遠山無限  第二部 戦後の地方行政 三 地方自治法の施行と愛知県勤務 ジョンソン旋風
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著者紹介 ※筆者は高文行政科合格の旧内務省キャリア、愛知県副知事で退官
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ジョンソン旋風

こうした時に <ジョンソン旋風>が襲来した。高校再編成は三月から京都に始まり、
関西の各府県・九州・北陸などの新制高校に対し、その地方の軍政部によって、
強力に指導されたものであったが、近畿地方軍政部の教育課長として
辣腕(らつわん)をふるったジョンソンが、六月に東海北陸軍政部の教育課長として赴任し、
愛知軍政部とともに早速新制高校の改革方針を示した。

当時の教育関係者はその強引な改革をジョンソン旋風と呼んでいた。
改革の内容は、(一)男女共学制、(二)小学区制、(三)総合制、の三原則の実行と、
中学校優先の立場から、高校を統合して、校舎を新制中学にできるだけ供出すること、
一高とか県一高女とかいうナンバースクールの名称を廃止することなどがおもなものであった。
その方針を実施するために、公立高校を県立、市立を一本にして整理改革することを指示した。

県では軍政部の意向によって、豊田利三郎氏を委員長に、財界の有力者をもって、
新制度実施のための特別委員会を設け、学務課が事務局になって、
「新学制完全実施のための教育施設再編成計画基本方針」をつくった。

ようやく発足した新制高校を解体して、県立・市立を一体に考えて、
どの学校を合併して再編成するか、校舎の利用計画はどうするか、
地図をにらみながら学区を区画する作業、男女共学で旧中学校には
女の便所をどうして造るかとか、どの高校の校舎を中学校に転用するか、
全く普通では考えられないようなドラスチックな改革を実行させられた。
この第一次高等学校再編成によって、県下は、県立五五校、市町村立二九校
計八四校あった公立高等学校が県立三八校、市町村立一一校計四九校となった。
特に、名古屋市内では多くの高校校舎を統合によって中学校校舎に転用し、
中学の二部授業の解消に役立てた。
また、一中とか県一とか、市一とかいう歴史のあるナンバースクールの名称も消えた。

その間には、軍政部との度重なる折衝や、父兄会の代表からの注文やら、
いろいろ問題も多かったが、とにかくこの難問題を実行することができた。
特にその中で、高校発足の際に旧制中学の三年生はそれぞれの高校に併置されていた
併設中学校にいたが、軍政部の方からこれを新制中学校に移すように指示があった。
しかし当時の新制中学の三年は、高等小学校の二年を一年延長し名称を中学に変えたもので、
旧制中学の三年とは課程も学力も格段の差があった。教師も違っていた。
これを学年途中で変更するのは両方の生徒のためにならぬと思い、
愛知軍政部のバーディック教育課長に説明し、高校に附置して置くよう主張した。
バーディックは初めは真赤な顔で怒っていたが、事実に即して熱心に説明したら、
さすがにアメリカ人だけに、それぞれの生徒の学区の高校に残すことを承知した。
これは無理な改革の中でのせめてもの思い出である。

この改革は占領軍の軍政下でなければとうていできない改革で、その後の教育のためには
功罪いろいろであるが、現在の新制高校の骨格を造ったものであることは間違いない。

新制高校の再編成方針が実行され、一方では、教育行政の民主化のため
教育委員会制度が実施された。十月五日に教育委員の公選が実施され、
十一月一日には教育委員会が発足した。

私は高校の再編成案ができた機会に、教育委員会制度の発足を前にして、
九月九日付で総務部地方課長を命ぜられた。