ >>73
大物主はニギハヤヒが来る前の大和の王だったと思う >>54
神功皇后が滅ぼした山門県の田油津媛は
邪馬台国の末裔ではなく
東征前に神武が九州でタギシミミを産ませた
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」の末裔
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミだから
その子孫である奈良の天皇家にとっては
東征前に神武が暮らしていた筑紫城(筑紫京)での
親類縁者や出来事は
抹殺しなければならない黒歴史 史書の記載事項で山の名前と遷都が同じバリューと思ってる頭の作りの人がいるとは驚いたw 今の感覚で言うと交通の便悪い、作物に適した平野が少ない、盆地特有の暮らしにくさ。で、奈良時代も含めて奈良が栄えたのが不思議。 奈良と出雲の連合国「邪馬台国」親魏倭王を制圧した神武自身は
筑紫城(筑紫京)の何代目かの「漢委奴国王」である
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の
第4皇子
なんだけど
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
東征前に神武が九州で
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミは、ぶっ殺してしまったのよね >>98
今のソウルの近くと言われている帯方郡って中国ですがな 英語使うってことは帰国子女どかって奴か?
気取ってヤマトなんかを「ヤメイトゥ」、
ヒミコは「ヒミィコゥ」、
タマゴなんかも「タメイゴゥ」なんて言うんだろ。 >>145
発想としてはわかるけど厳しくね?
「黄亦の亦の字の発音は益と同じである」くらいの記述が三国志や後漢書の倭人伝にあればよかったのにね 邪馬台国は言葉のアクセントで解明できるって
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/Japanese_pitch_accent_map-ja.png
なぜなら縄文系、弥生系、それ以降の渡来系と皆使ってたアクセントが違うから
子孫にもそれが受け継がれているからね
尾張・岐阜、丹後、岡山、奈良南部、四国南西部が離れてるのに同じアクセントになってるだろ
これがヒントになってるわけ >>154
何が出土してもそれが邪馬台国のものだという証拠にはならない
魏志倭人伝を素直に読めば北九州だけど >>154
卑弥呼の墓誌くらいだと思うけどそんなの多分存在しないしな 縄文時代より前の最終氷期にサヌカイトの石器を使う集団が瀬戸内海周辺で栄えていた
日本人の最古層
四国と近畿のアクセントが似ている理由かも 帯方郡ってソウルあたりか
確かに東南に行けば奈良かもしれんが九州もあてはまるんじゃね? >>144
当時と今じゃ気候も違うでしょ
海岸線も違う
それ故に日本にはマトモな平地がなく、仕方なく奈良に人が集まった >>160
方言じゃないよ
日本語は同音異義語をアクセントで区別してるけどそれは昔も変わらないってこと >>163
東南大海之中は日本列島の事だから勿論九州も含まれる
一万二千余里てのは大雑把な数字だな
魏志倭人伝は時代もばらばらのをつなぎ合わせてるから鵜呑みにしない方が良いよ >>169
政治色が強く、権力争いのネタにされてたら尚更やね 正直、辰砂が出る地域ならどこでも良かったのよ(笑)
だって、鉱物資源が大事なのは今も昔も同じじゃん
ケーケケケ そもそも江戸時代に新井白石がヤマタイって読ませるまでは普通に皆ヤマトって読んでたと聞いた >>63
>卑弥呼と言われていますが本当は天照皇大神が代表です!とか書いておいてくれれば
卑弥呼はたぶん日本語の「ヒメミコ」とかだから
魏志倭人伝に出てくるヒメミコがどのヒメミコなのか
古事記成立の時代には分からなくなってたんじゃないかな
500年も前の話なんだぜ >>175
しかも壬申の乱で古い書物は焼失したところで、口頭伝承を参考にするしかなかったんだろね >>170
そこまでは疑ってないけど実際に行った人の記録
そんなに少なくないと思うし場所も目的もバラバラ >>175
卑弥呼が役職名ってしっくりこないんだよね
次に台与が出てくるからね
やっぱり人名だと思うわ 卑弥呼は日見子、皇女(ひめみこ)かもしれない
天照大神は実在した卑弥呼や壱与をモデルだったりしないのかな
実は神話時代は季節の変わり目を1年と計算していて、超御長寿な天皇たちは当時の古代人と同じくらいの寿命だった
…と仮定したら、ちょうどその時代に一致するじゃん 江戸時代だか大正時代だかの頃までは邪馬台をヤマトと読む方が主流じゃなかったか? >>180
でも邪馬台国と争ってた狗奴国の王が卑弥弓呼(ひみここ ひみくこ)って記されてるあたりやっぱ役職っぽいんだよな
もしくは「3代目卑弥呼」みたいな感じで邪馬台国の王は代々卑弥呼って名乗って壱与は王になる前の名前が記されてるとかそんな感じかも >>180
狗奴国の卑弥弓呼は?
日見彦(日見子の男性バージョン)に見えるよ >>142
抹消したいなら単にアヒラツヒメとタギシミミを書かなければいい
書くなら、神武天皇の血をひいているタブラツヒメは、
「たぶらかす」なんて変な名前にせず
ちゃんと実名で書かないと >>6
西暦230年代は最盛期じゃねえよ
衰退期の始まり
歴史も知らんくせに能書きを垂れるな >>1
けっこう昔から言われてた説だろ
「ヤマト」を中国人が聞き取って、当て字に「邪馬台」と書いた
しかも、日本を卑下するために、「邪」とか「卑」とか「倭」とか下劣な漢字を当てた
まあ、地理的には福岡の山門地方辺りの事だと思う 台与は居なかったかもと思ってる
これも役職と名前の二つの資料があって陳寿が混ぜた 九州の人が大和たい!って言ったのを方言と気付かず邪馬台国と勘違いしたんだろうな そもそもその栄光に満ちたローマ人など現在は存在していない
人種的に純粋なローマ人などいない
滅亡したんだよw
だが日本人は当時とほぼ同じ人種構成
どっちが上かは一目瞭然だろwwww こういうのて中国の古い記録をメインの史資料として推測してるんだろうけど中国もそんな真面目に正確に記録してたわけじゃねえんじゃねえの?
自分より下っ端の奴らの事書いた記録なんだし
邪馬台国っていうはっきりと形が整ってる国とか集落が有ったわけでも卑弥呼ていう個人がいたわけでもないんだろ 考古言語学の助けを借りなきゃ
日本語すら大変化してるのに
弥生時代からヤマトって言ってたのか甚だ疑問
それが昔の中国の発音なんて分かるのかな イヨとトヨの双子の姉妹に決まってるじゃないですか! まだやってんの?
南と東を間違えたらだいたい奈良だから!そういう事にしようぜ!って学問として馬鹿だろ 卑弥呼と台与は経歴が似てるでしょ
名前の違う同一人物の資料を陳寿が別人だと勘違いしたんじゃないか? 箸墓掘るためには魏志の通り邪馬台国卑弥呼は実在であってほしいが、魏志の通りだと奈良盆地になりっこないので魏志の通りであってほしくないw なんか遺跡が見つかればねえ。日本の歴史は3世紀以前は全然分からんらしいね。限界 >>197
「大和」とは奈良のごく一部を指す言葉だからそれはない
倭の国のどこかにヤマト国というのがあったんだろうな こういうのってUFOとか宇宙人とか秘密結社の陰謀論の話ししてるときと同じで答えなんかでないから面白いんだろうな
具体的にどこに有ってとか誰が治めてとか分かったらすげえつまらんだろ 使節団長のナシメって誰だよ日本人なら何とかマロとか何とかのミコトだろって思うけど
遣隋使の上表文の日本国王名も読解不能だったね 東夷伝の記載は、定性的な評価はすればいいけど
数量に関することは、ハイハイそういう意見もあるんですね
くらいに留めておく方が
より真実の歴史に近づくのによいと思うけどね
当時辺境の日本列島に来るような中国人って、よほどの山師的な
末端の人物だったろうし
定量的な正確な認識も記録もできないよ ーやまとぅー!
ーやまとぅー!
ー今日は木の実採れたけ
ーあの山登ってみ、どんぐりがいっぱい落ちとったわ 中国語というか向こうの発音がね。ヤマトゥとかなんとか ヤマトタケルが双子で双子の兄を殺すとからキャリアが始まってる てかもともと邪馬臺は当て字でしょ
邪とか使ってるのがいかにもでしょ 奴隷に地下資源掘らせて人間もろとも古墳に…
…いや何でもない(笑) >>186
そういうわけにはいかないの
第43代元明天皇が
710年に藤原京から平城京に遷都
712年に第42代文武天皇の勅令であった『古事記』を完成
第44代元正天皇が、
720年に第40代天武天皇の勅令であった『日本書記』を
古事記に合わせて倭→日本、大王→天皇に語句を修正して完成 >>97
朝鮮半島が悪くありません!
文が鮮明に悪いんです!わーん😭 魏志倭人伝に書かれてない事実があったのだ、ってこんなもんよく本で書けるよ
恥ずかしくないjのか >>222
日本に文字もないんだから当て字当てるしかないだろ? でも邪馬台国の周りの国の漢字はマトモなんだよね
深く考えてなかったのかもしれん もう邪馬台国が1つだと思うのってナンセンスでは?
気候や襲撃に合わせて各地に移動してるはず。1箇所で生まれて死ぬまでそこに居たと思ってんの? >>110
広志だと邪馬台国じゃなくて邪馬嘉国って書いてあるらしきな
もう何がただしいんだか不明過ぎて 流求国が台湾島だっていうのは確定かね
そんなことがありうるなら、倭国邪馬台国が九州島だっていうのもありうるよねえ >>233
違うんだよな
奈良のヤマト国ですら倭国の一部だったわけ。
邪馬台国はもちろん大和国とは関係ありませんw >>236
ヒロシ!アンタちゃんと漢字の書き取りしなかったでしょ! >>235
思わない
日本列島の何処に居ようとヤマト国であることに変わりはない >>235
当時の人口は既に数百万人
首都の人口は数万人はいたと思われる
それだけの人間を養うには、相当の農業収益がなければならない
狩猟採集の時代じゃないよ 結局、現状答えは出ないから何言ってもセーフなんだよね
俺説では邪馬台国は浮遊石で空飛んで世界を支配してた古代帝国 >>125
磐余彦尊(いわれびこのみこと)が、日向の高千穂(宮崎県)を出発して、筑紫国、安芸国、吉備国、浪速国、(中略)を経て、橿原で神武天皇に即位した記述が記紀にはある(神武東征)
北九州の邪馬台国には関係なさそう >>245
だからなんだっつうんだよ
当時の日本に日本列島そのものを意識していたクニなんかねえよ
倭は倭だ それを否定すんな。 >>209
ヤマとは縄文時代から使われてる古地名で北部九州辺りを指す言葉
台国は台湾などにも使われているように険しい山の在る島国を表す
即ちヤマと呼ばれる台国のこと >福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである
また始まったよー畿内説の「行程どおりでは九州を出ていく論」
「距離は誇張されている」でOK
>本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている
また始まったよー畿内説の「部分的に方角を間違えてる論」
だったら他の方角は正しく書く理由を説明しなきゃダメ
>つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
そうだとしても九州にも山門(ヤマト)が存在するやろ 伊都だから糸島だとか、そんな安易な考えは、全てのピースがピッタリ収まってから言ってほしいな >>250
否定する
倭なんてのは中国語だ
日本人がジャパンなんて言わないだろ >福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである
これいう畿内説は三韓が方四千里もある巨大な半島ということが理解できない脳みそしてるから >>245
いや字を当てたのは中国人だけど、そう呼んでたのは当時の倭人自身
当時の読みだとwo
これは越と同音
太伯の末裔と言う記述と一致する >>255
結局、大和として倭と呼ばれた痕跡は日本人自身で残した 開音節と閉音節
有気音と有声音
のグループは仲悪いよ?戦争だとか暴力伴わないと
変化起きないんじゃ?
ペルシアとか、ハンガリーとはフィンランドとかとは
仲良かったんだろうね。
スペインもかw >>251
そう
九州北部には山門(ヤマト)という地名が残っている
奈良説派はそれが都合が悪いんだよ
なにせ「邪馬台と大和は読みが似てる」それだけだからねw 畿内説の人は勝手に纏向に統一すんなよ
家庭連合かよ 古代のゆっくりな文化成熟進度の中で
大和政権は5世紀初めには西は朝鮮半島、東は関東地方にまで
勢力を伸ばしていた
邪馬台国が日本の中心政権であったのなら
大和政権と同一のものであると考えないと辻褄が合わない
たった150年で
イチから新興勢力が超ハイペースで版図拡大するはずがない どっちにしたって「邪」とかよそから蛮国に付ける名前だろうに
そうじゃなく日本国内では何て呼ばれてたのかわからんのかね? 古代日本語の発音(0:52から)
https://youtu.be/NzwmtkEzAo0
何を言ってるのかさっぱりである >>255
ここはどこだと聞かれたら「ワ(我)の国だ」と答えた
ハワイだって南米だって国名なんてそんな例は沢山あるんだよ
倭国と呼ばれて悔しいとか、そういう下らねえ感情は捨てろ。
それが歴史なんだよ。捻じ曲げるならチョンと一緒だ。 >>264
当時は日本は話し言葉しかなかった
日本ではヤマトと言っていた
ヨーロッパでJIPANGと書かれてようがGIPUMと書かれてようが
どうでもいいでしょ
そこ拘るところ? >>270
わけわからん
仮に「ワ(我)の国だ」と言ったとしてもそれは国名ではない >>266
違う。倭国はワ。対外的にも倭国であった。
倭をヤマトと読んだのはもっともっと後世の、ヤマト王権成立後のハナシだ。 >>236
日本語発音を昔の中国語発音の漢字に当てはめただけだし、書き写す段階で違う字に当てられた事もったのかも
勿論今の中国語発音と昔の中国語発音は違ってるし、今の四声やピンインと昔のとでは違うし、意味も違うかもしれんし
文字とか言葉なんてのはそんなもん >>139
記紀は藤原不比等によって藤原氏に都合の良いように書かれてる。
新興勢力だった藤原氏は旧豪族の祖であり、本来の皇祖神ニギハヤヒでは面子が立たないので天照を皇祖神にしたんであろう。 >>274
逆でしょ
ヤマトと言う言葉があって倭の文字をあてた >>273
だいたい卑弥呼の時代に倭国なんて国が(独立国)はなかっただろ
いたのは倭人で、あったのは邪馬台国や伊都国
後世の日本とアタマで結びつけるからそういう解釈になるだけだ
倭人と呼ばれたのはその頃の日本人が自分たちを指して我と言ったからだ >>273
そんな国は沢山ある。
とにかく「日本列島」そのものを認識していた倭人はいなかったんだからな?
ヤマトなんていう括りは存在しない
倭とヤマトは読みのハナシではない。対外的にもヤマト王権成立後も暫くはワだ。
悔しいとか蔑まれてるとか、そういうしょうもない感情論は捨てろと言ってるんだよ 「お前らは何と言う?」
「ワだ」
「そうじゃなくて!国名を聞いてる!」
「国名って何だよ?それって美味しいの?」
「ふざけんな!ワ国にしちまうぞ?!」
「知らねえよ」 倭を以てヤマトとせよ
と号令をした太子が居たんだよ >>266
読みを残して意味を改善したのが、倭→和
やまとことば起因だと山門 >>278
ヤマトの王が帥升であり卑弥呼
中国語で言う倭王 この一連のスレをみるに九州説唱えてるのは頭悪い人が多い
それが答えだと思う >>277
違います。
「ヤマト」を倭と呼ぶ発音は存在しない。 >>285
遠慮しないで九州説はサタンっていいなよ https://youtu.be/lrBuftKQQQY
こっちは弥生〜現代までの変化がわかるけど
「北」が途中までニシに近い発音だったりする 広開土王碑には倭としか書いてないから当時の大陸の人たちは倭国なんて呼ばずに「倭」でしょ
だから日本も倭の字にヤマトと当てるようになっていった ヤマトはヤマト、漢字は中国王朝があてた当て字
卑弥呼だって当て字
中国王朝は他国に当て字をあてるときは卑しい意味の漢字をあてた >>291
何だこれは
単なる誤認じゃないのかねえ >>268
今と昔とは発音が違うらしいけど、トゥみたいな発音らしいね
ググったら出てきたよ↓
邪馬台国の読み方 - 歴史年代ゴロ合わせ暗記 >>249
まだいたか
知識を広めないと
ではコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657~) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>295
てかこの人凄いよ
再現方法の説明とかもう
只々圧巻する そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 >>292
だあからさ
ヤマトと聞いて倭という字を当てる事はないと言ってるんだよ そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 紀元前1世紀に初登場する日本人の記録『漢書地理史』には、
倭人は「定期的に」、中国に貢物を持ってくるとの記述がある。
卑弥呼の時代は「倭国に牛馬なし」なのに、畿内から大阪→兵庫→岡山→広島→山口→関門海峡→伊都國→壱岐→対馬→狗邪韓国→楽浪郡や帯方郡(今の平壌あたり)
このクソ遠い行程を牛馬のない倭人が奈良県から「定期的に」に貢物を持って行ったとは思えない。
391年の倭・高句麗戦争の際の、中国側資料に、「倭人は歩兵だけ」との記述があり、倭人は391年までは馬がいなかったのは確実である。 グリム兄弟の頃から印欧祖語の再建とかやってたけど
イリュージョンの世界だよねえ >>301
倭も日本もヤマトと読むんだよ
じゃあヤマトの意味はなんだって話し >>293
いうても魏志倭人伝ですら「倭國」が3回出てくるからね >>305
奴隷は数千人か数万人規模でいたよ
なんで牛馬じゃないと駄目なの? 山(ヤマ)海(アマ)がそもそも対だよな
途中からヤマナンチャラが国号になったり英雄の字なになったり
アマが天表記になるとやんごとなき者の意味合いなってんな そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 以下のように魏志倭人伝の記述を尊重するなら九州以外ありえない
・「距離と戸数は誇張」とするだけで他は九州説で整合性がつく
中国の史書で数字を盛るのは慣習的によくあること
・邪馬台国は帯方郡から1万2千里離れているとされるが、
その内、1万里は九州北岸まで、残り2千里だけでは畿内説では説明がつかない
(1万2千里が行程の合計ではなく直線距離だとしたら説明がつかないこともない)
・九州についてからはほとんど南への移動ばかりで
「倭地は南北に長い」という認識
これも畿内説なら、あり得る地理観ではない
・畿内説だと「邪馬台国から東に渡海した先の倭人の国」が説明がつかない
・「倭地は島」という認識が畿内説だと説明がつかない
後代の旧唐書では「日本国の東と北は山」とされており「本州が島」と認識されていない
(日本国外の本州の地理を把握してる可能性もありえる)
それより昔の魏志倭人伝が「本州が島」と認識されているのが説明がつかない
・後代の宋書では「東には毛人が住む」とされるが
魏志倭人伝では東に別人種がいるような記述がなく、畿内説が説明がつかない >>291
だからなんなのか?
中国人が邪馬台国まで行ったのに方角を誤認することは基本ありえんやろ
日本人の話頼りではあるまい
またそうだとしても当時の日本語に合わせて
中国人はちゃんと翻訳するやろ 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官(CIA、KGB)と書いているが、
刺史が監察官だったのは前漢の時代までで、魏または三国時代の「刺史」は行政官(県知事)だったのであるから、この部分は前漢、つまり200年〜400年前に書かれた倭国に関する竹簡であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった部分も付け加えたのである。
よって、「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。 >>307
読むのは勝手だが、当時の魏人が「ヤマト」と聞いて「倭」という漢字は使わないの。
倭はワであり、倭をヤマトと当てはめたのはヤマト王権成立後の話。 >>271
ドーでもよくはない。
日本と言う漢字をそのまま発音して「じっぷぁん」としたのが他ならぬ中国だ。
それを東方見聞録のマルコ・ポーロだか誰だか「ジパング」として西欧諸国に広めた。
だから現代の日本人は日本と言う漢字を「にほん」とか「にっぽん」と読んではならんのだ。
どちらも中国語風の読みだから。
日本は「やまと」と読むのが正しい。
それが「やまとだましい」と言うものw >>296
言葉足らずでスマン
「台」の一文字の発音が、今はタイだけど昔はトゥに近い音だったという話が書いてある >>310
天の入り口としてアマトもありそうだな
アマなんとかみたいな地名ないのかね >>315
当たり前だろ
中国語では倭(ワ)だと言ってるだろ >>297
未だに神武が実在してると信じている男の人って 1140年『古今華夷総図』では、倭奴と書かれた島の下(南)に、日本と書かれた島があり、さらにその下に流求(琉球)がある。
1532年『四海華夷総図』では、日本國と書かれた島の下に、倭と書かれた島があり、さらにその下に大琉球(沖縄)があり、またその下に小琉球(台湾のこと)がある。
つまり、1532年に至っても、まだ倭と日本は別々であるという認識が中国人にはあったのである。
それはなぜか?
魏志倭人伝までの倭は九州弁を喋る九州人で、隋書からは関西弁を話し、かつ「その名前がきらびやかでない」という理由で、「日本國」と名乗り出した関西弁を喋る関西人が、中国と接触を始めたからである。 妄想だけど天津神と国津神がどっかの時点で真逆に入れ替わってるかもしれん >>319
そうだよ?対外的にも倭でしか通じないんだからw
日本人が倭をなんと呼ぼうが勝手な話。
極端な話、「倭」という漢字をキビと呼ぼうがチクシと呼ぼうが自由なんだよ、当て字なんだからw 『広志』(『廣志』)によると、
「廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也」
伊都國のすぐ南に邪馬嘉國があり、続けて、
斯馬國→巴百支國→伊邪國→西南に海行一日で伊邪分國とある。
この西南に海行1日の伊邪分國は、隋書流求國伝の「夷邪久國」である。
『隋書流求國伝』の記載↓
中国の官僚が小野妹子に聞いた。「流求に行って、この布甲を持ち帰ってきたんだが、どこの物か知ってる?」
すると、小野妹子は答えた。「それは、夷邪久國の人が使うものです」
夷邪久國は、屋久島であり、したがって『広志』の伊邪分國も屋久島である。 帥升も卑弥呼も中国語では倭王
でも日本語では帥升は倭面土王であり卑弥呼は邪馬台王 一番クリティカルのは「東」と「島」の認識じゃないかな…
大和政権は日本書紀、宋書倭国伝、旧唐書日本伝などで
大和政権は「自分達の東には毛人が住んでいる」と繰り返している
ところが魏志倭人伝では「東には倭人が住んでいる」という認識しか示されない
邪馬台国は東北のアイヌと接触したことがないかのようだ
九州説なら十分あり得るだろうが、畿内説ではかなり苦しい
また畿内説だと「倭地=本州を島」と中国側が認識してることになるが
これも東北の記述が乏しいのと整合性が取れない
東北に行かなければ「本州を島」と認識することはできないからだ
だが九州説に立つと九州南端まで記述された上で
「倭地=九州を島」と認識してることになるので矛盾がない 魏は倭と対になっていて、
司馬懿は邪馬台と対になっているのでは。
倭女王が鬼道に通ず、すなわち魏に通ず。
壹与の名も司馬懿から来ているのでは。
このことに気づけた人いるかな。 『旧唐書』には、倭国伝と日本伝がありますが、日本伝の書き出しは、【日本国は倭国の別種である。】
なぜ、日本国は倭国の別種と書いたのか色々考えてみましたが、分かってみれば簡単なことでした。卑弥呼は九州にいたので中国人は九州弁を聞いていた。唐代には畿内で倭人が関西弁を喋るので、倭の別種と書いたのです。
19世紀に琉球を訪れたペリー提督やヨーロッパの人々も、「琉球語は日本語の亜種である」とか、「日本人と琉球人はさほど変わらない」と書いている。 1140年『古今華夷総図』では、倭奴と書かれた島の下(南)に、日本と書かれた島があり、さらにその下に流求(琉球)がある。
1532年『四海華夷総図』では、日本國と書かれた島の下に、倭と書かれた島があり、さらにその下に大琉球(沖縄)があり、またその下に小琉球(台湾のこと)がある。
つまり、1532年に至っても、まだ倭と日本は別々であるという認識が中国人にはあったのである。
それはなぜか?
魏志倭人伝までの倭は九州弁を喋る九州人で、隋書からは関西弁を話し、かつ「その名前がきらびやかでない」という理由で、「日本國」と名乗り出した関西弁を喋る関西人が、中国と接触を始めたからである。 >>323
天津神=日向
国津神=出雲
こうかな?
それともほんとはそんな区別があったのかどうかは分からんけど。 >>336
アイヌのことで良いだろう
縄文人は毛深いものだ 邪馬台国=大和朝廷
卑弥呼=神功皇后
これ日本書紀にもちゃんと記してある
日本の朝廷が認めたものだよ >>328
これも畿内説では厳しい
> 自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
> 女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す
諸国が恐れる一大率を九州という辺境に島流ししてしまう畿内説
本州各地の国々が島流しされた一大率を恐れるわけもなく…… >>105
匈奴を兄の国とか言ってたのが漢ですよ? >>341
太宰府の前身機関が一大卒
邪馬台国の本拠地は畿内 >>343
中国人が書いた魏志を信用して
日本人が書いた記紀を疑うのか? 魏志倭人伝の頃は九州の王がそれより西の出雲、吉備、大和あたりの勢力の
ことを伝えたくなかったって理由も考えられそう。 私は、卑弥呼がいた場所が「ヤマト」とか「ヤマタイ」なる発音をする国だったとは思わない。
上記の通り、邪馬嘉とか邪馬壱(ヤマイチ)の可能性はあったろう。
しかし、仮に「ヤマト」と読むならば、卑弥呼は九州にいた可能性が高い。
なぜならば、沖縄人は今でも、日本本土のことを「ヤマトゥー」と言うからである。
日本語族の人々が九州から沖縄に行ったのは明らかである。なぜなら、沖縄の港川人はオーストロネシア語族であり、
すなわち先住民族たるオーストロネシア語族の人々を日本本土から来た日本語族の人々が滅ぼした。
沖縄弁は鹿児島弁ともかなり違うが、やはりそれでも沖縄弁に最も近いのは鹿児島弁であり、九州弁である。
「原」をバルと読むのも同じ。 >>339
㌧
あと邪馬台国の南にある狗奴国の存在も九州っぽい感じある
畿内説だと和歌山あたりに国があったとしたら畿内の邪馬台国と国力に違いがありすぎてすぐ滅されそう
邪馬台国が北九州で狗奴国が南九州ならすぐには滅ぼされずに争ってるの分かる 在野の言語学者が魏志倭人伝の地名解読してたやつあったけどあれ見ると歴史語るときにいかに昔の発音を無視してるか思い知ったわ >>339
体毛の濃さではなく、単に毛皮を纏った人
つまり、機織りを知らない未開の民を指す蔑称 そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 歴史は文献に基づくべきだ
文献上は倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼と考えるのが自然 >>325
夷邪久國、へえー
まさかの小野妹子がそれの裏付けとはね 生活のために面白おかしく珍説並べ立てるのはわかるがねえ >>356
海外から見て、国のトップとまでは思われない
やはり神功皇后だろう
神功皇后は明治以前まで天皇として代数に加えられていた
大和朝廷の初代女帝であった 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのもかなり遅かったはずで、
邪馬台国を、外国との出先機関である伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は北部九州であると結論づけている。 卑弥呼と卑弥弓呼は同じ組織内で権力争いをやってて個人的に仲が悪かっただけ >>328
日本書紀が編纂されるよりも前から、大和朝廷は東征を進めてるよ
日本最初の将軍、巨勢麻呂が鎮東将軍に任じられたのは、日本書紀が編纂されるよりも前の事で、東北の蝦夷討伐を任じられてる
少なくとも400年代には関東までは畿内の勢力下に入ってる事は、物証が出ているので覆らない >>356
ハシハカはオオモノ主の墓だぞ
モモソ姫は一緒に葬られてるだけ よくわからないけど、
「邪馬壱」は蜀の将軍の本名「呉懿」→実際の表記「呉壱」のように、司馬懿の名と被るのを避けた表記なのかも? >>325
『廣志』によると「廣志曰〜」
って、変だよねえ
それは『韓苑』によると、じゃないの そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 >>345
太宰府が本州を監視するってまじ?さすが畿内説 >>346
>>276
持統が自分の子孫を天皇にしたいがためにその政敵になり得る連中をなんとかしたのが藤原なんじゃないかね? なとぅ…あて…やまとぅ…たんきゅうたんてぃんたんたんてぃん…
このあととぅぐ! >>362
関東だとまだ島だなんてわからなくね?
住吉さんの民なら日本海沿いにかなりの遠隔地まで行ってるから島という認識持っててもおかしくないけど 紀元前1世紀に初登場する日本人の記録『漢書地理史』には、
倭人は「定期的に」、中国に貢物を持ってくるとの記述がある。
卑弥呼の時代は『魏志倭人伝』に「倭国に牛馬なし」の記載がある。
畿内から大阪→兵庫→岡山→広島→山口→関門海峡→伊都國→壱岐→対馬→狗邪韓国→楽浪郡や帯方郡(今の平壌あたり)
このクソ遠い行程を牛馬のない倭人が奈良県から「定期的に」に貢物を持って行ったとは思えない。
391年の倭・高句麗戦争の際の、中国側資料に、「倭人は歩兵だけ」との記述があり、倭人は391年までは馬がいなかったのは確実である。
牛も馬もいないのに、どうやって定期的にたくさんの輸入品を運んだんですか? いくら中国人でも本州を島とは言わないでしょう
九州か四国かな >>368
大和朝廷は九州を統治し
大陸との外交機関として
出先機関の太宰府を置いた
一大卒はその前身にあたる
あくまで本拠地は畿内であり
北部九州は大和朝廷の最西端に過ぎない >>376
東南の大海の中に浮かぶ島でしょう
中国人は九州とか四国とか本州とか細かい事知らないでしょう >>377
一大率は諸国を検察する刺史のような役所であって外交機関ではないよ >>372
自分たちの東の毛人の存在は日本書紀編纂よりも遥か前から認識されてたってだけの事だよ
勿論海人族、安曇や隼人がもっと以前から島と認識してた可能性は高いけどね
ってか、そもそも卑弥呼よりも前から、本州最北端まで水耕稲作が伝播してるし
日本列島の概念はもっと前から割と伝わってるんじゃないかな? 邪馬台国の風俗について
魏志に記されている倭国の風俗は
魏使が辿り着いた北部九州の風俗を記したもの
従って畿内に当て嵌まらない風俗や物で有っても、何ら不思議では無い
例えば近世のオランダ人が、長崎で見聞きした風俗を記録したとしても
それが江戸のものであるとは言えないのと同義である 縄文時代には、すでに北九州の人々は自分達のことを「ヤマ」と呼び、それを聞いた中国人が邪馬壹(ヤマイ)の漢字を当てたとする説を大阪教育大学準教授・張莉氏と、世界漢字学会会長ゲンコクワ教授が唱えている。
これは沖縄の例を見ても明らかである。
沖縄人は自分達のことを昔から「ウチナー」と呼んでいたことは明らかである。
一番最初にそれが確認できるのは、鑑真の唐大話上東征伝であり、阿児奈波(当時の中国語読みだと、ウォージナーと読む)である。
それから、悪鬼納、倭急拿、屋其惹などウチナーを元にした漢字が当てられてどんどん変化していく。
最終的に沖縄(オキナワ)落ち着いたのは、薩摩の慶長検知長(1609年)である。
話は長くなりましたが、ゲンコクワ教授の結論は、邪馬台国は「九州である」とのこと。 >>379
諸国とは九州にある邪馬台国属国の事
従って、外交上でも重要な機関であった >>356
文献に基づくなら天皇が存在する以上卑弥呼は王ではないので百襲姫=卑弥呼論は成り立たないね 日本書紀によると日本書紀の書かれた奈良時代当時には
「本州は島」という認識はあったぽいが
同書によると大和政権が東北北端に達したのは
斉明4年(西暦658)のことで、北海道とされる「渡島」が出てきたのも、そこかららしい
やっぱり邪馬台国時代の畿内政権が東北北端まで把握できていたとは考えづらいんだよな
にもかかわらず「倭地は島」と魏志倭人伝に書かれているのが畿内が間違いな証拠だろう >>378
衛星写真があるわけじゃないし当時そんなのわからんよw >>377
中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官(CIA、KGB)と書いているが、
刺史が監察官だったのは前漢の時代までで、魏または三国時代の「刺史」は行政官(県知事)だったのであるから、この部分は前漢、つまり200年〜400年前に書かれた倭国に関する竹簡であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった部分も付け加えたのである。
よって、「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した! >>362
畿内説では東北北端まで畿内の勢力下にできないと
「本州は島」と魏志倭人伝で断言できないことが理解できないの? >>84
それ邪馬台国の成立する遥か前の話
畿内に王朝を打ち立てた邪馬台国こそ
大和朝廷そのもの >>374
牛馬がいなくても、奈良盆地に本拠のある大和政権が
朝鮮半島南部まで派兵するほどの勢力持ってますが?
馬に関しては馬具をそろえて使用し始めたのは400年代のようだけど
荷駄馬としてならもう少し導入が早かったと考えていいと思うけどね
6世紀には、関東各所に馬の産地が作られていたほどだし >>393
台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのもかなり遅かったはずで、
邪馬台国を、外国との出先機関である伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は北部九州であると結論づけている。 >>378
樺太って200年ぐらい前まで半島だと思われてたし本州だって半島か何かだと思われてたかもしれない 私は、卑弥呼がいた場所が「ヤマト」とか「ヤマタイ」なる発音をする国だったとは思わない。
上記の通り、邪馬嘉とか邪馬壱(ヤマイチ)の可能性はあったろう。
しかし、仮に「ヤマト」と読むならば、卑弥呼は九州にいた可能性が高い。
なぜならば、沖縄人は今でも、日本本土のことを「ヤマトゥー」と言うからである。
日本語族の人々が九州から沖縄に行ったのは明らかである。なぜなら、沖縄の港川人はオーストロネシア語族であり、
すなわち先住民族たるオーストロネシア語族の人々を日本本土から来た日本語族の人々が滅ぼした。
沖縄弁は鹿児島弁ともかなり違うが、やはりそれでも沖縄弁に最も近いのは鹿児島弁であり、九州弁である。
「原」をバルと読むのも同じ。 >>362
蘇我氏はそっちの人でしょ
鹿島神宮とか蘇我氏ゆかりの神社だし 九州説の人は南に水行20日の投馬国がどこでさらに南に10日陸行1月の邪馬台国がどこなのか教えてください これって新説か?
邪馬台国=大和国ってみんな言ってなかった? そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 >>1
まあこれで確定でいいだろうな
九州だったのならその後九州を中心に日本が発展するはずだが
それが微塵も無いからな 隋書のはいせいせいが、難波の鴻臚館?に来たことになってるみたいだけど
実は九州島から出てないんじゃないかな
なんてね >>398
考察がムチャクチャ。
ツッコミどころ多すぎるわ >>404
隋書には魏書の邪馬臺は邪摩堆の事であると書いてるよ
つまり魏志には邪馬臺と書いていた 近江から纏向、出雲、東海の3つの勢力が1つになった訳だから、八百万+纏向 >>380
上記のように津軽海峡・北海道の存在を大和政権が知るのは7世紀のことで
「本州が島」という理解はおそらくその時代までないだろう
蝦夷との交流もあるといえばあったが、
敵対する蝦夷の話だけでは信用しなかったろうな 出雲、近江から纏向、東海の3つの勢力が1つになった訳だから、八百万+纏向+東海の3つの頭文字「や」「ま」「と」なんだと思う、途中で書き込んでしまった。 記紀の神武東征を邪馬臺国が九州にあった根拠とする説がどうも分からない
邪馬臺国は日向にあったということ?
宮崎県のどの遺跡に否定されるの? 面白いね
天文学やってる人だといわゆる「卑弥呼の日食」が日本のどのあたりで見ることができたかを調べるのに血眼になってる
自転の速さが単純に遅くなるわけではなく時々で違ってきたりするせいで誤差が大き過ぎて
やっぱり今ひとつはっきりしないみたいだけど >>391
別に畿内説論者ではないが、文化の伝播を無視した考えは違うってだけだよ >>414
吉野ヶ里遺跡
トンカラリン遺跡
平塚川添遺跡
この辺りから好きなの選んで 宋書倭国伝によると大和政権は「海北の国」を征服したという
日本書紀によると百済が自らを「海北」としてる
今の日本人の感覚では「海北」は北海道を指すはずだが
大和政権の感覚では朝鮮半島を指していた
宋書の記述する5世紀当時の大和政権が北海道を知らないなら
3世紀の大和政権も知らんだろうし、「本州を島」と断言できないだろう 邪馬台国は中国読みでヤマト国
邪馬台国は当て字
しかもこれは中国人が記録した記述なんだから
これが全ての答え
難しく考える人間はバカだよな、
本当の事実はごく簡単な話なのに >>37
漢民族の思い上がりと恐れが出てるわなw
こびへつらうときには
美国
とか言い出すしw
今頃後悔してるわwww 邪馬台国の人は海中で魚から身を守るために刺青あったらしいけど
奈良は海ないだろ >>41
沖縄なら別の国と認識するだろ
行くのだって台湾から行くわ >>404
12世紀宋代の魏志写本のみこそが正で、それ以前に魏志を引用したありとあらゆる全ての史書が転記間違いというのは考えにくいがなあ
邪馬壹国は邪馬臺国の写し間違いだろう >>423
魏は邪馬台国を倭の極南界
沖縄のあたりにあると想定してたんだよ >>414
宮崎神宮も御神体が古墳なんだよね
調査立ち入りはおろか姿を見ることすら適わない
まあ今の日本で歴史の真相を解明することは不可能なんよね >>423
当時は数時間もあれば海に出ることはできた思う
生駒の麓が海岸線だし
だからといって奈良が邪馬台国といってるわけではないので誤解なきよう しかしおまえら神武が東征する前にニギハヤヒが東征してるのをなんの疑問も持たないのな。 >>423
当時と今じゃ海岸線が全く違う
奈良も当時は海に面していた
でも倭人の記述は信用ならんよ
記述通りならもうそこ南国やんw 中国人から見ると
邪馬台国の位置は普通に九州
字面を読んだら近畿なんてあり得ない >>436
生駒の山でパラソルさしてカルピス飲んでましたw 邪馬台国=大和国
卑弥呼=日の巫女(御子、皇子)
とか有名なんじゃ? ヤマタイなら九州。根拠は「~たい」は九州弁
ヤマトゥなら畿内。
ヤマイ、ヤマイツ、ヤマイチなら偽書=魏書。当時の中国と日本を対称に描いた空想記。
ごめんなさい。 遺跡の破片すら見つかってないんだから存在自体中華の捏造に決まってるじゃん 中国の文献に記載された 「邪馬壹」を中国読みで ヤマトと発音するんかね? >>437
そう九州にあった邪馬台国の出先機関
本拠地は畿内 >>417
日本書紀によると
「船で東北の蝦夷を攻撃した」という話が妙に多く
東北沿岸部は基本的に蝦夷の領域らしい
同書によると7世紀の蝦夷の国には
「五穀がなく、肉を食べてる」とあるので狩猟民族らしい
東北北部の稲作の普及は限定的なものだったのだろう
現代の狩猟民族もそうだが、
狩猟民族は基本的な縄張りに閉じ込められて動くことができない
それなのに交易品が遠くに届くのは
A部族→B部族→C部族みたいにリレー交易があるからだ
だが物ではなく情報をリレーすると不正確なものになる
つまり狩猟社会では情報の方が物より広く伝わらないのだ 吉備と巻向はとても似ていて(桃の核、弧帯紋、特殊器台、前方後円墳など)
吉備勢力が巻向に向かったとしか思えない。
また吉備は壺の流れから宮崎と盛んに交流していたこともわかっている。
宮崎→吉備→畿内といった人の流れがあり、それが東征伝説に変化したのではないかな。 >>443
してたら十分有名な事実になってただろうな
倭人伝以外の魏志の研究者は中国にはいるだろうし
彼らに読みを聞くくらいは誰かがしているだろうし 「邪馬台国なんて無かった」なんて言ったら考古学者が路頭に迷うから言えないだけだぞ?
神社跡地程度の発掘物に、調査支援金目当てで尾ひれ背ひれ付けて公表してたら
収拾が付かなくなっただけ。
石器埋めてた事件といっしょwww >>175,180
卑弥呼は役職名やヒメミコでは無いと思うな
どちらかというと姓ではないかと
古代では民族名や出身地から姓を名乗ることが多い
前スレであった卑弥呼は日向出身者
壱与又はトヨは、伊予出身、豊出身で姓のことだと思う 縄文時代、九州は噴火で一度壊滅して痩せた土地だっただめ
日本の中心は東日本が圧倒的
弥生時代になると九州が先進文化の中心地に
九州から東の方へと稲作や鉄器などが伝播
畿内はずっと田舎だったからいきなり中心地になるとは思えんな
ポテンシャルある東日本が稲作アンド鉄器で生産力が上がり再び力を増してきたときに
九州勢力との妥協点として連合国家の都になっていくのが自然な流れ
で、問題の邪馬台国の時期はまだ九州が圧倒的先進地だから
九州にあったと考えるのが地政学的に自然だろう 邪馬台国がどこに有っただか答えが出ない議論を何時までやるんだよ
邪馬台国の位置はわからないを結論にしてそれで終わりにしろ 邪馬台国の歴史を見ても動乱が治まらず男王から女王に変わってる
これは畿内の大和王権とは合わない 江戸時代前半には山丹交易という樺太アイヌと日本人との交易があったが
江戸時代後半の間宮林蔵まで樺太が島だと分からなかった
これも物の交流より情報の交流が狭かった証拠 >>321
馬鹿か
名前はどうあれ先祖はいただろう
別に天孫とかは信じていないだけ 出雲は知らんが丹波、近江、東海、吉備からの物の集積地として奈良に呼び寄せたってのはなんかで見た。 まぁ宮崎の天孫降臨観光地は近年作られたテーマパークだしな。 >>455
名前も血統もあやふやなら、そこらの百姓かも知れんだろ
父系先祖かどうかも分からないじゃん >>414
まぁ関係ないんじゃないかな
宮崎と関係ないことをはっきりさせるためコピペ貼っとく
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657~) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) わんねー はじみてぃ ちゃーびたん
はいたい ゆたさるぐとぅ うにげーさびら 奈良と出雲の連合国「邪馬台国」親魏倭王を制圧した神武は
筑紫城(筑紫京)の何代目かの「漢委奴国王」である
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の
第4皇子
だっつってんだろ
『新唐書』「日本伝」
日本(大和政権)は古の倭奴国(漢委奴国王)である
その国王(天皇)が自ら言うには、
初代の国王は「天御中主」と名乗り、「彦瀲」に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊(みこと)を尊称として、筑紫城に存在していた。
彦瀲の子の「神武」が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。 というか、古事記も西洋神話と似たところありすぎて草 >>444
年代背景全然分かってないじゃん
太宰府の成立いつだと思う? 邪馬台国の数百年前の吉野ヶ里遺跡とかはあるのに
何万人も暮らしていたという邪馬台国の場所が一切手がかりないってのがね >>316
東方見聞録の記述は「ZIPANG」だが、もしかすると最後の「G」は発音しないのではなかろうか? >>463
やっぱり馬鹿だな
天皇家は天から降りてきたわけではない
祖先はやはりいてその話をもとに機器が書かれているということだ
なぜ祖先の話が南方海洋民族の説話でできていると思う >>468
縄文時代が1万5000年以上あんだから
世界一周も人類滅亡も体験してるだろうさ >>450
普通に稲作の早かった九州の方が濃厚だよね それは割と前から言われてる一説だよ。
邪馬台国→やまてぇー→大和
むしろ大和朝廷が邪馬台国を手本として
似たような名前の国にした可能性もある。
ヒュンダイのホンダに酷似したマークみたいなもんよ。 >>412
知らなかったとするだけの説得力がないんよな
元々北の縄文人が東海まで南下してきてたわけだし、畿内は名張ルートを通じて東海と交易をしてた >>414
神武の東征は邪馬台国とは全く関係ない。 もし大陸の冊封を受け続けるならヤマト国家の中心地は九州でよかろうもん
それこそチクシが九州全体を表していた事とも合致する
それじゃあかんって勢力が九州から畿内に移り住んで九州とは別の(ヤクザで言う兄弟筋だけど)政権を建てたんだろな
その時になんだぎゃー九州人が人の米櫃に砂撒きよってからに許せんぎゃーと反発したのが愛知県一宮を長とする今で言う太平洋ベルト地帯にあった古代国家群なんだろ(詳しく知りたい人はS字甕の分類と言ったワードで調べたまへ、え?これだど下手すりゃ一宮の豪族連が逆に畿内制圧してるじゃんと思ったあなたには抗弁する知識をワテは今のところ持ちませぬ) >>472
忽然と消えるのは噴火や水害で壊滅したと考えるのが妥当
相当する時期に噴火の記録はないから、
地すべりか土石流を伴う大水害で土砂の下に埋まってるんだろう >>445
日本書紀よりも前に初代鎮東将軍が任命されて、蝦夷討伐に行ってるわけだ
そもそも論勾玉の材料の翡翠は糸魚川産だぜ? ヤマタイ=ヤマト
って新説ってほど誰も気付かないもんか??? >>474
その祖先さんとやらは父系一系で繋がってるんすか?
架空の名前で架空の神話、もはや何の皇統の根拠にもなりゃしねえ
そら誰にでも先祖はいただろうさ、俺にも2600年前からいるよ?
神武天皇(笑)がそいつとどう違うんだ?
やんごとない根拠を聞かせてくれや >>414
それは邪馬台国東遷説や九州王朝東遷説という与太話
物証が何もない >>479
ニギハヤヒは東征なんかしてねーぞ
ニギハヤヒの父ちゃんは、アメノオシホミミ
アメノオシホミミの父ちゃんは、ニニギ
奈良のアマテラスが出雲に派遣したニニギ 高天原から天孫降臨したのは
出雲のスサノウや、
河内→大和のニギハヤヒがいる。
これらの部族の特徴は、
銅剣銅戈を祭祀の道具として伝播させた部族ということだ。
そして、銅剣銅戈を祭祀の道具としていた部族は、
博多湾周辺の安曇族であった。
つまり、高天原とは、博多湾周辺だったのである。 >>437
中国人から見たら魏志倭人伝に邪馬台国は会稽東冶の東にあると書かれているので
台湾とか沖縄にならないとおかしい
九州というのはニセ中国人だな >>484
古墳時代頃に東海から関東の勢力が対九州で奈良を拠点としたというのは地政学的に十分考えられるね
気質の問題として、東海から関東にかけての民が日本史を振り返ると圧倒的に戦闘に強いのよ
狩猟採集の縄文遺伝子との混血の方が農耕民の弥生人より戦闘に向いてるんだと思う
例えば、奈良の春日大社の鹿が鹿島から来たという伝承があるのもそれを裏付けてるのではないか >>484
神武東征を文献以外に求めると、どうしても紀元前660年(期限前7世紀)が有力になる
橿原遺跡の存在と河内湾の地形描写
人類の口伝の最長記録が1200年とか1400年だから、1000年の口伝伝承は全然不可能でもない >>488
歴史的事実がどうかはどうでもよく、学者先生の利権構築にとって
最も都合の良いものが採択されるにすぎないのです
ヤマタイ=ヤマトは明らかなんだけど
台(臺の簡体字)を「タイ」と読ませることで別の国に仕立て上げることに成功 一方、天皇家は、日向生目の豪族に端を発する部族であるが、
日向の生目には銅剣銅戈の出土地が無い。
日向自体に銅剣銅戈の出土地が少ない。天皇家のニニギノミコトが、
高天原出身の部族であるという伝承はあ、
現在考古学的な裏づけが乏しいと言えるだろう。 >>414
トロイもシュリーマンが発掘するまで、誰もよく分かってなかったけど、かといって存在しなかった訳じゃないからねえ >>502
大事なもんは全部奈良に持ってったんじゃね? 縄文時代から全国で交易してたしそこに東北も含まれるし
海で本州一周出来る事くらい知ってたでしょう >>499
ニギハヤヒが先に大和に進出していた事が、
記紀や伝承に書かれているが、
コレが考古学上の大阪湾型銅戈の出土に対応し、
コレが紀元2世紀のことになるので、
神武の東征を紀元前660年にするのは完全な間違いになる。 >>489
単為生殖でもせん限り繋がっているだろう
そしてその祖先から伝わった話が
・南からやってきた
・南方海洋民族の説話
と一致していることにより文化人類学的に神武神話が事実を元にしているといえる
ただ神話だから全て作りごとというのはバカの言うことだよ 魏志倭人伝には「邪馬台国」なんて書いてないからな
「邪馬壹国」だからな
邪馬台=ヤマトと読みたい畿内説派が
壹は台の書き間違えだと何の根拠も無く言ってるのが
何故かまことしやかに広がってしまってるだけ
邪馬台→ヤマタイ→ヤマトなんて言ってるやつ、根本的に間違ってるから
あと、壹は中国語の発音でトゥなんて言わないから。ここでも捏造してるから >>505
神武が宮を置いたとされる畝傍橿原宮が見つかったのは、昭和に入ってからだからねぇ
これは記紀編纂の時代の人間には、不可能な所業 >>509
ニギハヤヒについて銅矛との関係性なんて何も記録はないけどな 東西以海為限南與倭接 方可四千里
中国はここまで知ってるんだし結構凄いよ また、銅鐸の分析によって、
出雲の大国主が大和の大物主と共同で
國造を始めたのが紀元1世紀中期頃の話になるので、
この観点からも神武の東征が紀元前660年というのは間違いだろう。 >>492
じゃあ、なんで先に奈良に入っとんねん。 ネタバレすると
邪馬壹國 = シャマンイツ國
※シャーマンのイツ=倭津=斎(イツ(イツキ))が治める地
>参考
伊都國 = イツコク = 倭津國 = ワノクニ >>511
こまけえ事は良いんだよ
ヤマイチ→ヤマチ→ヤマティ→ヤマト >>502
なんで銅を欲したかと当時の人達の思いに馳せば1番に思いつくのは大陸への反逆かなと >>513
ニギハヤヒの進出の伝承のある場所から大阪湾型銅戈が出土しており、
大阪湾型銅戈はニギハヤヒの部族が伝えたと見て間違いないだろう。 >>502
日向日向言うけど実際痕跡ぽいのがあるのは鹿児島の鹿屋や串良あたりて聞いたことある
あの辺も当時は日向だったのかもだけど >>511
そもそも写本に書いてあるだけで、原本が存在しないって
みんな分かって書いてるんだよね?
つか魏志倭人伝っていつまで使うんだろう
東夷伝の一条に過ぎないのが小国っぽくて嫌だからと
倭人伝とまるで伝があるように自国を大きく見せようとする記載を始めちゃったんだけど
日本はもうそんな些事を気にするような国じゃないよね
日本に誇りを持っているからこそ、魏志倭人条とちゃんと書くようにしようよ、と思う 大物主が大和王権に取り込まれたのが、
崇神天皇のモモソヒメと婚姻した時であり、
吉備の豪族が大和に進出したのが、
崇神の時代になるというのが
大和王権の始まりと見るのが正しい見方だろう。 >>428
極南界のくだりを仮にそう読むとしても
奈良時代でさえ大和政権は九州全土を支配できてなかったからねえ
>>473
最後にuがつくんでないかい
>>482
魏人が知ってたとする根拠はもっと薄いよねえ
>>491
「邪馬台国が存在した」という物証もないけど
誰も疑ってはいないよねえ
ヤマイ国だ、っていうのはナシ >>476
その時代って海面が100mは低かった
海の底に縄文遺跡って沢山眠ってるよね
そう思うとワクワクが止まらない >>522
何だか怪しいよ
魏志ができたのは宋代だと思い込んでる人もいそうだよね >>511
代々魏志を引用した後漢書、梁書、隋書などがみな「邪馬臺」なのに、12世紀宋代の魏志写本のみが「邪馬壹」
まあ邪馬壹が誤写だろね >>527
ウィキペくらいは見ておいて損はないと思う >>520
それ取り敢えず無理やり一致させただけで、全然説得力無いぜ?
日本全国どれだけ銅戈が出てると思ってんのさ 邪馬台国は邪馬壹国だ、って言う人は多いけど
対馬国は対海国だ、って言う人は皆無だよねえ 地方の神社に何が祭られてるかこれもヒントだお。
ただ本当の祭神が何かを知るってのも必要だが。 また、物部氏とは、
縁戚を通じてと取り込んでいった様で、
日向生目氏は吉備津彦の姫と縁戚を結んで、
大和に進出していった様だ。 記紀より先代旧事本紀や風土記のほうが信憑性があるお。 >>530
大阪湾型銅戈はニギハヤヒの進出地と一致するといっているだろうが。
ちゃんと読んでくれ。 >>524
そもそも中国人は中華の外のことにあんまり興味がない 12世紀の写本の誤記を利用して
邪馬台国を邪馬壹国だった事にしようとしている九州説がいるけど無駄な事よ 邪馬臺国だからといって畿内になるわけでもないけどねえ >>536
銅戈がどれだけ分布してると思ってんのさ?
ニギハヤヒが進出したってのがそもそも証拠もない推測だろ?
記紀の中では天磐船で天下ったことしかないぜ? >>540
大和国だった可能性は高くなる
遣隋使で大和朝廷と交流していた隋の隋書に
大和は魏志の邪馬臺の事と書いてるからね 日向生目氏の景行天皇と、
吉備津彦の播磨姫との間に生まれたのが日本武尊命で、
コレを景行天皇の妹の倭姫命が養子に貰い受けて、
山門から、出雲、丹波、近江、熱田、焼津、安房と進出していったのが
日本武尊命の東征になる。
そして山門の丹波氏は日本武尊命系の天皇家の外戚となって、
キングメーカーとしての権力を振るうことになる。 >>541
大阪湾型銅戈はニギハヤヒの進出地と一致するって意味が分からんか?
1000回読んで理解してから書き込めよ。 江戸時代のネトウヨが魏志倭人伝の南を東とか強引にねじ曲げて皇国史観に解釈したのがボタンのかけ違いの始まり
邪馬台国は素直に読んで沖縄だな 隋書に「大和は山に囲まれた盆地で」みたいなことは一切書いてないんだよねえ >>544
ニギハヤヒの進出地ってのが、そもそも推論
って意味わからん?
ニギハヤヒについての記紀の記録を読み返してみ? もっと大雑把でいい加減に解釈した方が良いと思うけどね
倭の極南界は日本列島の事だよ >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>545
会稽東冶の東と書いてる場所で見れば沖縄だし
帯方郡から南に1万2千里と距離で見れば赤道を超えたパプアニューギニア
地名と発掘品で見たら畿内
九州にはどうしてもならない >>516
ニギハヤヒの父ちゃんは、アメノオシホミミ
アメノオシホミミの父ちゃんは、ニニギ
アマテラスが出雲に派遣したニニギには三人の子がいた
第1子は海幸彦
山幸彦を追い出して出雲に留まり神武の祖父「山幸彦」に制圧された
第3子が山幸彦
出雲から九州に
九州筑紫城の大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚し、九州筑紫城の大王を継承して、神武の父の(彦瀲)を授かる
第2子は火須勢理命
どこで何してるでしょーーー 邪馬台国九州説は
畿内にあった大和朝廷の存在を説明しきれていない
仮に九州にあったとして九州の人が中国に外交使節送るとか
畿内の大和朝廷が関わって無いとでも思ってるのか?
大和朝廷こそが邪馬台国の正体なんだよ 中国史書の日本伝だったかを読めば分かるよ
宋書までは倭と邪馬台国と大和朝廷の関係がぐちゃぐちゃ
中国の史官も分かってないし日本側も説明をしてない
随書や旧唐書までいくとはっきり後裔と書いて日本神話まで収録されてる
奈良時代に貴族の間で古事記日本書紀と魏志のすり合わせができたんだろ 大阪湾型銅戈は大阪湾周辺にしか見つかっていないが、
コレが河内を拠点として大和に進出していったニギハヤヒの天孫降臨と一致する。
そして近年長野の安積野からも出土し、
ここも物部氏が進出していった地である事が分かっている。 まだ諦めないのか。
邪馬壹、邪馬薹、邪馬台、山一、山市。何れも正しい。全て原始道教、老子道徳経につながる。
薹が普通に中華でいうところの楼館。
卑弥呼の宗教道観(巻向
)。
1000人の奴婢が自由に指示されるもなく、働く或いは学ぶ所。
箸墓が卑弥呼のお墓。
天地水、道徳経3官天に燃やし地に埋め水に沈める。
卑弥呼は最期に契約を結ぶ。
我が女王は素女として黄色の御召物に袖を通され、お休みになられている。
絶対的に存在する魏尺を使っている箸墓、その後続く巨大前方後円墳。
倭人伝に記されている魏皇帝の称賛と倭五王より位の高い親魏倭王。
倭国乱歴年主無しの状況を纏める統治能力と民を導く知識と教養。
隋代まで倭人は巫を一番信じるという影響力。
以上を全て持ち合わせている人物は張盧の娘以外に存在しないんですよ。 >>547
アホかオマエは。
日本書紀、古事記、先代旧事本紀、石切劔箭神社社史等をしっかり読み込んでからレスしろ。 二次三次資料を読み込んでもねえ
一切読まないよりはマシだけどねえ 入れ墨してたってことは一年中裸でいられる気候だったってことだろ
タイとかインドネシアとかあのへんの部族を想定して書いてるよ また、大国主と大物主の國造があり、
その後、高天原の部族が進出して、
国譲りとなった。
コレが安曇族や海人族の進出であり、
それらがその他の銅剣銅戈の伝播として、
各地の銅剣銅戈の出土になって現れている。
またソレと同時代に高地性集落が出現するが、
ソレが事代主が隠れ住んだ青柴垣と見事に一致する。 なんで古墳時代にあんなにも巨大は古墳をバカバカ作ったと思う?
あれ中国や朝鮮からの使節団が日本の都を尋ねる時に否が応でも目にして「これはヤマトの国力侮れぬ」と警戒させる為だぜ
その必要がなくなりヤマト国家自体が強力になり外圧かかってこいややるならやってるとなると古墳時代はおしまいけるとなった >>550
それ日本史板で完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>564の続き
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 日本の歴史を学びたければ愛知から西だけで充分
関東東北は化外の地 九州説はカルト宗教の工作員だろうね
学説や考古学ではとっくに邪馬台国は大和国で結論出てるのに
どう考えても無理のある九州に邪馬台国を持っていって一見もっともらしい難しそうな事を言って
それに引っかかって邪馬台国を九州と思ってる人間を見て精神的勝利で自信と支配感を得て勢いづくという教義か何かなんだろ
プロパガンダによる民衆の洗脳支配のやり口というか このようにして、
高天原の部族の進出は、
出雲へのスサノウにしても
各地国譲りの安曇族海人族にしても、
ニギハヤヒの天孫降臨にしても、
銅剣銅戈の出土とリンクするものである。
元々この銅剣銅戈を祭祀の道具としていたのが博多湾周辺の部族であり、
つまり高天原とは博多湾周辺であり、
天孫降臨族とは博多湾周辺の安曇族海人族と言うことになる。 >>528
それはそうだと思うけど後漢書なんか南にあった狗奴国を
東の海を渡った先の拘奴国にしやがったからな、中国の史書の引用はほんと信用ならない
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
↓
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 卑弥呼?卑弥呼なら俺の隣で寝息たててるよ、
かわいい顔して結構激しかったぜw 九州以外では一番発展していた吉備が登場しないし、銀印ももらっていない
今の学問は実際の出雲は古事記にあるような大きな国じゃない。出雲のソースは後で貼る
533 ニューノーマルの名無しさん[sage] 2022/07/18(月) 02:37:35.60 ID:ImP6h/WX0
>>448
出雲国や吉備国が当時あった
魏志倭人伝にこの大国がいずれも登場しないことが
畿内説の大きな欠点
540 ニューノーマルの名無しさん[sage] 2022/07/18(月) 02:39:18.74 ID:bnCi2m1t0
>>533
登場してますよ で、肝心の天皇家の祖となる、
日本武尊命の祖父の垂仁天皇生目氏の
出自した日向生目に、
銅剣銅戈が出土しない事。
日向自体にも銅剣銅戈の出土が少ない、
薩摩大隅にも銅剣銅戈の出土は少ない事。
高天原は博多湾周辺に考古学的に確定したが、
ニニギノミコトが降臨した高千穂は、
博多湾周辺の安曇族が伝来した地が
日向薩摩大隅に特定できない事で、
現状不明となっている。 25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる ■■■ 日本史板での結論:邪馬台国の場所 ■■■
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>572
前に言ったけど、天孫降臨の地に関連する地名は北九州にあるらしいな。 >>574
神に仕える巫女は独身が多いし卑弥呼の宮は女官だけで
仕える男は弟王一人のみと書かれてあるからしたことなくても不思議じゃないね 自分の人生が無駄だったことになるから年寄りほど説の間違いを認められないのよ。
死ぬまで自分に嘘を付いて自説を曲げないんだろうな。 しかし、俺等が生きてる内にこの問題解決できるんかの?w 卑弥呼が金印
伊都国王と奴国王が銀印
吉備が知ったら拗ねるだろう。この時代の奈良はただの田舎 素人的には
え、ちがうの?から入るくらいの発想では 出雲地方の土器が宮崎へ流れている
税土器の流れは税の流れとされている
出雲の国譲り神話は(大和朝廷ではなく)宮崎へ譲ったのかもしれない
>>579 畿内説は破綻しているというのが最近の流れ。。
しかし、畿内説を唱える京都大学は、過去の京大の偉い先生の学説を否定することができない呪縛に囚われている >>582
学説的には邪馬台国は大和国で解決してるけど
問題の根本は九州説がカルト宗教に絡んだ団体で
世間を知識の混乱に陥れ支配しようという思惑のゴリ押しをあくまでやめない事だな
効果あるかどうかはともかく
カルト宗教だから狂気的な思想に取りつかれてたとしても不思議じゃないね スサノウが高天原から出雲に飛ばされ、
出雲で拠点とした地が、
大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡であり、
コレが前2世紀の事で、
コレと兄弟姉妹の天照大神も、
前2世紀の博多湾周辺の人物ということになる。
従って、天照大神を後3世紀の卑弥呼に比定するのは間違いになる。 まあ発音的にはヤマトゥで間違い無いだろう。
奄美や琉球に今も残っているからな。 >>567
あらすじ
(1)
「戦後の共産化の中で、マルクス史観の京大思想家たちは、どうしても皇国史観につながる東大派の邪馬台国山門説を潰す必要があった」
(2)
落合陽一「難しいのは文系です。日本の大学、とくに文系には、リサーチができる教員が限られています。理系には尊敬すべき先生が多くいるのですが、文系は数が限られます。文系が悪いと言いたいわけではなく、制度上、そういう人しか教員になれないようになっているのです」(『日本再興戦略』p.215)
萱野稔人「人文社会の分野における一部の学者たちは、科学的に考えることよりも、どのような理論を採用することが自分たちの政治的な主張にとって有利となるのか、というイデオロギー的な観点からものごとを考えがちです。興味深いのは、そうした学者たちが集まる学会や研究会ほど、同調圧力が強いということです」(『サイゾー』2020年01月号)
(3)
またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館
https://daishi.at.webry.info/200910/article_34.html
最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。 九州説がやってるのはお前ら騙されて支配されろという
怨念のこもった宗教活動によるお題目の連呼に等しい また、荒神谷遺跡と同時代の遺跡で、
大量の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡が、
大国主の拠点と考えられ、
銅鐸の時代編年と密度分布の変遷が、
大国主の國造の変遷と一致する事から、
大国主の國造を象徴する道具として、
銅鐸が用いられた事が確定している。 >>592
文部科学大臣あたりがちゃんとせいとか言わんのか? で、銅鐸が大和で作り始められた時代が、
後1世紀中期頃とされ、
この時代に、スクナビコナが離れ、
大物主との共同での國造が始まった事が分かる。 邪馬台国(やまたいこく)
台与(とよ)
台を「と」と読むなら邪馬台国は「やまとこく」
つまり大和 位置情報は九州説しかないのに畿内説は言葉尻で強弁してるだけ 大学にいるプロは確信犯
>>598
例えば幕府の場所は時代によって変わるやん? 薩長が関東を落としたように
これが東遷説 陰謀論が大好きなんで、政治的にどの立場の人が、どの説を推したいのかなってのを一回整理してほしいなと思ってる
本当はどこにあったかよりそっちが気になるんだけど 政治的にどの立場の人がどんな説を推してるとかってのは
魏の歴史書に載った以上、ヤマト政権との間に連続性や同一性がないと困るって思ってる人とかそういう人のことね
神武東征が3世紀にあったって主張してるから九州説取るとか、いるのかなあって
本当にどこにあったかより
どうして九州説を推したくて、どうして大和説を推したいかの方が気になるっていうか…
自分はほんとに陰謀論が好きなんで… >>602
元々どこにあったかはわからん
でも空白の150年で畿内にとどまったか移ってきたんだと思う
民族・政権的には邪馬台国=大和なんじゃないかな >>1
いくら当時でも、舞鶴から奈良まで一月もかかるか? 当時の日本列島には朝鮮半島経由でしかこれないんだから
中国人が日本のこと知ってるわけないわな 瀬戸内海沿岸を制し北部九州と山陰の大国を取り込んだ
機内の豪族がさらなる勢力拡大のために
漢委奴國王のように大陸に使者を出した感じと見る 邪馬台国論争が政治的にどう結びつくのかわからん
倭人在帶方東南大海之中までが一万二千余里
行程は(帯方郡)→水行20日で半島南端の投馬国→水行10日で日本上陸→陸行1月で邪馬台国
そもそも俺は場所が何処かなんて書いてない オモシロ九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!! 倭国は女が多く、基本争いは好まん処だよ。1000人男が死ねば2、3倍の女が行き場を失う。崇峻の人口比でも女が3倍近くいることになってる。まあ日本の数字は相当いい加減な数字になってるがね。酷いのは天武だな。天武期は資料として問題がありそう。 畿内説は隣国の伊都国と狗奴国はどこだ状態だから話にならないじゃん >>210
東北は外輪系になってるだろ
縄文系が起源のアクセント
西日本でもそう
>>215
調査した人の結論だから
上にあげた五つの地域が同じアクセントなのは
元々内輪東京式で繋がった大きな一つのエリアだったから
京阪式の地域が元々は内輪東京式だったってことね
それが後から畿内に来た渡来人の影響でアクセントが京阪式に変化したのな
奈良南部が内輪なのは山深くて容易に入れなかったからだろう
その渡来人の子孫が今の関西人というわけ
このことは渡来人ゲノム比率という形で証拠が残っている
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/
京阪式アクセント=渡来人ゲノム比率が高い ってなってるだろ
日本人の中で関西人の見た目が少し異質なのは列島に来たのが遅かったから
これが邪馬台国に関係している >>617
まず伊都国が何処かわからん
狗奴国は個人的な揉め事だからどうでも良い
卑弥呼が死んで収まってるし >>619
伊都国九州じゃん
それじゃ畿内説の飛躍の根拠の一大率すら不明になるだろ >>621
日本上陸地点が伊都国だと思うけどそれが何処かわからん >>622
でも九州だろ?
全部、九州で収まってんだよ >>623
何処に上陸したかわからんよ
常に使者が立ち寄るんだから伊都国は何処かにあるだろうけど 狗奴国に関しては尾張以東と河内に別れているでしょう。卑弥呼死に一旦男王が立ったが結局宗女台与が女王になってるから、結果女王国に取り込まれた国だな。
伊都国は北九州の一大率のアジトになっとる。
倭奴国は漢代、倭国の最南端と思われていた時期の代表国で、帥升(面土国)ら(何ヵ国の王)の時代には力を失っている。 >>625
卑弥呼と卑弥弓呼が仲悪かっただけだし卑弥呼が死んで解消されたしどうでも良いじゃん >>624
上陸地点がどこだろうと九州は変わらんだろ
一大率が九州なんだから 倭国大乱も畿内説のために二人の痴話喧嘩になるんかよ >>627
おまえ何言ってんだ?
伊都国には立ち寄ってるだろうがそれが何処かなんてわからんだろ >>624
当時の航海術考慮すれば壱岐島の最寄りになるだろうね
海流の影響も考えるとやはり糸島が妥当でない?
勿論証拠も何もない話だが >>629
だから九州の伊都国に立ち寄ったんだろ?何をループさせてるの? >>626、まあね。狗奴国と争いが起きて弟が出て来なくて魏に助けを求めてるから、たぶん弟だと思ってるけどね。
卑弥呼の足元河内で左けてたんだな。 >>630
常に立ち寄るんだから流されるとかじゃなく伊都国を目指してるはず >>631
俺九州なんて言ってないから
伊都国は何処なんだろう? 畿内説で一大率が九州じゃないって言ってる奴がいない
そんで伊都国を見張ってるのが一大率だと言う
じゃあ伊都国は九州でしょ >>635
本当にそうか?
仮に出雲でもおかしくないと思うけどな >>637
それこそ流されてるやんw
何かそれらしき根拠があるの? >>638
無いけど出雲や本州日本海側には直接行ってるでしょ >>628、倭国乱と卑弥呼は直接関係ないよ、年代がズレてる。卑弥呼は年長大、当時の寿命40年、
248年位没だから、倭国乱~180年には生まれていない。 地名ってのは本当にロマンを感じる
古代から脈々と受け継がれてきた証だからな 伊都が糸島なのは九州説だろうが畿内説だろうがほぼ異論ないでしょ。誰と戦ってんの? まず5世紀以前に日本という国はないからね
当然歴史もない
邪馬台国もないよ
神武天皇もいない あの辺りって海流が速くて世界有数の難所だからね
外洋渡ったモンゴル船ですら壱岐島から博多攻めるのがせいぜい
出雲行くにせよまず九州寄らなきゃ話にならないよ >>643
別に戦ってないが素直に思った事を書いてるだけ
(帯方郡)→水行20日で半島南端の投馬国→水行10日で日本上陸→陸行1月で邪馬台国
俺の説はこれだから九州上陸なんて書いてないから 壱岐は倭奴国の時代は中心的な存在でしょ、4000戸もあるし。 >>640
戦国時代が終わった後に関ヶ原があったように大きい戦争があったんじゃないの?
痴話喧嘩はないわ >>573
アマテラス
↓
アメノオシホミミ
↓
アメノホカリ←ニギハヤヒ
畿内にアメノホカリ(ニギハヤヒ)がいたと言うことは
アマテラスの高天原は奈良 >>644
国はなくとも歴史はあるよ
文字さえあればね
神武天皇は作った 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国だ。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」 でも邪馬台国がどこにあったとしても、韓国の属国だった事実は覆らないからな。倭猿は昔から韓国の奴隷だった 投馬が半島南端だとしたら、その前に出てくる対馬やら伊都やらも帯方群から半島南端までの間ってこと?
それとも一度九州上陸して伊都、奴、不弥までの行程を書いてから、また戻って半島南端〜九州上陸〜邪馬台国までの行程を書いたってこと? 神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
天之御中主神から始まる九州筑紫城の国王で
神武のひい爺さん
一方、伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は
父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・
で
天照大神、月読命、須佐之男命は
天之御中主神から始まる九州筑紫城から
出雲と奈良に追い出される でも伊都国が九州で邪馬台国の北にある
ここは変わらないんだよな
邪馬台国の南に狗奴国があると
どう考えても九州内の話だわ >>557
河内から白庭山に映っとし聞いてないわなぁ 87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg >>666
畿内説を取るなら、伊都、邪馬台、狗奴の南北関係は東西関係に置き換えないと辻褄が合わないだろうね >>668
魏が認める王は卑弥呼だと言ってその権威に効力があるって事でしょ
領土の取り合いならそんなの聞かないと思うのよね
武器を与えた方がましだしね
なんで旗なのよ? >>666
残念、伊都国は出雲です
燕王公孫氏とともに挙兵した倭奴國(筑紫城・漢委奴国王)
には、魏の使者は行かないし、行けないです
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する対馬では無い
- 海を渡る1000余里 「一大国」
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する壱岐では無い(見島もしくは隠岐)
- 海を渡る1000余里 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
燕王公孫氏とともに挙兵した倭(筑紫城・漢委奴国王)が支配する九州の整備された港ではない
「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところに遭難寸前で上陸する
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊
ちなみにこれ
スサノオが新羅に渡って戻ってきたルート そういやマテオリッチのことを利瑪竇=りまとぅって中国じゃ言うんだよな
りまとぅやまとぅ >>672
日本書紀ですら伊覩縣の名称で九州の地名として登場する 弥生時代中期後半(紀元前後)「すずり」に文字 松江の田和山遺跡から 国内最古
//mainichi.jp/articles/20200201/k00/00m/040/113000c
弥生時代最大の鉄矛が出土、長さ54・3センチ 弥生時代中期(約2100年前)の竪穴住居跡から 鳥取県倉吉の中尾遺跡
//www.chugoku-np.co.jp/articles/-/53114
57年 九州の倭奴国(筑紫城)が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になった時には、すでに
古代出雲(葦原中国)
「長門(山口県)、出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」
が存在しており
長門(山口県)には、伊都都比古(いつつひこ)という豪族がいた 畿内説は、魏志倭人伝に記載している事を無視した書き込みばかりだな >>672
(帯方郡)→水行20日で半島南端の投馬国→水行10日で日本上陸→陸行1月で邪馬台国
伊都国が出雲であったとしても俺の説はこれだから違うわな >>676
北部九州は
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になった九州の倭奴国(筑紫城)
生口を160人も渡航させられる立派な港もある
「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところに上陸なんかしねーよ >>675
ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/data/mokkan/6AABUS48/L/001495.jpg
筑前国怡土郡調綿壱伯屯〜
筑前国の怡土郡の地名が書かれた木簡
平城京跡や長岡京、藤原京、飛鳥京は膨大な数の木簡の宝庫
特に地名は探しやすい >>671
簡単な話だ
親魏倭王と為し、金印紫綬を与えるとともに倭国を平定してつき従うように要請している
豪華な贈り物も与え、国中に知らしめると良いとも言ってる
狗奴国との戦闘においては、詔書、黄幢をもたらし塞曹掾史の張政等を派遣ということから
戦闘ではなく仲裁が目的だろ
100国が内乱でばらばらになって30国程度の国をもう一度まとめあげ、協力関係を構築するため。
100枚の銅鏡もそこに意味があるのかもしれない。 >>680
狗奴国と言うより卑弥弓呼がその権威に従わなきゃダメでしょ
何故従うんだ?
同じ組織内に居るとしか思えないんだけど 奈良盆地(天照大神の高天原)を追い出された建速須佐之男命は、
紀伊国(かつては「木の国」と言った)にいた息子の五十猛と
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸に帰ってくる
【狗邪韓国】が【曾尸茂梨】
【絶海の孤島の対海國】 は【磯竹(五十猛イソタケル)島(鬱陵島)】
【一大国】は宗像氏の祖先「吾田片隅(アタカタス)」がいた【隠岐】
【末廬国】は、現在の大田市五十猛海岸周辺で
【末廬国~伊都国~奴国】が【古代出雲(葦原中国)】
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部) 帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
対馬では無く鬱陵島
日本名は【磯竹(五十猛イソタケル)島】
- 海を渡る1000余里 「一大国」
壱岐では無く、宗像氏の祖先「吾田片隅(アタカタス)」がいた【隠岐】
- 海を渡る1000余里 末廬国は
現在の大田市五十猛海岸周辺で、新羅に渡ったスサノオとイソタケルが帰ってきた上陸地
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊
- 東南に100里 奴国(因幡)
出雲の奴国 大国主の最初の妃「八上比売」の国
- 東に100里 不弥国(摂津住吉)
長官「多模(たも)」:田裳見宿禰の祖
- 南に水行20日 投馬国(近江)
長官「彌彌(ミミ)」:天忍穗耳尊
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良) >>681
いくら魏から王爵を貰っても、それだけで国内が付き従うなんてことはなかったんで戦争してただけ
倭の五王の頃だって、それで国内が平定できたわけではないじやん? >>681
漢委奴国王のときには、漢の権威があるだけで反乱が起きにくいが
世代も繰り返せば組織が腐るのは世の常
女王を立ててその不満を緩和させたのだろうが、実権は伊都国王(奴国王)が握っていると見透かされる。
大陸の覇者が決まるとすぐに倭国の代表となるべく使者を送り込み
魏と互恵関係を得ることに成功したが、周辺諸国の不満を抑え込むには至らなかったということだと思う。
そこへ、魏から正規の軍指令が和睦をもちかけるも、卑弥呼は死に(病死とも言われてる)
誰が代表として君臨するかで揉める。
魏から送られた使者は任務を果たすまで帰れず数年は滞在していると考えられ
13歳の壱与を立てて王とすることを決めるが、実のところ早く帰りたかっただけだろ。
こんな内乱が13歳の子に収められるはずもないと思うがな。 >>685
張政は魏が王と認めてるのは卑弥呼だと知らしめる為に来たんでしょ
それで効力があるのは同じ組織内でしょ
敵対勢力だと卑弥呼を倒さないと王になれないしなんの恩恵もないから聞き入れないでしょ 邪馬台国は、ヤマトが本拠地で勢力範囲に九州の一部も含まれていた
中国人が到達したのは九州の邪馬台国領土までで、
そこから瀬戸内海を渡って山を登ると、女王の都がある(けど行かなかった)
という理解で問題ないよね? >>422
台湾でも中国でも韓国でもいつも美国だろ >>687
問題ない
邪馬台国はひちりひとりのこころにあるものだから ちなみに
266年に壱与が、帰国する張政に随行させて
倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣したとき
西晋(265年 - 316年)の中央官庁に参上し
白珠五千孔、靑大勾珠二枚を、朝貢しているけれど
これは出雲の玉造りの白めのうと青めのう 単純に
邪馬台国は九州にもヤマトにもあった
でいい話 塞曹掾史、張政等の派遣が倭国の統一であると思うがその場合倭国諸国にどのような働きかけが行われるのか
三国志にあるように、周辺は巨大な勢力を持った敵国との争いが常に懸念される
半島においても、周辺の敵国と手を組み、いつ反乱が起きるてもおかしくない。
倭国は漢の時代のようにお互いがまとまって、備えておかないといつか侵略の危険さえある。
そういう話をしたことだろう。
wikiで確認したら数年どころか
20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとされる。
そうなると魏はすでに西晋に置き換わっていることから、すぐに後ろ盾を失っていることになる。
それが知れわたれば、次は何が起こるのか・・・この辺がミステリー >>686
倭国はもともと100国レベルでまとまってたが、当時は倭国大乱でばらばらになり
女王を立てることで30国くらいが奴國を中心とした同盟みたいな関係であったんだろ。
魏の意向としては元のように倭国にまとまってもらい、半島の安定に貢献してもらうことだろう。 帯方郡
ー 韓国
- 絶海の孤島の対海國(鬱陵島「和名:イソタケル島」)
- 一大国(隠岐)
- 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
- 道なき道をかきわけて伊都国(出雲)
- 奴国(因幡)
- 不弥国(摂津住吉)
- 投馬国(近江)
ー 邪馬壱國(奈良)
アマテラスに奈良を追い出されたスサノオが、
息子の五十猛と新羅に渡り帰ってきたのも
大国主に協力した渡来人「スクナビコナ」や「大物主」が朝鮮からやってきて、朝鮮に帰ったのも
このルート
ちなみに
266年に壱与が、帰国する張政に随行させて
倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣したとき
西晋(265年 - 316年)の中央官庁に参上し
白珠五千孔、靑大勾珠二枚を、朝貢しているけれど
これは出雲の玉造の白めのうと青めのう そもそもヤマトは
ヤマ:内陸、山
ト:集落、町、戸
の一般名詞
海のそばだとミナトになる 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
唐の時代に書かれた隋書ですらタイ、トゥイでおわってるからヤマトという地名に収束したのはだいぶ後だろうね 畿内説の矛盾点
1.南行を東行に読み代えないと辿り着かない
2.畿内には楼観・城柵のある遺跡は無い
3.内乱が起きた形跡のある遺跡は無い
4.倭国の特産品の絹の破片や鉄の鏃の出土が無い
従って邪馬台国畿内説は破綻している どこでもいいじゃない
真実解明されても卑弥呼饅頭の販売場所が確定するだけだよ
わからないままな方がいろんなとこで卑弥呼饅頭売れるじゃないの 神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
天之御中主神から始まる九州筑紫城の国王で
神武は、その大綿津見神(豊玉彦)の孫
一方、
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は
父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で
ニギヤハギは、その母が誰だかわからん天照大神の孫 >>698
全く問題ない
帯方郡
ー 韓国
- 絶海の孤島の対海國(鬱陵島「和名:イソタケル島」)
- 一大国(隠岐)
- 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
- 道なき道をかきわけて伊都国(出雲)
- 奴国(因幡)
- 不弥国(摂津住吉)
- 投馬国(近江)
ー 邪馬壱國(奈良)
アマテラスに奈良を追い出されたスサノオが、
息子の五十猛と新羅に渡り帰ってきたのも
大国主に協力した渡来人「スクナビコナ」や「大物主」が朝鮮からやってきて、朝鮮に帰ったのも
このルート
ちなみに
266年に壱与が、帰国する張政に随行させて
倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣したとき
西晋(265年 - 316年)の中央官庁に参上し
白珠五千孔、靑大勾珠二枚を、朝貢しているけれど
これは出雲の玉造の白めのうと青めのう >>701
お前の説を信じる奴はお前ひとりしかいない。お前はキチガイ認定 こうやって見てきたかのように自信満々に書いちゃう奴が行きすぎると統一教会信者みたいになるんだろな そもそも弥生時代までの日本は北部九州と畿内では異民族だったから
交流はしていなかったから畿内の人間が北部九州に来ることは無かったし
逆も無かった。 邪馬台国は福岡にありました
女山と書いてぞやまとか名前に残ってる 邪馬台国は九州
大和政権は邪馬台国が機内建てた国
だから名前がヤマト
なんで機内説の貧弱な根拠にしつこく粘着する奴が多いの?
やっぱり関西は大阪民国って言われるくらいだから起源説にはこだわるわけ? 東征して大和政権を作ったのは邪馬台国とは違うと思うけどな
それは宮崎県のあたりにあった国だよ
邪馬台国と大和政権には連続性はおろか関わりもないと思う 機内説は邪馬台国が発展して大和王朝になったといい
九州説では別物だという
それぞれの説を補完して出土品を突合せれば真実が見えてくるのに、最後にいつも物別れ 九州にあったけど魏に場所バレたから近畿に移ったってことにしない?
箔付けるためにつながりは持ちたかったけど場所までバレたくは無かったと >>1
日本史最大か?
日本史上最大の謎は、武士の起源だろ! >>709
うん、無いね。
殉死の習慣は、大和王朝には無いもの。 長浜浩明はおもしろいね
もう歴史学の教授はダメ。専門外から来た人でないと
学会は親分・子分の集まりだから柵が多くて >>713
桓武天皇が国軍解体した後からだろ
それ以前にも国造軍はあったがそれは武士ではない >>1
ユニークを誤用してそう。。。
《ユニークな新説》は、言わば頭痛で頭が痛いといった重複の意味になるからな
さらに、この記事を読んでユニークの誤用が連鎖してそう。。。 >>652
あー、畿内説の人か?はなっから奈良にいたって言いたいんだな。
じゃあ、神武東征はどうなんの?w >>490
邪馬台国をヤマトと読むにしても九州にもヤマトはあるし他にもあったかもしれないからそれで何か分かるなんてことはないよな >>703
このスレに限らず確定してないことを断定口調で書く奴は基本無視してる >>709
日向生目氏が吉備観間城氏の纏向政権を乗っ取った後、
邪馬台国丹波氏と吉備観間城氏の連合軍が、
生目氏出自の日本武尊命を抱いて、
大和に進出して大和朝廷の元になったというのが真相だよ。 畿内説は、最近は巻向を発掘してるグループが
主張していたが、それらの人たちは
纏向学研究センターに移り、
それも定年などで消えていった。
調べればわかるけど、
畿内説の論文や書籍は、2011年あたりを最後に
でなくなっている。 >>726
ホケノで槨が出た事で畿内説は終了したな。 倭国大乱は狭穂彦王の乱で、
邪馬台国の丹波氏の皇子狭穂彦王が、
日向の西都原に進出して、
日向の生目氏と争い、
生目氏がそれに勝って、
狭穂彦王は討死してしまった。
生目氏は丹波氏のヒバズメの姫と婚姻して、
その間に出来た倭姫命を邪馬台国の女王にして、
自らは邪馬台国の長官になり、
息子の景行を吉備津彦の姫、
播磨の姫と婚姻させて、
大和に進出していったというのが、
実際の日向の生目氏の東征になる。 魏志倭人伝が書かれたのは三国が滅んでからだから
呉への牽制とか全然間違い で、生目氏景行天皇は美濃の豪族八坂の姫と婚姻。
播磨の姫の間に出来た日本武尊命は、
妹の邪馬台国倭姫命に養子に出してしまった。
で、邪馬台国丹波氏はここで出来た吉備津彦や御間城氏との血縁関係を利用して同盟軍を組み、
出雲→丹波→近江→熱田→焼津→安房と日本武尊命の東征を行った。 >>724
こういうのが>>723で書いたように分かってないことをいかにも見てきたかのような断定口調で書く奴 大和を都にして、日本各地に四道将軍を派遣し、
初めて国を治めたという名前を戴いたのが、
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)の崇神天皇で、
コレが吉備の豪族の出自で、
そこに血縁関係で入っていった生目の垂仁天皇と景行天皇、
更に吉備の豪族と日向の生目との血縁関係で、
畿内に進出していったのが邪馬台国の丹波氏になる。
で、丹波氏が日本武尊命系統の男子の外戚となり、
キングメーカー神功皇后等を排出して、
大和朝廷の基礎を作ったというのが、
日本の古代史のあらましになる。 >>732
魏志倭人伝や漢書、
記紀や風土記、各地の伝承、
考古学上の発掘成果を統合すれば、
このような日本の古代史が再現されるのだよ。 外国の歴史書にしか記述がないんだっけ?
そんなもんなんぼ考察重ねても答えが出ないんだから、畿内と九州の間を取って四国で決定にしとこうや ただし、大和を治めながら、
日本各地に版図を築いたのは、
出雲の大国主と大和の大物主の連合が最初で、
コレが記紀に國造として記録され、
大物主は崇神朝でモモソヒメと婚姻して、
崇神町に取り込まれ、
三輪氏の祖になった。 須玖岡本遺跡→奴国=高天原の都で銅剣銅戈の一大生産地
三雲井原遺跡→前2世紀の巫女女王=天照大神の遺跡?
荒神谷遺跡→大量の銅剣の出土は、高天原から出雲に進出したスサノウの遺跡か?
加茂岩倉遺跡→荒神谷遺跡と同時代の、銅鐸の出土を特徴とする遺跡で、後に銅鐸文化圏を形成した大国主の遺跡か? ヤマトだから奈良ってもの短絡的だと思うけどね。
福岡だって元々は備前福岡から持ってきたものだし
北広島市だって北海道だしな。 邪馬台国がどこかなんて不要な議論
魏志倭人伝をちゃんと読めば、漢が九州倭人の国の代表の伊都国を訪れただけの話
邪馬台国がどこだろうと伊都が代表 大和が奈良のことなら伊都国が自分を大きく見せただけ
大和が奈良じゃないなら伊都国が代表なだけ
実態に変化なし 前8世紀、縄文晩期の寒冷化で人口が南に偏る
津軽の亀ヶ岡式土器の影響を受けて弥生式土器が誕生
長江流域に住んでいた龍信仰の百越系海人により倭国両岸に稲作が伝播
前4世紀、燕国から鉄器が伝来
https://blog-imgs-106.fc2.com/a/o/m/aomatsu123/20170709091433203.jpg まず倭国両岸には縄文人しか住んで居なかった
弥生初期に稲作を持ってきた龍信仰の百越系海人が倭国両岸に徐々に流入共存し始めて
古墳時代になると鳥を崇める太陽信仰の天孫族が大陸北方から本格的に南下して来たのが大まかな流れ
日本人の内なる3重構造 2~3世紀『魏志倭人伝』倭人の習俗
男子は大小と無く皆、鯨面文身す
男子は皆、露紒し
木綿を以て頭に縛り
其の衣は横幅、但々結束して相連ね、略々縫うこと無し
渡海して中国に詣でる際は常に一人を頭は櫛を通さず虱のいるまま衣服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにしておく、これの名を持衰という
倭王卑弥呼が魏に絹布を持参して朝貢
弥生時代に蚕飼と絹織技術は北九州にしかなかった
4~5世紀 四道将軍派遣、景行天皇、神功皇后、雄略天皇
奈良の纏向から高塚古墳が全国へ拡大、中央集権国家の成立
南東北~北陸~出雲~北九州~朝鮮半島を征服『東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国』
5~6世紀 蘇我氏が仏教や百済文化を積極的に取り入れて飛鳥を開発、先進都市化する
南九州の地下式板石積石室墓・立石土壙墓・地下式横穴墓人骨の習俗
赤色顔料の塗布
縄文形質
異形鉄器
インドネシアのクリスに似た蛇行剣を用いる
7~9世紀 大宝令『夷人雑類とは、エミシ・クマビト・アマミビト等の類を謂う』
肥人の習俗
肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我忘れめや(万葉集)とあるように、結髪法も大和人の髻と違った額髪であり、
染木綿で頭を捲いていたことは隼人と同じであって、今日、東南アジアにも見られる習俗である
(西九州古墳人・箱式石棺墓)底顔という点では南九州古墳人をしのぎ、大腿骨骨体の柱状性も強い
隼人の習俗
朱丹・顔面塗布
白・赤に染めた木綿の耳形鬘(南西アジア・東南アジアにみられる「裏頭」の系統を引くともされる)
大横の布衫
緋色の肩布(悪霊を祓う呪物)
犬・狼のトーテムを持つ
犬舞・狗吠を使う
日向神話の元ネタは赤道のニューギニア付近 裸足で陸行1月とかかなり厳しくないか
足ボロボロだろ >>741
倭人に首都という概念があったのか怪しいしね >>744
古墳時代じゃ遅すぎない?
燕方面から半島経由で倭語を話す倭人が渡来して来たのは間違いないわけで
それがいつ頃のことだろうか
水稲栽培が伝来した頃か? 西都原古墳群→男狭穂塚、女狭穂塚は狭穂彦王の乱=倭国大乱の墓標か?
ただし、丹波氏が権力を握った5世紀に築造された。
生目古墳群→活目=伊支馬=垂仁天皇の本拠地か?
妻垣→妻=日向の豪族生目が邪馬台国に進出した際の拠点か?
九州各地の生目八幡神社→生目氏が九州を支配した際の拠点か? たった30の国のまとめ役だった程度で日本全土統一してたみたいに言うな、
ってのは、なるほど言われてみればそうかもと思った。 >>1
呉への牽制の為にあえて嘘の位置を記載したって説、どうにも違和感あるな。
対立国と交流があるにしても、海の向こうの位置関係も不確かな国なんて脅威認定するのか?
本気で対処する気なら、呉も探索隊送り込んで接触図るだろ。 >>709
いつまでも妄想邪馬台国畿内説に執着するのは止めて
神武東征がどこから始まったかを議論する方が正解。 祇園山古墳→卑弥呼の死亡時期に築造された、66人の殉死の想定できる女王の墓。
平原遺跡→卑弥呼の死亡時期に築造された、16名の殉死が認められる方墳で、出土した多数の方格規矩四神鏡は魏の時代に魏の銅を混ぜて作成されたと考えられる魏鏡。
博多祇園山笠→倭姫命が夷狄の討伐で活躍した大幡主に旗を授けた事を顕彰した祭りで、張政が狗奴国との戦いで邪馬台国に黄幢を授けて鼓舞した記述と一致する伝承。
櫛田神社→倭姫命が大幡主の弟に世話をさせていた伝承があり、コレが魏志倭人伝の卑弥呼が歳の離れた弟が政務を補佐した記述と一致する。 邪馬台=やまとだろ
何で台与はとよなのに
邪馬台国になるとやまたいになるんだよ苦笑い 邪馬台国も卑弥呼も間違いなく中国人が侮蔑を込めて創作したネーミングなんだから
実在の真偽はともかく名前は変更すべきだな >>758
ヤマトはヤマトでも山門だよ
>>577の通り >>750
せいぜい九州の島を統一しましたーくらいな気がする >>750
南の熊本に負けそうだから援軍くださいと言っている 卑弥呼も卑弥弓呼もシャーマンで政権争いをしてたんじゃね? でもまぁ
邪馬台国は九州にあったっぽい
ってのが今の常識だもんな こうやって、色んな人が議論しても行き詰ってる
もうただの娯楽でしかない
新しい出土品とか出土した場所が発見されるか、
DNA解析とか新しい科学的な手法が世に出てくるのを待つしか無いな
その時に、大きな進展があると思うよ https://i.imgur.com/zgwFL3Y.jpg
倭王武は西に66国平定したと主張した
なら30国がどのくらいのスケールなのかだいたい推測することができる 丹後太田南古墳、高槻安満宮山古墳→青龍三年が記された方格規矩四神鏡が出土。何れも邪馬台国丹波氏の畿内の拠点である。
元伊勢籠神社、伊勢神宮→何れも丹波國造を祖とする海部氏尾張氏を宮司とし、伝来の鏡は伊都国平原遺跡から出土する内向花文鏡と同じモノ。 >>767
こういうの
誰も読まないんだよなwww >>748
五胡十六国時代辺りが可能性高いかね
華北の住人は遊牧民の侵攻で追い立てられ、この時代に言葉も変わるほどに住人の入れ替えが起こった >>750
この頃の国って言えば都市国家を指す
柵で囲った一集落に過ぎないからね
規模は驚くほど小さい >>765
文字文献の信憑性が低いからね
三国志にしても呉書が未完だし、当時の世相を完全に記録に残せてるわけでもない
だから、こうやって娯楽として遊べるとも言えるけどw
仮定の上に仮定を重ねては、事実には辿り着けない
出土品なり当時の遺骨のDNA分析なりと言った、客観視できる資料の根拠がどうしても必要になる >>773
だからこそ邪馬台国論争はエンタメになるんだよな
そのうえまともな文献はほとんどない
というか、魏志倭人伝だけ
その魏志倭人伝も正確かどうか疑わしいからまともな人ほど邪馬台国の研究など出来ない
なので、
学者は畿内説だよ
と言い始める奴らこそ、最低最悪な馬鹿だという事がよくわかるんだよね 台与でトヨと読んでるのに邪馬台はヤマタイはおかしいもんな >>775
邪馬台をヤマトと読むと
ヤマトだから大和だ
みたいな短絡的思考の馬鹿が増えるからじゃないかな 20年くらい前に日本と中国が共同で金印の成分を科学的に検証したんだけど
結果を発表しなかったんだよな
そこでもう邪馬台国の話は茶番劇ですわ 今後はやはり、祇園山古墳と玉垂宮(邪馬台国の港)の間に邪馬台国の都があったと考えられるので、
この辺りを重点的に調査する事だな。
もう一つは邪馬台国が奴国から覇権を奪って朝貢したのが107年の倭面土国王帥升の朝貢であり、この奴国と倭面土国との戦いの痕跡を北部九州で発掘する必要がある。
3つ目は邪馬台国との戦いに勝つ程の強力な生目氏の軍事力の痕跡を探る必要があり、
生目周辺の発掘と宇佐妻垣での生目氏の逗留の痕跡を発掘することだな。 >>776
逆じゃね
邪馬台があったから
後の政権が連続性を主張して
ヤマトって名乗ったのかもしれない >>781
そう
その可能性もあるから
邪馬台はヤマタイでいいじゃん あと、邪馬台国阿波説は、
大川隆法が自分の出生地徳島と
邪馬台国を結びつけようとする悪質なデマであり、
畿内説も統一教会=電通関連の動きが認められ、
注意する必要がある。 「臺(台)」と「壹(一)」は似てるから昔の人は勘違いして間違えて記録した可能性が高い
もともとは邪馬壱国なんだろう
それが邪馬台国として定着してしまい
「ヤマト」という言葉ができた >>777
wikipediaにこうあるけど、つまり発表されてるのでは?
> 1994年(平成6年)の蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、出土している後漢代の他の金製品とも概ね一致している。 九州: 倭、日
畿内:大きい倭、日の本
九州の語源に修飾語をつけたのが畿内の地名。 ひみこがアマテラスでひみここがスサノオでいいじゃんもう >>787
九州から畿内に移動した勢力がいたのは間違いなさそうだよね
神武天皇も東遷してるし 三国志まとめた人も
なんか魏の使節団が倭国に行ったら邪馬台国みたいな国があったんだってー
って書いただけだろ
行程もテキトーだしこれほど深読みしてもどうかと思うがね >>487
同じでしょ
日本書紀によると糸魚川のあたり=越の国は
大和政権に従っていなかったという
敵国と交易をしても地理を十分に把握するのは難しかったろう 例えば筑紫のばあいは
筑紫国(筑前国、筑後国)筑紫郡筑紫、
筑紫神社と古地名が残るが
大和国には国名が無い。
実は、記紀には、国名、地名としての大和が無い。
人名の一部にあるだけである。 古墳時代前期から中期に該当する4~6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7~10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。
https://i.imgur.com/sjW2kHM.jpg
しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。
顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。 ミトコンドリアDNA分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi.jpg
核ゲノム分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi2.jpg
参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) >>792
三国志を纏めたのは陳寿って人ね
何も裏取りもせず、残ってた資料を整理して纏めただけの人
中国の王朝が自分たちの正当性を主張する為に、過去王朝の歴史書を編纂するというのが前提なので
中国国内のことならともかく、国外の事はそんなに重要視してない
真面目に編纂するなら、距離の誤りに気付いて訂正くらいしてる
中国の歴史書なのに、中国で使われていた里程と合わない記述を残す意味がないからね Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals
日本人個人間の遺伝的関係を調べるために、1KGからの11,069人の日本人と103人の漢民族(CHB)の遺伝子型をPCAにかけました。
f2統計に基づくNJツリー(都市部から離れる程、縄文的特徴が表れやすい)
https://i.imgur.com/9LcEVYy.png
古墳人(こふんじん)とは古墳時代に日本列島に居住していた人々の総称。弥生時代以後にユーラシア大陸東部から渡来して、古墳文化を担った。
在来の縄文人や弥生人と混血し、現日本人を形成していった[1]。
本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める[1]。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 魏志東夷伝の序文には暗に司馬懿の功績を仄めかす内容が書かれてる
卑弥呼に遡ること10年前
司馬懿のライバル曹真が西から連れてきた大月氏国は距離万七千里、戸数約10万の大国
司馬懿が公孫淵を滅して東から連れてきた邪馬臺国は距離万七千里、戸数約15万国の大国
魏はこの両国に金印を授けている
おそらく司馬懿が自分の功績を盛って報告したんだろうね どこにあったかすら分からない
つまりその程度の国だったってことだよ どうやら過去に「邪馬台」という国があって、中国から金印貰ったりなんやりでずいぶん関係が深かったみたいだ
これから中国と付き合うのに「邪馬台」という名前を利用したら都合がいいかもしれない
そうだ、我々の国「倭国」の連合を「大倭国」
つまり大和とかいて「ヤマト」と呼ぶことにしよう 邪馬台国の読み方は、
狗邪(クヤ)韓国→伽倻(カヤ)
對馬(ツシマ)→対馬(ツシマ)
一支(イキ)→壱岐(イキ)
末盧(マツロ)→松浦(マツラ)
伊都(イト)→怡土(イト)
奴(ナ)→那(ナ)
不彌(フミ)→宇美(ウミ)
投馬(トマ)→妻(ツマ)
狗奴(クナ)→隈(クマ)
と、現代に地名が残っており、
その発音の一致率は、
音節の違いを0.5として16.5/19=86.84%
従って邪馬台=山門で、ヤマトと発音する確率が86.84%になる。
また、邪馬台国は倭面土国でもあり、
倭を倭国を表す当て字として考えると、
倭面土国はヤマトとなる。 >>804
倭奴国は倭の奴国なのに、倭面土国はそのまま読むのは何で?
倭の面土国ではないん? >>805
奴国は1文字なので、倭を当てる余裕が無い。
ヤマトは3文字でヤを発音の似たワに当てる余裕がある。 そもそも文字がなかったのだしヤマトだかヤマトゥだかの呼び名だけがあって
邪馬台(古代中国)も大和(時代が下った後の日本)も当て字だろう >>804
地名なんて変わることも多いですよ
しかも文字利用も怪しい時代の話ですし >>807
そんなご都合主義な、、、
仮にも朝貢してきた国名なんだから、表記の仕方のルールくらいはアチラにもあるでしょ >>809
ソレが変わっていないことを示すのが804な。 >>812
私は末盧国や伊都国の比定は怪しいと思っている派なので
証拠になりませんことよ >>804
九州の地名は田舎もん特有の箔付けで改名されてるのよ。福岡藩と薩摩藩が有名だけどそれ以外もやってる
九州の元々の地名は高句麗文化の影響を強く受けたもの。地名改変が少ない大分県に多く残ってる
大分の地名で多い「牟礼」というのは高句麗の言葉で「山」という意味 >>726
そうだね
もう撤退戦に入ってるね畿内説派は
いずれ瀬高町で決定的物証が出土するんでは >>813
いやいや
中国の政治文書の書き方に一定のルールはあって当然
倭面土国をやまとと読ませたいあなたの都合は関係ないよ 倭というのは中国人が
元々越人が住む地域の事を言っていたのが、
日本も越と似たような風土の地域だったので、
日本を倭と呼ぶようになったのだが、
肝心の日本人は日本をヤマトと言っていた様で、
倭も大倭も日本も大日本も全部ヤマトの当て字だよ。
で、蔑称の倭を和に変えて和と大和をヤマトと呼ぶことにした。
これくらい知ってるわな。 >>818
大倭をヤマトと読んでいたのは史実だよ
和銅年間の好字令で日本全国の地名の文字を統一しにかかった際に、大和に変えた 三国志の時代に卑弥呼が中国大陸にわたって中華統一を果たしたのかもしれんね 邪馬台国九州説は
畿内にあった大和朝廷の存在を説明出来ていない
大和朝廷は九州北部にも拠点を持ち大陸とも交流していた
この矛盾を説明出来ないと成立しないのが九州説である >>1
>ユニークな新説
これを書いた人って、このての話しにまったく関心がないのに商売で書いているだけなんだろうなあ >>824
多分君の中で確定している常識が他人の常識と異なってるんじゃないかな?
九州北部にあった大和朝廷の拠点とは何?
邪馬台国の時代と重なってるの? 邪馬台国九州説の正体とは
(1)九州北部の人が大和朝廷を偽称して朝貢した
(2)大和朝廷の九州出先機関が独断で朝貢した
(3)北部九州でも大和朝廷でもない第三勢力が大和朝廷を偽称して朝貢した
このどれかしかない >>827
大和朝廷が、かつての邪馬台国を僭称したんだよ >>824
神武天皇の東遷が3世紀末
神話の中の天皇が超御長寿ではなく、平均在位期間が10年(古代天皇と同じ)と仮定した場合
卑弥呼の時代のあとに東遷が起きたことになる >>826
大和朝廷は大陸と交流するにあたり
当然九州北部に拠点を持っていた
後の時代で言えば、太宰府や長崎出島的な出先機関 >>830
で?
それが卑弥呼の時代とかぶってた証拠は?
で、
どこにその出先機関があったの?その証拠は?
ほらな
お前の中の常識は他人にとっての非常識なんだよ まあ邪馬台をヤマトと読むのは疑う余地がないだろ
別に奈良の大和である必要は無いと思うが >>829
神武東征はもっと前です。
邪馬台国の時代よりも前。
というか邪馬台国と大和朝廷は同時代。
つまり邪馬台国の正体は大和朝廷。
これならしっくりきます。 >>834
それも証拠がない
「しっくりくる」気がしてるだけ
俺からすると>>828の方がしっくりくるよ >>832
逆に問えば、卑弥呼の時代と大和朝廷が被って無い証拠は?
記紀を読み解けば、大和朝廷こそ邪馬台国だと確信しますよ。 >>834
神話の天皇は本当に御長寿な神々だった、または存在しないってこと? >>837
そんな証拠は必要ないんだよ
卑弥呼の時代に球種北部に大和朝廷の出先機関があると言い張るなら
その証拠がないと意味がないんだよ >>833
それな
ヤマトという名称自体は日本中どこにでも当てはまるシロモノでしかない
大和をヤマトと読ませるのだってヤマト王権の成立以降の話だろうから
邪馬台がヤマトならむしろ近畿じゃないっていう証拠になるような気がする 九州各地にある生目八幡宮が、
生目氏が邪馬台国の長官として
権力を振るっていたとき、
そして熊襲に対峙したとき、
大和進出していった時に
拠点を築いた場所だろう。
恐らくは久留米市大善寺町西小路辺りの生目八幡宮跡が、
邪馬台国の長官だったときに、
玉垂宮の港を抑えるため拠点を置いた場所ではないか。
従って、祇園山古墳(鏡山)と玉垂宮の間に、
邪馬台国の都があったと考えられる。 >>190
何をもって衰退というかだなあ
比較すればローマの方が隆盛してたのは事実だろうし 朝廷の出先機関といえば磐井の乱のあとの筑紫館
それより古い資料はなくね? >>22
ジャもヤも口の形がほとんど同じ、ってだけじゃないかな >>42
何で拒否ってるんだろうな
天皇の歴史がひっくり返るからか?
天智天皇以前は諦めた方がいいのに >>846
自分ちのお墓だから、他人が入り込んで色々いじられたくない
という理由が一番大きい気がする >>68
なんでそこまでして卑弥呼を天皇の祖先にしたがるんだろう? ちなみに、天照大神が伊都国の三雲井原遺跡で、
妹の月読が玉垂宮に居を構えていた。
この関係が卑弥呼の時代にも続き、
祇園山古墳と平原遺跡に当時の重要な巫女がいた事と結びついている。 >>767
そいつはニギハヤヒの子孫だ。
天孫族(日向)のニギハヤヒは先立って畿内に降り立った理由は? >>847
そんなん言ったら文化財の調査なんてできねーだろが
自分たちのものかどうかすら分かってないし
古墳が天皇の墓っていう証拠なんて無いだろ
ましてや天皇の歴史すら、天智天皇以降の創作(他の様々な豪族の物語の組み合わせ)かもしれんのに >>774
発掘して当時の物を発見するしかないよね >>761
たぶん九州すらしてない
1つの県程度だろう >>851
そんなのは宮内庁に言え
一応昔から天皇の墓だと言われてるのだから、天皇家の墓だとして扱ってるんだろ
俺の実家の墓でも、勝手に掘り起こす奴がいたら通報するわな
それと同じじゃん >>846
天皇の墓じゃないからだろうなあ
大王≠天皇
6世紀くらいからなんじゃないの
天皇が天皇になって今の天皇家に繋がってると言えるのは >>822
好字令だったりの事をスルッと抜いてるから、どういう経緯で変えたのかの補完しただけだよ
後、大倭と書いてたエビデンスとかも出せるけどいる? >>774
そもそも考古学的には何の証拠も見つかってないのにマトモな考古学者が介入するわけがない >>791
九州で破れて東に逃げてきた勢力かもしれんよね >>853
何が違うねん?ニギハヤヒ=天火明命やんけ。 >>855
だから勝手に実家の墓だと言ってるだけだろって 日向(現在の宮崎県辺り)は、
高天原からニギハヤヒが天孫降臨した高千穂の地であり、
つまり、高天原は日向ではない。
日本書紀や古事記に
高天原と高千穂の関係はキチンと書いてある。
大丈夫か? >>856
だよね
天智天皇が過去の豪族の歴史を乗っ取って乙巳の変の正当性を主張しただけのような気がする
そしてそれが大成功 >>861
実家の墓だと昔から言われてるのだから
違うという方が証拠を揃えないといけない
もちろん発掘以外の方法で >>482,487
後漢書によると1世紀の頃の記述に
「倭奴国が倭国の南の境界」と書かれている
倭奴国=奴国=北九州なので
1世紀の段階では中国は北九州のことしか知らない
ところが同時代の中国産品(銅鏡・貨泉など)は
九州以外の西日本に割と普及している
これも物の交流より情報の交流が狭かった証拠
しつこいようだがリレー交易では情報の方が伝わりづらいのだ 神代→豪族の持ち回り
崇神朝
神功・応神朝
継体朝
最低でもこのくらいは王朝交代してるぽい >>865
もし調査しないなら、せめて教科書からは削除するべきだな
天皇家が個人的に主張するのは勝手だが、それを国の歴史のように語るのはおかしいだろ 1400年の歴史でも立派なんだから、
証拠が弱いところで勝手にストーリーを作ってそれを国史とするのは慎むべきだろう >>862
記紀てw
なら金札宮の由緒だと京都の伏見の上になるがなw スサノウ 高天原→出雲
ニギハヤヒ 高天原→河内→大和→安積野
ニニギノミコト、神武(実際には垂仁景行の大和進出) 高天原→高千穂→大和
丹波氏、日本武尊命 邪馬台国→出雲→丹波丹後→近江高槻→伊勢熱田→焼津→相模→安房
こういう流れだな。 >>839
何世代も同じ名前の天皇だったという説もあるよ 初代の天皇が長生きなのも複数の豪族をまとめたからだろうね >>869
今の教科書って〇〇天皇陵って表記はしてないと思うけど?
仁徳天皇陵→大仙古墳みたいになってない? >>869
確定してる歴史なんてほんの少しじゃん
小中学校で習う歴史って史実じゃなくていかに自国を好きになるかの教育だよ
そこんとこ間違えてる 九州みたいな火山噴火やら洪水やらが頻発する場所に都を置くとは、昔の日本人は相当アホだったんだな 大和朝廷による中央集権の発足によって急速に拡大する勢力ができたのはなぜか
それは、半島や大陸における勢力争いに脅威を感じて、倭国の勢力を安定多数でまとまる必要をひしひしと感じたからであろう
その勢力がいつどこから始まったのか、それを調べたほうがいい。 >>879
そう?海産物や作物も豊富だからおかしくないでしょ
むしろある程度輸送が発達してないと奈良みたいのを都にできん そもそも呉に対する謀略なら邪馬台国が存在する必要もないんだよな
俺は魏志倭人伝は信用してない >>878
古事記日本書紀のフィクションで自国を好きになれるかねえ
つーかあれって歴史じゃなくて殆ど神話だろ
歴史と呼べるのは聖徳太子以降くらいしかないじゃん
神話を歴史として教えるのはヤバいでしょ
そんなのは愛国教育でもなんでもない あと、国譲りで進出した海人族等
高天原→瀬戸内海等日本各地
だな >>883
魏志倭人伝という書物があり
その中で日本には邪馬台国や卑弥呼という人物がいたそうである
これ、フィクションではないよ
卑弥呼がいたとされる時代以降
古墳と呼ばれるものが全国に広まった
これもフィクションではないよ 弥生時代に於いても、日本列島の人口は、関東>中部>近畿>九州>四国
関東を支配下に置か無い限り、日本を治めているとは言えないわけ。
関東を支配下に置くには、九州遠すぎる。 >>887
邪馬台国や卑弥呼が関東を支配していたと読み取れる文献はどこにもないんだが >>886
魏志倭人伝に邪馬台国の記述があるのはフィクションじゃないけどその内容がフィクションな可能性はある
そもそも場所の記述がおかしい理由を考えるより全て嘘と考える方が自然 実際には、出雲の大国主の勢力は、
大物主とも結びついて、
日本のかなり広い範囲に影響力があった。
その後、四道将軍を日本各地に派遣していた吉備の豪族の王朝崇神朝も
肇国しらす天皇として知られている。
その後、垂仁、景行、日本武尊命の日向の勢力が日本を統一したのが3回目の事だな。 >>880
周の頃には倭人が周に香酒を献上し
漢の頃には鉄や銅原料を求めて半島に進出していた(元からいたともいう)わけで
倭人と半島大陸の情勢は切っても切れない関係にある
崇神が四道将軍を各地に派遣して勢力伸長を図ったのは大陸が三国志の荒れた時代だし
倭王武一族が日本列島を平定したのは空白の四世紀で
西晋が荒れて異民族にやられまくった時代 >>889
内容がフィクションかどうかは別の話
否定になってないな >>880
そのリスクより「中国と近い」というメリットの方が勝ったんだろ >>883
少なくとも古来日本人の思想や何を大切にしていたかなど
汲み取れるものがたくさんあるよ
神話としてではあっても同じような事件があっただろうことが言われてるし
子供の今の歴史の教科書見たらクロマニヨン人から書いてあって
あれ歴史じゃなくて生物じゃんって、ビビったわ 中大兄皇子はテロリストだろ?
山上みたいなもんだろ 黒塚古墳て誰のお墓なんだろ
一説には卑弥呼の墓として有力になってるみたいだけどたしかにすごい鏡の量が埋葬されてて雰囲気が違う 例えば国譲りの際、
大国主の勢力は、出雲、畿内一縁、越、信濃、静岡辺りまで影響力を持っていたが、
高天原の部族たちの武力におののいて、
あっさり国譲りを行った。 まあ現代でも自然災害の少なさと他国との距離感で一番安全な場所選べとなれば、奈良あたりになるんだろうな 計算するとちょうど「倭の国に卑弥呼という女王いた」とされる年代(3世紀半ばごろ)にわざわざすり合わせて
「神功皇后」とかいうモデルの人物が実在したかどうかも怪しい女傑登場させて
九州北部~朝鮮半島にかけて、同時代や前後の男王の存在が霞むぐらいの八面六臂の大活躍させてたりするので
記紀編纂に携わった人たちは、多分ちゃんと「魏志倭人伝」含む大陸の史書もきっちり読み込んだ上で
できるだけその辺と齟齬がないようにまとめようと努力してる感じが見て取れて
まあ、多分当時としては相当教養あって頭もいい人達の集団ではあったんだろうな
ってのはなんとなく伝わってくるよな そもそも中国の文献が証拠と言われてもなぁ
周との交流もその1000年後の文献に書かれてるやつだし信じる方が無理ある >>834
その前提で言うなら邪馬台国とヤマト王権は同時代に存在した別の勢力と考えるのが普通だと思うぞw
お前の説だと倭国大乱が九州から近畿東海まで含めた日本全土に及ぶ内乱というあり得ない話になってしまうw
邪馬台国なんて北九州の30程度の部族連合の盟主に過ぎないんだよ
その頃のヤマト王権も邪馬台国よりは強大ではあったんだろうけど畿内限定の勢力に過ぎない
3世紀初め頃にそんな統一王朝があったと考えるのは荒唐無稽 >>902
記紀を創作するときに年代を引き伸ばしたり涙ぐましい努力してるよな
あと大陸からの渡来人は編纂チームに相当の人数がいたと思う だいたい仁徳天皇陵も別人のだって話だし
日本の古代史は明治以降の教育のせいでめちゃくちゃなのよな 纏向は吉備の豪族の崇神朝と、
その後の日向の豪族の垂仁景行成務の時代にわかれている筈だ。 >>902
俺もまったく同じ感想持ってるわ
「魏志にはこう書いてあります」と引用しておきながら卑弥呼と邪馬台国の名前は決して出さない所なんか苦肉の策って感じがひしひしとする
つーか邪馬台国がヤマト王権なら堂々とその連続性を主張すればいいだけなのよね
日本書紀なんて半分は中国に見せるための見栄なんだからさ
中国と付き合いが有ったなら堂々とそれを強調すればいいし
邪馬台国から万世一系で続いてるなら銅鏡だって大事に保管してるはずよ
日本書紀のその辺の記述の怪しさからも邪馬台国とヤマト王権はまったく別物だと伺える >>909
むしろ無関係だから気にして無いとも解釈できるけどね
神宮皇后が使者を送ったとするなら、別になんの苦労もなくサラッと書けばいいだけのこと 黒塚古墳は吉備の豪族の古墳特有の、
特殊器台埴輪がない点で、
日向系の垂仁景行成務関連の古墳ではないか?
そういう意味では、
もっと丹念に生目古墳群やら
日向の弥生の発掘に力を入れたほうがいい。 瀬高町は旧下妻郡でいわゆる投馬(ツマ)国だと思っていますね。 考古学的に見て、
スサノウの存在が前二世紀で、
大国主と大物主の國造が後1世紀。
その後、ニギハヤヒの天孫降臨が
後2世紀となり、
崇神の纏向建設が4世紀初頭になるので、
この間に神武の東征とそれに続く10代の天王史を入れ込む事は難しい。 >>887
どうやったら「置か無い」なんて誤った変換が出来るんだ・・・?
わざわざ打ち直してるんでしょ、それ? 卑弥呼の時代の朝鮮半島は有力な公孫氏が魏に倒されてから
魏の直接支配地域となってたわけで、邪馬台国も魏に朝貢してるのに
神功皇后は攻めたとか矛盾することを書いてあるんだから
記紀書いた時代の人が半島の情勢に疎かったんだろうな 大和で考えると、
大物主が取り込まれたのが崇神朝の時で、
物部氏はやはり婚姻関係で取り込んでいったし、
日向の豪族の生目氏は、崇神との婚姻関係で大和に進出していったので、
神武の東征は無かったというのが
正しい見方だろう。 読みはヤマダが近いって以前聞いたな
そもそも大和政権との連続性も証明されてないし >>902
同一人物を別名を使って複数人に見せかけたり色々な嘘を交えながらそこそこ破綻がない程度には整合性を取ってるし
まあ相当のインテリ集団が作ったのは間違いないだろうね
記紀の嘘の特徴として、真逆の意味の言葉を使うというのがあるからそれを踏まえて読むと面白いよ
例えば天児屋根命(コヤネは小さな屋根の意)と大屋毘古(オオヤは大きな屋根の意)は実は同一人物だったりする 方角は平気で嘘つくけど、日数は絶対嘘つかないから、畿内にあったのが正しい。九州にあるわけないじゃん!
とか真顔で言ってんの想像したらもうね
全部嘘で邪馬台国とか無かったって言ってるほうがまだマシ >>902
こう考えるとやっぱり九州が有力としか思えないね 記述が正しいと仮定した上で研究してるうちに記述が正しくないなんてことは認められなくなるんだろうな
人生ずっと研究してきたことが只の空想になっちゃうもんな >>922
邪馬台国があった事は、魏志倭人伝の文中に「制詔」とあるので、流石にこれを否定することは無理がある
洛陽に使者が着いた時の記録が残ってたんだろう
逆に制詔ではない文面は、他の文章から転記されたものと推測されるので、信憑性に欠ける事はありえる
制詔とは皇帝の命令、言葉という意味
文体も他とは異なり、きれいで読みやすい文章になってる
ザ公文書って感じで、誰が見ても誤解しない様な書き方
制詔と出張報告、昔からの記録が入り混ざった記録が魏志倭人伝 >>902
だよね
それが読み取れるからこそ
卑弥呼や邪馬台国は大和王権とは別の勢力だったんだろうという事がわかる >>926
同意
連続性があったら「魏志に書いてあるここが我々の祖先」って
言えば正統性と歴史を内外にアピールできるしな >>923
実は日本書紀を信じても邪馬台国は九州と解釈できるんだけどね
まさに神宮皇后の記録の中にこんな一文がある
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
山門縣=山門郡
土蜘蛛田油津媛=反体制の田油津媛 逆張り田油津姫はもうええよ
記紀にあまた登場する姫の中でなんでよりによってそんなマイナーキャラに比定すんのw 狗奴国はヤマト王権
熊襲征伐したヤマト王権のヤマトタケル
南九州から北上する際に
北部九州一帯にあった卑弥呼の女王連合と
ヤマトタケルはぶつかる >>721
神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
天之御中主神から始まる九州筑紫城の国王で
神武は、その大綿津見神(豊玉彦)の孫
一方、
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は
父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で
天之御中主神から始まる九州筑紫城にはいられず
奈良に逐われた
ニギヤハギは、その母が誰だかわからん天照大神の孫 >>929
九州邪馬台国説をすんなり通すなら、これが一番筋がいいからだよ
記紀をすんなり読むなら、邪馬台国との関連性はない
畿内のヤマト王権とは別の集団が当時の九州北部にいたことがはっきりする
畿内説を取るにも、公式歴史書に何も書いてないことの理由付けができない つまり九州説を押し通すには卑弥呼が田油津姫ってことにしないと辻褄が合わないってことねw >>721
神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
天之御中主神から始まる九州筑紫城の国王で
神武は、その大綿津見神(豊玉彦)の孫
一方、
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は
父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で
天之御中主神から始まる九州筑紫城にはいられず
奈良に逐われた
ニギハヤヒは、その母が誰だかわからん天照大神の孫
奈良にいて当然だし
天之御中主神から始まる九州筑紫城からやって来た神武に対して
我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?
という長髄彦に対してニギハヤヒが
天神と人は違うのだと長髄彦を諌めるのも当然 >>935
他に記録に残ってる丁度いい人物がいない
そもそも邪馬台国とヤマト王権の関連性を見出だせる記録がどこにもない 魏使は倭国に2度訪れているが、最初は卑弥呼の生前で邪馬台国まで行って
卑弥呼と会っている、2度目は卑弥呼の死後だから卑弥呼のお墓がある
伊都国までしか行っていないので卑弥呼の後継者の壹與の事はあまり
詳しくは記載がない ちなみに
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は
父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で
その母が誰だかわからん須佐之男命を
神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)の次の
天之御中主神から始まる、権威ある九州筑紫城の国王にしようとした伊邪那岐神も
九州筑紫城にはいられなくなって淡路島に追い出される
んが
アマテラス
↓
アメノオシホミミ
↓
アメノホカリ←ニギハヤヒ
↓
ニニギ
↓
海幸彦
火明命
山幸彦←が九州筑紫城に行って大綿津見神(豊玉彦)の娘をたぶらかして結婚して
大綿津見神(豊玉彦)の次の
天之御中主神から始まる、権威ある九州筑紫城の国王に
なって
その孫の神武が東征する 神話を基に歴史を読み解こうとするのはやめた方がええよ
頭の悪い奴は特に 太陽はいずれ爆発して消滅する有限なもの
だからアマテラスは神じゃないということ
そろそろ偶像を信じるふりすることから卒業しないと >>940
弱いと思うよ
それよりも弱いのが邪馬台国との畿内の関連性 3世紀頃は、筑紫、肥、豊、熊襲はそれぞれ独立国家。
魏志倭人伝は肥の巫女さんのお話。
有明海湾岸を支配する肥国があったが
4世紀ころに筑紫が肥と戦って
高良山を取り、筑後久留米を支配する。
大善寺玉垂宮から上津天満宮、
そして高良山玉垂宮へ侵攻する
戦いの話も残る。
これで肥は筑紫の部下となり協力させられる。
ただし、完全支配下でもないみたい。
筑紫は肥という協力者を持って
豊、熊襲へ侵攻し支配する。
大隅に結構長く住んで平定する。
そして筑後に帰る。
この辺が景行天皇の話に書いてある。
孫世代の神功皇后は福岡の博多湾周辺のお話。 >>944
俺は九州説だから畿内説が弱いのはどうでもいいんだが
無理矢理登場人物に当てはめようとするのは正しいとは思わんな >>753
神武東征って、ゲルマン大移動みたいなもんで
少しずつ集落単位で移動していったんでしょ
九州だけだと土地が足りなくなって来たので、近所のおっちゃん一家誘って
沃野を求めて歩いてったのが、神武東征 >>946
まーなー
邪馬台国と畿内の関連性を示すような記録がなさ過ぎるのに、畿内説や邪馬台国東遷説をとるよりかは
まだマシだと思うけどね 当時の中国にとって邪魔だから邪馬台国なんだろうな
嫌がらせ民族だから当時の中国人の書いていること真に受けると碌なことがないぞ
卑弥呼も嫌がらせの意味を含めた日の国の皇子の略語の可能性高いしな 神功皇后の旦那の仲哀天皇は北九州が拠点。
北九州方面と博多湾方面の間の
東区の香椎宮付近に住んでいたと思われる。
そして、そこで朝鮮征伐に反対して
殺されたとする話がある。 >>949
マシかどうかじゃないんだわ
正しくないと言っている 普通、国の中心人物が余所に移住したりはしない。
豊や熊襲で食えなかった一族が
出ていっただけ。
先に行った一族に長髄彦一族がいる。 >>952
それを言い出したら、邪馬台国の場所なんか何処とも言えんよ ぶっちゃけ歴史を知って未来に活かすのは大事だが
埋没してる奴らは歴史IFばっかやってて人生を無駄にしてる 父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で
その母が誰だかわからん
アマテラス←天之御中主神から始まる、権威ある九州筑紫城にはいられず、伊邪那岐神により奈良に引っ越しさせられる
↓
アメノオシホミミ
↓
アメノホカリ←ニギハヤヒ
↓
ニニギ←アマテラスが併合した弟のスサノオの娘婿の大国主の出雲に派遣
↓
海幸彦
火明命
山幸彦←が、海幸彦により出雲から追い出されて九州筑紫城に行って
神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)の娘をたぶらかして結婚して
大綿津見神(豊玉彦)の次の
天之御中主神から始まる、権威ある九州筑紫城の国王になって
その孫の神武たち兄弟が東征する >>918
神功皇后を卑弥呼に比定するからなだけで
広開土王の碑を考えると類することはあったんじゃね >>955
そんなことはない
対立側へのカウンターとしての屁理屈と
記紀を読んだらこうなるという予想は全然違い話だ >>959
邪馬台国を示す物証なんて、神武東征の実在性よりも微妙 邪馬台国て山がたくさんあるから邪馬台国なんだろ
どこでもいいじゃねーかや >>960
物証など一つも出てきてないだろ
「ここは邪馬台国です」「ここは卑弥呼の墓です」
と書かれた看板みたいなのが出てこなければ邪馬台国論争は終わらないよwww 魏志倭人伝において邪馬壹國の単語が出現するのは1か所だけ
あとはすべて女王国と表現されている
なのに、邪馬台国はどこにある?というワードだけを使い
日程移動だけを抜き出して、どこにあるのかわからないという誘導を行っている
むしろ、魏志倭人伝における矛盾のすべてはこの日程移動記載の部分だけでこれを一端取り除くとすべてが理解できる
なぜこの日程移動の記載がそこにあるのか?という別の見方をすることも大事。 東征とか言ってるけど
本当は邪馬台国に負けて東へ逃げていった 魏志倭人伝にしか出てこないからな
ウリナラファンタジーと大して変わらん >>966
金印はなぁ
卑弥呼の死後でも移動させられるもんなぁ 藪漕ぎって
1時間かけて数百メートルの場合もある
そうやって考えると
10日歩いても対した距離ではない可能性もあるし
昼間の明るい時間帯だけで、
風待ち天候待ちも含めて小舟で移動すると考えたら20日も10日も
そんなに距離を稼げないだろう >>950
邪魔どころか明帝が死にかけてるところに司馬懿の功績吹っ掛けることができる大チャンスなもんだから
渡りに船で大歓待したぞ
木っ端弱小使節に金印授ける大盤振る舞いよ >>967
そんなことを言えば、志賀島も確定できんよ 世界の果てから明帝の徳を慕って大国がやって来ました!
司馬懿!司馬懿!あなたの司馬懿の功績でございます!
↓
金印大盤振る舞いするも
↓
即、明帝あぼーん
だいたいこんな感じ >>972
志賀島は違うと思うよ
発見の状況がおかしいだろ >>975
もうそこまで言い出したら、歴史なんて全部おかしくなるけどな
志賀島の金印は由来によくわからない話もあるけど >>976
だから
金印みたいに移動させるのが容易なものを国の位置の根拠には出来ないという当たり前の話だぞ
奴国はその他の文献で比定出来るんだよ
金印一つだけで定説になったのではない >>977
後漢の頃の奴国の位置は文献ではわからんはずだよ
逆に金印の場所から辻褄を合わせてるやん? 日程移動の記載になぜその部分だけ無理があるのかと考える理由として
・漢の時代100国は規模であったが当時は30国程度
これは別の文献などから倭国大乱の影響で分裂し、女王によって30国程度がまとまってると考えられる。
当時の国の規模から、移動に2か月も要する広さに30国というのは考えられない
・女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
2か月も移動する間に一体どれくらいの国を移動しなければならないか
伊都国に常駐するので、後は伝聞という反論をよく聞くが、それは女王国以北を把握していることになっていない
さらに言えばその先のよくわからない国として20国程度列記されている
九州の伊都国周辺だけを管理して遠く離れた国が交流するということや
諸国は伊都国を恐れはばかっているなどというのは現実離れしている。
・女王国まで万二千里と、詳細が記録された一万ちょっとの移動距離との整合性がとれない
・伊都国の王が検閲をして、女王の元へ届けるのに片道2か月かかるとか
女王へ届けに来た荷物を九州の王に預けて使者が変えるなんてことがあるのだろうか? >>938
あくまで「記紀の記載を元に」ってことならズレてはいないぞ
実在がほぼ確定していて、かつ在位年代もだいたい分かってる継体天皇を基準に
その前の天皇の在位年数からさかのぼっていくと、神功の活躍してた(とされる)年代はほぼドンピシャで当てはまるようになってる >>979
後漢の頃から場所が変わってないと言う保証がないやろ?
正に君の言った通りだ
光武帝から金印を受けた後漢の頃の倭の奴国と、魏志倭人伝の奴国の場所を同一と断定できる証拠はない
逆に金印と魏志倭人伝の奴国から、倭國之極南界也を九州北部を倭国の南端と無理やり解釈して辻褄を合わせてるに過ぎない
後漢の頃の倭国百余国が九州北部を南端とすると、70国ほどが玄界灘に沈んだ事になる >>982
単に滅ぼされただけだろうな
沈んだ事になるからおかしいとか考える人は歴史を学ぶのに向いてないと思う 後漢の時代には半島南部に倭人の集落があちこちにあった可能性もある >>983
つまり後漢書の百余国が三国時代には三十国に平定されたと? >>985
一つ聞いていいか?
なんで九州に限定するの?
中国地方とかも含めたら余裕で100も200もあるんじゃないの? >>984
後漢書倭伝の書き出しが「倭在韓東南大海中」(倭は韓の東南大海の中にある。)
から、始まってるので、朝鮮半島側まで倭の領域とする解釈は誤りだろう。 >>918
日本が朝鮮半島を攻めて征服した話なんだけど
日本は古事記、日本書紀に記載があって
チャンコロの文献にも日本が征服したって記載と石碑まであるやろ
朝鮮だけは捏造だって言ってるけど >>986
倭の南端を九州北部に持ってきたいんやろ? 邪馬台国がどこにあったか分からんし確定もほぼ無理やけど
大和朝廷の神武天皇が宮崎県から畿内まで東征したって古事記に書いてあるんだから
さすがに九州から東征したのは捏造する理由が無いと思うがな 漢の時代の100余国がどの範囲になるのか
半島から得られる鉄の出土分布でおおよそその勢力範囲を予測したらいんじゃないの?
必ずしも一致するとは限らないが少なくとも利権の恩恵があることに違いはないから >>989
それが意味不明
広島や山口を含めて今の福岡県までを範囲内にすればいいんじゃないの?
で、奴国が南端で100か国あればそれでいいんじゃないの? 東征じゃなくて東遷じゃね?本拠地を失ったままの移動 九州北部までは正確だけど投馬、邪馬台、狗奴あたりは伝聞で方位めちゃくちゃって解釈すれば済む話では >>987
山海経には燕の下に蓋国があって倭があると書かれてる
そののち後漢の時代になって30国通じている >>996
蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
北から順に
燕→ 蓋→倭と書いてるだけで、どうなってるのか、仔細は書いてないよ >>993
海を隔てても倭国でいいんか?
倭種じゃねーの? >>987
狗邪韓国は韓伝ではなく倭人伝に書かれている
倭人が住んでいたと考えるのが妥当 このスレッドは1000を超えました。
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