2022.09.13 Tue posted at 06:56 JST

ナイジェリア・ラゴス(CNN) エリザベス女王2世が亡くなってすぐ、インターネットは人々の回想や反応であふれかえった。だが誰もが悲しみに暮れていたわけではない。アフリカの若者の中には、女王の長い在位期間中に、英国植民地史でも凄惨(せいさん)な時期を耐え忍んだ祖父母など高齢者の写真や物語をシェアしている者もいる。
「追悼する気にはなれない」。あるユーザーはこうツイートして、祖母の「通行証」の画像を投稿した。英国が東アフリカのケニアを統治していた時代、人々の自由な移動を禁じた植民地時代の書類だ。
植民地時代に「女たちが殴られ、夫と引き離されて1人で子供を世話しなければならなかったという話」を祖母からよく聞かされたという投稿もあった。「彼女たちを決して忘れてはならない。彼女たちは私たちのヒーローだ」とも書かれていた。
こうした追悼拒否の姿勢から浮き彫りになるのは、女王のレガシー(遺産)の複雑さだ。大衆から広く親しまれているものの、かつて大英帝国が勢力を振った場所では、女王は抑圧の象徴でもあった。

1895年以来英国の支配下にあったケニアは、1920年に正式に植民地とされ、63年に独立を勝ち取るまでその状態が続いた。英国統治時代の残虐行為がとくにひどかったのは、52年に勃発した「マウマウ団の乱」の時だ。ちょうど女王陛下が即位した年に当たる。
当時の植民地政府は15万人ものケニア人を収容所に収容し、去勢や性的暴力など残虐な拷問を実行した。高齢となったケニア人は2011年に損害賠償を求める裁判を起こし、最終的に英国の裁判所から1990万ポンド(現在の為替レートで約33億円)の賠償金を認められ、5000人の原告の間で分配された。
当時のウイリアム・ヘイグ英外相は、「英政府はケニア人が植民地政府の手によって、拷問やその他不当な扱いを受けていたことを認める。英政府はこうした行為が起き、独立に向けたケニアの前進が阻まれていたことを心より遺憾に思う」と発言した。
米国ケネソー州立大学でコミュニケーションを教えるファルーク・ペロギ教授は、アフリカにとって女王の記憶を植民地時代の過去と切り離すことはできないと語る。
「女王のレガシーは植民地主義の中で始まり、いまでもそれに包まれたままだ。かつて大英帝国は『太陽の沈まぬ国』と呼ばれた。女王の死で思いやりや同情心がかき立てられても、過去を拭い去ることはできない」(ペロギ教授)






「悲劇の時代」
https://www.cnn.co.jp/world/35193156.html