小田原で前方後円墳発見 3世紀末築造 王権の勢力圏示す [蚤の市★]
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古墳時代初期(3世紀末)に築造されたとみられる前方後円墳が小田原市内の住宅地で発見され、16日に報道陣向けに公開された。同市内で前方後円墳の発見は初めてで、県内でも海老名市の秋葉山3号古墳に次ぐ2番目の古さといい、専門家は「ヤマト王権成立直後の3世紀末の時点で、その勢力圏が神奈川まで及んでいたことを示す重要な証拠」と解説する。
前方後円墳は今月7月、同市城山の住宅建設現場で、市が発掘調査中に発見。約120平方メートルに土が盛られた墳丘部分と古墳の周囲に掘られた幅4メートルほどの周溝が確認された。
古墳は全体で幅25メートル、縦35メートルの規模と推測され、発見されたのはこのうち2割程度とみられる。墳丘部分は削り取られ、ひつぎなどは発見されなかった。当時の小田原について文献史料はなく、具体的な埋葬者は不明だが、ヤマト政権とつながりの強い地元の有力者とみられる。
遺構内では底に穴を意図的に開けた底部穿孔(せんこう)土器も出土。当時は祭祀(さいし)用の土器を墳丘の上に並べて被葬者を守り、後に埴輪(はにわ)の原型となったとされ、東海大学の北條芳隆教授の調査で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造と判明したという。
住宅が建つのか、保存されるのか(以下有料版で)
神奈川新聞 | 2022年8月17日(水) 05:00
https://www.kanaloco.jp/news/government/article-931196.html >>123
北条時代の本丸があったエリアだものな、というか北条氏が城を拡張する時にこの古墳にブチ当たらなかったのだろうか? >>139
丘があって溝がある古墳は防御に最適なので、関西だと城や本陣として再利用されてる 野戦の時とかも、古墳ってよく本陣に利用されるよなw 野の只中に盛り上がってれば、陣地として便利だよな ヤマトと同じで古い古墳ほど、いびつな円形に小さな方形部が付き→だんだん、型が整って行ってるのが凄いな。しっかりとした繋がりが見れる。 色々明治以降の歴史観を見直す時期かもな
近畿の人々は倭国大乱前のありよう、古のありよう、平安を取り戻そうとヤマト政権に抗っていたんじゃないかな >>1
そらあるだろ
> 先史時代の小田原の中里遺跡は、
縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡(地域)として知られ、
人口比率は縄文人が多かったと考えられているが、
他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落であった。
また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な資料を提供している。
古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。
古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。
「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。
市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれる。
相模国府があったなら当たり前 >>139
小田原の歴史は平正門を討伐した藤原秀郷の子孫が波多野を名乗ってから始まる
この一族が立てた波多野城が初代小田原城
そこを北条早雲が奪取して関東管領の上杉を追い出してからが街のスタート
この管領上杉が北条武田連合軍と戦うのに頼ったのが長尾景虎
で、家名を譲ることで征伐に出られるようになった
これが川中島の始まり
総曲輪というのは山に作って切り開いていく形なので、
丘が多く、自然の地形を利用したのは想像に難くない
そら掘らずに残るわな
でも出土物ないなら片付けられて単なる丘になってた可能性大
東日本最大の古墳も「天神山」と呼ばれてた
不思議と木が一本も生えないのは昔から謎だとされてて
頂上に神社だけあった
きもいよ >>97
痕跡って土器だろ
神武や軍集団が自ら土器は作らない
神武云々は知らないが人(稲作)の移動はあった
縄文末から弥生時代に隣接地へ定着しながらの
大規模なゆっくりとした稲作適地を求めての人の移動はあったと思う
遺伝子傾向に移動の痕跡と見られるものがある >>139
