【佐賀】「よみがえる邪馬台国」 豊前・宇佐地域の出土品を紹介する企画展 [樽悶★]

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0001樽悶 ★2020/10/30(金) 12:50:17.78ID:ZkMkQOwN9
弥生時代、交通の要衝だったと考えられている豊前・「宇佐(うさ)」地域の出土品を紹介する企画展が、吉野ヶ里歴史公園で開かれています。

企画展は、魏志倭人伝に記され、弥生時代、各地に存在したと考えられている「クニ」の姿を紹介し、邪馬台国や吉野ヶ里遺跡を知ってもらおうとシリーズで開かれています。

今回は、弥生時代に陸上・海上の交通の要衝だったと考えられている、現在の福岡県行橋市や大分県宇佐市周辺、豊前・「宇佐(うさ)」地域の遺跡の出土品を紹介しています。

宇佐市で出土した銅矛は、ほぼ同じ形のものが島根県でも見つかっていて、九州から豊前地域を通して運ばれたと考えられています。

また、朝鮮半島との交流を示す銅鐸などもあり、この地域が物流の重要な拠点なっていたことがうかがえます。企画展は、11月8日まで、吉野ヶ里歴史公園で開かれています。

10/26(月) 12:51配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201026-00000002-sagatv-l41
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201026-00000002-sagatv-000-1-thumb.jpg

0822ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:19:48.19ID:2qpFBGtz0
(中)不彌国・吉野ヶ里から邪馬台国へ
上記の甲・乙の構文は、よく似たカタチで書かれている。我々に馴染みの例でいえば、
「右に見えますのが皇居でございま〜す」、
「左に見えますのは丸の内でございま〜す」、というバスガイド調の語り口である。
このように、同じ構文を2つ並べてとうとうと語るのを駢儷体(べんれいたい)と言うらしい。
日本でいえば講談調といって良いかもしれない。
つまり倭人伝は、佐賀・川上の伊都国から、奴国と不彌国の二股行程を案内していることになるのである。
そしてこの2国の内、伊都国から実際に移動した先は、東行の「行」という動詞によって不彌国・吉野ヶ里と示されているわけだ。

0823ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:30:51.44ID:tAs5uY370
だーから言っただろ
邪馬台国の邪馬は「山たい」ってw
当時の博多の人間が中国役人に答えたものが
記されてるんだから

0824ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:35:42.89ID:5n7A9dWm0
>>775
最早慣習?
今更万世一系を言い張ることに何の意味もないだろうし、事実は事実として容認していくべきだと思う

0825ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:39:23.29ID:5n7A9dWm0
>>803
漢字の使い方って、どの辺を見てそう思ったんだろ?
元々中国の文献なんだし、向こうでどう読まれてるのかは興味深い

0826ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:56:35.64ID:2qpFBGtz0
(下)不彌国・吉野ヶ里から邪馬台国へ
倭人伝は不彌国・吉野ヶ里へ移動した後も、また二つのよく似た構文によって、
はるか南の投馬国(宮崎西都市都万)と、同じく南の邪馬台国女王之所都(熊本阿蘇)の二股行程を案内している。
再掲A:南へ至れば投馬国で、(帯方郡からは)水行二十日でございま〜す。
再掲B:(又、同様にして)南へ至れば邪馬台国の女王之所都で、(帯方郡からは)水行十日と陸行一月でございま〜す。

実際に吉野ヶ里から方角と直線距離(道里)を計ると、宮崎県西都市都万は南南東約180q、熊本県阿蘇地方も南南東で約100qとなる。
なお、唐津中原港から不彌国・吉野ヶ里までは約50qであるので、
これを足すと、唐津から〜女王之所都(熊本阿蘇)までは150qとなり、上陸後の陸行里数は、倭人伝の記述通り丁度2000里となるのである。

0827ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 08:59:59.94ID:5n7A9dWm0
>>766
二之御殿の位置を動かすことは絶対にまかりならぬ

二千年もの間禁忌とされてきた事に今更手出しは為難いか・・・

0828ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:03:32.14ID:QeG4Oemu0
魏志の人間はどういう経緯で倭国訪れることになったんだろうな
案内されてるようだから以前大陸のどこかで倭人と接触して約束でもしたのかな

0829ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:12:25.54ID:pVBiz+Sn0
>>817
全て日蝕に関連してみただけ。

0830ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:17:13.93ID:5n7A9dWm0
日本に居ると当り前過ぎて何も思わないが
こうしてみると日本の歴史の古さを感じるわ
始皇帝とか漢の高祖とか言ってももう過去の存在でしかないもんな
既に終わってしまって消えた蝋燭
日本ではそういった太古の蝋燭が今も消えずに燈っている
暗闇は暗闇のまま手を付けてはいけないのかもしれんね

0831ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:18:10.01ID:1ztpCV7r0
邪馬台国って日本に山ほどあった小国のうちの一つだぞ
卑弥呼が皆から信用されてたってだけ
男が支配しようとして皆に嫌われたとも
地方豪族の時代だから当たり前だけどな
アマレラスとスサノオの話みたいだろ
現地に伝承されてる話と又聞きの又聞きとどちらが信用あるんだ

0832ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:20:02.31ID:LWzmhMOL0
卑弥呼とえっちしたい

0833ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:20:19.58ID:5R8uV9ma0
それが日本で言ったらコシコデン

徐福よろしく宮内文書とか調べ始めたら
もう夜更かしだわw

0834ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:21:25.16ID:5R8uV9ma0
>>831
倭国は、女しかいない所以の国

0835ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:21:30.93ID:pVBiz+Sn0
>>832
ババだぞ

0836ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:34:30.19ID:cpqRNcPX0
>宇佐市で出土した銅矛は、ほぼ同じ形のものが島根県でも見つかっていて

これ、極めて重要な発掘成果だな。
荒神谷遺跡の銅矛が九州産である事を意味している。
日本武尊が出雲侵攻の際に、
飾りは豪華だが刃のない刀を出雲に送って、
出雲を征服した古事記の記述が、
歴史上存在した事を証明しているのである。
荒神谷遺跡の銅矛には☓が付いているのは、
即ち、合戦で武器として使えないの
☓であるのだ。
九州勢力の日本武尊が、武器として使えない銅矛を出雲の刀と交換して、
それから出雲に侵略していったと書いてある事が実際に起こった事が、
発掘によって確かめられた極めて重要な事例だ。
これによっても、当時のヤマト政権が、
九州にあったことが決定した。
まあ、景行天皇は九州に遷都している訳だがな。

0837ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:34:54.08ID:f14Hnymq0
>>804
彦火火出見尊(山幸彦)の孫の神武が、九州から東征した
・・というんだから、そもそも

初めから畿内に邪馬台国があり、そのまま大和朝廷になった
・・なんて思うヤツはおらんよ

単純に考えたら

畿内に邪馬台国があり
彦火火出見尊(山幸彦)の孫の神武が、九州から東征して
大和朝廷になった

だよ

0838ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:36:36.97ID:f14Hnymq0
>>836
畿内説にならねーよーに必死だな(笑)

0839ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:39:50.16ID:f14Hnymq0
>宇佐市で出土した銅矛は、ほぼ同じ形のものが島根県でも見つかっていて

これ、極めて重要な発掘成果だな。

九州ルートと、出雲ルートの、2つが存在していたことの証明だ

0840ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:40:02.78ID:m/ZtKG1/0
>>832
最近だと田村ゆかりだぞ
結婚してやれ

0841ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 09:48:49.72ID:cpqRNcPX0
もちろん山門八女の丹波氏が、
日本海ルートを通して、
丹波に進出していった過程が、
出雲攻略の史実だ。

0842ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:00:40.50ID:qnixUmxQ0
岡山県総社市に邪馬台国より古い、未知の巨石文明の遺跡がある。
https://i.imgur.com/apqGQsi.jpg

0843ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:00:57.62ID:J5YM6yF/0
邪馬台国は、やまと国だろ。中国語で歯磨き粉=牙膏 (牙の読みはYa)
漢字は中国人が音を聞いて当てた字。馬は今でも読みはMa、台は今はDaかな

0844ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:02:36.12ID:cpqRNcPX0
畿内説のロジックが破綻しているのは、
例えc14によって、庄内期の時代が3世紀中期に遡ろうとも、
庄内期の大和には、
大陸と頻繁に交易した痕跡が皆無なので、
畿内説などとりようがないと言う点だ。
そして、その後の古墳時代に、
大陸との交流を示す痕跡の出土の頻度が、
大和に移ることを持ってして、
実際に政権の中心地が北部九州から大和に移るという事は、
大陸由来の出土品の頻度に現れると言っていい。

0845ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:17:12.90ID:byUqRZeo0
畿内説はこじつけ論が多すぎてもはや霊感商法詐欺と同レベル
年寄りは騙されやすいんだよなあ

0846ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:20:08.74ID:eejzC0o00
学会的には機内説でFAな雰囲気だけどな

0847ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:27:39.41ID:/A7zVNCH0
大陸と交易してたとなると九州しかないだろ

0848ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:27:43.12ID:byUqRZeo0
いまどきFAとか使ってる時点で学会派は痴呆

0849ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:30:37.44ID:f14Hnymq0
単純に考えたら

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「光武賜以印綬」の記述にある印綬が出土しているので

「倭奴國」は九州にあり、朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートで大陸と行き来していた

日本の記紀では、彦火火出見尊(山幸彦)の孫の神武が、九州の筑紫城から東征し、天皇と名乗ったというのだから

「倭奴國」は、神武の祖先の九州の筑紫城だ

つまり、神武の家は先祖代々
朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートで大陸と行き来していた

それでは、九州から畿内に東征し、天皇を名乗った神武政権は、どういうルートで大陸と行き来しようとするか

それはやはり、先祖代々使用していた朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを奈良から利用しようとするだろう

で、遣唐使のルートは

百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良

0850ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:44:14.57ID:2qpFBGtz0
佐賀・吉野ヶ里と大分と出雲を結ぶ結節点になったのは、
倭人伝の傍国の4番目に出てくる次有「都支国」ではないかとみている。
「都支国」はツキコクと読んだのであろう。現在の「築城」である。

この築城に隣接して中津があり、そこに宇佐神宮の祖社と伝わる薦神社(こも神社)がある。
薦(こも)は水草のマコモのことであるが、
これで作った「コモ」は、海上輸送の荷物を幾重にも包装して水びたしになるのを防ぐ貴重な資材だったらしい。

そのような由緒ある神社であるから、古代には築城と中津は、海原を駆ける有能な種族が築いた一つの巨大国家だったのではないか。
実際この薦神社を北の頂点に、その東南一帯の丘陵地を取り囲むように4重〜5重の環濠の痕跡らしき古道と水路が見て取れる。、

0851ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:45:31.08ID:f14Hnymq0
『魏志』(倭人伝を含む)に書かれている

狗邪韓国から、いきなり絶海の孤島の対海国に出て
そこから南の一大国に渡り、末廬国に上陸して
伊都国−奴国−不弥国−投馬国

というルートは、もともと畿内にあり、神武に東征された邪馬台国が使用していたルートだ

『古事記』には

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、

葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

とあるから、末廬国ー伊都国−奴国−不弥国−投馬国は、葦原中国(出雲)

なので

【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c

なんだよ

0852ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:50:21.05ID:2qpFBGtz0
ついこの間まで支配していた、学会的に機内説でFAな雰囲気は、どこへ消えたのだろう。
黒い霧が晴れた後には、ただの廃墟しか残されていなかった、、、、

0853ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 10:59:20.39ID:tAs5uY370
>>852
素人に見切られる程度の説じゃ
専門家とは言えないなあ
地道に地面掘ったり文書よんだり
学者らしく生きたらどうかとw

0854ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:08:49.01ID:4XgTLCF20
>>830
殷=商王朝とのつながりもある
>>832
昔は村祭りで村長がアマテラスや卑弥呼とエッチする
パフォーマンスが有ったらしい。
天皇は登極=即位式の大嘗祭や秋の稲の収穫を祝う
新嘗(にひなめ)祭でアマテラスとエッチする。

古事記や日本書紀は伊邪那美が先に伊邪那岐に声を掛けて
エッチしたので巧くエッチできなかったとか
その他いろんな変態エッチの話が載せられているエロ本www

0855ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:09:26.06ID:Ke9SfbpD0
予算を取りやすいのが畿内説
九州北部は高度成長期に開発が進みすぎた
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が出土したダンワラ古墳なんて線路工事で破壊されていた

だから考古学で飯を食うには畿内説にすがるしかない
「大多数の考古学者は大和説です」というからくりはそんなところ

でも「箸墓古墳は卑弥呼の墓です」なんてことは管理する宮内庁は一切言ってないw
そもそも箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓
そして日本書紀では神功皇后が卑弥呼と匂わせている
結局何も確かなことなんてないんだわ

0856ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:12:04.19ID:tAs5uY370
>>855
その文字使わなかったころの
わかってる和名を
漢字で表記するのどうなんかな
普通にカタカナで書けばいいじゃん
どうせ漢字は後世の当て字なんだから

0857ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:13:27.32ID:xfuurVGU0
>>814
>漢字の読解に関してはまず中国人にやってもらった方が安心

引用の漢文に句読点ついてると、あんまり安心できない。
共産党なら、資本論と共産党宣言はドイツ語で読むべき。てか、禁書だったり?

漢字の、表意、表音に対する考え方は正しい。 ただ、正しいだけ。

学べたこと
金印の委奴国について、
和音での奴国がこの奴を継承したと思いがちだったけど
どうも単純に、倭国を意味する造語として、
漢が、匈奴に対応する、表意文字の「委奴国」と言う国名にした。
っていうのが、真実っぽい。

奴国が、この金印を知ってて、
奴国を名乗ったなら笑い話だけど、いい話だな?

親魏倭王も、和音国名では無いよね。
女王国の王の印、とかなwww

ご教示に、感謝!

三国志的には、親魏倭王
戦国王の魏帝が倭と同盟した 
公孫氏も倒して東夷安定で、蜀と呉と安心して戦える
と、いう戦功の自慢だな。

郡から萬二千里で21国構成で7万戸、周旋5千里の小国でした。
ちゃんと大倭国じゃないけど、倭王・・・ って、書いてあるけどね?

0858ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:17:13.32ID:XPsmvMS90
『魏志』(倭人伝を含む)に書かれている
狗邪韓国から、いきなり絶海の孤島の対海国に出て
そこから南の一大国に渡り、末廬国に上陸して
伊都国−奴国−不弥国−投馬国
というルートは、

もともと畿内にあり、神武に東征された邪馬台国が使用していたルートだ

>>849 にあるように、朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートは
神武の王家が先祖代々使用しているルートなので、邪馬台国は使用できなかったのだ

しかし、朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを先祖代々使用してきた神武の王家には、大陸への迂回路が確立されてしまうのは都合が悪い

なので『古事記』には

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、

葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

末廬国ー伊都国−奴国−不弥国−投馬国は、葦原中国(出雲)なのだ

だから

【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c

なんだよ

0859ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:22:41.55ID:XPsmvMS90
結局だ

>>849 >>858 と素直な解釈をする、多くの畿内説考古学者に対して

民間の自称研究者が、屁理屈を捏ね繰り廻して主張しているのが九州説なのよ

0860ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:31:35.98ID:4XgTLCF20
>>843
支那で最古の福建方言で臺をトと発音する。

その次に古い客家方言ではトイと訛る。
唐末〜五代の発音を保持している広東語はトーイと訛ってる。
現代中国語Mandarin=北京官話のルーツは
クビライ(フビライ)が1271年に建国したモンゴル時代の大都=北京の
話し言葉にルーツが有る。

豆もやしは北京官話で「豆芽トウヤー」と発音するが
最古の福建方言で「豆芽タウゲ」と発音する。

「球」という漢字も北京官話でjiu=tɕʰiou˧チオウだが
福建方言はkiuと発音し日本語音読みとそっくり同じ。
朝鮮語はクと発音。
東京野郎は新宿をシンジクと発音してジュという拗音の発音が苦手
つまりそういうことだ。

0861ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:38:38.94ID:4XgTLCF20
>>860
訂正
×「球」という漢字も北京官話でjiu=tɕʰiou˧チオウだが
○「球」という漢字も北京官話でqiu=tɕʰiou˧チオウだが

0862ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:46:03.57ID:AO1LN2SuO
>>842
ただの柱状節理じゃないの?
崖でよく見られる

0863ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:52:13.84ID:Ke9SfbpD0
>>856
ヤマトトトヒモモソヒメ
ヒミコ

でも、『ヒ』は『ピ』だという主張もあるよね

0864ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:56:36.90ID:N1BjnqqK0
魏晋は福建方言の国だったのか?まじで?

>>855
神功皇后なんて本人もその前後関係も、およそ350〜400年ごろの人物やん
畿内説はどうすんのこれ

0865ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 11:57:39.25ID:Ymq1ySv20
>>852
でも結構実績がある考古学者が古墳と土器の分布だけから邪馬台国は纒向で狗奴国は東海地方とか言っているのが現状だよ?
こういうのがいわゆる学会の主流意見とされているんだわ
明らかに文献を精査していない人達の言説だよね

0866ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:01:06.18ID:N1BjnqqK0
>>865
ヤマイチと書いてる魏志倭人伝だと近畿説に不利だから魏志はデタラメということにして
ヤマトって書いてる後漢書にすがるしかないんだよ
だから狗奴国の場所は南じゃなくて東でないと困るのが近畿説

ほんとは単に魏志の記述をパズルみたいにして切り貼りしただけなのにね

0867ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:02:02.02ID:2qpFBGtz0
畿内の考古学者は、九州は辺鄙の地だから、
古墳もなければ、土器も出ないと思ってきたのさ

0868ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:10:39.15ID:XPsmvMS90
>>849 なので

『魏志』(倭人伝を含む)に書かれている
狗邪韓国から、いきなり絶海の孤島の対海国に出て
そこから南の一大国に渡り、末廬国に上陸して
伊都国−奴国−不弥国−投馬国
というルートは、

もともと畿内にあり、神武に東征された邪馬台国が使用していたルートだ

朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートは
神武の王家が先祖代々使用しているルートなので、邪馬台国は使用できなかったのだ

しかし、朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを先祖代々使用してきた神武の王家には、大陸への迂回路が確立されてしまうのは都合が悪い

なので『古事記』には

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、

葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

つまり、末廬国ー伊都国−奴国−不弥国−投馬国は、葦原中国(出雲)なのだ

というのが畿内説だよ

0869ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:17:58.95ID:D3NY+fBw0
>>865
なんたって自称学者と言われてもおかしくないほど頭スカスカなのが多い分野だからなあw
文系で賢い連中は法学や経済学を選ぶからね

0870ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:18:27.05ID:2qpFBGtz0
葦原中国とは、中国地方の事だったのか、
畿内説のアタマではな?

0871ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:31:24.60ID:75zG0gWv0
>>844
景初三年(239年)銘 三角縁神獣鏡

0872ニューノーマルの名無しさん2020/11/04(水) 12:47:22.30ID:K6vAHH8j0
伊都は世々女王国に属す、その女王国は元は男王で住むこと7、80年乱れる、で争いが歴年、卑弥呼が立って丸く治め、魏に朝貢しに官を派遣したのが238年なんだよ、神武とやらが東征したのならこの住むこと7、80年の男王だろ?、よって奈良だよ、でも卑弥呼は中国人。魏が親魏倭王とし、好意的な理由はそれ以外に考えにくい、ひょっとしたら張魯の娘。217年に弟ら?を引き連れ22才で布教を始めた。

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