【佐賀】邪馬台国“論争”に「一石投じる」世紀の発見?吉野ケ里遺跡「石棺墓」開封 奈良県からは冷静な反応も… ★11 [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b51cd975b10b9d9f9bc4205dfeeae6a83d3c1099
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230605-00000099-ann-000-3-thumb.jpg
★1:2023/06/07(水) 17:34:37.63
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1686416397/ 卑弥呼の「宮室楼観城柵厳設。常有人持兵守衛」と全く一致しない
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/DWVYamW.png 何のんびり発掘してるんだよ?
夜中に中国人が来て全部持ってかれるぞ 卑弥呼って魏から銅鏡だけじゃ無く五尺刀も貰ってるんだよなー
奈良県からは、「弥生時代~古墳時代前期」において、長い刀は出土していない。
長い刀の出土例は、福岡県がもっとも多い。まさに、「五尺刀(120センチ)」にふさわしい118.9センチの刀が、日本全国で、ただ一本、福岡県の前原上町(まえばるかみちょう)遺跡だけから出土している。この遺跡は、平原王墓(糸島市)のある平原遺跡からそれほど離れていない。直線距離で、ほぼ3キロメートル程度である。
この刀は、大型箱式石棺から出土している。
箱式石棺は、北部九州では、棺の様式としては、甕棺の時代のつぎにあらわれるものであり、大略庄内様式期、邪馬台国の時代にあたるものである。
今、吉野ヶ里で発掘してる石棺からも五尺刀が出ないかなー 八女市の今後にも期待
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 一方、長音「ー」、促音「っ」、撥音「ん」は、独立して1拍に数えられる(これが「音節」と異なる主な点である)。音節単位で見るなら、長音は長母音の後半部分を、促音は長子音の前半部分を切り取ったものであり、撥音は音節末鼻音や鼻母音をモーラとしたものといえる(鼻母音は基になる母音+「ん」の2モーラになる)。これらは、「語頭に現れない」「単独で音節を形成しない」「お互いに連続することが稀である」などの性質をもち、二重母音の第二要素も含めて特殊拍(special mora)と呼称される。これらを除いて、単独で音節を形成する拍は自立拍(independent mora)と呼称される。 >>4
しなくてもいいんだな。
邪馬台国にあるという断定した記述はない。 >>10
考古学者なんて学者気取りの偏差値40未満だから 黒塗り改ざん隠蔽大好き日本国の歴史なんか価値ないわー 擁護の異常さ知れ渡って次スレ立たんで蜘蛛の子散らして逃げ出しちゃったなjc水着撮影スレww 纒向の壺は形バラバラで交易品というけども
雰囲気的に征服の戦利品ぽくない? >>16
ない
戦争で勝って壺集めるとかマ・クベかよ… 昔の原始人ババアの話なんかどうでもいいだろ
今困ってる人たちに税金使えよ 九州説者お得意の短里だと、
対馬だと言い張る対海国は
近寄り難い島で、およそ四百余里四方
沖ノ島ぐらいの小島だな(笑)
壱岐だと言い張る一大国の島なんか
さらに小さい岩レベルだ
本当に九州説者はバカだわ(笑) >>20
短里ってなんですか?
伊都国まで1万500里とは魏志倭人伝に書いてあります >>20
まだ短里ガーいってんだよ
末廬国まで1万里、残り2千里だ >>16
開拓地なんで邪馬台国近郊から人が集まる。
三重、奈良に丹。投馬国は四国 徳島に丹。 >>22-23
ホント、短里なんて九州説のこじつけ >>24
4世紀とバレて馬具まで出たのに、まだへばりついてるのか畿内説 奈良も佐賀も観光人気ランキング最下層の県やから必死なんか? 5ch世論的には畿内説と九州説のどっちが優勢なの?
邪馬台国と大和政権の関係は? >>22
伊都国まで1万1900里餘里になったよ。 石板に漢字でも書きこまれていれば、手がかりになるのに。 ネトウヨが中国がつけた邪馬台国とか卑弥呼とかいう屈辱的な名称を普通に受け入れてるのはなんでなの? >>35
たかが当て字にツベコベ言ってるのがネトウヨだろ 里数と戸数は大月氏国とのバランス(司馬懿と曹真との功績の兼ね合い)から盛られた数値だから位置論争には無意味
帯方郡より万二千余里(洛陽より一万七千里)は大月氏国が洛陽より万六千余里だから少しだけ遠い設定にした
それだけ >>34
周遊とかしていないけどね。
君は周遊が好きなんですね >>31
専門板とか詳しい人が議論してたとこでは圧倒的に九州説推してる人が多かった
畿内説は権威とかそういう話ばっかで具体例出せる人が少ない感じ
元々の魏志倭人伝の記載と合わないとこが多いから掲示板とかじゃ畿内説は不利になりやすい
ただし古墳の大きさは圧倒的に畿内のほうが大きい 奴国から東へ100里って、九州から出ちゃうんですけど >>43
百里って、糸島から福岡までの距離なんだが 伊都国や奴国と邪馬台国が近いなら「南至邪馬臺国○百里」で済みそうだが
ややこしいパズルみたいな書き方するなよな陳寿も >>40
できないのでしょう。
危険海域の回避と思われる。
なので加算ですね ちなみに
邪馬台国は女王国
狭い範囲に、卑弥呼と農民が一緒に生活してたなんてあり得ない
スキ・クワの鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具が多数朱津と背して農民がいた吉野ヶ里は、邪馬台国じゃありません(笑) 畿内説は専門家の間では常識だそうだからその話を持ってくればいいのに
わけわからん自説持ってくるのはなんで >>46
なんで島のサイズを加算するんだよ
水行4百里でも陸行4百里でもない
方4百里は島のサイズだっての 景行の九州巡幸軍はひと月で周防に着いてる
当てになるかわからんが >>12
魏志倭人伝によると
・楼観や城柵、高貴な方の館があり、厳重に警備されていて
・鉄鏃など鉄製武器で武装していて
・半島や大陸との交流が盛んで伊都国に一大率があり
・たびたび戦が起こっていて、狗奴国に滅ぼされそうで魏に泣きついてて
・男王たちが争って、卑弥呼の治世でしばらく落ち着いて、また男王たちで争って、壹与で落ち着いた
(歴代の王も存在した)
・卑弥呼は径100歩程度の小さな墳墓に葬られ、殉死者が周りに葬られた
※径というから円墳の可能性大
前方後円墳みたいな中国人にとって珍しいものならその旨を記載したはず
のんびり巨大古墳を作れる平和でのどかな纏向はどれも証明できるモノは出土してないけど
畿内説は何ひとつ一致しなくてもいいんだよね >>45
違う。そもそも書いてない
陳寿の時代に紙はやっと発明されたばかりで使われてない。
竹簡を繋ぎ合わせて史書を作る。
竹簡には20文字程度しか書けない。
そこで、目の前にある「南至投馬国水行二十日〜」「南至邪馬台国水行十日陸行一月〜」という竹簡を、
間違って、あるいは陳寿自身どのように繋ぎ合わせるのか分からなくて、繋ぎ合わせてしまった。
現に、郭義恭の『廣志』には、投馬国の記述はないし、「伊都国に至る、また南に行くと邪馬嘉国」と書いてる。
伊都国から「また」「また」「また」南に行くと邪馬嘉国とはっきり書いてる ちなみに
邪馬台国は女王国
狭い範囲に、卑弥呼と農民が一緒に生活してたなんてあり得ない
スキ・クワの鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具が多数出土して農民がいた吉野ヶ里は、邪馬台国じゃありません(笑)
3キロ平方メートル(300万平方メートルm)に達する、2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡だけど
発掘しても、発掘しても、農耕具が殆ど出土しない
2世紀末から4世紀前半にかけて、ずっと
農作業などする必要が無い人々しかいなかった 纒向遺跡は、
女王卑弥呼の居所として、親魏倭王の王宮として、圧倒的なのよ 義士倭神伝なんて伝聞だぞ
そもそも倭国側だって魏に邪馬台国の正確な位置を知られたくないから邪馬台国の場所なんて嘘付いて教えてるに決まってるだろう
魏志倭人伝なんて資料の価値はないよ
古事記や日本書紀を否定するくせに中国の文献は信じ込むバカ左翼 >>34
奴は近畿のストーンヘッドだよ、得意技は頭突き 俺はレイシストって訳じゃないんだけど、こうも明確な結果が出るとねえ・・・
2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別結果(と半島系DNAの分布)
https://i.imgur.com/Vqxgjwv.png なんかもう堂々巡りじゃんか
発掘が進展してから議論しろよ ぶっちゃけた話すると奈良県なんかはウッカリ掘ったら都市機能が麻痺するレベルで古代遺跡や遺物遺構が出てくるんで洒落で掘れない
これは京都も同じ
ピンポイントで何十年も目星をつけて掘らなきゃ何も出ない佐賀県なんかとは訳が違う >>62
城柵もなく護衛がいた形跡もなく農耕の形跡もない
墓作り用の労役者の飯場じゃねーか >>55
方○○はサイズのことだ
てか、このルートで、どこに四百を加算する余地があるんだ?
どの部分の長さと思い込んでるんだ?
https://i.imgur.com/7olDMdw.jpg >>31
左翼イデオロギー連中の工作で九州説が多いな造語憶測だらけだけど上手くまとめてて騙される人多い
畿内説が考古学で圧倒してて憶測以外では現状まだ九州説は弱い >>70
いいね
墓作り用の労役者の飯場
邪馬台国らしい一部だな。 >>51
会稽が今の上海付近にあるみたいで、そこなら九州は東から東北東の
範囲に収まる この当時の日本国内の移動ってのはもっぱら人間の足による歩きだけだったのかな?
中国では馬の移動が普通だったのを考えると馬術が発達しててもおかしくはなさそうだけど >>72
このようにしか畿内説には情報ソースを出さずに布教を始めます >>72
畿内説の学者とか250年から400年の間と年代判定された遺跡を勝手に250年にしてる奴らだぞ
科学的に見れば畿内説はない >>52
400里四方なら400里加算するのは別におかしくはないと思うが。1600里加算するならバカだけど ちなみに、現在の皇居は、総面積(皇居外苑]含む)約2.3平方キロメートル
江戸時代から実質的な日本の王が住んでた場所なんで、当然、農民なんか生活してた痕跡は無い >>82
具体的なルートとして、どこからどこまでの長さなんだ?
>>1
■ 邪馬台国とは
→ シャーマン卑弥呼を崇拝する文字も無い土人の蛮族である狩猟民。
→ カルトの存在していた所在地は、朝鮮半島以外には無い。
https://www.youtube.com/watch?v=T9Gx8w_IhgE
■ 唐の都、長安を思い出す。古都奈良の正倉院にも収蔵。
■ 琵琶湖の琵琶も、ここからだった。
www.youtube.com/watch?v=T9Gx8w_IhgE
>>71
クランクだよ。
真っ直ぐは無理だよ。潮に流される。 >>32
ちなみに不弥国まで行っても1万700里なんですけど >>63
漢字書ける様になるまて半億年ROMってな 邪馬台国は女王国
狭い範囲に、卑弥呼と農民が一緒に生活してたなんてあり得ない
スキ・クワの鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具が多数出土して農民がいた吉野ヶ里は、邪馬台国じゃありません(笑)
3キロ平方メートル(300万平方メートルm)に達する、2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡だけど
発掘しても、発掘しても、農耕具が殆ど出土しない
2世紀末から4世紀前半にかけて、ずっと
農作業などする必要が無い人々しかいなかった 纒向遺跡は、
女王卑弥呼の居所として、親魏倭王の王宮として、考古学的に圧倒的
ちなみに、現在の皇居は、総面積(皇居外苑]含む)約2.3平方キロメートル
江戸時代から実質的な日本の王が住んでた場所なんで、当然、農民なんかが生活してた痕跡は無い >>56
あー、ごめん日本ので見てた
三国志の時代は1里400mくらいなんだね >>8
平気で嘘つくんだな
【速報】奈良・富雄丸山古墳から盾形銅鏡と蛇行剣 - 古墳時代の金属工芸の最高傑作と評価|奈良新聞デジタル
www.nara-np.co.jp/news/20230125163819.html
これまでの出土で国内最大とされていた長剣(1メートル15センチ)の倍の長さで、
4世紀後半の古墳からの出土は蛇行剣として最古例になる。 2023年の最新の研究では箸墓は240〜260年で確定らしいが
考古学とか歴史学とか畿内説とか九州説とか関係ない、地球環境変動論が専門の人の論文 魏志倭人伝の行程の解釈に関しては
中国人の中国史の専門家により北九州と確定してます。
魏志倭人伝の頃の漢字の意味は現代と大きく違う部分があり
日本人の漢字漢文の理解で読むと間違えます。
ですので行程の議論に関しては
中国史の専門家である中国人、中国人より古代の漢字に関して詳しい人以外は書き込まないで下さい >>92
実際に、畿内説の出した論文とやらを調べたら、箸墓古墳の年代測定を3世紀中頃とする論文だった
畿内に邪馬台国があるなんて一言も言ってないのに、畿内説にカウントされてた >>83
江戸城だから堀も城壁もあるわけだが纒向にはないね
警備厳重なはずなのに、そんな形跡が全くないのはなんでだ? >>79
魏志倭人伝には「馬はいない」って書いてある >>98
どいうことどっちが多いかで畿内説が少ないってことかい 奈良は史跡いっぱい持ってんだし邪馬台ぐらい佐賀にくれてやれや
なぁオイ >>103
そこまで言うなら具体的な研究者の人数と近年の論文数、著書出版数の比較をよろしく >>102
まだ屁理屈こねてるのか
ところがな、壱岐から末廬国に上陸するときには、クランクなんて全く無視されてるんだよ >>103
畿内説のいう多数派というのは、畿内説が勝手にカウントした数字に過ぎないってことだよ >>81
年代鑑定など科学測定はみんな畿内説有利の結果だよ 無知が湧くとマジでシラケるんだよ考古学では畿内で憶測で九州なんだぞ
魏書的におかしい所もある畿内。憶測も論理的で否定できずわからない現状だ無知は去れ >>109
東大史料編纂所の本郷さんは
「東大は九州説ばかりですが僕は機内だと思ってます」って言ってたなw
歴史的に京大閥が畿内説、東大閥が九州説らしい 日本の中枢と言える最大政権が畿内にあったことは動かないしな >>102
2辺とは?
伊都国より遠いはずの不弥国までは1万700里
これは変だな この10年で2ch邪馬台国論争はかなり進化してる。以前は距離と方角ばかりだったが、全容がこの中で見えてきた。理にかなってると思えるが >>93
いや、わざわざ書くのは、
特に難所だったかも?
俺は含めない。運航上欠かせないもんと思う >>39
最速のマラソン選手なら2時間で走破できる距離ですね >>104
アンカー内容が支離滅裂でまともな会話ができない人だね君
知りたいならグーグル先生に聞けば知性のある人じゃないとストレス溜まるから嫌なんだよ >>105
いいよ〜、邪馬台国は佐賀にあげるよ
奈良県民より 魏志倭人伝によると倭に馬はいなかったと書かれています。
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
『木製鐙が開発されたと考えられている高句麗周辺の壁画古墳からは5世紀以降にならないと木製鐙が確認されない。
鐙が朝鮮半島に伝わった時期を考慮してもこれを4世紀前半とするには疑わしく、百済が中央集権国家になったのは4世紀半ば以降であることからも、
この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。
さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし5世紀以降とする方が望ましく、
その特徴が後世的であることもこれを裏付けるものとなっている。』 発掘しても、発掘しても、農耕具が殆ど出土せず
2世紀末から4世紀前半にかけて、100年以上ずっと
3平方キロメートルにわたって
農作業などする必要が無い人々しかいなかった
から
九州説の東大派も
女王国の邪馬台国として纒向遺跡は圧倒的
っつってるのよね >>117
弥生時代に関しては素人、専門が中世だよ お奈良♪お奈良♪お奈良♪さよお奈良♪文明♪ぶ文明♪さよお奈良♪ 奈良なんかわざわざ掘らんでもあちこちに古墳がニョキニョキしてるし
大神神社もあるしでそんな些細なことにこだわるような話じゃない >>84
帯方郡から狗邪韓国が7000里
狗邪韓国から対馬が1000里
対馬が400里四方の面積
対馬から壱岐が1000里
壱岐が300里四方の面積
壱岐から末盧国が1000里
と言う記述だよね?
帯方郡から末盧を10000里とするか、島の一辺を加算して10700里と考えるか、たいして変わらんから別に加算してもいんじゃないって話 随所にデタラメの中国の史書を鵜呑み前提の時点で
アホなんだよなあ
数字なんてあちこちデタラメだよ
中国の史書も大事だが鵜呑みにせず批判的に見て、
それよりも発掘調査の方を超大事な現実として優先しないと >>124
径百歩を小さな墳墓と自分で書いてるだろ
径百歩の墳墓は直径140mで小さくはない >>130
まあど素人の5ch戦士よりは詳しいだろうw >>126
今の邪馬台国論争は
佐賀説vs奈良説じゃないよ
九州説 vs 韓国式歴史捏造詐欺
だから >>120
左翼の松本清張は邪馬台国九州説
朝鮮人が騎馬民族で九州を征服し邪馬台国を建国し大和へ移ったという説だった >>118
3世紀に、日本列島の最大勢力が畿内にあったことは発掘調査から疑いがない。
問題は、その勢力が伊都国(糸島)に一大卒を置いたのかどうか。
北九州を支配下に置けるほどの勢力だったのか。
最大勢力だから魏に朝貢した邪馬台国とはならない。
伊都国を支配下においた勢力でないと。 >>127
だから
284年には百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。
当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した 聖書を一字一句現実として扱う逐語主義なんて
もう滅んでるのにねえw
学問は批判的な資料解析の立場に立つのが当然 邪馬台国は奈良でいいでしょう
吉野ヶ里は伊都国と思うけどね
那珂川の東、筑後川の北が奴国
不弥国は大分かな
投馬国は宮崎鹿児島で和歌山までワープして、1か月歩いて奈良だな
奴国は女王国の傍国なので不弥国から女王国かな
不弥国の官タモは興味深い
後の大墓公、タモ公と関係するのだろうか
奈良の纏向遺跡からは少量だが大分の土器が見つかっている >>59の関連
したがって、3000文字ある魏志倭人伝には、150枚の竹簡が必要だった。
陳寿が用意した竹簡は200枚から300枚あり、「これは違う」と思った竹簡は無視しただろう。
南至投馬国馬水行二十日〜竹簡、南至邪馬台国水行十日陸行一月竹簡の前には本来なら、◯◯から南に行くと投馬国水行二十日、◯◯から南に行くと水行十日陸行一月の竹簡が存在したはずだ。
だからこそ、陳寿は不弥国の後に「また南に行くと」と「また」をつけることができなかった。
ところが、廣志は伊都国からまた南に行くと邪馬嘉国と、「また」をつけている。 >>122
千里って測量したと思ってるのか?
概算に決まってるだろ >>150
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 邪馬台国論争は縄文人vs弥生人 になってるな。畿内との戦いではない。いつどのように乗っ取られたのかに興味が移ってる。 >>134
それって結局水上でどういうルートととるかってことだから、千里に含まれるだろって話
どうして別枠と思った? >>156
木棺の板は大木だ
年代測定には使えないのは常識 >>155
なってないよ。
3世紀の水稲共同体は、畿内も北九州も大陸系の特徴を持つ人々であることはわかっている。 http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/public.html
このブログ読んで俺は間違ってた
勿論ブログ主の結論があってそれに沿って書いてるから違っても良いんだが
航路は参考にしなきゃいけない >>134
それだと一辺。
四方だと周遊になる。方だから二辺。
対角線ならルート計算で出るけどね
実際に動いたのは、400里と400里だよ。 >>144
馬はいない。
391年の倭・高句麗戦争でも「倭人は歩兵のみ」と書かれてる。
木製輪鎧の発明は5世紀だし、そもそも284年に馬具が存在したとしても、張政は卑弥呼の墓の完成を見たわけだから、284年以降の墓は卑弥呼の墓ではない >>159
一つだけじゃなくていくつかのサンプルを取って鑑定される
もちろん木棺の副葬品の年代も参照しながら >これまでは115センチだったが、今回のは茎を入れると237cmと剣として国内最大かつ蛇行剣として最古例。
いやーこれくらいサクッと掘り当てて欲しいねw >>117
そら、山陰とかは平定してないのにアクロバティックに北九州は支配してるという伝説の超古代人だからな 魏志倭人伝によると倭に馬はいなかったと書かれています。
なので284年に百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。
当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した 。
九州から馬具が出ないほうが変なんですけど 4世紀後半の奈良からは九州で流行っていた蛇行剣が見つかっている
ヤマト政権に深く九州の勢力が関与していたのは間違いないんじゃないか
兵庫のカコの由来も九州の勢力だしな 九州説は嘘ばかりで
すでに結論が出てる議論を延々と吹っ掛けていまだに畿内と九州で争ってるかのように印象操作をしてる
史学や考古学では邪馬台国は大和国ですでに決着済み >>138
魏志倭人伝は読めませんと白状してたけどね >>157
だから狗邪韓国から対馬の北岸まで1000里、対馬の海岸沿いに400里進んで、対馬の南岸から壱岐の北岸まで1000里・・・と考えることもできるよねってだけの話 >>170
日本書紀や古事記の年代は適当
卑弥呼は神功皇后だとしている
神功皇后は4世紀末の人物 縄文人も大陸系と思ってる。江南系の日本への先住民と言うべきか。弥生人は朝鮮から逃げてきた人達。 >>174
TBSが3人の中国史の権威に質問したら全員九州説を採用した。
・魏晋南北朝史学会の副会長である陳長崎氏
・世界漢字学会の会長であるゲンコクワ氏
・台湾大学教授である周徳望氏 >>165
ホケノ山古墳も4世紀濃厚
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>176
それなら対馬→壱岐間は千里ではなくて
千四百里と書かれるはず >>181
隋書には邪馬台国は大和国とあるから
隋使は畿内説を採用 IDを変えながら工作に励む畿内説
72 名前:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[sage] 投稿日:2023/06/11(日) 12:43:48.89 ID:5Qg5T1W90 [1/7]
>>31
左翼イデオロギー連中の工作で九州説が多いな造語憶測だらけだけど上手くまとめてて騙される人多い
畿内説が考古学で圧倒してて憶測以外では現状まだ九州説は弱い
174 名前:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[sage] 投稿日:2023/06/11(日) 13:12:26.03 ID:GKS8cVgX0 [12/12]
九州説は嘘ばかりで
すでに結論が出てる議論を延々と吹っ掛けていまだに畿内と九州で争ってるかのように印象操作をしてる
史学や考古学では邪馬台国は大和国ですでに決着済み 帯方郡から狗邪韓国まで約700キロ
なので、帯方郡から狗邪韓国までは1里100m
狗邪韓国から壱岐までは1里50mとか60mになる
里数はテキトー
台湾大周徳望教授は、梁書を参考にすると日本はメキシコになるので、里数は無視して良いという >>172
だからなに?
クランクを別枠でとるってことは、直線距離千里を別に計算したことになるが、そんなもんどうやって計算するんだ?
そもそも仮に900里加算しても伊都国から残り1500里だったのが、残り600里になるだけだが >>182
ホケノ山は副葬品からは240年以前
3世紀中期より前 みんな魏志倭人伝って結構信頼してるんだな
俺はなんとなく書き慣れたお役人の記述、って感じがするから信用できない
伝聞なのに自信満々だし
聞いた情報テキトーに補完してそれっぽく書いた感じがすんだよね
そんなものの記述を好き勝手に解釈してあーだこーだって
もはや妄想かフィクションじゃん >>180
なるほど、縄文人の定義を江南人も含むことに変えてしまえば、解決だね。 >>183
君はいいかもしれないけど
方400里だからね。当方は記述道理を
選択しただけだからね。 >>186
都合が悪い事書かれたから
IDを変えて自演してる事にする九州説 追記
魏志倭人伝によると倭に馬はいなかったと書かれています。
なので284年に百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。
当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した 。
邪馬台国の壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。
そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。
のが266年だから
その僅か18年後には、百済王の貢献先は、奈良の大和政権になってるわけだ >>184
別に加算にこだわってるわけじゃないが、加算する説もそれほどおかしい話じゃないなっていう感想 宮内庁はこのまま吉野ケ里発掘させて良いのだろうか。どうせ解明されないと知ってるのか? 「魏志なんて信用できないよね」
「うん、ヤマトかどうかもわかんないよね」
「邪馬台国は大和だろ」
「えっ」
「えっ」 >>190
典型的エセ畿内説ですねえw
学者いわく箸墓古墳の後に造られたそうですが? >>180
長すぎて縄文土器作ってた時代を縄文時代っていうだけで縄文人勘違いしてるな日本は皆渡来人 >>191
里数は意図的に盛ってるけど、記述は正確
・倭国に牛馬なし
・カササギはいない
・馬韓の植生は中国と大体同じ
・漢委奴国王金印が出土
・滇王之印が司馬遷の史記の通り出土 >>196
おかしいだろ
島のサイズを考慮して加算するってことは、千里は実際に通ったルートじゃなく、別に計算で求めた数値ってことになる
どうやって計算するんだよそんなもん その後のなりゆきを見ますにわが朝廷は高句麗と手を握り半島利権を確固たる物にすべきでありました >>197
宮内庁治定陵墓以外の遺跡調査に口を出すことはありません。
管轄外だから。 畿内説論者はバカだから弥生時代が数百年遡るとか嘘吐きだからな、鉄器普及に伴って稲作が盛んになり人口増加したのに前後関係が全部無茶苦茶になって結局年代測定が間違ってましたで終わり
纒向の建物は後世の寸法、尺が使われていて弥生時代のものでなくましては卑弥呼の建物ではない、要は建物様式が新しすぎておかしいんだよ。 >>197
卑弥呼は子供が居ないから天皇家の先祖にはならないよ >>176
俺の薄い知識だと対馬は後の時代には北岸と南岸の間の細い山道を船ごと運んでたらしいけどこの時代どうだったんだろうね >>128
これは纏向石塚古墳の周濠から出土したものです。3世紀前半の築造とされ纏向遺跡最古の古墳と言われいます。
https://i.imgur.com/cgGq9Tw.jpeg
しかし、戦時中に砲台が設置され潰されたので埋葬施設は発見されていません。
まだ、埋葬施設を見つける調査もされてません。
https://goo.gl/maps/ZZvxQU3dbRtHa7XR7
纏向大溝のすぐ横にあるんですね。纏向大溝も小学校の校庭にあるのでおんなに調査はできません。 個人的にはこれがお気に入りw
邪馬台国の人が九州人であることが判明しました
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう >>197
だって血の繋がってない平民を次の天皇にしようとしてるくらいだし >>188
別枠にする理由を聞かれたからそう答えた
渡海のたびに1000里なんだから測った距離じゃない
方400里と書いているんだから対馬を正方形で表現しているのは明白
対角に進んで対馬では水行800里
壱岐では水行600里
女王の境界である奴国まで12000里
なんで魏志倭人伝の著者らが足し算も出来ないと思うんだ? 羽田から那覇までの距離を言う時、沖縄本島の北の端から那覇空港までの距離なんて考慮しないよねw >>197
紀元前100年から200年までの北九州市の城野遺跡の石棺と同じ様式で
福岡県から佐賀県まで北部九州一帯が同一勢力の支配下だったことが確定
志賀島の金印と並んで
後漢書に書かれている、57年に後漢の皇帝から印綬された、漢委奴國王、倭奴国
唐書と日本書記に書かれてる、神武東征前の九州王朝
の証明になってるから宮内庁は静観してる >>201
たとえID変えての自演としても
>>186の内容で自演をする意味がわからん .
【幻の『邪馬台国』なのか!?】夢あふれる「吉野ヶ里遺跡」で弥生時代の人々の暮らしと想いに迫ります
https://www.youtube.com/watch?v=CFU5w1isJMk >>195
なるほど
池上曽根遺跡は弥生時代末期で営みを終える
摩湯丘陵の伝承ではその最後に馬が関係しているようだ
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
アリマは六甲の有馬か、熊野の有間かあるいは両方か 今更乗っ取りが明らかになるのはあまり良くないのではないかい。神功皇后が卑弥呼ってことで頑張らないと。あまり深掘りされたくないと思ってるんじゃ >>203
実際の島間の距離みたら1000里もかなりのどんぶり勘定だからそんなキッチリ考える必要ないと思うがな >>212
奴国を邪馬台国と?
そこは邪馬台国じゃなくて奴国と書かれてるから >>219
宮内庁は、縄文人の土地が弥生人に乗っ取られた、との世界観をもってない。 >>212
水行800里なんてどこにも書いてない
補正前の千里は実際のルートでないなら、どうやって測ったんだ? >>219
卑弥呼と神功皇后は100年は年代が違う 水行に関してはたぶん1日に進んだ距離を1000里とざっくり数えてんだろう >>221
奈良の遺跡は伝統的に100年古く編年してきたから実質5世紀だよ >>212
周旋5000里一致するんだ。
一万二千餘里から七千里引くと5千餘里
も一致。 邪馬台国がどこにあるか気になるものだけが石を投げなさい >>220
島のサイズが別枠で加算する理屈が分からない
千里って、港から港までじゃないのか 距離に関しては何の参考にもならんよね
魏の使者は陳寿にテキトーな報告をしただろうし陳寿は陳寿で「そんなわけないやろ」と自分でテキトーな数字を記した
その結果「倭は会稽の東にある」なんてことになった 夏休みの観光客増えるだろうな
自由研究にここ調べれば何か賞がもらえるかも知れないし>小学生 公孫淵の父の公孫康の伝に倭は公孫康の支配下だったという記述があるんだけどそこはアーアーキコエナイなの? 生駒は色々興味深い
九州は鯰の神さまがあちこちにあるが生駒にも鯰石がある
神功皇后の伝承も残っていて言うことをきかない鶏を川に流したが龍田の神さまが鶏を助けて匿ったという >>232
まあ会稽東治の東も帯方より南1万2千里も
全部漢の時代に奴国が朝貢した時に作られた伝承だろうね
魏志倭人伝はその漢の伝承の位置に邪馬台国を当てはめて書かれてる >>232
魏の使者は陳寿に説明したわけではない
「魏の使者が残した記録や、魏の朝貢記録を後世の陳寿が参照して倭人伝を編纂した」
が正しい >>234
朝鮮人に限った話だけでなく
どこの世界にも
バレないだろうと思って話を盛る
嘘まみれのクソチンピラはいるだろ? 日本書紀も、編纂者は「史実が何であるか」わかってないで書いてるよな >>231
だから別に加えなくてもいいって
加えて考えるって意見もあるんだなってだけの話だから >>241
だったら松本清張がなりすましなんだろ、
今の日本の文壇にはなりすましが
いっぱいいるからね。 >>243
までもあのタイミングでまとめてくれて良かったよ
古事記と同時期に作られてるのはそういう流行があったんかね >>240
だな
あと陳寿が拾えてない情報もある。
後漢書で出てくるの倭國王帥升とか 魏志倭人伝を読み解きたい人はこれを念頭に置いて読んでください
「過去の史書、魏の使者が残した記録、魏の時代の朝貢記録を後世の陳寿が参照しながら編纂した」 >>73
魏に朝貢しながら使節を邪馬台国まで案内せずに伊都国という水際で留め置くなんて思えばとんでもない無礼だがそれでも張政を伊都国に留めたのは安全保障を優先した為だろう
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は全くのデタラメだよ
参考にもならん 「邪馬臺という字面も正確かどうか怪しいよね」
「そこは合ってる」
「えっ」
「えっ」 >>243
卑弥呼は神功皇后とか言ってるしな
卑弥呼は引きこもりでほとんどの人は姿を見たことないと書いてるのに、「三韓征伐」こと新羅征伐をした神功皇后を卑弥呼にしてしまう大失態
いい加減すぎる >>244
島のサイズという考えも理解できるよ。
回避海域と見ている。厳密には無理だから
方300里、400里となったに過ぎない >>242
それは、曹芳に会いに行った邪馬台国の使者のことかな? 878 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[] 2023/06/11(日) 11:27:52.71 ID:j4l6DBl80
>>1
ついに確定したな
奈良とかwどうすんだよw
東大と京大の戦い!ついに決着!w >>243
文字がないのに400年前を確実に記憶してる民族なんていない。 ID:T3Cj65u/0
前にも九州説は憶測書いてるけどこの人はモロ憶測なんだよな >>249
でも、公孫康伝にある、「三韓と倭を支配下におさめた」は、アーアーキコエナイなんでしょ? >>250
卑弥呼は政治をやるわけじゃないんだから伊都国で用が済んだんでしょ
卑弥呼はあくまでも争いを鎮めるための共立にすぎない >>255
てことは、千里は直線距離なんだよな
どうやって測ったんだ? 「〇時間で着いた」
「距離で言うと?」
「〇里かな」 >>264
そういいたいんだろ?
俺は港から港までの距離と考えてるが、島のサイズを加算するってことは、港から港までの距離ではないことになる >>265
まあ、そういうことなんだけど、島のサイズをどうしても加算したいらしい 【最新】邪馬台国関連遺物の出土状況(2023年6月)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生集落発見
・卑弥呼の墓の記述に一致する吉野ヶ里謎エリアで石棺発見(New)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの) >>224
合計で12000里になるように結論ありきで数字が書かれているんじゃないか?
それともお前が読んでる魏志倭人伝では別の数字が書いてあるのか?
足すと女王国までの距離と一致するのは偶然かも知れないが、そこに何らかの意味を考える説はある >>251
陳寿は多分廣志は見てる。
⭕郭義恭『廣志』と『魏志倭人伝』の一致点
『廣志』→邪馬嘉國に至る。女國以北はその詳細を記載できる。次に斯馬國。次に巳百支國。次に伊邪國
『魏志倭人伝』→邪馬壹國に至る。女王國以北はその詳細を記載できる。次に斯馬國。次に巴百支國。次に伊邪國
この部分は魏略にもなく、邪馬壹と邪馬嘉の違い、女王国と女国の違い以外は完全一致。
正始元年、4年、6年、8年の卑弥呼との交流で倭国の情報が増えたことから、奴国→不弥国を付け加えたのだろう。
投馬国と邪馬台国水行十日陸行一月は竹簡のつなぎ間違い。 >>1
たま のお墓でした
猫様の亡骸の傍らには鯛や鯵も一緒に埋葬され
古くからの良き関係を伺わせます 知らなかったけど呉も出兵して東の島々を遠征しようとしてたんだな
もし日本に漂着してたら詳しく記載出来てたかもしれないな
https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12662212090.html >>243
大和王権の史(フミヒト:書記官)は渡来人が担ってたからね 遣唐使の時代でさえ命がけの大航海だったのに、えらい人が本当に海を渡って来たのかさえ疑われる。 >>258
だって日本書紀も古事記も
「大阪の大きな古墳、あー俺の先祖が作った」
「出雲?、あーあれも俺の先祖」
「九州の伝説?もちろん俺の先祖」
「諏訪?あーあそこも俺の先祖が作った」
「鹿島香取?、あーあそこは中臣だからかんけーねーわ」
「そんな感じでよろしく」
って作られた半島人もビックリのファンタジーだから。 >>266
意味不明、島のサイズとか書いていない
理解はできるである
>>265程度だよ。 >>247
古事記派と日本書紀派の綱引きはあったはず
太安万侶の多氏は王の一族という意味だし神八井耳命の子孫で九州が本地
神八井耳命は投馬国のミミに通じるね >>263
なんで無関係なの?
公孫康は邪馬台国時代の倭を支配下に納めてると書かれてるのに。 >>259
魏志倭人伝がらみで今言えるのは
「伊都国(怡土郡)や奴国(那津)あたりまでの記述は割と正確だがその先はあやふや」
ということまでなのよな >>260
普通に冊封体制下で三韓や倭は帯方郡の管理下にあるから卑弥呼の使節も帯方郡に行ったわけで
そこに何か疑問あるか? >>31
実際は別の地域だよ。
ほれ、あの~東戸塚のはずれの方だよ。
あすこだって、ばーちゃんの友達のみっちゃんが言ってた。
ぐらいどの説も信頼性無し。 >>269
俺もそう見てる
なんとか総計1万2千里をでっち上げて、邪馬台国はもっと先だということにしたいらしい
あくまで、伊都国から残り1500里だ 邪馬台国は朝貢して金印を貰ったので、魏志では大した国のように書かれただけではないかな
実は大和朝廷がまともに記録するような国ではなかったような気がしてならない >>281
本当にそんなことが書かれているのなら注目せねばならない。
書かれた内容を「独自解釈」すると、そうなるって話ならスルーでよい。 朝鮮半島の倭の領域と活動は公孫氏の支配下になったと思うけど列島は支配下にはないでしょ
支配下なら倭国大乱なんて起きるわけないし公孫氏が入ってきた形跡もない >>270
だから俺は邪馬台国は北部九州一帯に存在した国々の連合だと判断してる >>277
港から港までの距離が千里なら、島のサイズなんて関係ない
港から港までの距離に、島のサイズをなぜ加えるんだ? >>222
邪馬台国は南の境界
奴国は東か西の女王国の境界
すなわち、長崎県とか大分県とか宮崎県とかのどこか 公孫氏の末裔を自称しているのは赤染氏(常世氏)
香春神社の宮司を代々務めたりもしている >>289
いや、港から港までの距離だよ
違うの? 人もモノも大陸から
天皇、大王の血筋も大陸から
日本人なんて居ない 奈良は観光客目当ての施設造っちゃったから後に引けないんだよねえ
歴史的事実よりゼニ優先で意固地になってる >>240
>後世の陳寿
が、そもそもお前の勘違い
266年に邪馬台国の台与は
司馬炎の皇帝即位と晋の建国を祝賀するため
壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。
このとき陳寿は、国史の編集や制作を司る著作郎(ちょさくろう)として、まさしく(晋の)臺(中央官庁)にいた
後世の陳寿どころか、当事者の陳寿です >>281
オカルトネタが好きなら月刊ムーでやれば? >>294
島のサイズなの?
回避海域と思うけどね >>282
そうそう、結局台湾の現地民を奴隷として連れ帰っただけで失敗に終わったんだよね、それで責任を押し付けられた担当官が処刑されてるなんてとんだ顛末
日本列島に到着してたと思うと薄ら寒い >>301
オカルト?はぁ、魏誌に書かれてる事柄なんだが?
やっぱりネトウヨには都合が悪いのね。 >>300
魏志倭人伝編纂時期は280年以降
臺与の時代も終わってる >>302
どこにそんなことが書いてあるんだ?
絶島があって方4百里と書いてる
そもそも、回避海域って、なんの海域なんだ?
それは港から港までの距離に含まれないのか? >>300
266年に司馬炎の皇帝即位云々はお前の妄想 >>293
で、その国は公孫康の支配下だったんだよな >>304
お前が漢文読めないのはわかったからオカルト板池w >>299
それ吉野ヶ里のことじゃね
観光客目当てにたくさん建物作った >>279
なるほど
権力争い、正当性の根拠を競うためか >>290
いや?自国の記録は
自国に都合のいいように書くでしょ >>306
島のサイズも書いていないけど?
方可四百餘里しかない >>270
なるほど!
竹簡の繋ぎ間違い以外は素晴らしい >>79
史実で日本に乗馬騎馬が存在しなかった記述があるみたい
で、騎馬の強さに気付かされたのが任那や百済を救援する戦いで歯が立たなかった事で馬の必要性に気付く
馬を輸入して半島から馬術に秀でた集団を召喚し馬術と馬具を揃えた
とはいえ騎馬後進国どころか未開国であった当時の日本人には明治時代になるまで虚勢技術すら存在せず気性の荒い馬を運用するという大凡騎馬のは程遠いのが実態だったとか
時代劇のアレは馬種もだがウソなのは当然だが美化しすぎ >>292
卑弥呼は公孫氏という話もあるけどね
本人がそうかはともかく公孫氏が介入して大乱が収まった可能性はある >>35
ネトウヨがウダウダいってんじゃね?つまり不満なオマエはネトウヨや >>288
もっと先かどうかは分からない
各行程の里数は女王国まで12000里の内訳を書いている可能性があると言ってるだけ >>313
絶島があると書いたすぐ次にサイズを書いてれば、島のサイズとしか考えられないが?
どこをどう読めば回避海域になるんだ? >>134
対馬の形は細長いから一辺を加算したらだめだろ >>309
物知らずは黙ってろよ、ちゃんと公孫康伝を読んでこいよ地消 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| // | まだかな…
| ∧__∧ |
|∩´・ω・∩ |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>290
中国は、琉球なんてクソ小さい沖縄本島の3つの国を冊封するほど
台湾は文字を持たなかったことから小琉球、沖縄を大琉球とした
相手が朝貢を求めてしかもペコペコしてたら、簡単に金印もあげる >>317
>卑弥呼は公孫氏という話
そのネタはもともと
卑弥呼は公孫氏の親戚
という話だった >>322
倭の諸国は公孫に朝貢している。
その事実が重大事である理由がわからん。 >>305
池沼ネトウヨは
「魏志」じゃなくって、彼らにとってはどーーーでも良い「魏志倭人伝」って言っちゃうんだね(笑) >>116
IntCal20とは従来のIntCal13西暦1〜3世紀の挙動が合致しないので日本の樹木のデータも入れて精度を上げたものって歴博はぼやかしてるけど要は古く出過ぎるのを補正したんだよな >>240
>後世の陳寿
が、そもそもお前の勘違い
266年に邪馬台国の台与は
司馬炎の皇帝即位と晋の建国を祝賀するため
壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。
このとき陳寿は、国史の編集や制作を司る著作郎(ちょさくろう)として、まさしく(晋の)臺(中央官庁)にいた
後世の陳寿どころか、当事者の陳寿です
後漢書に書かれている
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
も、霊帝・献帝の頃に蔡邕・盧植・楊彪らが執筆に当たったモノ
南朝宋の范曄は、それを纏めたにすぎない 邪馬台国→ジャマ台国→ジャマたい!
博多弁からきてるから佐賀だよ、異論はあると思う >>320
君の場合はね。
サイズという考え方も理解しているが?
それより下だと難破とかあるのでは? 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真) 倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるオツムがどうかしてるワケ >>329
邪馬台国が中国の史書に最後に登場するのはAD266年
これ豆な! 大学の般教で日本史とって学んだ話よりぶっちゃけここの記述のほうが詳細で面白くて草 >>328
だな
帯方郡を作ったのはそもそも公孫氏だしな 大したことない小国で
言い争ってる奴等に
石棺の蓋を投げろ! >>332
壹与が司馬炎を祝賀とかいう捏造をさも史実かのように書く畿内説 しかしなんで「邪」みたいな禍々しい感じを国名につけようと思ったのか 帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条) 壱世と陳寿って同時代なのか
ならそこまで嘘くさい内容でもないな こんな未開の土人の集落の場所なんてどこでもいいだろ ちなみに、弥生時代の代表的な墓制は方形周溝墓で近畿地方から出現する。これが関東や
東北南部まで伸びていく。
中国・四国地方は円形周溝墓。
九州にはあまり方形周溝墓は普及しなかったが、平原古墳は方形周溝墓。つまり、畿内系の形式。 九州説うんぬんの前に
多元王朝説が軽んじられてたのが
信じられんよな >>300
そこまでの関係で当然魏の皇帝の権威を借りる立場にあって
なんで日本側に一切記録がないんやろね
文化レベルだって高そうなのに >>334
で、島のサイズを加算する理由は?
千里に含まれてないという理由は? もともと北部九州、山陰、越は
半島がのチョンコが群がってたような場所だからな
北部九州のヤツラなんか半分チョンコ
チョンコもどき >>354
そもそも、壹与が司馬炎の皇帝即位を祝ったとか嘘だから まぁ畿内でも九州でもどっちでもいいけどこういう話は面白いわ >>345
中華思想。
書いたと言われる
四川出身の役人陳寿の価値観やろ。 >>355
意味不明
島サイズなの?
海域回避ですから? >>344
289年の記録には単に東夷30国としか書いてないんだよな >>358
うむ
何が凄いってそりゃ授業は時間ねえから端折ってるのかもしれんが
話の根拠がその教授が書いた教科書よりエグいことだな >>345
ダークフレイムマスターみたいなのがかっこいいと思う価値観は昔からあったんだろ >>356
現在、朝鮮系の遺伝子が強いのは近畿地方
魏志倭人伝を読むに倭人九州人は越人
古代越人は黥面(顔に入れ墨)をしていた 奈良みたいな大陸(≒朝鮮半島)から遠いとこに作るわけないだろ
邪馬台国があったのは九州です 宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
宇佐神宮はチョンコ神社 まあいずれにせよ
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう
だからw 確かに地図で距離を測ったら半島から対馬の北端までの距離と対馬の南端から壱岐島までの距離、さらに唐津までの距離が同じくらいになるんだよな
対馬の真ん中までの距離にすると長すぎる >>357
ヤマト王朝が自分たちのことを「ヤマト」って言い始めたのはいつなの? 栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
出雲風土記の国引き神話からも
出雲がチョンコ由来なのが分かる そして越にもたくさんの
白山神社がある
その文化圏では
糸魚川のヒスイが分布して
ぴったり一致してる こりゃあ九州かもしれんね
奈良は中国とつながりなさそうだし 北朝鮮の工作員が
日本海側に漂着するのと同じだからな
なにも不思議なことはおきてない
当然の帰結といえる 中国が自分たちのことを「倭」としたから
「和」に直して「大」をつけて「大和」にしたって
これかなり後の時代の話だよな考えてみると >>371
後漢書にんなこと書かれてんのか
てか史記の文章にもう注釈システムあったんかゴクリ >>363
何を回避するんだ?座礁か?
対馬は急峻だから座礁なんてしないぞ
しかも方四百里回避しろってどんな意味だ?
着岸しちゃいかんのか? 日本書紀にも
いっぱい注釈はある
そして当時の諸説についても記述されてる >>341
おかしくないよな。
漢が強大で半島を支配していたころ、倭の諸国は漢の直轄地である楽浪郡に使者を派遣し、漢に朝貢した(恭順を示した)。
1世紀の終わりごろ、漢の力衰えるとともに、遼東から楽浪にかけての太守だった燕(公孫)が半独立状態となり、楽浪の南に帯方郡を設置、韓と倭が帯方郡に属すると宣言する。
237年、燕(公孫)はついに魏からの独立を宣言、呉との同盟を画策する。
238年、魏の司馬懿が公孫を討伐、帯方郡は魏の直轄領となる。
238年あるいは239年、倭の邪馬台国が帯方郡に使者を送り、魏に朝貢(恭順)する。
倭としては、公孫が討たれ魏が半島に出張ってきたのだから、急ぎ魏に朝貢せねばならない。それだけのこと。 >>292
倭国大乱のころは公孫度、三韓と倭を支配下に入れたのは子供の公孫康、210年頃のはなし。
倭国大乱に乗じて支配下に置かれたのかもしれない。
ネトウヨとしては、シナの地方氏族の支配下だったなんて都合悪いからアーアーキコエナイするしかないんだけど >>343
自分も近畿民だけど邪馬台国は九州だと思う
だけど邪馬台国と大和政権は別もので
邪馬台国と天皇も関係ないと思う
邪馬台国はただの地方の集落でしかなかったんでしょ
外国からすぐ来れる所に国の中枢を置くわけないので 倭国大乱前
北部九州、出雲 ←→ 大和朝廷 → 北陸
※ 北部九州、出雲は、北陸は新羅系のチョンコもどきの土人
倭国大乱後
熊襲 ←→ 大和朝廷 ←→ 東夷(元新羅系のチョンコもどきの土人 俘囚) ずっと言ってるけど倭国大乱って実際は大した規模じゃないと思うんだよねぇ 三角縁神獣鏡って福岡の奴国の古墳からも見つかっているんだな そもそもスサノオが渡来神だからな
その漂着した新羅系の土人は
倭国大乱のあと
北部九州、山陰、北陸からおわれることになる
関東、東北へと逃げることになる
そして、朝廷が関東東北の土人どもをしばきにいくのが
坂上田村麻呂になる
坂上田村麻呂が土人の巣を一掃
坂上田村麻呂は
征 夷 大将軍だからな
東北の俘囚がどういうやつらかといえば
出雲、北部九州、北陸の負け犬
つまり新羅系のチョンコモドキ 調べたら大和が普及したのは8世紀だってw
言われてみたら記紀にも出てこないしなw ちなみに出雲弁と東北弁とよく似ている
そらな
似るのは当然
出雲と東北のヤツラは
ルーツが同じだからな >>382
難破、漂流だよ。着岸してはいけないとは書いていないけど?着岸したと思うけど? >>386
別?畿内説はヤマト王権が邪馬台国って認識なんだが 北九州だけの争いでも
その範囲を倭国ってしとけば倭国大乱になるし
王位継承をめぐった勢力争い程度でも倭国大乱って言っちゃうと思う
あんまり倭国大乱を日本全土が戦場になったみたいなイメージしてると大間違いだと思う 当時
朝廷につぐ権威があったのが
伊勢の斎王だからな >>385
公孫が楽浪を支配したので、もともと楽浪(元漢の直轄)に属した韓と倭も公孫のものだ、程度のことだよ。
漢からみたら、倭はもともと楽浪をとおして漢に属していることを見落としているのでは? ネトウヨ連呼厨湧いて冷めるな
チョンは700年奴隷だった これでスレ面白いか皆楽しくやってたのに >>382
なんで直線距離なのか?
海なんだから、当時に測定機器とかあるのか? >>370
この辺りが秦王国ではないかと言われる所以
中国からの避難民が多かったので新羅は秦韓と呼ばれていた >>328
>>384
正しい史実だし、後進国であった日本が支配下にあっても別に不思議ではない。
でも、ネトウヨからしたら日本が中国の地方氏族の支配下であったことが誠に都合が悪い事実な訳で、ID:T3Cj65u/0
のように発狂してオカルトだーと言い出すしかないのよね。 >>386
統治範囲が後の時代みたいに九州から関東ぐらいまでいくとそうなるだろうな。
邪馬台国の頃は、有力な勢力でも今の県の1つか2つぐらいの範囲だと思うわ >>380
俺は中国人学者の説を支持している。
中国の史書では、越に倭人がいて、史書が進むにつれ次第に倭人は北上。
楽毅将軍のいた燕にも倭人が出てくる。
後に南下して九州に入ったという説だ。
越の中のハニ族に「倭」と言う文字を見せたら、アカと答えたという。
アカとは遠方の客人を意味し、ハニ族はチベットのラサイゴンマが源流という。
ハニ族と日本人のDNAはほぼ一致している。
また、チベット人とも非常に近いというから、倭はもしかすると九州人の自称かもしれない。
太白の後と自ら行ってることからもそれが伺える >>380
倭国大乱から続く倭国の記述に一切公孫氏に攻撃されたり占領された話は出てこないじゃん
公孫氏の話にも韓の国を攻めた話はでできても倭を攻めた話はないよ
個人的には倭は公孫氏に朝貢してたと思うからなにが問題なのかわからんね
ネトウヨどうこうよりあなたが歪んでるんじゃない 倭国大乱は
普通に国譲り神話でのデキゴトだからな >>389
まあ奴国は邪馬台国と連合を組んでたと魏志倭人伝に書かれているから
畿内から分配された三角縁神獣鏡が奴国で出てきても不思議ではない >>373
調べてみたけど万葉集の舒明天皇630年ぐらいで
八間跡ってあるからこれが最古かも >>337
佐原真こそ江上波夫先生の騎馬民族渡来説を鬼のように憎悪してマスコミ操作によって握り潰した張本人
ところが日本人の三重構造説によって古墳時代に大きな渡来の波が来たことが分かり彼らが馬を持ち込んだことも明らかとなった さっきから何を騒いでるかワカラン人がいるな
別に仮に古代中国から逃げて来た人が俺達の先祖だったとしても別に嘆く話でも何でもないと思うんだけど >>411
日本列島に土着の人種はいないしな
みんなどこからか流れ着いた民 >>403
県は大きすぎる。
倭王武は5世紀に西の66ヶ国を征伐してる。
西だけで66ヶ国。
3世紀の国は市町村レベルだろう >>402
どうでもよくないか?
中華秩序からみたら、倭は楽浪あるいは帯方に属するクニグニだ。
『山海経』の昔からそう。
発狂とかネトウヨとかではなく、お前の書き方が不十分なのだ。 そもそも
朝貢というのは
朝貢するともっといいもんがもらえるというシステムだからな
見栄のシステムといっていい 佐賀に王朝なんてあったとしたら、
もう岩手とか秋田の方の人はまるで関係無い別の国で暮らしてた感じ?
さすがに東北まで統治してないだろーし >>629
朝鮮出兵の時の情報伝達速度
文禄の役→朝鮮~名護屋まで片道2~3日 慶長の役→朝鮮~京都まで約10~14日
特に慶長の役の時は10日以上前の報告を基に10日後の戦況を予測して指示を出さなきゃならない
刻一刻と変化する戦況に対して現地にいない秀吉がこれをするのは現実的に不可能
現地武将も秀吉の命令を先読みして動かないといけないし端から無理があるんだわ
そして文禄の役の時に軍監として現地入りした石田三成の書状には
「名護屋で受けていた現地からの注進の内容とは異なり、朝鮮は全く静謐になっていない」
と言ってて、現地から受けていた報告と目の当たりにした状況が乖離していることを指摘している >>411
日本は移民の国なのは常識遺伝子の掃き溜めみたいな国
神武天皇は居ないと思うが天皇家は春秋時代呉人の王族と思ってるね >>393
難波海域がどこにあるんだ?
対馬の周り全域か?
どうやって接岸して上陸するんだ?
対馬の厳原港も比田勝港にも、そんな区域はないんだよ >>382
>>対馬は急峻だから座礁なんてしないぞ
座礁に限らずだけど
現代目線なんだ? さてこのスレでも書いておこう
末盧国(呼子付近)
伊都国(糸島市付近)
奴国(福岡平野一帯)
不弥国(富津〜宗像付近)
邪馬台国(筑紫平野一帯)
投馬国(釜山付近)
一大卒(福岡市西区周船寺)
帯方郡から投馬国(釜山付近)までが水行二十日
狗邪韓国(釜山付近)から末盧国(呼子付近)までが水行十日
末盧国から伊都国〜奴国〜邪馬台国までが陸行一月 倭国大乱は普通に
新羅系(半島系)とヤマト朝廷の戦い
だから新羅系(半島系)は
すべて日本海側に分布してる
北朝鮮の工作員が
海流で日本海側に漂着するのと同じ AD 238
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 明帝
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(倭王とか一杯いろんなもん)← 明帝「いいもんくれた オマエを倭王にしてやる」
AD 240
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(仮の倭王とかいろんなもん)← 斉王「まえのヤツは死んだ 挨拶だ おまえのことよく知らんから一旦仮の倭王にしてやる」
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →(お、ありがとな)→ 斉王
AD 244
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ドレイとかいろんなもん)→ 斉王「おい だれか黄色い旗刺しでもやっとけ ん? もってけるやつがいないのか?」
AD 247
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →(クマソどもぶっころしにいった キャハ)→ 斉王
AD 248
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 斉王
以後、ずっと交信記録なし
コレもぴったり一致 >>421
島や岩とかないかな
いりくんでないか? >>418
沖縄県北部のクソ田舎にも王朝があったんだぜ?
山北王・怕尼芝とか攀安知とかいう王様がいて、中国に冊封されてた 吉野ヶ里という位置も絶妙で倭国大乱の主戦場であった瀬戸内海から遠く離れた内陸部にあって東、北の道は谷で大軍は進みにくい。
北九州の中でも守りの固い位置にある。
近くを流れる筑後川で有明海に容易に出られたろう。
丘陵に集落の周りに環濠をめぐらして戦国時代の総構の原型のような構造になっている。
戦闘の激しさを物語るように発掘された遺骨には損傷していたり矢じりが刺さったものもある。
瀬戸内の高地性集落も同様だがこちらは西方の眺めがいいところにあって西方を警戒している。
互いに戦々恐々としていた日常を過ごしていたことが窺える。 >>400
港から港からまでの距離だ
所要日数、所要時間からおおよその距離は割り出せる
で、回避海域とやらが、どうルートに影響するんだ?
なぜ千里に含まれないと分かるんだ? 邪馬台国がすごい国だと思うのも
倭国大乱がすごい出来事だと思うのも
数少ない記述の中で目立ってるだけで
実際に日本全土で起こったことの中で言ったら大した話じゃない可能性があるって
頭に入れといた方がいいと思うわ スサノオは普通に渡来神だからな
ちなみにスサノオの設定は
半島がいやになって
日本にきたことになってる
田舎もんは朝廷の公民ですらなかった夷人雑類
北部九州、山陰、北陸 (つまり新羅系のチョンコもどき)
↓ ↓ ↓ (倭国大乱)
関東 東北
↓ (征 夷 大将軍の 坂上田村麻呂)
東北
東北にも古い八幡神社があるのはなんでか
もう分かるな 古事記や日本書紀に倭国大乱のことが書いてあるならともかく
あるんだっけ? >>430
方400里、300里と書いてあるからね >>406
1日で歩ける距離だろ
この時代の倭人に長い距離を数字で表す概念はない
だから、水行何日とか陸行何日も使ってる 五島列島や平戸辺りにも目立った遺跡は無いんだな
そうなるとやっぱ対馬→壱岐か >>430
影響するだろう。
使者の安全とか下賜品とかあるんだから。 >>435
島のサイズだよ
回避海域なんかじゃない
そんなものは対馬の港の近くにないからな そのチョンコの巣を追い払ったのが
国譲りの神話になる
そいつらは東へ逃亡してる
そして俘囚になる
畿内はヤマト民族
九州東北とBのヤツラがルーツをたどれば
チョンコになる 九州説信者は考古学を陰謀論のように言うのに吉野ヶ里の墓の発掘に色目きだったという矛盾 >>438
誰か港を作るんだよ?
回避するだろう。航路の話 大月氏には里数を測る機械を持って行ってるよな
あれ名前なんだっけ?
大月氏は洛陽からだと4000キロはあるから、日本よりもクソ遠いのに、9832里とか1の位の里数まで出してる
一方、日本は十の位さえない。
つまり、あの距離を測る機械を持って行ってない 九州の人「俺達ヤマトです」
中国人「君らヤマトなんだってね」
近畿の人「俺達ヤマトなんだな」
こんな可能性はないの? >>425
平安時代には現在の北朝鮮やウラジオストク辺りにあった渤海って国が平安時代に国が滅ぶまでの間三十回くらい派遣してきてたそうだし、古い時代には騎馬民族の流入とかもあったんだろう
滋賀のオルドス式銅剣とか出てきてる >>434
小規模な殺し合いの記述はたくさんあるけども、国対国の激突は「譲らせる」とか「だまし討ちで勝つ」のがふつうなので、
大乱にあたるような箇所はないなあ。
もし、倭国大乱の理由が天候不順による食料不足に起因する内乱であるならば、
崇神時代の「五年、国?多疾疫、民有死亡者、且大半矣(即位から5年目、国内に疫病が発生し民の半数が死んだ」
これにあたるかなあ、と思う。 >>441
だからそんな危険なところに港は作らんし、壱岐や対馬にそんな座礁しそうな海域は広がっちゃいない
末盧国から伊都国までが5百里だぞ >>445
安全に着岸できるところを港にするんだよ >>446
里数は怪しいでしょ
時代が違うんじゃないかな >>418
秋田の方は阿倍比羅夫が越から遠征して歓待されたところ >>370
宇佐が新羅の神で、三韓征伐で神功皇后は新羅を潰してるだろ。磐井の乱で磐井は新羅をヤマト朝廷から守りたかった。誰と誰が何のために戦ってるんだ? >>211
それ言わないほうがいいよ、皆思っているけどDNA検査を受けるはずもないとわかっているから…法律もないし >>454
末盧国から伊都国までの距離に匹敵するような危険な海域は、どこにも広がっちゃない
そんな海域があったら、元寇のとき座礁してる >>461
今現在、フェリーがほぼ直行してるのだが >>407
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/485/index02.html
ここの古墳だな
九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、
近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自
性があった可能性がある」と話している。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/ 使者「この島はどのくらいの大きさかね」
漁師「朝に出て夕方くらいには一周して戻ってこれまさ」
使者「一日で千里だから大体方四百里ってところか……」 磐井の乱には
普通に新羅のヤツラも混ざってたからな
まず基本的なことがわかってない
そして新羅は磐井にワイロも送ってる
こんな基本的な歴史すら分かってないのが
頭悪い九州厨になる >>468
卑弥呼の時代にフェリーがあったのか?
港の整備も現代並みなのか? >>459
潰してねえし。
好太王碑によれば、400年、倭に新羅の城をとられたが、404年、倭を討って大敗させた。 前スレに、プサンから対馬に行かないと書いてたのがいたけど、巨済島と統営市の間の海峡通るから、そもそもプサンに行くまで対馬なんて見えない 日本の古代史は大体新羅派と百済派の争い
初期は新羅との関係が深かった 半島への出兵を邪魔してのも
北部九州のヤツラになる
当時、ヤマト朝廷は半島の南部に権益を築こうとしてたからな
半島での利害関係が一致して、ヤマト朝廷と百済は比較的良好な関係を築いて
新羅とは敵対することになる >>473
千里の中の5百里だろ?
千里の外、方400里、300里 九州説はカルトやVankの工作員
解決済みの話を何度も蒸し返して事態を複雑に見せかけ
史学や考古学ではとっくに邪馬台国は大和国で決まってるのをまだ議論が続いてるかのように周りに印象操作
悪意ある組織の衆愚化作戦の一つ >>474
磐井が新羅の賄賂で転んだとは限らない。
新羅と結んで、ヤマト王権を倒し、自分が主になろうとしたのかもしれない。
あるいは、新羅の後ろ盾を得て、磐井の独立を維持しようとしたのかもしれない。 >>447
結論から言うと本家と元祖の違い。九州から近畿まで全てヤマト
倭人伝にある「大倭」が畿内の大倭になっていったと憶測を重ねていると、とうの昔に三世紀はすでに畿内と九州が、一つの組織的につながっている 交流あれば伝聞の記載じゃなくもっとしっかりした文献が残ってるだろうから中国由来の物品が出土するってことは関係ないってことだよね
墓穴掘りまくりんぐだぜ九州男児 >>472
卑弥呼の時代に
通信機材等積んでいるのか? >>398
公孫度の頃は三韓と倭は支配下ではなく、子の公孫康の時に支配下になったと魏志からは読める。
そして、ややこしいのは、公孫度は漢の太守だったが、公孫康は三国時代の群雄で独立勢力だった。後に曹操に降って漢の位をもらったけど。
だから、10年前後の期間とはいえ日本は吉林省あたりの独立勢力の支配下にあったことになり、これはネトウヨからしたら非常ーーーに都合が悪い。 >>485
ヤマト王権に滅ぼされたからない
畿内説をとるならば、すでに3世紀にはヤマト王権は九州から畿内までの大帝国であったのに、何にも文献記録が残っておらず、
しかも神功皇后が卑弥呼などと大間違いをしてしまう始末。 当時から畿内と九州が交易してたのがまたややこしくしてるんだよな 磐井は賄賂なんぞであんな戦争せんだろ。九州の王朝は宇佐(新羅)と一体だったんじゃないか。百済渡来系のヤマト朝廷と違う人種だろ。 >>470
女王国の構成国である奴国からなぜか三角縁神獣鏡が出土
しかも岡山と京都の三角縁神獣鏡と同じもの
知れば知るほど畿内説に傾いてしまう 邪馬台国は天皇関係ないし奈良じゃないと思うわ
九州の集落と考えるのが自然 >>444
邪馬台国の話が好きな人がここに集まって井戸端会議してるだけじゃん
吉野ヶ里が卑弥呼がいたとこー墓ーとか思ってないのばっかやん >>487
「読める」を優先するのをやめて、「書いてある」を優先すれば、解決する。
魏志をはじめ当時の書籍には、「支配下」だったとは書かれていない。
「属する」と書いてあるのみだ。
「ネトウヨには都合が悪い」と思うのは自由だが、史実には何の影響力もない。 あれ?畿内説は?
「吉野ヶ里遺跡」石棺墓発見で“邪馬台国論争”が再びヒートアップ 結局「邪馬台国」ってどこなの? [837857943]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1686462452/ 180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留Ⅰ式
倭国大乱(146年-189年)
卑弥呼(-242~248年
垂仁天皇(壬辰→西暦212年)
┣景行天皇(辛未→西暦251年)
┃┗倭姫命(トヨスキリヒメ)
┗豊鍬入姫命(ヒミコ)
貢モノよこさないクマソしばきにいったのは美濃でセックスしてた景行天皇
年代もぴったり一致
つまり卑弥呼の時代は
もう九州北部はヤマト朝廷の版図にはいってたのはほぼ間違いない >>489
て言っても、畿内からは九州の物がほとんど出てこないからな
東海、北陸、吉備の物が出土 >>492
那珂八からもあるね。
でも支配とかではないと思う 崇神天皇 BC97(崇神元年)~BC30(崇神68年)
魏志倭人伝
> 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日 彌 彌 那 利 可五萬餘戸
日本書紀 巻第七
> 二曰 耳 垂 。殘賊貧婪、屡略 人民。是居於御木木、此云開。
つまり投馬国は御木
いまの福岡県三池郡あたりと比定できる
この部分について だ け はほぼ間違いない
しかもコイツを 景 行 天 皇 が し ば い て る
つまり魏志倭人伝をどこをどう読んでも
邪馬臺国は畿内しかない
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」 >>492
全国で600枚見つかってる三角縁神獣鏡が九州で出てきても何ら不思議な話ではない >>416
それはオカルトだと発狂してるID:T3Cj65u/0
に言ったら? >>492
中国製のオリジナルと国産のコピー品の両方があり、コピー品が多いんじゃないかと思う 有力勢力に配ったもらいもんの安もんの鏡が三角縁神獣鏡になる
そして朝廷の特別な鏡が?八咫鏡になる >>420
そんな王族はとっくに滅んでるよ。
天皇家は天智からだよ。それでも十分に古くてすごい話なんだけどね >>425
神功皇后は新羅王子アメノヒボコの末裔
大和の方が新羅系なのでは? >>489
歴史あるあるだよw
A地域とB値域が、交易しまくり、人も移動しまくり、通婚しまくっている。
当時の人は、どっちがどっちを支配しているのか、など気にしていないが、
後世の人びとが、どちらがどちらを支配したか喧々諤々。 >>504
脳内ネトウヨとの戦いで発狂しているのはお前。 倭というものが北九州から開けていったけど人口が増加してくると土地が足りない。瀬戸内沿いに東に土地が続いている。
人々は東へ東へ開拓、移住を進めていったろう。西部開拓史ならぬ東部開拓史で対蝦夷戦もこの延長にある。
瀬戸内海を東へ行った先の大和地方は当時の植民地だ。未開拓地で原住民の縄文人との接触もある。
そういうところは人は好き好んでは行きたがらぬ。行ったのは抑圧された人々だ。植民地でも不遇な扱いをされていた彼らには本国への
不満が高まっていった。やがて植民地の大和連合国は本国の筑紫連合国に対し独立の狼煙をかかげて戦端を開いた。
倭国大乱とは、アメリカ独立戦争やアニメの機動戦士ガンダムであったような、植民地の独立戦争であった。
瀬戸内を中心に各地に高地性集落がつくられたところをみると戦闘は何年も断続的に続いた。絶対的な勝敗はつかなかったが、
人々は戦争に疲弊していたので大和の巫女を倭の女王とすることで休戦となった。女王なら世襲になりにくく、まして巫女であれば独身
なので筑紫方にしても了解が得られたであろう。 >>492
でも、銅鏡と一緒に貰ったという五尺刀(120センチの剣)は九州の糸島でしか見つかって無いんだよなwww
三角縁神獣鏡が貰った鏡がどうか不明だしw Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、
卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真) 古代日本は各地の豪族が祭祀で繋がってる状態だから祭祀の中身がどこでどの範囲までなのかが問題なのよな
三種の神器にしろのちの仏教にしろ大陸の最新の祭祀を受け入れる傾向が強い >>431
当時の中国からすれば高句麗は近くにいる邪魔な国だけど、倭なんて遠くのどうでもいい国だからな。 未だに韓国の東側に反日が多いよな。新羅系統の流れだろうね。 畿内説の成分の99%は史書にも記紀にもどこにも書いてない空想物語だから >>512
邪馬台国は九州から離れている地域だから
地元利害関係が薄い。 >>500
今の研究では女王国の連合というものは畿内勢力が各地を支配してたのではなく>>470の記事に書いてあるかようなもっと緩いものだったってのが通説になりつつあるよ >>513
魏があげた銅鏡は100枚
全国で見つかった三角縁神獣鏡は600枚
地下に埋まってるまだ発見されてない三角縁神獣鏡はさらに多いだろう
1000は優に超える
したがって、三角縁神獣鏡は魏が卑弥呼にあげた銅鏡ではない >>518
桃の種で邪馬台国は畿内!!とか言ってる奴等だからwww >>520
根拠無いも何も、魏志倭人伝に書いてあるんだがwww 9割の古墳が盗掘済みだというのに600枚も出土する三角縁神獣鏡w
当時の流通量は万枚ぐらいあるんじゃないか?w
また盗品が海外に流出しているケースもあるだろう >>522
逆の考えで人気があるから模造品を作った >>466
そりゃ秋篠とズルの宮は親子だからなぁ
問題は秋篠の父であって 三角縁神獣鏡は、ヤマト王権が地方の王たちに授ける下賜品だったのではないかね。
製造地は、奈良盆地のどこか。 土人が九州九州言い続けても、無理なものは無理(笑) >>486
まだ頑張ってるのか、回避海域
で、どういう理屈で回避海域()を千里に加算するんだ? >>530
帯方郡の長官劉夏(りゆうか)は,役人を遣わして難升米らを魏の都洛陽に送りとどけた。この年の12月,魏の皇帝は,卑弥呼に詔書を出して,卑弥呼を〈親魏倭王〉とし,金印紫綬を仮に授け,卑弥呼の献上した男女の生口10人,斑布2匹2丈に対する返礼の品物として銅鏡100枚,5尺刀2口などを贈ることを明らかにした。この詔書と品物は,翌240年に魏使によって卑弥呼のもとにもたらされた。 邪馬台国は北部九州
九州南部の狗奴国が、出雲・吉備・四国を支配下にした畿内と結託して攻めてきた
半島や大陸からの支援を武器に耐えたが、4世紀終わりに滅ぼされて国交を握っていた氏族らは畿内に投降した
そして邪馬台国の歴史はなかったことにされ、投降した氏族の偉業として記録された
…が、飛鳥時代になって遣隋使が魏志倭人伝を持ち帰り、畿内政権は「自分たちこそヤマト」と称して地名も大和に
古い歴史書?
壬申の乱で燃え尽きたわ
こんな感じだと予想 4世紀後半の信太山の和泉黄金塚古墳から景初三年銘画文帯四神四獣鏡が見つかっているね
この古墳からは多数の勾玉や日本最大の水晶玉も見つかっている
弥生時代の勾玉勢力と関係しているのか
5世紀の百舌鳥古市古墳群の時代考古学的に再び勾玉がブームになるんだよな >>542
4世紀後半は卑弥呼とは何の関係もないwww ❌印の石の蓋その上に神社
これ絶対危ないものを封印してたんじゃないか >>544
唐子鍵遺跡そばの鏡作神社があやしいよ。
パチモン製造工房は。 園神は大物主、韓神は少彦名と言われている
少彦名は高皇産霊の子とも神産巣日の子とも言われる
宮中で祀られていた園神韓神はこのペアのことを言うが
八神殿で祀られていた皇室に親しい神とは別の祭祀だった
宮殿を守護する坐摩神とも異なる
園神韓神は、宮内省の敷地に鎮座していたというだけなのだ
国造りのペアであるため、平安京の地主神ではないかという説もある
他に韓神と明らかに呼ばれるのは素戔嗚ととに新羅から来た五十猛
これは宇佐神宮の神官・辛島氏の祖先神である
また、五十猛は筑紫神の別名・白日別のこととも言われる
明確に五十猛が祭神として祭祀されるのは和歌山であり
そこでは木の神として崇敬を受けている >>470
そりゃ歴史学者も考古学者も畿内説が大多数になるわ
未だに80年代にアマチュア研究家がやってたような僕の考えた魏志倭人伝の解釈なんてやってる場合じゃない 卑弥呼にばかり気を取られているが
ここ日吉神社に眠っていた卑弥呼のパイセンは天照大御神かもしれないぞ
https://lunabura.exblog.jp/24248954/ 魏志倭人伝にあるような規模の国家運営に
文字がないってのは不思議だわ
だから滅んだのかもしれんが この時代の少し後には九州から畿内にかけて前方後円墳が出現するし関係も深かったのだろう
問題はこの前の段階 畿内説の特徴
「都合の悪い調査結果は報告しません」
卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
あれから2年半
何の音沙汰も無し >>370
だいたい神社文化を伝えたのは百済あたりからきた秦氏などの渡来人とされる
でも今の韓国人とは人種的に同一ではないんじゃね? >>553
日本固有の文字は無いかもしれんが
硯は佐賀で発掘されてるし、魏からの物資の目録と照合してるし、漢字は使ってたと思う。 九州の中で大分県だけ九州の中で大分県だけ方言が全然違うのはなぜだろう
それは生き残りの男王が自分たちの子孫繁栄と言語の統一化をしたからじゃないだろうか >>554
そうだね。
問題はヤマト王権という古代国家出現前夜の日本列島の様子。
公孫滅亡の報によって、邪馬台国は帯方郡に使者を送り、そのことが魏志に記録された。
この時期は、ヤマト王権の誕生前夜。
九州勢が畿内勢から独立に外交できた時代だったのか、すでに九州勢は畿内勢に属しており、使者を送ったのは畿内勢だったのか。
遺跡の調査からはマジ結論がでない。
あるいは、公孫討伐という半島情勢の変化が、日本列島の統合(ヤマト王権という古代国家の誕生)に影響を与えたのかもしれない、という視点もありうる。 >>560
AD200年くらいに、畿内から九州を支配なんて出来ないと思うwww 紀元前から銅鏡を国産化していたことを知らない人が多いね
鏡より難しい銅鐸も作ってたぐらいなんだから三角縁なんていくらでも作れる
福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。
これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。
専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。2015/05/27 邪馬台国って邪馬台国っていう国があったわけじゃなくて30の国から成る連合国を総称してそう呼んでるだけなんだよね?
その30の国に末盧國、伊都国、不弥国、奴国は含まれてるの? 畿内は三角縁神獣鏡とかいう戦争に何にも役に立たない鏡を1000枚以上作った。
まさに、ヒマ人。平和。
倭国大乱、狗奴国との戦争で滅びかけの国が作れるわけがない。
戦時に必要なのは鉄だ。 >>538
何も頑張る必要もないんだが?
方400里、300里の記述道理。
直線千里にこだわる理由がわからん。 ネタも無いのにようこんなに延々レスし続けられるわww けど一連のスレ読んでて分かったのは畿内説だけは無いと言うことだけだな >>561
城野遺跡は3世紀まで続いてたけど畿内との交流の痕跡は一切なし >>561
当時、伊都国(糸島)を支配できたことを証明できるか否かが、畿内説のカギ。
まだ、どっちともいえない。 >>521
前方後円墳体制では説明できなくなってきたから緩いネットワークってことにして畿内の支配下を主張するのか
縄文時代からあった交易の緩いネットワークはどこが支配してたんだろうな スクナヒコナは平安時代9世紀中頃に茨城に戻ってきたという伝承がある
スクナヒコナはミソサザイの服を着ていたとあるが岩と岩の隙間に住むのがミソサザイだな
薬と酒の神さまでもある
大神神社の狭井の神と性質が同じだな
奈良時代に書かれた常陸国風土記にはサカ鳥が山野や里に住んでいるとある
サカと言えばとんがり帽子のサカを思い出すが千葉からはとんがり帽子を被った埴輪が見つかっている
鶏冠のことを昔はサカと言っていた
東の枕詞は鶏が鳴く
サカ鳥のは、朝越えにかかる枕詞
奈良時代の藤原氏に関係する話で酒がどうのこうのというエピソードがある
和泉地方に残る仲良し3人組の民話に出てくる、薬を使う高橋の医者と関係しているかもな(残りは寅吉の軽業師、高間寺の山伏)
蛸薬師とかも同じだろう
平安時代に東国に行ったのは平氏だな >>563
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。 >>565
その回避海域は、対馬の東西南北に広がるのか? >>566
この調子で二百年くらい議論してきたのだからもう百年くらいはできそう
でももしかするとAIさんが決着つける日が来るかも >>573
どう読んだら、かなさきな国になるんだかw >>569
緩いネットワークを主張している人は、畿内説ではないよ。 >>573
>つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
これおかしいだろ
他の国の字と合わせるならカナスナ国になるはず
金砂といえば砂鉄を連想させる名前だけれども当時に砂鉄とるような知見があったのだろうか? >>568
当時、日本には牛も馬もいなかったと魏志倭人伝にある
九州北部から畿内なんて4〜5カ月下手すると半年くらい
かかりそう >>566
邪馬台国は畿内、卑弥呼は北部九州イチキシマヒメ
完璧に考察済み 纒向遺跡は4世紀で終了しています
あとは空き地だったのでしょう
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
~ 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の ~
建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
~ 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
埋め戻しました。 華奴蘇奴国も
南九州は大隅付近の鹿屋曽於と比定済み
171 日本@名無史さん sage 2023/05/29(月) 22:58:26.70
阿蘇山は大鯰神話があるから
まあ九州は東鯷人トウテイジンは確実あるね
ついで言うと傍国の
對蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国は南九州確定
南九州は、句呉のあった中華の蘇州と緯度が一致
>會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。
南九州からなら時計周りで渡海して大陸にお買い物も可能 平和でヒマ人な畿内の人々は箸墓とかいう巨大墓を作った。
ピラミッドよりなげー墓。
曹操の墓よりでかい。
どう考えても、狗奴国に滅びかけの国が作れる墓ではない。 >>588
魏晋時代の発音はダイですね
もう少し古い時代だとダっていう >>582
遠いよね。
畿内が急ぎ帯方に使者を送るにも、
公孫滅亡の報が届くのに半年、対策を練る会議に半年、
責任者を決めて奴隷と貢物をかき集め輸送手段を確保するのに半年、浪花津から使者船を出発させて伊都国に到着するのに2か月。
とても239年の朝貢には間に合わない。
238年とする資料もあるが、もっと間に合わない。 つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
鳥栖
佐賀
小城
神崎
↑
全部、佐賀の地名
今話題の吉野ヶ里は神崎郡にある >>595
だから卑弥呼が共立で九州。
遠方の邪馬台国なんてナンセンス >>582
それは魏の役人が見た範囲での話かもしれないぞ 傍国の呼邑国も
子湯県(景行天皇の九州遠征時の地名) → 現在の児湯
で確定比定済み
これまた南九州にあった国 畿内から北部九州を支配していたなら、文字は絶対にあっただろうし、それなりの指揮命令系統があったはず、口伝だけで支配できるわけないから。
大陸にはこの時代の何百年前からあったのだから、文字と行政組織は伝わっていたと思うけど痕跡が出てこないね。 >>585
両脇に広がるのと片方に広がるのとでは計算が変わるだろ
テキトーだなw 呼 = 子 = 児
つまり↓こうなる
508 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで 2023/06/10(土) 17:01:06.41 ID:GffnYC/a0
韓伝には、卑彌国
翰苑には、卑彌娥惑翻叶群情
どちらも「卑彌」
卑弥呼は 卑弥 + 呼 とわかる
卑弥呼=卑弥+呼=日女の子(児)=アマテラスの子 >>600
残念ながら「耶馬溪」は超最近つけられたw >>602
昔からよく続くスレ
理系スレならブラックホール、相対性理論
文系すれなら邪馬台国論争 >>604
倭人伝に記述がある以上、無視はできない。
加算するだけだよ >>609
ブラックホールが穴だと思ってる馬鹿がいて驚いた思ひ出 >>606
大日本帝国時代じゃ無いんだから
もう皇国史観はいいよwww 平和でヒマな畿内の人々は、三角縁神獣鏡とかいう鏡を数千枚も作っていた。
それが日本全国に行き渡った。
一方、邪馬台国の使者は奴隷10人しか魏皇帝に献上できないビンボー。
どう考えても、畿内巻向政権と九州邪馬台国は同一の政権ではない。 好古都国は 阿波 と確定比定済み
オオゲツヒメの国 阿波
702 日本@名無史さん sage 2023/06/02(金) 19:48:24.90
讃岐→ 都支国 (さお)つき国
阿波→ 好古都国 おおげつ国
阿波と讃岐は「月」関係の国ってわかるよね
やはり、ツクヨミと何か関係あるんかなー?
いや、月へんじゃなくて「にくづき」って意味かw
●学研キッズネット
「つきへん」と「にくづき」はどうちがうの?
崩・ などの器の「月」の部分は、「つきへん」 です。 腕・胸・鶏などの「背」. ちょう、、、 現在日本では歴史修正主義者がそうでない人 リンチ•嫌がらせするのが常態化しています
私はかつて大日本帝国だった国の国民として日本の軍国化を止めたいです
分断を煽るナチスの手法を止めたいです
でも、止めようとすると、自民党構成員新宿警察カツマタにボコボコに恫喝されるんです
中国への憎悪を煽る報道は自然ではないのに
でも、以前私は吉本興業の犯罪を告発していたら新宿警察に恫喝され精神病院にぶち込まれました
日本に言論の自由なんてありません
軍国化を止めたい…ナチス化を止めたいのに…環境破壊と原発も止めたいのに…
吉本興業の盗撮犯罪を隠蔽し被害者を恫喝、精神病院にぶちこみ、さらにメディアを使ってリンチした自民党構成員新宿警察
弁護士を雇えない状況まで追い込んだ新宿警察
この国ではアメリカ韓国スパイとシンパの人権侵害は許容される
俺は中国を頼る
アメリカ韓国より、中国の方が人権意識がある国だ
俺は統一協会ひいては国情院韓国政府の日本政府への内政干渉を認めない
与党は常にアメリカ韓国との連帯をアピールし国民への恫喝に使った
俺はアメリカ韓国に脅されている
アメリカは国情院による日本国民への民族浄化の最大の協力者だ
俺は新宿警察にメディアを使って殺されている
外国にバレても説明も会見もない態度は、警視庁は俺に殺意があるのではという認識だ
俺は警視庁の佇まいに脅迫されている
正当防衛のため抵抗権を行使し特殊詐欺グループ恫喝犯新宿警察爆破して滅多刺しにして皆殺しにする
完膚なきまでに爆破して皆殺しにする
今から新宿警察が被害届を出せば俺は逮捕されるし(そしたら俺は今度こそ裁判でありのままを話す)、事実を認めて新宿警察が会見すれば俺の名誉は回復される
言えるのは俺が爆破予告をしなければお前らはなにもしていなかったってこと
日本の警察の存在意義なんて0
新宿警察は半グレの言いなり
新宿警察は芸能事務所とズブズブみたいだから説明なんて多分できないんでしょうね
カツマタさんの恫喝は今思い出しても中立性に欠けてました
この書き込みを見てる人は絶対に新宿警察に被害を相談しないように
メディアを使ってリンチされた挙句精神病院にぶち込まれますから >>596
確定しましたね、おめでとう
やはり人口が少ない3世紀当時の国とは現代の村や町の感覚で考えれば納得できる 日本語にまだ文字のなかった時代の日本について
せっかく文字で書いてくれた史料があるんだから、
史料に書かれた七万戸規模の邪馬台国跡を
土地として探せばいいのに。
なんで鏡とか金印とか小物探しに夢中なんだろうな。
で、その物に過ぎない小物を「動かぬ証拠!」とか言い張るのな。
いや鏡も金印も片手で動かせますがな。
その片手で動かせる小物を「動かぬ証拠!」とか言ってるガイジの集まりだから、ゴッドハンドが神のように崇められてたわけで。 最近私カップルを装ったストーカーに組織的に付きまとわれてます
おそらくカルトです
はい新宿警察は"また"私を病気とみなすでしょう
さて、警察に相談したとしましょう
相手にしないはずです
我々家族はまるせいだと思われています
新宿警察は真相を知って"あえて"仕立て上げてます
ではどうすればいいでしょう?前の犯罪のケリもついてない段階で
とりあえず被害届受け取らないのは百%わかってるんで、被害届代わりに爆破予告しますね
吉本興業の盗撮犯罪を隠蔽して被害者を恫喝した新宿警察海の日0時に爆破して皆殺しにします
これ正当防衛であり抵抗権の行使です
日本の軍国化ナチス化を止めたいです
新宿警察は犯罪集団です
あと統一協会ひいては国情院による盗撮盗聴犯罪が暴かれないのであれば、kpopも日本のクリエイターのコンテンツを盗撮盗聴によりパクって産み出されたものである可能性もありますよね
kpopは日本人からのパクリで成り立ってる可能性があると
盗撮盗聴犯罪を認めないということはそういうことです
我々家族はマルセイ扱いされてるので我々の通報では動きません
同類相憐れむ
あなた方と警視庁は"トントン“だと思うのであなた方の通報だと動くと思うので >>582
かかるだろうね。
中国は馬も牛もいたのに、難升米は帯方郡から洛陽まで半年かかってる。 >>613
本格的な講座で、
「ブラックホールを抜けるとホワイトホールがあると思うのですが、それについて教えてください」
と質問してたジジイが居て腹壊したw >>597
北九州と畿内を結ぶ情報通信網を構築してないと、畿内説はないよね。
伊都国に届いた報告書を、津から津へと伝送していく通信網とか。
逆に、畿内にいるオオキミの指令書を、津から津へと伝送していき、伊都国が受け取る通信網。
文字がないから、あり得ない想定だが。
そうとうな古代国家が完成していないと無理だ。
となると、畿内に邪馬台国の都があるための条件は、
・畿内に、情報通信網を構築できるような古代国家がすでに誕生していた。
・魏への使者派遣は、偶然のクリーンヒットだった。
(たとえば、数年がかりで準備し実行した帯方への使者派遣を実行したところ、たまたま帯方郡が魏の直轄領となった時期と重なり、魏の都で皇帝に謁見することができた) >>601
金印もらってるわけだからな
印に刻まれてるのは文字だ
文書に押すやつというのもわかってたにきまってる
貢物の目録とか使者に教えられて作ったかもしれない >>611
どうルートに影響するか全くわからんけど、なんとなく足したのかwww >>622
距離があれだけ盛ってあるのに戸数は何故か正しいとするのも難しい 畿内説 終わったな
まぁ死ぬまで粘れそうではあるけど >>582
隋書だと東西5か月行だって書かれてるな
どっからどこまでだろうな 邪馬台国は畿内、卑弥呼は北部九州
畿内説とか九州説とか、そもそも考えが古い >>622
中国の三国時代後の人口が1600万人
うち、主要な都市の戸数を挙げる
・洛陽11万戸(魏の首都)
・長安4万戸
・成都5万戸(蜀の首都)
・建業5万戸(呉の首都)
邪馬台国時代の日本の人口→180万人
したがって、日本の人口は中国の約10分の1であるから、邪馬台国7万戸というのは絶対にあり得ない。
※中国の戸数と人口の産出方法は戸籍を元にしている。が、日本には戸籍どころか文字もなかった。したがって、7万戸は倭人からの伝聞か、陳寿が何らかの意図を持って、数字を盛っただけである。 >>495
万世一系なんてオカルト唱えてるやつが史実とか笑えますよね >>628
邪馬台国は近畿だよ。
なんら支配したり中心国でもない
女王の都とする所は、霊場とか修験地だろうな。
古墳工事やキャンプも納得。 大和や飛鳥とかでたらめな文字を使って呪われないようにしてた時点で中国と行き来してた証拠にはなるね >>580
数か無茶苦茶少ない九州説の学者が言って通説になるわけないだろ >>634
南至る邪馬台国 女王の都とする所
と書いてある
だからその説を成り立たせる場合は、卑弥呼時代は九州、臺与時代は畿内、で攻めるべき >>362
それならドイツ中心に書くんじゃないの? >>419
道も整備されて馬も使い航海術も進化した1400年後でもその程度、西暦200年頃に近畿から九州北部を支配したなんて、とても考えられない >>631
「史料は間違いだと俺は知っている!」
ガイジの考えですね。 >>640
畿内説でない人のすべてが九州説ってことはないよ。
学者の多くは、わからん派。
二派にわかれて戦っているわけではない。 邪馬台国が畿内で、卑弥呼が九州なら箸墓は誰の墓なのw既に畿内説は破綻してんのに更に傷広げて何がしたいの!? >>615
天皇は紙の子じゃないって言った時に万世一系も嘘って言えばよかったのよ >>636
万世一系思想と古代史研究を結びつけるやっかいな人とは関わりたくない。 >>640
前方後円墳によるゆるいネットワークの話をしてたのは松木という畿内説の考古学者だよ >>633
隋書の東西5ヶ月は「九州のサイズ」だと言われてるな 『魏志』韓伝
桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強く盛んになり、郡や県は制御することができず、住民が韓国に流入することが多かった。
(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して、遺っている民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
まあ、畿内に逃げるしか無いわな >>635
それしか戸数なかったのに魏は臣下に万単位の戸数を与えてたの? >>643
しかも、鉄の量も九州が圧倒している
どう考えても、平和でヒマで鏡やデカい墓ばっかり作ってる畿内が九州を支配できたわけがない。 1つのクニは1万から2万戸が限度でそれ以上は複数国の連合体
邪馬台が畿内数国で計7万戸はわかる
しかし投馬5万戸は… >>649
卑弥呼が神功皇后だなんて言ってるオカルト野郎ばかりじゃない >>641
行っていないから
簡素な紹介で終わっただけだよ。 >>644
中国の学者も距離は信じてはいけないとコメントしてるけどね 卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>645
万世一系のオカルト野郎は帰って貰えますか? >>656
当然、支配などしていないし
邪馬台国が圧倒的に鉄が多い記述もない
逆に遠方だから遅れ気味と思う 欠史八代の出来事は国作り神話として切り取られたんじゃないか
始まりは兵主神社に祀られている伊和大神の国作り、尾張までで終わったようだ
五色の玉をを持つ石神さまだな
ルーツはサヌキの五色台かもな
漢風諡号の神武は兵主と意味が通じる
狭野、磐余 >>662
そのロジックだと、当時の朝鮮半島南部は、ワイ人たちの経済共同体ともみなされ、韓人たちの経済共同体ともみなすことができる。 >>556
これ科研費使った分はその年の7月には一旦完了報告書が出てるみたいなんだよな
箸墓でも計測データ得られたって書いてあるけど測定方法の写真だけで肝心の内部データはこれには載ってないね そりゃね、畿内説論者からしたら震えて眠る毎日だけにイライラ感しかないわな >>635
7万戸が実数との誤差があったとしても、
数の比として3世紀の日本の中で最大人口の地点が確定しますよね。
そこを探せばいいだけですよ。 >>607
耶馬溪は江戸時代につけられた名前。
しかしそもそも山国(やまくに)と呼ばれていた場所で、頼山陽がそれに「耶馬」とあてた
耶馬溪を流れる山国川は、英彦山(ひこさん)から中津(なかつ)市へと注ぐ川で
英彦山はもとは「日子山」と書いた。そこにある街が日田
宮崎を「日向」と名付けたのは、景行天皇が九州へ行った時と古事記に書いてある。
では本当の日向はどこか。
九州で、「日向」とつく地名の一覧
https://i.imgur.com/jCJpZkL.jpg
宮崎県には、延岡と日向市の2ヶ所しかない。ほとんどが九州北部に集中している。
日向は古くは「ヒムカ」と読んでいた。これを卑弥呼と関連づける人もいる。
「日向」とはその名の通り、日に向かった所。これらの中心に「日」があると考えると、
それらを線で結ぶと大分県の日田や天瀬(あまがせ)あたりが浮かび上がる。
https://i.imgur.com/lRfmOCe.gif
また中津の隣の宇佐にある、宇佐神宮は神道のルーツとも言われ、卑弥呼の墓説まであるところ。
道鏡事件のときも、天皇家の大事をアマテラスのいる伊勢神宮ではなく、この宇佐神宮にお伺いをたてている。
そして中津だが、天孫が降臨した豊葦原(とよあしはら)の中ツ国(なかつくに)こそ、
この豊前の中津ではないかという説もある。 >>663
まじか㌧
じゃあこりゃいよいよ九州説確定っすね >>665
万世一系など信じてないが。
俺は万世一系思想に基づいて古代史を「解釈」しまくるネトウヨに分類されてしまったようだね。
原因は、IDを変えるまえのUl39nMYc0 のレトリックのまずさを指摘してしまったから。 >>667
東海、吉備の連中を集めて巻向作らせたのに? >>673
伊勢神宮は藤原家が作ったから明治になるまで皇族は行かなかったよね ヤマト国は二つあって1700年前からお互いの正当性を主張して現在に至る >>677
>東海、吉備の連中を集めて巻向作らせたのに?
東海、吉備が巻向に奴隷を連れてきて作らせた >>673
日向は糸島(伊都國?)と奴国の間に日向峠(ひなた)と読むが漢字では「日向」が有る >>654
なるほど、鉄器も投げ出して逃げたんですね(笑)>>662 >>136
それじゃあ九州説一択になる。
近畿説に物証は無いんだから。 倭迹迹日百襲姫命は大和のすごい力のある巫女だったに違いない
何も魏に泣きついたひみこちゃんにしなくてもよくね?
桜井市はモモひめちゃんとして盛り上げてやれよと思うわ 四代目は懿徳でうるわしい立派な徳という意味かな
宮は軽の宮だな
徳がつくのは仁徳、聖徳、孝徳、
記紀で仁徳天皇の時代に枯野伝説がある 楠が切られ軽船が作られる話
叡福寺の七不思議によると、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
孝徳天皇は諱が軽だな
スサノオの眉の毛から生えてきたのが楠
摩湯丘陵にある池上曽根遺跡と関係があるかもな
寅吉の軽業師 ゴッドハンドと呼ばれた私が発掘調査に協力しましょう >>641
それも有り得るな
いずれにせよ邪馬台国と投馬国は
だいぶあとで得た情報は間違いない
倭人伝の情報は数十年の開き、年代差がある >>677
逆だよ
三重、奈良 丹だろう。
東海、吉備、丹後、越等は集まるよ。
四国もそうだよ。 >>684
卑弥呼は魏皇帝に泣きついて「今、狗奴国と互いに攻撃し合ってます。助けてー」だからな 神戸から淡路島はおよそ60km、淡路島の外周はおよそ150km、
淡路島から徳島はおよそ70kmです。
さて神戸から淡路島を経て徳島までは何kmでしょう。
答)60+150+70=280km >>686
三角縁神獣鏡の製造工場を見つけてほしいです。 三代目安寧
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
伊勢遺跡は夜に水の祭祀をしていたらしい
三代目から伊勢遺跡を使い始めたのかもな
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
青谷上寺地遺跡の人骨から復元した人物のそっくりさんに柏原市の人が選ばれたと去年辺りにニュースになっていたな
『和名類聚抄』には「河内国大県郡鳥取郷」とあり、古代の 寺院・集落跡があって「鳥取千軒」とも呼ばれてきた、柏原市青谷(あおたに)の周辺であろうといわれている
鳥取と青谷、柏原と青谷上寺地遺跡は何か関係がある可能性がある
青谷上寺地遺跡の人骨の遺伝子を調べた結果、4点のうち2点はハプログループC1a1 (Y染色体)だった 畿内説だと邪馬台国を魏に救援要請するほど追い詰めた「狗奴国」は何処になるの? だから 最初の邪馬台国の拠点が佐賀でその後出雲を制圧して行って奈良に最終的に作ったんでしょ
だから 2カ所あるんじゃないの >>689
東海地方の人々は巻向政権のパシリ
巻向を作らされた
支配していなければ、わざわざ巻向まで箸墓とかいう巨大古墳を作りに行く必要はない >>672
比は正しいとする根拠もないんだよなあ…… >>687
そう、卑弥呼時代は単に女王国だった
臺与時代は邪馬台国と名乗った
これは俺が日本史板で否定された説 >>673
日田のダンワラ古墳からは金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が見つかっている
https://i.imgur.com/8PcOpbj.jpg
残念ながら古墳は鉄道工事で破壊され、出土状況もわからない
この鉄鏡は漢代のものと考えられている
日本で金銀を象眼した鉄鏡はこれだけ
『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、
2019年には中国の研究者が、曹操の陵墓から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、
日本の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式の可能性が高いと発表している >>694
羽田空港の下だから、ほぼ永遠に発掘できなくて見つからないのよ C1a2(C-V20/V184) ヨーロッパ、アルジェリア、アルメニア人、ネパールにわずかに見られる。ヨーロッパ最古層、クロマニョン人の型。
C1a2a1 (C-V222) 英国(エセックス、スコットランド、北アイルランド)、イタリア(カラブリア州クロトーネ県)、ギリシャ、ハンガリー、ウクライナ(リヴィウ州)
C1a2a2 (C-Y11325/Z29329) スペイン(バレンシア州カステリョン県)、ポーランド(ポトカルパチェ県) >>701
邪馬台国が畿内なら、畿内から九州北部を支配出来た大国なんだよな?それを追い詰める大国が何処に有ったの?www あれっ?!何であぼーんになるのwwww
訳わかんねー 別に畿内説が終わってもいいだろ
畿内にあった証拠が無いんだから諦めろ 畿内説によれば、狗奴国と戦争中に箸墓とかいうピラミッドより長い墓を作らせたという。
一方で、魏帝に献上した奴隷はたった10人。
鉄もろくに輸入せず、作らず。
畿内説をとると、金の使い方がおかしい 宮崎あたりは早い段階でヤマト王権と繋がりがあったのは瀬戸内海沿岸の文化圏だからだろうな
諸県君と応神の関係といい縁が深い >>706
そうだよな。支配できるなら
狗奴国ぐらい一捻りと思うが?
わざわざ魏を頼るのか?
と思う近畿説 >>706
熊襲だと思う。
ただ、俺は畿内説ではないので、想像でものを言っている。 吾 作 明 竟 幽 凍 三 商 彫 刻 無 極 □
大 吉 羊 宜 侯 王 家 富 昌
師 百 □ 楽 衆 神 見 容 命 長 >>693
安寧という漢風諡号は平安時代に淡海三船がつけたものだと言われています。
また柏原市大県の「鳥取」はおそらく鳥取県の由来ともなった「鳥取部」
(愛玩用の水鳥を捕まえる部)のあった所であろうと推測されます。
もっともご指摘の柏原市の青谷や大県には金山彦金山媛神社や製鉄所史跡もあり
古代では金属加工を行う一族がいた集落であるのかもしれません >>714
2023年時点では、巻向遺跡はやっぱり4世紀半ばから5世紀何じゃね?という意見に傾いてる。 邪馬台国は静岡県の富士山の近くにあったんだよ
知られてないけど日本最大の古墳があるんだよ >>692
ソレは奈良だろうな、アレは葬式に使う供物だから…遺された人の身代り…埴輪の…殉死の身代りだと思うんだ
だから未完成の三角縁神獣鏡が納められていた…鏡を納める意味が形骸化していた
量からしてお供え物として売ってたんじゃないかな…何代も踏み返ししたのも見つかってるし
中国には神獣鏡は有るが、三角縁神獣鏡は見つからないそうだ、 >>580
そもそもこの仮説は奈良に邪馬台国らしき遺跡と全国各地の遺跡を検証して導き出されたものだから
九州で邪馬台国らしき遺跡をまだ見つけられていない九州説の学者にはできない >>714
邪馬台国は近畿
卑弥呼は規模から吉野ヶ里って
所。邪馬台国は中心国ではないし
なんら支配する力などないよ。 >>726
きのこたけのこ戦争に匹敵する戦いが…… 卑弥弓呼は三輪山大神神社の神さまである狭井の神さまだろうな
薬と井戸と酒の神さま
河内の狭山池の辺りにいたんじゃないか
大田田根子の陶邑の隣が狭山池
池干しした時に見えるが、池中の祠の前には龍神淵と呼ばれる直径27m、深さ5mのすり鉢状の大きな窪みがあり、そこにご神体が祀られている
すり鉢状の窪みは埼玉の狭山にある七曲井の井戸とそっくり
武蔵野台地など水脈が深い地域の井戸の形
池の底にあるということは池が作られる前に井戸があったのかもな
狭山池は崇神或いは垂仁天皇の時代に作られたと記紀にある
池の真ん中、池心に宮があったのは五代目の孝昭天皇
昭は日を招くという意味の漢字
孝が招いた日
宮は掖上池心宮
掖は宮殿のわきにある小門の意味 、心は真ん中
竜宮のわきに宮があったのかな
東国と関係が深い人物だろう >>727
東海地方の連中を集めて巻向、箸墓を作った連中が支配してないというのは苦しい。
しかも、狗奴国との戦争中に2年に1回中国に援軍を求めに行ってる。
畿内説をとるなら、金の使い方がおかしい。 >>695
紀州熊野
この地は神武東征でも神武軍が苦戦してる
古代この地にそこそこの勢力があったと思われる >>722
熊本。
狗奴国の菊池彦が景初2年(238年)には王だった。
正始8年(247年)には、卑弥弓呼が王となっている。 >>728
ヤマト王権は、熊襲に手を焼いているな。
景行天皇は、ヤマト王権に朝貢しない熊襲の討伐に向かう
仲哀天皇は、熊襲討伐の戦で戦士
どっちも日本書紀。
畿内説ならば、狗奴国を熊襲に比定するのではないかなと思う根拠。 三国志魏志倭人伝で奈良は無いわ…何をどう読んでも奈良にはならない >>719
何で嘘ばかりつくの?
2023年時点で箸墓は3世紀中盤で確定だが、、 >>736
畿内から九州北部を支配してる国と和歌山県の半分くらいの狗奴国が良い勝負??そんで、魏に助けてー??
頭大丈夫?? 魏志倭人伝に登場する国名は当て字だが読みが現在まで残っている場所が当時の国である確率が高い >>736
和歌山県ごときに滅ぼされかけた九州〜中国地方〜四国〜畿内に至る大帝国・畿内邪馬台国(笑) 孝安、安は嫁と関係が深い漢字
卑弥呼の次の男王の皇后は孝の娘だったんじゃないか
孝霊、霊は巫女を意味する漢字
孝の巫女、台与だろう
トヨウケは摂津の飯盛山にいたと摂津国風土記にある
孝元天皇
元は頭という意味の漢字だな
孝の頭が姿を現したという意味か
『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮 >>740
すでに支配してた熊襲が反乱したからって天皇が自ら九州へ出陣はおかしい。仲哀天皇はそこで戦死までしてる
このときが征服戦争。それまで九州をヤマトは支配できてない 邪馬台国は狗奴国に滅ぼされかけてはいないんだよな。 意富彦、つまり、安倍家の頭領が、安曇族の王、倭王と考えられているウヨ。 >>746
じゃあ大和だね
卑弥呼が魏に字を教えなかったから魏はこんな字かなあってこれを書いた邪馬台国
んで後に大和と知ってぶったまげた >>749
出雲にせよ、熊襲にせよ、蝦夷にせよ、一度の戦で完全支配しておしまいってことにならず、
何度も戦をしている。日本書紀によればね。 >>722
紀州熊野
熊野信仰は、日本の漁業と深いつながりがあるんだが、
東北まで広がる熊野信仰は、紀州熊野から漁師たちが広げていった伝説がある。 >>750
卑弥呼のあと台代がついだが、それから日本からの使者はなし
次に出てくるのは150年後
せっかく大陸とツテができたのに
これは邪馬台国は滅んだと考えるのが自然 >>750
滅ぼされかけと見て良い。
2年に1回、合計5回の朝貢。
中華皇帝の錦の御旗を2回ももらう。 >>714
アレは王家の谷だよ、あんなに密集して甕棺か納められた上に都を造ったりしないよ
しかも甕棺≒VIPの墓だから、、デカイ壺を焼くだけでも大変なんだから、庶民には縁のない話だよ
だから、吉野ヶ里遺跡はVIPの墓所…古墳のご先祖さんかもね
京都の清水寺…谷は遺体を捨ててた場所で供養の為に作られた寺が清水寺だそうな
昔の平民なんて山に捨てるか、川に捨てられてたんだよ、時代を遡れば更に扱いはひどかったはずだから甕棺なはずが無い >>749
好戦的な人だったんじゃね?
劉邦も皇帝になった後も「高祖親制ス」が多いよ 日本書紀が絶対に正しいってこともないけどね。
そう書いてあるってだけ。 倭国大乱前は大和国風土記にある、石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻であるという記述のままじゃないか
婚姻で全国の首長を結び付け国作りを進めたのかもな
伊勢遺跡はその舞台かもしれないね 倭国大乱や狗奴国との争いの形跡がなくて出土物や遺構は邪馬台国に類似してなくて一体なにが近畿説の根拠なんだ >>734
東海地方の連中を集めて巻向がおかしな事
復興地同士だし物資流通の安定化が先だな。
ぜんぜん、楽過ぎってな。 >>743
ところで、箸墓古墳の築造年代については、2009年に奇妙な事件というか、騒動がおきている。
箸墓(はしはか)は卑弥呼(ひみこ)の墓である---。こんな説が新聞やテレビのニュースで大々的に報道され、週刊誌もとりあげ、大騒動となった。
いったいなぜ、こんな大騒動が起きたのだろうか。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の研究グループが、「炭素14年代測定法」という「科学的な方法」を用いて、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、ほぼ邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼が死んだとされる西暦240~260年ごろに築造されたことが推定できた、と発表した。
ところが、このような「推定」が科学的には成立しえないとするデータや根拠が、他の研究機関や研究者から、同じく炭素14年代測定法を用いるなどして、すでにいくつも報告されていたのである。
マスコミへの事前リークにより、『朝日新聞』をはじめとするマスメディアでの華やかな大宣伝(5月29日)のすぐあと、2009年5月31日(日)、早稲田大学で、開かれた日本考古学協会の研究発表会で、歴博の研究グループは、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた[発表者は春成秀爾(ひでじ)氏を中心とするメンバーである]。ただ、この発表は、日本考古学協会の審査員による事前審査を受けたのちの発表というものではなく、日本考古学協会の会員であれば、だれでも発表できる質疑応答をふくめて25分という短いものであった。質疑の時間は、もめにもめた。マスコミへの事前リークという姿勢そのものへの違和感も大きかったようにみえた。
発表会の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行ったことを、『毎日新聞』が報じている。
「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新聞』6月8日付夕刊) >>756
そう?
使者の数は朝貢するならふつうだと思う。
軍旗は下賜されるのは、重大だと思うけども、滅ぼされかけた根拠とは思わない。 魏志倭人伝通りだとこの頃から中国の属国でしたーとなるからな
奈良起源の方がいい 狗奴国熊野説は悪手
畿内説が主張したことが無に帰す
纏向がまるで無防備なんだから 魏志倭人伝には狗奴国は女王国の南にあると書いて
邪馬台国の南にあるとは書いていないから
女王国は西は九州まで横に伸びている広域連合を想定している畿内説では狗奴国
は和歌山でなくても別にいいんだよな
さらに畿内説は方角の誤りがあるとしているから東にあっても >>767
ウクライナと同じだろ
どこも支援しなかったらどうなるよ 箸墓の炭素14年代測定法は大嘘だってバレてますよwww >>768
邪馬台国をスキップすると、倭の五王(雄略含む)から属国でしたってことに変化するが、
たいした差ではないと思うなあ。 >>767
245年に錦の御旗を中国はあげるも、狗奴国には全く歯が立たず、247年についに張政を派遣。
滅びかけていたと見て良い。 倭国大乱で攻め合い、卑弥呼没後に仲間割れし
これでは張政の帰国後にも台与の権威ががた落ちして内部分裂してても不思議はないよな
日本書紀に書かれてる土蜘蛛の仲間割れ見るとアレがまんま邪馬台国連合の最期の姿でしょ 卑弥呼死す→男王が継ぐが内乱になる→13歳の宗女・台与をたてておさまる
こんな不安定な国が13の少女でおさまるわけがない
いったん休戦しただけでまた内乱になったろう >>743
箸墓古墳じゃなくて箸墓古墳の周濠から出土した土器の年代だが? >>761
名前だけ
考古学的に語れば九州一本なんだが九州説派でさえ畿内派の妄言元に語るからおかしくなる
このスレにはアマチュア考古学ファンすらいねーからな >>769
九州支配する前に全力で熊野を平定するわなwww
こんな簡単な矛盾点にも答えられない畿内説www サルタヒコは五十鈴川の川上に消えたという
石津川の川上にあるのが陶邑で水源は狭山池の辺り
孝昭天皇のモデルであろう卑弥弓呼は、また、サルタヒコのモデルかもな
サルタヒコが立ったのは興玉神石
興玉神石は孝と関係があるかもね >>774
朝貢をこまめに実行したことをもって、
・狗奴国に滅ぼされかけて、何度も助けを求めた
・定期的な使者派遣の余裕があったわけで、国力は維持していた
どっちで考えるかの差だね。 >>770
方角に誤りはない近畿説
行っていないから簡素な紹介で終わただけだな
卑弥呼が共立で九州で済むのでね。 鑑と太刀が出てきたら揉めそうだな
邪馬台国九州説が有力になりそう 和歌山を馬鹿にしちゃいかん
徳川も江戸に向けて軍勢を進軍できる街道筋でもない
こんな辺鄙な地に御三家の家のひとつを配置してるしな
抑えなきゃいけない何かがあるんだろう? 流石にも箸馬鹿の嘘がバレて迄畿内説を唱え続けるのは無理が在ると思う。
素直に読めばやはり邪馬台国は九州以外に無いって事でだよ。 >>777
溝に捨てられたのが年代物の土器という可能性はないの? >>773
倭の五王はおれを朝鮮の王としても認めろと要求してる
邪馬台国は朝貢だけじゃなく、魏皇帝の配下を示す旗までもらって積極的に媚びてる >>775
邪馬台国連合などない。
卑弥呼連合、なので女王国ですね 箸墓古墳の埴輪って円筒の台で岡山で見られる接地面が横に広がっている古い型のものだってな 熊野は逃げ込んで籠もるには絶好だが、そこから畿内を攻めるほどの国力があるか
そんなところとの戦いで西日本を支配する大国が外国に援助を要請するか >>310
吉野ヶ里や三内丸山は本当にあったから問題ない。
畿内説は捏造の塊 >>781
奴隷10人しか献上しないで、箸墓とかいうデカい墓を作り、鉄は作らず鏡ばっかり作ってる畿内説 >>778
専門家のひとが近畿説なのは利権なんかね
箸墓の築造年を卑弥呼の没年近づけるとか無駄な努力をやってるように見えるわ >>792
そもそも、熊野でどうやって武器である鉄を作ってor鉄を輸入してたのか?意味不明www >>788
ローカルな争いに関し、中原皇帝の威信を借りる点で全く同じだね
雄略、宋皇帝の威信を借りて、日本列島諸国および朝鮮半島諸国の支配権を確定させたい
卑弥呼、魏や晋から狗奴国討伐のお墨付きを与えてほしい >>779
邪馬台国が狗奴国を平定した/平定された
とは誰も言ってない。
妄想をションベンみたいに垂れ流すなよ。 >>796
畿内説のやつを見つけて、叩きたいわけでしょう?
俺は畿内説ではないよ。 >>310
自治体は工業団地を誘致したくて仕方無いんだけどね。
実際吉野ヶ里の公園の建設には相当消極的だったと聞く。
今でこそ日本屈指の歴史公園だけどさ。 中国が元々邪馬台国は中国の属国ってことで
いずれ日本に侵攻してきそう
なので邪馬台国は九州ってことにして
日本本土を守ると 畿内説だろうが狗奴国は南部九州の菊池彦とした方が良い
あの辺は時代が下ってもずっと苦労した相手だ
九州説の方が有利になっちゃうがそこはどうにかしろ 朝鮮人が福岡に上陸したら
日本では、ほぼ原始人の縄文人と弥生人が日々マンモスを追いかけて
一喜一憂しているのを見て
これは私達が文明を授けてあげなくてはならないと日本列島に建国した
そういう話 筑紫平野に大きな湾がありそれが有明海の延長と考えるとかなり遠浅の干潟になる
水路を知るのは地元民だけという状況だろうね
その水路を駆使して吉野ケ里等の沿岸の山裾へアクセスし作物を徴収する
この産物の集約が可能な地域が邪馬台国の重要拠点となりこれらは威信財と引き換えに奴国側へ運ばれる
筑紫平野が発展するにはこのシステム構築が不可欠で、女王は各拠点に設置された
八女や御井はそのような場所だろう >>802
俺も言って無いよ
ただ、熊野に敵対勢力がいるなら九州を支配する前に熊野をどうにかするんじゃね?
と、言ってるw 邪馬台国は奴国時代からの影響範囲が大幅に縮小してまだ内乱続けてる国家だからな
今から全国統一するような勢力じゃない
邪馬台国が持ってた倭国王権はどこかでヤマトに引き継がれたんだろうけど 奈良の南にある和歌山県に苦戦して、2000キロ以上離れた洛陽まで援軍を求めに行くのが畿内説 で、邪馬台国って西暦でいうと、どのくらい昔の話なの? >>809
熊野に手を焼いて手を出せなかったから、
弱っちい西を平定したんだよ。 >>798
考古学者ははっきりものを言わない
じゃあ誰の事を言ってるんだ? >>808
女王の執政地が吉野ヶ里って可能性は高いと思うね。
当時領地の何処に行くにも便利が良い。 熊野に銅鐸と関係する磐座がある
世界遺産の、ゴトビキ岩、琴引岩と呼ばれる巨大な岩があり銅鐸の破片や銅鐸を模造した石製品が見つかっている
ゴトビキはヒキガエルという話も残っている
近くの阿須賀神社とその周辺には弥生時代末期〜古墳時代前期の集落跡が見つかっている 玉製品や土師器も見つかっている
祭神は事解男命(ことさかおのみこと) 、この神さまは石見神楽の切目に登場する
平安時代の熊野参詣で必ず参られた地らしい
切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」
天地未明ということは天地開闢より前ということだな >>810
57年の記述にもない邪馬台国
なかったかもしれん。或いは別種時代だな 強い方には戦を仕掛けず、
弱い方を支配する。
鉄則です。 >>549
御井も負けてない
祇園山古墳が怪しすぎるだろ >>814
中国の史書ではAD100年くらいから266年
卑弥呼が擁立されたのはAD180年(その前は男王)
卑弥呼が死んだのは247年 今日は晴天だな、明日も晴れそうだし、なんか出てくるからなぁ~~ >>797
南部朝鮮人のルーツが日本人なのかもしれない >>806
奴国は女王国なんだから
女王国の南にあると書いてある魏志倭人伝に矛盾しなくて特に不利にもならんよ 奈良の南にあるばかりに狗奴国呼ばわりされる和歌山県ww >>828
因みに、「266年に中国の史書に最後に現れた」らというだけだから、もう少し存続したかもしれない イザナミの墓は熊野の有間
ヒキガエルの神さまは、イザナミの集団を逃す為に熊野まできたのかな
一昨年発表された母系遺伝子の研究では和歌山は東北と同じグループだった
京都や大阪が1番近いのもこのグループ
三内丸山遺跡に繋がる母系かもね 龍の女神 張政が来た時に、檄をなして(ヒミコに)告諭してて
台与が立ったときにも、檄をもって(台与に)告諭してるけど
これ何をどう教えさとしてる(告諭)んだろうな? >>818
吉野ケ里はこれらの国邑を俯瞰できた重要拠点だろうな
その他に利便性の高い土地を探ると
鳥栖、朝倉甘木となりこの向こうに正に山門の地形と言える大宰府がある
ここを超えると奴国
うきは、日田はこの筑後川の源流地となるので地政学的には重要性が少ないものの祭祀の拠点に相応しい特別な意味を持っていたのは疑いないな 帥升 →九州
卑弥呼 →九州
五王 →九州
アマタラシヒコ →九州 東北の漁師の網元は紀州熊野詣を必ずする。
それが先祖のしてきたことだから。 >>825
石棺内部に土が入り込んでたから、期待できる出土品は石器・土器・純金に近い純度の高い金製品、人骨の場合歯など分解されにくい部位 https://imgur.com/a/unRYcTC
ずっと前のスレで書き込んだんですけど・・個人的には佐賀平野を中心にして
下は熊本 西は長崎 東は福岡に広がったんだろうと思ってます。
根拠として人間が生きる上でとても重要な水と穀物があるからです
佐賀平野は豊かな水路がいくつも存在してるからです
https://imgur.com/a/ajbX4ct 238年 邪馬台国の使者が魏に贈ったもの
生口10人(男4人 女6人) 斑布(まだらの織物)二匹二丈(24m) これだけ
それに対する魏からの返礼品
絳地交龍錦(赤色龍文の綿織物)五匹(48m) 絳地?粟?(赤色の毛織物)十張(10枚)
倩絳(茜色の布)五十匹(480m) 紺青(紺色の布)五十匹(480m)
卑弥呼個人への贈り物
親魏倭王の金印 真珠五十斤(11kg) 鉛丹(赤色顔料)五十斤(11kg)
金八両(110g) 五尺刀(120cmの刀)二口 銅鏡百枚
紺地句文錦(絹織物)三匹(28m) 白絹(白い絹布)五十匹(480m)
細班華?(細かな模様の毛織物)五張(5枚) こういう無駄なステマがあるときはおかしな力が働いてるものだ
こんなもの発掘すりゃいいだけだからな
ウリナラの予定とか一切どうでもいい そもそも九州には
土人が群がってたチンカス規模の集落しか発見されないからな
畿内には超大規模な帝都が発掘されてる >>816
熊野に手を焼いてる中で九州を平定したとかいうお花畑ストーリーの畿内説 >>847
モノによっちゃ畿内説の葬式になるから戦々恐々としてるんだよw >>842
河川が多いのは同時に水害との戦いもに示唆してます、河川が多いのは一長一短が有ります。 書簡は無理かな?
石版でも、石碑で
難升米等が書いて副葬 >>848
ああ宮崎からいった人たちがあっさり畿内を支配した話ね >>798
観光利権
言っとくが九州もこれは同じな
利権同士がやり合っててまともな学問が全然進まないのが現状 半島チョン君は前方後円墳が好きだろ
なぁ?ww
隠すなよ盗人ww 東征とかいってるヤツもアホ
律令制が整った時代になっても
まだ(朝廷の公民にすらなってない)土人しかいない場所から
どうやって東征するわけ? マジで そもそも九州説の池沼たちがなにいってるのか分からないワケ
日向という地名も景行天皇になるまで、そんな地名すら存在しない >>848
そのチンカス集落が倭国王の金印もらった。 >>846
奴隷10人布少々……いかに言ってもしょっぱいよなあ
俺はこれ実は燕王が立ったお祝いの使者だった説を推すわ
帯方郡まで燕独立のお祝いに出向いたら魏軍にインターセプトされて洛陽まで連行されたんだぜきっと >>785
和歌山に御三家がある理由の一つは当時は海上輸送が盛んで
上方(大阪)から江戸まで運ぶのに必ず和歌山を通るから、だそうな 吉野ケ里は特別じゃない
あの程度は他にもあるから
建物は想像で勝手に建てただけだしお金が掛かってるし回収しなきゃいけない >>859
魏は中原を押さえています、本拠地は東北地方では無いです。 性器の発見?あんな普段フニャッとしたものが発見できるもんなのか? >>850
他の九州説もだよ。
爺連中や本を書いた人や
ようつべ等を大笑いしようと。 そもそも和歌山なんか
ヒデヨシの時代になるまで日本ですらない
山賊や海賊が自治してたからな
朝廷の支配が及んでなかった地域
そもそも和歌山が畿内の近いだけで
近畿に仲間入りするのがおかしい
昔のとおり南海道で、野蛮人がいる四国の一部でいい >>868
いやまあそうなんだけどね
邪馬台国の国力がいかにも弱小という傍証ではあるんだが
タイミングが魏に使節を送ったんじゃなくて燕だったんじゃないかという話 >>868
魏にいち早くはせ参じたので厚遇受けた説もありますね。 >>867
やっぱり、桃の種で「邪馬台国は畿内だ!!」くらい言わないとねwww 日本の歴史は畿内の歴史
日本史というのは畿内史だからな
本来、日本史は田舎もんには関係ない 女王の権威が高まるというのは戦争による荒廃よりも神の怒りを鎮める意味が大きいように感じる
水害、飢饉、疫病がそれにあたるだろう
鏡が重宝されたのは、富も災いも天と太陽によってもたらされるという当時の先端思想から来るもの
軍事的用途としてはほとんど意味をなさなかったから襲撃に対して弱い
女王とは別に男系の軍事種族が連合に加わっていないと対応不能
これが渡来系の遠賀川勢力で後に物部と呼ばれる支族だろうね 2500円前の弥生時代前期に畿内で方形周溝墓という墓が出始めたのですね。
四角い溝を掘って区画を作り盛り土をして木棺墓に埋めるものです。
これは畿内、東海地方で最初増え2000年~2300年前の弥生時代中期に関東まで普及しました。
つまり、関東・東北の弥生文化って畿内人が移住したものなんですね。 >>875
今思えば、纏向の桃の種に浮かれた畿内説っていったい何だったのだろう >>874
前年に燕独立
景初二年頭に帯方郡が魏に抑えられる
景初二年6月に難升米が帯方郡に到着するも魏軍にインターセプトされて終戦まで逗留
8月に公孫氏滅亡
12月に洛陽到着してえらいさんと謁見して金印もらう
景初三年1月に安帝崩御
というスケジュールかな…… >>881
2000〜2300年って未来の話しされてもwww 京都の性格の悪さはよく知られている。
韓国の性格の悪さはとてもよく知られている。
両者の遺伝距離は、日本の中で最も違い。
いまや京都人の性格の悪さは韓国の血が疑われている。 >>885
2000~2300年前、つまり紀元前300年~0年くらいです。 >>888
お前は卑弥呼の墓のサイズもついでに足しとけwww >>887
君にも朝鮮人の血が流れてるから安心しなさい >>890
お断りしますけどね。
まあ、箸墓ではないな。
卑弥呼、冢や柵等は九州だろう また朝鮮人が薄気味悪い詐欺工作を始めたね。
さっはと出て行け、嘘まみれの犯罪民族が。 和歌山の黒田からは加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっているので出雲とも関係がある
和歌山と泉州も関係が深くて、昔昔赤鬼がやってくるようになり赤鬼は桃が苦手だったが泉州には桃がなかった
それで和歌山に頼んで桃を分けてもらったという
池上曽根遺跡で作られていた数千点の石包丁は紀ノ川産の石が使われている 纏向で東海~関東の土器が出るというのも方形周溝墓文化圏だからなのでしょう。
一方、中国四国エリアは円形周溝墓で、九州は甕棺墓や支石墓文化でした。
ちなみに、前方後円墳は中国地方で出現した墳丘墓が起源です。 >>245
松本清張が「今の文壇」となんか関係するんか? あと、北九州の前原遺跡なども方形周溝墓なので畿内の影響があるのでしょう 卑弥呼は伊都國の出身者
だから、邪馬台国ではなく伊都國の平原古墳に葬られた。 邪馬台国は九州で良いとして、九州から北のヤマト政権について何も書かれてないのですか?
邪馬台国なんかより遥かに栄えてるでしょうに >>899
下手したら4世紀早々にも邪馬台国は滅びてしまうからな 日本の考古学界って、神の手に長らく好き勝手されていたお茶目さんだからいまいち・・・ 九州には邪馬台国はない。
行っていないので記述がないなのである。 >>896
前方後方墳の東国文化と吉備の埴輪文化が混ざって進化したのが前方後円墳かと思ってたわ >>749
結局武力では熊襲を征服できずに熊本と宮崎側から豪族を一つずつ懐柔していったように思える
だから8世紀まで隼人という異民族として残ったのではないかな >>749
だから、オカルトと史実をごちゃ混ぜにするなよ 殉死した人たちの骨も周りにあるはずだから
周りに大量の骨が見つからないなら卑弥呼じゃないんじゃないの? 畿内説の場合
・九州〜中国地方〜四国〜畿内まで支配する大帝国
・東海地方から人を集めて巻向、箸墓を作らせる
・鉄が全然ない
・倭国大乱なのに鏡ばっかり作ってる
・狗奴国と戦争中なのに、箸墓とかいうデカい墓を作る
・これだけ金持ちなのに、魏にあげた献上品は奴隷10人と班布二匹二丈のみ
畿内説をとると、金の使い方がおかしすぎる >>898
違う、
畿内説はインテリジェントデザイン論
九州説はダーウィン論 >>915
実際に見たのか定かではないが
甕棺を勘違い? >>768
魏志韓伝では、倭国は帯方郡に属したことになってるからな。
中華皇帝ではなく、帯方郡の属国。 >>917
鉄がない代わりにオリハルコンとかミスリルがあったんだよ。 日本の歴史は畿内の歴史。
魏志倭人伝の邪馬台国は、日本語にまだ文字がなかった時代、中国で発明された文字で書かれた3世紀時点の畿内ヤマトにすぎない。
なのに、3世紀には存在していなかった日本語の文字、漢字の仮名読みで、やまたい国と呼んで幻の国扱いしてしまうオタクはどれだけ馬鹿なんだろう?
3世紀には存在していないグーグルマップ見ながら邪馬台国探しをしてる人と同じ知的レベルにあることを感じる。
まあ子供の自由研究レベルですね。 九州南部が朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる
それまで九州南部の土人は
大宝令の賦役令にもあるように
朝廷の公民ですらない
土人扱いだからな
↓このとおり
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
わかった?
そもそも卑弥呼時代は大和朝廷が北部九州なんかすでに征服してる
わかった? すべて北部九州はすでに大和朝廷の従属国だった
コレで十分に説明がつくからな
美濃でセックスしまくってた次の代の景行天皇は
熊襲が貢物よこさない土人だから熊襲討伐にいってる
こっからも北部九州はほぼすでに大和朝廷が征服してたとみるのが妥当
でないと速攻で熊襲なんかしばけないからな 南九州なんてざっくりいうと、朝廷のルーツを含んでるぞ アマテラスが岩戸隠れするしないって時期なのに大和朝廷が成立してるわけもなく。 >>924
その大帝国が南にいる狗奴国に滅ぼされかけて、238年から2年に1回、合計5回も中華皇帝に泣きついたのか
で、狗奴国ってどこ? >>929
狗奴国は沖縄だから、勢力差があってもなかなか倒せなかった。 >>924
京都の大和朝廷と取り巻きが、韓国人のなりすましで、
本来の支配者は、各地に避難した可能性が疑われてる。
遺伝子間の距離からw >>901
当時の土地における価値創出はいかに開発できるかがポイントだったと思うんだよね
まず鉄無しで開拓可能な扇状地や安全な沖積平野部でこれは場所が限られるからすぐに行き着く
その後鉄により森林伐採や河川や水路の割削が可能となり範囲を広げられる
これを最も早く実践できた場所が紛れもなく九州北部
この技術力を基盤として大規模開発が可能となり一気に豊かになったのが畿内だろう
そのために祭祀と交易が必要不可欠で、九州より数世代は後でないと発展できなかった
ちなみに饒速日は名の通りにぎわい栄えるという意味だから彼の降臨によって畿内が発展する機会ができたのだと思う 女王国は「大倭」を使って市を監視し、各地に物資が満遍なく行き渡るような政策をとっていた
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
卑弥呼女王国以降
↓
鉄器など物資が九州から畿内へと行き渡るようになった
https://i.imgur.com/khp2Y4M.png
つまり卑弥呼時代の畿内(大倭)は北部九州の傘下だったのです 皇国史観ではなく
歴史上のそのままのデキゴトだからな >>933
日本の半分を支配してる国を滅ぼさせた国だから相当の大国だなwww >>928
聖徳太子はいない!!!!!。と言ってる曲学阿世の屑東大の人ですねw
距離も方角も誤植だらけの魏志倭人伝は学問らしいw >>925
実は景行時代の「美濃」は「耳納山地」説もある >>939
はあ?
明治時代の大日本帝国時代の人かよ?www >>943
俺は「聖徳太子はいない」何て一言も言ってないけどw >>946
魏志韓伝では、倭国は帯方郡の属国になったことが書かれている。残念ながら 畿内説信者って、皇国史観丸出しでアタマおかしいwww >>949
必死すぎてw捏造。
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 >>948
4世紀以前の皇国史観はおかしい
神話のレベル
天皇家の始まりが5世紀でも良いやん >>934
残念ながら、邪馬台国の南に狗奴国があり、さらにその南4000里に侏儒国がある。
よって沖縄説は成立不可能 >>943
存在しない天皇の名前を延々と書き連ねてる古事記日本書紀は? まともな教育を受けてない低学歴は
班田収受法も隼人の乱も習ってないらしいわ 景行天皇:美濃(東海にユカリ)でセックス、熊襲しばきにいく
※ 妹はヤマト姫(ヒミコ)
仲哀天皇:熊襲しばきにいって熊襲に殺される
応神天皇:尾張氏(東海にユカリ)を妃にとる >>954
魏志韓伝にはそう書かれている。
九州邪馬台国は帯方郡の属国。
倭の五王と聖徳太子は中国の属国ではない 3世紀には存在していなかった日本語の仮名読みで、3世紀に書かれた魏志倭人伝を読んで幻のやまたい国を妄想して、
3世紀には存在していなかったグーグルマップを広げて、
3世紀に書かれた魏志倭人伝はグーグルマップと合ってない!と大発見をしてしまうのが、やまたい国信者。 >>951
女王国以南は「遠絶」
つまり、陸続きじゃなくて距離がある。つまり、南西諸島。
国の数からいって、南西諸島全部使っちゃうから、
その先にある狗奴国は沖縄か台湾ってことになる。
大和言葉と沖縄語が分離した時期から考えて、
狗奴国は沖縄と考えるのが妥当かと思います。 >>959
じゃあ天皇か150年も200年も生きたって信じてるの? >>950
平民の次期天皇も疑い無く崇めるんでしょうね まずまともな教育も受けてない望かいてるだけの頭おかしいのと
話がかみあうわけがないからな >>961
3世紀が属国だった記録も伝承もありませんが。女酋長説の人ですか? >>963
女王国以北は遠すぎるとあるが、女王国以南は遠すぎるとの記述はない >>970
何で、北陸の豪族が宮崎から出発すんだよw >>965
当時の倭国の年齢の数え方は年に2〜3歳年をとると魏志倭人伝に書いてますよ。この話は双方の文献で整合性があるので成立。 ここから
またまともな教育受けてない低学歴が
願望を書きなぐるスレになる >>956
なぜ成立不能かわかりませんが、
狗奴国=台湾
侏儒国=フィリピン
でどうでしょう。 佐賀の吉野ヶ里vs福岡の御井
いい勝負だね
纏向は指咥えて見てなよ >>975
じゃあ皇紀ってなんだよ
2〜3年に1年なのか?www 公孫氏に三韓と倭は属したろ
魏が公孫氏を討ったあと三韓は反乱おこしてる
韓伝だっけ?他にあったような >>958
まともに勉強してない低学歴は存在しない天皇の名前を書いてどやってるんだよな >>968
魏志韓伝
「桓霊之末 韓濊彊盛郡縣不能制 民多流入韓國 建安中 公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方」
ついに、倭と韓伝は帯方郡に属する >>971
いやいや、あきらかに「遠絶」の二十数か国があるって書いてありますよ。
陸続きでなくて距離がある国がたくさんあると。 >>964
これが低学歴。
宇宙人はいるんだ!いないというなら証明してみろ!と同じ >>985
遠絶21ヶ国に狗奴国は含まれない
遠絶21ヶ国は女王国構成国 奴の2万戸はかなり大きいから筑後を含む可能性はある 邪馬台国論争は論争している連中がキチガイ染みててドン引きする >>986
そうな、存在しない天皇はいくら願望しても存在しない。
天智より前の天皇はみんな偽物、そして次に予定されている天皇も >>985
女王の境界が尽きるところはまだ先のようだが >>980
纒向w
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 九州厨にはいろんな種類のキチガイがいる
キチガイのるつぼ >>901
他にもいっぱい国の名前が出てくるから、邪馬台国が大和でもさして問題はないよ
ただ卑弥呼がいた場所は九州中央部だろうな
この場合大和が奈良なのに、女王の本拠地が九州っていう変な国になるけどね。ただ連邦制ならあり得るのか? >>988
知ってますよ。何を言いたいのかがわかりません。
南西諸島は女王連盟の構成員で、その先にある狗奴国は女王国連合と対立してたってだけ。 願望書かれても
キチガイの願望なんか
ああそうですか
としかいいようがないからな オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:三角縁神獣鏡ってシナでは1枚しかでないのに、どうしてザクザク畿内から見つかるのですか?
A:知ったこっちゃおまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知らんがな!!
Q:纒向遺跡から馬具が出ましたよね?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!シバくぞ!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!! >>992
何を言いたいのか不明です。
狗奴国は女王の勢力じゃないですから、その直前で切れるのでは? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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