中世の人も古墳は人の墓だとは知ってたから、側に供養塔や祠を作って供養してた。だから、再利用したり壊した人はその存在は知ってたと思うけど、古墳の形には興味無かったとおもう。 >>1
前方後円墳の起源は朝鮮半島
これ豆ニダ <ヽ`∀´> 元堺市民だけどせっかく古墳群が世界遺産になったのに
街おこしに生かしきれてなくて悲しい
パワースポット化とかすればいいのに
古墳カレーとかいらないw 朝鮮半島の遺跡が1世紀遅いからヤマトはやっぱり関東進出の方が早いんだろうな
そうすると同世紀の邪馬台国も近畿かなあという気はする ヤマト王権も見直されていて特に初期は、強力な軍事支配などでは無く、地方豪族との連合体で大王は統合の象徴で、外交が主な仕事。
朝鮮等との交易で得た威信財を豪族の強さに応じて配って連携を確かめ会ってたらしい。 須佐之男、大国主、大物主、少彦名命の関係とか面白いもんな 意外と小田原とか秦野、寒川、海老名辺りに邪馬台国か
当時の日本の王朝があったかもなw >>156
大和市だったりして
由来検索したら村分裂の危機を知事が大きな和で収めただったw 前が方で円が後ろて自分で言うてるのに
それでも鍵穴や言うキン肉マンおじさん多すぎ問題 >>26
色々ツッコミ所はあるけど一点だけ
「山間部で古墳は発見されていない」
これは間違い
検索すれば分かるけど、所謂山頂部築造古墳は、数え方にもよるが全国に100基近く存在する
因みに、俺の家から最も近い実例は奈良の鶯塚古墳
標高341メートルの若草山山頂に造られ、現地からは奈良盆地から生駒山まで見渡せる
勿論、昔も今も周囲に耕地は存在しない
古墳時代が終わった理由も間違ってると思うが、割愛する そもそも縄文時代の時点で日本全国のネットワークなんかとっくに出来てたんだろうし
古墳時代に畿内だけ栄えてて東は不毛の地なわけがない >>72
その資料、百舌鳥古市古墳群が行方不明何ですが? 小田原って北条早雲が牛に火をつけて襲ったところだろ 平安時代になると源平の坂東武者ばかりになるけど、ここにいた子孫はどこいったの? >>166
縄文人が貝食べすぎて地球温暖化しちゃって暑くて住めなかったんだろう
火山の噴火もあったのかな >>170
7300年前に鹿児島県沖、鬼界カルデラで超巨大噴火が起き、九州は即壊滅
西日本一帯にも火山灰などが降り注いで、瀬戸内や紀伊半島でもまんべんなく20cm積もった
生き残っても食料がゲットできなくなったんで人口激減 縄文時代よりはるか前の最終氷期は瀬戸内海は陸地で大阪平野は起伏に富んだ古大阪平野を形成していた
当時の痕跡は瀬戸内海の海底と沖積平野の下に眠っている
今では丘陵上に残された痕跡からしか窺い知ることはできないが
瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている 莫大な量
瀬戸内海周辺で最終氷期から繁栄していた集団がいたんだろうね
サヌカイト石器の2大製造拠点が香川と二上山
二上山の海側の丘陵からは日本最古の竪穴式住居が見つかっている
日本神話の天地開闢で最初に生まれたのが葦の芽
国生みで最初に生まれたのはヒルコでヒルコが乗っていた船が石楠船であり古事記では葦船
国作りでできた国が葦原中国
そしてなにわの枕詞が葦が散る どうせ大した価値のない古墳なんだから、見なかったことにして住宅建てればいいのに ショックやろな施主のひと
埋めても墓
保存しても墓 現代だって日本政府は韓国の統一教会の支配下にあるのだから
当時の関東まで韓国百済の支配が及んでいたのは当然とも言えるな >>173
トバ噴火といい噴火は怖いねえ
ほぼ絶滅状態に追い込まれる >>179
鎌倉時代以降の資料しか無いようじゃねえ この古墳が作られるより少し前の弥生時代末期、倭国大乱の時代
神奈川の銅鐸の集落は営みを終焉する
同じようなことが畿内各地でも起きており、その一つに池上曽根遺跡がある
銅鐸、巨大なヒスイの勾玉、弥生時代最大級の神殿、楠の巨大井戸、鉄工房、蛸壺が見つかった遺跡
様々な時代、様々な地域の文化が融合した集落跡
興味深いのは、石器の祠が作られていたということ
日本の草創期からある石器に対するリスペクトがあったんじゃないか?
池上曽根遺跡は摩湯丘陵の海側にある
その海は茅渟の海と呼ばれている
当てられた感じ茅はカヤや芒、葦を指す
渟は留めるという意味の字
葦を留めた海、という意味の漢字が当てられている
摩湯丘陵には伝承か残っている
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
海辺に面し湯が湧く地、摩湯 これ極めて重要な発見
因みに関東地方で前方後円墳があるのは
今まで埼玉県だけだった
おそらく埼玉の有力者の一派が小田原に移住した証 結局、日本史における「空白の4世紀」って何があったの?
邪馬台国はどうなった?消えたの?
日本史って長い割には成立の根幹部分が欠落してるよな 摩湯丘陵の伝承にも登場する馬
ヤマト政権誕生の地と言われている纏向遺跡にある、箸墓古墳からは馬具が見つかっている >>166
これ見るとこの時からもやっぱり関東に1番住んでたのかw 3世紀末に大和の古墳が神奈川にあるなら、邪馬台国は奈良決定だね。 神奈川の昔話背中の赤い蟹
火から鐘を守ろうと命をかけて戦った蟹の話
延喜式祝詞、鎮火祭には、イザナミが上津国に火結神を産み残して我は下津国を知らんと言ったとある
記紀では黄泉に逃れたイザナミ、道敷大神
延喜式祝詞には道に関する祝詞、道饗祭がある
道饗祭には、湯、港を表す津、磐がつく村が登場する
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らく‥
また延喜式祝詞には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたとある
記紀とは違うストーリーがそこにはある >>197
安倍文殊院境内にある終末期古墳は円墳
2つあるから、新たに造るくらいならどっちかに合葬してもらえば良いのではないかな 日本史3大ロマンって、この3つで良いか
1 邪馬台国の位置
2 義経不死=チンギス・ハーン説
3 明智光秀の後世=天海僧正説 城は古墳の上に建ってる場合が多いんじゃね?
大阪城も絶対下は古墳だろ 朝鮮から日本に来たのではなく日本から朝鮮に行って朝鮮人を始末したというのが正史
今も昔も万年属国
それが朝鮮 関東に何らかの勢力圏があるとは聞いた事があるが、前方後円墳まであったのだな
大きな発見と思う >>185
断片的にも文字情報を提供してくれていた中国が動乱期に入って辺境に気を配る余裕が無くなったのが、空白になったそもそもの原因
あちら側の情報が皆無である以上、こちら側で地道に発掘調査に基づき史実を再構築するしかない
4世紀に遡る文字資料が七支刀以外に発見されれば画期的なんだが 秦野や伊勢原とかでも遺跡が見つかって新東名の開通が遅れてるよね
見てみぬふりすればいいのに
あれって施工主が発掘費用出さないといけないんだよな 邪馬台国って神奈川にあったんやろ
センター北とかも遺跡あるし 銅鐸は大国主と大物主の國造の範囲を示し、
ソレが天孫族の国譲りによって
銅剣銅矛に切り替わっていくのが2世紀の話。
瀬戸内海では事代主が青柴垣に相当する
高地性集落を作って隠れた。 >>28
ウリナラ史観に不都合な痕跡は全て破壊するからな…もう残ってないだろう 荒神谷遺跡は須佐能が高天原=博多湾周辺から先駆けて
出雲に移住した遺跡であり、
コレが前2世紀の事になる。 加茂岩倉遺跡は荒神谷遺跡と同じ
最初期の銅鐸が製造された場所で、
コレが大国主の拠点である。
銅鐸は日本書紀で言う天詔琴の事である。 前方後円墳即ヤマトって頭の悪い決めつけは隣国笑えんな 須佐能と同時代の人物が天照大神であり、
コレが三雲南小路遺跡と考えられる。 >>24
そんなに出るなら、土器が出てもドキッとしないな >>220
「学」「説」なんてない
われ思う故にここにヤマトありき
というイデオロギーだけ
例えば最大級の古墳は前方後円墳に限られるという事実について
巨大築造を行える政治勢力はヤマトに限られる(私はそう思う)からそこはヤマトの勢力圏だ
てな具合 千葉👈🇭🇺ハンガリー語?
埼玉👈🇫🇮フィンランド語?
小田原👈??🤔 つうか、ヤマト自體が🇭🇺ハンガリー語だろwwwww
入植地って意味 倭国語と日本語とペルシア語が混ざってる??
🇯🇵現代日本語って こういうのって工事中に発見されるとほとんど無視で潰されちゃうんだよな
業者にしても施工主にしてもマイナスしかないから
見つけたら国から懸賞金でもあげたらいいのに >>231
周知の埋蔵文化財包蔵地なら申請出さないと開発できないからいいんだけどそうでない場所なら無視して開発するからね
あとこれら発掘費用は土地の所有者負担で調査しなければならないという理不尽な法律だしね
「土地を開発しなにか建てたければ自分で調査しろ。但し埋蔵物はすべて国のものな」
こんなの見つけても報告なんてしたくなくなる >>135
うん。
それでいて、戦国とか大好きなのが腐れパヨ >>232
典型的なニートの発言…
地主なんかに同情する奴なんて居らんよw >>236
ニートはお前な
例えば実家や親が持ってる土地を処分することになったらこの法律が引っかかり処分できなくなるんだよ
何百万も掛けて発掘調査して処分
場合によってはマイナスになることすらある
引きこもりには関係ない話かもな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています