【歴史】「たった一度の敗北で・・・」静岡市長らが今川義元復権宣言。菩提寺で再評価誓う★3 [無断転載禁止]©2ch.net
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170520-00000014-mai-soci
静岡市の田辺信宏市長が19日、郷土の戦国武将、今川義元の
生誕500年(2019年)に向けて、今川家の菩提(ぼだい)寺である
臨済寺(同市葵区)で約200人の市民らを前に「今川復権宣言」をした。
5月19日は義元の命日とされる。命日忌法要の後、田辺市長は
本堂に集まった市民らの前で、「京文化に精通し、優れた政治的・
軍事的手腕のあった今川義元公の功績を再評価することを宣言する」
と復権宣言した。市は今後、文化歴史や観光経済の点で義元に光を当て、
地域の活性化につなげていく。
宣言に先立ち、本堂では小和田哲男・静岡大名誉教授が講話。
「義元は上杉謙信や武田信玄と肩を並べる戦国武将。桶狭間の戦いで
織田信長に討たれたが、たった一度の敗北でだめだということではない。
義元の功績を再評価できれば」と期待を寄せた。
前スレ
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1が建った時刻:2017/05/20(土) 09:40:07.55 >>180
あの人の弟子でマトモなのは北畠くらいじゃない?一の太刀できたのは北畠だけだったはず >>170
言われてみれば海外のほうが皆殺し感が強いか
政府に逆らう行為をしたら9族皆殺しとかそんなんばっか >>182
すでに今川さんって氏真モデル?なキャラクターがいる 馬に乗れないくらいデブっているっていう時点で
戦国大名じゃねえよな >>182
蹴鞠ウジザネくんでいいだろ
蹴鞠に焦点当てるなら 義元は花倉で有力国人の福島家潰してついでに他の国人の勢力もそいで今川家の独裁体制に移行できてるからな
独裁化しようとした信虎を国人に担がれて追い出した信玄は結局最後まで武田家の優越体制つくれずにそれで天目山なってるし
甲斐国人に分配しなきゃだから信濃じゃ安堵なんか出さずに片っ端から弱小勢力喧嘩売ってるから拡大遅いし恨みも買うし
帰参許したの木曽家と真田家ぐらいだろ
その木曽も信濃での振る舞い見てるから落ち目と見ればさっさと織田に寝返るし甲斐国人も最後は裏切りまくる >>181
家久は上洛した際の旅行記残っててそれ見る限りただの脳筋でなく文才あるのも分かる。
そうなると兄貴の義久や義弘はもっとすごかったんだろうな。
早死にしすぎたのがもったいない。長生きしてたら関ヶ原の薩摩の退き口ももっとスゴイ
ことになってたんでは? もうね…義元が再評価されるためには、徳川家康が義元が育てたみたいに歴史捏造
するしかないだろ。嘘でもいいからドラマかなんかで義元とまだ幼かった頃の家康の
交流を描くしかないな。 義元公は、最期、織田家の誰かの指を噛み切ったんじゃなかったっけ?
マロじゃないよな。 田舎もんって恥ずかしいな
過去を掘り探って地元自慢とか
戦国武将は名○屋発祥だがね!名古○が何でも日本一だがね!
とか言ってる田舎もんといっしょw >>189
劉備の子孫も残ってるよ。曹操の一族 孫権の一族 劉備の一族が意外にご近所だったりするからな
中国では。 >>130
家康自身、三河松平家9代目の当主だから
親父が世良田二郎三郎を名乗っていた
世良田氏は新田氏の別れで、新田氏が滅亡した後の新田氏の家門も継いでいる源氏の名家
鎌倉時代には一度途絶えた新田氏の家門を引き継いでる
三河国ってところは、京での政変で負けた側が落ちてきた土地
そんな訳で貴種には事欠かない土地柄だから
あの時代の京から見れば山また山の信濃国より遠い感覚なんだよ >>190
井伊直政は首持っていかれたな
しかし豊久の代わりに家久が捨てがまりしたのかな・・・
やっぱり島津の退き口は壮絶には違いない >>188
国人衆を全く統制できていない武田に滅ぼされ、同じく似たような体制の徳川にハイエナされるのは皮肉なことだ。
必死に頑張ったのは岡部や朝比奈などの国人衆という。 >>14
地元の人が言ってるんだから復権出来てないんだろ 馬鹿が。
狭い視野で見てんのはテメーだよ低脳 たった一度の敗北???
いやいや、ただの敗北じゃないだろ。圧倒的大軍で少数の軍に惨敗した無能の将だから! 無能で鬱病の田辺
川勝に虐められて顔真っ赤にしてTVでしゃべる
なんか見たことあるなぁと思ってたら
男版の蓮舫だわ >>194
孔明の一族は村ごと八卦の陣でできたところに皆で暮らしてたのを
昔テレビのドキュメンタリーでやってたな この5
00ねんのあいだ
なんどとなく のぶながとの戦いをおもいだしたぞ
私の ただいちどの はいぼく!
ゴミのような にんげんに とうかいいちのゆみとりが やぶれたのだ!
500年のあいだこのはずかしめに たえてきた
だが きょうで それもおわる >>188
その点今川義元は武田よりは戦国大名かしてたよな
もう少しで遠江と三河の国人も従属や臣従じゃなくて、今川家の家臣化出来たんだけどね
そういう意味では、松平清康の孫を一門にして取り込むのが、戦国大名化への総仕上げだったんじゃないかと思う
それに、今川の勢力は鳴海城まで食い込んでたから、熱田までもう一歩だったんだよなあ >>197
逆に東軍負けてたかもしれん。島津は3000人も軍勢いれば間違いなく東軍打ち破ってた。
幕末までその勇敢さは残ってたからな。彰義隊に囲まれた少数の薩摩藩士が逆に大勢の彰義隊
の連中を追い掛け回すなんて話があったし
>>201
大阪都構想よりこちらのほうが難しそうだな。
大阪はもう一回住民投票すれば実現できそうだけど お歯黒を馬鹿にされてるが当時討ち取られた首は価値を上げるためにお歯黒お化粧当たり前だそうだ
また貴人に会うのにも欠かせないから信長も将軍家に会う時にはお歯黒してただろう 地元の自慢してもお前のことじゃねーだろ
現実見ろよクズども まぁ、静岡は義元があんな死に方しなかったら家康が隠居所にしなかったら今川推しになってただろうね。
海道一の弓取りは伊達じゃなく今川仮名目録とかの軍政書は頭領を置いて戦争になれば兵士、普段は農民とその地域の半士半農を統率したのは今川がハシリ。 全国の皆様
田辺の奇行は見て見ぬ振りしてあげてください 美点を最大限取り上げて
歴史ドラマの主役にしても最後にあれじゃ
見てる視聴者の気分が悪すぎるわ 今川かな目録には15歳以下が友達をころしても罪にはするなとかトンデモなことが書いてある >>206
義久が、関が原に介入したがってなかったから、
結局兵力は変らなかったんじゃないか? >>186
大谷吉継に謝れwww
吉継は性感染症で鼻まで落ちて歯茎までむき出しで立つ事も出来なくて、関ヶ原で輿に乗って采配を振るったんだぞ
余りにも見苦しい顔だから家臣が首を隠したくらいだからな
こんなに見苦しい顔の人間に仕えていたのは一生の恥。首実検なんてされたら再就職さえ覚束ない。ってね 現代の東京浅草の門前町をイメージしてもらえばわかるように、戦国時代当時は城下町よりも門前町(寺社町)の方が栄えていた
ここから毎月入る税収は相当なもの
農業地では作物が育たないと税収は得られない
今川家は自領内に大きな商業地が無かったのが不幸 >>206
それは流石にないよ
もう勝ち戦が決まったから命が惜しくなった、だから徳川方に
あまり戦意がなかっただけだよ。
負け戦をどれほど着飾っても負け戦以上にはならないよ >>214
家久を慕って自主参加する連中いたと思う。義弘でさえ1500人集まってるから、最前線指揮官と
してやってた家久となればもっと兵隊集まっただろ >>27
夏目家は三方原で家康の身代わりになって戦死したもんなぁ。浜松じゃ記念碑が建ってる。
鳥居元忠みたいな忠臣扱いや たった一度の敗北で 功は傷ついて
君は名誉失った 後世の評の無情に
成りかけていた大領国 狙いかけの富める尾張
大井の川が揺れていた
下天の夢が揺れてた
絶えまなく降り注ぐ あの銃弾から 兵を守れりゃよかった
東海に降り注ぐ 風花のように
弓取りの評価は流れた
(♪サボテンの花) >>213
江戸時代になると元服前でも武士なら切腹なのにな。
加賀藩で少年同士が起こした刃傷で殺し側の少年は問答無用に切腹になった
話があってこれが実に堂々とした切腹でみんな感激したとか >>220
一向一揆で家康を裏切った夏目さんがなあ。
忍びの生き様は死に様で決まるじゃないが、武士もそうだな。 >>36
次郎長と言えば剣豪の山岡鉄舟だな。
鉄舟、勝海舟、高橋泥舟
江戸三舟の大河やれよ。 >>207
当時は歯を見せるというのは恥ずかしい行為だったからな。
虫歯も多かったから虫歯予防の為もあったし。
>>216
酷い解釈をするな。部下は吉継が顔を見せたくないというのを配慮して貌を隠したんだよ。 島津の場合、桶狭間を三回も四回もやってるようなもんだからな。せめて後10年
くらい早くに九州統一してたら、秀吉が来ても簡単には音をあげなかったに違いない >>213
そんなこと言ったら今でもそうじゃん。
未成年者は責任能力がないとかいって、罪に問われないし。 生きて命からがら帰ってたら家康も寝返らずにまた違った展開だったかもしれないのに >>223
一向一揆は仕方ない部分があって本多正信も家康を裏切ってるが後に許されて重用されてる。
一度裏切るのに殿様の為に命を投げ出す( -_・)?だぜ
法輪功やオウム真理教みたいなもんや。
宗教は恐ろしい… >>215
義元は若き大名の実力を認め死んでいったのでした そもそも親政する必要が1ミリも無かった。
朝比奈あたりに1万の軍勢を渡して鳴海城、大高城に兵糧を入れたらミッション終了で
何の問題も無かったろうに。 >>222
その辺今川かな目録は子供に甘い
一部を寿桂尼が作ったと言われるゆえん >>114
あの当時の価値観は織田有楽をバカにする世界だから >>206
島津をバケモノか何かと勘違いしていないか?
島津軍が強い戦いをしたのは
敵をうまく自軍の伏兵陣地まで誘導する戦いができたから
それができたのは島津軍単独で将の作戦を完全に実行できる兵がいればこそ
シセンの戦いでも友軍の加勢を断ったのも、島津軍単独でやらないと成功できない島津軍独特の戦法だからだろう
関ケ原のような連合軍では、島津はあの強さを発揮できないだろう >>206
義久はたまたま大阪城に居合わせたから西軍に参加せざるを得なかっただけで
当初西軍に加わる予定ではなかったか >>230
止むに止まれぬ事情で裏切ってしまったが、どこかでそれを償いたいと思っていたのではないかね。
だから躊躇なく影武者で死ねたと。 >>233
その辺も江戸期に受け継がれてるね
楠木の子孫が南町奉行してるときも15以下は付け火しても死罪免除だから15だなと聴いてるのに16だと言い張って結局獄門にした話あるな 義元が戦った理由は単純で信長が中途半端な形ながら尾張統一を果たし
名古屋市緑区あたりの今川被官の豪族たちも次々と今川家を離反し織田家に寝返りつつあったから
その流れをストップさせるために尾張国南部の根拠地である大高城をきっちりガードしに行った。
それを物見遊山ついでに観光気分で行ったからあっさり頓死した。
そもそも義元が行く必要だどう考えても無かった。 >>230
あの当時一向宗って講というサークルで繋がってたから結束強い。 >>141
今川を強大にしたのは殆ど雪斎と寿桂尼の手腕のお陰だわ わざわざ尾張攻めに義元が出張ったのって、斯波氏の被官の地氏と勝間田氏の残党に爺さんの義忠をヌッコロされてるから、
尾張に居る斯波氏をぶっ潰すのに世代を越えた執念めいたものがあったんじゃないかと想像
で、またまた斯波氏の家来の織田信長にヌッコロされたと
その辺おらは混ぜながら、今川記を大河ドラマでやってくれ >>200
当時の戦況知ってれば無能とは絶対言えない
要衝の城は寝返らせ
前面の織田軍はほぼ壊滅状態まで追い込んでる。 そのたった1度の敗北で首を取られちゃなぁ。しかも今川はこの敗戦が元で
滅んだしな。無能だろう。 静岡での歴史の博物館は今川スルーしまくり。
一発アウトでも大宝寺や隆造寺や伊東、石田はローカルではスポットあたるが、今川はいじめみたいにローカルでも
ガン無視 >>235
じっさいにバケモノみたいな連中ばかりだろあの当時の島津軍は。
「ちぇすと」と奇声を挙げながら突っ込んでいく。しかも個人の戦闘力は
高い。 >>219
領国には動員を掛けては居ないからね
1500でも早い段階で戦闘に参加していれば、黒田長政くらいは破っていただろうな
あの時代の合戦は、第一線が破れたら終わり。あれだけ狭い地域に何万もの兵士で戦線を構築するだけでも大変だ
家康本陣も退却できずに戦線に取り残されて、タコ殴りに遭ってただろう
吉川広家も飯なんて食ってる場合じゃない。動かざるを得ないし、毛利本陣も動いただろう。何だかんだ合わせて2万以上の大軍だ
家康はかなり本陣を前線近くまで押し上げていたから少しでも撤退が遅れたら、戦線に取り残されただろう
小早川は間に合わないけど >>156
氏真の日本一の蹴鞠は信長もわざわざ見に来たとか。 愛知の一土豪、信長成り上がりの鳥画作り、つまり、
静岡狸+その一族の、暗黒鎖国三百年日本停滞の戦犯とも云える、
義元氏の再評価てか。影に光を当てる、こ〜云ぅ〜の好きじゃわ(。・ω・。)y━・~~ >>236
元々反豊臣
地元からは徳川に味方するように言われてやってきた
↓
伏見城下にて
島津義弘「城に入れろ、俺が守ってやるのだ」
鳥居「わけのわからん奴は信用できない」
↓
カッとなって、気付いたら石田方と一緒に伏見城を攻め滅ぼしてました 信長は結構したたかだぞ 敵を欺くには味方から
しかし、現実にそれをやると、えてして本当に味方まで欺いてしまいがちだ
自軍のコアの部分、供回りだけは意思統一ができていた 寝返る気は毛頭ない >>239
八百屋お七の話だな。わざと年齢聞いて逃してやろうとしたけど数え年で16歳だと言い張ったから死罪にするしかなかったとか。
この話は似たようなものが中国でもあった 圧倒的に優位な戦力で負けたんじゃ
たった一度の敗北で再評価はないんじゃないかな
たった一度の敗北で大多数の足軽の妻は未亡人になるわけだし 島津は地の利だよぉ。あんな遠い僻地だなんて秀吉も家康も攻めあぐねる。
本気出しゃ余裕だろうがマンドクセw >>146
でも、実際はあんな感じのキモいおっさんでしょ。 慎重に事を運ぶなら尾張南部を確保した上で美濃の斉藤と同盟を組み
ジワジワ尾張周辺の諸豪族に寝返り工作を続けて、トドメに信長の弟なり織田家の誰かを担いで
謀反させれば万全だったろ。三河の家康みたいに尾張は織田の誰かを傀儡として今川家の被官にすればミッション終了だし。 桶狭間は戦いより基地外病院というのが子供がまず得る知識。
中京競馬場前はチョン校の駅というのが子供がまず得る知識。 むしろたった一度の敗北で駄目になるから
「戦国時代」って名称にふさわしいんじゃないの? 島津とか九州攻めのチョウソカベ(2chテキストでは変換できない)とかは死兵上等だから賞賛に値する
卑怯なのは甲斐武田だ 頻りに尾張兵を軟弱扱いして、腰抜け扱いしていて、実際不利になったら戦う前から戦意喪失…
あれが甲陽軍鑑の流儀(笑) >>256
関ヶ原の直後だと上杉も戦力残ったままでこのままだと二正面作戦になるから家康はアッサリ折れた。
コ川軍は実は小牧長久手以降まったく戦してない素人集団だしな。朝鮮出兵して実戦経験あった九州や
西日本の大名のほうが強かった >>219
いくら兵隊が集まっても、前線指揮官が石田三成の時点でどうにもならなかったんじゃね
島津がバケモノなんて当時だって周知だったが、それでも義弘の提案は全て突っぱねられた
おまけに態度がメッチャ無礼だったからヘソ曲げて動かなかったわけだし >>248
示現流の映像見ると
ただの基地外にしか見えんがな
怖いってか、キモい
変態ですよ、アレは >>236
そりゃ戦後悪久がいいだしただけで、
義弘はガチの西軍派。本国にももっと兵をおくれと言っている。
石田は島津との取次をしてて、島津とは仲がよかったからな。
義久は勝った方につけばいいじゃん派なので、どっち派ということもない。
むしろその前の島津家の内乱の関係で家康とは険悪な関係だし。 >>259
尾張を併合した強大な今川と隣接することになるのだから、美濃の斉藤が同盟してくれる訳ないと思うが。 >>265
島津は三成には大恩あったんでは?
秀吉に降伏後いろいろとりなしてくれたり便宜を図ってくれたのが
三成だから。島津もそれなりの軍勢もってこれなかったんだから
発言権殺がれるのは仕方ない
あの当時は兵力=発言権だったんだし まぁ、タラレバで語れば戦国時代はいくらでも歴史が変わったかもしれんからな。今川義元も決して無能では無かったが死すべくして死んだ。 家久は運も良かったと思う。
黒田と加藤の連合軍が大勝して
家康に対して「我らで薩摩征伐いたしましょう」なんて言い出したから
家康は薩摩以上に黒田&加藤が九州統一する事を恐れて進軍停止を命じ
薩摩も許さざるを得なかった。 >>252
ドリフターズの帯じゃないけど
本当にただの暴走族だな >>258
島津の戦法は洗練されているよ
島津が真田日本一の兵と真田幸村の戦いを褒めたのは
島津の戦法が真田の戦法と似ているからだと思う
真田は主に城を基本にして、そこにうまく敵を誘導して敵に壊滅的打撃を与えるのが得意だけど
島津の場合は、城だけじゃなくて、野戦でも敵をうまく誘導して壊滅的打撃を与えて何度も快勝している
釣り野伏という戦法
シセンの戦いで明と朝鮮の連合軍の大軍(20万と号する大軍、実数は7万5000くらいだとか)を島津軍5000で壊滅的打撃を与えたのもこの戦法
軍略家としては島津は真田の軍略をさらに洗練させて強くしたようなイメージなんだよな なぜか島津の話になってる件
秀吉としては、占領地を放棄させるだけで
十分だったんじゃないかな
島津が更地にした土地を分捕れば、諸侯へ
配る土地の原資になる >>269
信長は既に斉藤家と敵対してて普通に敵国なのだから渡りに船で今川と同盟するに決まってるでしょ まあ、その後の今川家を見れば、義元は少なくとも無能ではなかったし、信長の勝利はまぐれ色も強いし
ただ、ヤバそうになっても逃げなかったのは大将として一流ではなかったといった所かな >>256
島津なんて滅ぼしても戦功の有った武将に分け与える領地も無かったしな
同じように大阪の陣で戦功の有った武将に分け与える領地で苦労している
家康の死後までかかってやっと、肥後の加藤と山形の最上、実子の忠輝まで改易して帳尻を合わせているからな たった一度でも討たれてしまってはダメなのが戦国時代
家康だって何度も敗北しているが討たれていないから巻き返せた
大違い >>196
三河から関東関西に出向いて支配者として君臨したの間違いだろ
室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています