【佐賀】邪馬台国“論争”に「一石投じる」世紀の発見?吉野ケ里遺跡「石棺墓」開封 発見に沸く佐賀県に奈良県からは冷静な反応も… [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。いずれにせよ、南の方角であれば“九州説”と言えますが、距離をそのまま足していくと、邪馬台国は九州南の海上になる可能性があります。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b51cd975b10b9d9f9bc4205dfeeae6a83d3c1099
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230605-00000099-ann-000-3-thumb.jpg 広志(史書編纂:晋の郭義恭)に記載された邪馬臺国
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国・・・(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 邪馬台国は九州のローカル国家ということでファイナスアンサーだな
日本ではない >>9
待ち遠しいね
土の除去に時間かかって発掘作業が進んでないのかも >>10
実はすんごいのが見つかって
プライムタイムにLIVEで記者会見やるために15時の会見が延期されたとか? >>9
本日は発掘のための準備をして作業終了
つべでFBS福岡放送の配信したのが見れるよ これで佐賀でも奈良でも無くて
青森とかだったらどうするのよ そりゃ佐賀のど田舎にあったとしたらなぜ大和に移ったのかって説明できないじゃん
ていうか一度纏向見に行ったらレベルの違いがわかるよ 石棺に埋葬されていたのは
タメゴローとトンチキでした! 中国の三国志にたった一行載ってただけの国がどこにあったとかそんなに重要かね
たまたまそのとき載ってた国の名前にすぎんのに >>23
九州説論者にとっては超重要らしいw
どうせ大和朝廷は大和に行くんだけど 普通に考えて中国と地理的に近い九州のほうが交流がありそうだよな >>23
お前はあっち行ってアニメでも観てオナニーしてろ >>17
青森の人達が全身刺青で素潜りで魚取るのか 少しの発掘成果でも発表してくれるとワクワクが持続するんだけどなぁ この邪馬台国の時代にもおまえらの祖先がいたんだよな
たいしたもんだ 邪馬台国は岡山にあったと証明されたけど佐賀と奈良の土人達はいまだに無駄なことやってんの?
まさかニュース見てないとかいわないよね?5ちゃんでスレもたってたよ?
晴れの国岡山、大都会岡山と言われてるように日本の中心、首都は岡山なのよ。
あ!佐賀は土人じゃなかったガジンだわw 「女王国連合」の邪馬台国(首都)
日本の東京(首都)
ものすごい人口をまかなえる裏付けが
なんもないのに
吉野ヶ里が首都なわけないだろ… >>25
え?
宮崎から畿内に出て、難なく畿内を支配下ヤマト政権のことか? >>20
奈良に移ったなんて気のせいじゃね?
九州にあったものがそのまま滅びたのだろう >>29
そもそも石棺に土砂入り込んでた時点で骨などは出ないのがほぼ確定
あとは剣やらがどれぐらい出るか >>23
だって国内の記録みんな燃やしちゃったんですもの >>1
>魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
こういうミスリードはやめろよ
日数については「帯方郡からの日数」というのがほぼ定説なのに >>26
後漢時代までは交流ありました。問題は魏の時代です。220〜265年の45年間の短期間に邪馬台国がどこにあったかが重要。180年や200年に北九州にあっても決定打にはなりません。 九州にあったから何やねんって話だけどな
その後魅力がないから九州捨ててのか滅ぼされたのか知らんけど >>32
俺も吉野ヶ里とは思ってないが、田んぼだけはやたらあるぞ
今の佐賀から想像すると見誤る >>35
金属系も朽ち果てる可能性が高い。成分くらいはわかるかもしれないが。怖くてまともに掘れない。
金印なら出てくるかもしれないがw >>34
今の天皇家はさらに東征して東京にいますよね >>17
青森は弥生時代に於いても縄文文化維持の続縄文文化と、
弥生文化の遺跡がモザイク状に分布してるからなぁ。
弥生時代初期に稲作は伝播して来たが、寒冷期に稲作が出来なくなって縄文時代に逆戻りとか・・・。 奈良以外の説を言う人は有無を言わさず国家反逆罪で死刑な。 >>44
石棺みたいな話しぶりだったけど
それで土が入ってるから、骨は残ってても歯とかぐらいじゃないかって >>39
そりゃ古代ウクライナと交流あるなら
中国ぐらいは…えっ! 纒向遺跡 300ヘクタール
吉野ヶ里遺跡 117(50)ヘクタール >>44
土が予想以上に多くて、微生物によって分解されてる可能性も高い
隙間から1800年かけて、文字通り 塵も積もれば山となる状態だったから 今までの発掘成果通り
吉野ヶ里ヤマタイ国詐欺の終わり >>46
別に奈良には九州からきたヤマト政権があり、あっという間に支配した、で何の問題もないだろ
記紀をみるに、出雲や東北やクマソの攻略には苦労したみたいだが、最初の畿内は楽勝だったようだ 魏志倭人伝を素直によんだら邪馬台国は沖縄くらい南に位置して沖縄よりも大きな島にあるということになる しかも吉野ケ里遺跡って周辺すら統一できてない遺跡群の一つに過ぎないんだよな
www.yoshinogari.jp/.assets/yoshinogari_site_peripheralmap.jpg >>49
🇯🇵👦違和感→Feeling uncomfortable
🇨🇳👧違和感→Sense of violation >>59
だから、末盧国に上陸した時点で1万里なんだよ
邪馬台国まであと2千里 7万戸だぞ
1戸5人としても35万人
吉野ヶ里レベルではない 井沢元彦も九州説だったね
大分県だったけど(´・ω・`) >>50
前橋の方で同じように石蓋はずしたら土砂が流れ込んでいて、歯が数本、だったね。 ガチで調べたら奈良のほうがヤバいの出てくるだろうしなイチイチ相手しないだろう
恐らく今回も大したもの出てこないだろうと思う
富雄丸山古墳みたいいかんだろう >>63
たぶん武力20知力3みたいな武安国以下の能力値 >>20
そりゃ九州出身の初代天皇が都にしたんだから
なんもないとこに後から計画的に作る方が立派なものができるわ >>65
誰も言わないから俺がいう
あの時代って、竪穴式住居だろ?んじゃないか
1戸5人なんてみみっちいことはしなくていい
1人1戸でも良いし、なんなら農繁期用に田んぼの近くに1戸、漁業用に海辺の近くに1戸と使い分けても良い >>67
宇佐八幡にはとても重要ななにかがあったのは確実だろうね 吉野ヶ里遺跡は邪馬台国じゃないだろうが
じゃ魏志倭人伝のどの国に当たるのか
魏志倭人伝がそれなりに信用できるとした場合 大したもの見つからなかったら吉野ケ里そして九州は
邪馬台国と関係なかったでいいね >>76
滅ぼした出雲大社 と 宇佐八幡(卑弥呼の墓) だけが、2礼4拍手1礼
他とは違う理由がそこにある。 >>79
丹が出た
三角縁神獣鏡景初四年とか馬具がでなきゃいいんだがなw >>70
掘れないんだよな
一度掘り出したら10年くらい計画塩漬けにされてしまう >>60
邪馬台国は連合国を形成していた
仲がよければ統一する必要はない >>81
宮中に祀ったものの祟り始めたので追い出したw >>70
纏向からは畿内説にとって出てきてほしくかなったものまで出てるからな
確かにヤバいw >>82
丹しか出ないよりも
逆に三角縁神獣鏡景初四年とか馬具が出た方がむしろ邪馬台国に近づくんじゃないの >>85
吉野ケ里自治会長か
まあ希望は捨てるなどうせ結論なんかでないけど大和だよw >>64
それって女王国を邪馬台国だと曲解してるだろ、素直に読めw やっぱり大和朝廷が俗もので朝鮮人の集団だったって
今の日本の歴史からいうとヤバいのよ
ただしDNA的にも顔見ても
こんなのはソメイヨシノ以上に明らかな話だけど
近畿説推してる人は日本の成り立ちを否定したくなかったり
自らのDNAを否定したくなかったり
まあそんなシガラミだろうね >>43
これ
そして東の京都と都市の名前まで変えた
邪馬台が大和になったのだ >>82
三角縁は、平原にいた渡来人職人が奈良大和に移動後そこでいっぱい作った。
ヤマト政権との友好の証の手土産 ちょっと移動したら
雲仙、阿蘇、九重連山あるし
熊襲や隼人がわいてくる
落ち着いて住めない
台風もガンガン来るのに
よく生きてたな九州の先祖 卑弥呼は天照とは関係ない
神武が持ち込んだんでしよ
天照と出雲は因縁の関係だから >>93
確実に邪馬台国の構成国である伊都国までで10500里
女王の都までの距離だろうな 遺伝子分布上、近畿だけ渡来人系がやたらと多いぞ
縄文人は九州と関東と東北
なんか近畿の奴らはワテらこそ日本の源流でっせみたいなツラしてるけど だんばらだんだんだん
だんばらだんだんだん
かぜが
ふけーふけー
俺たちはー
秘密
変態ごれんじゃーごーれんじゃあー 卑弥呼なんて日本の歴史には一切ないのよ
魏志倭人伝っていう原稿用紙5枚くらいの記述にちょろっとあるだけ
卑弥呼の墓?
日本人からすると地方の女親分の墓でしかない 女王国より北に21の名前だけ知られる国がある
これって九州(北部)説だと説明がつかなくなる闇の勢力
しかもこれらの国の最後には、第2の奴国が存在する
九州北部ってほど、単純な答えではない気がする >>31
用水路に蓋がないのは、その頃からの伝統をしっかり守ってるからだな >>88
景初四年の紀年銘鏡は今のところ、三角縁では無い 斜縁盤龍鏡が二面だけ出ている。 >>89
丹だけだったらただのその辺の墓だよ
せめて三角縁神獣鏡景初四年とか馬具が出て欲しいんじゃないの
そうすれば邪馬台国とは言えなくてもちょっとくらいはそれっぽくなるよ 日本の歴史には記述がねーとか
誰かが都合が悪いもんを徹底的に
破壊行為したんじゃね?
ハカイダー 天照と大国主を一緒に宮中に祀ってればそりゃ相性悪いでしょ >>106
まあ、結局、「有史」時代ではないのよねw
つまりは、歴史学ではなく、考古学の範疇ってこと。
要するに、結論なんて絶対に出っこないのだw 明日雨だよな?
発掘作業中止?
臨時で屋根付けてもいいんじゃないか? >>60
それはムラだよ
それを統一してたのがクニ >>31
岡山を大都会と認定したのは阿波人とイタリア系アメリカ人のミックスのアンジェラ・アキなのね。
よく覚えておくように。 >>110
まあ三角縁神獣鏡も大まかな区分けでは斜縁神獣鏡の一形態なんだけどね けど九州説はどうするんだろうね
畿内説にとって三角縁神獣鏡は景初四年鏡も含めて魏鏡で
邪馬台国の証拠
それが仮に九州の古墳でかなりの数がまとまって見つかった場合は卑弥呼の墓の可能性も出てくるんだけど
九州説は三角縁神獣鏡を魏鏡そして卑弥呼の鏡と絶対認めないよね >>108
女王国より以北に21の国があるとか書いてないけど >>14
「つべ」って20年前の遺跡から発掘されたのか? >>112
シュレッダーを大活躍させた誰かさんみたいな人が、昔から居たんやろうね(´・ω・`) >>112
国内にしか記述のない天皇というのが卑弥呼後にひょっこり現れましてね
ええ >>111
そんなシナからは出てこないパチモン鏡や、邪馬台国にはいない馬の痕跡がみつかったら、邪馬台国とは無関係の豪族と確定するだろ 卑弥呼の墓はすでに開封済み
吉野ヶ里の日吉神社で
「実際、この日吉神社の鎮座する丘の頂上から、特別な墓が見つかっています。
埋葬されていたのは40から50歳の女性で、甕棺からは銅鏡、両腕に南海産貝殻性腕輪36点、絹の布片、朱などが発見されています。
この墓は巫女の墓と思われ、弥生時代中期後半くらいのものだとか。」 >>1
入り口はもう古なの!!マンゴー
😂🙊🤣
愚管抄第一
漢家年代
盤古 天地人定後之首君也
三皇 天皇 地皇 人皇
又三皇 伏犠 神農 黄帝
五帝 少昊 ■(山+而+頁)瑣 高辛 唐堯 虞舜
三王 夏 殷 周
夏 十七王 四百卅二年
殷 日商 三十王 六百十八年
周 卅七王 八百六十七年 >>101
短里と長里、、、また聞き、、、土地の人間に歓待されたダラダラ歩行 >>108
そんなもん書かれてない 変な注釈読んでそう >>106
そうは言っても日本史上初の有名人だもんなあ >>133
卑弥呼は弥生時代の末期に高齢で亡くなってるから違うと思う 当時の佐賀平野は今よりずっと狭くて吉野ヶ里公園の少し手前まで海だったから大した勢力はなかった
大河の久留米川がある筑後平野を拠点にした邪馬台国の方がずっと豊かで栄えたが、相次ぐ久留米川の氾濫で邪馬台国は滅び卑弥呼の遺物はすべて流されてしまった >>122から考えるに
九州から卑弥呼の墓は絶対見つからない
なぜなら卑弥呼の墓からは三角縁神獣鏡がたくさん見つかる可能性が高いけど
九州説にとってそれはパチモノ国産鏡あるいは呉鏡であふれ返った
インチキ墳墓になってしまうからな
九州説は畿内説憎しで三角縁神獣鏡を
あまりパチモノと断じない方が自身のためかもよ >>134
自分たちのことのように書いてるけど
アヴァールに、隋ったのか?
十二諸侯
鄭 曹 宋 晋 衛 秦 齊 燕 魯 蔡 楚 陳 呉 不入諸侯
六國 无王時号
韓 魏 趙 齊 燕 楚
秦 六帝 四十九年
漢 十四帝 二百十四年
王莽 十四年 更始 三年
後漢 十三帝 百九十五年
三雄 魏 呉 蜀
魏 五帝 四十五年
呉 四帝 四十九年
蜀 二帝 四十三年
晋 十五帝 百五十五年
偽位 恵帝以後
南燕 後涼 後秦 後蜀 後夏 西秦 南涼 前秦 前燕 後趙 代 魏 北涼 北燕 後燕
南朝 北朝
宋 八帝 五十九年 後魏 十四帝 百卅九年
南齊 七帝 廿三年 西魏 三帝 廿三年
東魏 一帝 十六年 梁 四帝 五十五年
後周 五帝 廿四年 陳 五帝 卅三年
北齊 七帝 廿八年
隋 三帝 卅七年
唐 廿帝 二百八十九年
五代
梁 三帝 十六年 唐 四帝 十三年
晋 三帝 十二年 漢 二帝 三年
周 三帝 九年
大宋 至当今十三帝 至今年二百六十三年
承久二年注之 伊都国だの奴国だの30国で女王を共立し、邪馬台共和国となったのです
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
>>143
MAX百枚しか送られてないのに五百枚も出てくるのは確実に和製だわ
でも俺は邪馬台国は奈良か吉備だと思ってるよ >>131
もう貼れなくなってるけど
渡来系のDNAの濃さを調べると四国が一番濃くてそこから畿内に勢力伸ばして行った感じなんだよな。
天孫降臨というなら四国初大和行きというルートもありだと思うわ。 >>143
ちゃんと中国産の銅鏡が出てくるから大丈夫だよ 昔の中国、三國志の頃の距離感で考えても九州(佐賀)じゃ近すぎる気がするな
海渡ってすぐって記述になるやろ
何個か国を越えてとあるから文明はあったんだろうけど 伝聞で日吉の下に卑弥呼は眠ってるって話だろう、そして石棺墓。どのみち弥生時代で間違いないだろう。
もうね、邪馬台国である事はほぼ確定なんだよ >>123
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國
次有奴國 此女王境界所盡
めんどくさー 吉野ヶ里でシャーマンの墓から銅鏡は出たよ、問題は年代 産地隠蔽、偽装は日本の国技だろ
邪馬台国の頃からやってんだよ >>148
鋳型で型を取って複製品も国内で作られたから
500枚以上あっても不思議ではないよ
>>150
国内で今まで見つかってない鏡?
そんなものは見つからないだろうね
それをアテにしてたら卑弥呼の墓は永久に見つからないな >>151
陳寿が参考にしていたであろう先行資料には海渡ってすぐそばみたいに書いてあるな >>155
女王国以北(女王国北部)は里数戸数が確認出来た
以降の国は遠くてよくわからない
〜国名のみ紹介〜
と書いてあるんだよ お前ら結構な歴史オタクなんだな
勉強になるけど話についていけねえwww >>142
2000年前の佐賀市の海岸線がちょうど今のJR長崎本線のレールのあたり
今よりは狭いが言うほど狭くもない >>161
600枚のうちコピーは130枚な
どう考えても、魏が卑弥呼に下賜した鏡ではない 畿内説は終わった。九州のどこに卑弥呼の墓があるかだろう。 銅鏡は今まで出来がいいから輸入もの出来が悪いから国産とか適当な分け方してたのに
出来がいいものも悪いものも加工跡の癖が一致してしまい古墳ごとに製作されてたことが指摘されてしまったからな
今までの分類を全てやり直す覚悟がないとなんの参考にもできない >>167
まあ邪馬台国から魏への遣使は4回ぐらいあったし
数は合ってると言えば合ってる >>168
仮に九州にあったとしたらたぶん三角縁神獣鏡がわんさと見つかって
九州説が発狂する事になるよ >>170
通算で何枚なんて、どこにも書いてないけどな >>145
承久の乱の頃書かれたもの
これ見ると崇徳可汗なんじゃないの??本当にw
アヴァールと仲良く暮らしてた? >>171
ところが、パチモン鏡はほとんど出てない
景初四年というレア物にいたっては皆無 >>171
三角縁神獣鏡がたくさん見つかってパニック起こしてるのは畿内説 >>168
本命宇佐神宮だと思う
何故なら大分にも丹の鉱山があるから
近畿説は600年代に丹生の後に朝鮮から秦氏が来た説を採用してるが
九州では福岡や松浦に弥生時代には秦が来ていて織物技術や鉱山の採掘技術を伝授していてその後に秦王国を作ったと言う
秦と波多の名字の分布を見れば丹を採掘できる鉱山のある場所や古代の絹織物が出土してる場所にあるとわかる >>173
景初や正始と卑弥呼が魏に使いを送ったと
魏志倭人伝に書いてる魏の年号が彫ってある鏡が見つかってるから可能性が高いと言われてる >>134
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo01_yositune.html
やべえだろ?
日本は大丈夫だけど。 >>181
だから なんで交易でもらったはずのものに存在しない暦が刻まれてるんだよw >>179
小島電気のマークが入っているから! 太陽→日! もし邪馬台国が当時の最大勢力だったとしたら箸墓築造を3世紀後半から4世紀半ばに設定しないと九州説は成り立たないんだけど、
・歴博新年代
・intcal20
・セルロース酸素同位体比
このすべてで箸墓は3世紀半ばって数字なんだよな。当初は反発だらけだった歴博新年代だけど、最新技術の数字と整合するわけで、もうひっくり返らないんだろうな >>181
でも年号はデタラメだしシナからは出てこないんだよな >>149
首都圏は「弥生系」7割 日本人ルーツの研究に新手法、ミトコンドリアDNAから構成比
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/08/000435.html
住斉筑波大名誉教授 邪馬台国は存在しない説は無いのか?
既に大和朝廷が有るのに帝を差し置いて勝手に外国と交渉なんてしないだろ >>180
邪馬台国から水銀、取れたんだよね。納得 >>155
女王国より以北は里数と戸数を示すことができるが、他の国は遠すぎて詳細がわからない。それらを列挙すると・・・
と書いてあるんだが
女王国より以北の里数と戸数がわかる国とは対馬、一大(壱岐)、末盧、伊都、奴、不弥だよ
めんどくさー >>187
当時の最大勢力である必要はないよ
倭国大乱で疲弊してるし、畿内あたりの新興勢力のほうが勢いあっただろ >>165
帯方郡(平壌)から、邪馬台国までは12000里
で、帯方郡から不弥国(福岡県のどこか)までで10700里
残り1300里しかない
対馬から壱岐(実際の距離は約50〜70キロ)までで1000里と考えると、1300里は65km〜91kmなので、どう考えても九州を出ないという簡単な話 >>187
女王国の東の海を渡った先の倭種の国の歴史は他所でやってください >>188
景初や正始は魏で使われてた年号
>>190
陳是作鏡と書いてるから洛陽の鏡師の陳さん 奈良から馬具が出土したなら
奈良が邪馬台国なんだろうな >>194
でもなぜか、シナからは1枚も出てこないと もしかして大和朝廷の連中って!大川みたいなのがいっぱいいたんじゃねーの(笑) >>202
魏の都のあった洛陽や
魏の領地だった楽浪でも出土してる >>198
景初四年は存在しないんだよ
畿内説は、いや実際には使われたんだと強弁するけど、シナからは1枚も出てこない やはり、邪馬台国は・・佐賀 長崎 熊本 が有力なんだろうね。。 >>187
邪馬台国と大和が別の勢力なら何の不思議もないだろう >>204
「出土」はしてないだろ
闇市に流れてた
畑から出てきたと本人は言ってるが、別に学者が発掘したわけじゃない >>203
中国の歴史書に、「倭人は皇帝から貰った財宝を換金して古書を買い漁っている」、
と書いてあるから一生懸命クリエイトしたんだろうね >>206
当時の改元の制度上
景初四年は存在してた可能性は十分
それと>>204 素人の妄言をさせてくれ
吉野ヶ里遺跡の今回の石棺には徐福かその近しい人物(妻もしくは子)が眠っている >>187
崇神が四道将軍を派遣し景行仲哀で九州征伐し倭王武は先祖が西に66国平定したと主張した
そして266年を最後に謎の消息不明になった女王国
九州邪馬台国は土蜘蛛として畿内ヤマトに滅ぼされたということで時代的にもぴったり合ったな >>214
日本の古墳は95%は盗掘されてる
たぶんその盗品が流出してるんだと思う >>145
古代に攻め込んできたのはギリシャ、アヴァールじゃね 石棺の二枚目、三枚目の蓋は表に模様が刻まれているけど顔の上にあたる一枚目の蓋だけには裏に模様がが刻まれていて顔と向き合うように置かれていたとか呪術的なものを感じるわ 倭人の使節みんな太夫を名乗ってます、文字も知らない刺青した蛮族です、返礼の使節曰くクソ田舎でした
これバカにされてるよなどう考えても >>193
それは、対馬、壱岐、末盧、伊都、奴国、不弥国、邪馬台国のこと
21ヶ国は女王国の構成国であるが、その東西にあり、行くのめんどくせーし、遠いし、行ってないからよく分からないということ。
すなわち、九州の東西に存在した。
大分県とか佐賀県とか長崎県とか宮崎県とかのこと >>77
吉野ヶ里から山門の縣まで一帯が邪馬台国という可能性も当然にある罠 露天商が売ってた由来の知れない銅鏡にすがるのは草
近畿説追いつめられてんねえ 畿内説厨 → 麻雀でフリテンこいてるのにロン!宣言するアホw
九州接中 → 国士無双13面街であと自模るだ
畿内説厨のアタマはパープリンw >>220
20年ぐらい前まで新今宮でよくあったけどなw関西人がバッタもん作るのは伝統文化なんじゃないかな >>216
でも、シナからは出てこない
不思議だよな
畿内からは出るのに >>224
まぁ実際に当時の中国は日本より遥かに文明国だった。
それは認めなければならない。 >>187に補足
歴博2004
「箸墓は240-260」
坂本2022(intcal20データ提供者)
「AD240-260と重なると考えてよい」
中塚2022
「布留0式はAD230年代前半」
ほんと歴博新年代で古代史変わっちゃったな 玄界灘沿岸の国の役目は
海賊とアポなし上陸の連中を
(海流に乗って東の都に行く前に)
始末するための軍港かなあ
食料載安定しない壱岐対馬が
干上がらないように米も少し送る
ヒナモリ管轄の沿岸国を
後ろから支えるのが吉野ヶ里 >>187
ソースくれ
IntCAL2013で2世紀半ばに遡った纏向関係の年代測定は全てIntCAL2020で 300年前後に戻ったと記憶してるが >>60
この図の全体像が判明したのってどれくらい前?
諸富地区が徐福の上陸エリアだけど船がたどり着いた場所が今は内陸部。伝説を捏造するなら海岸沿いにするはずなのに上陸地点が陸地
そこから北へ向かったけどぬかるんでいたから帯を敷いてその上を歩いたんだが、実際に湿地帯てなってる >>219
5世紀にヤマトから西に66ヶ国もあるのに、3世紀卑弥呼時代にはたった30ヶ国しかないのはおかしいので、畿内説は全然ダメですね 蓋開けたら土で埋まってたから
めんどくさくなっちゃったのかな
続報無いやん >>227
600枚見つかってるんだから、3世紀〜現代までに中国に三角縁神獣鏡が渡っていても、何ら不思議ではないよな >>234
じゃモモソヒメの墓でいいんじゃないですかね? >>243
骨や装飾品があるかもしれないのに、ザブザブ水で流せんだろ >>225
隠岐なんて奈良でも島流しの流刑地、つまりいったら帰れない島なのに連合なんてあるわけがない 吉野ヶ里、明日から頑張ってするけど、来週中までかかるからごめりんこ。だそうです >>195
本居宣長よろしく、どこかの小国がヤマトを騙ったって可能性もあるし、最大勢力でなくていいなら確かにどこでもありうるわな
>>199
中塚2022だと布留0式はAD230で歴博新年代と一致する >>234
卑弥呼の墓の周りには殉葬者百名なので畿内説の挙げた候補は全て該当しません
畿内など女王国の東の倭種の国の歴史は記紀をご参照ください >>243
今日は発掘計画用の区間分けの糸張ってた
それでやっぱり石蓋と石棺の間に粘土が入ってたのが確認できたそう
これからは慎重に堆積物を全部取り出して土も分析するそう
詳細がわかるのは来週からかなってさ >>187
最大勢力とは特定できない。倭国の海の向こうに別の和種がいる。纏向遺跡は「別の和種を見つけたぞ!」ってこと >>249
その辺は原の辻遺跡(壱岐)で解明されてる
交易をちゃっかり商売にしてたんだよ のちのヤマト朝廷が都の形、王の呼び名、統治機構、官位名全部丸パクリなんだからそりゃ鏡ぐらいパクってるだろ
パクリと大陸様の後光で成り上がった王権だぞ tps://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0
こんな予感 >>255
見つけたって言うより九州人に聞いただけだな 吉野ヶ里の人は自信に満ち溢れてたね。
卑弥呼の墓でないにしろ、邪馬台国にいた有力者である可能性はMAXだしね。 雨で中止ってどこの工事現場だよ
佐賀県は仮設の屋根を作る金もないのか 最近流石に箸墓古墳が卑弥呼の墓とか言うキチガイ消えてきたよな >>196
不弥国まで行ったあと、表記が里程から日程に変わる。
つまりこの日程はまた帯方郡からで、上陸してからの
陸行一月は
末盧国ー伊都国ー奴国ー邪馬台国
であり、邪馬台国は奴国(福岡平野)に接した筑紫平野に
あると思われる。
さらに伊都国(糸島市)との境界が後世の「山門庄」であり、
奴国(福岡平野)と邪馬台国(筑紫平野)との境界近くには
太宰府がある。
ちなみに不弥国は富津市から宗像一帯の海人族の国ね >>259
倭王武は先祖が西に66国、東に55国平定したという 中国からどこへ向かうのが一番楽かや
未開の土地を北上する理由はなんやねん >>263
畿内は政治力が強いので国がガンガンに金を出すけど
佐賀県は地元の教育委員会がやってるので >>239
坂本が巻向学研究で小論書いてる。寺澤のとこが出してる奴 なんか時間かかってるけど大丈夫?
やっぱトイレでしたとかじゃないよね 邪馬台国はさっさと片付けて次はこれ>>60で徐福やってほしい
吉野ヶ里の建築技術は半島を経由していない江南のものという論文も出てる ってか梅雨の時期に開けるってアホじゃね?
台風も来てるし >>264
箸墓古墳は以前言われていた程古い古墳じゃ無いってみんな気がつき始めたんだよ。
三世紀後半だとするといきなり巨大過ぎる、
やはり四世紀のものでしょう。 >>1
県知事がはしゃぎすぎ
とは言え豪華な副葬品や人骨出てきたら俺もはしゃぐけど >>191
逆なのでは?
邪馬台国の頃には帝なんかいなかったのだろう >>278
巻向が何年とか、九州説には全く影響しないからどうでもいいかな。
倭国大乱と狗奴国との戦争で疲弊した九州では巨大な古墳を作ることはできなかった。
巨大古墳は平和でヒマな時代に作る物だ。
畿内は確かに平和でヒマだった。
その後、疲弊した九州邪馬台国は畿内ヤマト王権に滅ぼされた >>191
漢の頃使訳を通じるのが100余国なんだから余裕でみんな大陸と繋がってたろ >>284
卑弥呼のゆるキャラを公式にして走り出した自治体があるらしい… 箸墓が4世紀ってC14のギリ1σで断定するとかアホだな
intcalも次の改訂で変わるかもしれないのに そもそも文字も使われてなかった時代に
日本全土にまたがる王朝みたいなもんを想定するのが疑問 >>275
まあ不弥国(宗像)から日本海側を水行二十日で敦賀まで行って、
そこから奈良まで陸行一月というのも考えられないことも無いんだが
記紀の東征なんかを考えると九州説の方が腑に落ちるんだよね >>279
周辺から出る土器からそう判断したんでしょ。おっしゃる通り、本体の古墳体はないものねえ >>285
> 倭国大乱と狗奴国との戦争で疲弊した九州では巨大な古墳を作ることはできなかった。
そりゃ魏に送る生口もたった10人になるよな
倭国大乱で大勢死んでるだろうし東に海を渡って倭種の国に逃げてるかもしれないし そういえば詳しい人に聞きたいんだけど
箸塚古墳って最近ミューオン?測定やってたよね
あれの結果報告ってどうなったの >>290
東に行けば奈良まで行けるが、魏志倭人伝には「南」に水行20日+「南」に水行10、陸行1月だから、どう考えても畿内にはたどり着けないよ
朝、論破されたでしょ
日本海ルート説 >>295
もうほっちまうべき。天皇陛下に具申「ええ、いいですよ~」 >>217
それが佐賀の人たちが以前から言っていた吉野ケ里の説だよね >>23
そんなに重要とは思えないね
ただの空想で書いただけかもしれないし
こっちに何者の記録もないからどうしようもないわ 普通に考えて、酸素は生物に猛毒だから異星人が来ないに決まってる
生命丸ごと滅びかけた時突然変異で得た形質だぞ >>300
漢委奴国王の金印
滇王之印の金印
あまり舐めてはいけない >>285
平和な時代じゃなくて、
日本が高句麗と戦争中の時代が巨大古墳建造のピークだよ >>301
こんなの作っちゃうあたりお里が知れてるよな >>288
確かにそれはそうだけど
それとは関係なく様々な総合的に纏向そのものが徐々にスレチになってきたということだろう
吉備や阿波の話ならまだ新鮮味あって勉強になるからありがたい 坂本の小論は手元にあるのでそのまま写すが、こんな感じ
箸墓築造前
intcal13 195-250
intcal20 230-255
箸墓築造後
intcal13 255-290
intcal20 255-280
なのでほぼ変わってない。較正曲線見ればわかるけどintcal13と20で大きな差があるのは1-2世紀なんで初期巻向型の築造時期(3世紀前半から半ば)では双方で大きな差にならない >>304
日本は固まってる
対外戦争をしかけるほど余裕がある 卑弥弓呼は卑弥呼の親戚だろうか。
それとも日御子、日御彦といった尊称なのだろうか 「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。
今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
はい残念でした! 倭国大乱とあるが大規模戦争の跡が日本のどこにもないというのはどう考えるべきなのか >>308
景行仲哀が九州を討伐した時期と
女王国が消息不明になった時期がほぼ重なってしまったな…… >>308
纏向遺跡も変わらんの?
畿内説によるとあれが邪馬台国らしいがw >>302
物理学者「生命に必要なのは酸素と水とー」って言ってるんだよな
酸素が毒ならそんなこと言わんのにw 畿内説って方角をアクロバティック解釈することから出発するんでしょ
何で頭のいいはずの学者がそんな珍説を真剣に議論するようになっちゃったの? >>297
あ、方角も適当っていうのが前提で、そもそも末盧国ー伊都国ー奴国が
南東っていうのも怪しいので。
あと一つ訂正があってアメノヒボコの出石の近くの宮津くらいまでが
水行二十日で、宮津からツヌガアラシトの敦賀までが水行十日、
敦賀から奈良までが陸行一月もないこともなさそう。 >>313
倭国乱れるて言って1000人死んだ程度だぞ。 >>312
はぁ?弥生時代で丹が使われてる石棺墓は畿内から出たん? 暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留Ⅰ式
倭国大乱(146年-189年)
卑弥呼(-242~248年
垂仁天皇(壬辰→西暦212年)
┣景行天皇(辛未→西暦251年)
┃┗倭姫命(トヨスキリヒメ)
┗豊鍬入姫命(ヒミコ)
ぴったり一致 ゴッドハンドくんのおかげで日本の考古学はオワオワオワコン >>318
後世の地図に日本を90°間違えて描いてる地図があったから >>319
方角を間違えるはずがない240日間もその行程を行き来している 関係ないが 九州って黄泉の要素強いから
都って感じじゃない 倭 在帯方東南大海 中、依山島為国 。(魏略)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるほうが
どうかしてるワケ 巨大な墓とか中国の歴史書に触れられたことがない。つまり畿内説はないどころか、隋書までの倭国ですらない >>312
畿内もそれでしかりになるけどええんかな?と思っちゃう
自分で卑弥呼書くはずもなくちょっとアホよな >>324
考古学はゴッドハンドによって
バイオはスタップ細胞はありますによって、
致命傷を負った >>306
やまとととひももそ姫からとって「ももちゃん」とかでいいんじゃないのかな
纒向遺跡だってヤマト政権の基礎になった都なんだから邪馬台国なんて言うのをやめて日本書紀の世界観を全力でアピールしたほうがいいと思う >>325
順序が逆
魏志倭人伝を読んだから
四海華夷總圖と古今華夷區域總要圖と混一疆理歴代国都之図のできた >>312
この時点で関東から九州・対馬までを制圧している纒向邪馬台国が南の狗奴国(和歌山あたり?)に脅されていて、魏を頼ってはるばる使者を出す
(´▽`)ないわー 本居宣長「倭人伝のあれは熊襲がヤマトを騙っただけ」
九州説はもうここに収まるしかないだろ。これならまだありうる >>334
奈良時代に作られたという逆さま地図の行基図が向こうに渡ったんじゃなかろうか 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 >>312
やっぱり、予防線を張りやがった!w
フィクション畿内がやりそうな事だよw >>333
確かにももちゃんは偉大なのだが、
死に方を子どもに説明できないのが困る。 Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真) >>315
景行天皇、没年齢148歳
明らかに実在しない架空の存在です
ありがとうございました 吉野ケ里が発展したなら、筑後川の近くにはそれよりももっと発展したクニが在った筈なの
この辺で一番発展したクニはきっとそこ
秘密にしてたんだけど言っちゃった 3行でまとめられる
狗奴国と争って疲弊した邪馬台国が、桃の種持って奈良に進出した纏向勢力にやっつけられた
古代においては負けた側の国名を残す統治法が世界的に多い
おっちょこちょい「大和朝廷が奈良なんだから邪馬台国は奈良」 >>337
混一疆理歴代国都之図はそうだが、
1140年の古今華夷區域總要圖と1530年の四海華夷總圖は、行基図すら見てない。
旧唐書と魏志倭人伝しか見てない。 建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」
ぴったり一致 >>315
神功の後夫の安倍が山桜桃塵輪をやったんだよ。 >>342
とすると崇神やモモソも架空になっちゃいそうだな…… >>336
本居宣長は国学者と言ってるけど
実は歴史修正主義の儒教学者だった可能性がある 当時の日本の1年はいまの2倍
低学歴以外のとっては常識 >>318
方角の話をするなら
九州だろうが畿内だろうが
まず伊都国にすら着かないわけだが >>349
雄略天皇ぐらいまではまず架空でしょ
実在したとしても、全然別の年代の誰か なんでフェミニストは邪馬台国論争に噛みつかないのだろうか
女性がトップだった時代の人物だぞ >>349
実際のところ継体天皇辺りが現皇室の初代じゃね?
それ以前は全部前政権の歴史 中国の史書を舐めてはいけない
・漢委奴国王→出土
・滇王之印→司馬遷史記の通り出土
・馬韓の植物は中国と大体同じとの記述
・倭国にカササギはいない→実際に日本書紀に飛鳥時代にカササギを輸入したとある >>322
これも前のスレにあったけど大阪高槻の安満宮山古墳(方墳)で
坑底に丹が塗られていたらしい。あと三角縁神獣鏡も出てる。 https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111F0000004.pdf
結論
(1) 太陰暦が輸入される前の日本に,日本独自の暦が存在した(原始暦と名付ける).
(2) 原始暦は 4 倍年暦の太陽暦である.
(3) 原始暦の元旦は,西暦で 3 月前半,6 月前半,9 月前半,12 月前半の年 4 回あった.
(4) 成務を除く A 群の天皇の没日に関しては,原始暦による原資料が存在した.『古事
記』はこれを変換 (a) を用いて太陰暦に直した.一方『日本書紀』は変換 (b) を用
いて太陰暦に直した. おまえらって東京辺りを首都と考えてるけど
国も曖昧な古代日本で首都作るとしたらどこよ?
普通に九州だろ
外交もしないといけないのに誰が極東の東に引きこもるかよ
そんなの朝鮮から流れ着いてきた罪人ぐらいだろう 記紀に描かれたオオキミたちは実在したと思う。
捏造する理由がないからな。
ただし、後世に広がった「男系男子の一系」の王朝ではないことも、記紀によってわかる。 釜山や済州島は倭国領だったので、やはりトリモロさないといけないのでは? >>356
三世紀後半から四世紀前期の垂仁天皇までは確実
垂仁天皇が古墳の奴婢の殉死を憐れんで埴輪を作るよう命じたと記紀にある
その通りその年代の古墳から人物埴輪が見つかるし 九州厨まともな教育を受けてないのが
テキトーなこといってる
典型的なネトウヨ、パヨチョンと同じ 学問に興味あるなら名大・中塚の年輪酸素同位体比法の論文をお勧めする。むっちゃ面白いし、画期的だから
東アジア全体で年代確定が可能な手法で、資料の年輪が15年くらいしかなくても正確に年代を確定できる
ほっそーい木材でもいけるってことだ
intcal20に採用された炭素14とも年輪年代法とも整合的。なんで初期巻向型が3世紀頭から築造に入ったことはほぼ確定的
「学者は左翼!歴史ブログこそが真実!」って人は...まあ読まなくていいかな >>363
まあ九州やろな
温暖で自然も豊かで最強の土地ですわ >>365
アマタラシヒコが全く出てこない時点で怪しいよ >>366
なんか「青龍三年(235年)の鏡が出たから三世紀後半かもって言われてるみたいよ >>361
三角縁神獣鏡が出てる時点でもっと後の時代の墓だな
レトロ九州スタイルに憧れた豪族の墓かとw >>372
サンクス、読んでみるよ。
その手法によると、箸墓はいつごろ築造されたんだい? >>372
巻向は3世紀初頭でも全然九州説に何の影響も与えないどころが、むしら九州説を補強する >>341
歴史学者なんてみんな揃って従軍慰安婦の吉田証言に騙されてた
朝日と赤旗が虚偽を認めて謝罪したのは2014年
その間、歴史学者は吉田証言で教科書を書いていた
馬鹿とまでは言わない。おっちょこちょい>>344 >>363
国も曖昧な時代に首都もへったくれもない。 >>362
日本書紀が正しい
という前提で現実を解釈するのって
もうそれ宗教と変わらないだろ >>325
あんな昔にきちんとした方角とか分かるはずないもんね
ものすごく適当に書いてあると思ったほうがいい むしろ安もんの三角縁神獣鏡がでてることで
大陸からもらった鏡を有力な勢力に
配ってるという証左になる 今の人間は人間は120歳以上生きられないと知っているが昔の人間はそんな知識はないので天皇なら160歳まで生きるかもと思っただろう
だから無理に春秋暦を持ち出す必要はない
とは言え倭人伝には倭人は長生きで百歳生きるのもいる、80-90歳も珍しくないというのは信じがたいが 股間の辺りに箸の痕跡が残ってて双方を困惑させて欲しい >>370
埴輪の流行を垂仁天皇(という設定の誰か)の業績にしただけだろ
記紀の記述から考古学を裏付けるのはアホだぞw >>371
日本書紀の記述を否定するのがネトウヨなんだ?
www 鏡の中でも八咫鏡が一番の名器になる
それが三種の神器になってる >>384
あり得ない。
方角を間違えたら、全然違う場所に辿り着く。
しかも、中国人はこの行程を240日間進んでいる。
仮に畿内説が正しいならば、毎朝自分の目の前に太陽が昇り、夕方は自分の背後に太陽が沈んで行ったわけだ。
それを240日間繰り返した。
それで、方角を間違えたなどというのは到底有り得ない。 だってそもそも日本書紀の編纂て、
天武天皇の時代だろ?
鵜呑みにするのはいくらなんでも無理あり過ぎ 九州説はVankなどの工作員の疑いが強い
三角縁神獣鏡が洛陽で出土というと複数が一斉に骨とう品屋で見つかったものと言ってくる
これはそういった対応マニュアルが存在している可能性尾示す
そして洛陽だけじゃなくて魏の領地のあった楽浪でも見つかってるというと
マニュアルに対応が書かれてないのか何も言ってこない >>374
タラシヒコは、馬子か、厩殿皇子か、田村皇子では?
推古女帝が隋書に出てこないのは、そんなにおかしいとは思わない。
隋書に書かれている第一回遣隋使(日本書紀ではスルー)を読むと、事情がわかる。
倭国では、王が二人体制だと言うんだな。
夜明け前に神の声を聴く王と、夜明け後に神の声を実現する王と。
推古は神の声を聴く王で、
隋の使者と会った王は、タリシヒコだったのだろう。 >>384
古代海洋民族見りゃ分かるように
方位は星や太陽から太古からかなり正確に割り出せる。
一方で距離や時間は大航海時代になってもちゃんと計測できなかったのよ
だから時計(クロノグラフ)が発達した >>371
差別語使ってるけど
吉田証言が虚偽だと朝日も赤旗もすでに認めてるのは知ってるよね?
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡としていたことへの謝罪はまだされていない。最初は良かったけど出過ぎた。数が多すぎる。いつ謝罪するんだ >>397
楽浪でも見つかってる→どちらもNIKEの靴だから同じだろという主張に耳を傾ける人はいない >>389
みんな台湾に逃げちゃったからな
卑弥呼率いる縄文人が九州東北へ
ヤマト朝廷に追われたように
今の中共と中国人は別な何か >>386
>>390
実際に前期古墳の特殊器台が消えるのと入れ替わりに
後期古墳からは人物埴輪が見つかるから
記紀に書いてある通りだった可能性は高い >「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
塙が言ってるだけだろ
気にすんな
吉野ヶ里行って海行ったり温泉行って十分に楽しめるわ 何があったら邪馬台国って証明されるの?
金印があったって邪馬台国以外にも渡してるかもしれんやん >>394
ありえない、って、モーそもそも、又聞きの又聞きみたいな資料記述でしょうよw
歴史学的に見たら一級資料になんて絶対ならんよーなもんでしょーよw ということで、今回のスレでは「投馬国は狗邪韓国」説を知ることができて
大変ためになりました。 >>394
今の方角とは違うって意味だよ
羅針盤もない時代にきちんとした方角がわかってたら凄すぎるわ >>376
三角縁神獣鏡が出たらハズレ感在るよねw
貴重な遺跡じゃ無い感w マジレスすると邪馬台国は今の中津あたり
当時、耶馬溪が神聖な場所だったから
それから名前をいただいた、なまったんだね! >>405
そりゃ誰かがその時代に様式を変えたんだろけど
垂仁天皇の存在が疑わしいという話
そもそも享年140歳だぞw >>402
なぜ謝罪が必要なのだろう。
論文を書いた時点で卑弥呼の鏡だと推論した、新たな事実が集積されたいまそうではないと推論できる。
なんで謝罪を? >>377
巻向型の築造開始時期の土器が布留0で、中塚によるとAD230年代前半だってさ(科研費報告書)。そこから計算すると箸墓は240-260で歴博新年代と一致する
>>378
本居宣長方式ならそれでよい >>407
例えば景初三年など魏の年号が入ってる銅鏡とか見つかれば確実だな
魏志倭人伝には景初三年に卑弥呼が魏に使いを送ったとあるし
あ、そう言えばもう畿内から見つかってたっけ >>405
その変更を天皇が指示した証拠はない
という話をしてるんだろう?
日本書紀古事記編纂した時期に朝廷は他の歴史書を禁書として焼きまくった。
捏造や誇張がバレないようにするためだろうね。 >>413
それもちょっとなw
昔だって航海をした以上は太陽やらなんやらである程度方向は掴んでいるだろう >>413
きちんとした方角が何°かは分からなくても、太陽が昇る方角と沈む方角は分かる。
それで、南と東を間違えたはありえない。 >>413
羅針盤のない時代でも
きちんとした方角がわかってたから
ポリネシアの海洋民族も、のちのバイキングも
航海で活動圏広げたんだぞw >>417
当時は1年を春秋の2年とする倍年が使用されてたという説がある >>419
ありがとう
年輪水素同位体分析結果ではなく、土器の編年からの推論で、240年から260年ってこと? >>428
日本書紀は正しい
という信仰を守るために捻り出した説なw 盗掘して安倍さんのカラーコーンの下に埋めたりするなよ 考古学会で九州説が下火なのは奈良に比べてとにかく物証が少なすぎるから
九州民はとりあえずそこら中を掘り返しまくるべき
何かしら出てくるだろ しかし学者ってかわいそうだよな
歴博新年代も輪酸素同位体比法も科学による画期的な進歩で、まさしく現在進行形で日本史が書き変わってるのに、歴史ブログがソースの民間歴史愛好家はぜーんぶ無視でいまだ倭人伝読み込みなんだもん
発掘現場の説明会行くと平均年齢70超えとかだったりするんで、もう新しい知識は入らないんだろうけどさ >>428
だったら考古学的に実在したとされる雄略天皇あたりから逆算すると
埴輪ができた頃は垂仁天皇の治世じゃ無いよね >>432
星も太陽も240日間見てる
絶対に方角を間違えるはずがない >>433
中国側の記録にも日本は1年を2年と数えるとあったはず >>416
耶馬溪の地名自体は近年に中国のイメージに似てるとして付けられたっぽい。
つまり耶馬溪の地名自体は関係無いのさ。
場所的には宇佐に繋がる地域なので重要なんだけどね。 >>431
明らかに誇張された没年の数々を見れば信憑性が欠けてるのは明らか。
何しろ248年に実際にあった出来事を神話だと思い込んで記述するレベルだからな。 ヤマトは故意に自分達をかつての邪馬台国だと偽装したのが真実 紀元前6000年エジプト人方角わかる
秦の始皇帝は設置型の方位磁針採用
紀元前500年頃中国で指南の元ネタ司南で大雑把には方角わかる道具作ってる >>437
中国と国交を持ったら整合性を取るために
いつかの段階で現在の1年に切り替えたんじゃないの 九州北部、山陰、越は
同じ文化圏
日本海側は
チョンコの文化圏
そいつらを滅ぼした戦いが
倭国大乱と考えられる >>432
北極星はその頃には今と変わらんからな
古代から方角はかなりの精度で測定できた
バイキングなんか曇天でも太陽の位置を知る術を
知っていたとされてるよ 神社は18世紀後半に創建されたとみられる。
これは何のタイミングなの? >>435
考古学会で九州説が下火という根拠は?
邪馬台国サミット2021ではそんな雰囲気はなかったが >>438
ただねぇ、出発後、航海中も船の進んでいる方角をきちんと把握しきれたか、っていうと、それも難しいわけよw >>444
天皇の没年齢がまともになるあたりからだろね
少なくとも100歳越え連発してる時代は
後世の捏造ですよ 宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
宇佐神宮はチョンコ神社 九州が邪馬台国で近畿が大和朝廷なんだろ?
そんなに邪馬台国のブランドが欲しいの?
近畿は価値ある色んなのあるし京都もキレイだし邪馬台国いらんよな >>417
いやしなくていい
適切なタイミングで論を改めるなら謝罪はいらない
ただ内心分かってるのに今もゴリ押しの場合には謝罪してほしい。河野太郎への感情に似てる >>441
例えば垂仁天皇以外の誰かが埴輪を作るように命じたという確実な証拠が見つかったら
埴輪を作ったのは垂仁天皇じゃなくて記紀の記録も疑わしいとなるけど
そういった証拠がないから今のとこ埴輪を作るのを命じたのは垂仁天皇で
合理的な疑いは生じない >>424
夏と冬では太陽の昇る位置と沈む位置ずれるけど
魏志倭人伝に書いてあるのはいつの季節のことなの? >>436
畿内になんぼ大きな勢力がいたって女王国東渡海千余里復有国皆倭種だからな
隋書にも東に海を渡った先に畿内ヤマトがあるわけで
どっかの研究者じゃないが金印か卑弥呼の文字が出ないと誰も認めんよ >>399
隋使の裴世清が来朝し、推古天皇自ら宴を開き歓待した(日本書紀)
倭王アマタラシヒコが自ら宴を開き、裴世清の来訪を大いに喜んだ(隋書)
嘘つきはどっちだろうな >>449
むしろ航海中は方角しか頼るものがないので
間違えたらそもそも遭難して終わるわw
古代人の航海術舐めすぎ 栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
出雲風土記の国引き神話からも
出雲がチョンコ由来なのが分かる >>449
羅針盤の前にも司南シナンという大雑把な方位磁針あったらしいよ
紀元前500年頃に馬上で使ってたらしい >>452
偉大なる天皇家は卑弥呼の時代から日本を統治してましたよ
という願望に引きずられている。
邪馬台国は大和であって欲しい
それが畿内説のイデオロギー >>454
享年140歳の人間が
合理的だと?www >>448
ひるおびに出てた学者がそう言ってた
かつて九州説は東大系が主張していたが現在は自分を含めて畿内が有力だと思ってるんだって >>450
捏造というより当時の習慣上の話じゃないの
現在でも時の流れを春秋という言い回しがあるけど
これは春と秋で1年づつの倍年が使われていた頃の名残かも知れない >>459
だからあ、いろいろ「不測」の歴史が起こってんじゃんかwww そして越にもたくさんの
白山神社がある
その文化圏では
糸魚川のヒスイが分布して
ぴったり一致してる >>449
帯方郡から狗邪韓国まで沿岸沿いにきちんと方角を把握して進んでいる。
狗邪韓国から対馬まできちんと方角を把握して進んでいる。
対馬から壱岐まできちんと方角を把握して進んでいる。
九州説でも畿内説でも、沿岸に陸地を見ながら水行しているので、どう考えても方角を間違えるわけがない。
太平洋のど真ん中ならあり得ても、陸地を見ながら進んでいるのに、方角を間違えたは有り得ない >>463
当時は1年を春秋の2年で換算する倍年が使われていた >>456
考古学も防疫学も、その時点で手に入った資料をもとに推論する学問だから、
新たな資料が追加されて、以前の推論が違っていたことが発覚するなんて、しょっちゅうだよ。
注意を怠った結果間違ったのなら謝罪は必要かもしらんが、
推論の変遷について謝罪するのなんかバカだよ。
自分のコントロール下にない事象に対して謝罪するやつなんか信用ならん。
謝罪を要求するやつもおかしい。 >>458
これについて中国の史書が捏造する理由が、見当たらない。 >>454
日本書記古事記編纂するときに他の歴史書を禁書として焼きまくったのは
天皇家が君臨する前の政権の歴史を消し去って天皇家の歴史にすり替える為だろう。 卑弥呼の頃は、県なんて単位はない訳で。。。。
「佐賀から熊本にかけての広域一帯の地域」だろうね。古墳も多いし。 >>465
その習慣がわかってるなら
まずは記紀の編年を補正した上で研究しないとね
神武天皇が2世紀頃の人物になるがw >>458
日本書紀は、推古みずからってかいてあったっけ?
それは読みのがしていた。
すまんな。
しかし、食い違いがすごいな。 >>149
渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
日経サイエンス
2021年6月23日 2:00
東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。
1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。
沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。
一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。
特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/ そういや遺跡のバイトの広告最近よく見るな
神社移転とか厄介な役割させられるんやろか >>450
とは言っても、卑弥呼も在位60年の齢90歳とかだから、大概だけどな
そんなやついなかった。
もしくは複数人の記録を纏めてる可能性も無きにしも非ず。 >>472
古代の日本社会においては春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする説で、
ヤマト王権の初期に在位したとされる天皇たちの不自然な長寿を説明する際にしばしば用いられる。
古くは明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが類似した説を唱えた他、、初期の天皇たち(特に第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの所謂欠史八代)の事績や実在性そのものが疑問視されるようになったのに対し、
幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。
根拠薄弱で学説として広く支持されているとは言い難いももの、
ある程度の説得力がある事から古代史を語る上ではしばしば話題に出される知名度の高い説である。 >>464
お互いが自説有利だと言い合ってるのは知ってる? 纏向がいつの遺跡かとかどうでもいいがな
邪馬台国であれば魏志倭人伝にあるように、
・厳重に警備された環濠集落、鉄鏃など鉄製武器、戦死者の墓など戦乱のあと
・大陸と交流して入手した品々、出土するものに大陸や半島と共通性がある
・南に同レベルのクニがあり、戦うと互角か下手したら負ける
この3つを満たさない限り、比定は無理だってw
のんびり巨大古墳を造れる平和な纏向は最強なんだし、魏志倭人伝の邪馬台国ではない >>429
同遺跡から木材と土器が出るわけで、年輪酸素同位体比法と突き合わせて土器編年に実年代を付与してるって感じ
どの遺跡からも計測可能な木材が出るわけじゃないんで、土器編年の確度を上げる意味はでかい
巻向は計測可能な木材も複数あるらしいんで数年以内にそっちの数字も出るんじゃないかな。ご本人いわく「大変興味深い」内容らしい 飽食の現代…アフリカ産でもダイヤモンドほしい
超大国魏…翡翠の硬玉ほしい(軟玉はいらない) >>479
佐賀・福岡・大分・熊本に広がって存在したが正しいと思うね。 >>472
なーんてしたり顔して言うけど
そんなやつおらんやろJK 蓋4枚のうち1枚だけ裏表が逆?
盗掘済み?
それともうっかりさんが「まあ良いか、大した人でもねーし」とか >>477
だろうな
「蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は
大邸宅に火をかけ自害した」って、全部を敗者の蘇我氏のせいにしているけど、
天智天皇に献上された国記はどこに行ったんだと >>484
考古学を学んでる学生がそのバイト代を使って日本全国飛び回ってるんだよ >>462
ここまで平然と嘘を書けるのはすごいな
偉大なる天皇家がシナ皇帝ごときに朝貢してたはずはない
邪馬台国は日本を統治する天皇家に滅ぼされた九州の田舎の一勢力に違いない
そんなイデオロギーありきであみだされたのが九州説 吉野君、痩せてたからいつの間にか吉野ガリって言われてた。 >>488
だなー
太平洋戦争中、米軍が攻めてくる時にデケー公園作るバカはいない >>485
でも魏に朝貢してきたという国外からの客観的な記録は残っている
でも皇統はかなり後の代になるまで、記紀以外の記録や証拠が皆無だからな >>475
いやその場合は謝罪の必要はないって言ってるじゃん?
>注意を怠った結果間違ったのなら謝罪は必要かもしらんが
いやそれも必要ない
「内心間違いと分かっているのに、マスコミ操作として、ゴリ押しする」のを森浩一が批判していた。三角縁神獣鏡についてだよ? そういういきさつなのを前提に話している なぜご信託を宇佐に伺いに行ったのか
そこに答えはあったんだよ
現代人はそのことを軽視しすぎていた
シンプルに宇佐神宮を掘るべき >>477
まあたぶん出雲神話などに関する書が禁止されたのかも
神武天皇が大和国を建国する前に
饒速日の命という天津神の子とされる支配者が居た
出雲神話など古い神話はどうも旧支配者の饒速日の命にまつわるものが多いらしくて
神武天皇の子孫はそのままにはしておきたくなかったのかも知れない
風土記にはあるけど記紀では出雲神話と饒速日の命に触れられてる箇所はごく少ない >>489
なるほど、年輪酸素同位体比法によって、土器編年の精度をあげていくのだな。
おもしろいね。とてもおもしろい。 ひとつ言いたいのはさ、邪馬台国が佐賀だろうと奈良だろうとお前らのものじゃねえからってこと
民族的はもちろん血縁的にもルーツである可能性は低い
血縁的なルーツはもう日本全国散らばっててどこもなにもない >>501
表意漢字と表音漢字の組み合わせ
中国が名前をつける時によくやるやつ >>451
そんな時代に銅が国内から出てたら、和銅なんて年号付けないだろ。 >>502
>内心間違いと分かっているのに、マスコミ操作として、ゴリ押しする
そんなやつは学者ではない。
いたとしたらな。 >>480
考古学的には神武天皇は2世紀後半でも合ってると言えるな >>497
実際倭国と其れ以外で地図で分かれてるじゃん。
倭国と倭種って別で書かれてるじゃん。 >>497
3世紀には大和朝廷無かった、あったとしても奈良の豪族
これが九州説なわけだが
これのどこが偉大なる天皇家という話になるんだ? >>505
やはり十種神宝が原型で、三種の神器が後発だろうな。 >>497
そんな話しじゃないだろ。普通に魏志倭人伝はじめ中国の史書読めば、倭国とは主に九州を中心に指してるというだけの話し。 >>512
だったら垂仁天皇なんて埴輪が出てくるより
もっと後の時代の大王だよね >>497
偉大なる天皇かどうかは知らんが、遣隋使、遣隋使送ってんじゃん
あれなんか朝貢外交そのものよ? 絵かなと思ってたけどなんか真ん中の石の線刻だけたくさん書かれてるし、
全体に隣の線刻と繋がってないんだな
この不規則さ、アヤツコとか封印っていうより、カッター台の傷と似てる
石材加工の仕方がよく分からんが、何か角をあるものを切るときに下敷きにしただけのような >>518
崇神天皇で3世紀末あたりだから垂仁天皇はそんなに後じゃあないな >>515
根拠薄弱で学説として広く支持されているとは言い難いももの、
ある程度の説得力がある事から古代史を語る上ではしばしば話題に出される知名度の高い説である。
根拠薄弱だけど知名度は高い
まぁマンセー一系教の教義を守るためにはこれに縋るしかないものな >>508
他所は知らんが九州は基本土着民だし佐賀は特にだぞ。
少なくとも五百年位前迄同じ区域に住んでるのが珍しく無いぞ。 >>477
大いなる国の主なんて存在がいたはずだしなあ。 >>491
https://imgur.com/a/4ji4NVI
自分は大分までは無理だと思いう。地図を参照しても、阿蘇山や山間部が
じゃましてそっちまで国をまとめられるとは思えないんだよね。
長崎 佐賀 熊本 福岡までじゃないかな。 https://i.imgur.com/96qEpxT.png
この資料を見て、西暦239年に魏に使いを送ったのはどこの勢力だと思いますか? 俺も数年ぶりに現状を調べてびっくりしたんだけど、>>489みたいなとこまで研究が進んでるんで箸墓築造の年代はもう3世紀半ばで決まりだと思うよ
稲作開始時期とかもそうだけど、こんな早く古代史最大の謎に決着つくとは思わなかったよ、学者はすげえよ >>523
実際倍年が使われてた可能性は十分あると思うよ
魏志倭人伝の注釈に倭は
その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す
と書いてるようだし >>521
封印にしては乱雑だしね。それはあり得そう。 九州にあったというのは分からん事もないが、だから佐賀にあったと言われると違うんじゃとは思う >>472
そうすればお前に都合がいいからそう唱えてるだけだろ?
あのさあ、お前には昨日からずっと聞いてるんだけど
お前の論拠である、黒塚古墳の用途不明のU字型鉄器が「魏の黄幢」であるという根拠出してね?
U字型つう形が似てるからだけじゃ根拠薄弱過ぎるんだよ
それと「奈良から南に向かうと和歌山と熊本が同一方角に現れる」つうマジックの説明も聞いてるからな
早く回答してね >>522
ヤマトタケルとか神功皇后の逸話は
全部吹き飛ぶけどねw 宇佐神宮の件は藤原氏→鎌足
蘇我入鹿の弟で物部大臣って変なのいる
馬子の妻にも物部鎌姫的なのもいたし
中臣氏は廃仏で物部とつるんでたが
出自たぶん違うよな?
物部氏が九州の権威にこだわるなら分かる
藤原氏になってまで執拗なのは変 >>511
たくさんいる
萱野稔人「人文社会の分野における一部の学者たちは、科学的に考えることよりも、どのような理論を採用することが自分たちの政治的な主張にとって有利となるのか、というイデオロギー的な観点からものごとを考えがちです。興味深いのは、そうした学者たちが集まる学会や研究会ほど、同調圧力が強いということです」(『サイゾー』2020年01月号)
またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館
https://daishi.at.webry.info/200910/article_34.html
>最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。 >>528
倭国大乱で衰退した地域がどこなのか一目瞭然だな >>525
そのあたりに畿内から銅鐸が消えて銅鏡が出るようになるからね
倭国大乱は西暦180年あたりと魏書にあって
神武東征の事を言ってるのかも知れない >>484
今回の発掘の出土品整理のバイトがハロワに出てた
行きたかったなー ずっと邪馬台国スレをウォッチしてきたけど邪馬台国は大分にあった気がしてきた
狗奴国は熊本鹿児島と考えればすっきり >>527
今の熊本市辺りは絶対無理なのは狗奴国だから無理としても山鹿辺り迄は邪馬台国だと思う。 >>534
伝えるときの双方を想像したら笑える(笑) 邪馬台国は九州にあった!
しかし畿内説も充分考えられるし
沖縄あたりの可能性も捨てがたい >>538
出自で信念や行動が決まる時代なんてなかったんじゃねーの?
ご自分で書いている通り、蘇我だって一族一枚板の時代なんてない。
物部との対決時だって、物部側にも蘇我がおり、
蝦夷入鹿滅亡時にも、中臣側にも蘇我がいる。 >>544
正直、邪馬台国がどこにあっても実はどうでもいいw
だって、どっちにしても、日本としては文書が出てこない限り、「文明以前」であるのはかわらんし…w TBSが3人の中国史の権威に質問したら全員九州説を採用した。
・魏晋南北朝史学会の副会長である陳長崎氏
・世界漢字学会の会長であるゲンコクワ氏
・台湾大学教授である周徳望氏 >>542
神武東征はどう読んでも
倭国大乱から逃げ出して畿内で一旗あげた
弱小豪族の出世物語 >>457
>>336な感じで九州説も残るし(四国説東海説関東説も残るw)、それはそれでいいんじゃね
ただ邪馬台国の所在地とは別にして、ヤマト政権の成立時期を定めていくという難作業がしっかり進んでるのは素晴らしいよ、俺的にはこっちがでかい >>539
白石氏ひとりしか出てこないが、たくさんとは?
ちなみに、白石氏は立派な学者だと思う。俺とは意見が異なるが。 >>542
それがどう証拠になるの?
神武東征の証拠なんて難しいよ? >>521
意味ありげに報じてるけど
その可能性も十分あるな >>538
宇佐八幡は藤原氏と関係深いよな
藤原氏とともに繁栄してる >>553
箸墓が5世紀だと考えれば色々符号する。
歴博の連中がおかしい。 >>555
それ同意だな
俺もそっちの方が歴史的に重要だと思うな >>542
とっとと>>536に答えろ、口だけの畿内派
「確固たる根拠が示されるまではボクの思いつきが世界的考古学的に正しい、だって可能性はゼロではない!」
U字型鉄器が魏の黄幢だという珍説はお前の脳内でしかないだろ この記事おかしいよな
邪馬台国と関係無いのに邪馬台国と言っとる
こういう印象操作はアカンで >>554
ニギハヤヒも九州から畿内に移った豪族かもな。 >>540
倭国大乱の前と後での日本列島におけるパワーバランスの変化が一目瞭然
3世紀の九州は中国に相手にしてもらえない悲しい状態
魏の皇帝がそんな雑魚を親魏倭王に封建するとか絶対にありえない >>555
同意する。
知りたいのはヤマト王権の成立過程とその時期だ。
出雲との関係、渡来人との関係、初期はヒメヒコ制だったのか、高天原はどこか、などなど。 県別"縄文度"初公開!この体質は縄文人から?遺伝子から探る人類史
2023年03月08日 (水)
従来の研究で現代日本人の多くは遺伝子的に1~2割が縄文人由来、8~9割が渡来人由来とされています。
今回東大グループは民間の遺伝子検査を受けた全国1万人のデータの分析などから、住んでいる県別の言わば“縄文度”=縄文人由来の遺伝的変異をどれぐらい多く持っているかを初めて明らかにしました。
東北地方や鹿児島など濃い青色の県は縄文度が高く、近畿や四国などオレンジ色は縄文度が低い、逆に言えば渡来系の血が濃い人が多いエリアということになります。
また、中国地方で島根だけ濃い青、つまり縄文度が高いと言う結果で、はっきりした理由はわかりませんが、
出雲の国はオオクニヌシの国作りの神話などがある地域でもあり、もしかすると古くから縄文系の人たちが多く住む国が実際にあったのかも?など古代史への想像も色々と広がる結果でした。
研究を行った渡部裕介特任助教は、多くの渡来人が入ってきたのは2、3千年も前からのできごとなのに現代の日本人にも地域差が残っていたのは驚きだとしています。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/480441.html >>557
畿内から銅鐸がなくなって銅鏡に切り替わった文化の変異が証拠の一つ
それ以前の1世紀は九州が銅鏡の中心だったから
2世紀後半になって畿内が銅鏡の中心になっていくのは
九州から出発して畿内に大和国を建国したという神武東征の記述と一致 なぜ神武は九州から大和へ行かなければならなかったのか?
しかも大和にも土着先住の王はいたにもかかわらず。
答えは簡単だ。神武は九州では弱小で住む土地すら与えられなかった。追い出されたとみるべきだろう。
その追い出した方の強国が倭国であり邪馬台国であり磐井の国であった。畿内の一族は耐えて耐えて地方政権を樹立し戦争もないので古墳造りを趣味にしていたが、その挙げ句に北陸の継体一族に乗っ取られてしまう。その継体一族がついに磐井を倒し、磐井一族も白村江でよわったこともあり、壬申の乱で他王家を駆逐し日本を統一するに至った >>533
ほんとほんと。年輪年代で停滞してたのを酸素同位体比で突破してくのはマンガみたいだよ >>568
狗奴国に苦戦している、あるいは今にも滅ぼされそうになったから、魏は張政を邪馬台国に派遣した。
親魏倭王の金印を贈った理由は魏志倭人伝に書いてる。
洛陽まで行った難升米らに対し、
「あなたの国は遠いという表現を超えている。それなのに、ここまで来てもらって、甚だいとおしく思う。よって親魏倭王の金印を与えます」
ただ、それだけ >>568
倭国大乱で互いに攻め合い
師升が送った生口160人に対して卑弥呼の送った生口はたったの10人(追加ですら30人とかそんなしょぼいレベル)
卑弥呼没後すぐに揉め始めて
266年を最後に消息不明になる
邪馬台国とはそんな国だよ >>544
俺もそう思ってたが侏儒=熊襲としたら吉野ヶ里以北が女王国
狗奴国はまた別
こう考えると色々辻褄が合う
だから今回の吉野ケ里はアツいんだよ
佐賀県知事?誰か知らんけど?目の色変えるのも当然だ >>572
んで、磐井は復讐されてヤマトにほろぼされちゃうわけねw
うーんロマンだねw 前提として
・卑弥呼の時代に無人地帯にのみ同時代の遺跡がない
・東北にも弥生人いたから卑弥呼の時代の遺跡はある。畿内にも
卑弥呼=纏向説について
・魏志の記述や出土と一致しないので、纏向場合、年代測定が卑弥呼と同時代であれば逆に邪馬台国ではないことになる
今掘ってる吉野ヶ里はまず奈良時代の層からなんか出て、さらにその下の層から今の石棺が出てる
だから纏向の年代がもし古墳時代なら、その下の層に卑弥呼の時代が埋まってるかもしれない
しかし今出てる纏向は卑弥呼の時代なら、それは纏向説が消えるということでは? 奈良だとしたら途中に記載すべき国が無かったってこと? >>578
邪馬台国が大和国だったら
その後の畿内の大和朝廷の連続性も説明できるんだけど 国語の問題だろ
>>555
>そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです 魏志倭人伝に記録されている倭国の政治的出来事
これらは約100年間のあいだに連続して起きている事
1.倭国大乱
2.卑弥呼を女王として共立(AD180年前後)
3.女王国vs狗奴国の戦争勃発
4.卑弥呼死去(AD247年頃)
5.男王を立てるも内乱勃発し死者1000人以上
6.台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃) >>564
畿内説のID:U+6/f1Ep0によると「邪馬台国=大和、そこから南に行くと熊本と和歌山が出現する」らしいからw 畿内だったらヤマト王権と繋がる可能性があり大発見
九州だったらクソ雑魚だから追及する意味がない
九州説がなぜ九州であることを望むのか理解不能 >>576
わかる。
研究方法論の進化はワクワクするよ。
導き出される結果よりも。 >>589
望むのではない
単に真実の追求
望んでいるのは九州人のみ またレス先間違えたすまん
>>556
>そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです >>577
何処の馬の骨かわからんやつがはるばる洛陽まで来てくれたから皇帝は金印をあげましたっていう珍説?
さすが九州説 >>587
平和になってなさそう
張政はすぐに帰ってるし
陳寿はそう書くしかなかったのでは >>579
そんな面倒なことはしないが、胡散臭いと思うなら中塚の科研報告書でも読んでくれ
科学の醍醐味だから、あれ、誰でもわかる >>593
と、一人の人が主張している、んだよな? >>596
馬の骨、っていうけど、中国の朝貢外交ってそもそういうもんよ?w 全ては蘇我氏滅亡のどさくさに紛れて焚書をやったのが悪い >>597
張政いなくなったら邪馬台国の権威が失墜して女王国連合の結束力がボロボロになってそう
東から畿内ヤマトが攻めてきたら裏切り続出で内部崩壊したんじゃねえかな…… >>459
少なくとも半島~九州両方に拠点を持ち行き来してる海の民だしな
半島を追い出されて引きこもってた時代よりは遥かに航海技術は上 倭国大乱は神武天皇(がモデルの政権)の東征だな
出雲、岡山と土着政権を平定しながら東に進み、畿内入りした
しかし畿内初代政権はアマテラスたる卑弥呼、つまり姫巫女ヒメミコ
箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳 >>597
畿内説の頼みの綱である纒向遺跡が該当するとしたら>>587の6しかないw >>577
>狗奴国に苦戦している、あるいは今にも滅ぼされそうになったから、魏は張政を邪馬台国に派遣した。
そんなことどこにも書かれていない
曲解と妄想
そもそも張政を派遣したのは皇帝の詔によるものであり、邪馬台国が要請したためではない >>593
それに、三角縁神獣鏡が魏からの下賜品でなかったとはまだ確定していない。
コピーがやけに多いことは確定でいいが。
儲かりもしない考古学者という職業を選んだ人々が、自分の研究もできず成果も発表できず、
偉い人の言いなりだとの世界観がよくわからない。 intcal20で更新されて箸墓や纏向はむしろ4世紀前半の可能性が高くなったってどれか前のスレで見たような気がするけど勘違いかな >>599
揚げ足取りだろ。言外の状況が前提
例えば吉田証言の記述を復活させた教科書があるし、様々な識者が同じことを言ってる。たまたま目の前に記述に森浩一1人しかないからといってそういう揚げ足取りをするのはいかがなものか >>596
中国は琉球の三山時代に、山北王・山南王・中山王を3人冊封している >>604
倭国大乱って実際は大した規模じゃなかったと思うわ よ う こ そ 邪 馬 臺 国 へ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。←博多湾の情景か?
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
中国の史書において、連続した行程の場合は「又~至る」と記述される
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ >>607
>偉い人の言いなりだとの世界観がよくわからない。
そういう傾向のある世界だよ 箸墓の「昼は人が作り夜は神が作った」の真意があるのかどうか知りたい
百襲姫の逸話からも単なる伝承なんだろうけどさ >>609
ならば、同調圧力に屈してウソを喧伝しているとあなたが思う人々に謝罪してもらえばよいのでは?
具体的に誰? マキムクはさ
邪馬台国ではないけど
立派な国だった
って話になったらガッカリするの?
それはそれでいいじゃんってならんの? >>574
ほら畿内説はコレだw
U字型の鉄器ってえだけで魏の黄幢だと決め付け、「違うというなら用途を詳らかにしろ」と来るw
だから今の所、それは用途不明だと何度も言ってるだろw
何でオレが対説出すまでお前の無根拠な思いつきが学術的にも正しいことになるわけ?アホ? まず奈良なんか話にもならないのに何勘違いよ上から目線なんだこの人は >>602
晋書に(倭の女王は晋の)泰始初め(266)に使を遣わし、通訳を伴って貢献した。とあるからトヨまではなんとか持ったかもしれんね。
でも狗奴国の方が優勢やろね >>595
邪馬台国にも言えるが数値盛ってるか、~地方をまとめて言ってるだけ
かつてのBOSS国家奴国に比べ、明らかに規模がおかしい
まあ奴国2回出て来るくらいだから適当だろうよ
九州北部のどっかと思っとけばいいよ
熊襲は恐らく北部の争い我関せずだったはずだ まんこに箸刺さって死んだとかいう超絶面白エピソードあったら張政が絶対報告してるよ あえて纏向の話をすると
例えば
その前に>>616
しつこい。謝罪はしなくていい >>544
邪馬台国が大分なら狗奴国が宮崎になっちゃう >>619
違うけど知人がいる
学者同士の世界ではプライドあるので分かりやすい謝罪はしない。礼儀としてさせてはいけない。それとなく伝える
それとなく伝わったら矛先を納める >>555
天皇中心か否かはともかく、天皇というシステムによる統治の端緒の解明だからなぁ
九州北部ありて南部もあり、島根半島域も越地方も畿内も 吉備も、
色々総合的に入り組んだ時代から国体を整えていく時期。
それは記紀の信憑性への検証でもあるしワクワクガ止まらない。 >>585
だから邪馬台国が奈良にあって欲しい、ってか?
そういう、くだらない願望叶えるために唱えてんのが畿内説派 倭国大乱を経て、2世紀後半から3世紀前半に日本の中心が北九州→瀬戸内近畿に移ったのは間違いないとして、近畿にもまだ問題が残る
2世紀の鉄器と王墓が少なすぎる
岸本2014によると近畿でも権力の集中は進んでいたらしいが、その説明ではまだ埋まってない気がする。寺澤の北九州or瀬戸内勢力の東遷もピンと来ない
誰が3世紀頭にヤマトを作ったんだ? >>610
時代が違う
親魏倭王は大月氏王に金印を与えた時代の出来事 ここに建っていた日吉神社に関する佐賀ポータルの説明
「実際、この日吉神社の鎮座する丘の頂上から、特別な墓が見つかっています。
埋葬されていたのは40から50歳の女性で、甕棺からは銅鏡、両腕に南海産貝殻性腕輪36点、絹の布片、朱などが発見されています。
この墓は巫女の墓と思われ、弥生時代中期後半くらいのものだとか。」 >>596
卑弥呼が金印貰った時の難升米が持って行った朝貢品何か知ってるか?
奴隷10人麻布10mだか何mだかそこら
以上
たったこれぽっちだぞ?
日本列島西から東まで支配する大国だ?笑かすなよ トヨは伊都国で張政と会ってるよね
平原王墓はトヨだと思うけどどうかな? >>449
朝鮮半島南部は「漢の楽浪郡」だったので、
邪馬台国の民は漢にご挨拶しようとした
ところが滅びていたから魏に行くことになった。
> 原型となるものとしては、
方位磁針相当の磁力を持った針を
木片に埋め込んだ「指南魚」が
3世紀頃から中国国内で使われていた[21][22]。
指南魚を水に浮かべることで、
現代の方位磁針とほぼ同様の機能を実現する。
名前に「魚」とつくのは、
多くの場合木片を魚の形に仕上げ、
魚の口の部分が南を向くようにしたもの
(文字通り「南を指す魚」=「指南魚」)が
使われていたため[22]。
当時の魏の出先機関がこれを持ってない可能性が低い
方角が間違いだとすると磁極がずれていたか、
あるいは天測航法で地球の傾きが違った可能性はある
だから書き方の問題になっている。
> 「連続説」(連続読み)-
「魏志倭人伝」に記述されている順序に従うが、
都度、方角を90度変更したり距離、
日数を修正したりして各国を順次比定する読み方で、
帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て
北部九州に上陸し、
末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・
邪馬台国までを順にたどる説。
「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説[8]。
伊都国までは連続読みと同じだが、
伊都国以降では、行程の表現方法、
つまり、文型が変化していることから、
伊都国から奴国、伊都国から不弥国、
伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、
伊都国を起点に放射状の行程が書かれていると読む説。
どっちにしても畿内だとすると、
伊都国から先がすっぽり抜けてる。
吉備国の話や途中の停泊地がないわけだから。 >>581
それがね異説があるんだよ
八女の伝承では磐井はヤマト軍を追い返した
宗像氏がヤマト軍に投降しただけで本隊はほぼ無傷
ヤマトと和議を結ぶ条件として磐井は嫡男に王位を譲り引退、亡くなったあとは古墳(畿内と同レベルの大きさ)に葬られて一族はその後も栄えて代々の古墳を残した
って話 もし親魏倭王金印が出土して鑑定の結果純度98%だったら本物と認める >>632
>誰が3世紀頭にヤマトを作ったんだ?
あったという証拠がない >>608
>>308で説明しておいた、intcal20でも3世紀はあまり変わらない 物証がないことには何も進まないのにまだぼくがかんがえたさいきょうのやまたいこく」やってんのかw >>606
・景初2年(238年)、難升米らが洛陽まで行く
・正始元年(240年)、梯儁が倭国に行く
・正始4年『243年)、伊聲耆が帯方郡に行き、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献。
・正始6年(245年)、難升米が帯方郡に行くも、中国側は「頑張れよ!」と檄を飛ばして錦の御旗を渡すのみ。
・正始8年(247年)、いよいよ邪馬台国が滅びかけたのか、錦の御旗を再び渡して、張政を邪馬台国に派遣。
ほぼ2年に1回の朝貢。
これは尋常ではないレベル。
相当に、邪馬台国は滅びかけていたことが優に推認できる。 >>628
研究し、論文を書き、公開するんだよ。
それだけだ。
研究人生は短い、重鎮に忖度している暇などない。 >>646
逃亡説もある
だけど古墳に葬られてるから引退説っぽい これを機に勉強しましょう
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)
・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png >>394
中国人は太陽を基準に方角を考えない。皇帝の位置からの方角で考える。ここが日本との決定的な違いで周辺にいくほど方角がいい加減になる(皇帝から見れば同じ方角の範囲内) >>645
>相当に、邪馬台国は滅びかけていたことが優に推認できる。
妄想が激しすぎる
触れてはいかんやつだったか >>647
それはその通り。教授にしてもらえなかった人もいるけど在野でやってる人も多い 磐井は安曇への入婿みたいなもんじゃなかったっけ
まぁどっちにしろ安曇のような天孫降臨前からいた氏族はあまり位が高くないのよな >>635
そもそもすぐ南の国すら統治できてないってしっかり書いてるのにな
畿内説って本当にアホなのかな >>645
むしろ、それでも約10年は持ちこたえたんだな >>571
それって確実に神武の影響といえる根拠は? >>645
正始8年には卑弥呼も難升米も死んでるよね 魏志倭人伝も皇帝が読む前提で書かれているので方角は皇帝からの方角で解釈できるように書いている。 >>571
銅鐸から銅鏡への切り替わりは非常に興味深い。
大陸半島の流行が北九州へ、遅れて畿内へと伝搬したのか、
それとも、支配構造の変化の現れなのか。 >>626
大分~熊本北部が邪馬台国
熊本球磨地方~鹿児島のあたりが狗奴国=熊襲
でどうよ >>651
反論できないんだな
俺の説はここ数日でかなり評価を得てる
ここにも同様のことが書き込まれるようになってる >>641
>>187
>>644
物証はもう出てるんだよ。>>187とか。国際データにも採用されてる。でも、そういうのは全否定で「ぎしわじんでんがすべて、ぎしわじんでんをすなおによめばきゅうしゅう」という人の声が(ネットでだけ)大きい >>589
真実が知りたいだけ。卑弥呼の真実が北九州の女酋長であっても別によい。 >>660
【最新】銅鐸も実は九州由来だという流れになってきた
銅鐸は紀元前から弥生時代の終わりにかけて近畿地方を中心に発達した釣り鐘のような器物で、農耕にまつわる祭器ともいう。
土中から偶然見つかることが多く、その分布圏は北部九州の銅矛・銅剣文化と対峙したとの説もある。
ただ、その成立や埋納過程には謎が多く、日本考古学上の重要テーマだ。
シンポの主催は、銅鐸の完全な石製鋳型で有名な東奈良遺跡を擁する大阪府茨木市教育委員会。
2023年の鋳型発見50周年を前に、「銅鐸から弥生時代社会を見直す」と銘打って昨年11月上旬に開催した。
銅鐸といえば近畿発祥という通説に一石を投じたのが、明治大の石川日出志教授。
青銅器文化のルーツはもともと朝鮮半島や大陸にあるが、「近畿に朝鮮系青銅器は希薄で、ここで銅鐸の由来をたどるのは無理がある。
むしろ最古の銅鐸の構成要素は北部九州にほぼ出そろっており、それが近畿に波及し飛躍的に発展したのでは」というのだ。 >>628
その人こそプライドに取り憑かれてる変な学者だから信用しない方がいいよ
学説はあくまで説だからプライド関係なく謝罪なんかそもそも要らん
確定的な検証や事例で反証されるのも前提だしそれで名誉が既存されると考えるのもおかしい話
例えば素粒子物理学ではアインシュタインは
状態の重ね合わせやテレポーテーションに否定派だったが
その状態が多く観測される現代でアインシュタインは無能だから
彼の言ったことは全部でたらめとはならない どうせ誰も行かないからバレないと思ってテキトーに旅程書いた陳寿がすべて悪い 熊襲が侵略したと言うより元は熊襲の土地だったものを邪馬台国が接収し数十年くらいで発展させたから取り戻しに来たくらいの方が信憑性があるけどね
得てして争いとはそういうもの >>662
根拠がないことを書いてると自覚してくれ >>663
奈良盆地は墓域
外部勢力が墓を設置する霊園みたいなもの
纒向は古墳造営基地局
【参考】唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。
■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。 >>666
いや学説の話でも論文の話でもなくてゴッドハンド未遂の話
そういうの見つけたら文句言うじゃん? 向こうも必死じゃん。そういう子供の喧嘩に近い話です 247年3月24日の日食
九州:日没前に太陽が7割欠けて沈む
近畿:日没前に太陽が5割欠けて沈む
248年9月5日の日食
(日本でのみ見る事ができたため世界のどこにも記録がない)
太陽が9割欠けた状態で昇り、やがて円に戻る
248年に13歳で女王になったのなら、台与は3世紀初頭まで長生きした可能性があるな
卑弥呼の死と、内乱の再発と、台与の即位の激動の時期に
奇跡の日食が起きたのも面白い! 隋書倭国伝に
倭王は朝暗い内に政務を行い日が出たらやめます、と言ったら
隋の皇帝に、それは理にかなっていない、やめなさい
と言われたという節は笑った
ちなみに推古朝なのに男王で妻と太子(聖徳太子)が紹介されているのが興味深い >>667
適当なのは倭王卑弥呼にお土産持っていった梯雋が悪い
もう少し丁寧に報告して欲しかった >>650
中国の古代史の学者はそんなこと言っていないな >>627 >>596
少なくとも魏の時代にはローマを知ってる
魏略
編集
「大秦には普段は王はおらず、
国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。
災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」
これディクタトルのまんま
後漢書にも
>「和帝の永元九年(97年)に
西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
> 「桓帝の延憙九年(166年)に
大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が
日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した。
初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた[2]」
とあって、知ってはいる。
ただまあ、ローマから象牙、サイのツノってのは
不思議だけどな。
とりあえず漢の時代に三蔵法師がガンダーラまでは
行って帰ってきてる。
さらに卑弥呼の金印は謎だが、
「漢の奴の国王」印は実在するし、
ワカタケル鉄剣も実在し、
中国の史書にも倭王・武と書いてあるのだから、
金印もらう自体はおかしくない
それ言うなら奴国の方が規模が大きくないとおかしくなる >>665
おもしろいね。
まず、大陸の銅鐸文化がかなり遅れて北九州に伝播する。
さらに遅れて畿内で、実用を無視した巨大化を開始する。つまり、威信財化した。
なんでだろうね。 聖徳太子の日出ずる国は中国の皇帝にも方角がわかるように表現した。そして日が沈む国ってのは日本の王の位置からの表現をしたので中華思想的には驚天動地の表現。 >>675
奴隷10人も現地に置いてきたんだから彼らからいくらでも話を聞けただろうにな >>627
周教授が見せてくれたのは、明の時代に書かれた中国最古の世界地図。
当時の日本は現在よりも南の位置、中国の真東にあると認識されていた。
実査には海流で北へ流され九州にたどり着く、当時の認識では長江の東は九州だった。
「女王・卑弥呼の居場所や邪馬台国は九州にあったはずです」
これは分かりやすい >>674
そこ、とても面白んだけどさ。
もっとすごいことが書いてあるんだよ。
>倭王は朝暗い内に政務を行い日が出たらやめます
倭王は兄弟です。兄は日の出る前に政務を行い、日が出たら弟と交代します。
なんだろうこれ。
シャーマンと実務者かね。 >>678
でもいずれにせよ卑弥呼時代より随分と前の時代
卑弥呼よい以前の巫女の存在は日吉神社で確認されている
>>634参照 >>680
明帝と会えて難升米もびっくりしたのでは
たぶん九州からは舟で連れて行ってない
朝鮮半島で生口を集めたと思う 九州で見つかったあの金印?
それには「下級奴隷」って書いてあるんだってね
あんなのもらって嬉しいの?って中国人が言ってた >>685
近畿で、銅鐸を放棄して銅鏡に移行した年代が特定されているということ? 元々旧石器時代から黒曜石やサヌカイトの石器を使っていた集団がいたんだよ
この時代は瀬戸内海は陸地で淡路島は四国と陸続きであり島ではない
氷河期が終わった縄文時代草創期には早くもユーラシア大陸の影響が見られるようになり勾玉が誕生するのがこの時代
淡路島が島として誕生するのは氷河期が終わってからだな
淡路島より先に1番最初に誕生したのは葦船、磐樟船に乗るひるこだな
更に遅れて縄文時代前期には千葉などの沿岸部に巨大な貝塚を作る定住の漁撈民が現れる >>688
いや、そんな解釈は導き出せないと思うが。
王が二人体制で、夜明け前担当と夜明け後担当だという記述から。 方角は基本むつかしい。富士の樹海での遭難も方角を見失って起こる。 九州説の言い分をまとめるとこんな感じかな?
・邪馬台国は九州にあったが弱小勢力だった
・本州には纒向に都を置く大勢力があった
・倭国大乱を経て日本列島のパワーバランスが変わり、邪馬台国は中国から相手にされない状態になってた
・滅びかけててやばいから魏に使いを送り、見事に親魏倭王に封建された
一事が万事だし、こんなアホらしいことを本気で主張してたら、まともな社会生活は送れてないだろうな >>674
隋書には「2回」倭国から遣いが来たと書いてあるが、
日本書紀には1回しか書いてない。
> 「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。
号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。
お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、
その風俗を訪ねさせた。使者は言った。
”倭王は天を兄とし、日を弟として、
天がまだ明けない時に出て政務を聴き、
跏趺して坐っています。
日が出ると事務処理をやめ、
我が弟に委ねようといいます。”
高祖は”これはあまりにも
筋の通らないことだ。”と言い、
さとしてこれを改めさせた。」
この部分は意味不明なんだよな
倭国神話を指しているのか、
実務を指しているのか。
これだと夜明け前に一日の報告を
わざわざ燃料炊いて聞いて、
太陽が出たら仕事を弟に引き継ぐ、となる
翻訳ミスしてんじゃねえか、ってほど。
これが推古代なら指摘の通り、
アメノタリシ「ヒコ」がもうおかしい >>690
ちゃんと読んでるのか?
日吉神社で出土した巫女の墓からは漢鏡が発見されてる
銅鐸とは併行している時期であり両者に関係はない 末盧国から東南陸行五百里で伊都國って違和感あるよな
東南ではないし >>699
読んでるよ。
推論のルートが見えないだけ。 殉死の跡は見つかったの?
卑弥呼の墓には100名の殉死があったって話だよね? まあ俺はこれに一票
広志(史書編纂:晋の郭義恭)に記載された邪馬臺国
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国・・・(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 邪馬台国は多分あったろうが
中国の歴史書からどこにあったか
どれが適合してるかの推察は無駄
中国の歴史書は自国のことでもウソ八百で
他国に関する記述など一切信用に値しない
日本の学者って変な文献主義になってる 纏向の年代って確定した証拠だけで言うといつになるの?
妄想抜きで ・景初2年(238年)、難升米らが洛陽まで行き、男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を献上。(狗奴国王・狗古智卑狗が卑弥呼の言うことを聞かないことをこの時伝えたと見られる)
・正始元年(240年)、梯儁が倭国に行く。
・正始4年『243年)、伊聲耆が帯方郡に行き、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献。
・正始6年(245年)、難升米が帯方郡に行くも、中国側は「頑張れよ!」と檄を飛ばして錦の御旗を渡すのみ。
・正始8年(247年)、正始6年の錦の御旗が全く効果がなく、卑弥呼は急遽、倭載斯烏越を帯方郡に派遣して、「狗奴国王・卑弥弓呼とは元々不仲、今互いに攻撃しあってます」ということを中国側に伝える。
・正始8年か正始9年頃、倭載斯烏越の報告を聞いて、いよいよ邪馬台国が滅びかけと思ったのか、張政を邪馬台国に派遣し、難升米に中華皇帝の錦の御旗を渡した。
ほぼ2年に1回の朝貢。
これは尋常ではないレベル。
邪馬台国は滅びかけていたことが優に推認できる。 弥生時代後期の博多からは播磨の土器が多数見つかっている
播磨は五色の石神の地であり兵主神社に、大国主伊和大神が祀られている地でもある >>698
そこだよ、そこ。正確な引用サンクス。
天(夜明け前に跏趺して坐る)が推古で、日(夜明け後に政務を執る)が男王ならば、辻褄はあうと思った。
巫女と実務担当男王の二人体制、つまりヒメヒコ制だ。 佐賀はヒョウスベ、兵主部の地だな
肥前風土記にも石神や楠、酒殿の話が残っている >>697
奴らはアホだから
自分たちがこういう主張をしてることに気付いてない >>705
4世紀、だから畿内説は既に破綻してる。 >>697
1番アホらしいのは纒向の年代で、
4世紀のもの
> 築造年代は、
墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の
考古学的年代決定論と、
土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、
邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い
3世紀中頃から後半とする説がある。
一方で、近年炭素14年代測定法では、
実年代より50-100年程度古く推定されることが
明らかとなっていることや、
古墳の規模および様式が
魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、
4世紀中期以降とする説もある。
だって
もともと吉備津彦の母親の古墳と言われてきてて
古墳自体は4世紀なのに、
モモだけ埋めてあるのは3世紀ごろだから
「3世紀に邪馬台国がありました」に合わせてるとこ
ちなみに出土物を集めると悲惨なことがわかる
1番笑えるのはこれ
https://www.asahi.com/articles/ASL8S574CL8SPTFC00R.html
吉備国でしか出土しない土器
これを特殊器台と呼ぶんだけど、
吉備津彦の母親説が補強されただけ
なので、纒向以外から卑弥呼の墓を見つけたら、
近畿説の勝ち >>696
政務って農作業の事だったかw
話が噛み合ってなかった説 北部九州の弥生時代後期の遺跡はすごいわ
吉野ヶ里みたいな環濠集落もすごいけど、鉄製品は武器だけでなく農具にも使われてるし、大陸や朝鮮半島からもたらされた品々も出てくる
奈良の考古学者はこれらと纏向の桃の種を見比べて、何も思わないのかな 王(巫女)が神につながるがめったに外部の者とは合わない。
男王は女王が神から聞いたことを実行に移したり、人に会う。
隋の使者にも会う。
隋の使者は日本の王は男だと思った。
実際に会ったのが男だからだ。
という、倭人の王位は男女セット制だったとのストーリーを考えてみたが、
日本書紀で、王位が男女セット制だったことを隠す必要性がよくわからない。 播磨の五色の玉を持つ石神は新羅人に片目を掘り潰され怒り狂い暴風を起こしたという
風の神さまなのかもな
伊和大神の子伊勢津彦も風を起こし去ったという伝承がある さっき>>634に貼っといたけど、卑弥呼以前から畿内に巫女が居た痕跡って何遺跡? >>707
畿内が邪馬台国だと帯方郡に助けを求めるにはちょっと遠いな >>728
終わりじゃないよ、始まり
空白の4世紀に何があったかを伝えてくれる貴重な遺跡じゃん >>649
八洲国だろ
あたりまえに記紀にも残る国土全体の名前だ
大和の歴史とか日本の歴史とか
ずっと後に出来た権威や号の名前で国土の歴史を呼んでるから勘違いする
淡路,伊予 (四国) ,隠岐,筑紫 (九州) ,壱岐,対馬,佐渡,秋津島 (本州)
これらのクニ、或いはムラ(全てではない)が連携した連合である
記紀での八洲の構成も大洲(屋代島)があったり鹿児島半島があったりで確定的ではないし
八を多数であると扱う古語の文脈もあるから
正確に記紀の大八州に名を連ねる代表的な洲も時代とともに入れ替わりをしているあると考えられるが
対馬、筑紫洲、伊予、淡路、秋津島は少なくとも古代から八洲という地域を示す語の対象であったろうと考えられる 卑弥呼って知名度高いのに卑弥呼が祀られてる神社って見ないよね >>663
まぁ確かに九州説が学者じゃなく歴史マニア老人だらけなのは解ってるw >>705
確定だとどうやっても4世紀。
モモの種の年代測定の誤差を利用してギリ3世紀後半
卑弥呼が死んだのは248年。
この数字は邪馬台国が実在する史書である、
魏書の数字
これ疑うとそもそも邪馬台国自体がないし、
これ信じると死後200年後に墓を建てたことになる
なにより魏書に記載してある卑弥呼古墳と違って
鏡が出てこない。
100枚も埋めたら10枚は魏鏡が出そうなのにね。
てか日本書紀の成立年代は魏書を読めたわけだから、
邪馬台国が本当にヤマト朝廷のオリジンならば、
日本書紀に書いてたはずなんだよ >>735
唐津から糸島を見たらうっすら東南では? 奈良も古墳を発掘すりゃいいんだよ
なんでやらないの?都合が悪いの? 卑弥呼の墓だとしたら意外と質素だったんだな。そうだとしたら回りから殉葬した人の墓が出ないと。 緊急記者会見があれば佐賀県の勝利…なければ静かにフェードアウト >>589
何で大発見であるべきという先入観から話をするの?
史実の追求に願望もベキ論もないんだよ?
これだから畿内説は… 九州の女酋長のシャインマスカット真に受けた中国はアホ。ま、卑しい女ってのは正確だなwby本居宣長 まあ ここまで出てきちゃうと本心は悔しいだろうな いやかなり悔しいと思うよ >>737
水行ならその通りだね
だからその場合は陸行が記述ミス >>697
邪馬台国が生口たったの10人麻布数mの朝貢で金印をゲットできたのは
司馬懿の報告が盛りに盛って大月氏国と比肩するくらいに誇張されていたからだよ
そして明帝が死ぬ直前だったのも大きい
「世界の果てから死にそうになってる明帝の徳を慕って大国がやってこれたの司馬懿が公孫氏を滅ぼしたおかげだ」
こういうプロパガンダに利用されたに過ぎない >>737
神集島から見れば気持ち南東になるかもしれんね
でも陸行だから南東はちょっとおかしい >>745
よーしらんが糸島市はイト地域とシマ地域に分かれてるらしいが
イト地域は陸行で東南にはならんのか? まあ今の邪馬台国論争は
地域おこしの面だけじゃなく
思ったより実は日本の文明度文化度が
高いのが >>708
回りで見つかって龜棺って今回見つかった石棺と同時期なのかな。
そこら辺の説明が欲しいな。 まあ今の邪馬台国論争は
地域おこしの面だけじゃなく
思ったより実は日本の文明度文化度が
高いのがわかってきて
渡来人万能派が追い詰められてるのもある >>746
司馬懿ならやりかねんわw
その説、いいね 卑弥呼みたいなババアよりピチピチ壱世はどこいったんかね? >>724
纒向見てとても同じ文化圏とは思えないね
■帯取遺跡/長崎県大村市
1700年前の鍛冶工房跡、大村・帯取遺跡から 鉄器を再加工?
https://mainichi.jp/articles/20200208/ddl/k42/040/248000c
■富の原遺跡/長崎県大村市 (弥生中期初頭~後期前半)
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された >>736
ヤマト朝廷と邪馬台国は系譜(氏)が違うというか敵対関係にあったから日本書紀に記載してないんだろな(伊都国 vs 邪馬台国) >>740
曹操の墓が質素なのはなぜ?
戦乱だったから墓に金をかけられなかった。
というより、箸墓よりデカい墓は中国にはない。
中国はずっと戦乱だから。
仁徳天皇の墓よりデカい墓は、世界のどこにもない。
ピラミッドよりデカい。
平和でなければこんな税金の無駄すぎる、公共事業はできない。
したがって、畿内には倭国大乱を認めることができず、邪馬台国ではない。 漢委奴国の奴は奴隷の奴じゃんwwwwww
魏志倭人伝怪しすぎるぞ!wwwwww >>750
古代は分かれてた
伊都国があったのはイト側 >>750
その区間を船を使わず歩くのは無理が有る
記述に合わせて無理やり行程を作るからトンデモナイ場所に行き着くのよ 3世紀中国の戸籍登録人口
蜀が※94万人(西暦263年)
魏が443万人(西暦263年)
呉が230万人(西暦280年)
邪馬台国はなんぼや? >>732
淡路は、阿波に行く路、だろ。
機内に政権ができてから、後づけでできた地名。 >>705
九州説のやつらがガセネタ書いてるが全部無視で
遺跡自体は2世紀末から4世紀前半まで
邪馬台国関連で注目されている大型建物は3世紀前半
これは教科書にも記述されているので信頼性の高い年代と言える
また纒向遺跡のなかに箸墓古墳もあるが、3世紀中頃から後半
その他に中国鏡や大量の鉄器が出土したホケノ山古墳も纒向遺跡の中にあり、こちらは3世紀中頃 >>756
追加してあげよう
・立岩遺跡
甕棺内から計十面の前漢鏡、剣、戈、鏃、釶など豊富な鉄製品、銅矛
大量のガラス製や南海産のゴホウラ貝の装身具類も出土
・平原遺跡
墳墓から大量の銅鏡、鉄刀、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数、世界最大の八咫鏡もある
さらにネックレスやブレスレットなどのアクセサリー、古代中国で高貴な女性が身につける耳とう(イヤリング)などの副葬品も出土
墳墓から見て日の出るほうに「日向」峠
・野方遺跡
大規模な環濠集落
集落はずれの箱式石棺墓や木棺墓を用いた墓地からは、中国製の獣帯鏡・内行花文鏡、鉄刀、管玉やガラス玉などの装身具が出土
・吉野ヶ里遺跡
環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた大規模な環濠集落
高床建物は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている
墓地の甕棺の中からは怪我をしたり矢じりが刺さったままの人骨、首から上が無い人骨が発掘された
鉄器は230点以上出土、これらは農具、工具、武器など用途も多彩で一般の人々が日常的に使っていたことが分かる
他に多数の勾玉、管玉などのアクセサリー、銅剣・銅鏡・銅鐸、織物、布製品…大陸や朝鮮半島と共通性、類似性のある品々
・原の辻遺跡
大規模環濠集落でそばに日本最古の船着き場跡や道路状遺構
環濠内に物見櫓や掘立柱建物跡の集中する祭場など
大陸の集団との交渉を裏づける土器・青銅器・鉄器、銭貨などが数多く出土
鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出したと思われる
・カラカミ遺跡
高地性の環濠集落
鉄の地上炉跡、大量のさまざまな鉄製品が出土
・方保田東原遺跡
日本で唯一の石包丁形鉄器、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土
発掘調査が済んだのは遺跡全体の5%のみ、今後に期待 >>752
一般人は甕棺、それなりの人でもたいていは甕棺
しかしその合間から石棺が出てきたから大騒ぎ
という流れ >>754
らしくて、いいね。
司馬懿の公孫討伐をもって、漢の最盛期の版図を回復できたのです。
ご覧ください、三韓の南の島の倭人までこぞって帯方に使者をよこしています。 1世後半〜倭国大乱前は大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻による国作りの時代だろうね
紀元前は日本列島には100余国の国がありバラバラで環濠が必要な時代だったからね
吉野ヶ里も石津神と天津神の三都のまぐわいに加わっていたと思うけどね
甕棺の地に突如石棺はかなり重要な意味があるんじゃないか >>768
おもしろいわ
三国志はここまでやってほしいw >>733
これならあるよ
https://yaokami.jp/saga/g37645/
https://lunabura.exblog.jp/22560407/
少なくとも「やまとととひももそひめのみこと」よりは
こっちの方がメジャー
八幡宮の主神、応神天皇の母親だし、
日本で改竄できない公開土王碑に
日本が半島に攻めてきて新羅と百済を下してて、
それを高句麗が戦って勝ちました、と書いてある
さらに近年は韓国でも考古学が進んだから、
新羅碑が多く見つかってて、解読されてもいるが、
この辺はまだわかんないが正確な表現 >>705
学会的には>>187でほぼ確定。数年以内に名大から極めて詳細なデータも出てくるはず
まあでもここは>>436なんで... >>768
そして公孫氏の一族は倭国に落ちのび赤染氏に >>763
戸籍がないので、古墳の数で人口を産出してる
全国で180万人
九州45万人、近畿地方25万人 >>733
そもそも明治の神仏判然令で祭神を
古事記や日本書紀に登場する神や伊勢神道が認める神変えさせられた神社は幾らでもある
縁起が強く氏子意識が強い所は後から戻したりもしたけど
ヒミコ自体はとっくに失われた権威だからな類推できる
名前や縁起の神社がそれまであったとしても
知名度も組織的な援助もある伊勢神道系でいいやとなって
皇統絶対主義の政策下で失われているだろう ずっと昔から付き合いのある倭の風習を、なぜ隋の時代に初めて知ったように書かれているのか 邪馬台国の最大の要件は、
伊都国を支配下におき、伊都国に常駐する帯方役人と密に情報交換を行った勢力であること。
同時代の日本列島のなかで最大最強の勢力であることではないんだよね。
当時の畿内が大和王権成立前夜あるいはすでに成立していた時期で、巨大前方後円墳の築造を開始していたとしても、
帯方との交渉の跡がでないのならば、邪馬台国とは関係がない。 >>782
そもそも最大勢力なら魏に朝貢する必要ないからね >>700
糸島半島の付け根まで船で寄せで上陸、そこから福岡平野に出て東南に進むというのは不自然な行程ではないだろう 俺はこの書状が気になるね
千利休の没年は天正19年2月28日
しかしこの秀吉書状(宛先は母・大政所の侍女宛)の日付は天正20年5月6日
利休はとっくに死んでるはずなのに、秀吉は肥前名護屋城で利休の点てたお茶を飲んだと述べている
「かへすかへす一たんとそくさい、きのふりきう(利休)のちやにて御せんもあかり、おもしろくめてたく候まゝ、御心やすく候へく候」 >>783
卑弥呼時代の人口
九州の人口→45万人
近畿地方→25万人 伊都国に一大卒を置いてるのも畿内説を推す理由だな
近いなら大宰府みたいなの置く理由がない ちょっと一休み
魏志倭人伝では対馬→壱岐の位置関係が南北と記されています
邪馬台国はこの視点で見て「南」の方角です。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
【参考】
九州説:陸行「一月」は「一日」の転記ミスである
畿内説:方角の「南」は「東」の勘違いである 猪名県の摂津は委奴国、邪馬台国は大和、邪馬台国の南の狗奴国は河内で狗奴国の官は河内彦
これでいいんだよ >>488
畿内派「桃!!桃のたね!!これ交易の証拠だから!!桃は中国産で日本には無いんだから!!!!」
これだよ? 古代に重要だった場所は後の時代にも重要な場所なことが多い。何かあったらじゃあその下の層はと気になる
仮に邪馬台国=青森説があるとして
新山内丸山遺跡がその場所として
新山内丸山遺跡の出土などが魏志の記述と合わないとして
でも年代測定によって古墳時代以降となったら「じゃあもっと下に層はないか」という可能性は残る
しかしその状態で卑弥呼と同時代と測定されたらその時点で新三内丸山遺跡自体はスレチとなってしまう
ただし新三内とは別の遺跡が他に埋まってる可能性は常にある
纏向と言い張る近畿説と、纏向以外の遺跡がまだ埋まってるはずとする近畿説は区別
>>776
最初から大きすぎる前方後円墳として作られている箸墓古墳が卑弥呼と同時代であることは何を意味していると思いますか >>776
あのさ、年代が合うだけなら卑弥呼時代と同じ時期ですねえ~
で終わる話なんだけど?
学者さんもそう言ってたよね? 九州説がこの先生きのこるには中国との太いパイプがあった痕跡を見つけるしかないんだよ
畿内に比べてはるかに雑魚であり、さらに中国から無視されていたことこそ邪馬台国の根拠だと
支離滅裂な言い分をいくら繰り返しても、納得するのは頭のおかしい九州説信者だけ >>779
そうなんだよな
おそらく阿蘇の破局的噴火がなければ、
当時は九州の方が勢力が強い。
しかし、使者は北九州にしか行ってない。
さらに神武天皇は日本書紀に沿うと
日向高千穂から吉備国へ。
滞在した後、大阪湾(難波津)からあがって
紀伊和歌山で長髄彦とバトル。
そしたら兄が2人死んだけど神武が勝った
これも含めて熊野神社を建立してる
こうなると古墳時代においては
九州>近畿となる。
このヒントの一つが天皇は山幸彦の子孫なのだが、
海幸彦の子孫が隼人族として宮廷の警護を務めていた
仮に近畿地域で天皇の系譜があるとすると、
神武東征も隼人族の住んでた位置もおかしくなる
つまり邪馬台国は東征の前のウガヤフキアエズ朝か
その系統にあったか、対立組織で
九州にあったのが奈良に東遷した、のほうが
日本書紀的には正しいことになる >>794
そうそう
纏向も年代が合うだけなんだよね
本当に合ってるかは怪しいけど >>789の図に記載しなかったけど不彌国は宗像あたりかな?城野遺跡かな? >>764
そんなのは阿波からの路でもいいからな
筑紫洲だけの共立じゃなく秋津島も既に認知されてる中での
邪馬台国(八洲国)範囲の話で
倭人伝でも遠くて良く判らんと書かれてる範囲だろうが 世紀の発見?
世紀の発見?
世紀の発見?
?さえつけたら嘘いってもいいや・・って記事、多すぎだろ! だから
対海国が対馬国だという確証も
一大国が一支国だという確証も
どこにも存在しない
唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された『梁書』では
帯方郡 - 一支国- 末廬国- 伊都国- 奴国- 不弥国- 投馬国を経て邪馬臺国 と書かれているが
皇帝に奏上する『梁書』で書き忘れは無い
つまり梁の時代は対馬は使わず倭に行けている 邪馬台国が・・ から行くから、九州の基地外が沸く。
当時の日本を実際に治めてたのは?から見れば、大和朝廷だし近畿となる。 >>782
>>528
中国鏡の入手ルートは楽浪郡や帯方郡経由
この時代、東シナ海横断はまだ不可能 >>797
女王国は266年を最後に消息が途絶えるんだよ
ずっと頻繁に朝貢してた国が突然に連絡を寄越さなくなったの >>797
そもそも畿内と中国に太いパイプがない
畿内と東海北陸との太いパイプはある >>797
じゃ、これで終わるね
大和朝廷に叛逆できる対等の立場の勢力がいた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
> なお、『筑後国風土記』には
「官軍が急に襲撃してきた」となっており、
また『古事記』には
「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」
とだけしか書かれていないなど、
反乱を思わせる記述がないため、
『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとして
その全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。
『日本書紀』による、磐井の乱の経緯
編集
527年(継体天皇21年)6月3日、
大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、
新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、
任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。
この計画を知った新羅は、
筑紫(九州地方北部)の筑紫国造磐井へ贈賄し、
大和朝廷軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵し、
火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を
制圧するとともに、
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して
朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、
近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
このとき磐井は近江毛野に
「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。
お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。 >>773
やってほしいねえ。
明帝「三韓の南の島からとな(ゴホゴホ)、よいよい、連れてまいれ」
司馬懿「これなる者がナシメにございます」
明帝「裸足に入れ墨なのか(ゴホゴホ)、朕の威光がそなたのような者が住む島までとどいたか。
よいよい、金印を授けよう」 >>789
魏志倭人伝は伊都国と奴国の方角もズレてるから南はもっと左寄りだ 唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された『梁書』では
梁(502年 - 557年)の時代
帯方郡 - 一支国- 末廬国- 伊都国- 奴国- 不弥国- 投馬国を経て邪馬臺国
唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された『隋書』では
隋( 581年 - 618年)の時代
百済 - 竹嶋 - 耽羅国 - 都斯麻国- 一支国 - 竹斯国 - 秦王国 - 十余国を経て難波津 - 大和国 捏造ばっかやってた団塊世代が死ななきゃ議論なんて無理 >>784
朝鮮有事を念頭に置いての外交だろ
自民党が沖縄や台湾をだしにインドやインドネシアにカネ貢いでるのと同じ >>312
箸墓、、、本体から出土したもので250あたりと証明されたのならばいいが、そうじゃないんでしょ?
さらにC14は誤差が大きいんでしょ。300年ちょいあとという説もあると聞いた 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 畿内説派の意見が纏まってる動画とか無いの
九州説のはよく見るんだけども Googleマップを見てさ、福岡平野が奴国で二万戸、筑紫平野が
女王国で七万戸と仮定して、投馬国の五万戸に相当する平野部って
釜山くらいしかないんだよね >>804
全ての史書がほぼ魏志倭人伝を転写しているが、各時代の中国人も解読出来ていないんだよ
隋の使者が畿内に来たが、、道のりも違うし里数も合わないせいか「倭人は里を知らん、日を以て示すだけ」と書かれている
そして到着すると「おそらくこれが魏志のいう所の邪摩堆だろう」とつぶやいてる >>817
ご安心を。
蜀の海へのルートを封じて御座います。
呉が送った三韓倭国への使者はすべて切って捨ててございます。 親魏倭王金印は壹与ちゃんが晋の皇帝様にお返ししたので
永遠に出て来んよ
奴国の金印出てきたのはどうしてだろうな?
何らかの理由で返却しなかった >>789
まさかさ
御笠川を「南」に水行してないよね? >>806
3世紀半ばの九州を大和朝廷は全く治めていないけど
そんなに早く安定政権を築いていれば、記紀をもっと早く作るだろうし
最初のほうの天皇の寿命を偽ってまで中国に対し、
日本が建国した時期を偽ったりしない >>422
石棺が2つ出たことがあるんだよね、たしか >>808
畿内説の場合、そこでヤマトも消えるのかw 畿内説 畿内の邪馬台国がそのまま大和朝廷へ
九州説A 邪馬台国が畿内へ移動して大和朝廷になった
九州説B 邪馬台国は別の勢力に滅ぼされた
どれが正解なん? >>806
当時からあったのは地名としての大八州
日本などという号も近代まで無い
秋津島だけですら出雲に対して崇神天皇が念入りに裏切り者を作り
権威信仰の中心であった神宝を略奪して
四道将軍を動員して出雲振根を殺す戦争まで治められていない >>834
九州説C 邪馬台国はヤマト政権に滅ぼされた
邪馬台国の一大率だった伊都国から奈良に引っ越した勢力がヤマト政権の祖となった可能性は否定しない 邪馬台国って熊にやられそう助けてって言ってなかったっけ >>793
>>632的なこと?
>>794
>>705の質問は巻向の年代なんで、それに対する答えだぞ?
いちおう書いておくが、>>336的解釈は否定しないよ >>804
表意漢字と表音漢字の組み合わせで、国名を表記するのは中国の伝統。
対は「つ」、海は文字通り海。
紹興本では、そのまま「対馬」となっている。
よって、対海は対馬そのもの 唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された『梁書』では
梁(502年 - 557年)の時代
帯方郡 - 一支国- 末廬国- 伊都国- 奴国- 不弥国- 投馬国を経て邪馬臺国
対馬はどうしたの?
唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された『隋書』では
隋( 581年 - 618年)の時代
百済 - 竹嶋 - 耽羅国 - 都斯麻国- 一支国 - 竹斯国 - 秦王国 - 十余国を経て難波津 - 大和国
たった24年で国名が変わったの? >>822
斉明天皇がヤマトとして百済と共に唐などと戦ったと日本書紀に残ってる >>824
北の勢力と軋轢紛争はあるだろ
なんやかんやで最終的に追い出されてる訳だし >>815
小国なんだとは思う。
狗奴国と戦争してるからお墨付きをくれ、
助けてくれが派遣の発端だが、
漢だと思って帯方郡まできたものの、
「え?漢は滅びたの?」とそこで知り、
都に来た。
さらに次にトヨ(またはイヨ)の遣いは晋になる。
三国志が書かれたのは晋の時代
少なくとも、
> 狗奴国(くぬのくに/くぬこく[1][2]、
くなのくに[3]/くなこく[4]、
こなのくに/こなこく)は、
中国の三国時代の
歴史書『三国志』(西晋の陳寿の作)のうちの
『魏書』の中の「魏書東夷伝」に記載されている
邪馬台国と対立していた倭人の国。
3世紀の倭国で
邪馬台国の尽きるところである南に位置する。
その名称からも、
元は奴国の分国であるという説[5]もある。
男王卑弥弓呼
(一般的には「ひみここ、ひみくこ」と
読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、
官を狗古智卑狗
(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが
「くくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)
とする説がある)と言った。
邪馬台国の女王卑弥呼と
卑弥弓呼は「素より和せず」と戦闘状態にあったが、
この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。
この >>789
末盧国→伊都国が南東と記されてる謎が解けたな >>79
そうだな
箸墓古墳からも何も出てないから無関係で
終わったことだしな 中国の記録文献によると倭人は呉越出身とのこと
https://i.imgur.com/CapGzSg.png
呉越から北部九州に直接上陸したのが魏志に出てくる倭人である
いったん半島で混血し、山陰や若狭湾から入植したのが畿内を含む東の倭種の国の倭人 地図を見ると朝鮮半島の南は済州島だな
対海国は済州島だろうな
変な感じがするが済州島は元々は倭地だったんだろう
次の島は五島列島だろう
末盧は松浦、伊都国は那珂川の西筑後川の北、奴国は那珂川の東筑後川の北、不弥国は大分、投馬国は宮崎を含む九州南部
魏の使者は筑後川の北岸を東に行って日田辺りに立ち寄ったんじゃないか
日田には当時としてかなり珍しい古墳時代前期の豪族館がある >>776
びっくりした
こんな大嘘つきが世の中にいるのか
IntCal20で箸墓は4世紀中葉に変更されてるのに >>96
作るのは構わないが、
字を間違えたままコピーしたのは不味かった
あれじゃコリアンファンタジーとしか言えない >>834
漢書や魏志によれば、西日本だけで100余りのクニが乱立する時代。
クニの王は世襲とは限らない(クニはまだ王朝ではなく、官僚機構をともなった古代国家でもない)。
それぞれのクニは離合集散を繰り返していたと思われる。
移動も滅ぼされるもない。 >>788
それだと当時の交通手段じゃ遠すぎて常時監察できないし報告も滞る
(監察主体が邪馬台国で監察対象が伊都国とした場合) >>848
漢が滅んだのは知ってたと思うよ
魏の司馬懿が公孫氏を滅ぼして帯方郡・楽浪郡を支配したから挨拶に行ったんだろう >>840
お宅さ、書き込む前に前レス全部読んでから書き込めよ
>>4 >>834
大和朝廷から来た遣唐使が唐に自分で説明してくれている
>日本国は倭国の別種なり。
>日本は旧小国、倭国の地を併せたり。 倭国大乱と環濠集落の関係からしても
瀬戸内海、近畿地方を当時の情勢にはいるべき
南、南じゃ意味がわからん >>833
その頃の畿内ヤマトは景行仲哀の時代で九州討伐してた
その次は神功で三韓征伐
倭王武は先祖が西に66国、東に55国、海を渡って95国平定したというそんな時代に突入する >>632
倭国大乱で、九州が力を落とし、その間畿内が中国との貿易増やし力をつけたってことね
つまり、倭国大乱は畿内とは関係ない
よって邪馬台国は九州 祇園山古墳も捨てがたいな
魏志倭人伝より
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた「里」など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の「歩」という単位を使って説明するわけがありません。
おそらく倭人は卑弥呼の墓は大きく造り、殉葬は百余人ですと伝えたはずです。
陳寿は殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と見積り、中国の読者にもわかるようにと併記したのでしょう。
祇園山古墳(福岡県)
https://i.imgur.com/3jJf8mz.png >>809
黒塚古墳の謎の鉄製品は本当に謎ではある 唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された
『梁書』では
梁(502年 - 557年)の時代
帯方郡 - 一支国- 末廬国- 伊都国- 奴国- 不弥国- 投馬国を経て邪馬臺国
『隋書』では
隋( 581年 - 618年)の時代
百済 - 竹嶋 - 耽羅国 - 都斯麻国- 一支国 - 竹斯国 - 秦王国 - 十余国を経て難波津 - 大和国
6世紀に、九州の國の国名が変わるような大事件なんかあったか? >>848
魏志の倭人伝とセットで読むべき韓伝に、
三韓諸国は、公孫滅亡と帯方郡復活のときに、帯方郡に促されて使者を送ったとある。
倭人伝では、伊都国に帯方使者が逗留し役人が常駐するとある。
伊都国では、公孫討伐と帯方復活の報は受け取っていると思うよ。
そこで、焦って自らか、あるいは促されて(命じられて)か、帯方に使者を送った。 >>861
まさかの「記紀が根拠」ですかw
ムーに投稿すれば?w >>650
秦の時代から天文学があるのにさ。
その理由はいい加減すぎる >>862
北部九州と九州南部がいがみ合ってたから畿内が南部と手を組み北部九州を攻撃、大陸への海路を奪った
とかな
妄想だけど ふと思いついたが投馬国(釜山)に対しているから対馬なのではないか
>>832
熊本は狗奴国なんじゃね?
>>841
宮崎はちょっと小さい気がする intcal20で思い出したけど、纒向から出土した桃の種をintcal20で較正すると
230年代の確率が最も高くなるはずだったような・・・
仮に230年代だとすると、卑弥呼が魏に使いを送った時期には大型建物は取り壊されていたことになってしまう
もちろん240年代の可能性も十分あるから矛盾とは言えないが サイト:~北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(1)~
からちょっとお借りしてきた旧地名の図
https://i.imgur.com/ORW4q08.png >>789
逆さまにしても日出日没等で東西南北を間違えるはずがない
方位は軍事上航海上生死に関わる >>853
なぜか近畿説の人は
「あたかも近畿以外の地域に邪馬台国があったら困る」
みたいな言い方をする。
坂上田村麻呂までは東夷平定できてなくて、
鹿島神宮と香取神宮が最前線であることを疑わないのに、
なぜか南だけは近畿から九州まで全土を支配してたことに
したがる。
とすると、吉備津彦が吉備国にウラの平定征伐に出たことも
嘘になってしまうから、
そもそも75%が吉備国のものなのに、
吉備津彦の母でないことを立証する方が難しい そもそも吉野ヶ里は邪馬台国じゃないと言われている。 >>821
c14の幅はだいぶ狭まったし、画期的な新方式で年代の再確認が進んでる>>187
3世紀半ばでほぼ決定だよ、ソースは提示しといた>>234
>>858
全レス読めとはムチャなw
坂さんは箸墓を3世紀後半だと信じたまま亡くなったので(坂2018)
最新の研究である>>187とか踏まえてなかったんじゃないかなあ >>187
全国の古墳の埴輪を調べた結果でさらに覆らなくなってしまった >>865
百済〜竹島〜済州島〜対馬〜壱岐〜筑紫
国名が変わったとは何?
ほとんど変わってない >>873
今の時代、情報はすべて疑え
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 >>850
箸墓古墳は発掘もされてないんだが
九州説は嘘と印象操作ばかり >>876
ヤマトの範囲はわからんし支配とか思ってないから 弥生時代後期の博多から播磨の土器が多数見つかっている
それが全て >>829
そだよ、御笠川上流から船を引っ張って宝満川に入って筑後川 畿内説と日本史への憎しみから出来ている九州説
某国カルトの絡んだ工作員と言われる >>876
畿内説は>>585とか>>589みたいに願望を元に語るからどうしようもない 畿内で馬具を掘り当てた人は大興奮だったろうなあ
やっべえ!凄えもん掘り当てた!
もしかしてニュースでインタビューされて教科書にも載るんじゃねってホルホルしただろうな
それなのに偉い人からはボロクソに怒られ埋めろ埋めろと言われるなんて >>878
何でここまで素人相手に嘘つけるんだろう
IntCal20はそれまでのIntCal13と違い
箸墓や纏向の炭素年代測定の値は4世紀を示してる
それについて畿内説の学者は何も言及していない >>878
だからあ箸墓は未調査、測定したのは周濠で拾った土器、同じ周濠で布留1や馬具も出てる
外からの調査中に葺石も確認されている
年代が近くてもそれは「同時期の墓」でしかない
卑弥呼の墓だというのであれば中を開けてからの話だ >>865
608年なら、もう畿内のヤマト政権から来たというだけじゃね? >>893
畿内も東海関東も顔に入れ墨だしな。
入れ墨だけでは、場所の特定には至らないのが残念。 つまり畿内説は箸墓古墳の年代も測定したことはなく、纒向の建物と桃の関係も不明なのです >>893
いや、越人が倭人
倭人が越人である可能性は極めて高い
越人は顔に入れ墨する
越人の中の倭人は、中国の多数の史書により、少しずつ北上していることが明らかである。
燕の時代にはほぼ朝鮮半島に近づいている。
そこから南下して九州に入った。
越人と日本人のDNAはほぼ一致している。 >>877
邪馬台国を共立したクニのひとつか、その頃に廃れたクニだろうね >>874
郡県制時代の「こおり」だね
三池の上に「山門」がある
新井白石は日本で初めて
「邪馬台国はヤマタイと読み、
日本の大和朝廷につながるかも」と説を唱えた。
北九州の地名に「ヤマト」がなかったから。
しかし後年に山門郡(現在の佐賀県)があるとしり、
この佐賀山門があると前提が変わるから、
「もしかするとここがヤマト、ヤマタイコクかも」
と述べたのがあと。
本居宣長は天皇が他国に服属したのはおかしいから、
「邪馬台国とやらはどこぞの勢力が
日本の支配者であると偽ったに違いない」と
いわゆる異朝説を取った。
この発端の時期に
「誰1人として大和朝廷の前身が邪馬台国」
とは言ってない
さらに明治期になって
国学が国策として皇紀に改められるなどすると、
神武東征は史実であり、公開度王碑が発見されて
「朝鮮と日本の根っこは同じ」も日韓同祖論を極めて
併合を正当化させた。
さらに強化のために天皇家から方子さまが李朝に下り、
日韓併合となる。
だから日本歴史界は
神功皇后を「なかったこと」、ファンタジーにしてる。
でもその息子のホンダワケノミコトはワカタケル鉄剣で
初めて実在する倭王武となっていて、
これが嘘だとすると八幡宮含めて
今の天皇のどっからが本当の日本統治者かわかんなくなる >>891
論文がみたい。
箸墓や纏向の炭素年代測定の値は4世紀を示してる、との研究がみたい。
どうやって炭素年代測定を使ったのか。 >>888
お前はさっさと>>536に答えるんだよ
願望や妄想を元に語るんじゃねえ畿内説派 >>897
だからあ箸墓古墳を測定したわけじゃないんだろ?ってw >>877
そう。ミナ国とカナサキナ国とか面土国とか言われてきた。今回の石棺も期待しすぎない方がいいとは思う
畿内説が今、纏向や箸墓を卑弥呼と同時代としているので、じゃあどうなるかというのを青森県で例えています>>793 >>891
4世紀のソースは?
鷲崎とかのガセネタは論外だから 顔に入れ墨してる人が邪馬台国人
つまり奈良京都の人は渡来人でFA >>893
どういう心理状態なんだろうか?威嚇かな?戦乱の最中だったしな、てか、元祖ヤクザスタイルだよなヤクザじゃんヤクザ
https://i.imgur.com/oiqUH4y.jpg >>906
奈良京都から出るハニワも顔に入れ墨あるよ。 >>893
昭和の時代まで漁師とか全身刺青だらけだったやん
みんなではないけど >>910
京都奈良は入れ墨しない人が征服した地域 >>897
だからそれが嘘なんだよ
IntCal20では箸墓の較正曲線は3世紀に小さなピークと4世紀に大きな2つのピークがあり
今までは3世紀のピークが大きかったが4世紀に修正されてる
お前のソースの学者は4世紀のピークを見て見ぬふりをしてるだけ
まあ科学的な数字を無視する奴は学者とは呼べないけどな 混乱しそうなので表記を変更する。
いや、越国の中に倭人がいる。中国の史書にある。
倭人が越国の倭人である可能性は極めて高い
越国の倭人は顔に入れ墨する
越国の倭人は、中国の多数の史書により、少しずつ北上していることが明らかである。
燕の時代にはほぼ朝鮮半島に近づいている。
そこから南下して九州に入った。
越人と日本人のDNAはほぼ一致している。 >>889
科学的にこれこれだからこう、って言って欲しいんだけど
箸墓古墳の発掘責任者が
「掘れば掘るほど違うとしか思えなくなってくる」
と言うほど、
卑弥呼の古墳の大きさ、魏からの銀鏡などが
本当にカケラも出てこない。
だから近畿説は早く箸墓古墳以外の証拠探したほうが
いいと思う。
俺としては
この「吉野ヶ里石棺で邪馬台国の謎が解ける」は
まったく期待してない。
知りたいのは当時の北九州の邑の規模だけ
>>883
思ってる人がいるから仕方ないんだな
特になんで「近畿説が強固なのか」というと、
日本は万世一系、スメラミコト以外に支配されたことが
あってはならんからなの
これに観光誘致がかかってくるから、
みんな必死になるわけ
学術的には証拠が見つかるまでは、
実在性すら怪しいとしか言えないが、
とりあえず速報+でも他の古墳はどうでもいいが
邪馬台国だけはどっちも必死になる 纒向には自称3世紀の古墳がたくさんあり、京都にも箸墓古墳と同じ前方後円墳がある
同時期に王様が大量死した理由は?w >>913
そうなの?
当時の畿内の支配層が、入れ墨していないとなぜわかるか教えてほしい。 >>881
ゴッドハンドが良い反面教師になった、日本の考古学かもな。
ゴッドハンドが何十万年も前の地層から、土器の破片出したりして、
「日本人のルーツは原人か?」と思ったりもしたが、
大陸からのホモサピエンス種って、DNA解析で解った現代、
喧々諤々の議論やった方が、ホントの学問だな。 >>913
福岡筑豊北九州は今でも刺青した人だらけやん 唐(618年 - 907年)の第2代皇帝「太宗」の命令で
房玄齢を総監として編纂された
『梁書』では
梁(502年 - 557年)の時代
帯方郡 - 一支国- 末廬国- 伊都国- 奴国- 不弥国- 投馬国を経て邪馬臺国
『隋書』では
隋( 581年 - 618年)の時代
百済 - 竹嶋 - 耽羅国 - 都斯麻国- 一支国 - 竹斯国 - 秦王国 - 十余国を経て難波津 - 大和国
6世紀に、九州の國の国名が変わるような大事件なんかあったか?
末廬国も、 伊都国も、奴国も、出てこないんだが >>919
京都奈良地域(内陸)には今日入れ墨しない文化が残ったということ
高知や沖縄あたりでは入れ墨文化がまだ残ってます >>915
論文名あるいは研究者名を出すだけで、あなたの言説の信憑性は高まる。
だしてはくれまいか。 >>892
歴博2004、坂本2022は庄内式以前からの年代を検討してるし、箸墓築造が3世紀半ばはもう動かないとは思うよ
ただ、それとは別の話として、箸墓が卑弥呼の墓だと書いたことは一度もない。>>336の可能性はあるし >>568
ありえないなんてのは妄想で、実際帥升は160人の奴隷を献上したのに、卑弥呼は10人
あきらかに力は落ちてんだよ >>907
当時はただの魔除けのモンモンだろw
未開の部族みたいな感じだったんだろうな。 >>924
すまん、わからなかった。
古墳時代の入口の時代に、奈良京都の支配層が入れ墨をしていなかった根拠が。
俺が入れ墨をしていたとする根拠は、畿内の人型ハニワの顔に入れ墨があるから。 >>922
先祖返りしたんだろw
大和朝廷が本気になれば、絶滅させられるのも、
今も昔も変わりなし。 卑弥呼が死んだ頃の
皆既日食は九州だけやろ
九州でええんやないの? >>905
話通じそうなので
前提として「縄文の頃から船があって、交易していて、無数の国があって、そのあちこちから中国へ朝貢してて、その返礼品も各地にあるはずだが、それとは別に中国のものは他のルートからも入手できる。縄文の頃から。ただし中国サイドが重視するのは単独のクニよりも広範囲の連合になっている場合」
つまり卑弥呼は日本中どこにいても可能性はある。初期の天皇も同じ。ただ関東の前方後円墳が畿内より多くても関東に天皇がいたとは思わない
それと同じで、あくまでも張政が来た時のそいつらは九州北部の連合だと思う
同時代どころかそれ以前からそいつらは混乱してるし、衰退してる
畿内で鏡がたくさん出ても、桃の種が出ても、あまり関係あるようには感じないんだけど違うのか? 年代の話するならこういう説明をしてくれ
ホケノ山古墳も4世紀濃厚では?
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>933
九州で間違いないと思うけど卑弥呼と日食関係ないぞ >>925
論文というより公表されている纏向やの炭素年代測定値と
これまた公表されているIntCal20の較正曲線を比較するだけで
誰でも検証できる >>916
越人と日本人のDNAの一致よりも、
プラントオパール説で
イネのDNAが長江由来であることを示した方がよい
なぜなら九州と東日本は縄文系が多いのに、
近畿だけ異常に大陸由来が圧倒的に多い
当たり前と言えば当たり前なんだけどな
渡来人の技術者の力で都作ったわけだから。
これがコリアンかチャイニーズかはどうでもいい
我が国はそのどちらかの力を借りて、
国を作って国風文化に到達した、
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/
記録にもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%B1%B1%E5%9F%8E
そもそも源氏の先祖が新羅三郎だしな >>924
全然根拠になってない
最近までも漁師が刺青するのは土左衛門になったとしても身元がわかるから
3世紀からの伝統文化だからではない >>923
ヤマト王権に滅ぼされているから、消えても全く不思議ではないし、そもそも3世紀のムラ国家なんて、隋代にはもはや「これただのクソ田舎村だろ」と認識されて、無視された可能性が高い。
魏志倭人伝に出てくる「斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国」
全て消えている。
都支国は筑紫国かもしれんが >>903
坂本は歴博2004の共著者だし、石塚ホケノはもちろん、弥生期の遺跡も連続して測定してる。で、その測定数字は概ね編年通りに並ぶ
布留0は新方式(中塚2022)でも追認済み
箸墓本体だけその編年からずれるなんてありえんよ 帯方郡から女王国まで12000里で、伊都国まで10500里だからそこから1500里しかないので到底畿内に届かないと主張したら、畿内派が「女王国の境界までが12000里だ」なんてアホなことを言っていたが、魏志倭人伝からでも、女王国は邪馬台国のことであるとしか解釈できない
後漢書東夷伝にはさらに直接的に記述されているわけで、まあ畿内はありえないな
「楽浪郡の境界は邪馬台国から12000里、邪馬台国の西北の境界にある狗邪韓国から7000里離れている」
とちゃんと書かれているわけで、12000里は邪馬台国連合の境界までの距離ではないことは明らか >>929
今日入れ墨文化が残る海辺、今日入れ墨文化が絶えた山辺
魏志倭人伝にわざわざ書いているということは、当時の中国人にとって、入れ墨文化は書き残すべき風習だったと解釈すべきでしょう
つまり「現在」の日本の文化(奈良京都)は、渡来人の文化ということです >>945
了解です。
古墳時代当時の話ではなく、現在の話ですね。 >>919
奈良の伊須気余理比売が九州から来た大久米命の顔面の刺青を見て驚いている >>915
君の意見はいいので、そう主張する論文をくれ。こっちはintcal20に情報提供した坂本2022を提示済み >>941
卑弥呼の卑弥は姫(周由来)じゃないのか >>947
あ、それはあるね。
驚くってことは、習慣が違う? >>187
「もし邪馬台国が当時の最大勢力だったとしたら」という前提が間違っているので、何の意味もない主張 >>940
畿内ヤマトが攻めてきて恭順した国々は筑紫国に再編されて反抗し続けた国々は土蜘蛛として滅ぼされたんだろうな 樺太、千島列島、済州島、竹島、釜山は泥棒共からトリモロさないと! 天岩戸の言い伝えあるやん
皆既日食はキーやと思うで
もし関西で皆既日食があったのなら
関西やな考える >>945
漁師が刺青する理由は>>939
老若男女問わず刺青してる地域なんて今日びないよ >>943
だから箸墓本体というそれはどんなサンプルなんだよ? 仮に九州から畿内までを支配する国が朝貢していたら、帥升に遥かに劣る奴隷10人献上なんてありえないだろう 畿内説で天皇家に卑弥呼がいた場合
金印とか銅鏡がどっか行ったのは不自然だよね >>924
刺青の禁止令は
1899年です
江戸時代末期の写真がある
https://i.imgur.com/742G5O1.jpg
朝鮮ウンコ呼びで有名なイザベラバードも
明治10年に人足が刺青してると書いている。
なにせ、ジョージ5世やニコライ2世まで
刺青いれてるんだから、
これが日本において被差別階級のものとは言えんだろ
https://www.nippon.com/ja/views/b06701/ >>947
まさに、旧唐書倭国伝→「倭国はいにしえの倭奴国である」
旧唐書日本国伝→「日本は倭国の別種である」
九州人は入れ墨していて、ヤマトの人々は入れ墨をしていなかったから、倭国伝と日本国伝に分けたのかも。
中国人「あいつら入れ墨してるから倭人(九州人)、入れ墨してないのが日本人(ヤマト)。あいつら言葉は似てるけど別種レベルだよなー」 >>928
魔除けってよりはっきり記録残ってて、
海の中で食われないように、らしいよ
つまりサメとかに目立たないように入れたもの
中国人が黥布と書くのでわかりにくくなってる
当然、埴輪にはとてもおおい
これは神戸から出土
https://i.imgur.com/DbH5kW0.jpg >>957
九州説の根拠は奴隷10人?wwwww
7万戸も無視、伊都国や奴国2万戸を傘下に置く30国連合も無視 >>948
坂本自身が適合度が低いと言ってるものを出されても
どうしようもないだろ
相変わらず4世紀は無視する歴博史観だし >>965
邪馬台国時代の人口
九州→45万人
近畿地方→25万人 >>965
むしろ距離があれだけ盛ってあるのに戸数は正確だとどうして思った? >>969
そうなのか。
俺も九州北部説だが、嫌な気持ちになったぞ。 >>943
だから箸墓本体というそれはどんなサンプルなんだよ?
ホケノ山古墳も4世紀濃厚では?
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>934
おまえそれIntCal20で4世紀の答えになってない
結論ありきで嘘を言って良いわけではない >>965
倭国大乱で国力衰えてたら奴隷なんて出せる余裕はないわなそりゃ 論文も書けないバカと同じにされた気分。
高橋と同じ説。 >>960
元々の日本人は入れ墨文化で、それを大陸から来た渡来人が駆逐したという意味
なので邪馬台国は九州で、渡来人征服した奈良京都文化が今日まで至っている intcal20に情報提供した坂本の小論が手元にあるけど、>>308なんだよな
ベイズ統計よる年代図もあって、やっぱ>>308
>>915の主張は明らかに坂本の主張とは違う
>>966
坂本は箸墓年代は240-260と言ってるよ >>878
正確さはわかったとして、調べたもの、つまり、
箸墓の周囲から出た土器では駄目なのでは?
後円の石棺あたりからでたもので測定したの? >>968
仮に戸数が正確でなくても、相対比較にはつかえる
奴国の3.5倍
三韓の国全部合わせた戸数と同等 戸数は日本では本当にテキトーだよ
中国には戸籍があり、それで人口を産出してた
日本には戸籍がなく、何かファクターXのようなものがあって、そこから勝手にテキトーに戸数を妄想して書いた可能性が極めて極めて極めて高い。 >>970
統計学上そうなるってさ(YouTube←タイトル忘れた) >>973
それ妄想だよな
>>697の九州説そのまんまじゃんwww >>977
根拠がない推論(大陸からの渡来人は入れ墨をしない)を土台にさらなる推論(奈良京都は渡来人が征服した)を重ねてもどうしようもない。
でも、そういう意見があることは覚えておくよ。
ちなみに魏志では、三韓も入れ墨が多いと記述している。
入れ墨事情は、倭人と三韓で同じ。 >>980
なんで相対比は正確だと思った?
ちなみに陳寿が参考にしたであろう先行資料には伊都国万余戸ってなってるぞ >>987
スルースルナ
>>943
だから箸墓本体というそれはどんなサンプルなんだよ?
こういう説明をしろ
ホケノ山古墳も4世紀濃厚では?
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>963
それは違う
「倭だとバカにされるから大倭にしたわ。」
「大倭も倭がバカにされてるから大和にしたわ」
初出は
「大和から日本に変えたんで以降よろ」旧唐書
>
日本国は倭国の別種なり。
その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
或いはいわく、
倭国自らその名の雅ならざるを悪み、
改めて日本となすと。
或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり。
其の人、入朝する者、
多くは自ら矜大(尊大)、実(真実)をもって対(こた)えず。
故に中国、焉(これ)を疑う。
態度デカい上になんで変えたかにニ説ある。
漢字が嫌だった説と、併合説。
併合説だとこの場合、
二つ以上の王朝があったことになる >>941
ワンチャン、比売(ヒメ)か比売命(ヒメノミコト)の可能性が有ると思う >>988
奴国より弱小国が奴国を傘下に置くことは不可能 >>987
どのようにして日本の入れ墨文化が衰退したのか
世界的に見て、内陸部ほどその風習が少なくなるのは明らかでしょう >>956
すげー資料数なので歴博2004見てくれ、論文は手元にあるがこれ写すのはイヤだw 年代測定の話する奴はサンプリングについて詳しく説明した上でデータを添えて説明しろ >>993
だから戸数はまったく参考にならんと言ってるのに…… >>981
はいお前や畿内説は答えられず終了でいいね
U字型鉄器は全部、魏の黄幢です(笑)
奈良の南は熊本です(笑)
バカそのものじゃん >>990
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