【歴史】幕末の佐賀城下写真発見! 城下屋外写真は初めて〜鍋島直茂250年祭写す [無断転載禁止]©2ch.net
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幕末の1867(慶応3)年、佐賀藩祖・鍋島直茂の没後250年を記念して佐賀市の松原神社で催された祭りを撮影したとみられる4枚の写真が見つかった。三味線を演奏しながら参道を練り歩く行列や大きな屋根のついた山車(だし)、見物客など佐賀城下のにぎわいを捉えている。江戸時代に佐賀城下で撮られた屋外写真が確認されたのは初めて。写真を所蔵する公益財団法人鍋島報效会の富田絋次主任学芸員は「佐賀藩の科学技術力の先進性を裏付ける発見」と話す。
鍋島家が2000年、鍋島報效会に1万点近くの写真を寄贈していた。報效会が今回、佐賀市松原の徴古館で開く企画展の準備をする中で江戸時代の写真を発見した。250年祭の様子を描いた版画「直茂公二百五十年祭礼図」(佐賀県立図書館所蔵)などと照合した結果、描かれた建物や鳥居、のぼり旗などの特徴が一致したことから、二つは同じ祭りと判断した。
撮影者は不明。幕末期に西洋科学技術などを研究する佐賀藩精錬方で写真やカメラを研究していたことから、精錬方の技術者や鍋島家の周辺人物である可能性が高いという。佐賀藩の写真では藩士が藩主を写した鍋島直正の肖像写真(1859年)が知られている。
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引用ここまで
全文は下記よりお願いします
http://www.saga-s.co.jp/sp/news/saga/10101/433603
http://www.saga-s.co.jp/sp/images/article/2017/05/30/SAG2017053099000141_id1_20170530080044.jpg
今回初めて確認された江戸時代の佐賀城下を収めた写真。1867年の直茂公250年祭礼での松原神社参道の様子=公益財団法人鍋島報效会所蔵(画像を加工し鮮明にした) チョンマゲみたいなキチガイ丸出しの髪型するなら
玉砕した方がマシwwwwwww
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/\ / 佐賀鍋島藩は表高36万石だったが、家来の取り分が多く、藩直轄領は10万石程度であった。
換言すると戦国大名から近世大名への転換に遅れた藩であったが、鍋島直正は藩政改革に成功し、明治政府では薩摩長州につぐ、土佐、安芸と同格の地位を得た。 小早川隆景直江兼続片倉景綱羽柴秀長ときて、五番目に思い浮かぶ系 >>9
んなわけないだろ?
尾が二つに裂けた猫が人を食うんだよ。 >>15
坂本龍馬だってポーズをとった写真があるだろう 鍋島直茂
統率:87
武勇:79
知略:91
政治:90 >>7
奴隷民族のちょんだから
判らないだろうw
戦闘用の髪型
兜は重くて蒸すから
髪をクッションにするため束ねて折り曲げる
蒸すから真ん中部分は剃る
植民地の二等国民には無縁だわw 幕末最後な藩主とその息子の写真ものこっているでさもありなん
ttps://9-shop.com/wp-content/uploads/2014/05/kanso.jpg 肥前鍋島藩は雄藩の一つなのに明治維新では蚊帳の外w さが平野ってあんなに広いのに
どうして発展しなかったんだろな。 チョンが言いがちの田布施システムはデマ。
あの説明に使っている写真は、佐賀藩の学生だと証明済み。原板の物証がある。
撮影時、坂本龍馬は1年前に死亡していて、明治天皇はすでに江戸なので2人は写真の中にはいない。 >>25
閑叟・鍋島直正ね。
Wikiの写真の通り、実物には薬品の飛沫で消えたみたいな部分があるけど、これは修整してある。
開明派の藩主だけあって、良きにはからえの殿様とかとは全然違って、やり手のビジネスマン風。 >>29
当時は今より結構寒かったみたいね。
あと、絹とかで厚着してると刀が通りにくくなるプロテクター効果もあるらしい。 >>30
フルベッキ写真という奴でしょ。名前の割り振りがデタラメなのがあちこちに散らばってる。 >>31
天領守護も任されていたからね
今で言う高級官僚みたいな位置づけ 佐賀がもし本気で幕府についていたら長州と薩摩が束になっても勝てない
よって薩摩は京に派兵することは出来ず明治維新は起きていない >>37
佐賀は鳥羽伏見の直前に寝返り組だから、佐賀なんかの力無しで薩長軍は入京しています。 ム、リ、
佐賀が動かないから薩摩も長州も兵を動かすことが出来た 佐賀は自前で軍艦造船してたし長崎は隣だわ肥後も実は海挟んだら向かえ側で
幕末から明治初期は輝いてたけど長州閥薩摩閥に功績を歴史から消された
三重津海軍所のぶっ潰されたし 肝心の幕府が戦う気ゼロだったろw
幕府がその気だったら負けてたよ。 肥は明治クーデター後の負け組だし幕府についてたほうがよかったんじゃないの 佐賀藩は幕末から明治にかけて功績が大きかったのに薩摩閥長州閥の野心家たちに
三重津海軍所どころか一時は「佐賀」の名前も消されてたんだぜ
ありえない >>41
戊辰戦争で薩長が勝てたのは、ホント「ラッキー」だったらしいね
お上が小栗忠順の作戦を採用していたら、新政府軍はフルボッコ間違いなしだったとか 多くの城は薩長テロリストのせいでほとんど失われました
大量の古文書や古写真も逆賊の作った欠陥のある国家体制のせいで
アメリカの空襲に遭い失われました 佐賀城とゆったら鍋島か
尼崎城とゆったら六島のお堀不法占拠w 幕末の新政府の主役は薩長土肥と呼ばれているから肥前は土佐の後塵を
はいしている 佐賀藩の縄張りは今の佐賀県の南部と長崎県にちょこっと食い込んでいるんで、今の佐賀県で考えちゃダメ 期待してみたのに、これじゃあなにがなにやらわからん
見てもみなくてもいいレベル 浮世絵の世界だなあ〜。
あれは写実的じゃなくてデフォルメしてると言うけど
時代や当時の人々の特徴をそのままとらえてたんじゃないかな。 やはり日本は帯刀令を戦後に復活すべきだった
日本人が落ちぶれた1つの理由は無責任になったのもある。
ネット上で他者に対して乱暴な言葉を投げかければどうなるかという想像力すら皆無
平気で相手を責め続ける。
刀を帯びるという事は抜けばどうなるかという責任と隣り合わせ。
銃刀法を廃止し、武士道を心得ない無法外国人を叩き出した上で帯刀令を復活させるべし。
まずは警察官から帯刀を義務付けよう >>49
科学技術の佐賀だな
鍋島家はとにかく技術を愛した 佐賀は藩主がすごい潔癖で手ばっかり洗ってたんだってね 薩長土肥だから新政府の雄だね
どうしてこうなったんだろう 佐賀の早稲田(大隈)と大分の慶應(福沢)
どっちが上なんだろ 佐賀出身の人が機嫌が悪くなると毎回佐賀には空港がないのが誇りだの子供の
頃はごえもん風呂だっただの意味不明なこと言うからまじで吉野ヶ里遺跡の
時代で時が止まってるのかと思った >>15
これの5年後に鉄道が開業してるから結構文明開化してる 佐賀は「県」の今は人口は下から6番目に少ない100万にも満たないで人口減少してて消滅しそうな限界県だけど、
「藩」時代は日本最高峰の科学技術、最新鋭の軍事装備の最強の藩だったのに。
さらに古代は火(肥)の国と呼ばれるくらい伝説のような地で一大豪族の地だったのに。 長崎はこんな写真腐るほどあるからいまいち感動しないな。
写真一枚で喜べる佐賀人が羨ましいよ。 >72
日本で最初のまともな大砲(アームストロング砲)を
製造したのも鍋島藩で当時科学技術力は抜きん出ていた。 >>64
いつの間にか新政府側になってる不思議
薩摩はわかる
長州もわかる
土佐もギリギリわかる
肥前がわからん お前らは余程の事が無い限り、佐賀県に行く事は無いと思うが、佐賀県人は
非常に頑固で排他的気質が強いからヨソ者を受け入れない風潮、同じ佐賀県でも
県北の唐津に行けばその雰囲気はかなり和らぐ。唐津藩と佐賀藩があった
名残だな。 >>7
個の頃チョン国は平屋しかなかった。
それどころか瓦の屋根もなく土人みたいな暮らしだった。 >>73
そら日本初の写真家がいたところとは比べられんわ >>77
旅行で嬉野・武雄温泉と御船山楽園に行った
御船山楽園の庭園はとても綺麗だったけどそこのスタッフとか交通整備のおっちゃん達の質には正直閉口した
少なくとも嬉野・武雄地域の人達は対人接客得意ではなさげだと思った
あと田舎の一本道を佐賀ナンバーが爆走してて他県ナンバーが引込線に避けるのを何度か見たw俺も避けたw >>33
総統閣下シリーズのでたらめ字幕みたいなもんだなw >>1
貴重な写真だから、
さらに再生して鮮明になれば、
もっと感動しそう >>36
長崎だっけ? 先代だったか、誰かが酷い目に遭って発憤したとかだっけ? >>46
まあ、長年の間に幕臣が事なかれ小役人化して、軍人として不可欠の果断とかとは縁もゆかりもないどころか、
海舟とかの足を裏からセコセコ引っ張るしか能がなくなってたから。
家茂なんかはかなり有望だったらしいけど、虫歯が酷くてまともに飯が食えなくて死んじゃった。
歴史はある程度必然で、覆しようがないと。 >>82
教科書に登場するクラスの人物の名前を思いつきでデタラメに割り振っただけってのね。 この時代の技術を見てると
ワクワクが止まらない
単なる真似ではなく
創意工夫を感じるからだろうか 薩長同盟が薩摩藩、長州藩
薩長土肥連合が薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩
奥羽越列藩同盟が陸奥国、出羽国、越後国の諸派
他にこの手の連合や同盟って何かあったっけ? 鍋島直茂 は英雄なのか、不忠者なのか、 どっちなのか判断できない。
猫騒動の話が作られるくらいだから、当時の人々は直茂を、いい奴と思ってなかったのか? 薩長同盟 薩摩藩、長州藩
薩長土肥連合 薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩
奥羽越列藩同盟 仙台藩、米沢藩、二本松藩、湯長谷藩、棚倉藩、亀田藩、相馬仲村藩、山形藩、福島藩、上山藩、一関藩、矢島藩、盛岡藩、三春藩
久保田藩、弘前藩、守山藩、新庄藩、八戸藩、平藩、松前藩、本荘藩、泉藩、下手渡藩、天童藩
長岡藩、新発田藩、村上藩、村松藩、三根山藩、請西藩
奥羽越列藩同盟から寝返った藩
矢島藩、三春藩、弘前藩、守山藩、新庄藩、松前藩、本荘藩、下手渡藩(結成当初から寝返る上でのスパイ)、新発田藩
琉高協盟
琉球藩、高砂国
(のちに対馬藩が参加するも3日間のみでクーデター失敗) 市民感覚で言うと直茂は今でも日峯さんと呼ばれ親しまれているよ
龍造寺は龍造寺八幡宮があるのみで鍋島の知名度とは比較にならない
俺は隆信も直茂も佐賀の基礎を作った武将なのでどちらが好きとか嫌いとかはないな >>25
やっぱ顔つきが凛々しいよな。
歴代首相と並べてみるとよくわかる。 >>91
なるほど。
私は化け猫騒動で、龍造寺氏と鍋島氏という戦国大名の名前を初めて知った口なので、
鍋島がなんとなくワルに見えてたんですが、この記事や地元の感覚だと、鍋島氏はリスペクトされてるんですね。
化け猫騒動は、上方や江戸の人間が事情も知らないで作ったんですね、やっぱり。 >>44
伝説の伊万里県か
まあ当時は「佐嘉」で読みも「さか」だったから佐賀ってネーミングはよくわからんな
住民が「サガ」と変則的な読みをしていたのだろうか >>96
龍造寺と鍋島は奇妙としか言えない関係だしな
戦国の龍造寺隆信と鍋島直茂は、血縁は無いが兄弟(隆信の母が直茂の父と再婚した)
直茂は龍造寺家の後見人としても、正統性があったといえる。
ほか主従逆転を許したのが、朝鮮戦争で直茂が旧龍造寺臣下との絆を深めたことだったらしい
文禄の役では加藤清正の2軍、慶長の役では黒田長政らと蔚山包囲突破など激戦が多かった。
まあ主君の権威を奪う、という分かり易い負のイメージに対し
鍋島家が信頼を得るまでの過程はモヤモヤしてるので
化け猫のような創作がされても不思議ではないけれど。
化け猫の原案は、徳川家を題材にした江戸の話だったという意見もある。 シャッター速度15分ぐらいだったんでしょ
立ち止まってもらって大変だったと思う 無駄に近代装備備えたまま出遅れて薩長のパシリになった鍋島かw >>46
最近テレビでも言っていたが
勝っただろうけど、死人の数が桁違いに膨れ上がって
そこまでして戦うべきかという戦略的疑問が出て来る
その場は凌げても、次を抑える力がなくなる
外国が攻めて来たらどうにもならない >>100
撮影技術が進んだ幕末後期にはさほど時間をかけずに済んだという
佐賀は長崎に近くそういう技術を他の土地より早く触れることができたのでは 佐賀といえばアームストロング砲とがばいばあちゃんと吉野ヶ里と呼子のヤリイカと原口 なんでこのころって近代的なものはないのに、人口は増えて活気があるんだろ? 他にやることないんだよ わかるだろ
あとね、機械力無いから人力必要なの >>74
>>75
その通りだな
しかし鍋島家は政治が下手
文化や技術を愛するあまり、政治がおろそかに
経済も下手だった
だからだろうな
葉隠れとか
こういう武士道の精神論も好きなんだが、どこか美学重視でドロドロした権力闘争の政治にはやはり向かなかった
だから新政府の英雄でもあるのに、徐々に落ちぶれていった
潔癖性過ぎたんだろう >>112
経済は言い過ぎだろう
新田開発とかしていたし 鍋島直茂っていったら、確かに簒奪の事実はあるけど、直江兼続や小早川隆景と
並んで、天下の三陪臣と称された人物。
秀吉からも、あいつが天下取るのに不足してるのは志だけ、といわれたハズ。
でも、不思議なのは、どうしてこの名臣を擁しながら、島津に大敗して大将を
討たれて亡国の瀬戸際に立たされたの?
桶狭間の当時の義元には雪斎が既になかったけど、隆信にはちゃんとこの直茂が居たのに。 成松信勝 江里口信常 百武賢兼 円城寺信胤 木下昌直「おのれ直茂 我ら龍造寺四天王の5人が成敗してやるわ〜」 >>113
当事者の龍造寺が嫌がってたんだから円満ではないだろう
臣下の観点からは簒奪者だよ
それを正当化できるだけの事情が戦国時代にはあったんだろうけど 当たり前だけどほんとに時代劇みたいに皆んな着物来てたんだな >>122
江戸幕府が龍造寺一門を呼んで誰を佐賀藩主とすべきか尋ねたところ全員が直茂を推薦
直茂と隆信は従兄弟同士で佐賀藩を継くことに何の不都合もないと言い切っている
初代藩主となる直茂嫡男の勝茂も優能だったこともあり政権委譲に目立った混乱はなかった >>28
大半が埋め立て地なので、地盤が弱く、工場などは建てづらい 竜造寺家純の息子の子が竜造寺隆信、娘の子が鍋島直茂
竜造寺→鍋島の継承は悠仁天皇の後を愛子様の子が継いだようなもの >>127
なんだ
ならモロに円満じゃないか
大名家は男系でないととか無いし >>129
本当に円満にするなら直茂か勝茂が龍造寺を継げばよかっただろ
それなら後世で簒奪よばわりされることもない >>87
アンモニアを作る実験が物凄く臭いから近隣から苦情が来るので、仕方ないから船の上でやって、それでも苦情が来るから
逃げるのを繰り返したなんて実例もあるそうだから、ワクワクするのも中々大変だろう。
攘夷がもてはやされたのも、伝染病を持ち込む文字通りの「疫病神」がいたからむしろ当たり前という面がある。
科学の類いも要するに臭いから敬遠された面もあるんだろう。
写真の薬品も、市販品は大したことはないけど、個別に生成するとなると相当に臭かったんじゃなかろうか? >>100
それほどの長時間じゃなかったみたい。
というか、そんな長時間じゃ人間はまともに撮れない。 >>116
龍造寺だっけ? 単に無鉄砲な馬鹿だっただけみたいね。 >>124
それが実は本来の中国服なんだって。
いわゆるチャイナドレスとかが中国服みたいに思われてるけど、あれは満州の騎馬民族の清の民族衣装で、
清に反抗しない証拠に、弁髪とか、騎馬民族式の衣服を着るようになったから廃れてそのままになったっての。 佐賀藩って葉隠れを書いたとこだっけ
アレ、めっちゃおもろいな
高校時代に電車の中で読んでて
ホモ達の振り方のとこで声を上げて笑っちまった
相手が納得せず食い下がって来たら
構わんから斬っちまえと大真面目に説いてるんだもん 葉隠れは犬死に気狂いが面白いな
犬死にして気狂いだと言われるのを良しとするという価値観 あれは武士道といっても平和な時代がつづいて武士の存在価値がなくなったのを無理に延命させていた時代の特殊な例外だからね。
本物はかなりえげつないの。
やられたふりをして倒れて、欺されて敵が近寄ってきたら足を払って動けなくして滅多切りにするという手があるから、
相手が倒れても油断せずに足の側から近寄って足を切って様子を見ろとか、えげつないの。 天下泰平の時代に突入して
若い武士たちがたるみ始めてたから
戦国時代を知る年寄り隠居が
かなり話を盛ってた面もあるよね 葉隠は赤穂浪士も上方侍だと批判してるね
あんな入念に準備してその間に吉良が死んだらどうする
直ちに殴り込めって フェートン号事件で大恥をかいたから必死になって軍備を近代化
金欠ですっからかんだったけど乗り越えた
それで最先端の軍備を持ってじっとしてたら薩長にお前は敵なんかとにらまれそうになったから官軍についたんだろ >>152
島津を盛り過ぎだから、対抗も強くしないと抑えられない 幕末に薩長について良かったよな。幕府についてたら、今頃長崎福岡熊本に編入されて、なかったな。
水戸藩も挙兵の時期がよければ、薩長水くらいの功績はあったかも。
藩主の判断が良かったな。 >>147
1659生まれで、大坂の陣からは40年近く経った後で、直近というか最後の大きい合戦の島原の乱から20年だから
直接の実体験はありえないのは当然として、間接的にはどうか?
14で殿様の小姓に抜擢されてるから、その時点では島原の乱に20で参戦した者が50代か。
人間50年の時代だとギリギリにはなるだろうけど、実戦を知っている者が殿様に昔話をしたときに、話を傍聴したりできたかな。
さすがに大坂の陣とかの体験者はいなかったか、10代で参戦した人で辛うじて生きてる人もいた可能性がある程度かな。
なぜか島原の乱の頃に生まれた年長で、しかし甥にあたる人に仕込まれたらしいけど、そういう人なら大坂の陣や島原の乱の
経験者に仕込まれていたかも知れない。
「戦国時代を知る年寄り隠居」ではなくて、「そういう人に薫陶を受けた人」に薫陶を受けたという感じになりそう。 >>27
大隈重信とかおったで?
薩長に比べたら影薄だけど >>154
普通に考えたら肥前国府の佐賀が長崎含む肥前西部三郡を編入して佐賀県にするのが
歴史的にも当時の行政規模的にも当然の流れだったんだが よく山陰のやつらを合併させろがあがるけど佐賀と長崎を合併させろって声があるのもいいんじゃないかと思うわ
それだけ今は九州で福岡に集中しているししていくと思う 完全に対抗できるとは思えないけど多極化のときの選択肢をもつべきだ >>158
くだらん
糞田舎同士がくっついたところでどうにもならん 葉隠とか佐賀出身の大隈重信もバッカじゃねえのって言ってたからなw >>158
佐賀県民から見たら長崎県民も福岡県民も見栄っ張りすぎて近寄りたくない県だろ
長崎も福岡も見栄で嘘ばかり虚飾に満ちた借金生活な県民性怖すぎ >>162
福岡と言っても筑後地方は佐賀のほうが近いんだよな
昔みたいに久留米県だか三潴県だかで佐賀平野と商圏作ったほう
いんじゃないかと思うこともあるんだよねぇ。
下手に福岡と佐賀に分かれてるから交流が薄いんだわ 佐賀藩は日本の近代教育制度の見本みたいに言われてるけど本当はどうなの? 佐賀藩祖・鍋島直茂は、ウンコ野郎
義を重んじる立花宗茂とは雲泥の差
秀忠・家光の相伴衆になれたか否かで、直茂と宗茂の”人間の質”がわかる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています