【スリランカ/中国】スリランカの港 中国が99年間の運営権 [無断転載禁止]©2ch.net
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中国が海洋進出を進めるうえで重要な拠点になると見られるスリランカ南部の港が、99年間にわたって中国に譲渡されることが正式に決まり、中国のインド洋での存在感が一段と高まることになりそうです。
スリランカ南部のハンバントタ港は、中国がおよそ14億ドルを融資して建設が進められている南アジア最大級の港ですが、民間企業の進出が進まず、スリランカ政府は中国への借金の返済にめどが立たないことから、中国側と協議を続けてきました。
その結果、29日に11億ドルの借金を事実上免除する代わりに、中国企業が港の管理会社の株式の70%を保有し、99年間の運営権を持つことで双方が合意しました。
ハンバントタ港をめぐっては、当初、ことし1月に合意文書が交わされる予定でしたが、港の警備を中国側が担うとなっていたことに政府内から「中国による植民地化だ」などと反対の声が上がったほか、インドなど周辺国からも懸念が示されたため、今回の合意では警備はスリランカ政府が行うと変更されました。
ハンバントタ港はシーレーン=海上交通路に面していて、中国の巨大経済圏構想「一帯一路」の重要な拠点になると見られていて、中国のインド洋での存在感が一段と高まることになりそうです。
7月30日 5時03分 ■3.西洋の植民地支配400年■
おそらく当時の日本国民は、遠く離れたスリランカの一外交官がなぜにこれほどまで日本を擁護してくれるのか、いぶかしく思ったろう。しかし、スリランカの歴史を辿ってみれば、その理由も見えてくる。
スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。
紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教国として信仰を守ってきた。
しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、そのため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルトガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。
1658年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を支配下においた。
イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。
イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさせた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となった。
同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。
■4.「アジアを救うことこそ日本の役割」■
イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラであった。
敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。しかし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者)・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。
ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。
ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、
日英同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。
その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。
ダルマパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいていないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と語っている。 ■5.「次に生まれるときには日本に生まれたい」■
3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダルマパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。
大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。
ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。
ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。
イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年間もダルマパーラを拘束した。
弟も捕らえられ、半年後に獄死した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。
■6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年■
1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカを訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨーロッパに向かう途上であった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。
ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。
外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。
このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。
先の80年の間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていたのです。
西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。
陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦を一目見ようと港に行ったものでした。
当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。
自分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くという出来事は、
「自分たちもいつかは独立を」という希望をスリランカの人々に抱かせたに違いない。 なんだかんだで中国の時代なんだね
ギリシャの港も中国のものになったよね
南沙諸島とフィリピン公認で中国のもの >>254
やめろ。
日本政府はお人好しだから、インフラ整備をしてしまうぞ。
それでも感謝されない。
最悪だろ。 ■7.「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」■
1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のように語っている。
1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せていました。・・・
1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をどんどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきました。
しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばかりでした。
4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。
日本軍の爆撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。
この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落した。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓が造られている。
日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その中にはスリランカ人の部隊もあった。
インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かって「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行った。
当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく聞いていた。
「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られているインド国民軍の歌を流した。
アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、インド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。
■8.「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」■
日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行った。
この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。しかし、私達は日本によって得られたものがあります。それは愛国心という心でした。それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたのでした。
戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなければなりません。
「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠もっていたのだろう。
1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」として軍事裁判にかけようとした事に対して、
インド全土に暴動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤退したのである。
昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。
日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けてくれたのである。 ワイロ攻勢に屈したんだな(笑)植民地になるような国はこんなもん。 財政難→甘い開発と融資話→乗る→閑古鳥→金利支払いで一杯一杯→
もうね >>8
ヤクザの見本。
返せないのが分かっているのに、ニコニコとカネを貸し付ける。
有無を言わせず、全てを奪っていく。 中国「ウルサイヨ、オマエ!部外者は黙てろヨ!オマエ!」 中国は五大洋のうち大平洋とインド洋に拠点を持つことになった訳だ
この結果として、中国海軍は必然的に「外洋海軍」に成長するのだろう こえぇ〜
病人の布団まで剥ぎ取る鬼の借金取りだな
アフリカ諸国も終わりだな ウィッキーさん激おこ
沖縄県が独自で中国から資金援助を受けて事業に乗り出りだすなんてことはできないよね? >>644
わざわざ侵略問題になることをやってるとか無能じゃね?
政治はクリーンでないと >>647
政治がクリーンな大国って存在するか?
評判がいくら下がっても実際に中国は益を得た訳だし >>644
誰の非難も気にしないからな
札束と銃でもぎ取る利権 自国利益、権益の確保、国際政治、経済に対して影響力を拡大する。
この線で世論に煩わされることなく、やっていけるのはアメリカなどより優位性が高い。
日本なんて話にならない。 >>575
少なくとも中国のように
インフラと引き換えに
99年契約?みたいな縛りは
無いな
まあそういうツメが甘いから
中国の後出しに負けてるといえる 香港みたいに侵略戦争をしかけてむりかり割譲したというなら問題だけど
今回のは金を出してるのは中国なわけで・・・。
そもそも港を作っても周りに企業が進出しないのは中国ではなくスリランカが原因
身の程を考えた開発計画をしなければいけなかったのに過剰な開発を行った責任がある。
交通の便はインドと同程度なのでインドに勝てるくらいの魅力を作らなければいけないな。 たった1000億で港を1つ手に入れたか。こういう所が凄いとしか言いようがない。 >>55
で、港の近くに一大チャイナタウンを建設。そこを橋頭堡にしてスリランカ侵略開始。 まるで悪魔の契約だな、中国はこれを事前に狙っていたのか
ヤバ過ぎる 普通の盗っ人がつまみ食いレベルだとしたら中国は根こそぎ強奪するからな
漢民族ヤバいわ >>1
> 政府内から「中国による植民地化だ」などと反対の声
スリランカ政府内にもちょっとはわかってる奴が居るんだな >>650
小国とかどうだろうな
人口1000人レベルの
侵略や植民地問題ってながーく尾をひくだろう
日本は売国サヨク政治家だらけだからカウンターしょぼいが、俺が政権やってたら中国による侵略や今回の話とか世界中に宣伝しまくるぞwww
中国は目先のカネにとらわれずぎじゃね?
日本では売国サヨクやマスゴミが政治を汚してるからなあ >>656
武力を使わない侵略戦争なんだよなあ
だから植民地支配なわけで
ソフトパワーや三戦(法律戦・世論戦・心理戦)とか >>668
スリランカ政府無能すぎる
こういう地域でよくあるワイロ漬けってやつかな オージーのダーウィン港もそうだろ?
ジパングでやってた。 >>671
あれヤバかったよね
米軍の戦艦も全部監視されてるってね インドに対抗する軍港をゲット出来たね
これでインドに対する軍事的優位が得られた 中国はギリシャのピレウス港を買収したが、
支払いが滞っているって話だったが、
結局、支払いできたの?(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています