小田原で前方後円墳発見 3世紀末築造 王権の勢力圏示す [蚤の市★]
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古墳時代初期(3世紀末)に築造されたとみられる前方後円墳が小田原市内の住宅地で発見され、16日に報道陣向けに公開された。同市内で前方後円墳の発見は初めてで、県内でも海老名市の秋葉山3号古墳に次ぐ2番目の古さといい、専門家は「ヤマト王権成立直後の3世紀末の時点で、その勢力圏が神奈川まで及んでいたことを示す重要な証拠」と解説する。
前方後円墳は今月7月、同市城山の住宅建設現場で、市が発掘調査中に発見。約120平方メートルに土が盛られた墳丘部分と古墳の周囲に掘られた幅4メートルほどの周溝が確認された。
古墳は全体で幅25メートル、縦35メートルの規模と推測され、発見されたのはこのうち2割程度とみられる。墳丘部分は削り取られ、ひつぎなどは発見されなかった。当時の小田原について文献史料はなく、具体的な埋葬者は不明だが、ヤマト政権とつながりの強い地元の有力者とみられる。
遺構内では底に穴を意図的に開けた底部穿孔(せんこう)土器も出土。当時は祭祀(さいし)用の土器を墳丘の上に並べて被葬者を守り、後に埴輪(はにわ)の原型となったとされ、東海大学の北條芳隆教授の調査で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造と判明したという。
住宅が建つのか、保存されるのか(以下有料版で)
神奈川新聞 | 2022年8月17日(水) 05:00
https://www.kanaloco.jp/news/government/article-931196.html 神奈川にも銅鐸の集落があったが弥生時代末期に営みを終焉して、入れ替わるように古墳時代の始まりに一時的に東海の土器の集落が作られるようになった
神奈川の昔話、背中の赤い蟹は実話かもな
昔神奈川には、白サギから守ってくれる鐘を大切にする蟹たちが暮らしていた
ある日火が襲ってきて、鐘を守ろうと蟹たちは泡を吐き必死で戦った
多くの蟹たちは亡くなり、生き残った蟹の背中は赤くなっていた 卑弥呼って当て字をどうしてここまで刷り込まれてるのか不思議
日巫女でも同じ音
国内ではこの字の方の意味を持つ女王だったのでは? 神奈川と同じような変化が奈良でも起きている
ヤマト政権始まりの地、奈良も元々は銅鐸と勾玉、方形周溝墓の地域だった
弥生時代末期、東海や吉備など外部勢力の侵入を示唆する纏向遺跡が作られる
銅鐸と勾玉は見られなくなり、アイデンティティの最たるものである墓制も変わってしまう 3世紀終わりに、ヤマト王権連合に連なる勢力が関東にいたことになるワケか
当時はまだ関東って、蝦夷というか異民族のいる地域だったわけだし >>15
資料に残る"卑弥呼"使うのが不思議って..... >>1
神奈川県伊勢原市に八幡台って台地があるんだけど、ここ自体古墳じゃないの?
なんて話もあるんだけど…
付近は掘れば土器が出るって感じ どうやって作ったんだろ。
円と台形作れるだけの測量技術はどうやって そもそも
「古墳は権力者の墓で、権力を誇示するために大きさを競った。奴隷どもを酷使して無理矢理作らせた。」
ってクソみたいな間違った学説にいつまでしがみついてるのかと
民衆は常に権力者に虐げられ続け搾取され続けてきたので、暴力革命によって権力者を打倒すべき
ってマルクス史観でしか歴史を見てないからそんなトンデモ学説が出てくるんだよ
古墳は田んぼを作った残土の山
数十メートル四方の高低差を10cm以内にしないと田んぼは作れない
ものすごい測量技術と整地技術が必要で、自然界にそんな平面は存在しないから当然だと大量の残土が出る
整地を指揮し、田んぼ整備に尽力したリーダーを残土を墳墓として民衆が祀ったのが古墳
山間部で古墳は発見されていない
全て平野部のみで、稲作をしていた地域にしかない
デカさで権力を誇示するなら山の上に作らせたっておかしくない
そして古墳時代と呼ばれる時代が終わると一気に古墳は作られなくなる
これは整地が終わったからで、マルクス史観ではまったく説明できない >>23
その資料が中国人が音に当てただけの文書だよ
後に日出ずる国と送るくらいには格差無しの相手だったんじゃ無いの
だからこそ東方の島国の連中だから卑しいの文字を当てたとか 前方後円墳って前が四角で後ろが丸ってことだったのか、今気づいたわ
上が丸の鍵穴みたいにイメージしてたんだが逆さまだったんだな >>27
後にって数百年も後じゃねーか
しかも白村江でボコボコにされてるし >>28
それ言うとかの国に怒られるから、あんまり知られてないんだよなw 前方後円墳って
前方が円なんだっけ?後方が円なんだっけ? >>42
前が方形(=四角形)で後ろが円形ってことなんだと思う >>1あーあついに見つかっちゃったか幻の国だったのにあーあ 卑弥呼の時代(すぐ後)の神奈川に後に連綿と続く前方後円墳。この古墳群は弥生から古墳時代への変化を表している 埴輪はお洒落デザイン土留めだったのか
遊び心があって良いな 東京からも弥生時代末期の遺跡から巨大なヒスイの勾玉が出ているからな
貴重なものが放置されている
近畿や関東で弥生時代末期に激変が起きたのは間違いない 奈良の古墳群より遥かに古い古墳だな
大和は東遷じゃなくて西遷だったのか 北関東には大量にあるのにな
当時の人の往来ルートが気になるわ 愛知の朝日遺跡は元々近畿と同じ銅鐸、勾玉、木棺墓の地域だった
1世紀初頭の頃、銅鐸と勾玉は埋められ、甕棺墓の地域に変わってしまう
神奈川より200年以上前の話
静岡辺りも銅鐸の地域だったが古墳時代に入ると銅鐸は見られなくなる
大阪辺りでも池上曽根遺跡などヒスイの勾玉と銅鐸の集落は弥生時代末期で営みを終焉している
倭国大乱を境に各地で風習が激変している
勾玉が再び考古学的にブームになるのは、仁徳天皇陵が作られた時代 >>63
円はわかるが方形を方と略するのは意味喪失に近い命名の失敗
前方と言う単語は一般性が非常に高い >>64
前方後円という並びで方を形状のことだと考えないのは理解力に問題がある >>32
どっちが前で後ろかはまだ断定されてない
前円後方墳かも知れない >>28
和人の国があったからな。朝鮮人に滅ぼされたけど。 子供の頃山で土の中からデカイ土器を発見したのは良い思い出 神奈川の背中の赤い蟹に登場するのは火
焼津の伝承に登場するのも火
黄泉に逃れたイザナミと産み残してきた火結神の確執が倭国大乱の背景かもしれん 文字記録が無いのはつくづく残念だ
宮内庁管理の天皇陵に何か残っていればいいのだけど 文字自体は中国と交流があったから使える人間が
居ても記録する習慣がこの頃には無かったんだろうな >>66
前方後円を説明なしで理解する方が特殊だろ
他に使用例ないし 東北の伝承では赤に対して黒の神さまが登場する
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れし黒神は北に追いやられた
赤神って何なんだろうか?
鹿と言えば春日大社の神使で、元々は鹿島の鹿
鹿島の近くの千葉に前方後円墳が多いのと関係あるかもしれん
東北の三内丸山遺跡は遼河文明の影響が強い遺跡
遼河文明は龍トーテムで玉製品も特徴的
黒神と関係があるかも? そういえば千葉も古墳だらけだったか
成田のあたりとかスゲーんだよな 旧?仁徳天皇陵の写真とか必ず円墳が上だからどうしてもそのイメージがあるよな >>90
縄文と言っても縄文のどの時期なのかで分類したら面白いかもしれない >>61
古墳人は現代人とDNAが一致するが
弥生人は異なっていて別民族だから
古墳人民族の大移動でもあったんだろ 将門や鎌倉幕府や鎌倉公方並の畿内に対抗できる独立王が古代関東にいてもおかしくない。 関東も大昔から有力豪族が割拠してたんだな戦国時代みたいに。畿内から見て東夷なだけで不毛の大地で誰もいなかったわけではない。むしろ千葉や群馬はけっこうな大勢力が存在していた >>32
基本は方墳から進化した円墳でソレに祭礼用の舞台を付けたのが前方後円墳
今でも天皇の墓は円墳だよ イメージ的には戦国時代と同じじゃないか?
奈良を拠点に畿内は愛知勢に平定され、関東や東北にも広がった
ヤマト政権誕生時の奈良に九州の痕跡はなく東海吉備の影響が強いから記紀とは大分違うが >>1
歴史が動き出したか(ガタッ
( ゚д゚) 違う勢力がなんで独特な墓を真似して作るんだよ
その後数百年畿内ヤマトの勢力が同じもの作ってるんだから同じ勢力で間違いないよ 赤色立体地図で現地行かなくても未周知古墳バンバン見つけられるようになったよな
https://www.rrim.jp/ 他国の艦隊の動きまで分かるグーグルアースならこのぐらい朝飯前 伊勢は元々イワ大神の子の伊勢津彦が治めていたらしい
伊賀に石の城を築いていたという伝承もある
伊勢津彦はヤマト政権誕生時に敗れ、風を起こし東国に去った、シナノに去ったという伝承もある
神風の伊勢、常世の波が打ち寄せるところ 山とか丘陵とかの自然地形も利用した形で多くの古墳はつくられている。 前方後円墳はヤマトの大王に極めて近い首長層の墓所なんだよ。
関東は前方後円墳がかなり多い地域。 ヤマト王権が支配してた説推したいやつはスルーしてるけど
前方後円墳にも色々あるんだよ
前が四角で後ろが丸かったら勝手に支配地域認定してて
無茶苦茶な状態 >>56
小田原の久野の古墳は結構デカいし、隣の南足柄市の塚原地区は、塚(古墳)が沢山あったから塚原と呼ばれるようになったんやからな。 前方後円墳厨は苗字に金ってついてたら在日韓国人認定しちゃう奴らと似てる >>109
それを解明しちゃうと日本書紀で構成してきた
古代日本歴史観がひっくり返っちゃうからやれない
日本書紀以前を燃やして埋めて黒塗りにしてきたのバレちゃうし
天皇制にも深い繋がりあるもんで 形だけに似ているとかじゃなくて、寸法がほぼ比例していて、
何分の1スケールに縮尺されているとか正確にわかるんだよ。
で、そのモデルの原型がヤマト政権の前方後円墳と一致するわけ。
前方後円墳の爆発的な全国展開分布が、ヤマト政権の勢力圏拡大を表している、
と考えられる証拠のひとつでもある。 つまり本州の広い地域を納めてた大和の国の歴史皇紀2600年は神話だから信憑性ないけど
少なくとも皇紀1800年以上は裏付けありと言う事でおk? 地元の有力者が真似しただけだろ
大和王権との関係はない 城山って駅の裏の山のあたりか
地元名士が住んでたりする >>119
古墳が見つかった場所は小田原の城山地区。城山は小田原駅裏の丘で、小田原城の総構の中なんじゃ。 >>114
残土活用説のほうが直感的にしっくりくるなw
治水や田園開発の残土整理に盛りましたって言われた方が納得する。
川や湖との相関も取れそうなレベル 関東と大和の関係は稲荷山古墳の鉄剣金石文からも確証されてるだろ。 >>126
200年位後の雄略天皇の頃にね
3世紀末だと応神天皇
応神天皇は伊豆の豪族から船を送られた話しは確かにある >>125
群馬南部住まいで近所に小規模だけど古墳群があって
古墳と農地の関係のレス見たら割と納得出来た Google Marsで前方後円墳が見つかったことは有名 王政や天皇制の元では
・支配者は権力欲の塊で傲慢だったに違いない
・民衆は圧政に苦しんで支配者を恨んでたに違いない
こういう目でしか歴史を見られない人が教科書を作ってるからな >>123
北条時代の本丸があったエリアだものな、というか北条氏が城を拡張する時にこの古墳にブチ当たらなかったのだろうか? >>139
丘があって溝がある古墳は防御に最適なので、関西だと城や本陣として再利用されてる 野戦の時とかも、古墳ってよく本陣に利用されるよなw 野の只中に盛り上がってれば、陣地として便利だよな ヤマトと同じで古い古墳ほど、いびつな円形に小さな方形部が付き→だんだん、型が整って行ってるのが凄いな。しっかりとした繋がりが見れる。 色々明治以降の歴史観を見直す時期かもな
近畿の人々は倭国大乱前のありよう、古のありよう、平安を取り戻そうとヤマト政権に抗っていたんじゃないかな >>1
そらあるだろ
> 先史時代の小田原の中里遺跡は、
縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡(地域)として知られ、
人口比率は縄文人が多かったと考えられているが、
他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落であった。
また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な資料を提供している。
古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。
古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。
「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。
市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれる。
相模国府があったなら当たり前 >>139
小田原の歴史は平正門を討伐した藤原秀郷の子孫が波多野を名乗ってから始まる
この一族が立てた波多野城が初代小田原城
そこを北条早雲が奪取して関東管領の上杉を追い出してからが街のスタート
この管領上杉が北条武田連合軍と戦うのに頼ったのが長尾景虎
で、家名を譲ることで征伐に出られるようになった
これが川中島の始まり
総曲輪というのは山に作って切り開いていく形なので、
丘が多く、自然の地形を利用したのは想像に難くない
そら掘らずに残るわな
でも出土物ないなら片付けられて単なる丘になってた可能性大
東日本最大の古墳も「天神山」と呼ばれてた
不思議と木が一本も生えないのは昔から謎だとされてて
頂上に神社だけあった
きもいよ >>97
痕跡って土器だろ
神武や軍集団が自ら土器は作らない
神武云々は知らないが人(稲作)の移動はあった
縄文末から弥生時代に隣接地へ定着しながらの
大規模なゆっくりとした稲作適地を求めての人の移動はあったと思う
遺伝子傾向に移動の痕跡と見られるものがある >>139
中世の人も古墳は人の墓だとは知ってたから、側に供養塔や祠を作って供養してた。だから、再利用したり壊した人はその存在は知ってたと思うけど、古墳の形には興味無かったとおもう。 >>1
前方後円墳の起源は朝鮮半島
これ豆ニダ <ヽ`∀´> 元堺市民だけどせっかく古墳群が世界遺産になったのに
街おこしに生かしきれてなくて悲しい
パワースポット化とかすればいいのに
古墳カレーとかいらないw 朝鮮半島の遺跡が1世紀遅いからヤマトはやっぱり関東進出の方が早いんだろうな
そうすると同世紀の邪馬台国も近畿かなあという気はする ヤマト王権も見直されていて特に初期は、強力な軍事支配などでは無く、地方豪族との連合体で大王は統合の象徴で、外交が主な仕事。
朝鮮等との交易で得た威信財を豪族の強さに応じて配って連携を確かめ会ってたらしい。 須佐之男、大国主、大物主、少彦名命の関係とか面白いもんな 意外と小田原とか秦野、寒川、海老名辺りに邪馬台国か
当時の日本の王朝があったかもなw >>156
大和市だったりして
由来検索したら村分裂の危機を知事が大きな和で収めただったw 前が方で円が後ろて自分で言うてるのに
それでも鍵穴や言うキン肉マンおじさん多すぎ問題 >>26
色々ツッコミ所はあるけど一点だけ
「山間部で古墳は発見されていない」
これは間違い
検索すれば分かるけど、所謂山頂部築造古墳は、数え方にもよるが全国に100基近く存在する
因みに、俺の家から最も近い実例は奈良の鶯塚古墳
標高341メートルの若草山山頂に造られ、現地からは奈良盆地から生駒山まで見渡せる
勿論、昔も今も周囲に耕地は存在しない
古墳時代が終わった理由も間違ってると思うが、割愛する そもそも縄文時代の時点で日本全国のネットワークなんかとっくに出来てたんだろうし
古墳時代に畿内だけ栄えてて東は不毛の地なわけがない >>72
その資料、百舌鳥古市古墳群が行方不明何ですが? 小田原って北条早雲が牛に火をつけて襲ったところだろ 平安時代になると源平の坂東武者ばかりになるけど、ここにいた子孫はどこいったの? >>166
縄文人が貝食べすぎて地球温暖化しちゃって暑くて住めなかったんだろう
火山の噴火もあったのかな >>170
7300年前に鹿児島県沖、鬼界カルデラで超巨大噴火が起き、九州は即壊滅
西日本一帯にも火山灰などが降り注いで、瀬戸内や紀伊半島でもまんべんなく20cm積もった
生き残っても食料がゲットできなくなったんで人口激減 縄文時代よりはるか前の最終氷期は瀬戸内海は陸地で大阪平野は起伏に富んだ古大阪平野を形成していた
当時の痕跡は瀬戸内海の海底と沖積平野の下に眠っている
今では丘陵上に残された痕跡からしか窺い知ることはできないが
瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている 莫大な量
瀬戸内海周辺で最終氷期から繁栄していた集団がいたんだろうね
サヌカイト石器の2大製造拠点が香川と二上山
二上山の海側の丘陵からは日本最古の竪穴式住居が見つかっている
日本神話の天地開闢で最初に生まれたのが葦の芽
国生みで最初に生まれたのはヒルコでヒルコが乗っていた船が石楠船であり古事記では葦船
国作りでできた国が葦原中国
そしてなにわの枕詞が葦が散る どうせ大した価値のない古墳なんだから、見なかったことにして住宅建てればいいのに ショックやろな施主のひと
埋めても墓
保存しても墓 現代だって日本政府は韓国の統一教会の支配下にあるのだから
当時の関東まで韓国百済の支配が及んでいたのは当然とも言えるな >>173
トバ噴火といい噴火は怖いねえ
ほぼ絶滅状態に追い込まれる >>179
鎌倉時代以降の資料しか無いようじゃねえ この古墳が作られるより少し前の弥生時代末期、倭国大乱の時代
神奈川の銅鐸の集落は営みを終焉する
同じようなことが畿内各地でも起きており、その一つに池上曽根遺跡がある
銅鐸、巨大なヒスイの勾玉、弥生時代最大級の神殿、楠の巨大井戸、鉄工房、蛸壺が見つかった遺跡
様々な時代、様々な地域の文化が融合した集落跡
興味深いのは、石器の祠が作られていたということ
日本の草創期からある石器に対するリスペクトがあったんじゃないか?
池上曽根遺跡は摩湯丘陵の海側にある
その海は茅渟の海と呼ばれている
当てられた感じ茅はカヤや芒、葦を指す
渟は留めるという意味の字
葦を留めた海、という意味の漢字が当てられている
摩湯丘陵には伝承か残っている
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
海辺に面し湯が湧く地、摩湯 これ極めて重要な発見
因みに関東地方で前方後円墳があるのは
今まで埼玉県だけだった
おそらく埼玉の有力者の一派が小田原に移住した証 結局、日本史における「空白の4世紀」って何があったの?
邪馬台国はどうなった?消えたの?
日本史って長い割には成立の根幹部分が欠落してるよな 摩湯丘陵の伝承にも登場する馬
ヤマト政権誕生の地と言われている纏向遺跡にある、箸墓古墳からは馬具が見つかっている >>166
これ見るとこの時からもやっぱり関東に1番住んでたのかw 3世紀末に大和の古墳が神奈川にあるなら、邪馬台国は奈良決定だね。 神奈川の昔話背中の赤い蟹
火から鐘を守ろうと命をかけて戦った蟹の話
延喜式祝詞、鎮火祭には、イザナミが上津国に火結神を産み残して我は下津国を知らんと言ったとある
記紀では黄泉に逃れたイザナミ、道敷大神
延喜式祝詞には道に関する祝詞、道饗祭がある
道饗祭には、湯、港を表す津、磐がつく村が登場する
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らく‥
また延喜式祝詞には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたとある
記紀とは違うストーリーがそこにはある >>197
安倍文殊院境内にある終末期古墳は円墳
2つあるから、新たに造るくらいならどっちかに合葬してもらえば良いのではないかな 日本史3大ロマンって、この3つで良いか
1 邪馬台国の位置
2 義経不死=チンギス・ハーン説
3 明智光秀の後世=天海僧正説 城は古墳の上に建ってる場合が多いんじゃね?
大阪城も絶対下は古墳だろ 朝鮮から日本に来たのではなく日本から朝鮮に行って朝鮮人を始末したというのが正史
今も昔も万年属国
それが朝鮮 関東に何らかの勢力圏があるとは聞いた事があるが、前方後円墳まであったのだな
大きな発見と思う >>185
断片的にも文字情報を提供してくれていた中国が動乱期に入って辺境に気を配る余裕が無くなったのが、空白になったそもそもの原因
あちら側の情報が皆無である以上、こちら側で地道に発掘調査に基づき史実を再構築するしかない
4世紀に遡る文字資料が七支刀以外に発見されれば画期的なんだが 秦野や伊勢原とかでも遺跡が見つかって新東名の開通が遅れてるよね
見てみぬふりすればいいのに
あれって施工主が発掘費用出さないといけないんだよな 邪馬台国って神奈川にあったんやろ
センター北とかも遺跡あるし 銅鐸は大国主と大物主の國造の範囲を示し、
ソレが天孫族の国譲りによって
銅剣銅矛に切り替わっていくのが2世紀の話。
瀬戸内海では事代主が青柴垣に相当する
高地性集落を作って隠れた。 >>28
ウリナラ史観に不都合な痕跡は全て破壊するからな…もう残ってないだろう 荒神谷遺跡は須佐能が高天原=博多湾周辺から先駆けて
出雲に移住した遺跡であり、
コレが前2世紀の事になる。 加茂岩倉遺跡は荒神谷遺跡と同じ
最初期の銅鐸が製造された場所で、
コレが大国主の拠点である。
銅鐸は日本書紀で言う天詔琴の事である。 前方後円墳即ヤマトって頭の悪い決めつけは隣国笑えんな 須佐能と同時代の人物が天照大神であり、
コレが三雲南小路遺跡と考えられる。 >>24
そんなに出るなら、土器が出てもドキッとしないな >>220
「学」「説」なんてない
われ思う故にここにヤマトありき
というイデオロギーだけ
例えば最大級の古墳は前方後円墳に限られるという事実について
巨大築造を行える政治勢力はヤマトに限られる(私はそう思う)からそこはヤマトの勢力圏だ
てな具合 千葉👈🇭🇺ハンガリー語?
埼玉👈🇫🇮フィンランド語?
小田原👈??🤔 つうか、ヤマト自體が🇭🇺ハンガリー語だろwwwww
入植地って意味 倭国語と日本語とペルシア語が混ざってる??
🇯🇵現代日本語って こういうのって工事中に発見されるとほとんど無視で潰されちゃうんだよな
業者にしても施工主にしてもマイナスしかないから
見つけたら国から懸賞金でもあげたらいいのに >>231
周知の埋蔵文化財包蔵地なら申請出さないと開発できないからいいんだけどそうでない場所なら無視して開発するからね
あとこれら発掘費用は土地の所有者負担で調査しなければならないという理不尽な法律だしね
「土地を開発しなにか建てたければ自分で調査しろ。但し埋蔵物はすべて国のものな」
こんなの見つけても報告なんてしたくなくなる >>135
うん。
それでいて、戦国とか大好きなのが腐れパヨ >>232
典型的なニートの発言…
地主なんかに同情する奴なんて居らんよw >>236
ニートはお前な
例えば実家や親が持ってる土地を処分することになったらこの法律が引っかかり処分できなくなるんだよ
何百万も掛けて発掘調査して処分
場合によってはマイナスになることすらある
引きこもりには関係ない話かもな >>222
学説だよ
イデオロギーに合理的反論は無理だが、学説には可能
ヤマト王権の存在及びその勢力範囲を考えるうえで重要なのは古墳の大きさじゃない
3世紀前半、突如として大和盆地に出現した前方後円墳という特異な墳墓の形がその後全国に広がり、しかも古墳全体の僅かな割合しか存在しないという現象をどう解釈するか、その答えの一つだよ
当然、前提事実が異なれば結論も異なってくる 前方後円墳がトレンドらしいぜなんていう情報なんて1ヶ月もあれば日本全国に行き渡るだろ
古墳時代人を馬鹿にしすぎ ヤマトと関係ないって言うほうが根拠がなくてただそう言ってるだけ >>184
海老名の秋葉山3号墳の前方後円墳の方が古いと言われてる。 だいぶ後の5世紀に韓国で前方後円墳が作られている。これは百済に呑み込まれそうだった加羅の勢力がオレのバッグには倭がいるんだと百済に誇示したものと言われる。前方後円墳はヤマトブランドなんだよ。 >>242
今と違ってネットがまだない昭和の時代に高橋名人逮捕説が
2週間で欧州全土まで広まったらしいから国内の前方後円墳のトレンドなんて1ヶ月もあれば十分だろうね >>242
単なるトレンドなら、前方後円墳の古墳全体に対する比率が小さ過ぎる
豪族なら誰でも造れるものではなく、ヤマト王権をバックに地域で突出した権力を誇示したい有力豪族と、彼らを通じて安定した勢力拡大を目論むヤマト王権の利害が一致した場合にのみ許された一種のブランドだな
どの年代にどの地域でどのくらい前方後円墳が築造されたかを詳細に調べることで、ヤマト王権と地方との関わりが分かる 古墳作りの話が全然残ってないのが不思議すぎるな
記憶を消されたかと思うぐらい
時代的に和歌とかに残ってなきゃおかしいのに >>237
何寝言言ってるんだ
お前が言ってるのは持ち家しかもたん奴のことだろ
それは「地主」とは言わん
俺が言ってるのは大手町に本拠を持つ「四角い地主」のことよ
しがない年収のサラリーマンのくせに俺は税金払ってるんだとか言ってる奴はこれだから困る
そんなことより無茶苦茶不便な所にある小田原市役所をどうにかしようぜ
せめて駅前から直行できる大通でも通せ >>249
市役所以前に小田原の行政は無茶苦茶だよ
まず小田原城からしてエピソードは歴史上でも有数の城なのにアホの謎リメイクで超ガッカリスポットだし
交通の便よくて箱根やら湘南やら色々とアピールできるのに駅付近の商店街も廃墟化しててほんと残念 じゃどんな話だよ…
うちの近所にeなんとかいう建て売りやってる奴がいるけど
ハマ線駅前の線路わきに建て売り立てたり新幹線の脇に建て売り立てたりして無茶苦茶
職人はヤンキー上がりでろくに挨拶もできない
もううんざりだよ
2500分の1、県庁で買えるようにならんかなあ? >>28
つか後の小野妹子や鑑真の時代でも死ぬ思いで航海してたのに、その数百年前から大陸と交流があったってのは凄いよな
当時の日本や大陸の人たちは月に行く位の感覚だろう
まだ日本には文字すら無かったか時代なのに >>1
>日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造と判明したという。
ウソが堂々と書かれてるからダメだなこの記事は。 多分、近畿日本は
関東の豪族たちを取り込むタメに前方後円墳を取り入れたんだろな
丁度九州倭国を懐柔するために銅鐸を破壊したように
文化的懐柔策だろう 昭和の頃には前方後円墳は各地の諸豪族連合の象徴と習った気がする 全国の婚姻ネットワークによって旧王朝が維持されていたと考える人達も多い >>1
>専門家は「ヤマト王権成立直後の3世紀末の時点で、その勢力圏が神奈川まで及んでいたことを示す重要な証拠」と解説する。
どうすんの、コレ!w 同じ3世紀ごろの九州付近の記録
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
謎の水行陸行の箇所は、魏に朝貢に来た倭人から得た最新情報であり、その起点は帯方郡である。
■史書に書いてある事
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
F帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里である。
■図解:tps://imgur.com/jMwIArA
参考)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示していた(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国(魏志) >>1
ずいぶん小さいな。
作業員の人数でいうとせいぜい10名か。 >>267
謎なんかない
伊都国基点の放射読みが正しい
水行二十日陸行一月は水行二十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は御井
>>267
謎なんかない
伊都国基点の放射読みが正しい
水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は御井
帯方郡から伊都国まで一万五百里±α
伊都国から御井まで千里くらい
つまり帯方郡から御井まで一万二千余里
ピッタリそのもの
御井の祇園山古墳は卑弥呼の墓の記述とバチバチ合う
背後には神籠石遺跡のセンター的位置になる
巨大な高良山神籠石遺跡がある
これが当然邪馬台国の遺構
疑わしい点は1ミリ足りともない
邪馬台国は御井
>>267
謎なんかない
伊都国基点の放射読みが正しい
水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は御井
帯方郡から伊都国まで一万五百里±α
伊都国から御井まで千里くらい
つまり帯方郡から御井まで一万二千余里
ピッタリそのもの
御井の祇園山古墳は卑弥呼の墓の記述とバチバチ合う
背後には神籠石遺跡のセンター的位置になる
巨大な高良山神籠石遺跡がある
これが当然邪馬台国の遺構
疑わしい点は1ミリ足りともない
邪馬台国は御井
>>275
涙拭けよバカの猿www
>>267
謎なんかない
伊都国基点の放射読みが正しい
水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は御井
帯方郡から伊都国まで一万五百里±α
伊都国から御井まで千里くらい
つまり帯方郡から御井まで一万二千余里
ピッタリそのもの
御井の祇園山古墳は卑弥呼の墓の記述とバチバチ合う
背後には神籠石遺跡のセンター的位置になる
巨大な高良山神籠石遺跡がある
これが当然邪馬台国の遺構
疑わしい点は1ミリ足りともない
邪馬台国は御井
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも
ヤマトタケルに随行した弟橘比売命が読んだ歌
ヤマトタケルは国造の放った火に囲まれたが、天叢雲剣と火打石を使って難を逃れたとか
ヤマトタケルの時代はこの古墳より更に数十年後の時代
この古墳はヤマトタケルに火を放った国造と関係がある?
弥生時代の銅鐸の集落は銅鐸が破壊され弥生時代末期で営みを終焉
↓
東海の土器の集落が短期間営まれる
この古墳が作られたのはこの時代 四道将軍の時代か?
↓
ヤマトタケル
火vs火の戦い こういうのって工事業者が何か見つけてもそっ閉じするもんじゃないの? 関東の古代史ももっと研究されたらいいんだが
何処かに風土記が残っていないのかな? そこを掘り下げると困る人たちがいるのさ
京都らへんに >>281
常陸国風土記があるが。
てか、出雲、播磨、肥前、豊後しかあとないんだが
見つけたら大発見だからがんばれよ >>279
一人の事跡としなければ各地に神社や伝説はあるんだけど。
それきみんちの先祖が1000年前にどこに住んでたかよりは遥かにはっきりしてんじゃない? >>254
マレー系民族は2000年前にはマダガスカル島まで航海していたし、海洋民にとっては「ちょっと水渡ってくらぁ」くらいの感覚だったかも知れない 畿内から四道将軍派遣して三世紀末で小田原を支配下に組み込むなら
畿内が九州制圧するのもそのくらいになりそうだね 九州は弥生時代末期から瀬戸内海と東海の土器が結構出ているからね
奈良も弥生時代末期から東海と瀬戸内海
九州北部を抑えてたのはごく初期のヤマト政権の母体の一つ吉備など瀬戸内海の勢力かもね >>72
千葉って鯨塚も多いよね
実は前方後円墳とは鯨の霊を鎮める為に作ったでっかい鯨塚ではないかと思っている 銅原料は輸入に頼っていたそうだし
九州は日本全国から人が出入りする交易の拠点だったのかも まあ半島大陸への入口なので九州は先進地帯だっただろうな
ただ、大して時期もズレてないのに関東で古墳時代が始まってるという
当然近畿も進んでるだろうから結構広域な文化圏かもな ヤマトタケルの事績で史実なのは多分兄殺しだけ
あと全部他人からの借り物事績か創作
ヤマトタケルはカタワのような人間だった
その息子の仲哀が暗殺されたのも、結局ヤマトタケルー仲哀が
神武系のカタワのような無能な人間だったから この時代は神功皇后の朝鮮征伐だとかヤマトタケルの九州討伐だとか
まるでウソなのが丸わかりの作り話し事績だらけ
九州倭国がまるで健在なこの時期に
近畿日本が朝鮮征伐だの九州討伐だのやるわけがない
全部九州倭国からの借り物&創作神話
ほぼ全部作り話し 神武は妻国の王族でありながら、敵国となる可能性の高い近畿日本へ寝返ったカス
当然無能だった
欠史十代は単に神武の種が無能だったから
またヤマトタケルだの神功皇后だの武内宿禰だのの天皇以外の人間の事績は捏造のオンパレードなのに
天皇の事績は捏造せず正史でその無能を末代にまで晒すのは
また古事記で仲哀暗殺の顛末まで書くのは
結局仲哀暗殺を正当化するため
「神武といいその後の無能な天皇たちといいカタワのヤマトタケルといいアホの仲哀といい
もういい加減にしてくれ
沢山だ」
これが仲哀暗殺の理由
仲哀暗殺は無能な神武系から有能な崇神の母方系へ血統をすげ替えるためのクーデターで、みなが暗黙裏に賛成していた。
因みに壬申の乱も仲哀暗殺と同類
大友皇子は神武系を彷彿とさせる無能だった
だから大海人皇子に殺された
仲哀も大友皇子も殺された理由は実にバカだったから
武内宿禰が三代もの天皇に仕えただの
おおウソ八百なのは
武内宿禰こそがクーデターの主謀者だから
エグさを薄めるためにこういう作り話しが必要になっただけ
そしてもちろん応神の父親は武内宿禰
ここで実は男系は切れている
だから応神の名前には神が入っている
王朝の始祖だからだ
武内宿禰は男系であることになっているが、もちろん保険のためのウソ
男系では当然無い
道鏡事件のときに、神託を出したのが宇佐神宮なのも
「別に道鏡でいいじゃん」という神託だったのも
そもそも応神がクーデターで生まれた天皇だからだ
仲哀は無能であるが故に殺された
崇神の母方系に血統がすげ替えられたのも有能だったからだ
だから当時のセンスとしては「道鏡が有能なら別に構わないのでは」という結論は
実は自然なものだった
さて話し変わるが
弥生時代の時代区分を捏造していることを認めるか?
認めるならオレが発見した世紀の大発見っての説明してあげる
認めないなら永遠に葬り去る
上の書き込み見りゃ分かるように、オレ以外には発見はまず不可能なことだ
オレが喋らず口を閉じれば永遠に消え去る
オレは別に困らない
さあどうする?
もう余り時間は残ってないぞ
もう遺跡はほとんど崩れてしまっている
神奈川は川崎にも古墳があって現在調査中らしいけど埴輪も出てきて
どうも円の直径30メートルくらいの前方後円墳らしい
平塚の前方後円墳と同じ塚越古墳とい名前 7世紀に書かれた古事記やましてや日本書紀の文面を追って、いろいろとコネクリ返して解釈してみてもダメ。このような古墳の広がりや年代、遺物を分析する考古学の力が大きい。 考古学だけなら名無しの権兵衛、ストーリーのない歴史になる
考古学的成果と整合性がとれるストーリーを、文献枕詞昔話伝承から復元していかないとね 日本の考古学者は結論を決めておいてそれに合うようこねくり回してるだけだから無駄 前方後円墳なら堺市が圧巻だな
google earthでみるとすげぇデカさ >>313
8世紀以降の文献を基に数百年前の歴史ストーリーを復元しても、それは単なる後世が考えた歴史物語に過ぎず、意味がない
辺境国家の悲しさだね >>316
古墳に骨壷という組み合わせがお望みなら、飛鳥の中尾山古墳に追葬するがよろし
最高級の八角円墳だし、少しは整備されて文武天皇も喜ぶだろう 現皇族の祖先として知られる継体天皇の父祖の地、滋賀県の稲荷山古墳では新羅の豪華な威信財が発見されている。百済から船で出ると博多に着くが、新羅からだと、海流の関係で山陰、京都、日本海(越=福井・富山・新潟)に着く場合もある。継体天皇の先祖が新羅から来たと言うわけではなく、従来の百済とネットワークを持っていたヤマト政権から、新羅とのネットワークを持っていた政権に変わったと言うのが興味深い。古墳の副葬品からは、いろいろな事が分かる >>287
それを見ると稲作文化は朝鮮半島から南下よりも南方より海を渡って日本に伝わったという説のほうが信憑性が高い
何故なら朝鮮半島では寒冷な気候のせいで水耕栽培はうまくいかず長く陸稲が中心だったから >>317
そのせいで何でもかんでも朝鮮半島から伝わったと特に根拠もなく勝手に整理されているのが戦後の歴史学会 >>169
古代豪族の子孫は国造として、律令時代は地方行政を担う郡司として存続したが、10世紀以降受領国司制度の浸透に伴い、その殆どが没落した
地方に土着した受領国司の子孫と、郡司層が没落した後に勃興した富裕農民層がお互いの権益保護のために主従関係を結んで形成されたのが坂東武士団 >>25
ロープ使えばバカでも描けるぞ。
小さく描いた絵を20倍で描くのもロープでできる。 それ、子供の自由研究の宿題で子供と一緒に作ったやつだぞ >>139
古墳を改造して陣城や砦にしてるからな
有名なのだと大坂夏の陣の時に真田信繁が岡ミサンザイ古墳を陣城に作り変えてる
家康が本陣を置いた茶臼山も古墳だしな 中国 司馬懿「ウェーイ!中華統一!」
倭国 土人「雑草うめぇ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています